ハンダラの観てきた!クチコミ一覧

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くじら

くじら

みずぞこ

あさくさ劇亭(東京都)

2015/08/29 (土) ~ 2015/08/30 (日)公演終了

満足度★★★★

くじら 本物を何度か見た
 若い劇団の旗揚げ公演である。今時の若者らしく集約点を持っていないようだ。物語全体を俯瞰する主体が欠落していて、それ故にと言えなくもない所迄細分化され、捉えようのない存在が業(カルマ)に翻弄される有様を描いている。

ネタバレBOX

 これはこれで時代の表出ではあろう。然し乍ら、地球の害虫たる存在と堕したヒトという生き物が、なお食物連鎖の最上位にあって、最悪の捕食生物として地球上のあらゆる命を蝕んでいる、という認識に立っている所も観られるのだから、もっと鋭角的に描いてもよかったのではないか? 
 実際、自分達で制御できない核いう技術を持って以来、ヒトは明らかに他のすべての生命の敵でしかない。何故なら、制御できない核技術とは、DNA破壊技術でしかあり得ないからだ。生命の設計図はDNAの配列で基本が決まる。然るに核の排出する放射性核種は、その膨大なエネルギーで、ありとあらゆるDNAの結合を破壊する。結果、破壊されたDNAは、活動を停止することもあるが、誤った結合をすることもある。誤って結合したDNAが、転写されて新たな遺伝情報を担った時、生命の設計図は狂ったまま再生産されてゆくのである。その結果が癌や白血病など放射性核種を原因とする症状である。無論、プルトニウムやウランなどは化学毒性も半端でなく強いから、その毒性によって悪影響を与えている可能性も否定できないが、こちらの可能性も精査しなければならない。その両方が影響し合っているケースもあり得るから、その点もキチンと追及しなければならないのは当然のことである。何れにせよ、人間だけが、現在、地球上に存在する生き物の中で自然を改悪してきたし、現在もしている訳だから、そのことを鯨という海洋に棲む高等哺乳類であり、地球最大の生き物である存在に託して寓意として語ったらよかったのではないか? そのことのスーパーというレベルの危機ではなくハイパーというレベルの危機として。
 演技自体は旗揚げとしては上手だと感じたし、ピアノの生演奏が入り、いい音色を聞かせて貰った。ポテンシャルは高いと評価したい。ポテンシャルと若さ故の未成熟を勘案して星は4つ。今後への期待値である。
青い地球は誰のもの 「OUR BLUE PLANET」

青い地球は誰のもの 「OUR BLUE PLANET」

DGC/NGO 国連クラシックライブ協会

サントリーホール ブルーローズ(小ホール)(東京都)

2015/08/30 (日) ~ 2015/08/30 (日)公演終了

満足度★★★

ああ勘違い!
 余りにも当たり前のコンセプトを、恰も未だ大衆レベルには浸透していないとでも言わんばかりの官僚的態度と侮蔑に対し、あなた方の方が遅れているのではないか? と問いたい。人間にコントロールできない技術が具体化し、兵器として用いられてからだけでも70年の月日が流れた。然も、未だにこの技術をコントロールする術を現在、地球上に生きている誰一人として知らない。更に悪いことにこの技術は、人間以外の総ての生き物に対して悪影響を及ぼすにも関わらず、そしてこの技術を無害化できるか否かは措くとしても、廃棄するか否か、廃棄する際、考え得る最少のリスクで処理し得るのも、ヒトという極めて愚かな生き物しか、現在、この地球に存在しない。このことも同時に考えなければならないのである。
今回、国連も関わっているので、誰でも知っているべきことながら、日本の大衆はあまりにも愚かなので、再度、言っておく。国連の機関にはWHO(World Health Organization)が存在しているが、核に関する健康被害についてはIAEAとの間で1959年5月に結ばれた「WHA12-40」協定で、WHOは独自の見解を出せない。無論、この不条理は、IAEAのバックは国連安保理であり、WHOは、国連の一機関に過ぎない、という政治的現実が横たわっているが、国連の本来目指した理念には違背する。この根本的矛盾をどう考えるのか? にも答えてもらいたいのである。
 また、アメリカの植民地日本の経済産業省は、発電中にCO2を排出しないとして原発推進を掲げているようだが、嘘をついてもらっては困る。現実問題として、F1人災でも明らかになったように原発は核燃料を冷やし続けなければ大災害を不可避的に引き起こす。これは、原発を停止した後も無論である。実際、F1人災はこのようにして起こったのだ。
CO2排出に関してアウトラインを述べておこう。現在主流の100万キロワット級原発一基は、稼働中、300万キロワットの電気を生み出すだけのエネルギーを生み出している。では、200万キロワット分はどこでどうなっているのか? 日本の場合、殆どの原発が、過疎地の海辺に建てられているので、海水を温めているのである。その規模は、一秒に70~80トンの水の温度を7度上げる。当然。水中に溶け込んでいるCO2は蒸散する。したがって原発も温暖化に寄与するのだ。(この言い方で分からないならコーラを温めたらどうなるか考えてみよ。幼稚園児でも気の利く子なら分かる理屈だ)キチンとしたデータは、推進派ではない科学者たちの設立する第三者機関の持つスパコンで計算してもらうほかはないだろうが、国連なら、この程度のことは既にやっていて当然、30~40年前にデータを出していて当然のことなのである。そのような実績があって偉そうな態度をとるならば、それなりのエリートと認めようが、子供も多く観ているし、参加しているとはいえ、ミュージカルとして、演出家が、各々は、優れた技術的才能を持つアーティストを登場させながら、政治家、学者、委員などを登壇させて気を使う余り、ミュージカルの一要素として組み込めていないことは、観客に対するおちょくりである。おちょくりならおちょくりでよい。芸人としての芸を見せよ! できないならば、ミュージカルなどと銘打つべきではない。アーティスト及び観客に対する侮辱である。
以上のようなことにも気付かないレベルだから、折角、終演後に観客とも対話するチャンスがあったのに話題を開くこともできず、観客からの知恵・批判も吸い上げることができないのだ。こういう頭脳を傲慢故の愚か、という。また、登壇した発言者総てから、今後のパースペクティブに纏わる提言が無かった。そんなことで、運動体が形成できると思っているとしたら、本物の愚か者である。更に、一般に知らしめることに関しても、例えばMSNは、産経とマイクロソフトが組んで、無料でそれと知らない若者の頭を右翼化させている訳だろう。そうでないというなら、そうでない証明をさせるべきである。本来多様であるべきメディアの報道姿勢や報道内容を一元化すること自体ファシズムであり、数の論理をごり押しすることは、理性の崩壊とまでは言わなくとも、無言化であることは意識しておくべきである。本物の、表現する者である以上、この程度の見識は、持っていて当たり前だ。

