『起て、飢えたる者よ』ご来場ありがとうございました! 公演情報 劇団チョコレートケーキ「『起て、飢えたる者よ』ご来場ありがとうございました!」の観てきた!クチコミとコメント

  • 満足度★★★★★

    歴史を対象化しないために
    脚本・演出・演技、それぞれに力があるものが、舞台上で一体となっていた。

    役者さん全員が、本当に素晴らしいと感じた。
    中でも、劇団チョコレートケーキの劇団員である3人(岡本篤さん、浅井伸治さん、西尾友樹さん)の入り込みようは凄かった。

    浅間山荘事件を題材に、ありえたかもしれない別の物語を展開。
    フィクションにすることで、史実を再現するよりも、そこにあった問題の本質をより顕在化することに成功している。

    事件を起こした者たちは、なにも特殊な人間ではなかった。
    では、何が彼ら・彼女らをそこまで追い込んだのか、、、

    ネタバレBOX

    閉鎖的な集団の中にいると、何が正しく、何が間違っているのか、その判断基準がわからなくなってしまうことがある。
    顕著な例として、オウム真理教、戦中の日本など、例を挙げればきりなない。
    だからと言って、外から距離を置いて眺めれば、そこにある真実が見えるのかというと、そうとも限らない。ある部分では、冷静に見えてくる部分もあるが、距離をとればとるほど見えなくなってしまうものもある。

    歴史を振り返る際に注意しなければいけないのは、この点である。
    過去の出来事は、とかく自分と関係のないことと考えがちだ。
    だが、現在進行形の歴史である今、この場所がそうであるように、その渦中にあっては、それほど単純に、その事態を、自分の振る舞いを対象化することはできない。

    『起て、飢えたる者よ』の問題提起はここにある。
    連合赤軍を模した「連合戦線」という集団とその外部者である山荘の奥さんを描きながら、集団の内部と外部の問題を描いている。
    奥さんは、その集団に、外からの引いた視点を持ち込む。と同時に、元々は外部者であったはずの奥さんが、その集団の内部の力学に取り込まれていく。
    この過程は、歴史の外部者であった私たち観客が、物語を通じて歴史の内部に引きずり込まれていくこととも重なっている。


    総括という名の殺人はなぜ行われたのか。それは、彼ら・彼女らが狂乱して起こった事態ではない。
    ひとつには個人の権力や暴力が集団の権力・暴力へと転化したからであり、
    論理に自縄自縛されたからであり、やってしまった行為を正当化し続けることでしか集団を、そして自分を保てなくなったからでもある。
    それらが、ほぐせないほどに絡まりあって起きた事件だったと言える。

    この物語でも、組織のトップである林常雄(森恒夫を模した人物)、または永山寛子(永田洋子を模した人物)が、または二人が共同で、個人の支配欲を満たすために行なったとこだという見方も提示される。
    これは浅間山荘事件を語る際に、最も一般的に結論づけられることだ。
    共産主義をうたい権力を批判しながらも、結局、それはまた別の権力体制を形作ることにしかならない。それどころか、ある種の厳格さが、独裁的な暴力を発動していく。まさにスターリニズム。共産党の党権力を批判し、スターリニズムを批判していた新左翼も、結局は同じ穴のむじなになってしまったと。

    若松孝二監督の『実録・連合赤軍 あさま山荘への道程』のラストも、加藤兄弟の弟が「(森や永田の暴力、または集団の正義に異を唱える)勇気がなかった」と結論づけて終わる。私はこの映画に対して、とても力のある作品だとは思いながらも、このラストシーンには全く納得できずにいた。問題はそれだけではないだろうと。

    『起て、飢えたる者よ』では、ここで結論づけるのではなく、実は森や永田が持っていた個人の権力・暴力欲は、人間ならば誰でもが有する欲望であるということが示唆される。
    それは、物語が進むにつれて、山荘の奥さんが、江藤兄弟(加藤兄弟に模した)などから様々な教育を受けることで、永山寛子にシンクロしていき、坂内邦男(坂東国男を模した)を永山よろしく糾弾するシーンに見られる。
    その後、なぜ永山のように振る舞ったかを聞かれた奥さんは「・・・分からない。でも、カッっとなったのは本当よ。酷い悪口だったから。」「でもどこかで冷静に考えてもいたわ、どうすればこの人をやりこめられるだろうって・・・」「言葉って凄いわね。ああいう風に使えば誰だって追い詰めることができる。」
    と答えている。

    人の優位に立ち、暴力を行使したい欲望、つまり権力欲は、山荘の奥さんという極めて一般的な人の中にも存在している。また、それを行使する際に、肉体ではなく、言葉や論理の暴力性でそれを行っていることも、注目すべきだ。この集団は、言葉や論理によって自縄自縛されていた側面も大きい。
    ここにも、二重の問題がある。一つは、理想を貫徹するための理念に縛られているという部分と、一度自分が行使してしまった暴力を正当化するために、その正義を信じ続けなければならないという部分と。特に後者は、重要だ。一度犯してしまった間違いを、認めてしまっては今現在の自分が成り立たない。そのために、自分でもどこか疑いながらも、それを信じ込むことで自分を納得させるということは、日常のあらゆる場面で誰でもが経験していることではないだろうか。
    このように、個の欲望と集団の暴力、そこに言葉や論理の暴力性が様々に絡まりあうということは、先鋭化した政治集団に限った話ではないのだ。

    山荘の奥さんという一般的な人を介して、ある集団の内部と外部、過去と現在の問題点を、極めて批評的に浮彫にしている。


    このように、本当に素晴らしい作品だと思ったが、一点だけ、欲を言えば、、、という想いも残る。
    奥さんが永山に見えてくるという構造は、極めて面白い設定だと思ったが、
    その辺りから、ある種の幻想譚のようになってしまい、その寓意性を高めることには成功しているものの、同時に、ある種のリアリティが削られていってしまっている。

    一般的な奥さんが、革命家の論理を理解し、その言葉のレトリックを駆使して議論できるようになるとは到底思えない。さらには、ラストシーンで、坂上を打ち、権力に銃を向けるというところまで至る訳はない。

    勿論、これは暗黒童話のような寓意譚であり、そのことによって更に開かれた解釈を提示しているのだから、この設定や終わり方がプラスに働いている部分も大いにある。

    それでも言わずにはいられないのは、やはり、歴史として過去を対象化しないという問いかけがある作品のため、この物語が、ある種の幻想譚、つまり、作り事の物語に収まってしまってはもったいないと思うのだ。
    あくまで、本当にあり得たかもしれない別の話として終わっていたら、より地続きの歴史を、今現在を、認識できたような気がする。

    そうはいっても、この終わりはこの終わりで、素晴らしかったです。
    素晴らしい作品をありがとうございました。

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    2013/09/25 12:06

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