わからなかった
わからなかった。
ネタバレBOX
上演前に、「演出家が数日前から失踪している」ということが俳優の口から告げられる。
だが、その言い方に切迫感がないため、「そういう芝居なのね」というのがバレバレの状態で舞台が始まる。
その時点で、私の期待値は相当落ちている。
なぜなら、オールラストのオチがバレているのだから。
演技とはそもそも嘘であるが、舞台で多少の嘘くささが出てしまうことは、仕方がないこととして許せても、舞台外で嘘をつく際は、それが嘘だと気づかれてしまったらおしまいだ。
その騙しきれていない(演じきれていない)感じは舞台上まで続く。
正直に言わせてもらえば、役者さんの演技はそれほどうまくない。
それでも、仮に同じ芝居であっても、、
冒頭の部分がなければ、そこまで演技力の粗は気にならなかったはずだ。
観客(私)は粗探しをしに劇場に行っている訳ではないのだから、
どんな芝居でも、多少のピントのゆるさは不問に付して、舞台を見続けるものだ。
だが、冒頭部があったが故に、終始、演技のゆるさが気になって仕方がなかった。
そして、その演技のゆるさから、演出のゆるさ、脚本・構成のゆるさまで気になってしまった。
1つでも強いマイナスの要素を舞台に見つけてしまうと、観客の意識の中に負の連鎖が起こるのだなというのを実感した。
冒頭部で観客の心が掴めるかどうかが重要だという意見は、
あらゆる(時間を有する)表現で言われることだが、
そのことを強く実感した。
冒頭部がなければ、だいぶ作品の印象は違うのだと思う。
満足度★★★★★
笑いによるアヴァンギャルド!
笑いとは、そもそも既成概念をひっくり返すことで生じるが、
その笑いによって演劇的な約束事を破壊していく力が凄かった。
と言っても、破壊しても、軸がブレないだけの、計算された脚本・演出、それに強い演技力があってこそできること。
素晴らしかったです。
その上、自虐ネタも満載で、自分自身をもぶっ壊して、自身の生を掴み取ろうとするような、凄まじいエネルギーがあった。
観終わった直後は、よく笑った面白い舞台を観たなという印象だったのだが、
翌日、負の要素をも正のエネルギー転化するということに、単に面白おかしい作品を観たというだけではすまない、生きる力をもらっていたことに気づいた。
出演者、皆さまが素晴らしかったが、野口かおるさんは特に常軌を逸していた。本当に凄かった。
ネタバレBOX
自虐ネタと同じで、演劇的にも、
ミスやトラブルが起きた際などのアドリブ部に、この芝居の面白さが発揮される。本来、ミスはマイナスになりがちだが、それが更に笑いを増幅させる。
凄い作品だった。
かつて、宇野誠一郎さん(「ひょうたん島」などの音楽の人)が、
「フランスのコンクレートを聴いた時、あれは『笑いによる破壊力』だと思ったんです。これが絶対必要だと思った。僕の役割というのは、マジメな音楽ではなく、ただ秩序を破壊していくことだと思ったんです」(田中雄二『電子音楽 in JAPAN』より)と語っていた。
まさに、笑いによる破壊力の舞台。素晴らしかったです。
ありがとうございました。
満足度★★★★★
円版アングラ!?
「アングラ」の定義は人によって様々だろう。
正統(新劇的)な訓練によって作られた演技ではなく、人間そのものの存在を提示するのがアングラ芝居だと定義する場合、この作品はアングラ芝居ではない。
円の役者たちの肉体や演技力は、強靭に鍛え上げられた、まさに役者が役を演じるということのプロの演技だ。
そのため、表面的にはアングラ芝居でありながら、その質感はアングラのそれとも違う。
この点を批判するか肯定するかで、この作品の評価は別れるのではないか。
私は、この引き裂かれた感覚が圧倒的に面白いと思った。
(作品世界は唐十郎さんの影響を強く感じた。)
ネタバレBOX
品が良いアングラといおうか、洗練されたアングラというか、、、
こういう書き方をすると、体よく演じられたアングラ芝居と思われるかもしれないが、そういうことではない。
その熱量は、アングラのそれと同様だ。
洗練された中にある荒々しさは、ヘタなアングラ風味の劇団が表面的におどろおどろしくしているだけのものとは比べ物にならないほど凶暴だ。
そう考えると、アングラかそうでないかなんて別け方自体がバカバカしくなる。
結局、芝居が求めるものは同じなのだ。
<内容>
海を隔てた地にあるもの、そこへ向かうための方舟。
この設定が、人が待ち望み続ける希望を寓意しているようにも見える。
同時に、主人公が海を隔てた地から来た者であり、
その者が、同じように虐げられる者を救いながら助け合って生きているという設定が、朝鮮半島から来た在日コリアンの生き様のようにも見える。
それは、主人公の潮を朴璐美さんが演じていることとも重なる。
現実と寓意が何重にも重なった物語。
その作品の解釈という以上に、役者さんの演技の熱量に圧倒された。
東憲司さん自身が手掛ける美術も素晴らしかった。
満足度★★★★★
歴史を対象化しないために
脚本・演出・演技、それぞれに力があるものが、舞台上で一体となっていた。
役者さん全員が、本当に素晴らしいと感じた。
中でも、劇団チョコレートケーキの劇団員である3人(岡本篤さん、浅井伸治さん、西尾友樹さん)の入り込みようは凄かった。
浅間山荘事件を題材に、ありえたかもしれない別の物語を展開。