ネタバレBOX

 演出が悪すぎる。出演している子供たちに失礼だろう。
メラニズム・サラマンダー

メラニズム・サラマンダー

May

シアターシャイン(東京都)

2015/08/28 (金) ~ 2015/08/30 (日)公演終了

満足度★★★★★

今、日本の演劇界に必要なのはこのような作品だ。
 先ず、melanismという単語の意味が即座に分かる人は、多くあるまい。ヒトの場合は、メラニンが異常に沈着して皮膚や髪の毛が黒ずむ症状を呈する症例を指すが、動物の場合は、黒色素過多症を意味する。
 またサラマンダーは、サンショウウオも意味するが、大抵の人は、火の中に住んで焼けないとされた伝説の蜥蜴を思い出すであろう。だが、この単語には他に火・熱に耐えるものの意味もあり、転じて砲火の下をくぐる軍人の意味がある。何れにせよ、この言葉は、1953年7月以来、一応休戦はしているものの、小競り合いの絶えない朝鮮族の現代史を在日として生きる作家によって書かれた。(追記2015.9.1)

ネタバレBOX

 舞台は、同一民族の中で夢や血や歴史やイデオロギーやパースペクティブやなんだかやが、煮詰まって一緒に来たハズの仲間うちにさえ、なんでこんな奴と一緒に居るんだ? 足が痛くて歩きにくいのも、こんなに疲れたのに止まれないのも、みんなこいつのせいじゃないのか? などと自問するように追い詰められてしまった彼ら自身のうちに蠢き、ますます肥大してくる黒い炎を上げる火蜥蜴、サラマンダーを内に抱えて生きる孤児に等しい境遇の少年を中心に進む。現在、少年は、黒色素過多症。即ち限りない歴史の負の部分を背負っている。呆けたような、現在の少年の位置に投げ込まれたのは、過去の彼自身である。幸いなことに彼の炎は、その頃、紅蓮であった。物語は、紅の炎と黒の炎との争闘とも取れるストリームと少年を囲む大人たちの、この状況下での日々の変遷を同時並行的に進めてゆく。この作品構造と訴える内容が、被差別者として差別を日常的に受け、時に逆差別と言われ兼ねない反応を示す他、有効な対応を持たない差別される側の暴発に、差別する側に居るハズの敏感な人々が傷つく、ということを繰り返さざるを得ないような苦く苦しく重い、が充実しているという幻想にすがりたい鑢のような人生を、狂わず、自殺もせず、考えながら生き抜いてきた。その、実感を劇化、シナリオ化して見せた、文化を信じる態度の作品である。
By the way,戦争をする為の法は、何も安保法制だけではない! ということをどれだけの日本人が意識できているのか? 甚だ心もとない。実際、共謀罪、秘密保護法を始めとして教育基本法改悪、国旗国歌掲揚法、住民基本台帳法改悪、通信傍受法、周辺事態法、情報公開法の死文化等々、ちょっと思い浮かべただけでもここ十数年の間に国民を戦争へ追いやるために監視・公乃至国畜化するための法が次々と成立してきた。
 今作は、その涯に来る世界と世界観を表したような作品である。作家は、在日のマイノリティー、国籍は北である。被差別・差別を苦しみながら生き抜いてきた人間の孤独・孤立と論理を屹立させる他なかった生を結実して深く、尖鋭である。
 更に今作は、今までのMay作品と比較しても異色である。今までこの劇団の作品には日本の歌謡曲が多用されてきた。その用い方が頗る上手で、こんな捉え方、聞き方があったのか! とハッとさせられる新鮮でヴィヴィッドな聞き方・捉え方がなされてきたのだが、今作では、暴動に付随する様々な音、発砲音だの砲撃音だの、群衆のざわめきだのが、ずっと流れてくるだけである。 
 荒れ果て、戦いのみが続き、人々は難民化してあてどもなく彷徨う中、他人を殺したくもなければ殺されたくもない、と逃げ延びた7人が、落ち延びた廃屋が舞台である。だが、ここには自らをアンドロイドだと主張する女性(型アンドロイド?)が居た。彼女は、極めて鋭い論理で武装しており、グループ内で唯一元戦闘員であった男と対立する。そんな中で仲間が死ぬ。死の真相はどこにあるのか? を巡って疑心暗鬼が募り、ひと時の安寧を齎してくれたこの場所から出てゆこうとする者も現れる。無論、外に出れば命の保証はない。自らが生き残る為には、他人を殺さなければならないかも知れない。そんな状況を背負い続けながら、ヒトはどのように狂わずにいられるだろうか? 狂わなかった者は、どのような生き方ができるだろうか? 血を分けた者さえ、信じられない状況で、人は果たして人足り得るのか? という所迄問い詰めた作品として読むことは、今作に限ってはたやすい。それほど、深く、観た己を自問に追い込む作品である。作・演出の金 哲義の才能を称揚すると共に、在日日本人である木場女史の、聡明と豊かで暖かで信じるものを的確に選び出す優れた能力に対し、迷いの多い中、本当に労苦をねぎらいたいと思う。また、演技レベルでは、拳に傷を負いながら、そんなことを微塵も感じさせず、いい演技を貫いたアンドロイド役も褒めたい。無論、この劇団は他の役者の生き方のレベルも高い。

