きゃるの観てきた!クチコミ一覧

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家の内臓【作・演出 前田司郎】

家の内臓【作・演出 前田司郎】

アル☆カンパニー

【閉館】SPACE 雑遊(東京都)

2010/05/21 (金) ~ 2010/05/30 (日)公演終了

満足度★★★★★

笑いに品があり、心地よい作品
前回の「罪」にも温泉宿が出てきたのでは?と思ったが、「罪」を見逃したので、これはぜひ観たかった。
前田司郎氏がシナリオを書き、久米明と渡辺美佐子が老夫婦を演じたNHKドラマ「お買い物」は、五反田団のイメージとはまた違った感じでとても良かったので、家族の物語に期待して観に行きました。舞台なので、もう少し深刻な内容かと思ったけれど、想像以上にライトな仕上がりで安心しました。前田司郎曰く「舞台は日常の些細な事を忘れさせてくれる装置だったのかも知れません。でも、使い方によっては日常の些細なことを思い出させてくれる装置にもなると思うのです」。
まさにその通り。驚愕するようなことは何も起こらないけれど、大人がニヤリとできる大変心地よい作品でした。1時間15分と上演時間も程よく、彼の言葉を借りると「本当にどうでも良い話をずっとしている物語」をもう少し観ていたいような気持ちになりました。腹八分目ってところがいいのかもしれません。この節度は貴重です。

ネタバレBOX

炬燵が中央にある群馬の温泉宿の一室。内装関係の会社の同僚である男女5人が雑魚寝している。5人部屋だと宿泊料金が割安だったらしく、ほかの同僚も誘ったが来なかったという。同僚と言っても、ヌマタ(平田満)と離婚した妻ヤマザキトミコ(井上加奈子)と娘のエリコ(橋本和加子)、ほかに独身のタシロ(西園泰博)とキザキ(小林美江)が来ている。俗に言うアットホームな雰囲気のこじんまりとした会社らしい。私は温泉のある観光地に住んだ経験があるので、ヌマタの話し振りを聴いていると、温泉旅行に来る中小企業の中間管理職というのは車中でもだいたいこんな感じだなぁと思った。やたら、若い部下との距離を縮めようとして、どうでもよいことを饒舌に語りかけ、若い部下たちは調子を合わせながらも、内心辟易しているのが見てとれて、傍で観察しているとなんともほほえましい。上司というのは、こういうとき、他人にさえ職場の人間関係がわかってしまうほど、いらぬことをしゃべりたてるものらしい。社員旅行独特の解放感がそうさせるのかもしれない。
また、アットホームな雰囲気の会社での勤務経験もあるが、何でも筒抜けで上司が家族のようにプライバシーに介入してくるのは疎ましいものだ(笑)。
この芝居でも「忍者の里」の「忍者」の存在をめぐってヌマタとタシロが堂々めぐりの会話を続けるかと思えば、キザキに彼氏がいるのかとしつこく訊ねるヌマタをタシロがセクハラだと諌めたり、ヌマタが比喩に使った「桶狭間」の説明をめぐって、ヌマタがタシロの揚げ足をとったり、他愛ない会話が続いていくが聞いていて面白いので飽きない。劇の冒頭で「顔を洗ってくる」と席をはずしてしまうトミコと風邪気味でずっと寝ているエリコ。ヌマタ、タシロ、キザキが風呂に行っている間にトミコが戻ってきて、起きてきたエリコとの2人芝居になる。
いまも会社にいるイシワタリという人物(劇には登場しない)とヌマタが昔トミコを取り合ったとか、彼氏と別れたばかりのキザキは実はタシロを好きらしいという話が出る。そして、ヌマタは近く、会社を自主退職することになっているとトミコが話し、エリコは「自分が入社したせい?」と気にする。退社理由は「からくり屋敷のような家を作りたいから」らしい(笑)。この元夫婦はエリコの幼いころも家の内装の仕様をめぐって意見が対立したそうだ(笑)。
ヌマタは、もうすぐ別れることになる同僚たちとのスキンシップをはかりたくて旅行に誘ったらしい。だが、退職を打ち明けられないのだ。タシロやキザキをなかなか寝かそうとしなかったのも、少しでも長く話をしていたかったらしいことがわかってくる。トミコは母子家庭に育ったタシロがヌマタを慕っているとエリコに言う。ヌマタらが「設備を清掃中で風呂に入れなかった」と戻ってきて、本式に布団を敷く段階になり、ヌマタの布団だけが離れていることに不服を唱え、少しずつ重ねて間を詰め、5組並べて敷くことで決着する。「少しずつ重ねて重ねてね」と嬉しそうにヌマタが言うところで終わる。この台詞がすごく生きている。
出演者は全員とても良かった。平田、井上のご両人は言うに及ばずだが、西園と平田の会話が特に面白い。小林は「間」がよく、最後にゴロンと転がりながら寝るのが笑えた。橋本は目を覚ました直後の演技の「間」が昨今の小劇場女優にありがちな不自然さを残すが、母娘の会話の場面はとてもよかった。
「夫婦は他人」という感じで突き放してヌマタを見ているトミコ、「トミコはね、暇さえあれば風呂に入ってるような女なんだよ」と真顔でタシロに冗談を言うヌマタ。夫婦のこういう描写が面白い。「土産に持って帰るからダメ」とタシロが頑なに開封を拒んだ味噌味のせんべいを、トミコが知らずに開けて食べてしまい、部屋に戻ってきたタシロがギョッとして袋を見つめる姿が可笑しい。先日、やはり温泉宿を舞台にしたコメディを観たので、あの空虚なわざとらしい笑いとどうしても比べてしまう。こちらは何と自然で気分がよい笑いだろう。
この作品の会話を聞いていると、昔の森繁久弥の映画を思い出した。森繁の出演映画は喜劇でなくシリアスなものでも、どこか今回の芝居と共通する可笑しみがあった。本作もコメディではないと思うが、前田司郎氏の笑いのセンスが感じられて嬉しかった。
この日も開演前から大声で連れではない隣の客に話しかけ、本番中も一人けたたましく笑う女性客がいて、最後には「ブラボー!」とおおはしゃぎ。会場が狭いので悪目立ちする。やれやれ、こういう人こそ、先日のコメディの会場にいてほしかったですよ。うまくいかないものですね(笑)。
Do!太宰

Do!太宰

ブルドッキングヘッドロック

三鷹市芸術文化センター 星のホール(東京都)

2010/05/14 (金) ~ 2010/05/23 (日)公演終了

満足度★★★★

観客を楽しませるすべを知っている
ブルドッキングヘッドロック、初見です。上演時間が2時間以上と聞いて「でも星のホールは座席がよいから・・・」と思って行ったら、中の様子はいつもとは違い、小劇場っぽくパイプ椅子が並べられていた。配慮で薄いクッションが3枚ほど重ねられていたが、時間が経つと、滑ってふわふわ浮き上がってくる。うーん(笑)。しかし、お芝居のほうはすこぶる面白かった。
太宰のイメージを壊すことなく、独自カラーを打ち出している、なんて月並みな表現が自分でも腹立たしくなるほど、このお芝居の素晴らしさをうまく表現できないのがもどかしい。
喜安さんは観客を楽しませるすべを知っている人だと思いました。「何と当たり前のことを」と思われるかもしれませんが、そのすべを知らないような作品に当たる機会も多いので。
「古典」に挑戦している多くの小劇場系劇団の作・演出家に観てもらいたいなぁと思った作品でした。
余談だが、つい最近、NHK朝の連続テレビ小説「ゲゲゲの女房」に喜安さんが出演するというので注目して見たら、とても面白かった。貸本漫画専門の出版社に売り込みにきてケンもホロロに社長のうじきつよしに追い帰される漫画家の役だが、ほんのわずかしか映らないチョイ役にもかかわらず、その演技で漫画業界の厳しい現状を地獄絵図のようにしかも滑稽に体現し、印象付けた。家族と見ていて大笑いし、おそらく後々までも忘れられない場面になると思った。これほどの演技勘のある人だから、きっと面白い芝居を作れるだろうと直感した。だから「Do!太宰」にはとても期待していたのである。
上演時間は2時間20分でもそれほど悪くはなかったが、中盤で少し疲れも感じたので、欲を言えばこれを2時間以内にまとめあげれば、なお、お見事だったと思う。
ですから、限りなく星5つに近い4つです。

ネタバレBOX

どんなふうに始まるんだろう、と思っていたら、「ハァ、ハァ」という息遣いだけが聞こえてきて、いきなり「走れメロス」のメロスの登場である。この冒頭で、まず食いついてしまった。「走れメロス」は教科書に載ることが多く、太宰治の作品としては一番知られているかもしれないが、このメロス(武藤心平)の走り方がとてもよかった。作品のイメージ通りの「メロス」なのだ。
交錯するひとつひとつの場面にとても説得力があるので、好感を持てた。
創作活動を行う人物として、東風山オサム(篠原トオル)、辻馬はじめ(寺井義貴)、斎田才蔵(馬場泰範)、土島シュウジ(菅原功人)、太宰に似た男(西山宏幸)など複数の人物を登場させ、現代人にも共感を持てるよう、太宰の側面を多角的に描いていく。
自主映画作りに取り組む高校生、迫路正人(磯和武明)や中野正雄(津留崎夏子)や、バンド活動をするビトウ(中澤功)もまた、「創作」に意欲を持つ人々だ。
「文章を書く」ということと映像の世界はまた別もののようだが、太宰の絶筆となった「グッド・バイ」は、実は映画化を前提とする書き下ろし作品であったことなどを思いながら観ていた。だからこそ、東風山の作品が映像化されるにあたってのテレビ局の人間たちとの打ち合わせで齟齬のある場面なども面白かった。
「風の便り」をモチーフとした辻馬が尊敬する作家に手紙を書く場面は、後年発見された、太宰が川端康成に宛てて必死に自分をアピールして書いた手紙のことをも思い出させた。
斎田が回想する職場の女性との心中場面も太宰の最初の心中未遂事件(相手の女性は亡くなったが)のとき心情をよく表現していて感心した。
東風山オサムと太宰風の小説家の「男」とは親しい友人という設定で、「男」を偲ぶ会を催す。席上、高倉健ばりの俳優・岡倉真子太郎(岡山誠)がひとり芝居で太宰の「女学生」を演じてみせるが、これが可笑しいけれど、この可笑しさが妙に原作の読後感とマッチしており、東風山の娘チコ(永井幸子)が紙芝居で読む「美少女」も私が太宰の視点に感じるものをよく表現していた。少女の入浴を眺める絵の隅に印象薄く描かれた「私=男性」が太宰の小説の印象を見事に視覚化している。女性のパーツを描いた赤裸々な絵に参会者たちがドギマギする場面の演技がとても自然でよい。そしてこのドギマギ感は、太宰が描く「女性が主人公の小説」に対して抱いた私の生理的感覚を体現しているようで惹きこまれた。
メロスが作中人物代表で喪服を着て座っていたり、チコだけに小説家の「男」の存在が見えるのも面白い。
「男」の風貌が太宰のイメージ通りなのも感心した。「男」とこれまで関わってきた女たちが恨み言を言って責める場面なども象徴的で巧い。
オサムとアシスタントの女性が不倫をしていて、生まれる子に名前の一字をとりたいという場面。これが太宰と太田静子の関係を暗示しており、「ウンペイならウン子になってしまうぞ」と言われ、「違います!本名じゃなくて、オサムのほう。ハル子がいいわ」というやり取りが笑える。「末娘の太田治子さんのことも描くなんてきめ細かい!」と一緒に観た連れも高く評価していた。
終盤で、東京に大規模テロをきっかけとする戦争が起こり、壊滅的状況となる中、正人や土島、ビトウらがそれぞれ、新たな創作活動に希望を抱き始める場面は、太宰が敗戦の混乱状況の中で創作に取り組んだことを連想させる。
映像字幕や大道具の使い方も効果的で上手いと思った。ただ、一箇所だけ気になったのは、オサムと友人の高校教師檀田(佐藤幾優)が話し合う場面。2人の座る椅子と机が舞台の奥に置かれて客席から遠いのだが、小さな劇場でされるような会話の声のトーンなので、だだっ広い舞台で小劇場の芝居を観ているように余白の大きさを感じてしまった。これは演技の質のことではなく、位置的な問題だ。椅子と机の手前にセリ穴があるため、やむえなかったのかもしれないが、ここだけ強い違和感が残った。ただ、このときの2人の会話は芝居としてはとても良かったので、念のため。
今回は前提に「太宰治」という課題があって、作品創りにも制約があったかもしれないが、今後もブルドッキングヘッドロックの芝居に注目したいと思う。
「ヒッキー・カンクーントルネード」の旅 2010

「ヒッキー・カンクーントルネード」の旅 2010

ハイバイ

アトリエヘリコプター(東京都)