フィクションにすることで、史実を再現するよりも、そこにあった問題の本質をより顕在化することに成功している。
事件を起こした者たちは、なにも特殊な人間ではなかった。
では、何が彼ら・彼女らをそこまで追い込んだのか、、、
ネタバレBOX
閉鎖的な集団の中にいると、何が正しく、何が間違っているのか、その判断基準がわからなくなってしまうことがある。
顕著な例として、オウム真理教、戦中の日本など、例を挙げればきりなない。
だからと言って、外から距離を置いて眺めれば、そこにある真実が見えるのかというと、そうとも限らない。ある部分では、冷静に見えてくる部分もあるが、距離をとればとるほど見えなくなってしまうものもある。
歴史を振り返る際に注意しなければいけないのは、この点である。
過去の出来事は、とかく自分と関係のないことと考えがちだ。
だが、現在進行形の歴史である今、この場所がそうであるように、その渦中にあっては、それほど単純に、その事態を、自分の振る舞いを対象化することはできない。
『起て、飢えたる者よ』の問題提起はここにある。
連合赤軍を模した「連合戦線」という集団とその外部者である山荘の奥さんを描きながら、集団の内部と外部の問題を描いている。
奥さんは、その集団に、外からの引いた視点を持ち込む。と同時に、元々は外部者であったはずの奥さんが、その集団の内部の力学に取り込まれていく。
この過程は、歴史の外部者であった私たち観客が、物語を通じて歴史の内部に引きずり込まれていくこととも重なっている。
総括という名の殺人はなぜ行われたのか。それは、彼ら・彼女らが狂乱して起こった事態ではない。
ひとつには個人の権力や暴力が集団の権力・暴力へと転化したからであり、
論理に自縄自縛されたからであり、やってしまった行為を正当化し続けることでしか集団を、そして自分を保てなくなったからでもある。
それらが、ほぐせないほどに絡まりあって起きた事件だったと言える。
この物語でも、組織のトップである林常雄(森恒夫を模した人物)、または永山寛子(永田洋子を模した人物)が、または二人が共同で、個人の支配欲を満たすために行なったとこだという見方も提示される。
これは浅間山荘事件を語る際に、最も一般的に結論づけられることだ。
共産主義をうたい権力を批判しながらも、結局、それはまた別の権力体制を形作ることにしかならない。それどころか、ある種の厳格さが、独裁的な暴力を発動していく。まさにスターリニズム。共産党の党権力を批判し、スターリニズムを批判していた新左翼も、結局は同じ穴のむじなになってしまったと。
若松孝二監督の『実録・連合赤軍 あさま山荘への道程』のラストも、加藤兄弟の弟が「(森や永田の暴力、または集団の正義に異を唱える)勇気がなかった」と結論づけて終わる。私はこの映画に対して、とても力のある作品だとは思いながらも、このラストシーンには全く納得できずにいた。問題はそれだけではないだろうと。
『起て、飢えたる者よ』では、ここで結論づけるのではなく、実は森や永田が持っていた個人の権力・暴力欲は、人間ならば誰でもが有する欲望であるということが示唆される。
それは、物語が進むにつれて、山荘の奥さんが、江藤兄弟(加藤兄弟に模した)などから様々な教育を受けることで、永山寛子にシンクロしていき、坂内邦男(坂東国男を模した)を永山よろしく糾弾するシーンに見られる。
その後、なぜ永山のように振る舞ったかを聞かれた奥さんは「・・・分からない。でも、カッっとなったのは本当よ。酷い悪口だったから。」「でもどこかで冷静に考えてもいたわ、どうすればこの人をやりこめられるだろうって・・・」「言葉って凄いわね。ああいう風に使えば誰だって追い詰めることができる。」
と答えている。
人の優位に立ち、暴力を行使したい欲望、つまり権力欲は、山荘の奥さんという極めて一般的な人の中にも存在している。また、それを行使する際に、肉体ではなく、言葉や論理の暴力性でそれを行っていることも、注目すべきだ。この集団は、言葉や論理によって自縄自縛されていた側面も大きい。
ここにも、二重の問題がある。一つは、理想を貫徹するための理念に縛られているという部分と、一度自分が行使してしまった暴力を正当化するために、その正義を信じ続けなければならないという部分と。特に後者は、重要だ。一度犯してしまった間違いを、認めてしまっては今現在の自分が成り立たない。そのために、自分でもどこか疑いながらも、それを信じ込むことで自分を納得させるということは、日常のあらゆる場面で誰でもが経験していることではないだろうか。
このように、個の欲望と集団の暴力、そこに言葉や論理の暴力性が様々に絡まりあうということは、先鋭化した政治集団に限った話ではないのだ。
山荘の奥さんという一般的な人を介して、ある集団の内部と外部、過去と現在の問題点を、極めて批評的に浮彫にしている。
このように、本当に素晴らしい作品だと思ったが、一点だけ、欲を言えば、、、という想いも残る。
奥さんが永山に見えてくるという構造は、極めて面白い設定だと思ったが、
その辺りから、ある種の幻想譚のようになってしまい、その寓意性を高めることには成功しているものの、同時に、ある種のリアリティが削られていってしまっている。
一般的な奥さんが、革命家の論理を理解し、その言葉のレトリックを駆使して議論できるようになるとは到底思えない。さらには、ラストシーンで、坂上を打ち、権力に銃を向けるというところまで至る訳はない。
