満足度★★★★★
シェイクスピアを下敷きにして、野田秀樹+宮城聰の『真夏の夜の夢』
シェイクスピアの『夏の夜の夢』に野田秀樹さんが人間的な深みとユーモアを増し、それを宮城聰さんがスペクタクルな夢の舞台に仕上げた。
ネタバレBOX
シェイクスピアの『夏の夜の夢』に野田秀樹さんが手を加えた(潤色)作品。
オープニングで「そぼろ」(シェイクスピアの『夏の夜の夢』では「ヘレナ」)が発する台詞も「気のせい=木の精」「夏のせい=夏のせい」という具合に言葉遊びが乱発される。
劇中もほぼそんな感じで、いかにも野田秀樹さんの台詞であるな、と。
全体的にユーモアもあり、テンポがいい。
テンポの良さは、舞台正面後方で演奏されるパーカッションたちの要素もある。
演奏には俳優たちも加わり、テンポの良いリズムが刻まれる。
聞いたことのあるようなメロディ(例えば、ダウンタウンブギウギバンド『港のヨーコ・ヨコハマ・ヨコスカ』など)も加わり、それが内容とリンクして効果的であったりするので、さらに顔はほころぶ。
冒頭に「花金」という老舗料理屋? 旅館? が登場し、そこがシェイクスピアで言うところの「アマゾン国(王国)」であることがわかるので、これは『夏の夜の夢』ジャパネスク・バージョンかと思いきや、そうではなく、大胆に手が加わっていた。
妖精王のオーベロンと女王タイターニアが揉める原因となる「美しい少年=取り替えっ子」が舞台に登場するのだ。
この「取り替えっ子」は、シェイクスピアでは姿を表すことがないキャラクターだ。
「取り替えっ子」(この作品では「捨て子」と言っていたように思う)が、実は誰だったのかはストーリーをかなり先に進めないとわからない仕掛けになっている。
これがこの作品で大きなキーとなっている。
「取り替えっ子」は、悪魔メフィストフェレスであった。
彼は美しい少年に姿を変え、妖精の女王のもとにいたのだ。
シェイクスピアの『夏の夜の夢』は、受け入れられない結婚と恋愛関係を巡り、妖精の棲む森の中で起こる、一種のドタバタなのだが、「メフィストフェレス」という“黒い要素”を一滴垂らすことで、人間の内面にある醜さのようなモノを炙り出したとも言える。
それによって、物語に深みを増したのだ。
メフィストフェレスの登場により、混乱するストーリーはさらにこんがらがってくる。
メフィストフェレスがオーベロンやタイターニアと交わした契約書や、そぼろ(ヘレナ)が交わした契約書も出てくることで簡単に解決へと進まない(契約破棄には“1ポンドきっかりの言葉”っていうのは、たぶん『ヴェニスの商人』から来ているんだろうなあ)。
その展開がなかなか面白い。
「メフィストフェレスをこの森に呼び込んだのは誰か」ということで、そぼろが自分だと悟る。
つまり、どこかそういう暗い感情が自分にあったことに気づかされるのだ。
しかし、先に書いたとおりに、メフィストフェレスは捨て子の姿で自ら森に紛れ込んでいたことが、メフィストフェレス=捨て子ということからわかるのだ。
これは何を示しているのか。
そぼろが感じた「自分がメフィストフェレスを呼び込んでしまった」という感覚も間違いではなく、誰の心の中(根底)にもそういう“魔物”が棲んでいるということなのではないか。
自分たちが気づかぬうちに、知らず知らずにそういう魔物を引き入れてしまっているということなのだ。
シェイクスピアでは「取り替えっ子」と言っていたと思うが、ここでは「捨て子」である。
「取り替えっ子」は、妖精が人間の世界から勝手に子どもを連れ去っていく者なのだが、「捨て子」は違う。
自ら選択するものと、そっとそばにあるものという違いがある。
つまり、その違いも意味するところは大いにあると思う。
さらに、シェイクスピアの「取り替えっ子」は先にも書いたとおりに、王と王女の諍いの原因なのだが、台詞として出ててくるだけで舞台の上に姿を現さない。
それを「舞台の上に姿を見せた」のは、野田秀樹さんのの企みのひとつではないのか。
舞台の上に姿を現さない者の怨念であり、さらに“見えないモノ”に本質があるということを表しているのではないのか。
結婚式で芝居を披露する者たちの演目は、この作品では『不思議の国のアリス』である。
そこには、迷い込んでしまったアリスと、森に迷い込み、恋愛に迷い込んでしまった、そぼろを重ね合わせるという、言葉遊びにも似た面白さがある。
妖精たちの舞台衣装は、布に新聞紙をプリントしたようなものであり、薄いクリーム色地に黒のモノトーン。
舞台全体もそういう感じ。
宮城聰さん作品らしく、主張が強い衣装等だ。
対する人間たちは、白い衣装で、そぼろ(ヘレナ)だけが灰色の衣装。
メフィストフェレスは妖精と同じようであるが、黒の面積が大きい。
もう、衣装だけで、役割がわかってくる(見終わってからわかるのだが)。
とても素晴らしい衣装とセット、装置。
そんな妖精たちが舞台に溢れる様は、不気味であり悪夢のようでもある。
もちろん役者は、そんな“主張の強い衣装や装置”に負けることはない。
舞台に立つポール(ハシゴのような足を掛けるところが付いている)に上り、つかまったりもする。
パーカッションの音楽が鳴り響き、舞台の上のテンポを補助する。観客もそれに急き立てられる。
そぼろ役の本多麻紀さんと、メフィストフェレス役の渡辺敬彦さんが印象に強く残る。
客入れのときからオープニングまで、雑踏のSEが聞こえていた。
テント芝居を思い起こすようで、内容的にも(特に冒頭)アングラ度が強いためそれを感じた。
客いじりもあったりした。
エンディングは、確かシェイクスピアではパックの「われら役者は影法師……」という台詞で終わるのだが、この作品では役者がずらりと並びその台詞を客席に向かって放つ。内容に手が加わっていたかどうかはわからなかったが。
オープニングの雑踏SEから舞台作品に入り、ラストの台詞で観客はもとに戻ってくる、という仕掛けなのだろう。
満足度★★★★
なぜその人を愛してしまうのか
それは、他人にはわからないものである。
さらに本人もわからないのでせはないか。
この作品では、それがじっくりとねっとりと描かれていた。
ネタバレBOX
情熱的な愛を歌い上げるミュージカルかと思っていたら、かなり違っていた。
愛し合う美男美女(の設定だと思う・笑)。
しかし、ジョルジオが国境守備隊への転属することで、それが引き離されてしまう。
守備隊で出会うのは、上官の従姉妹で病弱の女性・フォスカ。
ジョルジオは、病弱な彼女に憐れみをかけることで、彼女から惚れらてしまう。
ジョルジオは、恋人がいるため彼女の愛を受け入れることはしない。
しかし、フォスカはジョルジオにストーカー的とも言える一方的な愛を注ぐ。
さらに、ジョルジオには、先の短い彼女に対して会ってほしいと、軍医からのプレッシャーもかかる。
しかし、ジョルジオが残してきた彼女・クララは人妻であった。
したがって、ジョルジオはどちらに転んでもいい結末を迎えることができない予感がする。
そんなストーリー。
ジョルジオが国境守備隊へ転属して以降、守備隊の食堂には女性(クララ)の悲鳴が響く。
観客としてはとても不安になる。
この時点では何が起こっているのかわからない。
その悲鳴の女性、フォスカが舞台に登場するのだが、これでもか! というぐらいに暗い。
舞台の雰囲気を一気に暗闇に落とし込むようだ。
観客の多くは主人公・ジョルジオの気持ちで舞台を観ているだろう。
そうすると、フォスカの愛情はとにかく恐く感じる。
「早くきっぱりと断ればいいのに」と誰もが思ったことだろう。
もちろん、ジョルジオも断るのだが、上司の従姉妹であり、彼女が命が短く病弱ということもあって、彼は完全に振り切ることができない。
ジョルジオが休暇をとって列車に乗っていると、フォスカもやってくるシーンなんて、恐すぎるし、倒れた彼女を置いていくことができないのも理解できなくはない。
まさにがんじがらめのジョルジオはどうなるのだろうか、と思っていた。
一方、ジョルジオとクララとの関係もなんとなく危うくなってくる。
中盤で明らかになるジョルジオとクララの関係には、驚いた。
冒頭の2人のラブシーンが皮肉めいて見えてくる。
不倫関係であって、クララは子どもと別れたくないという気持ちがあるから、もともと無理のある関係だったのが、ジョルジオと物理的な距離を置くことで、さらにそれがジョルジオにとってもあからさまになってしまったのだ。
互いに都合の良いときだけに逢瀬を重ねていたときには気が付かなかったということだ。
「目の前に恋の相手がいるときには相手は見えていない」ということなのだろう。
「(夫と)別れてくれ」と懇願するジョルジオに対しての、クララの回答はジョルジオからすれば、「この女もか」と思ったのではないか。
ストーカーのフォスカと同じで「自分のことしか考えてない」、つまり「女ってヤツは!」と。
ここで、ジョルジオはクララとの関係についてようやく“目が醒め”、“現実を見ることができた”のではないだろうか。
こうなると、あんなに鬱陶しかったフォスカとの関係も改めて別の角度から見ることができたのではないか。
ただ、ここの彼の気持ちの変化には正直共感できない。
好きでもなく、逆に疎ましいと思っていた女性からの愛情を受け入れようと思える瞬間はあるのだろうか。
“気に掛かっていた”相手が急にクローズアップされることはあったとしても、こんなにイヤな思いをしていた相手に対して。
なので、フォスカの従兄弟の上司が、勘違いによりジョルジオに激怒するときの、ジョルジオの態度はどこかやけっぱちというか、投げやりな感じに見えてしまった。
「もう、どうでもいい」と。
にしても、ジョルジオって「恋愛のことしかないのか?」とつい思ってしまった。もちろんそれがテーマなのだから仕方はないのだが。
それが彼の世界の大半を占めているように見えた。イタリア人の男だからか、というのは偏見か(笑)。
恋愛というものは、錯覚や思い込み、幻想、理想などが複雑に絡み合ったものである。
そして、“なぜその人を愛してしまうのか”は、他人には理解できないものであり、本人もわからないのだ。
この作品では、それが描かれていたのではないかと思ったのだ。
結局本人にしかわからないものだ。
それは「恋愛の相手にもわからない」のでもある。
この内容はどちらかと言えば、ストレートプレイの舞台として、じっくり台詞と演技を楽しむもののほうがよかったのではないかと思った。
ミュージカルって、たいてい観劇後にはテーマ曲など印象的な曲が頭の中に鳴っていることが多いのだが、この作品にはそれがなかった。シーンとしての印象のほうが強かった。
舞台セットはシンプル。
主なキャストの、井上芳雄さん(ジョルジオ)、和音美桜さん(クララ)、シルビア・グラブさん(フォスカ)の3人がとても良かった。
井上芳雄さんは、優男で折れやすそうな感じのイケメン風が、和音美桜さんはジョルジオに愛を注ぐ恋人から人妻の顔の変化が、そしてシルビア・グラブさんはとにかく暗いのだが、半ば強引であるところや、彼女がジョルジオに対する想いを手紙を書かせるということで表現した歌が、あまりにも強く溢れ出し、それが激しい愛情表現であり、裏返せば“(ジョルジオにとっての)恐怖”でもあることが伝わってきたところなどが良かったのだ。
満足度★★★
ポップンマッシュルームチキン野郎はこんなレベルではないと思う
大作にしてしまったためか、登場人物も多い。
しかし、毒も笑いもいつもより少なく感じた。
いつもの彼らの面白レベルには達せず。
もちろん、ほかと比べれば、面白いことは面白いんだけどね。
好きな劇団なので、少々辛口になった。
ネタバレBOX
このストーリー、チラシを見たときから「こんな話かな?」と思っていた線を大きく外れてなかった。
すなわち、小劇場系のファンタジー系作品でよくあるパターン、「大昔から現代まで長い時間を生きてきた者が主人公」というものだ。
最近では、再演された関西の劇団ショウダウン『パイドパイパー』がそれだった。
驚くほど熱い舞台で、いろいろ突っ込みどころはあるものの、勢いで押し切った感があった。
しかし、『錆びつきジャックは死ぬほど死にたい』は、ストーリーに特に捻りもなくストレート。
しかも、その熱さは足りない。
「熱さ」はもともとポップンマッシュルームチキン野郎には溢れるほどあったはずなのに!