2010/05/16 (日) ~ 2010/05/23 (日)公演終了

満足度★★★★

笑うよりも考えさせられました
「経験者組」を鑑賞。
岩井さんは「外に出る」という点に着目し、「自分も外に出ろと周囲から盛んに言われた時期があるけれど、はたして単に外に出ればよいのか。外に出て生活していても、引きこもりの人はいる。この劇に出てくる登美男以外の人物にも引きこもりの面がある」とアフタートークで語っておられた。興味深い視点だと思う。それゆえ、このお芝居で起こる笑いには戸惑いも感じた。

ネタバレBOX

以前、TVで、「引きこもりの子はとにかく外に出して治す。この道?十年の経験に自信がある」と主張する女性と、「外に出すとかえって状態が悪化する」と主張する引きこもり経験者でカウンセラーの男性の主張が真っ向から対立し、議論が平行線だったことを思い出した。
確かに一口に「引きこもり」と表現してもいろいろなケースがあると思う。この劇に出てくる人たちは外見の状態より、むしろ内面のほうに問題があると私は思う。
妹の綾(成田亜佑美)とプロレスごっこに興じる登美男(岩井秀人)は楽しそうだ。自分の興味のあること、得意げになれることをやっているうちは機嫌がよいが、妹が登美男のビデオ「巌流島」を友人に貸したと聞くや否や、「どうしてそんなことしたの」と火が付いたように怒り出し、執拗に綾を責める。
母親(平原テツ)がカウンセリングのような感覚で、“出張お兄さん”の圭一(坂口辰平)のところに息子の相談に行き、「こういうお仕事(引きこもりの子のケアをする)はどれくらい経験があるんですか」と質問すると、圭一はたちまち、その質問のしかたを経験差別だと受け止めて、理屈を並べて反撃する。圭一は吃りはじめ、言葉がうまくしゃべれなくなる。ここでドッと笑いが起きたが、笑えるところなのだろうか。精神的な症状であり、私は笑えなかった。
家にやってきた圭一は環境適応症(?不適応症は聞いたことあるが・・・)のため、登美男と意気投合して家に居ついてしまう。
今度は母親から事情を聞いた“出張お姉さん”の黒木(チャン・リーメイ)がやってきて、登美男のほうを外に連れ出そうとする。対処法をめぐって、母親と黒木が言い合いになるが、この黒木もまた、相手の言い分がまったく耳に入らず、自分の主張だけを繰り返す人なのだ。
綾は母親に対し、家とスーパーとボウリング場を往復してるだけではないかと痛烈に批判する。唯一の趣味のボウリングについてとやかく言われたくないと、この母親もまた、異常なまでに猛烈に怒り出す。
「相手の意見に耳を傾けられず、自己主張だけを執拗に繰り返す」「こだわりが強いことに対しては些細なことでも怒りが爆発する」、これは性格と言うよりもむしろ精神的な問題ととらえたほうがよいのではないか。つい先日も、「周囲が性格的な問題だととらえるために、社会に適応できず、引きこもりになってしまうケースがある。先天的な病気の要因が考えられる場合もあるので、医師に相談し、周囲にも理解してもらう必要がある。そうすれば特技を生かしてうまく社会に適応できる」という精神科医の講演を聴いたばかりなので、この劇を観て複雑な思いだった。

リビングルームのウォールポケットを裏返すとお母さんが使う公衆電話になっている。小道具が家庭の内と外の表裏一体の関係を暗示している(ウォールポケットにはつり銭などの小銭がたまっていく)。

平原テツは母親を好演しているが、「おぅ」と返事をするときだけ、まるで男になってコントめくのが気になった。わざとそうしているのかもしれないが、違和感があった。

「外国で公演しても引きこもりが理解してもらえるかどうか・・・」と岩井さんはおっしゃっておられましたが、外国でもこのお芝居は理解してもらえると思います。部屋に引きこもる行動をとるかどうかよりも、人とコミュニケーションがうまくとれない、という精神的な問題を扱っているから。

studio CAS/T the4th recital

studio CAS/T the4th recital

studio CAS/T

セシオン杉並(東京都)

2010/05/21 (金) ~ 2010/05/22 (土)公演終了

満足度★★★★

ヨーロッパの雰囲気が魅力的
「ふだん、ダンスにあまり縁のない人にも観てほしい」という趣旨に反応して観に行きました。
コンテンポラリーダンスは久々で、観終わっての感想は、何か癒されたというか、元気をもらえた爽快感がありました。
このところ、立て続けにお芝居を観ていたせいか、筋を追ったり、台詞に注目しないで楽しめるダンスもたまにはいいなあーと思いました。
2部構成で、第一部はバラエティー豊かなダンスで綴るエチュード、第二部は演劇的な内容の「Chess」。
全体を通して洗練された構成・演出で、とても楽しめました。ただ一点、予約時に、「全体を見渡せ、比較的前方の観やすい良いお席がご用意できます」とのことだったのでしたが、私は目にダメージがあって極端に視力が弱いため、当日用意された客席中段より後方の席では、ダンサーの顔の表情がほとんど読み取れませんでした。残念です。席が後ろの方と知っていたら、オペラグラスを持参したのに。
プログラムに出演者の顔写真が載っていないので、初見では誰がどの役を踊っているのかもわかりません。
観客のほとんどが主催者の教室の生徒さんとその関係者で占められているせいかもしれませんが、外部にアピールしていく意向なら、一般客への配慮も必要ではないかと思います。

ネタバレBOX

第一部はエチュード。森羅万象、生物の営みを表現し、「生の歓び、素晴らしさ」を訴えているらしい。いちおう各シーンの表題はプログラムに書いてあるけれど、暗い客席でいちいち数えて照合して観ているわけにもいかず、観てすぐそれだとはわからない抽象的なダンスもあるので、自分の見方が合っているのかどうか自信がない。
ただ、「労働」の部分だけは動きですぐ理解できた。弾むようにリズミカルな動きで、ダンサーがまるで音符のようだった。多様な音楽の選曲が素晴らしく、その場面のダンスの雰囲気にとても適していた。流麗な振付が印象的。
ダンサーの技量にばらつきがあるせいか、群舞の場面では一斉に同じポーズをとるときに角度や動きがそろわず、片足で立つとふらついている人もいた。金子氏の振付は技量の優れたダンサーを揃えたら、もっと引き立つに違いない。
虹のようにカラフルな衣装(Kei)や、シーンの終わりを表す照明の落とし方が迫り来る夕闇のように絶妙だった。振付が多少単調な場面もあったが、音楽でカバーされていた。

第二部は物語性が濃い舞踊劇風。こちらの出演者たちは第一部より技術的に上級者を集めているようだった。西洋のチェスと「ロミオとジュリエット」の悲劇が組み合わされたような内容。
白と黒のチェスの駒で対立する両家の人々を表現し、衣装(金田かお里)は中世のヨーロッパ貴族風。シーン1の「繰り返される悲劇」で、両家の間に「ロミオとジュリエット」のすれ違い自殺の場面が暗示される。これが両家の対立の発端らしい。やがて、白の貴族の家に男の子が誕生し(両親の間からまさにポコッと産み落とされる 笑)、黒の貴族の家の娘と相思相愛になるが、両家の両親同士がいがみ合っているので、若い二人は悩み苦しむ。
シーン3の「祝い」の場面で、両家の人が白黒入り混じってまるで中世絵画のように静止する場面が美しい。両家にはそれぞれ、神父とシスター(ロミ&ジュリで言うところの乳母役?)がいて、それぞれ白と黒で色分けされ、シーン7の苦悩の場面に登場する。この神父とシスターが2人の家のしがらみや「良心の呵責」を表しているようだ。若い2人の衣装の胸にも十字架がデザインされているのは、「ロミオとジュリエット」の原作はモンタギュー家とキャピレット家の対立が宗教戦争を象徴しているという背景がうかがえるようで興味深かった。
そして「ロミオとジュリエット」のように、また若い2人の死によって両家は和解する。
衣装デザインがとにかく素敵で振付もドラマチック。特に、中世の舞踊を再現したような輪舞が良かった。

金子礼二郎氏のダンス作品はヨーロッパの雰囲気があって好きだ。また観てみたいと思う。

日の出温泉のW杯

日の出温泉のW杯

ZIPANGU Stage

萬劇場(東京都)

2010/05/19 (水) ~ 2010/05/24 (月)公演終了

満足度★★

客席の静けさ
この劇団のお芝居を観るのは今回で2度目です。前回の内容は主人公に矛盾が多かったけど、笑えるところはあった。今回は、前回よりは矛盾も少ないし、いちおうコメディとしての体裁は整ってるのに、とにかく客席が静かで、私の観た回はほとんど笑い声が起きなかった。シチュ・コメでこんな静かな客席は生まれて初めての経験だ。私の周囲は中高年客がほとんどだったので、気になって観察したが、楽しそうには見えなかった。「芝居が好きで、週何回も劇場に行く」と話していた最前列の婦人客など、眉間に皺を寄せて一度も笑わず、舞台を凝視していた。
俳優さんたちも「きょうの客はやりにくいなぁ」と思っていたに違いない。でも、笑いたくならないんだもの。俳優は大汗かいて飛んだり跳ねたりしてるんだけど、客席に笑いのうねりが起きないんだなぁ。空回りしてるというか。このレビューも非常に書きにくくて、帰途の電車の中で笑えなかった理由をずっと分析してました。コメディって難しいですね。

ネタバレBOX

舞台美術はまずまずだが、この旅館の部屋の入り口に違和感があった。障子ひとつ隔てただけで廊下なの?江戸時代の木賃宿とか、私が小学校時代に泊まった修学旅行生向けの古い旅館はこうだったけど、いまはほとんど見かけないんじゃないかな。いくら秘湯のひなびた温泉宿といっても、こういう時代、宿泊上セキュリティーどうなってるの?ご主人、露天風呂より先にドア付けなさいよって思った。
で、社員旅行で、社長(佐土原正紀)の泊まる部屋にやってきて、社長が風呂に入るわずかの隙に電話番を頼まれた新人OL(沢本美絵)を「Hしたーい」と追い回す不倫相手の本田(キム木村)がキモいこと。こんな場所での情事にこだわるなんてどうかしてる。それもコンドームを薬みたいにつながりパック状で持ってきて(笑)。この発端の不自然さに加え、キム木村の笑いの決め所のタイミングがことごとくずれて笑いが上滑りしていくので、観ていて不快になってきた。
旅館の主人(長野耕士)の演技は面白いところもあるが、演出上かと思うが状況の割にやたらヘラヘラ笑っている表情が気になる。OL役の沢本は女子スポーツ選手のように肩に力が入りすぎで、役としての魅力が弱い。
佐土原は役の年相応に見えて、まじめな芝居のときは良いが、笑いをとるところの間がよくない。本田がアンテナに細工したため、TVが映らないと言って、ほかの部屋の連中が次々、社長の部屋にやってきてTVを観ようとするが「やっぱり大画面で観ないとね」というTVが小さく、説得力がない(笑)。仲居(目次里美)の出入りの都合がよすぎるせいか、彼女が序盤に笑いをとろうとオーバーに話すところでも客はシーンとしていた。
TV観戦が佳境に入り、日本代表の勝ちに自身の人生の選択を賭けた客たちが試合の経過に一喜一憂し、わめき、嘆き、派手に動くが、その興奮に客席がまったく乗り切れないまま、幕が下りてしまった。コメディとしては最悪である。
ボケ始めたという老女(滝沢久美)がラスト近くに語る台詞はとてもいい。だから、あえてここでは言葉にするのをやめておきます。滝沢はこの場面は秀逸だが、途中のオチャラケ場面はウケていなかった。
特にシラケたのは、日の丸を作ろうということになって、「白い大きな布」を一同が探し回る場面。観客は誰でも敷布団のシーツに目がいくので、みんなの動きがとてもわざとらしくて面白くないうえ、本田が白いタオルを得意げに掲げ、みんなが無視してシーツに殺到すると、憤慨してタオルを丸め、叩きつける。この演技がまったく余計で生きてこない。
キム木村はタイミングをはずすと表情が素に戻り、不満なのか目が三角になるのが気になる。
まるでアングラ芝居の一場面のように赤いライトでおおげさに登場する元女将の宮本ゆるみ。彼女の役どころは毎度お約束なのかもしれないが、表情がクドすぎてスパイスをまとめて口にほうりこまれたように感じるときがある。こういう大仰な女の役はかつて山田邦子が上手かった。山田はデフォルメしても表情を調節できる技を持っていたからである。
サポーターの青年(ヲサダコージ)が、熱心なわりにジャパン・ブルーのレプリカ・ユニフォームを着ていないのも気になった。番頭の遠藤(小暮典保)はイマイチ性格がはっきりせず、そのためか、本来は意外性で笑いが起きるはずの、Yシャツを脱いでレプリカ・ユニフォーム姿になった場面が沸かない。
シチュエーション・コメディの成否は、脚本の完成度もさることながら、客をどこまで乗せていけるかにかかっていると思う。客との呼吸が何より大切だ。そういう意味では、平田オリザの芝居などは爆笑コメディではないのに、客を乗せ、嵌めていくのが実に巧妙である。この劇団の芝居はシチュ・コメなのに、そういった客の熱気との相乗効果が生まれないのが難点だと思った。
終演直後、出演女優のファンだという後ろの席の女性客が「わーん!よかったよー、うれしかったー」と感極まったかのように泣きじゃくり始めた。この芝居はそういう芝居だったのか。私にはよくわからない。
余談ですが、劇場でもらった劇団員の座談会の読み物を読んでたら、「彼女と温泉に行った話」とかわりとなまなましいエピソードが載ってて、ちょっと引いた。こういう話って劇団員が居酒屋で飲んでるときにはするかもしれないが、プライベートで元カノとどうした、とか具体的なことを部外者が知ることはあまりないこと(私の観てる劇団では、ない、と言うべきか)と思ってたら、文末に「居酒屋にて」と書いてあった(笑)。温泉やサッカーについての各自の思い出は、せいぜい配役表などのアンケート形式の短いアンサー程度でよいのではなかろうか。せっかく活字化して配るなら、もっと芝居の内容についての座談会にしてほしい。こういうセンスがこの劇団の芝居そのものにも反映されているような印象を受けた。
ザ・パワー・オブ・イエス