勿論、これは暗黒童話のような寓意譚であり、そのことによって更に開かれた解釈を提示しているのだから、この設定や終わり方がプラスに働いている部分も大いにある。
それでも言わずにはいられないのは、やはり、歴史として過去を対象化しないという問いかけがある作品のため、この物語が、ある種の幻想譚、つまり、作り事の物語に収まってしまってはもったいないと思うのだ。
あくまで、本当にあり得たかもしれない別の話として終わっていたら、より地続きの歴史を、今現在を、認識できたような気がする。
そうはいっても、この終わりはこの終わりで、素晴らしかったです。
素晴らしい作品をありがとうございました。
満足度★★★★
批評性というより、ほっこり
評価か難しいです。
人情話が好きな人には文句なくおすすめできる。
社会的な問いかけを、演劇を通して広く多くの人に発していくという意味では、こんなに素晴らしい舞台はない。
誰が見ても、感動できる。
演技や演出もとても完成度が高い。
そういう意味では、★5つです。
ただ、大上段に構えた社会的テーマではなくそこにある日常を描くということや福島のソープという設定から、
痛烈な批評性が、内容的にも、その表現技法にも、あるのではないかと思って期待して見に行ったが、それはどちらもなかった。そういう意味では、期待と違っていた。
また、誰もが感動する落としどころというのも、ひねくれ者の私にとってはそれほど惹かれなかった。
そういう意味では、個人的には★3。
ただ、作品内容というよりも、こういう作品が多くの人に観られることで、福島の問題を考える人が少しでも増えることは素晴らしいことだと思うので、そういう部分も含めて★4つ。
天宮良さんの演技が、仲良い友人の茨城(福島じゃないのだが)のおじさんに酷似していて、とってもリアリティがあった。
満足度★★★★★
まるでジャズのような
観客の反応を見ながら、呼吸を合わせるように芝居が演じられていた。
その絶妙の間(ま)。緊張と緩和。
次に何が起こるか、どこに行ってしまうのか、不安と興奮の中で、
この舞台に釘づけになった。
まさに、いま・この場で劇が創り出されているのだと感じた。
「芝居は生もの、同じ公演でも上演する回ごとに違ったものになる」という意見はよく聞くが、この作品ほど、そのことを痛感した作品はない。
素晴らしかった。
満足度★★★★★
素晴らしい
原発事故のことを扱っている訳ではないが、
原発事故後に様々な情報に振り回され、その情報を元に2次・3次的に暴力が拡散していったこの国の様と芝居の内容が重なって見えた。
素晴らしかった。
役者さんたちの演技も、皆、素晴らしかった。
本当に力のある劇団なのだと思う。
<内容について、後日、追記するかも>
ネタバレBOX
2011年7月に初演されたものなので、そのような社会状況と重ねて描いた作品なのだろう。初演時を私は観ていないが、おそらく作り手も観客も、渦中でこの作品を作り、観ていたはずだ。
2013年9月に再演されたこの作品では、(作り手の意志はわからないが、)観客の私には、当時情報に振り回され、様々な暴力に晒されると共に、加担もしていた自分自身の姿をそこに重ね合わせながら観た。
私が「十七戦地」を観るのは二回目。
前作『獣のための倫理学』を観て、そのあまりに高い完成度に衝撃を受けた。ただ、ひとつだけ不満に思っていたのは、物語が完成し過ぎているという点だった。脚本・演出の柳井 祥緒氏の構成能力の高さが、逆に、物語をきれいにまとめ過ぎているのではないかと思った。
だが、この『花と魚』では、物語としての完成度も充分にあるものの、どこかきれいには収まりきれていない質感があった。それは、物語化しきれない(しえない)現実と格闘したからこそ生まれたもののように感じる。この質感こそ、私が前作に足りないと感じていた点だったのだ。
完成度においては、前作の方が高いと思うが、
作品が観客に問いかけてくるもの、その強さ、複雑さにおいては、こちらの作品の方が遥かに強い、多様であると感じる。
前作の完成度で、この問いかけや複雑さを有した作品ができたら、とんでもないことになると思った。次回作が楽しみでならない。
満足度★★★★
空間演出の妙
微細な音や光を駆使し、小物や役者の立ち位置を計算した空間演出が素晴らしかった。
レーヴボルグ役:田中壮太郎さん、エルヴステッド夫人役:小瀧万梨子さんがよかった。
ネタバレBOX
演劇集団 砂地を拝見するのは二回目。(以前観たのはオリジナル作品『貯水池』)
オリジナル作品の時も、今作もとても近い作品の印象を持った。
微細な音や光を駆使し、小道具や役者の立ち位置などを計算した空間演出も素晴らしい。
事象それ自体をただ舞台で演じればよいというだけではなく、
そこにある空間、「間(ま)」のようなものをこそ作り出そうという演出に惹きつけられた。その演出によって、とても緊張感のある舞台が屹立していた。
ただ、建築的な空間把握は凄いと思ったが、
人と人との関係性の距離感が、その物理的距離感と有機的に繋がって見えてくるというところまでは行っていなかった気がする。
(と言っても、そこまでの空間把握がなされた舞台を私は観たことがないから、単に理想を口にしているに過ぎず、「欲を言えば、、、」というだけだけれど。)