本作は、「ポップンマッシュルームチキン野郎」と「ぴあ」の共同制作プロジェクトだという。
その制約があったのか(自主的なブレーキを含め)、いつものポップンマッシュルームチキン野郎で見ることができる、アブナイ・ネタが影をひそめていた。
アブナイ・ネタがどうしても見たいということではなく、それらの舞台上でのコントロールの仕方が彼らの持ち味であるからで、それがないとどうも寂しい。
ポップンマッシュルームチキン野郎は、悪ふざけをしているようで、その実、とてもよくコントロールされていて、物語の構成もしっかりしていて、「芯」がくっきりしている。
その「芯」が情感に訴えるところに見事に持っていく上手さがある。
そこが面白いのだ。
悪ふざけ(風)で、単に笑わせました、とならないところだ。
しかし、今回は、どうもそういった彼らの上手さ、面白さには繋がっていかなかった。
「CBGKシブゲキ!!」という劇場のインパクト、その劇場にふさわしい高めの料金設定、さらに「ぴあ」というエンタメ系の大企業とのコラボということからか、気負いが強すぎたのではないだうろか。
その劇場にふさわしい内容、その料金にふさわしい内容、さらに「ぴあ様」(笑)に不快感を与えない内容ということで、座組を含めてスケールアップしてしまった。
作品自体も2時間超の大作に。
そういう「枠」を気負いから先に組んでしまったのではないか、と感じた。
(たぶん)普段ならば、切り詰めてシンプルにしたであろう、エピソードもたっぷりと見せた。
紀元前のエピソードもベートーベンのエピソードも、意外と“長い”。
丁寧に描くことで、ラストの感情に高まりを持っていくという構想だったと思うのだが、長すぎて逆にポイントが呆けてしまったように感じた。
なので、本公演で言えば前作『独りぼっちのブルース・レッドフィールド』にはあった、彼ららしさが消えてしまっていた。
前作では、渡辺徹さんという上手い役者が入ることで、それまでにはなかった主人公が物語の中心に太くいる作品になっていた。しかし、本質はポップンマッシュルームチキン野郎そのものであり、彼ららしさがそこにはあった。劇団や客演の人たちがきちんと自分の果たすべき役割を果たし、物語を面白くしていたのだ。無駄がなかった。毒もあった。笑いも多かった。
今回も、劇団員と主立った客演の人たちのキャラはなかなかだったが、今ひとつ、粒が立っていかない。それぞれのシーンではそこそこ面白いのだが、彼らにキラッと光を見せてくれない。
前作までは、どんな脇のキャラだとしてもキラッとした、その役者さんらしいところをきちんと見せ、笑いにつなげていたのだが。
もちろん、ベートーベンを演じたCR岡本物語さんはかなり良かった。今までのザコ・キャラ(今回の山賊とか・笑)とは違い、彼の良さを引き出していたと思う。しかし、そういう扱いは彼だけだった。
展開として、「なぜジャックは女性を見続けているのか」を、謎的な感じにして引っ張っていくのだが、最初から見ていたらそういうことだろ、と大方の観客は早めに察していただろう。
その理由が結構後半に明らかにされるのだが、察していた範囲から1歩も出ることはない。
意外性がなさすぎるので、「えっ」と思った。
だったら早めにそこを知らせて、「で、ジャックはどうするのか?」に観客の興味をスイッチングすべきではなかったのか。
ただし、紀元前に結ばれることのなかった男女が結ばれるのか、というところが唯一のフックであり、そこは“わかっていた”が、落ち着くところに落ち着いて観客を安心させた。
「諦める恋」「結ばれない恋」(ベートーベンとか)が描かれた上でのラストはいい結びだと思う。
しかし、ラストシーンとしてはイマイチ。
2人出会って何かありそう、というシーンが妙に長い。丁寧なのはわかるのだが。ここは一気に攻めてほしかった。
そして、ここでラストでも良かったはずだ。
ところが、まだ先があった。
ジャックと仲間たちが出てくるシーンがあるのだ。
たぶん、“仲間たち”を出してのエンディングにしたかったのではないだろうか。
実は、そこに“ガッカリ・ポイント”がある。
この作品には大切な、その“仲間たち”の活躍がないからだ。だからラストに蛇足感がある。
つまり、ストーリー上の活躍がなくても、役者的、キャラとしての活躍は今までのポップンマッシュルームチキン野郎(長いので以下「ポ」とする)にはあった。先に書いた通りに、アンダー・コントロールで。
しかし、本作にはそれがないので、ストーリーの中で活躍させてもよかったように思えるのだ。
彼らの“活躍”は実を結ぶことがなかったとしても、「ジャックを助けていた」というような展開のエピソードぐらいあってもよかったのではないのか。
“笑い”ということで言えば、確かに面白かったのだが、ニヤニヤしたり、思わず吹き出したりと言った、今まで彼らの作品にあった笑いのバリエーションに乏しかった。
「ここからは○○にする(関西弁とか)」が2回あって(前作にもあったかな?)、このパターンを彼らの“鉄板ネタ”にしたいのかもしれないが、2回めの「ラジオ体操」ではあまり笑えなかった。
紀元前の設定に現代の名称やモノが出てくるのも、いちいち突っ込まなくてもいいのに、と思った。
わかりやすくしたのだろうが、1回言ったらあとは黙って見ている、ぐらいでいいんじゃないのかな。
そう言えば前半に「透明人間が見える飴云々」の台詞があった。観客が劇場に入る前に飴を手渡されたのだが、その“飴”にこの台詞がかかっていて、観客はそれ以降、裸の透明人間が見えている、という設定は、観客のどれくらいに伝わったのだろうか。
それこそ「わかりやすく」するためには、開演前の前説等で「飴食べて」と強調するぐらいのほうがよかったのではないだろうか。
渋谷はハロウィンに浮かれていて、舞台の上よりも驚くほどのコスプレの人々がいた。
なので、彼らの舞台でいつも面白がっていた面白メイク&衣装にはまったくインパクトを感じなかったのは残念。むしろ何もしないほうが驚いたと思うのだか。透明人間の裸はインパクトがあったが。そしてももちろんキメラは渋谷街にはいなかったけど(笑)。
ジャックを演じた久保田秀敏さん動きは良かった。
先にも書いたが、ベートーベンを演じたCR岡本物語さんもとてもいい感じだった。山賊でノビノビしているのも良かった。
この先、この劇団はどう展開していくのか興味がわいてくる。
毒は中和してわかりやすいコメディ劇団になっていくのか、あるいは彼ららしさを失うことなく、それであっても広い層にアピールできる劇団へと突っ走っていくのか。
満足度★★★★★
会社は、まるで“ざくろの実”のようだ
「人」という1つひとつの小さな実で構成されている。
会社は人で構成されているはずなのに、人を幸福にしないことがあるのだ。
(ついついネタバレボックスにだらだら書いてしまいました)
ネタバレBOX
現実に起こった三洋電機の買収・解体を思い起こさせるような作品。
実際にある企業に似た、山東電機、松川電器、中国のハイミといった名前の企業が登場することで、技術力があるが業績不振の電機メーカーが大手メーカーに買収される、というストーリーから企業と人という視点ではあるが、どちらかというと経済系、社会派的な話ではないかと思って観ていたが、どうもそうではない。
もちろん「企業と人」の話ではあるのだが、特に「人」に焦点を当てている物語だった。
人がどうするのか、という話だ。
それが「どう見えるのか」ということでもある。
我々、「神の視線」から観ている観客が感じることは「人からどう見えるのか」なのだ。
タイトルにある「ざくろ」という植物の実は、割ると中に赤い粒々が見えてくる。
その粒々は、ミカンなどの柑橘類のような、「実の中身」というものではない。
粒々1つひとつにタネがあり、その粒々の1つひとつが「実」としての存在を示している。
つまり、ざくろの粒々のような我々は、ざくろという実を構成する1つの部品なのではなく、その1つひとつが芽を出し成長することができる、1つの実であるということなのだ。
(タネに対して果肉の部分にあたるところが少ないので、食べても充実感に乏しいということは、横に置いておく・笑)
つまり、「ざくろ(の実)」とは「企業(会社)」そのものではないのか。
企業は、粒々、すなわち「人」の集まりであり、それが「会社」という皮、というか共同幻想みたいなものに包まれているだけであり、「企業の実態」とは「人」にほかならないということなのだ。
「会社は」とか「企業は」とかのように、ついつい会社や企業を主語として1つの存在のように語ることが多いのだが、それは「皮」のことであって、実際はそれを構成している人の集まりのことを指しているのだ。しかし、「会社」や「企業」と言うときに「人」を思い浮かべることはほとんどないだろう。
だから、「人=会社」なはずなのに、「会社にとって」のような理論で、いつの間にか本来の実態である「人」がないがしろにされてしまうことがある。それが酷い状況になると、「ブラック企業」などというものになってしまったりする。
企業を構成する人が我慢したり、不幸になったりすることで、その集合体であるはずの「会社」が良くなるばすがないのに、だ。最近言われ始めている「人本経営」はそこから出てきた考え方なのだ。
しかし、「会社にとって」という、どこから出たのかわからない声(や意思)によって人は我慢を強いられたり、不幸になったりしてしまう。
この作品の登場人物たちも同様である。
経営不振による買収からの、会社の解散(倒産・消滅)という不測の事態に遭遇したときに、消滅する側の会社では、あるいは買収する側の会社では、属する従業員たちはどのような行動をとるのかが、この作品で描かれていた。
つまり、企業経営というような、経済的な範疇での、社会派的な物語ではなく、ここには困惑しつつも自ら決定して行動する人の姿が描かれていた。それは普遍的ものであろう。
ほとんどの演劇がそうであるように、観客はあり得ない視線で舞台上の人々を観る。
つまり、それは「神の視線」であり、物語の当事者ではないので、冷静に人々の行動を観察できるのである。
買収される会社は、一部の人は気づいているように「今まさに沈没しつつあるタイタニック」のようなところにまで来ている。
しかし、呑気に翌日のゴルフについて話をしていたりする。
また、会社に残りたい一心で、上司を陥れようとしたりもする。
そういう人たちを、「ダメな人だな」「イヤなヤツだな」と思って観てるのは、我々が「神の視線」から観ているからであり、実際にその立場、その状況に陥ったとすれば、どう立ち回るかわかったものではない。
つまり、神の視線は「他人からどう見えるのか」がよくわかる視線でもある。
神の視線から観ているから、舞台の上には悲劇があり、喜劇があるのだとも言える。
それは買収される側(山東電機)の人間だけのことではなく、買収する側(松川電器)の人間も同様である。
買収する側の人間は、冷静に、かつ冷酷に山東電機の社員をどう処遇し利用していくかを考え実践しているのだが、彼らもまた買収される側と同様に、「会社」という共同幻想の中に閉じ込められていて、その共同幻想、皮の「会社」の「意思」に従っているだけなのだ。
彼ら自身の意思で業務を遂行しているわけではない。