ザ・パワー・オブ・イエス

燐光群

ザ・スズナリ(東京都)

2010/05/10 (月) ~ 2010/05/23 (日)公演終了

満足度★★★

少し退屈でした
連れの都合により、当日券を買って観るしかなかったので、席が最前列。ベンチシートの低さが腰痛をもろに直撃し、首は疲れるし、堅い内容なので、少々辛い観劇となりました。
デイヴィッド・ヘアーって「ダメージ」や「めぐりあう時間たち」の映画脚本も担当したかたなんですね。2作とも観てます。好きな作品です。以前、燐光群で上演した「パーマネント・ウェイ」に興味があって行けなかったので観たいと思ったのですが。
本作は日本経済新聞社主催の読者ご招待企画にして、お土産に「日経経済用語解説」でも配ればよろしかったかも(笑)。
本作の感想としては、経済とHさんの「言葉の使い方とか、金融商品の捉え方とか、デビッドヘアーの元の台本にちょっと疑問点があるんですよね。あまりにも短絡的な捉え方で、本質まで迫っていないのではないかと、、、、。ステレオタイプになっているのではないかとです。手法などはいつものように面白いのですが、金融商品の専門用語や、実際に起きたことをどうとらえるかということで、この作品の評価は変わるでしょう。 」というご意見に共感しました。
仕事上で経済関連の記事も長く担当し、日経読者の私でも、正直、退屈でした。ドキュメンタリーの要素が濃く、登場人物によるステレオタイプの用語解説が続き、それが短絡的な印象があるので、「はたして本当にそうなの?」という疑問が残りました。演劇仕立てにはなっているけど、もう少し面白い趣向があるのかなーと期待していたので。「では、もう少し面白い趣向って何よ」って聞かれたら、言葉に詰まるんですけど。こういう手法はドキュメンタリー映画によく使われるので、演劇では、平板に感じて、退屈してしまったものですから。
ネタバレはたいしたこと書いてないですが(笑)。

ネタバレBOX

tetorapackさんと違って、私の足りない脳ミソで書く、別になくてもよい陳腐なネタバレなので、呆れないようにしてください(笑)。
登場人物の中で、本人の顔をはっきり知っている人がほとんどいないし、ときどき日経新聞でみかける外国の経済人など私にはどれも似たような印象でほとんど区別がつかないのであーる(笑)。
観劇の連れにいたっては、デイヴィッド・ヘアーを演じた俳優John Ogleveeをデイヴィッド本人だと信じて、「演技も巧いし、日本語も上手」なんて言う始末(笑)。
この芝居に出てくるノーベル経済学賞を受賞したマイロン・ショールズ(鴨川てんし)なんて、ご当人の性格は知らないが、インチキくさくて、とっぽい親父って印象に見えてしまった。いいんでしょうか(笑)。
未公開株投資家のスコット・ラドマン(杉山英之)は、黒革のジャケットに白いシャツ、ジーンズと、変身前の仮面ライダーの普段着みたいな格好でやけにワイルドでカッコイイんだけど、本人はどんな顔してるんだろう。
一番笑えたのはロナルド・コーエン(中山マリ)。コーエンは私でも知ってるし、小柄なスーツ姿、一応金髪にしてるけど、どう見ても何か田舎の売れない漫才師みたいで、とうとうと演説するのだけど、「これがコーエン?」って違和感がありました(笑)。中山さんはベテランだから演技は達者ですけど。
こうなると、いっそのこと、ホリエモンとか、ソフトバンクの孫さんとか、楽天の三木谷、インサイダー疑惑の村上世彰、SBIにいた元ホワイトナイトのおっさん北尾吉孝とかの「役」も日替わり出演させちゃったら、どうかねと思いました(笑)。
女優では説明役のマーシャル・セルダレヴィクの安仁美峰のしゃべりかたが心地よく、集中できて彼女が出てくるとホッとした。もう一人、金融ジャーナリストの松岡洋子もなかなかチャーミングでした。
・・・ってなると、市場の金を動かしてる当事者以外、あまり魅力的じゃないんだよねぇ(笑)。
題名のとおり、作者のデイヴィッドに金融関係者がまことしやかに持論を吐いて、「はい、わかりました」と言わせる話。
この話の最終幕は市場経済の混乱により、犠牲者が死屍累々ということで、ほら、シェイクスピアの芝居みたいで演劇と似てるでしょう、ってオチなんです。
確かに、こういう金融市場のしくみって素人にはねずみ講同様、入り口で説明されてもよくわからないし、黒幕の当事者は結局金持ってて、懐は痛まない。米国の銀行家も高給取りで、まだ年金がほしいなんて寝言言ってるわけだし。踊らされた小規模の個人投資家や、本来、マネーゲームに参加してないのに、余波をかぶるわれわれ庶民が迷惑をこうむるだけなんだよねって話。
でも、そういう結論はわざわざお芝居にしなくても、普通に新聞読んでればわかりきったことで、「ええ、そうなの!」という新たな見方が提示されるわけでもない。
一部インテリの人たちが「ふむふむ、クスクス。おれは意味わかるから面白いけどね」って優越感にひたれるお芝居に思えたのです(笑)。
加えて、海外で上演するとか、演劇の専門家が観れば、また受け止め方も違うのでしょうけど、日本では、もう少し、とっつきやすいかたちにしないと、金融知識の啓蒙にもならないと思います。
金融業界にせもののオンパレードというか、知らない人のそっくりさん大会の中で手探りで金融のお勉強がてら観劇するもよし、ってとこでしょうか(笑)。
別に演劇好きでなくても、就活の学生さんにはおススメかもね。


ミブロ! ~新撰組転落記~

ミブロ! ~新撰組転落記~

劇団バッコスの祭

アドリブ小劇場(東京都)

2010/05/13 (木) ~ 2010/05/19 (水)公演終了

満足度★★★★

大胆な解釈・構成・メッセージ性
2歳のとき、初めて映画館で観た映画が東映時代劇、昭和30年代の東映時代劇映画は、大人に混じってリアルタイムでほとんど全作品を観てきた私は、筋金入りの時代劇ファンだが、いや、だからこそ、最近のTV時代劇はあまり観たいと思わないし、たまに観ても満足できない。小劇場の時代劇もおもはゆくてむしろ苦手なジャンルだ。「殺陣がスゴイ」「役者がステキ」と聞いても、まず食指が動かない。
その私が唯一楽しめるのが「バッコスの祭」なのだ。小難しい時代考証なんかすっ飛ばして、大胆な解釈・構成で突っ走る爽快さがたまらない。
やたら時代考証にうるさい自分が、「いいぞ、うんと壊せ!もっとやれやれ!」と心の中ではしゃいでいる(笑)。
しかし、森山智仁という人は、史実の肝はきちんと押さえ、明確なメッセージを伝えてくるのが流石だ。
私はいまから何十年も前に日本史が好きという単純な理由で史学科に進んだ、いまどきの「歴女」の草分けで、高校生のときは毎日「新撰組」のことばかり考えていて親に怒られたクチ。当然、本作には興味津々だったが、前回の「忠臣蔵」に続いて、また泣いてしまった。私は芝居を観てもまず泣かない、というより映画と違い、芝居では泣けない人間なのだが。
中盤で、涙がポロッとこぼれ落ちて焦った。「芝居はまだこれからだぞ、いまから泣いてどうする!」自らを叱咤し、舞台に目を凝らした。そしてラストシーン。うーーん・・・・巧い!脱帽である。
時代劇や日本史に興味ない人にもおススメです。

ネタバレBOX

冒頭、斉藤一役の丹羽隆博が新撰組について回顧するように語り始めるが、これには仕掛けがあり、ラストにつながる。
入隊希望の藤堂平助が「新撰組」屯所を訪ねてきて、股旅物の仁義を切るのには唖然。こりゃないだろと思ったが、それは壬生にいた当時の新撰組がまるで暴力団のような存在だったデフォルメなのかもしれない。
今回、新撰組に不可欠の土方歳三が出てこないが、それは、この物語のテーマに関係がある。斉藤は「自分の行く道をなかなか決められない男」、彼が主役だから。そして、「局中法度」で「事の善悪、各々にて思案すべからず」と、隊士にいらぬことを考えず、人斬りに徹するよう仕向けたこの集団において、斉藤は忠実に動いたのである(本作では)。
組織に忠実という点では土方が一番だが、土方は積極的に隊のシステムを考えて動き、最期まで次々に決断して行った男だから、土方を出すと今回のテーマを明確にできないのだろう。このあたりの思い切った決断は見事で、森山は土方並みの非情さをもって作品に取り組んだと言えよう。今回の設定に私が反発を感じないのは、森山が司馬遼太郎の「燃えよ剣」を読みながら「土方の扱いをどうするか」と思案していたことをブログで読んで知っているからである。決して単純なご都合主義の削除ではないのだ。
土方を廃した代わりにと言っては何だが、斉藤一に土方的なニヒルな面を入れ込んで土方ファンのガス抜きをしているとさえ感じた。
丹羽の何かに取り憑かれたようなアブナイ演技を見ていると、ふだんはどんな人なのか興味が湧いてくる(笑)。
近藤・斉藤と対立する芹沢鴨(上田直樹)は史実とは反対に、草食系男子で、芹沢というより、むしろ本作には出ない穏健派の山南敬助に近い。
そして山南とも共通する文系論客だった伊東甲子太郎と同一人物にする、これまた大胆な創作も面白かった。
沖田総司(雨宮真梨)の青白い魅力が良かった。雨宮は口跡が良く、目ヂカラがある。沖田が初めて人を斬るという興奮のさなか、女を斬ってしまうというのも、史実ではない別のリアルさがあった。
その女、お雪(濱坂愛音)は京の町の女子アナ?兼大和屋のお内儀で、妻を殺された主人(小林裕介)は伊東一派を支援する。小林は短い出番だがこの役らしく実直な演技で印象に残る。
藤堂平助の辻明佳は明朗な爽やかさを出して好演。いままでバッコスで観た役どころとは違い、とても新鮮だった。
藤堂の母親(柿谷広美)のいまふうお母ちゃんぶりが笑える。松本良順(稲垣佳奈美)をお良という女医にしたり、恋愛場面をお梅(金子優子)に絞って、よけいな恋愛噺を入れなかったのも名案。
近藤勇(石井雄一郎)は幕府に使い捨てにされながらも、容保に深々と頭を下げ、幕府への想いを表現する場面がよかった。
今回、近藤勇役の石井と斉藤役・丹羽のクセ者?コンビの芝居が観られたのも嬉しい。セットの関係もあるのか、松平容保(小澤雄志)が会津藩邸に隊士を呼びつけず、まるで鬼平の長谷川平蔵のように着流しで気軽に自ら出向いてくる(笑)。小澤は森本レオと長谷川朝晴を足して2で割ったように飄々としている。
山崎烝は、俳優の宇佐見輝に不満はないが、どうせなら監察方という史実を生かして描いてほしかった。
原田左之助の飛山裕一は槍の使い手ぶりを発揮。
服部武雄(深月要)は若年だが剣の腕が立ち、史実では伊東甲子太郎にとって、武市半平太の岡田以蔵的存在だったようだが、本作では新撰組内の剣の流派の対立が離反組を生んだという史実も踏まえている。「深月要って人は男?女?」という疑問が観客に湧くらしく、隣席でも話題になっていたが答えは女性です(笑)。彼女をバッコスに紹介したのは私だが、主宰は殺陣が得意な彼女の長所を生かして起用してくれ、深月自身も期待に応え、他劇団に出ていたときは見違える成長ぶりで驚いた。主宰をはじめ劇団員・スタッフ、客演陣に感謝です。
終盤、出番のない俳優たちが官軍側を黒子姿で演じたのにも感心。すっぽり顔を隠した状態での激しい殺陣は見事。女優陣の着付けが前回より数段、きれいになっていた。
ラスト、東京高等師範学校・卒業式での斉藤の訓辞は、生徒だけでなく現代の観客へのメッセージにもなっている。そして隊規に忠実だったであろう隊士全員の心情をも代表していると思う。生徒たちの「仰げば尊し」の斉唱も美しくそろっていて素晴らしかった。
「ユー・アー・マイン」