また、どこまで演出したことなのか、たまたまそう私に見えただけかわからないが、
主人公のヘッダとその夫テスマンよりも、レーヴボルグとエルヴステッド夫人の方が魅力的に感じた。
そのためか、作品の問いかけている意味が、とても複雑に感じた。
だが、これは、私にとっては半々で、
一方で、多義的な解釈ができる作品になっていると思える反面、
結局、何が問いかけたいのかよくわからないという印象の薄さにも繋がった。
また、この作品が初演された1891年頃の設定のような演出部分もありながら、現代的な小道具が出てきたり、
西欧の設定かと思いきや、床にあぐらをかくなど日本的な演出がなされたりという部分も、違和感を感じた。過去と現代を、そして西欧と日本を重ね合わせているのかもしれないが、何か中途半端な印象。
私が感じた作品の印象の薄さと、中途半端に感じるという部分は同根から生じているように思う。
今、この社会状況の中で、
イプセンの『ヘッダ・ガブラー』を上演することで、
この演出家は、観客に何を問いかけようとしているのか、
それが私には伝わらなかった。
それが伝われば、問いが明瞭になることによって、作品の強度は勿論、その解釈も、更に開かれたものになっただろうと思う。
満足度★★★
う~ん
芝居に命をかけている者が、作家は脚本・演出で、役者は演技で、
プロレスに命をかけるという物語に自分たちを重ね合わせて作った舞台なのだろう。
熱量が凄かったので、その気持ちはとてもよく伝わってきた。
ただ、早口過ぎて台詞が聞こえなかったり、
芝居よりも、単にエネルギーを放出する方に気がいっているという感じもした。
脚本なども「ご都合主義」が気になってしまった、、、
ただ、若いエネルギーは感じた。
奥野友美役:佐々木紬さんの初々しい演技がよかった。
ネタバレBOX
「ご都合主義」が気になったと言っても、プロット上のことではなく、設定の面。
この作者にとって命をかけるという設定が使えれば、必ずしもプロレスじゃなくてもよかったのではないかということがずっと引っかかって観ていた。
というのは、プロレスへの愛情があまり感じられなかったからだ。
と言っても、私はプロレスについてはほとんど知識がないので、勘違いかなtも思っていたが、コリッチメンバーの「オヤジ♪」さんの「観てきた!」を読むと、私が感じていたことはあながち間違っていなかったのではないかと思える。
私が感じた部分は3点。
1つは、プロレスラーを「バカ」と呼んだこと。
勿論、この「バカ」には二重の意味が込められていて、<演劇バカ>同様に、<プロレスバカ>という、自嘲的というか、肯定的なニュアンスの使われ方もしている。
だが、同時に、ボクシングでいうパンチドランカーのような意味でもバカという使われ方もしている。こちらの使い方は、プロレスラーに敬意があったらできないのではないかと思った。
2つめは、「オヤジ♪」さんが細かく指摘しているが、プロレスシーンが極めて陳腐なこと。そこはしっかり描かないと、命をかけているということが証明されない。もしくは、そういう部分を見せたいんじゃないとするなら、実際の格闘シーンは全部削るべきだったと思う。
3つめは、衣装。2と重なるのだが、実際のプロレスシーンで、衣装はプロレスのリング衣装ではなかったこと。台詞の中で、「女子プロレスラーは、水着のようなかっこうで人前に立って、、、、命をかけて、、、」というような台詞もあるのに、プロレスの衣装ではなく演じているのを見てしまうと、「言っていることと違う、、、」と思ってしまった。
勿論、プロレスの衣装にすることで、変なエロのニュアンスが出て、本筋から意識がそれるのを避けようとしたということはありえると思うが、エロのニュアンスが出ることで損なわれるものと、きちんとしたリングの上での体をむき出しにした格闘を見せないことで損なわれるものとを天秤にかけた場合、後者で損なわれるものの方が遥かに大きい。
「命をかけている」ということの説得力が全く違ってしまう。
役者自身が、恥じらいも捨てて演じるというドキュメント性と、プロレスに命をかける物語がそこでシンクロする部分もあるのだから。
また、若年性アルツハイマーで入院している母親が、病院で、主人公にオムツを替えられる際に、自分のうんこを投げつけるという設定にも、首をかしげた。病院に入院している場合、オムツは一般的には看護師(介護士)が替えるんじゃないだろうか。家ならわかるが。それに、うんこを投げるというのもちょっと引っかかるのだが、あり得ないとは言いきれないので、その点はいいとしても、それをやる際は、完全に錯乱状態になっている時で、理性のない時のはずだが、その破壊的な行動こそ母の闘いだというような台詞が出てきたのも気になった。意志がある闘いと意志がない闘いでは、意味が違うような気がする。そして、その部分の一連の台詞の中で、母への愛情があったら言わないようなニュアンスの台詞があったような気がした。(細かく覚えていないので、この点は勘違いかもしれないが、、、)
総じて、物語を語るために、都合よくエピソードが組み立てられているという印象。
プロレスや、アルツハイマーの母を出さずとも、
自分たちが命をかけているということを描くのならば、
そのまま「芝居に命をかけているという芝居」をやった方がリアリティがあったのではないか。
満足度★★★
不条理?シュール?