保健室探偵カネコ【終演しました!ありがとうございました!観てきたランキング1位獲得!】

保健室探偵カネコ【終演しました!ありがとうございました!観てきたランキング1位獲得!】

もぴプロジェクト

cafe&bar 木星劇場(東京都)

2015/08/26 (水) ~ 2015/09/06 (日)公演終了

満足度★★

コメディーで必要なのは頭脳即ち考える力
 好き放題をやろう、というプログラムの割に行儀が良過ぎる。表現する者は、基本的にハミダシている者だから、目つきが悪かったり、反社会的であったりが当たり前。若い内から、人生の総てを秤にかけ終わったようなイメージで片付けようとするのは、チト違うだろう。行儀が良くても、この植民地、日本で認められる立場というものがある。以下に例を挙げておく。
そのように良い子を装うだけの自分に、ホントに嫌気がさしているなら、棘で武装すべきである。三島 由紀夫の近代能楽集「弱法師」に登場する俊徳とか「邯鄲」に登場する次郎のような高等不良を越える位の勢いが欲しいのだ。残念ながら、まだまだである。

molto agitato

molto agitato

劇団虚幻癖

明石スタジオ(東京都)

2015/08/27 (木) ~ 2015/08/30 (日)公演終了

満足度★★★

Aを拝見
 PAPADOGは、4人組ユニットだが、今回は虚言癖と組んで公演ということのようだ。参加メンバーは同一だが、A/Bと上演内容が異なるので観劇の際は注意が必要だ。自分はA公演を拝見。短編のオムニバス形式で上演される。作家は3人。無論、作家其々の個性があるので一概にはくくれないものの、傾向としては軽い喜劇というか、やや脱力系喜劇という印象を受けた。完全に表層のTVやクイズ番組のノリをなぞったような作もあるのだが、A/Bともに3人の作家による4作品上演である。肩が凝らず、くすりと笑える作品群が基本と考えて良かろう。

美しい日々

美しい日々

TEAM 6g

萬劇場(東京都)

2015/08/26 (水) ~ 2015/08/30 (日)公演終了

満足度★★★★★

花五重丸
 三拍子揃った素晴らしい劇団を発見した。笑いも随所に織り込みながら、オープニングからラスト迄、一貫して程よい運びで否応なく観客を虜にしてくれる。

ネタバレBOX

信の構造
  基本的に舞台は終始病院の相部屋で展開する。相部屋に同居しているのは、自称ミュージシャン、ピザ屋のバイトで生計を立てている岩瀬、岩瀬といつも漫才のような口論を戦わせている元甲子園のエースで現在は2軍の秋山。院内で落語をやり、おばあちゃん方に特に人気の守、野球部顧問だが、部員達が万引きを見つかりそうになり、無実の生徒に罪をなすりつけたことを目撃してしまった事実を公表できず、無実の生徒が校舎から飛び降り意識不明の重体となった事を悔い、自らも飛び降りて死にきれなかった直人、そして少し遅れて入院してくるのが、交通事故で怪我を負ったレストラン経営の桃井。彼は事故のショックで一時的な記憶喪失に陥っているが、妻とは離婚前提の別居中で、バイトの春香とできている。
 ところで、この病院には10年前に医療過誤による事件を隠蔽したとの噂があった。然し、証拠は挙がっていなかった。そんな噂の真偽を確かめようと守の落語のファンで弁護士の咲が入り込んでくる。事実は、如何様であるのか? という推理も無論可能だが、今作・この劇団の凄さは、上っ面ではなく、誰しもが抱える葛藤を描いている点である。その葛藤とは、卑怯。単純極まる世界を複雑怪奇な怪物に変えてしまう嘘という罠を拒むことのできない懶惰。一旦、嘘をついたが最後、それを誤魔化す為には嘘をつき続けなければならない、という単純明快な事実を背景にした悩み、と言えば通りがよいか。
 この誰しもが抱える卑怯者の壁を超える為には、自らの未来を敢えて棒に振り、取り敢えず成立している利害という名の人間関係を壊し、たった独り戦わねばならぬ、と皆考える。それで、問題解決の唯一の条件、勇気を挫かれてしまうのだ。この現実をしっかり見据えて描いているに留まらず、その解決法として信を舞台化していることが凄いのだ。この劇作家の深い人間理解と観察力、そして絶望に抗うパースペクティブに、心からなる賞賛を送りたい。また、巧みに筋を配置し構成している演出も、自然な仕上がりに達している。役者の力量も高い。
バートルビーズ

バートルビーズ

燐光群

ザ・スズナリ(東京都)

2015/08/24 (月) ~ 2015/09/09 (水)公演終了

満足度★★★★★

バートルビー
 「バートルビー」とは、「白鯨」で有名なメルヴィルによって書かれた小説で1853年に出版された。{(更なる追記後送)原作は、読んで置いた方が良い。}

ネタバレBOX

NY、ウォール街に法律事務所を構える所長に、代書人として雇用された人物の名である。物腰は柔らかで品も良い。シャツの襟も清潔だ。然し、生気が感じられない人物であった。勤め始めた頃、彼は、能率よく筆耕をこなしていた。ところが、ある時所長に点検の為の口述を頼まれると「できれば私、そうしないほうがいいのですが」(因み
に原文ではI would prefer not to.)と言って頑として聞き入れない。やがて仕事も、やんわり断りながら、事務所には居座り続ける。終に解雇を告げるが、それでも事務所に居座り続けた。根負けした所長は、彼を置いて事務所を移転する。然し、彼はそれでも其処から動かなかった。家主から苦情が来た為、所長は再度旧事務所を訪れ、新たな仕事を彼に紹介し、個人的に家に引き取ることも提案するが断られる。終に彼は、官権と敵対することになり、監獄にぶち込まれてしまう。原作のラスト、彼は刑務所の庭石に頭を載せたまま、息絶えている。このことで、彼が、我々生きる事に意味を見出そうとする者に突きつけていた問いは、永久の問いと化したのだ。原作の深さは、当にこの点に存する。
 ところで、バートルビーは、かつて配達不能郵便を扱う部署で働いていた。Dead letters! does it not sound like dead men? このような問いの前で、存在することはある場所を必要とするが、他の生き物を殺して喰らうことでしか生き延びることのできない人間存在は、果たして生きてゆく正当性を持ち得るのか? という問いにも繋がってゆこう。
ミソロジカル:カナタ~時の向こうに~