つまり、いつ立場が逆転してもおかしくないのだ。
観客は買収する側(松川電器)の室長の冷静な判断と計画を観て「冷酷だな」「会社の命令だからな」「会社がなくなっては元も子もないし」と、いろいろなことを考えるだろうが、それは安全な神の視線の側にいるからなのだ。自分がその室長の立場だったらどうするのか、情に流されずに業務を遂行できるのかということだ。
室長は、この仕事をどう考えているのかの本音は、室長とその部下の課長との会話で、室長がふと漏らす台詞からうかがえる。彼女(室長)の「人」が見えてくる一瞬であり、この台詞はなかなかうまいと思った。
副部長が部長を追い落とすような仕掛けをしたり、蔦サブリーダーが副部長に昇格することで、彼のリーダーだった野間に本年を叫ぶように吐露するシーンは、なかなかだ。
なかなかイヤな姿だが、ひょっとしたらどこか天井から眺めている神の視線によれば、自分たちの姿なのかもしれないのだ。
サブリーダーの蔦が副部長になって、(野間が辞めて中国のハイミへ転職したいと思っていたことを知っているのにもかかわらず)あそこであんなこと言うか、と観客は思ってしまうが、それも冷静に観ている神視線の観客だからこそわかることなのだ。後悔先に立たずとはよく言ったもので、我々もそんな過ちをしてしまっている。
山東電機の上司と部下たちに欠けていたのは、心理的契約と言われるような相互理解の関係だ。
暗黙に理解し合えるような関係があったとすれば、買収する側に対しても組織として対応できただろうし、野間に対して営業系の役員が振ってきた急ぎの案件も、うまく対処できたのではないだろうか。
野間と蔦の関係でも同じだ。
蔦は「上司の命令だから野間の言うことを聞いてきた」というが、単にそれだけの関係であって、野間と蔦の間にはそうした暗黙の相互理解がなかった。
だから、立場が逆転してしまっても、それは生まれることがない。蔦は押さえ込んでいた気持ちを吐き出すだけだ。
野間は正論を言っているようで、組織の一員としては問題がないわけではない。
それも実際に同じ組織にいれば、わかるのではないだろうか。
舞台の上での人間模様はとても面白かった。
それは戯曲自体もそうなのだが、役者がとてもいいからだろう。
室長を演じた榒崎今日子さんは、あいかわらず感情を殺して仕事を遂行するという姿が、刃物のように鋭くカッコがいい。
野間を演じた小平伸一郎さんは、オタクな感じを漂わせて神経質な感じがとてもよかった。
サブリーダーの蔦を演じた狩野和馬さんは、野間をしっかりと支えている人というイメージから副部長になるということがわかってからの、感情の爆発が凄い。こんなに感情を剥き出しにしたのは見たことなかったと思う。舞台の上に釘付けになった。
中野副部長を演じた谷仲恵輔さんは、やっぱり上手い。どんな役でも自分の姿にしてしまう(ほとんどがイヤな役なのだが・笑)。部長の前で泣いて見せ、呑みに行こうとするときに蔦に呼び止められ、こちらを振り向いたときに、実は泣いてなかったということがわかる顔には、ゾッとした。人の暗部を一瞬で見せてくれたようだ。
鈴木副部長を演じた佐々木なふみさんは、有能な上司でありながらも(野間は認めていた)、同じ女性社員に対し毒女的、お局様的な毒の滲ませ方が上手い。ロッカーの福山は笑ったけど。
部長を演じた吉田テツタさんの、呑気で人がいいけど無能そうな上司の空気感がいいし(まるで子どものような逆ギレのところとか)、中国人に切り替わったときの殺伐感もいい。
演出的にはホテルの喫茶室のシーンがなかなかだと思った。
普通はウエイターの設定はまどろっこしくなるので、割愛することが多いのだが、この作品ではいちいち注文を取り注文の品を持って来て、を見せる。しかし、それがまどろっこしくはならず、むしろ会話を途切れさせたり、間となったりすることで、ある種のリアリティを感じさせるのだ。
これはなかなかできないと思う。
前作『消失点』でも同様に、婦警さんを登場させることの上手さを感じた。
ただ、後日談のような中国企業のシーンは必要だったのだろうか。
野間は、妻に離婚届を出したことで、(そのことは蔦との会話に出てきたように)中国企業へ転職する意思が固まったことが、観客にはわかったのだから。
蔦が殴りかかるなんていうのは、どうなんだろう、と思った。
ラストにロボットが机から落ちるシーンがある。
人である前に「会社員」である者をロボットにたとえ、それが壊れた様を見せたのではないかと思った。
……野間が中国で突貫開発した電池が不具合を起こしてしまうということを暗示しているというのは、……深読みしすぎか(笑)。
満足度★★★★
家族のハーモニー
祝20周年!
さすが20年、ペテカンは外れなし。
役者さんたちいいし、きちんと笑わせてくれる。
多めの笑いの中で、見ている人に家族のことを思い出させ、考えさせる作品だった。
ネタバレBOX
「家族とは、一体何なのだろうかっ!」と大上段に振りかぶることなく、どこにでもありそうな家族の姿を描く。
どこにでもいそうな家族に、ほんの少しだけあり得ない波を立ててみせる。
その波が、家族に伝わり、それによって起こった(他人から見れば、ほんの小さな)波紋を、笑いとともに描いていく。
ペテカンは、そんな話が得意だ。
今回の「波」は、「父親の一周忌に披露宴をあげる」というものだった。
たぶんそんなありそうもない設定からストーリーが広がっていったのではないだろうか。
「なぜ、そんな日に披露宴をあげるのか?」「父親と子どもたちの関係は?」「父親と母親の関係?」と観客に疑問が起こり、ストーリーが広がっていく。
と言っても、“他人から見れば”ほんの小さな波風なので、基本、「いい家族」なのである。
少々変わり者の父親・大治幸雄さんが、生まれた子どもに一瞬見せる笑顔なんて、とってもいいのだ。
兄はもういい歳になった(笑)の妹を可愛いと思うし、弟も兄とは結構仲が良い。
彼らの母も少し変人な父を好いているのは間違いない。
父親に反発していた息子たちも、父親のことは嫌いではないようだし、クセまで受け継いでいる。
父親の方針で、誕生日などの記念日を特に祝うということをしなかった家の子どもたちなのに、その父親の「一周忌」という一種の「記念日」にこだわっている、という設定が面白い。
そこからも、彼らの息子たちの父親に対する気持ちがよくわかるし、そんな日に披露宴をしたいと思う娘もまた、父親のことを思ってそうしようとしているのだ。
だから、互いに揉めているようで、実は“他人から見れば”仲の良い兄弟の、害のない兄弟妹げんかなのだ。
ただ、“倒れた”母親のことを、あまりにもないがしろにしているように見えてしまうのには違和感があった。
子どもたちは母親のことも当然好きなのだから、いくら母親が「披露宴は続けて」と言い残したとしても、「屍を越えて行け」と言ってるわけではないので(笑)、もっと大騒ぎして病院に行くべきだったのではないか。あるいは、それは無理だとしても、もっとザワついているべきではなかったのか。
もちろん、男兄弟たちは、“弱い”から(母親のそんな姿を見たくないから)、“行くことができない”というのもわかるのだが。
そう、登場人物たちを見ていると「男が弱い」。
息子たちは、父親の弱った姿を見たくないから、お見舞いにも顔を出さなかったという。
だから、母親が倒れても病院には一緒に行かなかったのだろう。
としても、そのことにあまり触れないのは違和感を感じる。頻繁に連絡をとろうとするのではないか。披露宴がどうなるか、なんてことよりも。
さらに、元アル中で、虚言癖のあるおじさんも弱い人だ。
披露宴場の男性従業員も弱い(笑)。
それに対して女性は、控え目のようであっても言うべきことはきちんと言う。
ラスト近くで母親が父親に対して「食事は家族で一緒にとる」とキッパリ宣言するところなんて、強いなと思う。
披露宴場の女性従業員は、文字通り尻を蹴っ飛ばして、恋人を叱咤するし。
本当にいい家族だったんだな、とわかるラストには、少しグッときた。
あまり上手くない(笑)演奏もリアルだし。
このストーリーで唯一苦い味がするのは、“子ども”を巡るエピソードだ。
こんなに仲が良い兄弟妹(子どもたち)なのに、子どもには今のところ恵まれていない。
とても悲しいエピソードである。
キューピー人形のエピソードも、一見面白雰囲気がありながらも、笑えない。
新たな生命の予感を見せつつも、この「子どもエピソード」が、未消化な感じがしてしまう。
結論めいたことは必要ないが、3人の“仲のいい子どもたち”が物語の中心にあるのだが、そこのところとの絡め方は大切だったのではないかと思うのだ。
そこがピリッとすれば、この作品はもっと輝いたのではないかと思う。
母親役の桑原祐子さんが、とっても良かった。
愛があるのだ。
ラスト近くでの食卓を囲むシーンなんて、家族を包み込むような愛を感じた。
夫に対しても、(変わった人だけど)やっぱり愛を感じるのだ。
何気ない台詞にそれが込められているのが素晴らしい。
一見デコボコしているような家族だけど、音楽の演奏とは異なり、「家族はデコボコしていてもハーモニーを奏でることが出来る」、そんなストーリーだった。
家族の温かさとか良さをジンワリと感じさせる作品なので、多めの笑いの中で、見ている人に家族のことを思い出させ、考えさせたのではないかと思った。
どうでもいいことだけど、上演中の携帯のバイブ音。「前のほうで誰か鳴らしているな」とイライラしたのだが、舞台の効果音だったと気が付き、思わず笑ってしまった。
そこ、扱い方によっては、面白くできたんじゃないかな。もったいないと思った。
あと「劇団の俳優ネタ」は自虐なのだろうか、客席では苦笑が起こっていた。
苦笑していたのは、小劇場の役者さんたちや関係者たちだったのかもしれないのだが(笑)。
満足度★★
前半の、この劇団の言うところの“コメディ”部分(?)が作品をぶち壊してしまった
後半は、少しは良くなるのだが。
ネタバレBOX
高低差があり、シンプルながらいいセットなので、期待した。
しかし、冒頭から、あまりにも学芸会的(見た目の若さもあって)な台詞と演技に、「これがずっと続くのか」と少々うんざりした。
いかにも“キャラやってます”的な登場人物たちがとてもイヤだった。
特に、キセルにきもの風の衣装の校長と、「コナン」的な副校長には、ため息しか出なかった。
前半の中で、コナン副校長のキャラ(というかアク)が強すぎて、意味がない。
前半のガチャガチャしたシーンの連続には、ついにまったく笑えなかった。
「七不思議」と言いながらも、それぞれの「不思議」を丁寧に提示してくれるわけでもなく、主人公が取り戻したい“記憶”のヒントがそこに丁寧に描かれているわけでもない。
そこが大切なのだから、こういうベタな演出ならば、「ここがそうですよ」とシンプルに提示すべきではなかったのか。
しかし、後半がグッと良くなる。
主人公の記憶が蘇ってくるところから、“作られていたキャラ”から、“等身大の人間”に戻った彼らの姿が結構いい。
主人公を虐める3人が活き活きしていて、とってもいいのだ(前半に比べて)。
主人公の少女も生き返ったようだ。彼女の台詞や叫びにもリアリティが感じられた
ただし、前半が酷すぎた。