不条理なような、シュールなような、、、
物語はありつつも、その物語が様々に切断される。
ある切断面は、また別の切断面へ接続され、
観客の想像力の中で、様々に広がる。
ネタバレBOX
細部でも、極めて哲学的であったり、批評的であったりするような台詞が発せられるが、それが物語に回収されることはなく、その思想的な台詞は宙吊りにされている。それを観客の想像力の中で紡いでいくことで、作品は完成するということだろう。
観た人の数だけ、この作品の意味は開かれている。
この点を、多様な解釈を生む作品として評価するとするか、
落としどころのない、意味不明な作品とするかで評価は分かれるのではないか。
演出も面白い部分がたくさんあったし、私はそもそもきっちりした物語よりも、物語が解体されている作品の方が好みであるのだが、
この作品においては、理由はわからないが、引き込まれなかった。
何かが物足りなく感じた。
私の場合は、物語や落としどころが欲しかったわけでは全くないのだが。
満足度★★★
正攻法の面白さ
極めて正攻法の、芝居らしい芝居。
ギリシャ悲劇を元ネタに書いた新作と言っても、
その深みや厚みは、古典そのものの貫録。
完成度も高い。演出も美術・音楽も素晴らしい。
演技力も高い。
分解して考えるとそつもないし、素晴らしいのだが、
理由はわからないが、なぜか芝居そのものに入り込めなかった。
勿論、部分的に魅了される部分はあったが、、、。
ネタバレBOX
神々が望んでいるものは悲劇であり、それを演じることが私たちの生である。その不条理をどう生きるかという作品のテーマは、観客ひとりひとりの人生に照り返される。
若い娘役:白根有子さんに惹かれた。
満足度★★★★
熱のこもった演技
熱のこもった演技が素晴らしかった。
緩急(押し引き)のバランスも素晴らしかった。
<あの女>役:金魚さんに惹きつけられた。
ネタバレBOX
芝居が始まった直後は、異常に速いテンポや、熱血的な演技に、エネルギーを放出するだけの芝居かと、ちょっと引いて観ていたが、そのテンポに慣れていくにつれ、とても惹きつけられていった。
何よりも、速い演技、エネルギーを放出する演技だけではなく、ゆっくりとした演技や引きの演技のようなものも、きちんとできていたのが素晴らしかった。
その緩急にとても惹きつけられた。
演出では、脚本に指定されていたものかもしれないが、
最初は何語をしゃべっているのかわからなかった赤鬼が、だんだんと英語をしゃべっているのだなと観客にわかってくるその過程がとても面白かった。
何語をしゃべっているのかわからない時は、赤鬼とは何を意味しているのか様々な想像を膨らませながら見た。アウトサイダー全般について語っているのか、、、部落者のことか、、、障害者のことか、、、朝鮮半島や台湾から来た者のことか、、、など。集団と排除の問題、差別のことを色々と考えながら見た。
そうしているうちに、赤鬼は英語圏から来た者だとわかってくる。
何が秀逸かと言えば、物語の主人公<あの女>が他国の言語を認識していく過程が、そのまま、観客がその言語を認識していく過程と重なっているということだ。最初はただの動物の叫びのような、言葉とも思えなかったものが、だんだんと言葉らしきものだとわかるようになり、最終的にはその意味もおぼろげに理解できるようになってくる。素晴らしい演出。
ただし、時間経過がよくわからないこともあって、「本当にそんなにすぐに習得できるのか」という疑問も湧いたが、まぁ、それはフィクションだからということで、不問に付して観た。
ただ、ラストの<あの女>が死を選ぶ場面で、音楽を使って過剰にドラマチックに盛り上げようとしていた演出にはちょっとだけ引いてしまった。
装飾物で盛り上げるのではなく、役者の演技それ自体で見せてほしかった。音楽がなくても魅せられるだけの演技だったと思う。その場合、装飾物である音楽はむしろ邪魔になる。
物語としては、人間に対する不信・絶望というものを見つめているとても良い作品だと思った。安易な希望なんて持てない時代に、嘘っぱちの希望なんて見たくない。むしろ、この絶望とどう向き合うかということが問われているのだろう。
満足度★★★★
面白い構造
舞台の使い方がとても面白かった。
物語構造としても面白かった。
どこまでが演出なのか、私が勝手にそう思っただけかはわからないが、
観客である私も屋根裏にいるような感覚を覚えた。
その圧迫感やもろもろで、作品がとても長く感じた。
観終わった後はヘトヘトになっていた。
それでも、「屋根裏」が意味するものが多様に解釈できて、とても面白い作品だと思った。
ネタバレBOX
物語は断片的なシーンがいくつも積み重なって描かれる。
大きな物語の流れがある訳ではないので、その作品の意味は様々に解釈できる。それを考えるのがとても刺激的で面白かった。
ただ、それは同時にとても集中力を要するので、観終わった後はヘトヘトになっていた。
2時間20分位の芝居であり、実際に長い芝居だったというのもある。
ヘトヘトになった理由は他にもある。
どこまでが演出によるものかわからないのだが、
客席間も狭く、冷房もあまり効いていないため、客席もまさに「屋根裏」を感じる息苦しさがあった。
舞台上の「屋根裏」も極めて小さいものなので、その小さい空間に意識を集中し続けるのにも、かなりの労力を必要とした。
それらの事情が相まって、
観劇後、ぐったりして劇場を出たが、この感覚も含めて『屋根裏』体験ということなのだろう。
だが、そのどこまでが演出意図なのかはよくわからない。
体感型演劇という意味では、凄いことだと思うが、
作品内容よりも、疲労感の方が後に残ってしまった。
ただ、私が観た回が初日だったからかもしれないが、
コメディ的な笑いを誘う部分の間やテンポがあまりよくなかったことは大きく影響していると思う。
狭苦しく、重いテーマを扱いながら、随所に笑いがちりばめられている。
その脚本上のバランスは素晴らしいと思うのだが、舞台上のテンポがきっちり決まっていなかった印象なので、笑うべき所で笑えなかった。
その為、緊張と弛緩のバランスが崩れ、緊張過多になっていたように思う。
他の回ではうまくいっていたのだろうか、、、?