ミソロジカル:カナタ~時の向こうに~

れんアカデミー

座・高円寺2(東京都)

2015/08/23 (日) ~ 2015/08/24 (月)公演終了

満足度★★★★

為政者とトップが馬鹿な「国」
 まあ、この植民地で平気で暮らしている奴に、賢く・健全な精神の持ち主など居る訳もないが、中でも、各組織のトップと、為政者の愚かさは特筆に値しよう。

ネタバレBOX

 カーチス・ルメイの命令による無差別爆撃で一体どれほどの女・子供、年寄りが生きたまま、焼かれたか? 1945年3月10日には、僅か数時間の間に10万人以上が生身を炭にされ、或いはずるむけの遺体にされた。被災地の殆どが関東大震災で最も大きな被害を受けた地域に重なる。即ち庶民の生きていた場所だ。未だに隅田川に掛かる古い橋には、焼け焦げた人々の体から沁み出た油が橋の欄干に沁み込んだ跡を認める事のできる箇所が残る。  
其の時、カーチスは、笑いながらこう言っていたと伝えられている。「日本の家屋は、竹と紙でできている、よく燃えるぞ」と。情けないのは、こんなカーチス・ルメイに自民党政権下の日本は勲一等の勲章を与えているのだ。勲章を与えた年は1964年、首相は佐藤栄作、即ち安倍晋三の叔父である。防衛庁長官は小泉 純也(純一郎の父)であった。イラク出兵にもろ手を挙げて賛成し、自衛隊もサマワに派遣した、あの単純で考えの無い純一郎である。(その後の原発反対も方向性は正しいものの、大して深いものではあるまい。)  
こういう愚かなことを平気でやってきた日本が、70年以上前に、矢張り如何に愚かなことをやり続けていたのかは、焼夷弾の降り注ぐ中、バケツリレーでの消化を喧伝したり、防空頭巾程度で身を守れると愚にもつかないことを浸透させていたことでも明らかであろう。だが、実際、今作でも描かれているように、女性はモンペに防空頭巾といういで立ちが普通であった。
今作は子供達の観賞にも耐えるよう、殊更な知識は無くとも、時空の避け目とそこに広がるクレイドルという亜空間(即ち亜時間)に棲む不思議な子供たちによって、生まれる時、所をシャッフルされた実在の人間が、時空を越えて接触することで、何か大切なものを学んだ、という感覚が残れば良いのである。細かい歴史的事実や、個々人の性格形成に於いて、その漠然としてはいるが、ある雰囲気を持ったものが、彼らの未来を豊かにしてくれることを祈るのみ。
≦ Beat!! ≧

≦ Beat!! ≧

[DISH]プロデュース

ウエストエンドスタジオ(東京都)

2015/08/20 (木) ~ 2015/08/23 (日)公演終了

満足度★★★★

縁起もの?
 ある意味、脇能のような作品である。三島 由紀夫ですら近代劇化しえずとした寺社の縁起物として観ることも可能な作品だからである。三島は近代能楽集を書くにあたって数百ある能の集大成といえる謡曲全集を渉猟している。うち当初近代化に適すると選んだのは僅か五編。のち源氏供養を加えれば四編、通常通り加えなければ三編の都合八編のみである。かように現代化することに難しさがあったり、敢えて現代化する意味を認めることができなかったり、或いは、謡や舞が主で、翻案の必要自体が無かったりと、割愛の理由は、様々であるものの、合理的な理由からである。
 だが、今作が、能を意識して作られていなければ、以上述べたことは、取り敢えず忘れて頂こう。興味のある向きは自分で調べるがよろしい。その程度の努力は、当然である。(追記後送)

楽屋

楽屋

Quiet.Quiet

小劇場 楽園(東京都)

2015/08/21 (金) ~ 2015/08/23 (日)公演終了

満足度★★★★

今後も様々なチャレンジをしてほしい
 この作品は、全国で上演される内外の劇作品中最も上演回数の多い作品だ。それだけに各上演劇団、演出家は、様々な工夫を凝らし、冒険を試みてきた。今回、今作を上演したのは、京都に本拠地を置くQuiet.Quiet。第6回目で初めて東京に進出した。演出家は、最終的には、言語での理解を必要としない演劇を目指す、という。6回目の公演で言葉の綾が見事なチェーホフ作品をふんだんに鏤めた今作の上演は、チャレンジの意味合いが強いだろう。様々な実験・冒険が試みられている。

ネタバレBOX


 オープニングで作品のコンセプトを表すテロップが、90度異なる客席に座った観客の正面に見えるように映写される中、客席側舞台交点の太い柱には、プロンプター役者2人が、各々正面に設えられた鏡に向かって腰掛けている。二―ナ役を演じる女優の帽子もハット型ではなくキャップ型であり、科白もラップ調で、一瞬詰まると間髪を入れずにプロンプターがフォローする。プロンプターの話として通常演出家は演出するのだが、実践しているのである。これは実に面白い演出であった。
 残念だったのは、京都から出張って来て、予算の関係もあるのだろうが、二―ナ役の女優が、空き瓶で二―ナのプロンプターを殴るシーンが、音だけで表現されたことと矢張り二―ナ役の独白部分(独りアパートのトイレに籠って云々の箇所)で、演じた女優がこの科白の鬼気迫る迫力を出し得なかったことか。
 その辺り、プロンプターAを演じた秋葉舞 滝子さんの切られの仙太の啖呵、ふと見せるプロンプター故の哀しさや侘しさの演技は、流石である。