(観客席に向かって話す登場人物に)「誰に向かって話しているの?」や、「自分の出番が少ない」的な台詞など、なぜだか前半には、単に面白いという理由だけなのか、「演劇である」ことのアピールがいくつかある。
これはダメではないか。
後半の重くリアルであるべき話を、前半でぶち壊しているのではないか。
前半のガチャガチャしたコメディ(と思われるシーン)が、「ギャップ」がある、というよりは、きちんと設計されてない印象だ。
面白い格好や言葉が面白くても(面白くないのだが)、後半にそれが活かされてなければ、1つの作品としてのまとまりが出ないからだ。
また、後半は前半と比べていいだけであり、例えば刑事たちが、“まるで他人事のように”「いじめって何ですかね」的な会話をするところがあったりして、それが後半の、役者たちが“等身大”で演じている自分たちのことを、否定しているのではないか。
せっかく“身近”に引き寄せたものを、あっけなく手放して、遠くの他人の出来事にしてしまう。
それはないと思う。
イジメとその“非現実的”な状況から、“非現実的”な「七不思議」を結びつけ、「不思議は、その人それぞれの中にある」とした、この作品の根幹はとても面白いと思った。
しかし、それを見せる方法が違ったのではないだろうか。
「面白く見せる」ということで、「面白いキャラを出す」という選択は安易すぎる。
また、「親友が好きな人を取ったと勘違いされていじめに遭った」という設定も、ありがちだし安易すぎてガッカリだ。
もっと身近な問題として描くべきであったろうし、いじめの原因ももっと「どうしてなんだろう」と思えるような些細なこと、あるいは理由がよくわからないこと、にしたほうが良かったのではないか。
ラストも、その結果、残されて者たちは、どう感じたのかがほしかった。
主人公とはほとんど接点のない刑事に話させるのではなく、主人公と接していた加害者たちはどう感じたのかは観たかったと思う。
そうしないと単に「いじられた少女がいました」「彼女は友人を刺しました」というだけの話になってしまうから。
当日パンフは、役者さんたちの似顔絵だった。
誰が誰だかまったくわからない。役名もないから余計に誰なのかわからない。
役者の顔は知ってもらえたほうがいいのでは?
満足度★★★
テンポの良い台詞の応酬がいい
たぶん、相当きちんとした練習を積んだのだろう。
台詞自体も丁寧に吟味したあとが伺える、言葉がある。
しかし……
ネタバレBOX
受付の対応からこの団体のきちんとしたところが感じられた。
全体的に落ち着いている印象で、(やや)大人の劇団という感じがとてもいい。
さて、作品だが、丁寧に作られているのがよくわかる。
役者の台詞のやり取りがとてもスムーズでいいのだ。
単にスムーズというのではなく、会話としてのテンポが小気味いいのだ。
きちんとした演出により、練習を重ねてきたことがよくわかる。
そして、台詞自体もとても言葉がいいのだ。
時間をかけて吟味したのではないかと思わせる。
しかし、残念ながら、内容に深みを感じられない。
一見、彼を取り巻くさまざまな出来事についてをテーマにした作品に見えてしまうのだが、そうではない。
つまり、これは、シャッター商店街の生き残り策の話でもなく、結婚、恋愛の話でもなく、ましてや日本のエネルギー政策や、イラン、イラクの中東の戦争の話ではない。
つまり、主人公の心のありようを、それらを通して描いているのだ。
スムーズな会話は、主人公の心情をよく表していたことに気づかされる。
自己中心の主人公は、会話はスムーズで淀みがない。
そのことは、彼の頭の回転の速さを表しているのと同時に、「何も考えてない」ことを表していたのではないか。
つまり、話を合わせているだけで、自分にとって「利」があるかどうかが大切なのだ。
商店街の人と一緒にやって行こうと行った口で、会社の方針だからと彼らを切ってしまう。
それは、一見、“会社の都合なので”という理由で述べているようで、本当のところ、商店街の人のことを本気では考えてなかったことがわかる。もちろん、“仕事”としては、本気で商店街を海外にアピールして良くしたいと考えていただろう。しかし、“彼自身”が本心からそう考えていたのではなく、あくまで“仕事”だったのだ。
友人から会社の不正を聞かされ、それに荷担しない選択をしたのも、友人や会社、ましてや社会のことを考えたのではなく、自分のことを考えていたにほかならない。
だから、エネルギー関連の上司からの誘いには喜んで乗るわけだ。
恋人との関係も同じ。
結局、「人を簡単に切り捨てることができる男」の話なのだ。
それは、詰まるところ、主人公、いや現代人の、心のありようの問題だと、この作品は言いたいのだろう。
とは言え、「何言ってるんだ。深刻なのは、お前ではない」と主人公に言いたくなるほど、彼はイヤなヤツだ。
主人公にかかわった3人は、本当に大変なことになっている。彼らの言葉は、実は主人公自身の心の声ではないか。
主人公は身勝手に彼らを切り捨て、勝手に苦悩している。
自分自身のそうした姿に苦悩しているようには見えてこない、という部分で作品のテーマを見せることに成功しているとは思えない。
現代人の心のありようの問題であれば、彼の姿は我々自身なのだろう。
イヤな醜い姿が我々なのだ。
そう感じさせてほしかった。
冒頭のモノローグは、役者自身が気持ち良さそうなだけで、イマイチ伝わってこなかった。
ラストのモノローグは、先に書いたとおりに「何言ってるんだ。深刻なのは、お前ではない」という感情が出てしまい、苛ついてしまった。
モノローグなんていう安易な方法をとらずに、台詞のやり取りだけで、見せてほしかった。
戯曲の感じや演出の丁寧さから感じる、この作・演の方の力量ならば、それを十分にやれると思った。
……一点、主人公と恋人との会話で「こらぁ」っといいながらぶつ真似をしてみせるという、あまりと言えばあまりのシーンには、観ているこちらが赤面してしまったが(笑)。
満足度★★★★★
ストレートプレイ好き、演劇好きならば、観てほしい舞台
今、ストレートプレイの演劇で一番面白い戯曲を書いているのは、この小松台東の松本哲也さんではないかと思う。
この最近、小松台東以外にも戯曲を提供していて、非常に多作なのだが、どれも面白い。
今回の『想いはブーン』は、その中でも最高に面白い一作だ。
(ネタバレボックスに書いています)
ネタバレBOX
電気工事会社の詰め所が舞台。
社長が明後日、命にかかわ病気で入院するので宴会が開かれている、一夜の話。
とにかく台詞のやり取り素晴らしい。
どの役者も上手い。
自然に会話をしているし、そのときの気持ちがこちらに伝わってくる。
特に、3人姉妹の会話が素晴らしい。
中盤で3人だけが会話するシーンだ。
長女役の山像かおりさんは、登場した一瞬から3人姉妹の長女であり、母親である佇まいであった。
そして三女役の異儀田夏葉さんはやっぱり上手い。
彼女だけが、3人姉妹の中で、外との窓口の役割を果たしている。
すなわち、男性の登場人物との接点を担っている。
彼女だけを接点とした戯曲の上手さもあるが、その重任を異儀田夏葉さんは見事に果たしていた。
姉妹の間で見せる顔と恋人に見せる顔、ほかの電工さんや、幼なじみに見せる顔が微妙に異なり、その台詞のトーンの使い分けも見事なのだ。姉妹との会話と電工さんの隆史との会話は、落ち着いているようで、実は微妙に違うところが上手すぎるのだ。
次女の森谷ふみさんは出番は少ないのにもかかわらず、彼女の立場が上手く伝わっていた。
昔の恋人との間を突っ込まれながら、(それと気づいて)その彼、隆史(あとでもう一度それが確認できるという演出も上手い)の上着を畳んで見せるという演出も効いている。
役者も上手いのだが、もちろん、戯曲自体もいい。
今、ストレートプレイの演劇で一番面白い戯曲を書いているのは、小松台東の小松台東の松本哲也さんではないかと思う。
この最近、小松台東以外にも戯曲を提供していて、非常に多作なのだが、どれも面白い。
この『想いはブーン』も非常によく出来ていると思う。
台詞の1つひとつが、いろんな出来事や人間関係にきちんと結び付いていく。
ことさらにそれを前面に出しているわけではないが、張り巡らされた台詞(言葉)で観客は知らず知らずのうちに、物語や、そこに描かれる人物の背景の深さを感じるのだ。
だから面白い。
印象的だったのは、長女と三女が抱き合って泣くシーンだ。
その姿に、ぐっときながらも、観客は後から現れた次女と長女の娘の姿に少し驚く。
抱き合う2人の姿になんとなく理解し、一緒に抱き合おうと誘う長女に対して彼女たちはためらうのだ。
確かにリアルに考えれば、それに乗れるはずがない。
ためらうから単に泣かせるシーンにならずに、それよりもさらにいいシーンになるのだ。
次女は、形だけ抱き合って見せるのだ。
わかったと理解して一緒に抱き合うのでもなく、突き放してしまうのでもない。
気持ちは伝わるから、長女、三女、長女の娘と、照れながらも形だけ抱き合うようなことをする。
このとき身体に触れるということが大きいと思う。
このシーンから十分に大人な姉妹たちの、今の姿がリアルに伝わってくるのだ。
3人姉妹のそれぞれの恋愛観が垣間見えてくるのも、戯曲と役者が上手い。
それぞれの立場、年齢、経験が微妙に違うが、“大人の”恋愛模様なのだ。
ほかの登場人物も不器用な恋愛模様がよく出ていた。
他人の介入によって、ほぼどのシーンでも会話は中断されてしまう。
最後まで登場人物に結論めいたことを言わせたりせず、余韻がいい塩梅で残る。
その会話があとの、別のシーンに効いてくることもある。
松本哲也さんが演じる井戸潤の、暴力的とも言える台詞での介入は、舞台に緊張感を生む。
三女の恋人である浩史に「師匠」「師匠」と言うのも、実にネガティヴであることがわかってくる。
カップ麺を食べるときにむせるのは、面白いけどしつこいとは思うが(笑)。
緊張感で言えば、長女の娘が泣きながら戻って来るシーンだ。
誰かに襲われた、ということで観客の多くは今そこにいない男、浩史のことを思い浮かべたのではないだろうか。
登場人物の様子からいってもそう思ってしまい、一瞬ひやりとした観客も多いのではないか。
しかし、襲ったのがイノシシだとわかるのがバカバカしくも面白い。
舞台の上の三女たちの大笑いは、まさに観客の思いと一緒だった。
娘役の小園茉奈さんもいい塩梅の娘ぶりが面白い。
演出で言えば、三女と隆史の会話のときに三女が誤ってコップの酒を少しこぼしてしまう。
それを隆史がさりげなく雑巾のようなものを手にして拭く、というシーンが、アクシデントなのか何なのかわからないほど自然で、痺れた。
三女の幼なじみ(山田百次さん)は、登場から存在自体が卑怯なほど、いい味を出していた。
隆史役の瓜生和成さんはさすがにいい。三女との会話の、気心知れた感なんかとってもいい。
盛り上がっているであろう宴会から聞こえる『山谷ブルース』の歌声が、奥のほうから聞こえてくる様もいい(やはり電気工事会社を舞台にした小松台東『デンギョー!』でも、『山谷ブルース』だったような)。
小松台東は確実に面白い。
これからも期待できる。
満足度★★★★
8割世界の新しい面が開花した?