これがうまくいっていたら、そこまでヘトヘトにはなっていなかったのだろう、、、
ともあれ、疲れはしたが、面白かった。
「自分の意志で一人でいることを選びとった一日は、流されて過ごす一年の長さに等しい。」という台詞がとても印象に残っている。
満足度★★★★
面白い企画
とても面白い企画だと思った。
ただ、実際の裁判記録に基づいた実験公演と銘打っていたので、ポストドラマ/ドキュメンタリー演劇のような、一般的な演劇を解体するような試みかと期待していたが、芝居自体は極めて正攻法の芝居だった。
それでも、逆から言えば、特殊な試みなれど、一つの芝居としてよくできていたという言い方もできる。
物語としては、、、
ネタバレBOX
5つの物語が演じられるのだが、数ある事件の中で、なぜこの5つの裁判の、更にこの場面を選んだのか、作者が向き合っているものがわからなかった。勿論、5つの物語を繋ぐ表面的なテーマ(正義、悪、罪、、、それを裁くということなど)はわかるが、その5つを並べることで、何を顕在化させようとしてるのかがわからなかった。
事実に基づいた、作者ありきではない作品という姿勢であったとしても、作者を解体するような(ポストドラマ的な)構成・演出がなされている訳ではないため、作品に対して作家の意志(批評性)を観客としてはどうしても観ようとしてしまう。ドキュメンタリー映画などは典型的な例だが、事実に基づこうが、その事実の中から何を選ぶか、どう編集するかは、ある意味ではフィクション以上に、その作家の批評性が問われる。それが見えないのが残念だった。
また、最終話の「ジャンヌ・ダルク異端審問裁判」で、それまで事実に基づいた話というリアリティを持って観てきたものが、一気に神話のような話になってしまい、結局フィクションを観たという印象で芝居を見終えたのも残念だった。
これは、演目1・2は日本の現代もの、演目3は日本の戦後(1960年の事件)、演目4は日本の戦前(1936年の事件)と来ての、演目5ではフランスの中世(1412年の事件:ギリギリ近世?)と、上演されている「今ここ」との場所と時間の距離が極端に広がったことが原因だろう。それらの距離が広がれば広がるほど、現実感は希薄となり、事実といえどフィクション化されていく、神話化されていく。そのことに対する批評性が作家にあったなら納得するが、そういう問いかけでこの作品が構成されているようには思えなかった。
演出面では、舞台が四面客席で囲まれている上に、客席の中(最前列)の椅子に役者が座って演技をするなど、役者と客との距離が近すぎて、客のリアクションが気になって、最初は舞台に集中できなかったが、慣れてくると、むしろその近さが妙な緊張感を生んで、とても刺激的だった。この芝居で、内容よりもこの演出の方が実験的だったと思う。
(ただ、私の席ではそう感じたが、終始単に観づらいとイライラした人もいたかもしれない。)
演技としては、演目4「226事件」の陸軍法務官役:大森勇一さんの演技が素晴らしかった。
残念だった点ばかり指摘してしまったが、やはりこの企画自体がとても魅力的だったため、観客としての欲が出てしまったが故のもの。悪く思わないでください。
なんだかんだ言いながらも、面白く観劇した。
満足度★★★★
深い意味はありやなしや、、、
東憲司さんの作・演出ということで期待していたが、物語は平板だった。
(と、表面的には思ったが、深読みしようとすると、、、 ネタバレの最後に書きます)
だが、そこは東さん、その完成度はさすがという感じ。
新妻聖子さんの演技もよかった。
ネタバレBOX
主人公は数か月前まで小学校の教師だったが、ある事件をきっかけに学校を辞めることになり、今は亡き祖母が数年前まで暮らしていた田舎の家(防空壕)で生活することを決める。そこには、祖母の霊がいたというところから物語は始まる。
小学校で起こった事件とは、自分の小さい頃に似ていると可愛がっていた生徒が突然登校拒否になり、「先生から暴力をふるわれ、もう学校に来るなと言われた」と証言したということだ。これにより、他の生徒や保護者・先生から様々な批判を受け、辞職に追い込まれた。
だが、物語が進むにつれ、実はこの話は、主人公の作った嘘であり、実際には、本当にその生徒に手をあげ、「もう学校に来るな」とも言ったのだとわかる。
そもそもの原因は、生徒皆で朝顔の種を植えたが、その生徒の鉢だけから芽が出なくて、その生徒も苦しんでいたため、主人公である先生が良かれと思って、お店で朝顔の苗を買ってきて植えてしまったことで、その生徒が怒ってしまい、それに対して、主人公がとった行動が、手をあげたことと、「もう学校に来るな」という言葉だった。
理由があるにせよ、やってはいけないこと。その理由も、生徒のことを想っての行為ではない。