 絵空箱ダンスプログラム2015-円-

絵空箱ダンスプログラム2015-円-

UNFIGURE×絵空箱 共催企画

パフォーミングギャラリー&カフェ『絵空箱』(東京都)

2015/08/21 (金) ~ 2015/08/23 (日)公演終了

満足度★★★★

暗黒舞踏の残したものと
  1993年、土方 巽記念アスベスト館で舞踏を開始した点滅。96年には赤色彗星館を結成して作・演出・出演をこなした後10年で封印。以降ソロ活動中心の彼は、人の永遠の問い“我々はどこからきたのか、我々は何者か、我々はどこへゆくのか”をテーマに踊る。暗黒舞踏派の流れを汲んだ踊り手らしく、その舞踏は死を内包し身体の内側にエネルギーを充溢させる手法で、能の演者にも通じる方法だろう。当然のことながら、存在と無に関る哲学をも内包する。体を白塗りにし、頭髪を落としているのも死に纏わる発想からであろう。生は死を考えることなしに顕現しない。
  この点滅の舞踏が、他の総ての演者の重しとなってプログラムが展開するのは当然である。それ故、彼の作品は、5つあるプログラムの3番目で演じられているのだ。扇の要である。他のプログラムは、様々な生の断章を描いているが総て生である。従って移ろう。その移ろいの儚さの中で其々が如何様であるかが描かれているが、未だ点滅の持つ普遍性に近い所迄は及んでいないと観た。プログラム全体としては、点滅を要としたコンポーネントを為しているので纏まりはついた。また、グループ演舞の際、一人だけ、身体を殺す使い方のできる女性を傀儡、乃至死者の蘇りとして踊らせているが、彼女も暗黒舞踏の素養がありそうだ。
  蓋し、身体は、余程、哲学的に突き詰めて用いないと観客にインパクトを与えるような表現に迄高めることは難しい。演者には、そのように知的な訓練も望みたい。

パ・ド・ドゥ

パ・ド・ドゥ

劇団俳協

TACCS1179(東京都)

2015/08/20 (木) ~ 2015/08/23 (日)公演終了

満足度★★★★

パ・ド・ドゥを拝見
Pas de deuxはダンス用語で、通常男女の二人で踊られる対舞を指す。演劇を観る程の人ならば、誰でも心得ている基礎知識ではあるが、一応念の為。蛇足ではあるが、フランス語である。男女の一対であるから、人間の基本でもある。今作ではこの点を実に上手に描いている。俳協の作品は、何れの作品もしっかりしたシナリオに、矢張りキチンとセオリーを踏んだ演出、基礎を踏まえた演者たちの演技で安心して観ていられるレベルを維持している。当たり前のようであるが、これは、大変なことなのである。指導陣の力量が高く、指導指針がハッキリしており、若く有能な新人がついてくるだけの魅力を持っていなければ、とてもこれだけの質は保てない。実績は無論のことである。今回は準劇団員によるClimbing up公演だが、既にかなり基礎がしっかりしていることが分かる内容であった。間やプッシュすべき所、殺すべき所を弁え、人生の機微を味わい、人を観察し、表情と感情の関連や心拍数・呼吸数との相関関係を捉えて演技にどん欲に活かすことを、早い内にキチンとやっておくよう心がけていれば、更に上を目指すことができよう。何事も勉強、謙虚な気持ち・傷つきやすい感性を忘れず、修練して欲しい。明日が楽なので、内容は明かさないが、シナリオは男女の本質に踏み込んで粋である。楽しめる。

浅草紅團・改

浅草紅團・改

劇団ドガドガプラス

浅草東洋館(浅草フランス座演芸場)(東京都)

2015/08/21 (金) ~ 2015/08/31 (月)公演終了

満足度★★★★

エンコ
今作は、関東大震災後の浅草模様を描いた、川端 康成原作の新聞小説「浅草紅團」をシナリオ化した作品で、以前シアターXで上演されたことがある。今回は、小屋が東洋館に移ったということもあり、空間的に凝縮され、内容的にも緩急の所を得てずっと締まった舞台になった。(追記2015.9.8)

ネタバレBOX

 変更した点は、シナリオの構成を若干入れ替えたり、在日の朝鮮族を登場させたりと震災の混乱に乗じて多くの同胞を殺害された側を取り込むことにより、浅草という土地の明暗両面を史的事実に則り、自然に、より深く描くことに成功している。無論、治安維持法下の弾圧、大正リベラリズムからファシズムへ移行してゆく日本の不気味な動きもさりげなく描かれ、F1人災事故後の現代日本とも重なる。
 舞台は、当時の浅草が生き馬の目を抜くと言われたスピード感、疾走感が出、千二百年の伝統を持つ宗教都市、浅草(エンコ)の持つ磁力を、ゴウカイヤの長が元花魁であったこと、身上を潰して迄通い詰めてくれた善さんと心中を図ったことなど、宗教都市には必ずついて回る岡場所との縁起を含めてエンコらしい下世話でキッチュで切ないまでに都会的な猥雑さが表現されていることで、単に、今作が演目や演技ではなくエンコそのものの表象として機能するようになった。これには、新座長の丸山 正吾氏の自らを消すことのできる力が大きいだろう。無論、彼は主役も張れるし、華のある良い役者である。実際、これまではドガドガで主役を張ってきた。だが、役者の力量は目立つこと、華のあることだけではない。その力を殺して見せることができるとき、その両用の形を意識的にコントロールできることが、本当の役者の凄さなのである。彼には、このような才能が備わっている。ゴウカイヤのボスを演じた石井 ひとみの色気のある演技は、流石名花と呼ばれるだけの内容だ。
いくつかのエピソードも上手に用いられている。鬼健の破産を救う逸話などで上海から来ている張の心を掴むなど、磁場が放つ磁力が人情に作用する姿を描くことでエンコを浮き上がらせたのである。
在日朝鮮人の話を加えたり、初演とはシーンを入れ替えたりすることによってシナリオ自体が散文的なものから詩的・演劇的なものに変化したことも大きい。こういった変更によって変えなければならない細部は多い。その細部の検討を通して作品の集約力が飛躍的に高まった。一、二例を挙げるならば、暴走した軍部をコントロールできなかった行政の結果として猛威を奮った治安維持法。これを恐れ、雪崩を打って批評精神を喪い、プロパガンダの具と化したメディア。メディアリテラシーを持たず、権威主義の呪縛を逃れる努力もせず唯々諾々と軍部の間違った判断に追随することを選んだ愚衆、というより偽善的プラグマティスト達が狂った魂の奥底に隠している構造的欺瞞と、それらを切り崩すことなしに革命を夢想したイデアリストたるコミュニスト、アナーキストなどの内実であるイデオロギー的内紛。その結果としての裏切り。それら総ての人間的営みの受け皿としての観音信仰は、千二百年の伝統を持ち、宗教エリアの常として苦界を脇に抱える現実を持つ。このどん詰まりで社会のケツを拭くのは、売られた娘たちであり、彼女たちの夢とオトシマエの結末は心中と相場が決まっている。以上総てを天秤に載せて、生まれ変わり、蠢き、蠕動するエンコを表出した作品である。
きみがみむねに