8割世界の作品は、群像劇(的)な印象がある。
それが今回、わかばやしめぐみさんをキャスティングすることで、主役のある作品になっていた。
さらに彼女を軸に据えたことで、ストーリーの幹がしっかりとしたコメディになっていた。
とっても面白かった!
ネタバレBOX
8割世界の作品とは、悪く言えば、全体的にぼやっとしながらも、全員でわっしょいわっしょいと、ストーリーを進めていく。
ただし、そのまとまりがとても良く、まるで“チームプレイ”のようなコメディだと思っていた。
で、今回。
わかばやしめぐみさんという、手練れをキャスティング。
彼女が見事に“ストーリーの軸”になっていた。
彼女は、とても強い手腕を持っているのを、改めて確認したと言ってもいい。
小柄なのに、舞台の上の存在感が素晴らしい。声がよく通るし、
どの場所に立っていても、そこに“中心”があるようだ。
彼女の上手さは、自分だけが上手いということを見せつけるものではない。
相手の立て方も上手いのだ。
きちんと相手に向き合って、相手に合わせた台詞と演技ができる。
台詞回しやテンポもいい。
なので、彼女と絡むと相手役も上手く見えるのだ。
彼女の旦那役の凪沢渋次さんは、いい味を持っている役者さんだ。
わかばやしめぐみさんと絡むことで、テンポが出た。それで彼の持ち味が、さらに引き出されていたように見えた。
夫婦のバランスもいい。
わかばやしめぐみさんと絡むことで、石田依巳架さんのキャラもくっきりした。
ちょっと褒めすぎかもしれないが、それぐらいのインパクトがあった。
まあ、彼女の持ち味をうまく活かした鈴木雄太さんの戯曲も良かったのだろう。
先に書いたように、いつもと印象を変えたのが成功したのではないか。
ひよっとしたら、(当日パンフにも書いてあったが)鈴木雄太さんは某資格を取得したから、どこか気持ちが変わったのかもしれないのだが。
主人公がくっりしたので、ストーリーもくっきりした。
なので、物語全体の構造が堅固になった印象がある。
だから、お笑い2人組のエピソードを重ねても、変にブレてこないのだ。
この、お笑い2人組が意外(笑)と良かった。
特に彼らが映っているテレビを消してしまうところは最高だった。
小早島モルさんが、腕を上げたのではないか、とほんの少しだけ思った。
いつもは空回り度が激しいので、ピンポイントでしか出てこない小早島モルさんが、今回は結構出ている。
そして、面白い。空回りも面白くなっている。
ただし、その成果は彼1人のものではない。相方役の佐倉一芯さんが、結構きちんと小早島モルさんを支えているように見えた。
佐倉一芯さんみたいな的確な判断・対応ができる役者さんがいると、小早島モルさんが輝くということが判明したとも言える(笑)。
お笑い2人組コントが別居している夫婦の出会いから、タイトルにもなっている「ブリッジしたのはカンガルー」の小説の内容までをよく知っていて、コントのネタにしていることが、段々わかってくる。
これって、彼らがストーカーのように夫婦を見ていたのかな、とも思ったのだが、たぶん例の『火花』のように、夫の小説家が書く小説の主人公たちが、お笑いコンビではないのか、とも思った。
台詞を聞き逃して、変なことを書いているのであれば、お詫びするが、その関係がもう少しはっきりしたほうがいいように思えた。
終演後は、“ゆいゆい”こと日高由依さんのアイドルイベント。
サイリュウムが観客全員に配られてのイベントで、日高由依さん、変に照れたりせず、きちんとノリノリだったのがとてもよかった。年齢は脇に置いたとしても(笑)、本当にアイドルしてた。
ただ、アンコールで登場した小早島モルさんが、日高由依さんの歌を全部持っていったのは、酷いなと思った(笑)。
悪目立ちしすぎで、それでこそ、さすが小早島モルだ! と思った。
満足度★★★★
ピッピピー
地球は青かった。
好きだぜ! あひるなんちゃら!
そこに神はいないけどな。
by ガガーリン
ネタバレBOX
地球人「今回の作品は、劇団員総出演ってことで、作・演の関村俊介さんも出ての、3人芝居でしたね」
宇宙人「ピッピピー」
地球人「3人芝居だから、台詞のやり取りにぐっと集中して、なんちゃら度100%でしたね」
宇宙人「ピッピピー」
地球人「今回も、台詞の間と全体の空気感がたまらないですよね」
宇宙人「ピッピピー」
地球人「あひるなんちゃらでしか味わえない世界で」
宇宙人「ピッピピー」
地球人「途中、1週間ずっと立ちっぱなしかよっ、て突っ込みたくなりましたよ」
宇宙人「ピッピピー」
地球人「あひるなんちゃらって、普通に考えると病的な困ったちゃんがいつも登場しますよね。今回も特に妹が酷かった」
宇宙人「ピッピピー」
地球人「でも、あひるなんちゃらだと病的には思えない」
宇宙人「ピッピピー」
地球人「“すみません、ゲームやってました”と、ラストの兄の泣き顔がツボでした」
宇宙人「ピッピピー」
地球人「あ、ほかにもいろいろツボあったな、ニヤニヤ笑いしっぱなしで」
宇宙人「ピッピピー」
地球人「舞台の端のほうのランプが微妙に黄色になったりしてましたよね、あれ、精一杯の舞台効果なんでしょうかね」
宇宙人「ピッピピー」
地球人「宇宙人の造形、びっくりしましたよね、明らかに椅子っぽくて」
宇宙人「ピッピピー」
地球人「結局、地球は土下座で救われたんでしょうかね」
宇宙人「ピッピピー」
地球人「地球は青かった」
宇宙人「ピッピピー」
地球人「……」
宇宙人「ピッピピー」
地球人「ピッピピー」
宇宙人「ピッピピー」
地球人「ピッピピー」
宇宙人「ピッピピー」
地球人「……」
宇宙人「ピッピピー」
満足度★★★★★
凄まじい台詞の攻防と、台詞の圧
“トーキング・リトル・エレファント”なのか“リトル・エレファント”なのか。
「言葉はほとんど伝わらない」と考える。
(ネタバレ長く書きすぎたかも…)
ネタバレBOX
アマヤドリの公演は、ひょっとこ乱舞時代から毎回期待度が高い。
演劇としての醍醐味、ダイナミックな物語の展開があり、帰宅しながら公演を反芻する面白さがあるからだ。
今回の作品もまさにそうだった。
冒頭から、部下を、とてもイヤな言い回しで舐めるようにディスる上司。
笠井里美さんが演じる上司・大野は、後で会社の同僚たちが噂するように、「殺人マシーン」のようだ。
もの凄いテンポで、「(あとからわかるのだが、心の病になったから)医者に言われたので休暇を取りたい」という糸山和則さん演じる部下・天城をなじり倒す。
速射砲のようなコトバが天城をなぎ倒してしまう。
誰が見てもそれはそうだろうと思う。
ひょっとしたら、それは冗談なのかと思っていたら、本気だったところに恐さがあった。
しかし、大野にとっても、そのコトバは諸刃の刃であって、自らのストレスを高めていた。
ストレスは周囲の環境によって軽減されることがある。例えば、家庭であり、例えば、職場である。
職場の状況は、同僚たちの台詞にもあるように、部下の天城だけでなく、大野にとっても支援のネットワークとなっているとは思えない。
家庭でも娘との関係が微妙なのことは、のちの短いシーンでも明らかになっていく。
ここで、大野はストレスを溜めていきながらも、“過労死”へ突き進まなかったことがポイントではないか。
“死”ではなく、“逃避”すること“逃げる”ことを彼女は選択した。
そこには「娘との関係」が大きく作用しているのだはないのか。
彼女は、娘に対しての気持ちがあるから、“死”によって断ち切ることができなかったのだろう。
ひょっとしたら“うつ”に対する、何らかのヒントになるのかもしれない。
ストレスは、「自分の思い通りにならない」ことから生まれる。
大野にとっては、(使えない)部下だったり、義理の娘だったりする。
娘については、“期待を持ち続けること”がストレスに変換されている。
それは、自分についても同じことである。
また、それらの行動は、実のところ、「人の期待に沿うように行動したい」という想いからやってくることがわかる。
そういう状態にある人のことを「イイコ」と名付けた(正確にはそういう定義ではないが)学者もいる。その状態を表すには、言い得て妙のネーミングだと思う。
大野もあとで出てくる勉強会のメンバーも、勉強会の主宰もイイコ(症候群)なのだ。
この特性が強いほど、“自己イメージ”が低いと言う。
勉強会の主宰が何度も口にする「個人化するな」と言う言葉がそれを指摘する。
大野の状況はまさにそれではないか。娘との関係は「自分がいい母ではないからだ」と言う。
グループセラピーのような勉強会がある。
ここでのファシリテーターの役割を担っている、渡邉圭介さん演じる立花が、とても胡散臭くていい。
この胡散臭さはどこから出てくるのかと思ったら、彼自身がグループのメンバーと同じな“うつ”であり、薬物中毒な様子である。
勉強会の主宰であるが、彼もまた、この勉強会を通じて、実は治癒(寛解)することを望んでいるのではないのか。
だから、ファシリテーターなのだが、“介入”の度合いが強い。
相手から、自らのコトバを引き出すというよりは、ガイドしているようでさえある。
「彼(立花)が望んでいること」を言わせているようなのだ。
この点は、ラストにかかわってくるのではないだろうかと思った。
勉強会にはさまざまなタイプの人が集っている。
舞台の上では勉強会の、数回だけが演じられているので、それまでの経緯は不明だが、メンバーは主宰を信頼しているのはわかる。ただし、それには濃淡がある。
彼らの“うつ”のタイプがさまざまであり、一見、達観したような元パン屋の児玉(宮崎雄馬さん)のような人もいるし、つい興奮してしまう桜井(石本政晶さん)のような人もいる。
グループワークでは、参加者とのやり取りを通じて多面的に自己を確認できる。いわゆるグループダイナミクスの効果である。
そういう“場”が、まさに舞台の上に表出していたのには、驚いた。
台詞のやり取りが生きているからだ。
ファシリテーターの立花が、(やや介入度合いが強いものの)グルーブ内での主導権を握り、“課題”を与え、エクササイズをさせる様が見事なのだ。
いわゆる、“何をどう言ったのか”という「コンテント」だけに目を向けることなく、“感情”に焦点を当て、“背後にある気持ち”を探っていくことで、「パブリックの領域」から、「ブラインドの領域」へ、さらには「アンノウンの領域」まで自己理解を高めていく。