「ユー・アー・マイン」

クロカミショウネン18 (2012年に解散致しました。応援して下さった方々、本当にありがとうございました。)

駅前劇場(東京都)

2010/05/12 (水) ~ 2010/05/16 (日)公演終了

満足度★★★★

クロカミならではの笑いの醍醐味
1年ぶりの本公演。前回の「ボン・ボヤージュ」がサスペンスタッチのSF人情喜劇といった趣の作品だったせいか、勘違い、辻褄あわせ、取り違えなどにより混乱が増幅していく、野坂実お得意の手法によるコメディーは本当に久々ということになろうかと思う。
開演前にパンフレットの複雑な人物相関図にゆっくり目を通し、頭の中に叩き込むことから観劇が始まった。こんなに早く劇場受付をすませたのも自分には珍しいこと。観るほうも力が入っていた(笑)。
客演陣には、このところ続いた番外公演の出演メンバーが揃い、劇団員たちとの息もピッタリで、野坂演出にも慣れているせいか、クロカミならではの笑いの醍醐味を味わわせてくれた。ノリと勢いで突っ走る若手劇団の笑いとは一線を画し、大人の観客を満足させてくれる演技力がベースにあってこそのきっちり作りこんだ笑いがクロカミの魅力だと思う。
そのせいか、番外公演でも、観客の年齢層が高かった。この劇団の芝居のスタイルに惚れ込み、参加を熱望している客演俳優が多い点では、電動夏子安置システムなどとも共通している。作・演出家と役者だけでなく、裏方さんらスタッフたちも含め、互いに尊敬し、信頼し合い、その団結力がすばらしい劇団は、やはりいい芝居を見せてくれるものだというお手本のような劇団である。

ネタバレBOX

いつもながら、本格的な舞台美術のセンスがよい。子供が生まれたばかりだというのに、マンション販売で成果を出さないとクビだと上司・辻健一(松岡努)に言われて頭を抱える不動産会社の営業マン・梶佳介(渡辺裕也)。2日前に梶の同僚の美伽(薬師寺尚子)にふられた社交ダンス講師・田端幸太(太田鷹史)と、前の日に彼氏の西園(加藤裕)の浮気現場に遭遇し、振ってしまった加瀬千郷(川本亜貴代)。
2人とも結婚を前提に、家族に相手を引き合わせることになっていたが、別れたとは言えず、梶の勤務先のツインタワー億ションのモデルルームに相談にやってくる。
千郷は、梶の妻とも友人だが、梶が酔って醜態をみせた写メを見せ、襲われたと言って妻に送ってもいいのかと脅して、強引に協力させる。
梶たちはタワーズマンションのA棟とB棟のモデルルームを利用して、お互いを結婚相手だと偽り、それぞれの家族に紹介しようと計画を企てる。
千郷は起業家の姉・依子(手塚桃子)との夫婦仲がうまくいっていない年下の夫の治(細身慎之介)と不倫関係にある(加瀬家は全員が加瀬姓だが、治は婿養子なのか?)。幸太の母・郁代(山素由湖)は高血圧症(おっとりとして天然っぽい)。姉・要(岡田梨那)はなかなか彼氏ができないと悩んでいる。
プレイボーイぶっているが実は童貞の不動産会社社員・成美忠(ワダ・タワー)。辻の娘でモデルルームに遊びに来ていた媛花(ハマカワフミエ)は、父の前ではいい子を演じているが、実は蓮っ葉な女。ハマカワの変身ぶりがいまどきのギャルらしくて、笑いを誘う。
B棟のモデルルーム見学を予約していたのに、苗字が「休(やす)」のため、B棟は「休み」と勘違いされてしまった休司門(久米靖馬)や、何とか千郷とよりを戻そうと追ってきた資産家の息子・西園、媛花らも騒動に巻き込まれていく。媛花は若いのに偽装家族の母親役にされて困惑(笑)。休は、偽装家族のことを「新種の営業のための即興劇」と説明されて信じ込み、観ているうちに自分も演じたくなって、勝手な芝居をして、さらに話が混乱する。久米が勝手に弟を名乗ったため、弟役をやるはずだったワダ・タワーが男なのに母親役を演じるハメになったり、もうメチャクチャである。
休と西園、要と千郷が友人同士であるなど、都合のよい設定も目についたが、混乱の中でめいめいの役どころがどんどん変わっていく可笑しさは、やはり役者の巧さあってこそ楽しめる。
幸太と美伽はよりを戻し、依子と治の仲は修復されるが、千郷は西園への愛情に疑問を感じ、シングルマザーの道を決断する。
最後に、梶の妻に既に写メールが送られていたり、成美と媛花の抱擁を健一が目撃するオチが付く。
どんな球もしっかり受け止めて確実に返球する名捕手・渡辺、直球型で一途に演じるからこそ可笑しみが出る加藤、守備範囲の広いワダ・タワー、役の解釈が確実でリアリティーあふれる川本と、劇団員の安定感はさすがだ。
客演では千郷の義兄・細身、幸太の太田、幸太の母の山素、依子の手塚が好演。
「別れた」と正直に言えばいいのに、どうせ、あとでわかることなんだからと言ってしまえばそれまでだし、家族の食事会をなぜモデルルームでやるのかとも思うが、だいたいこういうコメディーは実際にはなかなか起こりえないことを大真面目にやって見せるから面白いので、そのへんは、ハチャメチャな展開を楽しむしかない。
ただ、終盤に西園が休に頼んで父親役まで演じさせたりする場面は混乱しすぎの感がある。もう少し、話をすっきりさせたほうがよいと思った。

ほかに気になった点は次のとおり。
脚本上、幸太の姉・要の存在が中途半端に感じた。
台詞で梶が「てんちてんめいに誓って」と言っているが、「天地神明に誓って」が正しい。
もうひとつ「獅子が千尋に突き落とす」は「獅子がわが子を千尋の谷底に突き落とす」が正しい。「千尋」は固有名詞じゃないです。故事は正しく引用してください。
ワダ・タワーが、週末の見学会で屋台も出てお祭り気分とはいえ、不動産会社は週末のモデルルーム案内も正規勤務なのだから、お客の来る場所で私服のような派手なチェックのズボンをはいているのは違和感があった。
























































































『革命日記』

『革命日記』

青年団

こまばアゴラ劇場(東京都)

2010/05/02 (日) ~ 2010/05/16 (日)公演終了

満足度★★★★★

観逃さなくて良かった!
「個と集団」「組織におけるプライバシー」の問題が革命活動家たちを通して描かれている。
社会問題を平田オリザならではの自然な会話、人物配置の巧みさで見せる。
私が平日昼にこまばアゴラに来ることは珍しい。週末より観客の年齢層は高めだが、常連客らしい中高年女性グループのけたたましく甲高い笑い声が響きわたり(笑っているのはその一角だけ)、劇の雰囲気を壊してしまうのがとても気になった。笑うのはご自由だけれど、もう少しトーンを抑えていただけないものか。
爆笑漫才を聴きにきたわけではないので鼻白んでしまう。

ネタバレBOX

配役表が、革命家、元革命家、隣人、組織のシンパの4つに分かれている。この4つの立場の人たちが劇の中で交錯することによって、社会における「組織」や「生活共同体」の性格が浮き彫りにされていくのが見事だった。
「空港」と「大使館」の2つの襲撃計画を企て、アジトの増田家に集う革命家たちのもとを町内会に代わる市の街づくり委員会の人々や、組織の非合法の部分を知らないシンパの人々が訪れ、そこで「小さな組織での一般的な社会活動」についてのかかわり方が語られ、革命家たちとの対比がなされる点が興味深い。
「組織におけるプライバシー」は、男女関係で語られる。革命や宗教など、ストイックな目的の組織においても、異性関係はついて回る問題。連合赤軍の浅間山荘事件の騒動が落着した際に大きく報道されたのは、彼らの目的である革命思想ではなく、永田洋子を中心とする仲間同士のドロドロの男女関係の話題だったし、オウムでも教祖や教団幹部を取り巻く男女関係が面白おかしく報道された。北朝鮮に渡ったよど号ハイジャックメンバーも、拉致問題がクローズアップされた際、当時の活動家同士の複雑な夫婦関係が報道された。
ここでも、実働部隊と後方支援組の心情的対立に絡み、桜井(佐藤誠)と立花(鄭亜美)の恋愛や、増田夫妻(海津忠・中村真生)と千葉(長野海)の三角関係をめぐって激しい口論になる。革命思想の中に女性の嫉妬や反発が加わって感情的にエスカレートし、男たちを当惑させる。
連合赤軍の中でも男女関係をめぐるいざこざが集団リンチの過熱要因のひとつになっていたと聞いている。
組織も人間の集まりゆえ内包するもろさや綻びの描き方が巧い。
もうひとつは家族の問題。息子のシュンスケをアトピーを理由に田舎の実家に預けている増田典子を妹の田中晴美(小林亮子)が訪ねてくる。「たまには顔出してやってよ。お母さんも気にしてるし」と。この姉妹は共に革命家と知り合って結婚した。晴美・英夫夫妻は活動から抜けたが、夫婦仲はうまくいっていない。
あとから1人で夫の田中英夫(河村竜也)が武雄に話があると訪ねてくる。終盤、革命家の篠田(佐山和泉)は会合に現れなかった島崎に刺されたらしく重傷という知らせが届き、騒然となる。英夫がシュンスケの学芸会の様子を典子に語ったとき、典子が「お父さんに似たのかしら。学生時代、映画とか作ってたんでしょう?」と英夫に聞き、「うん、まあね」と答えるところで、シュンスケの父親は増田武雄ではなく、英夫では?という暗示がなされる。また、シンパの山際に連れられてやってきた柳田由佳(木引優子)が実は活動中交通事故で亡くなった革命家の妹で、父親は亡くなるまで、姉は事故ではなく殺されたと思い込んでいたことがわかる。
俳優では革命家のリーダー格の佐々木役の近藤強、商社マン山際役の畑中友仁、委員会の坂下役・能島瑞穂がいかにもそれらしい人物像を演じ、印象に残った。NPO経験があり、ボランティア活動に熱心な坂下が、やはり「組織的」な持論を展開するあたりが面白かった。
舞台美術のインテリアのセンスがよく、赤い壁、白い棚の内側の赤い部分やマトリョーシカにスポット照明が当たり、赤が強調され、全体が「革命」を表現しているようで、記憶に残る。
ビヂテリアン大祭

ビヂテリアン大祭

ピーチャム・カンパニー

シアターPOO(東京都)

2010/04/30 (金) ~ 2010/05/03 (月)公演終了

満足度★★★★

力作でした
宮沢賢治の小説「ビヂテリアン大祭」を戯曲に書き起こした作品。演劇にかかわる前は小説家志望だったと言う清末浩平らしく、当日会場で配布された「ビヂテリアン大祭報告会」のパンフレットも凝りに凝ったもので、もっともらしい嘘がたくさん書いてあり(笑)、観客を虚構の世界に引き込んでいく。
主宰で演出担当の川口典成のブログによれば、脚色者と演出家が相当綿密な打ち合わせのもとに作り上げた作品らしく、このクラシックスシリーズの中では、一番の力作ではないだろうか。
この経験を生かし、秋のオリジナル作品もすばらしいものとなることを期待している。