きみがみむねに

風雷紡

d-倉庫(東京都)

2015/08/13 (木) ~ 2015/08/18 (火)公演終了

満足度★★★★★

気に入った
 
 日本人が未だ廉恥という感情を持ち恥の意味する所を知っていた頃、歴史の流れに翻弄されつつ、当に十字架を背負って生きた清朝皇族、粛親王善耆の娘、男装の麗人とも東洋のマタハリとも呼ばれた貴人、川島 芳子。その哀れと知られざる真実に向き合おうとした作家、加賀美(表現する者)の業、それら人の魂を政治的に利用する下司共をリアルに描いて見応えのある舞台になっている。
 その模様は、義父であった川島 浪速に養子として迎えられたことになっているものの、その実、彼の玩具として与えられた人身御供であり、劇中、彼女が最も明かしたくなかった自慢の黒髪を切った原因として、浪速からレイプされたことが示唆されていることからも分かる。彼女はまだ15歳だった。養女として日本に来たのが8歳であるから、7年後のことである。日本人とは何という下司揃いであることか!
 ところで、芳子が蒙古族のカンンジュルジャップと一旦結婚していることは、今作では描かれなかったが、3年後に離婚した遠因或いは原因は、浪速にあるかもしれない。そうみるのは勘ぐりすぎだろうか? だが下司ならば、正式に結婚した女性だとて、分け隔てなどすまい。倫理的一線を越えるか超えないかは、本人のプライドに掛かっているからである。プライドの無い奴はどんな汚いことでも平気でする。
 芳子の写真を見ると、美人というより、可愛らしい女性という印象を受ける。既に亡くなったが、優れたノンフィクション作家であった自分の友人の印象にも重なる。恐らくデリケートで心優しい傷つき易い女性だったのではなかろうか?
 自分の印象が正鵠を射ているとは言わないが、自分自身で川島 芳子即ち愛新覚羅顯㺭のことは、調べてみたい。そう思わせるだけの内容であった。

MonkeyMagic

MonkeyMagic

TEAM空想笑年

中目黒キンケロ・シアター(東京都)

2015/08/20 (木) ~ 2015/08/23 (日)公演終了

満足度★★★★

初日を観劇


 西遊記を基本に釈迦は悟空に四つの物語を纏め上げることを命ずる。無論、西遊記の基本的約束事である三蔵法師に天竺迄お供し、大事な経典を持ち帰るミッションはそのままであるから、金角、銀角や牛魔王、その妻・羅刹女、息子・紅孩児は登場するし、彼らとのバトルも楽しめる。だが、釈迦に他にも三つの物語を組み入れて全部を纏めるよう命令されているので、悟空は四つの話にかかわり続けることになる。

ネタバレBOX

 難点は、悟空自身が、四つの物語統合の企画・制作に携わるシーンが一つも出てこない点にあるが、細かいことを責めるのは野暮というものだろう。汗びっしょりになりながらこの暑さの中、殆ど出ずっぱりで脱水症状を起こすのではないかとこちらが心配するほど、動き回っているのだから。それに高い身体能力の役者陣を揃え、動きの良さで飽きさせず、ドライなタッチで話を進めている点でも楽しめたのだから。兎に角、素直にエンジョイできる作品である。
第三毒奏

第三毒奏

劇団開花雑誌

シアターグリーン BASE THEATER(東京都)