舞台の上では、決して長くはないのだが、そうしたことが行われていることを察することができ、これがとても気配りされた戯曲であることがうかがえるのだ。
立花を演じる渡邉圭介さんの台詞回しと動きがいい。
焦点がボケるぐらいな距離に顔を近づけたり、スキンシップをとったり、主導権の握り方と、“場”の把握具合の演技(&演出)がとてもいいのだ。言語だけでなく、こうした“非言語”のエッセンスが入ることで、勉強会のステータスが感じられる。
技法的なことを知らなくても、観客は、雰囲気を察知するであろうから、胡散臭いやり取りに引き込まれていく。
また、立花は、「自分がまさにそうだから、勉強会の参加者のことがわかる」というようなことを言う。カウンセラーにありがちで、陥りがちな問題点をさりげなく入れたところも、戯曲の良さだ。
「言葉はほとんど伝わらない」と思わせることで、“諦める”ことを覚え、大野の“他者(娘)に対する期待”が下がるということを示すのも上手いと思った。
相手が“トーキング・リトル・エレファント”じゃなくて、“リトル・エレファント”ぐらいに考えていたほうが楽なのだから。
勉強会では「〜すべきである」の「べき」が話題に上る。
「べき」に囚われてしまい動きが取れなくなってしまっている。
その状況に疑問を投げかけるメンバーもいる。
そうした人は、その囚われから抜け出すところに来ているのかもしれない。
なので、勉強会の対話は示唆に富んでいてとても面白いのだ。
さまざまなタイプの人がいるから、“寛解”(治癒ではなく)に対する定義も、それへのアプローチも異なるのだ。
それが勉強会のシーンで明らかになっていく。
心のストレスを解消するには「アサーティブ」(相手を慮った自己主張のようなもの)のスキルを身に付ける必要があるという。
勉強会ではそれが積極的に行われ、さらにラストでは、大野の気持ちが一気に噴き出す。
しかし、大野のそれは一方的な自己主張であり、また大野の中の“気づき”というよりは、立花のガイドの力が大きかったためか、「ウソでした」と言い逃れてしまう。
ただし、娘は、彼女が学生だったころと同じシチュエーションで、言葉が同じなのだが、返す言葉とともに母(大野)を突き飛ばしたことで感情を露わにした。
そこで、大野の「お金貸して」である。
互いの感情が交差した一瞬だったのかもしれない。
大野が寛解していく一歩になったのかもしれないのだ。
まさに「すばらしい日」となるのだろうと感じさせるいいラストだった。
それを裏付けるように、群舞が作品を締めくくった。
大野を演じた笠井里美さんの、恐いぐらいの台詞のテンポには参った。
特に終盤の、椅子の上の台詞回しには、鳥肌が立った。
妹役の小角まやさんとのやり取りも見応えがあった。
あまりにもキツイ言葉の応酬で、実は姉妹の関係が、そんなには最悪ではない、ということがわかるようなのだ。
信頼と期待が混在となっているからこその、激しい言葉であり、またそれが姉を追い詰めているという図式がいい。
山小屋に妹たちが来るシーンで、虫を登場させたのが、上手いなあと。どうしてそんなことを思いついたのだろうか、とさえ思った。
“うつ”をテーマにして、「言葉はほとんど伝わらない」と思うほうがいいと言いながらも、言葉に囚われて、言葉に裏切られて、だけど言葉に救われて、と、言葉を使う者から言葉を使う者へのメッセージとなっていると感じた。
たとえ相手が、“ただのリトル・エレファント”であったとしても。
見応えのある作品だった。
これからもアマヤドリは見逃せない。
付け加えるとすれば、中村早香さん推しの私としては(笑)、彼女が出てないことだけが不満であった。
満足度★★★★
野木戯曲は現代の問題を、深海からぐっと力強くつかんでくる
結構驚いた。
まだご覧になってない方で、これからこの作品を観劇する予定のある方は、ネタパレは読まないほうがいい。
熱湯ナントカのように、「押さないで、押さないで」と言って押すというネタフリではなく、ホントに読まないほうがいいと思う。
ネタバレBOX
フライヤーのイラスト通りの物語であった。
しかし、ラストには驚いた。
いきなり暗転して、暗い中、しばらくして主宰の野木萌葱さんが登場し、「えーっと」っと話し出したのだ。今回の顛末を。
どうやら、「もっと書きたい」ということらしい。
前説のときの、いつもの男前の野木萌葱さんではなく、少し噛んでいたのは、前説の最後に面白いことを言うので緊張していたのではなく、こういうことだったのかもしれないと思ったりもした(笑)。
にしても、今回の幕切れにはシビれた。
野木萌葱さんの登場に、「えっ!」と声を出してしまったかもしれない。
物語では、深海における“海の覇者”を巡る、“大王”の名前を冠したイカと、それをも食料にして深海での食物連鎖の頂点に立つマッコウクジラとの大戦争が描かれようとしていた。
そこに、マッコウクジラに従うシャチと、物見遊山で南極からやって来た、これも“皇帝”の名を冠したペンギンが絡んでくる。
さらに“氷山”までもがストーリーに加わる。
「大戦争」と言いながらも、実はマッコウクジラからの一方的な戦いであり、ダイオウイカと全面戦争になっているようではない。
シャチにそそのかされて、自分の領土を侵害されてしまうという危惧に憑き動かされてマッコウクジラが戦いの火ぶたを切るのだ。
“王国”とか“王子”とか、そんな言葉が出てくるので、どこかシェイクスピアな香りがする。
しかし、内容はそうではなく、物語には現代の問題が孕んでいるようだ。
単なる動物ファンタジーではなく、かつ問題を声高にしないところに、作の野木萌葱さんの非凡さを感じる。
マッコウクジラにとっては、「自衛」のための「正義」の戦いであろう。
つまり、海に落ちた「鉄の鳥」を手にしたダイオウイカに対しての恐れと、さらに皇帝ペンギンとの軍事同盟を結び、北極を我が者にしようと企んでいるというという、猜疑心を増幅させるデマからの戦いであり、「鉄の鳥」とは、「大量破壊兵器」であって、まさに「イラク戦争」の発端と似いてるのだ。もちろん「鉄の鳥」をダイオウイカたちが使えるわけもなく、戦争のきっかけは捏造されたところも「イラク戦争」だ。
さらに、ダイオウイカ側から和平のテーブルには、その「鉄の鳥」が示される。
マッコウクジラ側から見れば、「鉄の鳥」は大量破壊兵器なのであり、ダイオウイカ側からは「抑止力」の効果を期待している。
しかし、抑止力は働かず、抑止力だったはずの、「鉄の鳥」の「卵」が使われてしまうことになる。
水中で炎を上げる「卵」とは、原子爆弾ではないか。
それが投げつけられところで、この舞台は終わる。
ダイオウイカは、マッコウクジラの餌であるから、マッコウクジラ側は同格ではないと思っている。
この2国の関係は、南北問題を示唆しているように感じた。
貧者の国の安価な兵器が、放射能だったわけだ。
1つの国がもう1つの国を隷属し、餌=喰いモノにしている。搾取だけして。
さらに言えば、世界の頂点に立つ国の傲慢さもあるし、1人の男がそれを牛耳ることの恐さ。
つまり、臣下の甘言1つで世界は争いの中に巻き込まれてしまうということだ。
(ファンタジーって、「王国」ですよね? 王様とかお姫様とか。「民主主義」がベースののファンタジーってあるのかな? 笑)
確かにこの作品にはまだまだ掘り下げられる物語がありそうだ。
全世界が放射能汚染によって破滅するのではないかということを暗示するようなラストから、後編では、何か光明が見えてくるのかが、気になる。
あるいは広がりが。
「進化」とか「知恵」とか、そういう方面にも内容は広がっていける。
「現代の問題」から、さらにもっと、深いところにある、「人間の過ち」の「原点」「原罪」のようなものへと物語は転がっていくのではないか。
この作品のオープニングは無言劇だった。
ダンス的な雰囲気があり、「椅子取りゲーム」で「自分の居場所」を確保するというもの。
椅子の数は決まっているから、座れる者の数は決まってくる。
お宝のようなものを配って、椅子を確保しようとするが、拒否されるたり、受け入れられたりすることでこの物語が始まるのだ。
「生き残れる生物」の椅子の数は決まっている、ということなのだろうか。
深海生物を演じた役者さんたちの動きがいい。
シンプルな衣装も効果的だ。
シャチには、白い線とか入れて欲しかったかな。
「鉄の鳥」はダイオウイカにとっての、モノリス(2001年宇宙の旅の)の役目を担うのかな、と思っていたがそうではなく、「卵」というもっと具体的な脅威を手に入れることになったのだ。
(進化のための)「知恵」と一緒に授けてもらえれば、違ったのか。
いや、「知恵」があるから、人間はこんな「卵」を作ってしまったのだ。
氷山を演じた(笑)植村宏司さんが、声がいいからとても渋くで賢者な雰囲気があった。
ダイオウイカの弟を演じた小野ゆたかさんは、まさかまったく台詞なしなのか? と思っていたが、やっぱりあった。前半は、台詞がないから、表情を大きくすることで感情を表現していたので、つぶらな瞳が愛らしいダイオウイカだった(笑)。口を尖らせて理屈っぽいとこ言うのかと思っていたが(笑)。
シャチを演じた西原誠吾さんは、こういう役柄がぴったりで冷酷で感情を抑えていて、頭も切れそうで、「俺はこんなところにはいつまでも安住してない」感がヒシヒシと伝わってきた。
皇帝ペンギンを演じた兼間慎さんは、パラドックス定数では今までいなかったキャラなので、軽みが新鮮。
全般的に笑いが多く、そこもこの作品が好きな理由となった。
こう言ってしまってはナンだが、この作品のもとになったのは、「大王イカ」の“大王”ではないだろうか。
でも、ダイオウイカはマッコウクジラの餌だし……じゃ海の大王は誰なのか? ってことから。
にしても、『外交官』(青年座)で戦争の始まりを描いて、今回の『深海大戦争』で戦争の趨勢を描き、次回作が戦後、戦犯を裁く『東京裁判』という流れは出来すぎでは(笑)。
後編が強く待たれる。
★の数はあえて4つとした、残りの★1つは後編に預ける。
満足度★★★★
“リアル”よりも“笑い”を優先させた、男子中学生の冒険談