後に、その生徒は、「自分が嘘をついていた。先生に手もあげられていなければ、学校に来るなとも言われていない」と証言し、学校にも登校するようになったそうだ。
そのことを伝え聞いた主人公は、
子供の気持ちに心を打たれたのかどうか、その辺の理由ははっきりと確定できないが、いずれにせよ、自分の今までついてきた嘘を認め、それと同時に、今まで対話し続けていた祖母の幽霊も、実は自分が勝手に作り出した幻想だったと(観客に、または自分自身に)認める。
自分を守るために、本当は加害者だったにも拘わらず、自分は被害者だと自己洗脳をしていたことになる。
祖母の霊のことも、自分の都合のよいように作り出していた。
それらの自分勝手な幻想を振り切って、現実に向かって強く生きていこう物語。
<ここからは、極めて自分勝手な曲解>
この話の設定が、防空壕の中での話であり、祖母が戦争のことを語ることなどを考慮すると、
主人公が自分を守るために、自分の過去を隠蔽し、自分に都合のいいように思い込もうとしたことというのは、先の戦争での庶民の在り方への批評になっているのではないか。
真珠湾攻撃で太平洋戦争が始まった際などは、ほんの一部の人を除いて、ほとんどの人は諸手を挙げて喝采した。インテリなども含めて。
それが、戦後になったら、「だまされていた」「やりたくもない戦争をやらされた」という意見に変わった。明らかに虚偽である。記憶のすり替えである。
戦時下で「やりたくない」と思いだした人も後半には増えるが、それは身内などが徴兵で兵隊とられる苦しみを実感したからであったり、B29が飛んでくるようになり、日本がもはや銃後ではなくなって、さらに食べるものも本当に底をついてからのことだ。実際に悲劇や苦痛が家族や自分自身に降りかかってくるまでは、戦争万歳であった。
にもかかわらず、戦後には「だまされた」とほとんどの人が言った。
そのことを映画監督の伊丹万作は1946年8月号の「映画春秋」に「戦争責任者の問題」という文章を書き、騙される者の責任を痛烈に批判した。自身の戦時中の在り方も含めて。
<「だまされていた」といって平気でいられる国民なら、おそらく今後も何度でもだまされるだろう。いや、現在でもすでに別のうそによってだまされ始めているにちがいないのである。>
この伊丹の言葉は、今現在でも、まったく古びていない。
曲解すれば、『青空・・・!』が問うているのはこの問題なのではないか、、、
歴史を自分の都合のよいように思い込む歴史修正主義への批評として。
戦争の被害者であったと同時に、加害者でもあったことを忘れつつある戦後日本の民衆への批評として。
そして、それは今現在へと返ってくる。
今の政治の流れでの中で、憲法が変わり、国防軍などができたとしても、
私たちはもはや「だまされた」とは言えない。
選挙できちんと支持した結果が今の政権なのだから。
まぁ、上記のことは私の曲解かもしれないが(これこそが作品を自分勝手に歪めて捉えているという矛盾)、
いずれにせよ、過去を自分の都合のよいように解釈して、過去からも、そして現在からも眼をそむけるのではなく、きちんと過去と向き合うことで、現在とも向き合える。そうして初めて青空が見いだせるということをこの作品が問うているということは確かだろう。
満足度★★★
・・・
前作『世界は僕を切り撮って』はとても面白く拝見したのですが、今作は入りこめませんでした。
ネタバレBOX
物語に入りこめなかったため、前回と似た演技の質であっても、まったく違った見え方がしてしまった。
前作では、エネルギー溢れる演技と見えていたものが、
今作では、過剰な演技・演出という見え方になってしまった。
脚本も、前作では、多少ご都合主義的ではあっても、それもスペクタクルを作り出す上で仕方がないのかなぁと思って観ていたが、
今作では、ご都合主義が前作以上に気になってしまった。
演技・演出であれ、脚本であれ、前回と何かが大きく変わった訳ではない。単に私が作品に入り込めなかったために、そう見えてしまっただけだ。
なぜ作品に入り込めなかったのかは、自分でもよくわからない。
脚本自体がそもそも前作の方がよかったような気がするが、
それ以外の点として、前作といろんな部分で似ていたというのは、
私が観客としての興味失った大きな要因のような気がする。
前作と、内容・設定・配役・演技の質など、もろもろが似ていて、
作品によって登場人物の在り方が変わらないというのが、どうも納得できなかった。
ポストドラマ演劇/ドキュメンタリー演劇(役者が役を演じない演劇)を除いて、一般的な演劇では、
役者は役を演じているのであり、物語によって、当然その人物設定は変わってきてしかるべきだと思うが、前作と同じ登場人物が別の物語を演じているという印象だった。