ネタバレBOX

立場の異なる者同士のディベートというよりプレゼンの場といった印象の芝居。宣伝文句の「抱腹絶倒の演説バトル!」とまではいかないこの劇団らしいまじめな内容だと思った。青年団の芝居のように、会場に入ってきた参加者が開始前の挨拶を交わすなど自然な始まり方。キャスティングがとても良い。宮沢賢三役の羽田真の主賓あいさつがいかにも講演者らしい口調で、ニュウファウンドランド島で開催された文化部門発表会場の様子を淡々と語る場面は会場の様子が目に浮かぶようだった。賢三は挨拶を原稿に下書きしてきたのだが、読んでいる途中で執筆中の「銀河鉄道の夜」(?笑)の原稿が混じってしまい慌てるところが可笑しかった。
黄色いマフラーのいかにもうさんくさい雰囲気の大林市蔵(八重柏泰士)のマッシュルームカットの髪型にもふき出した。
司会の料理研究家・多和田敏江(古市海見子)のハイトーンの気取ったしゃべりかたも、よく、女子大の講演会の司会の教員などに見受けられるタイプで面白い。
キザで二枚目の大学教授・フランシス浅田(尾崎宇内)が黒板の「ビヂテリアン大祭報告会」の字を手で消して持論を述べ始めるところ、大林の動揺ぶりがおかしい。
「肉食の是非」をめぐって「フランドン農学校の豚」の劇中劇が行われる手法もよかった。劇が始まる前、多和田が70年代の金井克子の「他人の関係」の音楽に乗って振りマネまでやるのは、清末の70年代音楽およびアングラ好みの名残なのだろうか(この歌知ってる人少ないと思うけど、笑えた)。
暑い中、着ぐるみで豚に扮して熱演した羽田は本当に辛そうで、観ていて気の毒になってしまった。
報告会に乱入した反対派たちが実は「新宿コメディ座」の役者たちだったというオチがつくが、岬マグ郎(堂下勝気)だの宇都宮餃子(宮嶋美子)だの、どこかアングラ劇団の香りがするのも清末らしい。
宮嶋はユニークポイントの「シンクロナイズド・ガロア」でも好演していたが、ピーチャムとの肌合いもよさそうで、今後も客演の機会がありそうな予感。
「報告会パンフレット」の投稿文に「チケットプレゼントで招待券が当たって新宿コメディ座の芝居を観に行ったが、大変面白く、今度はお金を払って観に行こうと思います」なんて意味の文章が載っていたが、これはCoRichのチケプレへのあてつけか?(笑)
報告会が終わって「よだかの星」の一文の朗読が行われ、宮沢憲三の作家としての心情描写の場面があるが、劇団ブログを読むと、ここは清末の思い入れが強い場面らしい。
いかにも文学好きな清末らしい場面だとは思ったが、個人的にはこの場面だけが浮いて感じられ、あまり感心できなかった。もちろん「よだかの星」は名作には違いないが、楽しい虚構は虚構として終わらせてほしかったし、宮沢の心情や苦悩を吐露するなら、もっとわかりやすい描き方にしてほしかった。
式次第の紙が配られたが、その中にある「閉会の辞」がきちんと述べられなかったのも不満だ。この場面が「閉会の辞」の代わりなのかもしれないが、
「報告会」は「報告会」として完結してほしいと思った。この部分が引っかかったので満点に近い満足度だったけれど、☆4つとさせていただきました。
観劇の連れが「パンフの中のウイリアム・キーンは何者?」と最後までこだわっていた(笑)。ドナルド・キーンじゃないよね?連れの解説によれば、「理屈好きなフランシス浅田は清末さんがモデルだと思う」だと。なるほどね(笑)。
山猫と二人の紳士

山猫と二人の紳士

青果鹿

高井戸・青果鹿スタジオ(東京都)

2010/05/05 (水) ~ 2010/05/09 (日)公演終了

満足度★★★★★

とにかく楽しいアングラ!
注文の多い料理店」は好きなお話だし、以前の公演の項を見て、RUSさんが絶賛されてたのでまちがいない劇団だと思い、観ることに決めました。「注文の多い料理店」の話を初めて知ったのは小学校の授業での人形劇映画で、ドアではなく、テーブルのメニューに書いてある「注文」を次々めくる形だった。演劇では何年か前に、壌晴彦の「詠み芝居」で観たが、これもコンパクトで面白かった。
当日パンフに作者の澤藤さんが、宮沢賢治という作家に抱いた先入観や「注文の多い料理店」についての自分の読書体験を書いているが、実は私もまったく同じ感想・体験を持つ身なので、澤藤さんに親近感を持てた。受賞歴もあって実力派のようですね。
青果鹿スタジオは狭い、とにかく狭い劇場なんだけど、劇が始まると面白くてワクワクした。
入り口で受付しているのが女装のメイド(柄澤勇一郎さん?)で、ぎくっ!としたが(笑)、「ああ、アングラ劇団って扮装したままの役者がスタッフやってるよね」と気づく。
狭小空間もアングラも苦手な私だが、こんな楽しいアングラ劇は初めて。次回公演も宮沢賢治の原作で「グスコーブドリの伝記」をもとにした作品だそうだが、今度は中野・ポケットスクエアのテアトロBONBONなので、より多くのかたに観てもらえるだろうと期待している。アンケートでチケプレのお願いをしておきましたが、この劇団の公演、未見のかたは今度一度お試しください。オススメです。

ネタバレBOX

猟に出かけてきた2人の紳士。同窓会に出席した先輩の鈴木(白石里子)が、猟の自慢をしたはなわ(再現場面では、あのちびまる子ちゃんに出てくるはなわ君のお面が登場)への対抗意識から後輩の山本(大西亮平)を誘って猟に出かけてきたが、いっこうに獲物をしとめられず、山本に八つ当たりばかりしている。鈴木はすぐに論理をすりかえて山本のせいにしてしまう男。一方、森の西洋レストラン「山猫軒」では、山猫の女主人ジンガ(大竹夕紀)と召使のコバヤシ(柄澤勇一郎)が、食材の人肉を連日待ち構えている。このところ、カモとする客(食材)に逃げられっぱなしで空腹の女主人はたいそう機嫌が悪く、コバヤシを苛めてばかり。
そこに迷い込んできた山本と鈴木に、空腹が限界のジンガは狂喜乱舞。2人をご馳走にするべく、いくつものドアに「注文」を書いた札を下げ、紳士2人は素直に注文に従っていく。
ドアを回転式の舞台装置にして、山猫軒の2人と猟師の2人の会話を交互に見せていくアイディアが良い。
山本と口論になり、決闘をしようと言った鈴木が取り出したのは紙相撲の力士。「ちっちゃいですね」と山本が言うと、等身大の人形を舞台袖から出して紙相撲を始めたのには笑えた。
成金の鈴木と富裕層の山本のライバル心が描かれ、鈴木に先輩風を吹かされ、理不尽な目にあう山本に自身を重ねて同情するコバヤシ。大竹のジンガはツンデレ嬢風で面白い。クライマックスにきてコバヤシのイントロ解説よろしく、赤い長襦袢姿のジンガの歌謡ショーが始まる。この歌が「天城越え」なんだが、ミラーボールがぐるぐる回って水玉スポットがブンブン飛び、コバヤシが脇で赤い紙吹雪を飛ばすなか、熱唱する。「あなた殺していいですか?」だの「山が燃えるぅ~」だの、歌詞と劇の状況がまったく関係ないのに符号してるから大笑い。アングラというと必ずヘンテコな歌を役者が歌う場面が出てきて私は寒くなるのだが、この歌謡ショーはなかなか楽しかった。
最終段階で紳士たちは香水だという酢とクリームを顔にすりこむが、そのあとの場面でコバヤシが人形を2体持って、ビネガー、牛乳クリーム、葉物野菜を用意し、「人肉の3分クッキングのお時間です」と言って、料理の下ごしらえを説明し、、「このあとは実物大でどうぞ!」と引っ込む(笑)。
人肉の準備を待つ間、空腹のジンガは熊打ちの猟師(八木澤賢)を襲おうとするが、猟師は日ごろの良心の呵責から、潔くジンガの餌食になろうとして、逆にジンガは引いてしまう。
ようやく、異常事態を飲み込んだ紳士2人が恐怖に絶叫したとき、先ほどの猟師が現れて、ワイヤーに犬のぬいぐるみを引っ掛けたと思ったら、犬がするするっと登っていって、ジンガに噛み付き、ジンガが絶命。山猫軒の看板が傾ぎ、建物が壊れるという寸法。アニメチックな幕切れで、残虐性を薄めている点にも好感が持てた。いやー、楽しい芝居だった。
先にピーチャム・カンパニーの「ビヂテリアン大祭」を観ていたので、この作品の諷刺性もいっそう理解できた。紳士たちの知ったかぶりのグルメ談義、猟師の殺生への煩悶などから、肉食への考察へと導いていく。
山猫軒の2人と、紳士2人を、それぞれ男女で演じる趣向も面白い。
役者4人とも好演。大西は時折噛むのが気になったが、癖のある台詞回しが、元劇団サーカス劇場の看板俳優だった森澤友一朗(合併後、ピーチャム・カンパニーで制作に専念)とどこか似通った雰囲気がある。
次の公演が楽しみだ。
戦場のような女

戦場のような女

東京演劇集団風

レパートリーシアターKAZE(東京都)

2010/05/07 (金) ~ 2010/05/11 (火)公演終了

満足度★★★★

戦争の傷あと
ルーマニア出身のフランス現代作家、マテイ・ヴィスニユックは、2009年度SACD(劇作家協会)ヨーロッパ賞やアヴィニヨン演劇祭のオフプログラムでプレス賞をW受賞。
本作はマテイ自身がボスニアで取材し、「ビエンナーレKAZE演劇祭2009」で初演された。「東京演劇集団風」と協力関係のもと、劇団のためにオリジナル作品も書き下ろし、来年度も新作の上演が予定されている。
戦場において敵対する民族の兵士にレイプされた女性の治療にあたる精神科医を描いた女優の2人芝居。
ボスニア紛争という日本の演劇にはあまり登場しない題材であることに加え、「戦争と民族」「戦争と性」の問題に向き合うきっかけにもなる秀作だと思った。
今後、同劇団のレパートリーとして再演されていくと思うので、ぜひ多くの人に観てほしい作品。

ネタバレBOX

自分の居住地域が戦場になることは大いなる恐怖だが、そこで兵士に強姦され、その子を宿したとしたら、女性はどんなに絶望的になるだろう。
1994年、ドイツのNATO医療センターで、アメリカ人女性で精神科医のケイト(柴崎美納)は、ボスニア・ヘルツェゴビナ紛争のさなか、名も知らぬ5人の兵士たちに輪姦され、その子を宿した被害者ドラ(工藤順子)の精神医療にあたる。初期にドラは心を閉ざし、ひどく怯えていた。ケイトはドラの気のむくままに過ごさせることにする。
重苦しい芝居なのかと思ったが、中軸のドラとケイトが酒を酌み交わしながら民族談義が始まる場面は、それまで無表情だったドラの工藤が一変して、バルカン地方のいろんな民族に扮し、1人芝居で惹きつける。トランクの中から衣装や小道具を取り出して扮装するのだが、舞台を3方から客席が囲む構造なので、わたしの席の位置からはトランクの中が丸見え。さながら楽屋を覗くような楽しみがあった。トランクの蓋の内側に鏡台用ライトが付いている。ロシア人、トルコ人、ユダヤ人、セルビア人、クロアチア人、ブルガリア人、ハンガリー人、ルーマニア人、ボスニアにおけるムスリム、果ては黒人、インディアン、メキシカン、プエルトリコ人、アステックス、パタゴニアにいたるまで、ドラは「おれは○○人がだーいすきだ」で始まり、その民族の長所、特徴を挙げながら「しかーし、○○人は・・・」と批判を始めるのだ。劇中、パンをつまみながら、ロゼカラーのワインやシャンパンをあけるのだが、最前列にすわっているため、自家製パンの芳ばしい香り、それらの酒特有の馥郁とした香りが漂ってくる。ワインはノンアルコール飲料なのかもしれないが確かにロゼの香りがしたし、シャンパンは本物らしく、ポーンと栓が飛び、泡が吹き出て、客席がどよめいた。
さまざまな民俗音楽の流れる中、軽快にダンスを踊りながら他民族への警戒と憎悪が語られ、ボスニア地域の歴史と特殊性が浮き彫りになっていく。フロイトの精神分析などもふまえ、ケイトの独白で治療について語られ、
戦争におけるレイプという行為が侵略者の有効な武器として使われるという定義はされるものの、明確な後遺症治療法の成果が示される場面はない。
ケイトの研究報告に群がるカメラマンたちのフラッシュがまぶしく、臨場感があった。
ドラの治療と平行し、ケイトのルーツ、祖父がアイルランドからの米国に渡り、石切職人となってアメリカの数多くの高層ビルを支えたこと、父がアイルランドの臓器バンクの救急隊員だったことなどが語られる(父の代にまたアイルランドへ戻ったのだろうか)。
ケイトは既婚で2人の娘がいるが、家族を残して、死体置き場で死体発掘に従事したのち、精神科医となった。ドラが中絶を強く望んだとき、ケイトは「わたしが育てるからその子をちょうだい」と言う。数々の遺留品に囲まれた戦場で死体を掘り起こすとき、ケイトは絶望の中で生存者を希求した。ドラのお腹の中の生命こそがその「奇跡の生存者」なのだ、とケイトは言う。
ドラは夜な夜なお腹の中の子供からの「食べ物をちょうだい」という声に悩まされる。「あなたはいない」と否定するドラ。ベッドの頭上で激しく揺れ動き点滅する電灯によって、子供の生命を表現する照明の演出が秀逸。
ドラは受け入れる。この子の父親は戦場そのもの。蹂躙される政情不安定なあの場所であっても、あそこで生きていくのだ、この子を産もうと。
私の理解力不足のためか、ラストのドラの心理描写がややわかりにくい印象が残ったが。
今回、演出陣に加わった江原早哉香さんはまだ若い女性だ。
わが国も、太平洋戦争時代の中国、韓国、東南アジアなどの女性に、わが国の兵士によりレイプされたいまわしい記憶を残してしまった。また、逆に終戦の混乱のさなかで外国人にレイプされた日本人女性もいる。
ドラの事件が他人事ではない歴史を抱えていることを改めて考えさせられる作品でもある。
侏儒の言葉