“刹那”な笑いの連続。
劇場内に入る直前に、個人的にちょっとした出来事があった。
それが劇中の内容と、少しリンクしてて、暗い劇場で苦笑いしてしまった。
(ネタバレへ)
ネタバレBOX
“中学生の修学旅行”っていう設定で、この作品が笑えることはすでに確約されていると言っていいだろう。
なんたって、いい歳のオトナたちが中学生を演じるのだから。
その期待値を、少しだけ上回って、全編笑った。
とは言え、いい歳のオトナたちがリアルな中学生を演じているわけではなく、1つのイメージとしての中学生であり、設定である。
“面白さ”を最優先して、中学生はその道具の1つにすぎない。
いわゆる“スクールカースト”的に言うと、底辺かと思っていたら、それほどでもなく、可も不可もない中程度の層に彼らはいるようだ。リアルに最下層の中学生たちだったとしたら、まず、女子部屋に入ったら、部屋内はパニックになるだろう。
卓球部とは言え、部活もやっているし、女子部屋に入ったとしても、露骨に嫌がられるわけでもない(面白い話したら、“いてもいい”提案までしてくれるんだから)。
まあ、“卓球部”がイコール“ダサイ”のアイコンとなるのは、いささか昭和な選択だとは思うのだが(リストバンドはいいチョイスだと思うけど・笑)。
男子生徒たちは、とにかく“自分大事”で、傷つきたくないから、本音は言わないし、相手にもできるだけ踏み込まない(女性に興味がない仲間とかにも無理に突っ込まないし)。
うっかり言い過ぎたり、余計なことを言ったら「ギャグだよ」「ノリ悪いな」で避けようとする。避けているのは明らかなのだが、相手も下手に突っ込んで、自分に踏み込まれたくないので、その「ノリ」に乗っかる。
「ノリ悪いな」は魔法の言葉である。相手も共犯に仕立てて、その場を逃れ、ノレない者を標的にする。
そんな暗黙のルールである。彼らのように露骨に見え見えじゃないとしても、誰でも使っている。
マンガを一人読んでいる仲間はそのルールに乗らない。
女子生徒たちも同様だ。好きな男子のことがバレないように、しかし、“自分のほうが好きな相手のことをよく知っているぞ”アピールをしながら(相手にだけはわかるように配慮している、つもりで)、会話のバトルを繰り広げる。
その暗黙のルールを破る仲間が、割って入るという図式は面白い。
男子にも女子にも“ルールに乗らない者”がいる、という状況は、ホントのところ、ないのだろうと思う。
そんなヤツは仲間にはなれないからだ。
このへんが“リアル”ではないところだ。
“面白さを最優先した”から、こうなったのだろう。
だから、“刹那”な笑いが連続することで、実は微妙なバランスで立っているストーリーではないだろうか。
下手するとコントの連作になりかねないところを、演劇に仕立てていたと言っていいかもしれない。
だから、実際、(今の中学生は知らないが)彼らのような中学生たちが、修学旅行中に女子部屋に遊びに行くというのは、かなり敷居が高いはずだ。リアルなストーリーだったら、「部屋に行く」というシーンはないだろう。
フライヤーの説明を読んで、かつ「果てまでの旅」というタイトルを見て、「これは女子部屋にたどり着けない、中学生の非劇だろう」と思っていた。
しかし、彼らはためらいもあるものの、駆け引きらしい駆け引きもなく、部屋には簡単にたどり着いてしまう。
この展開は、意外だった。
行ってしまうことにより、よりバカバカしい展開になるのではあるが。
時間差の突入は面白いし、追い詰められて、つい「池田のことは好きでも何でもない」と言ってしまう小池の台詞には全米が泣いた。
これだけは小中学生“あるある”じゃないかな。
女子生徒たちの関係が微妙な中に男子が突入するので、男子対女子の関係になるのは、中学生だから当然としても、それまでの微妙な女子間での関係を、“対男子”に対しても、もう少し反映させてもよかったのではないかとは思うのだが。
さて、最初に書いた「劇場内に入る前の出来事」について触れなくてはならない。
アトリエ春風舎という劇場には、トイレが2つある。いずれも個室で手前は「男性/女性兼用」、奥は「女性専用」だ。
時と場合によってはフレキシブルに使用することも、あった。絶対にしないときもある。
で、その日は、フレキシブルな日だった。
手前の「兼用トイレ」の前に並んでたが、係りの人が確認してから、「こちらをどうぞ」と奥の女性専用のトイレを示した。
ほとんどの観客が着席していて、もうこれから入る人は当分いないということでの判断だと思う。
そして、奥の女性用に入り、用をたして出てくると、ドアの外には女性がいた。
明らかに不審者を見る目つきで、あからさまにドアの「女性」のマークをこれ見よがしに確認して、こちらをキッと見た。
「い、いえ、係りの人がこちらを使えと…」と喉まで出たが、言うタイミングを逸してしまった。
悪いことに、「こちらをどうぞ」と言った係りの人の姿もない。
女性が出てくるのをトイレの外で待つというのも逆にアレなので、とにかく「きちんと説明したほうがよかったなあ」という後悔とともに座席に座った。
公演が始まって、例のシーンである。
男子生徒が非常にマズいモノを持っていることを、女子生徒に見つかってしまうのだ。
彼らは、自分たちの部屋に這々の体で戻ってから、「これは、きちんと説明したほうがいいんじゃないのか」と言うのだ。
あれ? さっきの出来事と同じだ。
「先生に告げ口され、内申書が悪くなって、いい高校に行けなくなって……」と、仲間をなじるシーンがある。
「そうか、まいったなあ、トイレのことをきちんと言い訳しないと、いい高校に行けなくなってしまう……」と、私も思った。
このシーンは、思わず苦笑いをしてしまった。
「なかなか本当のことを言えない」という、日本人的な(特に中学生の異性に対する感情は)感覚は、この公演の翌日観た、キ上の空論『東京虹子、7つの後悔』とリンクしていて不思議な感覚を覚えた。
これについては、後ほど感想を書こうと思う。
妙にオドオド感が似合う大山雄史さんと、視線の配り方がなかなかだった伊藤毅さんの会話が楽しい。
“間”の感じも笑いを上手く生んでいた。
「オレ」の変なイントネーションの由かほるさんの存在が面白かった。
そして、由かほるさんの、女子部屋でのキレ方が鋭くて、こんな風に言われたら、絶対にシュンとなるだろうなと。
鮎川桃果さんと植田ゆう希さんの、台詞バトルには笑った。相手の表情を確認している(自分の発言が相手にどんなダメージを与えているのか、のような)ような視線の送り方がいい。
矢崎を演じた工藤洋崇さんが(見た目は、どう見ても元ヤンのおっさんなのに・笑)、実は一番モテモテなのかと思ったら腹が立った(笑)。
どうでもいいことだけど、拾った女子のタオルは濡れていたほうが、さらに笑いが広がったように思うのだが。
役者さんたちの、こうした細かい演技や表情を楽しむのは、舞台との距離が近い小劇場ならではのものだろう。
ただ、観客の反応(笑いとかね)を、直に感じてしまっている役者さんの(心の)リアクションまで見えてしまうのだが(笑)。
満足度★★★★
それから 『幼女X』と『楽しい時間』の2本立て
と思っていたら、タイトルからして1本の作品なっていたようだ。
切れ目がないから、1本の作品だ、というよりは、底に流れる「気分」が同じだからだろう。
(ネタバレへ……また、長く書きすぎたか)
ネタバレBOX
非常に不安をかき立てられる作品だ。
「ストーリー」を追って見ていた者としては、劇中で語られる「連続幼女強姦殺害事件」の犯人は、“いかにも”な大橋一輝さん演じる男のほうでなく、埜本幸良さん演じる男のほうじゃないか、と“あたり”をつけていた。
なので、訪問販売で1日何件も契約を取った、ということが犯行の数と重なって見えたりしていた。
しかし、そうではなかった。
彼らが体現する“現代”は、実に不安と恐怖に満ちていると感じる。
彼らの存在そのものが、“それ”であり、かつ、彼らが生まれてしまった背景にも、“それ”がある。
この不安感は、字幕で「今、こんな世の中に生まれて来たくない」と語られる。
「まだ準備が出来ていない」というところが、新しい。
「こんな世の中に生まれてくるのはイヤだ」ではなくて、「まだ」ということなのだから。
あるいは、「もっと前に生まれていればなあ」というのとも違う。
つまり、過去が“羨ましい”というわけでもない。
しかし、それはポジティヴな感覚ではなく、「(自分は出来る子なので)もっと勉強すればいい学校に入れた」的な、“言い訳”“言い逃れ”のような、ネガティヴ感があるのではないか。
「準備さえしておけば、こんな世の中でも大丈夫だった」と。
そう「だった」なのだ。
我々は、今、この時代にすでに「産まれている」のだ。
だから、「不安」なのだ。
それから
とにかく、ネガティヴの“圧”が強すぎる。
現代の不安感は、ここまで来ているのか、と少し他人事のようになってしまうほどの“ネガティヴの圧”が強い。
それから
現代の不安の背景には、“情報(過多)”がある。
今までならば知ることのなかった、事件や事故の背景や、それを取り巻くあらゆる情報が押し寄せてくる。
例えば、犯罪者のみならず、犯罪被害者の家族や住まいや仕事や学生時代の出来事まで、知らされてしまう。
例えば、放射能が人体に及ぼす健康被害についても、事細かに知らされてしまう。
しかも、それらの情報の真偽の程は明らかにならないままだ。
それから
政治信条もヘイトともに飛び交う。
それら情報は、ネットによるものが大多数。
テレビや新聞などの、マスメディアはネットの後追いにすぎない。
ネットの情報のほとんどは、“文字”だ。
文字に追いまくられ、不安をかき立てられるのが現代の不安の構造である。
しかも、不安になるからと言って、それを“絶つ”ことは絶対にできない。
それらは“不安装置”でありながら、“繋がっていること確認装置”でもあるからだ。
そして、“繋がっていること確認装置”は、そのまま“不安装置”にもなってしまう。
舞台の上では、字幕の“文字”とあたかも会話しているように、2人の役者が演技をしている。
まさに、「それはリアルなのか?」と問い掛けてしまうような、バーチャルな状況である。
本当に彼らは、元カノや、姉や母と会話をしているのだろうか?