とても真面目に、真剣に芝居に取り組んでいる劇団だと思うので、本音で書かせていただきました。偉そうなことを書いて、すみません。
次回作に期待しています。
満足度★★★
擬人法による芝居
猫と犬を人間が演じる擬人法の芝居。
二人の役者さん(伊織夏生さん、三好康司さん(劇団MAHOROBA+α)) の演技がよかった。
ネタバレBOX
猫や犬の目線から、人間世界が見返されるという構造は面白いと思ったが、
あくまでそれは人間が思いえがく、想像しうる猫や犬の像。
そのため、好みが別れると思うが、よくもわるくも、人間ドラマとなっている。
きれいな人生賛歌のドラマを、個人的にはあまり好まないので、物語としてはもの足りなく感じた。
まったく人間が思ってもいないようなことを考えている(または何も考えていない)犬や猫の本音などが見えてきて、それが結果として人間の在り方や人間社会の構造を相対化するような作品だったらとてもよかったのになとは思ってしまう、、、が、、、それは個人的な好みの問題なのだと思います。
また、一人芝居の物語が、交互に展開されグルーヴを作っているのが面白かった。
満足度★★★★★
圧倒的な演技力 演出も絶妙 醜さも含めた人間賛歌
演技力に圧倒され続けた。
それは、単にエネルギーが強い演技だったというだけではなく、
また何役もの役を演じ別ける器用さに驚愕したというだけでもなく、
その点も凄いのだが、それ以上に、
人間の持つ一面的ではない複雑な感情を見事に表出していたということによる。
その演技力に加え、光を利用した空間の把握、着替えによる時間経過の演出なども見事。
ネタバレBOX
人が本心と呼ぶものには、無意識の裡にも打算や計算が含まれている。その本心に基づいて、日々私たちは生活しているが、その利害のバランスが少しでも変われば、そこにある本心なるものも簡単に揺らいでしまう。
また、それを言葉として誰彼に話す際には、話す相手へのおもねりがあったり、逆に強がりがあったりと、その本心はさらに複雑なものとなる。そして、その対話の中でさえ、やり取りの中でその本心は様々に変化する。
このような本心の変化の中で、日々、何らかの決断をくだしながら私たちは生きている。それでも、その決断をくだす一瞬においては、その決断は最良のものであり、真実なのだと思い込んでいる。そして、その決断を信じ続ける場合もあれば、時間経過の中で、その決断は誤りだった後悔することもある。
この物語の主人公「弥々」も、自分を取り囲む様々な状況の変化にとともに、自分の本心を変化させて生きている。
それは、一方では、状況に自身が、その本心が、振り回されているようにも見えるが、自身を保つためにこそ本心を選び取ってもいる。
若き日に、良寛ではなく、別の男を選んでしまったのは、おそらくその時の弥々にとっては本心であっただろう。だが、その選択の際にも、確かに良寛も良いなと思った部分があったのも事実だ。財力や地位だけの問題ではなく、その誠実さに惹かれた部分も確かにあった。三人で浜辺の小屋に泊まった際、婚姻する相手ではなく良寛の手を握って眠ったのがその証左ではある。
それでも、ロシア行きへの希望や、退屈な良寛への不満など様々な要因が作用して、もう一人の男を選んだ。
ただし、その際に良寛に向かってその生真面目さや退屈さを罵ったのは、本当にそれが嫌で嫌でたまらなかったのか、それとも自分の選択を間違っていないと思い込みたかったからそう振る舞ったのか、はっきりはしない。
おそらく弥々自身も無意識に行っていることだと思う。
後年、弥々は、状況に振り回され続ける自分を保つためにこそ、過去を、その時の本心を希望として作り変えていく。
おそらく、若い時の弥々にとって、良寛はもっとも愛した人ではなかったであろう。上でも述べたように、そういう部分も少しはあったのかもしれないが、それはほんというに小さな気持ちだった。それでも、その気持ちの方を当時の自分の本心だったと思い込むことで、今を強く生きる原動力に変えていった。変えられない過去を悔やむのではなく、過去さえも書き換えて強く生きる。このしたたかさ。そんなことは欺瞞だという見方も一方でできるが、このしたたかさこそが、人間の強さなのではないか。キレイゴトの人間賛美ではなく、人間の醜さも含めた人間賛歌。
そのような複雑に表面と内面が反転するような描写が、この作品にはたくさん出てくる。それは、矢代静一の筆の力であり、また、それを演じる毬谷友子の演技力のなせる技でもある。まさに、親子合作。
演出も絶妙。
照明による場の緊張感と空間把握の妙。
特に浜辺の小屋でロウソクに火をつけて過ごす場面の緊張感と、それを消して眠りに入り闇へ、そこに光が舞台全体を照らしていく朝の浜辺の描写など、あっぱれ。
衣装の変化と演じ分けによって、経年の変化を表すのもとても素晴らしかった。
素晴らしい舞台でした。