侏儒の言葉

きせかえできるねこちゃん

明治大学和泉キャンパス・第一校舎005教室(東京都)

2010/05/07 (金) ~ 2010/05/09 (日)公演終了

満足度★★★★

「愉快な芥川」
「こんな芥川もありだよね!」をコンセプトに、芥川が描いた短編をもとに軽快なオムニバス芝居に仕立て上げた公演。
若者の古典離れが進むなか、とても良い発想だと思った。当初は1時間30分くらいの予定だったが、稽古をしているうちに1時間にまとまったという。
短いが、とても適度な上演時間で、観客は、大人も学生たちも楽しんでいた様子。構成・演出(丸山港都)の手腕が感じられた。
「きせかえできるねこちゃん」は明治大学の演劇専攻の学生たちによる劇団。劇団名からくるイメージは何かPOPないまふうの軽い芝居をやっていそうだけれど、ミヒャエル・エンデやイヨネスコ原作の本格的な芝居を手がけてきた。と、いっても、この劇団の存在を私が知ったのは昨年の秋だったので、これらの作品は観ておらず、非常に悔しい。というのも、全員が4年生なので、今年はあともうひと公演できるかどうか、という状態だそうだ。
卒業後は劇団活動の継続はなく、それぞれが演劇の世界をめざすことになるそうだ。学生劇団のメンバーがそのまま持ち上がりで劇団をつくるケースが少なくないので、期待していたのだが・・・・。
私はこの劇団の主宰・丸山港都さんのセンスがとても好きなので、彼が中心の劇団がなくなるのは寂しい限りです。
この劇団が使用している明治大学の和泉校舎の教室は週末に急遽大学側の行事で使用予定が入ることが多く、今回の公演も金曜日と日曜日の公演が行えなくなり、土曜日2ステージのみとなってしまった。
特に金曜日の中止は急だったらしい。せっかく稽古しても公演が半減するなんてまったく気の毒だ。しかし、「演劇が好きでたまらない!
」という全員の情熱が伝わってくる舞台でした。最後まで見届けたい劇団です。

ネタバレBOX

本日はご来場いただき、ありがとうございます」と言いながら、とて感じのよいお嬢さんがにこやかに客席にお菓子を配って歩く。そして、このお嬢さん(山田志穂)は紙芝居屋に変身して「桃太郎」の紙芝居を始める。
「まさか、桃太郎の項は紙芝居で見せるんじゃあるまいね」と思っていると、桃太郎の鬼退治のところで鬼たちのわーわー騒ぐ声が外から聞こえてきた・・・。突如、ピストルを持ったアロハシャツの金髪男(草野峻平)が乱入。
アロハシャツを脱ぎ捨てて半裸になり、紙芝居屋に襲い掛かり、「服を脱げ!!」と命令。スカートまで剥ぎ取ってしまう。2人の洋服とりかえっこである。草野は凄い迫力だった。そこにケータイが鳴って犬から「急用で行けない」という電話。この金髪男が桃太郎らしい。どう見ても鬼だけどね(笑)。紙芝居の中で桃太郎は大食漢で怠け者のためデブという設定(笑)。
次に桃太郎を捜す2人の謎の中国人がやってくる。赤の男(丸山港都)がちょっと藤井隆風のはちゃめちゃで可笑しい。中国人は、赤鬼、青鬼(青い男=乗富由衣)らしく、桃太郎の侵略がいかに理不尽だったかを説き、「絶対許せないあるね」と言う。このあたり、戦時中の日本軍を批判する現代中国人の言い分のようである。
「きび団子半個で雇った」というきじ(中村優作)や犬(中島綾香)が駆けつけてきて桃太郎に身の危険を知らせる。猿(寺田遥)は蟹と戦って負傷中とか(笑 サルカニ合戦?)。
中国人にお土産にもらった箱をあけると、中にはきび団子が。きび団子を食べた桃太郎の腹の中で時計が鳴り出し、きび団子時限爆弾が爆発する。
「二人小町」。美女の小野小町(中島綾香)のもとに黄泉の使いの黒兎(山田志穂)がやってきて「地獄へ行きましょう」と誘うが、まだ死にたくない小野小町は相思相愛の深草の少将の子を身ごもっているからまだ死ねない、連れて行くなら、自分よりブスで独身で黄泉の国に行きたいと言っている玉造小町(乗富由衣)にしろと言って、使いを追い帰す。深草の少将は小野小町に百夜通いを命じられ、「百夜私の家に通ったら、思いを叶えてあげましょう」と言ったが、とうとう少将は小町に会うこともなく死んだ伝説がある。つまり、小野小町は黄泉の使いにも嘘をついたわけだ。玉造小町は使いの口上に激怒して追い帰す。再び、小野小町のところに行った使いを小町は色仕掛けでまるめこみ、命を永らえる。使いは小町との思いを遂げようと屋敷に行くが、陰陽師の命を受けた三十番神(草野峻平)が屋敷を守っていて入れなかった。
そして月日がたち、小野小町と玉造小町は年老いた乞食(丸山港都と中村優作)となって都大路に座っている。2人とも「長生きしてこんなになるなら、あのとき黄泉の使いと地獄へ行ったほうがましだった」と後悔している。通りかかった黄泉の使いに「地獄に連れて行ってくれ」と頼むが、使いは冷淡に拒絶して立ち去る。話の中ではこれが一番面白く、山田志穂の黒兎がチャーミングだった(兎飛びで移動する 笑)。
「羅生門」。生活に困窮し、懊悩する下人(丸山港都)が、羅生門の下で死体の山を漁る老婆を目撃するが、やがて生きる意欲を取り戻して、羅生門の下から去る話。
下人の心の中の声を4人の俳優(草野峻平、山田志穂、中島綾香、乗富由衣)が演じるが、配役を見なかったので、この4人も困窮者たちなのかと思ってしまった。下人が立ち去ろうとする瞬間、「あ!」と4人がストップモーションで見送るラストが印象的。
3話の間に文学者の名言を読み上げる「侏儒の言葉」Ⅰ(丸山港都)とⅡ(草野峻平)が挟まるが、個人的にはⅠの「恋愛、結婚についての名言」がなかなか興味深かった。
最後に再び中国人が登場し、きび団子爆弾が爆発した後、島で優雅に暮らす鬼たちの様子が紙芝居に登場する。ブラックユーモアの結末だ。
前回の「DAILY」のときより、山田志穂の印象が強く残った。若いときの宮崎美子みたいで可愛い。明大のいろんな芝居に出てお馴染みの草野峻平が
ここでも存在感を発揮。痩せる前のパパイヤ鈴木に似ている。
Dの呼ぶ声

Dの呼ぶ声

劇団たくあん

シアターシャイン(東京都)

2010/05/04 (火) ~ 2010/05/05 (水)公演終了

満足度★★★★

すがすがしい感動でした
東大系劇団「Radish」の旧メンバーを中心に結成された「劇団たくあん」。それぞれ社会に出て演劇とはいったん縁が切れたものの、「やっぱりまた演劇をやってみたい」と集まり、新たなメンバーも加わっての旗揚げ公演。卒業して何年もたつのに、DM送ってくれてありがとう。
「入場無料(カンパ制)」がきいたのか、入りきれないほどお客が詰め掛け、4階のモニターで観劇する人まで出た盛況ぶり。
「CoRichで公演を知った」という声も何人か耳にしたので、情報UPした甲斐があった。次回公演以降、観劇料金をとるかどうかは未定だそうで、「有料公演の際はCoRichのチケプレに協力してください」とお願いしておきました。
学生のころ観てたメンバーなので、芝居の内容はまったくわからぬままご祝儀気分で出かけたが、古城十忍は前から興味を持っていた作家で、こちらも未見。「Dの呼ぶ声」のDって誰だろう・・・・?

ネタバレBOX

2日間公演の初日で、観客整理に手まどったのか開演が遅れたうえ、前説的導入部から開幕までがまた長くて間延びした。隣席で「こんなに遅れるって、自信がないから出ない!って役者がトイレに閉じこもって出てこないんじゃないの(笑)」という声が。でも、無事始まった(笑)。
この劇団の前身、すなわち私が観ていたころの東大系劇団「Radish」は、アンドロイドとか、人間の記憶や深層心理を扱った知的な芝居をやっていた。本作もそのころのイメージに沿った内容でひと安心。
物語はある年の2月の火葬場から始まる。一見したところ、姉妹なのか友人なのか、楓(金岡典子)と桜(岩橋佑佳)が故人の思い出話をしながら「涙が出ない」「出た」と言い合っている。
それから時間を遡り、この芝居は10月から2月までのエピソードをつないだものとわかってくる。
2月に亡くなったのは門脇誠一(山口統)という認知症の老人。そして彼の介護をしていたヒューマノイド(人間的なロボット)の椿(福永加奈子)も共に荼毘にふされたが、これはルール違反。ヒューマノイドは所有者が死亡した際、提供元が必ず回収し、スクラップ処分して記憶チップもリセットすることになっている。ヒューマノイドは所有者の死後、完全に抹殺される運命にあるのだ。
火葬場にやってきたビジネスライクな回収者の朽木伸太郎(飯田真人)は椿も一緒に燃やしてしまったのではと疑い、楓たちに強く椿の引渡しを求める。
椿も桜もヒューマノイド。楓は、難病のために生まれてからほとんどの時間を病院で生活してきた若い女性患者に付き添い、精神的はけ口となってきたが、患者が28歳で亡くなったいまも、その記憶を守るため、回収から逃げて生活している。
桜はアクト(遠藤崇光)というヒューマノイドと共に天野家で生活していた。アクトは、天野家の息子・飛雄(副田隆介)が交通事故で大怪我をして入院中、母の響子(志賀亮子)が寂しさから購入したが、飛雄が退院後、響子はアクトを溺愛していたので、存在感のうすれた飛雄はアクトに嫉妬し、睡眠薬自殺しようとする。アクトは「ヒューマノイドは自分で意志決定できない。寿命も外から決められる。人間はいろんな可能性を持ってるのだから、死なないで!」と飛雄を止める。天野家にはもう1体、コンビニで売っている簡易ロボットがいて、アクトが飛雄にコンビニロボットの説明をする場面が、ロボットの有限性を表現していた。
門脇誠一が椿と葬儀の予行演習をしているのをみつけた息子の航平(反中望)は椿を激しく責める。椿の定期メンテナンスに訪れた朽木は人間的感情を表現できる椿の様子に不審を募らせる。さらに以前、誠一はヒューマノイドを集め、幽体離脱など「死」に関するセミナーを開いていた。
ヒューマノイドたちは製造の段階から寿命が決められており、寿命の長さも3段階あるが、ヒューマノイド自身は自分の寿命を知らないという。
題名のDというのはセミナーでひときわ熱心な受講生D(反中望)のことらしい。椿とDは、ヒューマノイドの寿命が尽きる直前の兆候であるひきつけを起こし始める。
楓は非情な朽木こそ実はヒューマノイドではないかと疑う。回収を迫るうち、朽木はある記憶を取り戻す。楓と朽木は、同じ情景を憶えていた。かつてともにある人のもとで、ヒューマノイドとして生活していたらしい。朽木や楓の記憶は抹殺されていなかったのだ。
一種のSFものだが、しみじみとした感動を残し、よき旗揚げ公演となった。
ほのぼのした好々爺を自然に演じた山口、人間への憎しみを隠して非情に業務をこなす朽木の飯田、いかにもヒューマノイドらしい雰囲気のアクト役・遠藤の3人が特に印象に残った。
今回は学生時代と違い、演出を特に決めず、みんなで話し合って作り上げたそうで、こういう「純粋に演劇が好き」という劇団があってもよいと思う。感心したのは、今回が演技初体験という人もいたのに、芝居の完成度は高く、素人くさくて観ていられないという俳優が1人もいなかったこと。
そのためか、カンパ箱には千円札があふれんばかり。千円以上カンパした人には特製手ぬぐいがプレゼントされた。
くるみわり人形