2015/08/14 (金) ~ 2015/08/16 (日)公演終了

満足度★★★★★

大人なんかを信じちゃいけニャイ! ニャロメ! にゃ~~~~~~~tti

多大の戦費と孤児の大量発生に伴い、国家は、戦後スラムに孤児たちを強制隔離した。

ネタバレBOX

その後施設を作って孤児達を収容、非スラム居住者の為の食糧生産に従事させていた。無論、孤児達に教育の機会は与えられていない。それどころか、一切の人権を奪われ奴隷としてこき使われた上、20歳になれば、男女の別なく処分される運命が待っていた。大人達が始めた戦争によって孤児にされた最も弱い存在は、浮き上がる術も奪われていたわけだ。そんな状態でも施設を管理する大人達は、子供達に夢を見るよう勧める。無論、子供達もそんなミエミエの欺瞞にのる筈も無い。施設からの脱出を試みる者も多く、見付かっては、ミンチにされているようだった。何れにせよ、正確なことは分からない迄も殺されることだけは確実であった。だって、彼らは社会のお荷物でしかないのだから。だが、スラム出身者で施設に居る者の誰ひとりとして殺人だけは犯していなかった。
 然し、法律が変わった。殺人を犯した者も施設に入所できるようになったのだった。そして、この施設のリーダーであるタケが未だスラムで暮らしていた頃の兄貴分、桐也が入所して来たのだ。桐也は、音楽一家の長男で高等教育を受け、音楽や語学の素養も大変なものだったのだが、実家の父は狂死、母は有名な音楽家であった。然し母は、厳格で融通性が無く、天才ミュージッシャンである妹が、兄を慕う感性にも耐えられずに家を飛び出し、スラムに潜り込んで暮らしていたのだった。タケは、桐也から勉強を教えて貰い、舎弟となった訳だが、法改正後、施設に入所してきたのは「最後にしよう」と留守のハズの金持ちの家に盗みを計画した2人が、人が居るかも知れないと躊躇した時、クラシック音楽が掛かっていた為に狂気の発作に陥ったようになった桐也が人を2人殺した。而も、彼が殺人を犯した家は、方月家。娘の晴子と凛は、体の弱い母の薬を買いに行っていて留守だったもののその家に残っていた父母を惨殺したのである。姉妹が帰って見ると、父母は惨殺され、彼女らは孤児となってスラムに流れた。姉の晴子は、現在タケの彼女である。もう直ぐ20歳になる彼らは、仲間と共に一か八か、脱走を計画していた。処分迄1カ月しかない。
 晴子達は、父母の敵を見付け復讐する迄は死んでも死にきれない。そんな想いを抱えている。其処へ降って湧いたような法改正と共に桐也が舞い戻った訳だ。同時に殺人犯を施設で預かりケアし、自分達の出世のネタにしようとの目論見から、心理学者、施設長、施設長代理、刑事らがある計画を立てる。1年に一度、20歳になった孤児達を処分する権利を持つ一等監視管、東郷を除く大人達である。計画の内容は東郷を除き、現在休みを取っている施設長を含めこの施設に係る総ての大人が立てた計画であった。
 計画を成功させる為に、共謀した大人達は、タケを逮捕する。逮捕すれば刑が確定する迄は、20歳になっても殺処分されることはない。而も、世間の耳目をそばだたせる訳だから、現在行われている20歳で孤児を殺処分する制度を変えるきっかけにできる、と踏んだのである。彼らは当然、善人面ができ、その後の彼らの人生は更に輝かしいものになるとの計算からである。刑事は、タケは殺人に係っていなかったものの、桐也の共犯であることが分かっていることを証し、押し入ったのが現在のタケの彼女の父母の家であったことを知らせる。20歳で殺処分になることを廃止できるかも知れない、とタケは、自らが犠牲になることを覚悟する。
 一方、施設に残っていた晴子は、タケの舎弟格で15歳のデンに愛を打ち明けられる。タケも居ない中、近い内に間違いなく処分される心細い状況で過ごすうち、デンの侠気に少しずつ心を開いて行く。いくら気が強く男勝りに見えようと彼女も独りで重荷を背負うのはきつかったのである。デンは命を的に、彼女に結婚を迫った。彼女は受け入れる。
 だが、タケは取り敢えず生きたまま一旦、皆の下に戻ってきた。
 と恋の行方でも一波乱を含ませながら、物語は大団円に突き進む。関係する大人達は、20歳での孤児処分を良く無い、と声を挙げる為に、タケを逮捕して、犠牲になることの意味をタケに悟らせた上で、実際に人殺しをしていない彼を桐也の共犯としてクローズアップすると同時に、東郷に20歳になった孤児達を処分させることを通じて、この制度を改革することを目論んでいたのである。無論、殺処分当事者の東郷だけはこの計画を知らされていなかった。
 観客の中にも、殺処分反対とノタマウ彼らを観て善意の大人達と見る向きもあろうが、自分は、そのような解釈は拒む。これも無論、彼らの被った仮面に過ぎない。そして、この仮面を剥いで見れば分かることだが、その下には、また仮面があるだけである。更にもう一度剥いでも同じことだ。何と言っても既に彼らは仮面しか持たないのである。其処にあるのは利害だけで、真実などかけらほども無い。そのように取った方が、この作品の本質を、即ち、若者が大人達に向けた刃を受け取ることになろう。
 蛇足だが、本物のキャベツを何故使っているのか観劇中疑問に思っていたが、ラストに近いシーンで納得した。東郷に切り落とされた生首なのである。だから、作中でも踏み潰されたりする訳だ。東郷という名も無論、A級戦犯の東郷に係るであろう。尤も、東條と掛けて居るかも知れぬし、朝鮮から渡ってきた陶工の末裔の住むエリア出身であるから、その複雑な人生の一端を投影されているかも知れぬが。色々、考えることのできる作品であった。
気がつけば五・七・五

気がつけば五・七・五

試験管ベビー

東京芸術劇場 シアターウエスト(東京都)

2015/08/15 (土) ~ 2015/08/15 (土)公演終了

満足度★★★★★

DARC
DARCという名を聞いたことはあるだろうか? Drug Addiction Rehabilita-
tion Centerの略である。

ネタバレBOX

要は薬中リハビリセンターである。世間はそう見るだろう。この言い方には差別が含まれる。そのことを言う側は、それだけの迷惑を掛けているのだから当然とするかも知れない。然し乍ら、そういう認識は果たして正しいか? 
実際、この施設でリハビリに励む人々を描いた今作では、収容される本人が、依存症とは病である、という認識を持っていない。即ち己の病に対し、差別する側と同様、無知なのである。その為、必要なケアではなく、何とかしなければ、自分の我慢が足りないからだ、堪え性が無いからだ、と無益な努力をした結果、その努力の苦しさや社会的疎外感など様々な要因からなる誘因に惹かれて再犯という形になってしまう。非情にデリケートで難しい問題であり、中毒者本人だけではどうにもならないのが現実なのである。
そこでDARCではグループセラピーを行っている。皆で病に係ることによって、自分の悩みが自分だけのものではないことに、収容者達は気付き、自分自身の位置をそれまでより客観化できるのである。無論、この変化は本質的である。何故なら、この事実に気付くことによって初めて、各収容者は自分が、皆の中でちゃんと生きているという認識を持つからであり、ヒトが社会的存在であるということの根本を知るからである。実存哲学的に言えば、キルケゴールが規定したように不安・絶望・孤独により自己認識が失われた状態からサルトルの言う対他存在への移行というコンセプトで説明できそうである。天才哲学者達が必死に考えて漸く発見したことである。そんなに簡単に分かることではない。だから、施設に入っても個人差はあるが、これが分かる迄に皆長い時間を要する。その間にまた薬物に手を出してしまえば零に戻るどころかマイナスである。だから、施設では「今日だけは、我慢しようね」と日々を1日ずつ乗り越えてゆくことを実践している。これが生涯続くと考えて貰えば、如何に困難な事か分かって頂けよう。その困難に真正面から取り組み、極めて深い認識と理解、そして丁寧で良く練られたシナリオ、演出、演技によって舞台化した実に良心的な作品である。
 