くるみわり人形

演劇実験室◎万有引力

笹塚ファクトリー(東京都)

2010/05/04 (火) ~ 2010/05/09 (日)公演終了

満足度★★★★★

怪しく、美しく、楽しく-アングラの魅力満載
演劇実験室◎万有引力の本公演50回記念公演。寺山修司が1977年に人形アニメーション映画の台本として書き下ろしたものを岸田理生が潤色し、さらに演劇実験室万有引力のJ・A・シィザーの演出プランにより、初めて上演されることになった。
かつて西武劇場(現パルコ劇場)で上演される予定が実現せず、映画化も実現しなかったというが、人形アニメの「くるみ割り人形」はサンリオ映画によって1979年に映画化され、作詞は寺山修司が担当している。おそらく当初は、寺山の脚本で映画化されるはずだったのではないだろうか。
「残酷メルヘン」と銘打たれ、子供向けの内容ではなかったので採用されなかったのだろう。今回の会場には小学校低学年くらいの子供連れも来ていたが、この年齢でアングラ芝居を体験できたってスゴイ!
この話はクラシックバレエでしか知らなかったが、寺山はホフマンの「砂男」と「胡桃割りとねずみの王様」をベースにして、「夢」と「眠り」の問題に取り組んだ。子供を眠らせようとするために紡ぎだした砂男が夢の中にも出てきたらどうなるんだろう、という寺山の問いかけ。
舞台はとにかく、怪しく美しく楽しく幻想的で、ワクワクした、中学生のころ、中に入ることができず、想像していた自分の中の60年代アングラ劇「天井桟敷」のイメージそのままで感動した。暗転が多いが、通常の芝居の暗転とは異なり、闇が舞台の要素のひとつになっている。昔、「アングラ劇は闇を味方につけた演劇」と言った人がいたけれど、まさにそのとおりだと思った。

ネタバレBOX

少女クララがおじのドロッセルマイヤーに似た時計修理人と一緒に人形の国へ旅をする。人形の国ではマウゼリンjクス家のねずみと対立し、ビルリパート姫がねずみ王子の剣で眠らされてしまう。クララたちは王さまから姫を起こすよう命じられ、失敗したら死刑だと言われる。森の占い師・不思議婆さんから「世界一固いくるみを割って食べさせることができれば、姫は助かる」と教えられるが、その資格があるのは「かみそりで髭を剃ったことがなく、長靴を履いたことのない男の子」。この条件にかなうのは時計修理人の甥・コッペリウス。コッペリウスは姫の覚醒に成功するが、ねずみ王子に胡桃割り人形に変えられてしまう。クララの胡桃割り人形を白いバイオリンの箱に入れて家に持ち帰る。クララは「目を開けているときには見えず、目を閉じたときに見えるもの」の謎を解き、「それは夢だわ!」と気づいたとき、夢に現れたすべての人々がやってくる。
俳優たちは衣装を脱ぎ捨て、黒のレオタード姿で舞台を去る。脱ぎ捨てられた美しい衣装が舞台に残って終わる。、すべては夢の中の出来事。
寺山はこの作品に「世界がグロテスクに歪み、われわれの目玉の入れ替えが行われることも起こっている」という警告を込めているそうだが、難解な部分はよく理解できなかったものの、幻想劇はじゅうぶん楽しめた。
コッペリウスは本来「砂男」の名前だが、この芝居ではくるみ割り人形の王子と同一人物。闇の中を目玉が火となって回ったり、歌うオペラ時計が登場したり、見世物小屋のような面白さ。
帰りの駅のホームで「オチのない芝居はよくわからないねぇ。あの芝居でいったい何を言いたかったんだろう」と若者たちが困惑していた。
CoRichの情報欄を見ても万有引力への反響は少なく、こういうアングラ芝居が若い層にはあまり受けなくなっていることは事実らしい。
KIND

KIND

劇団伍季風 ~monsoon~

アイピット目白(東京都)

2010/05/01 (土) ~ 2010/05/04 (火)公演終了

満足度★★★

ずさんなストーリー展開に唖然
病院が舞台。シチュエーション・コメディー風のわずか一昼夜の時間経過の中に癌の余命宣告という重いテーマを盛り込んだ展開に無理がある。単純に笑って観てもいられず、この矛盾がストーリーの上で露呈することが大いに気になった。
作・演出家の尚樹翔は「なおきしょう(直木賞)」あるいは「しょうじゅしょう(賞受賞)」と読むのだろうか、なかなか縁起の良い名前ですね(笑)。

ネタバレBOX

入院患者・小柳(宇田川大介)がベッドのうえで寝言で「開演に先立つ諸注意」を話す幕開きにまず笑った。
オープニングに次々と役者が出てきて小道具や衣装に書いてある役名を客に見せて自己紹介していく演出も面白い。
ただ、この劇団が好むやたらハイテンションのダンス場面は観ていて気恥ずかしくなった。
会社で貧血を起こして倒れた鑑課長(加藤大騎)は、同級生富田(調布大)が院長を勤める病院に運ばれる。そこには課長の長女(斉藤千夏)が看護師として働いている。
仕事の忙しさにかまけて長年家庭を顧みなかったためか、家族の反応は冷たく、妻(野本紗紀惠)は離婚も考えている。課長が癌であることが判明し、動揺する家族。
改めて家族の絆の大切さに気づき、家族の心がひとつになる、という想定内の決着だが、気になる点がたくさんある。
富田は課長が寝ている間にいろいろな検査を実施したら、胃ガンの疑いが出てきて、自信がないから知り合いの大病院の医師に判断を仰いだという。ひと晩寝ている間にすべての検査がすむならどんなにラクなことか(笑)。意識不明で胃カメラを飲んだのか?あちこちに転移って、翌日に結果がすぐわかるのか。せめて肺ガンにしておけば、病床用レントゲンもあるのでまだごまかしがきいた。しかも、指導を仰いだ医師だってカルテをもとに精密検査もしないで、電話で余命1年の診断を下すなんて。末期なのに、自覚症状もなかったのか。
鑑の同室の小柳が、手足を骨折して身動きがとれないのに、ジャージーの上下の部屋着を着ている。こういう場合、病院では看護師が排泄や清拭の介助の必要があるため、着脱容易な前開きの寝巻きを着せるのが普通。
師長(狩野裕香)が車椅子や松葉杖もなく、小柳を歩かせて散歩に連れ出すが、このような重症の骨折患者の場合、理学療法士が付き添って室内リハビリを行う以外考えられない。面会時間前に病室に入ったと見舞い客を看護師の長女が大声で怒鳴りつける場面も静寂を保つ病院ではありえない。
課長が倒れた直後、手回しよく優秀な女子社員(下嶋亜由美)が出向してくるが、着任してすぐ、3人分の仕事をテキパキと片付け、社員の出る幕がないという。プログラムに派遣社員とあるが、本社からの出向社員のことでは?
一緒に観劇した連れが「どんなに簡単なプロジェクトなんだ。企業はそんな甘いものではない。劇中にある引継ぎの命令系統もおかしいし、いくら喜劇でも社会常識を超えてこんなリアリティーのない芝居は観るに耐えない」と、終演後、ひどく憤慨していた。
劇団代表で看板俳優の栗原智紀の名がチラシやプログラムに出ていないので、おかしいなーと思ったら、課長の贔屓の菓子屋(水谷真利子)の婚約者の職人役で出てきた。自作のプリンをまずいとけなされて病室に乗り込んできた菓子職人は、病室にいる俳優たちをいじりまくり、一発芸などを強要して笑いの場面をつくる。役者いじりで笑わせるのは結構だが、しつこすぎてこの場面そのものが浮いており、客よりも栗原が楽しんでいるのがいただけない(笑)。そのあとの娘による癌告知の場面が深刻で重要な場面なのだが、長男(小澤史弥)の反撃もTVドラマの常套句で、家族の描写が表面的できめ細かさが足りないので、唖然としてしまう。
役者いじりはスパイス程度でないと、逆効果。本末転倒だ。
最後に1千万円の宝籤が年末ジャンボとグリーンジャンボを取り違えていたというオチがつキ、ドタバタ風に終わるが、主人公が癌では笑えない。どうせご都合主義なら「誤診」とか「勘違い」の手法でハッピーエンドに収めてほしかった。
課長役の加藤が「課長が・・・」と言い間違えたり、看護師の大島(小島亜梨紗)が富田院長に向かって「お父さん!」と叫んだり、どうなってるんだ(笑)。富田の娘も看護師なのか?鑑の娘は看護師だけど・・・?
俳優では、宇田川、水谷、調布、狩野が面白かった。妻役の野本はかなりの美女だが、初舞台ということを演出家が配慮したのか、出番が少なく、動きも最小限だったのが残念。本来なら、ドラマ上はもう少し夫婦の会話がほしかったところ。非常に声が小さいと思ったが、ボイストレーニングを積めば解決できることなので、今後に期待。しっとりした大人の役を観てみたい。

闇の光明 Lux in Tenebris

闇の光明 Lux in Tenebris

東京演劇集団風

レパートリーシアターKAZE(東京都)

2010/04/27 (火) ~ 2010/05/01 (土)公演終了

満足度★★★★★

ブレヒトによる「性の寓話」
初見の劇団。ご贔屓の「東京演劇アンサンブル」と活動状況に共通点がある劇団があると、夫が教えてくれたので、観に行ってみました。
なるほど、専用劇場を持っているとか、学校公演を行っている点やHPのつくりなども東京演劇アンサンブルと似ている。

本作は「性の寓話」だが、ブレヒトはこういう短編茶番劇も書いていたんですねぇ。
高台の舞台の3方を客席が囲む。舞台装置や「場」の説明、ト書きなどを俳優自らが行うのが印象的。
女郎屋の建物をミニチュアで配したり、女郎屋のランタンの「青い灯、紅い灯」を表現した照明や軽快な音楽など、アンティークな雰囲気がとても洒落ていた。松本修の演出と似たところもある。
上演時間は約1時間と短いが、最近2時間以上の小劇場芝居が続いたせいか、すがすがしく感じた。上演時間が長ければいいというものではない。先ごろ、同じブレヒトの「アルトゥロ・ウイの興隆」をピーチャム・カンパニーで観たが、あの長時間屈葬状態の悪環境での観劇のときとは別世界の快適さ。
大人の鑑賞に堪えうる劇団にまたひとつ出合うことができた。とても嬉しい。

ネタバレBOX

売春窟通りで、興行師パドゥークが「<光あれ>国民に衛生教育を!」の看板を掲げ、テントの中で「性病」に関する怪しげな展覧会を始め、怖いものみたさに客が詰め掛けて、連夜満員札止めの盛況ぶり。そのせいで女郎屋は軒並み閑古鳥が啼いて灯りも音楽も消え、さびれてしまう。ホッゲ夫人が直談判にやってくるが、パドゥークは取り合おうとしない。かつてパドゥークは、ホッゲ夫人の経営する女郎屋の客だったが、持ち金が足りずに追い出されたことを根に持っていた。
パドゥークは展覧会の成功に味をしめ、「性教育映画」の上映会も目論む。
もとよりパドゥークの目的は「衛生や性道徳の啓蒙」などではなく、金儲けである。懐が温かくなり、ほくほく顔のパドゥークに、ホッゲ夫人は、こういう見世物は一度見たらおしまいでリピーターは期待できないから、早晩、興行はすたれることを説き、それよりも女郎屋で遊んだほうが楽しいに決まっていると、娼婦の写真を目の前でちらつかせる。展覧会のために禁欲生活を送っていたパドゥークはたちまち興奮して女郎屋に出かけてしまう。音楽と酒、女、やっぱり、こっちのほうが楽しいことを悟る。
5人の俳優が1人何役かを演じるが、パドゥークの車宗洸とホッゲ夫人の辻由美子のやりとりが面白い。男の役も演じる辻はズボンにブーツを履いているが、ホッゲ夫人のときだけスカート姿になってほしかった。ロングの巻きスカートなどを使えばズボンの上から着脱できるのに。演技の途中で俳優が観客の隣に腰掛けて顔を覗き込んだり、楽しい演出。
「闇の光明」という題名に象徴されるように、この芝居のもうひとつの主役は照明だ。パドゥークが見世物テントに明るい白色照明を使ったことにより、周囲の女郎屋のランタンの灯りがかすんでしまったのである。しかし、その光明も、所詮は売春窟という闇があってこその光明であったという皮肉。
やっぱり、ブレヒトは面白い!
おるがん選集 春編(上演台本付き/カフェ営業あり) 

おるがん選集 春編(上演台本付き/カフェ営業あり) 

風琴工房

ルーサイト・ギャラリー(東京都)