グローバル・ベイビー・ファクトリー2

グローバル・ベイビー・ファクトリー2

劇団印象-indian elephant-

調布市せんがわ劇場(東京都)

2015/08/08 (土) ~ 2015/08/13 (木)公演終了

満足度★★★★

アイロニカルに観ると面白い
 24歳で時価50億の株を相続した御曹司が、ミトコンドリアアダムならぬY染色体アダムを目指して奮闘する物語。

ネタバレBOX

全生命危機を招いたヒトに生まれて、尚且つ更に子を産もうなどと考える子供好きを自分は信じないが、そういうお目出度い未来信じることのできる輩のハナシ。
 自分は、そんなものを信じることが出来ないので、子供を作らずにきた。大の子供好きである。だが、際限もなく増え続ける食物連鎖最上位の生き物の末路が如何様なものであるかは今更言う迄もない。ダウンサイジングをしてこの問題を遥かな未来へ追いやるか、或いは、我らヒトの開発した核と共に、地球上に存在するありとあらゆる生命と共に滅びるか、或いは核核種の悪影響を無害化するなり、少なくともコントロールし得る技術を開発することによって、生存の可能性を広げるかしない限り、いつ何時我らの開発したものによって我らのみならず、地急上のありとあらゆる存在が駄目になるかの瀬戸際なのだ。このことの喫緊性に比べれば、大した問題とは思えない。とはいえ、面白く拝見はした。シリアスものとしてよりはアイロニカルな喜劇として。
イツモノコト

イツモノコト

演人の夜

笹塚ファクトリー(東京都)

2015/08/12 (水) ~ 2015/08/16 (日)公演終了

満足度★★

このタイトルに象徴されている。
そう感じさせる内容である。

ネタバレBOX

実際に起こった事件をベースに書かれたシナリオだというが、だとしたら事件の読み込みが浅いのではないか? 自分も若い頃、地域の住民運動に関ったり不良少年、少女の取材をしたりした上で記事を書いたり、本を作ったりしていた関係で殺人を犯した少年についてもマスコミ等には決して載らない事情を知っても居る。そういうアンテナにコミットして来ないのだ。また、自分自身、問題児でもあった。だから総てのケースを自分の問題として捉えうる、というようなお目出度い学者論理を捏ねるつもりも毛頭ない。が、矢張りコミットしてこないという印象が強い。真面目に取り組もうという“つもり”は信じたいだけに残念である。
 今作で頗る重要な意味を持つ主人公東雲役の黒い絵についても認識が浅すぎる。真っ黒な絵は、アド・ラインハルトの中心的なテーマの一つであり、世界の抽象絵画画壇に賛否両論の一大旋風を巻き起こしてもいる。
 まあ、知らないことは仕方が無い。然し、不良と呼ばれる程の子の感受性は、凡俗の想像の及ぶ所ではない。遥かに尖鋭的であり、痛みに満ちた鋭さを持つものである。その辺りの事情に疎いことが全編を通して伝わってくる。
またこの作家は、犯罪者或いは予備軍として、予めレッテル貼りをした上で登場人物達を創造しているように思う。親を殺すという行為は、無論、犯罪としては重大犯である。然し、殺されなければならないような親が存在することもまた事実なのである。自分が、実際見て来た問題では、子に問題が在る場合、その親にも同様の問題があり、更に祖父母にも問題があった。その確率は非情に高い。親殺しが実現してしまう為には、何らかのきっかけが必要である。今作で描かれたきっかけは、本当に近いのではないか? とは思うが、ここが光ったくらいだ。大抵は、親殺しという形では顕現しない。にも拘わらず、問題の根は同じなのである。その辺りの深い思索が感じられないし、共感も感じられない。問題に関らなければという空虚な“正義”のようなものが中心を為しているように思われるのだ。そんな表面だけなぞっても救わなければならない人々は決して近寄って来ないだろう。嘘がミエミエだからだ。もう少し、想像力の何たるかを学び直して欲しい。

糸、あと、音。

糸、あと、音。

時々、かたつむり

小劇場 楽園(東京都)

2015/08/13 (木) ~ 2015/08/16 (日)公演終了

満足度★★

突っ込み所満載
 時々、かたつむり。ということは普段ナメクジ? なのだろうか? ということはナメクジも一種のやどかり、ということになりそうだ。まあ、軟体動物であることは共通していそうだが、通常のヤドカリは甲殻類? だが、借りる家の元の住人は軟体動物。面白い関係だにゃ。

ネタバレBOX


 閑話休題。ところで作家のスタンスは、余り論理的な地平ではなくイマージュをベースにしているようだ。それで隋所に非論理的な箇所や、全体としてのリアリティーの欠如が感じられるのだ。まあ、作家のタイプだから、仕方ないとして、演劇としては、矢張り中途半端な作品にしかならないと思われる。何故なら、演劇がドラマチックである為には、鬩ぎ合いがなければならないのだが、イマージュは、曖昧化を本質とするのでドラマチックには決してならないからである。
 一応、それでも資本主義の喧伝するレベルでの夢心地や何やかやを語ってはいるが、本質的なものではない。無論、ハルカの指し示しているレベルも「2001年宇宙の旅」に於けるHALの位置にすら達していない。無論、ユイスマンスの「さかしま」のような痙攣が在る訳でも無い。シナリオの甘さが目立つ作品ではあった。

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