2010/04/26 (月) ~ 2010/04/29 (木)公演終了

満足度★★★★

桜-和服の所作に気配りが必要
今回の公演、カフェのスタッフの女性は全員和服姿で、マダムは女優が日替わりで勤めていたようだ。なかなかよいアイディアですね。
和服を着たときの立ち居振る舞いというのは本当に難しい。
今回、お客の中にも和服姿の若い女性がいたが、席に着くと、みな正座ができないらしい。訪問着を着て、体育座りをして観ているのには絶句した。
いくらきれいな着物を着ても、これでは着物が泣く。興ざめである。昔から「立てば芍薬、座れば牡丹、歩く姿は百合の花」って言うでしょう。和服を美しく着こなすには、着ただけではダメ。まずは正座の練習から始めないと(笑)。
小劇場でも時代劇が増えてきたが、役柄、年齢によって所作も違うが、出来ている女優はほとんどいない。わたしが小劇場の時代劇を観たくない理由もそこにある。そのへんのことをネタバレでも述べてみたい。「濹東綺譚」の項で。

ネタバレBOX

「寡婦」。モーパッサン原作だが、華族令嬢の話に置き換えている。令嬢が問わずひとり語りで、血の繋がらない甥の弦(ゆずる)との悲恋を回顧する。
この令嬢は未婚で寡婦という設定。寡婦といっても、心の妻だったのですね。何やら最近のフジの昼ドラみたいな話。松木美智子は青海波の総模様の振袖姿が美しい。
鉄仮面のように無表情な女中の上野理子がいい。弦の五十嵐勇は背が高いせいか、猫背で姿勢が悪いのが残念。姿勢が悪いと高貴な役に見えないし、和服は着映えがしないのだ。
「濹東綺譚」。客の大江は青年団の芝居でもおなじみの篠塚祥司。こういう役は彼のように年のいった俳優でないと無理だろう。良い配役だ。上野のマダムは、「寡婦」の女中とは正反対で饒舌な役だが、生活感を出すのには、ちょっと演技がぎこちなかった。雪の津田湘子は、商売女の色気がないので玉ノ井の女には見えない。どう見ても、この芝居は女子大生のアパートを訪ねた援助交際の中年男といったふうだ。蚊帳を吊る後姿ももっと肩の線に気をつければきれいに見えるのに。結果、雪の所作が気になって、芝居として楽しめなかった。
女郎は、腰で立つといい、外股で歩くのが所作の決まり。たて膝や体育座りも実は女郎特有の仕草で、私などは家の中でうっかりこれをやると、「はしたない」と母に膝をパチーンと叩かれたものです。ラブシーンでも、和物は上からガバッと抱きついては色気が出ない。下、斜め横から抱きつくのですよ。「濹東綺譚」のような芝居は、そういう所作ができていないと無理です。
五十嵐勇の小僧は庶民の役なので、猫背でもまあ、よいでしょう。
レトロな芝居は、演出とは別に、所作指導や時代考証が必要。きちんとやれば、深みが違ってきます。総ざらいのときにチェックしてあげたら、だいぶ違ってきたと思う。
豊田四郎監督の映画「濹東綺譚」でも観て、学んでください。山本富士子のお雪をお手本に。あれが玉ノ井の女ですよ。
和物の所作に自信のない劇団のかたは、無料で教示しますので、私までご連絡ください(笑)。
次の「おるがん選集」の際、せめて、わたしが所作のお手本に集めた美人画画家の小説挿絵のコピーでも差し入れましょう。



おるがん選集 春編(上演台本付き/カフェ営業あり) 

おるがん選集 春編(上演台本付き/カフェ営業あり) 

風琴工房

ルーサイト・ギャラリー(東京都)

2010/04/26 (月) ~ 2010/04/29 (木)公演終了

満足度★★★★

藤-風情のある会場にて
ルーサイトギャラリーのことは以前、TVの情報番組で知ったが、詳しく場所が紹介されず、開館されていない日もあるとのことだったので、行く機会もないままになっていた。今回おるがん選集の会場がそこと聞いて、大変嬉しく、早速予約した。
建物の持ち主だったという芸者さんは元祖美人歌手の市丸姐さんのことだった。お若いかたは市丸という芸者歌手をご存知あるまいが、わたしは生の歌も聴いたし、一度だけお会いしたこともある。父の学生時代の友人がレコード歌手をやっていて、その人のスポンサーが市丸さんとも親しく、うちの隣家に住んでいた関係で、リサイタルのお祝いに行った。そのとき、市丸さんがゲストで来ていた。昭和32,3年ごろだったと思う。当時、わたしが熱中していたのは日本髪の女性の絵を描くことだったため興奮して、楽屋の艶やかな市丸さんの傍を離れず、市丸さんは自分の簪を抜いてわたしに見せながら、「お嬢ちゃんはよっぽどこういう物が好きなのねぇ。大きくなったら、いくらでもお着物着れるし、簪も付けられるわよ」と言われて期待に胸がふくらんだものだ。そんなことを併設のカフェで懐かしく思い出していた。
今回は、桜、藤、両公演とも続けて観劇した。まずは「藤」から。

ネタバレBOX

太宰治の「親友交換」。太宰がモデルであろう津島(浅倉洋介)という作家が、終戦直後、田舎に帰っているところへ、幼馴染だと言ういけずうずうしい男・平田(好宮温太郎)がふらっと現れ、支離滅裂なことを言い散らかし、応対を強要した津島の奥方(松木美智子)にも悪態をつき、ウィスキー、毛布、金、タバコ、いろんなものを略奪同然に受けとり、酔っ払って帰っていく。
結局、平田は金や酒を無心しに来たのであり、津島の旧友というのもたぶん口から出まかせなのだろう。しかし、終戦直後のどさくさにはこういうでたらめな嘘を言って縁もゆかりもない他人の家に上がりこみ、「押し借り」という悪事をはたらく者が多かったという。それほど、終戦は世相が混乱していたということである。終戦からだいぶたった私の幼いころでさえ、こういう輩はいて、家にもやって来た。父の知人を装って戦時中の話をし、事情を知らない母が金品を渡してしまったこともあった。
好宮は、こういう「どさくさ男」のうす気味悪さをよく出していたが、時折、ふとした瞬間にこの役ではなく、現代人のような表情をしてしまうのをわたしは見逃さなかった。残念。玉に瑕です。
浅倉は、この時代の人物がとてもよく似合っていた。
カフカの「流刑地にて」。判決文の紙を機械の中にセットすると、自動的に罪状を囚人のからだに刻み付けたうえで殺害するという「人の胴体型」をした実に残酷な死刑執行の機械の話。
流刑地を訪れた旅人=外国の皇太子殿下(五十嵐勇)と従者(松木美智子)は、そこの裁判官だという将校(浅倉洋介)から、その機械の説明を受ける。機械はこの国の前司令官が考案・施行したものだという。
将校は殿下に処刑を見学するように頼むが、殿下はこの刑罰制度に反対の考えを述べる。全否定されたと解釈した将校は刑の執行を待っていた囚人(好宮温太郎)を放免し、手に持っていた「正義をなせ!」という判決文の紙を機械部品にセットし、機械のある別室に入っていく。たぶん、機械の中に入り、自らの刑を執行したのだろう。
この芝居のもうひとつの主役はこの機械の立体設計図。詩森さんによれば、専門家に製図してもらったそうだ。著作権料の関係でダメだったのかもしれないが、願わくば、当日のお土産台本に図版として入れてほしかった。
役名は「旅人」とは言え、軍服の将校、ジャケットを着た従者に比べ、殿下の衣装だけがいまふうのニット・カーディガンというのが気になった。ミリタリー調の感じを出すマオカラーのジャケットでも着てほしかった。
恋愛恐怖病

恋愛恐怖病

東京演劇アンサンブル

ブレヒトの芝居小屋(東京都)

2010/04/28 (水) ~ 2010/04/29 (木)公演終了

満足度★★★★

フランス映画のような短編
2日間・2班に分かれての公演なので1班しか観られないのかと思っていたら、45分の短編で、2班続けて上演されたので両方とも観ることができた。研究生の公演なので身内しか観に来ないのかと思ったら、通常の公演同様、満席だった。改めて、この劇団が地域の人々や、本物志向の演劇愛好家たちに愛されていることを知った。
また、岸田國士の未見の作品を観る貴重な機会に恵まれたことにも感謝。
「フランス映画」のような作品だと思ったが、岸田がフランスから帰国後に書いた作品。岸田國士は、わが国でまだ恋愛結婚自体が珍しかった時代の作家だ。劇の内容と岸田國士の恋愛観についてはネタバレで。

ネタバレBOX

第一場。砂浜に腰をおろし、女は歌を口ずさむ。男は女に好意を持っている。女は「自分は男女の別なく、恋愛感情ではない友情を育むことが可能な人間なのだ」ということを男に伝える。
しかし、男に、突然、女は男言葉で話しかけながら接吻し、男は女の心をはかりかねた様子で動揺するが、女は冗談だと言う。男は走り去る。女はひとり声を出して笑うが、男のあとを追うように走り去る。
第二場。「男」と「別の男」が砂浜に腰をおろしている。「別の男」は、彼女は自分に異性としての感情を持った男性をことごとく拒絶し、二度と会わないのだ、実は自分もその一人だが、きのう彼女と結婚したのだと告げる。「女」はあのあと、砂浜で泣いていたという。そして、結婚後、トランプのハートをすべて破り捨て、自分に対してLOVEという言葉を決して口にせぬように命じたのだと言う。「別の男」は結婚で彼女の肉体は得たが、心は得られず、彼女の心は「男」のもとにあると言う。「女」はその想いを封印して「別の男」と結婚をしたのだ。「女」は「男」に自分も惚れたことで敗北したと思ったようだ。「女」は自分を異性として意識する「男」に対して、初めて愛を感じたが、「女」と「男」、互いに相手の裏の裏をかきあったのかもしれない、と「別の男」は「男」に言う。「別の男」は、「男」がほかの同級生たちのように自分を資産家で高額納税者の家のドラ息子として扱わなかったことで、「男」に好感を持ったのだと語る。「男」は当然だと答える。「別の男」が去ったあと、「男」の耳に女の歌声が幻聴として聴こえてくるところで「完」。
本作に、新聞の連載小説で、岸田國士のベストセラーとなった「暖流」との共通点を見出すことができて興味深かった。「暖流」で自ら身を引いた令嬢啓子が涙を見られまいと波打ち際で顔を洗う場面は有名になったが、自尊心が強い啓子は、本作の「女」を思わせる。しかも、芝居がかった啓子のこの仕草が、実生活ではドラマチックな恋愛をすることなくほとんどが見合い結婚していく当時の若い女性たちの紅涙を絞り、新しいタイプの行動的な女性像として憧憬を得た。「暖流」は映画化され、大ヒットし、当時まだ無名の若手だったのちの恋愛映画の巨匠・吉村公三郎の出世作となった。本来、前後編3時間の長編映画なのだが、松竹には2時間に編集したフィルムしか現存していないという。これも私が以前説明したように、TV放映の弊害の典型例と言えよう。「暖流」はその後も何度か映画、TVでリメークされ(近年も昼ドラで放送された)、時代に合わせて主役像が変化していったが「恋愛恐怖病」は、ヒロインの性格描写に「暖流」の原点が見てとれる。
「男」、「女」をそれぞれ研究生が演じ、別の男の役を劇団員の大多和民樹が演じた。芝居は、一班が本多弘典と川上志野、二班が坂本勇樹(劇団員)と天利早智コンビで、二班の芝居から始まった。
本多、坂本ともに、この劇団の男優らしく、実直で古風な味を持っている。坂本が端整で凛々しい正統派二枚目風なのに対し、本多はナイーヴな草食系男子っぽい感じ。女優は、天利は口跡が良く透明感があり、川上は中性的で少しコケティッシュな雰囲気があった。
今後、彼らがどんな俳優に成長していくのか、楽しみである。
天利はこの時代の良家の女性の言葉遣いの「・・・してよ」の語尾のアクセントがおかしく、命令形に聞こえてしまうのを気をつけてほしい。稽古のときに演出家は注意しなかったのだろうか。劇団員の大多和、坂本が先輩として研究生の芝居をしっかりと受け止める。大多和の演じる「別の男」により、この恋の全貌が語られ、男女の心理分析が行われ、2人の人間像が浮かび上がるという重要な役まわりで存在感を示した。
演出を担当したのは先輩俳優の松下重人。女優2人の演技をあえて抑揚のない棒読み調にしゃべらせることで、「女」のとらえどころのないミステリアスな性格を浮き彫りにしたのだろうか。
波の音が効果的で、いっそう「暖流」を想起させた。
およそ確たる恋愛観を持たず、恋バナに興味がない私にとっては、このような恋の駆け引きは複雑でよく理解できなかった(笑)。
風琴工房が「おるがん選集」で上演すると面白いと思い、先日、同劇団のアンケートでリクエストしておいた。

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