それから
役者という存在そのものが、肉体があるものの、“バーチャル”であるとも言える。
したがって、観客はバーチャルと対話しているバーチャルな存在を持っているリアルな肉体を観ていることになる。
目の前にいる姿や、発する声はリアルであるが、舞台の上の物語はバーチャルである。
観客はここでもバーチャルに振り回されて「不安」な気分となる。
それから
独特の緊張感が舞台の上にある。
非常に気持ちは悪い。
それから
登場する2人の男は、「何かを変えたい」と思っている。
それは作者の希望でもあろう。
不安な現実から、「悪いモノを取り除くこと」で「良くしたい」という願望だ。
木槌を持って歩く男は、自らの行為を「世直し」と言い、サラリーマンの男は、自らを「白血球」と言う。
「世直し」は“外”に向かって悪いモノを取り除こうとする行為で、パトロールのようなことをしている。対する「白血球」には“内”の害を退治する役割がある。
彼ら2人で内外の“悪いモノ”に対峙するというわけなのだ。
しかし、その想いとは裏腹に、彼らが、彼らの存在は現代では(いつの時代でもか)、「悪」である。
この構造は、先に述べたネット情報とも重なってくる。
ある種の「正義感」によって、本人は良かれと思って、ネットに書き込んだことが、人を誹謗し、中傷し、害毒を流してしまうことがあるからだ。
2011年3月以降に、あまりにも多く見かけた“誤った情報がリツイートされる様”は、リツイートした1人ひとりは、「知らせないと!」という強い「正義感」のようなものに駆り立てられたことによることが多いのではないか。
しかし、それは害になった。
我々は、今それを知っている。
2人の男の行動(考え)も、「正義感によるリツイート」と同じではないか。
世直しも白血球も。
それから
木槌を持った男は、バーチャルとリアルの狭間から、テレビの中の人になり、信じられないような展開となっていく。
つまり、バーチャルとなっていく。
もう1人の男はそれに包まれていったのではないか。
それから
ここまでが、「幼女X」で、この先からテレビつながりで「楽しい時間」となっていく、と思う。
後半は、前半でサラリーマンの男が家族を「血液」にたとえていたのを引きずっているように感じた。
管とか線とか波とか。
場所も時間もまったく見えない。
結婚式の披露宴のような設定の一人芝居だ。
それから
言葉が滑っていく様はどこか筒井康隆の小説を思い起こさせた。
ただし、それほど言葉の面白さや音の面白さはない。
後半は、前半をより抽象的にしたような、不安感がある。
ドロドロしたポエムだ。
まるでネガティヴなポエトリーリーディングだ。
それから
前半のネガティヴ圧に比べると、ネガティブ感はあるものの、「圧」は感じない。
それはなぜか?
一人芝居の福原冠さんが、「楽しそう」だからだ。
福原冠さんが演じる男が楽しそうなのではなく、「福原冠さんが楽しそう」なのだ。
どこのシーンかは忘れてしまったが、身体を動かし同じ台詞を何度も繰り返していたところがあった。
それが「あれ? これ、この役者さん、とっても気持ちいいんじゃないかな」と思ったのだ。
自分に酔っているような、そんな姿を見た。
つまり、「不安な現代」の「不安」を「身体を動かして、大きく発声する」ことで、吹き飛ばしているのではないかということだ。
だから、観客は、作者が、いわば不安解消をしている様子を延々と見せられてしまった、ということではないのか。
気持ちいいから延々とやる。
「お腹一杯だよ」と観客が思っていても(舞台の上の役者やどこかで見ている演出家には伝わっているでしょ? 笑)気持ちいいから続けている。
「不安は身体動かして、声出せば、なくなるよ (^_^)v ピース」なんていうメッセージではないとは思うが。
それから
後半部分の面白さは、マクロとミクロが繋がっていろところにある。
どこか「神」を思わせるような“語り掛け”がありつつも、一人芝居であるという構造的な“意味”からの、極「個人的」な感覚と視点。
地球規模サイズのような広がりと、血液のようなミクロな世界も見えて来る。
そんなところが面白いと思うのだ。
しかし、後半は、もう一度言うが、「お腹一杯」である。
それから
字幕の多用やチェルフィッチュみたいな動きのある台詞(サラリーマン男)とか、特にどうとか思わないが、「即時性」として、「生煮え」のような作品を、「今、これなんですよ、私は」と見せることには意味があると思う。
「答え」はないので、「ないよ」と言うことだけでなく、「わかりませんけど、こうなんです」と言うことも、アリなのではないかと思ったのであった。
観客としては「いや、まあ、どうなんですかねー」ぐらいしか言えないけど。
満足度★★★★★
観客の、それぞれの状況によって、異なった深読みもできるのではないか
特に、この内容を身近に引き寄せてしまった観客には、苦い味がするに違いない。
(あとはネタバレで)
ネタバレBOX
脚本が柴幸男さん。
何気ない日常の中にドラマを見出す作品が多いと思う。
ドラマチックなことではなく、日常を見せるという意味でのドラマだ。
日常は日常であっても、その当人にとっては重要なことであり、また、日常だから忘れ去り、消えて行くものでもある。
その、一瞬一瞬が残像となってしまう日常を描くのがうまいと思う。
だからこそ、観客は、作品に自分のことを投影してしまうのだ。
この作品も、日常的なことで作られている。
一見、「人生を畳む」ということで、大変なことのように見えるのだが、それを大上段に構えないところから、観客が入り込む“スキマ”ができる。
それは、全体に流れるユーモアも関係するだろう。
ある日息子が実家に帰ると父親が「畳む」と言い出して、実際に家具や諸々をかたづけていた。
そんな2人の会話が作品の中心にある。
息子世代から見れば親のこととして、親世代に近い人からは自分自身のこととして、あるいは両者についてのこととしてなど、観客の年齢や状況によって見え方が変わるだろう。
作品が「どうすればいいのか」という問い掛けに感じて、自分の中で現実と(少しだけ)向き合うことになるのだ。
だから、それぞれごとに深読みすることも可能だ。
特に、この内容をぐんと身近に引き寄せてしまった観客には、とても苦い味がするに違いない。
畳んでいく父親と息子を描いているのだが、どうも少しだけ違和感がある。
それは、息子が父親を訪ねたときに、父親の痴呆が始まっているようなシーンが2回あるのだ。
もちろん、ラストで明かされるように、父親の記憶を「畳型記録装置(笑)」で何度も繰り返し見ているということもあろう。
息子の息子に「もうやめたら」的なことを言われてしまうぐらい、彼は父親の記憶を振り返っているに違いない。
ただ、息子が、親が痴呆になって死ぬ間際までの記憶を見たいと思うだろうか?
親のそんな姿は見たくないはずだ。
健康で、自分のイメージにある親の姿をいつまでも見たいと思うのではないか。
では、どういうことなのか。
これは「自分の人生を、自分の意思により畳んだ男(父親)」と息子の話ではなく、「自分の人生を、きちんと畳めなかった男(父親)」と息子の話ではないのか。
つまり、ロボットのヘルパーや、自宅の回りの町ごと「畳んでしまった」というのは、なんか変であり、さらに息子は実家に帰ってきたはずで、隣の町まで人間の足で一週間もかかるような場所に来たという記憶がなく、交番のあったところが急に沼になっているはずもないからだ。
家を畳むシーンでも、ロボットが手伝うわけでもなく、屋根や壁を父親は「畳んで」しまう。
演劇的な手法と言えば、そうかもしれないが、父親の中でのリアルと見た。
それは、「畳めなかった男」の妄想ではないのか。
つまり、痴呆になってしまい、もう自分では何もできずにいる男の、きちんと自分のいろいろなことを整理できずにこうなってしまったという、後悔が見せたものではないのか。
痴呆になったと言っても、考えることはできるし、痴呆になってしまったことが苦しくて辛いという感情も、初期にはあるだろう。
だから、「畳んだ」という妄想をしてしまった。
だからこそ、歩けなくなり、口の中にガンが出来、食べられなくなってしまった、という現在の状況まで「自分で畳んだ結果だ」と思い込んでしまったのではないだろうか。
「母と言い張る男」の登場も、「息子と言い張る」、今目の前にいる、まったく見たことのない男も同じだ。
息子はもっと小さいはずと父親は思っているから、「息子と言い張る大人」と「母親と言い張る男」は、父親にとって同列の出来事になる。
このように、「畳めなかった男の妄想」であると見てしまうと、この物語はさらに辛いものとなる。
自分の親が後悔しないで畳むにはどうしたらいいか、自分が後悔しない畳み方はどういうものなのか、それはいつから始めたらいいのか、などという、いろんな想いが脳裏に渦巻いてしまう。
かつて、心臓が動き出し、身体を動かすことができ、いろいろなことができるようになって今があるので、今度はそれを逆にしていく、というような台詞があった。
また、畳むというのはなくすことではない、畳んだ後は残る、というような台詞もあった、これがヒントになるのかもしれない。
ただし、そう思っても実際に行動に移すのには、相当高い壁がある。
実際、畳める人は極少数派ではないだろうか、多くの人は畳めずに終わってしまう。
自分の想いがこもっているいろいろなモノ、本や写真や家や、そんなものとどう向き合って、どう処分していったらいいのだろうか。確かに自分が大切なものは、子どもや孫にとって大切なものとは限らない。
しかし、かたや、モノには記憶が残るのは確かでもある。
写真など具体的モノに限らず、普段使っていた食器とかペンとか机とか、そういうモノには記憶が残る。
正確には、それらのモノが媒介となって、残された者の記憶を呼び覚ますのだ。
なので、劇中に出てきた「畳型の記憶装置」はまさにそれを指しているように思えた。
実家に帰って、畳の上に寝転がって天井を見上げれば、現実の「畳型の記憶装置」が作動する。
それは、そんな機械が発明されていなくても、すでに誰の実家にもあるものなのだ。
つまり、それは畳型とは限らない。記憶を呼び起こすモノは、椅子型かもしれないし湯飲み茶碗型かもしれない。
それは、モノに記憶が記録されている、と言っていいのではないだろうか。
素の舞台のようで、そうではなく、ダイナミックさもあるし、照明もいい。
広い空間に4人の役者だけなのに(ほぼ2人だけしかいないことのほうが多い)、スカスカ感がなく、それでいて、「畳んでしまった家」という、ガランとした空間を感じさせる、杉原邦生さんの演出と美術がいい。
シンプルな舞台装置が、柴幸男さんの戯曲にはマッチする。
父を演じた武谷公雄さんと、息子を演じた亀島一徳さんの掛け合いが素晴らしい。
テンポの良さに、引き込まれるし、笑いも生まれていた。
家具もなにもない家に、エリックサティの『ジムノペディ』が流れていた。
サティは、「家具の音楽」と称していたから、それで選曲したのだろうか。
音楽の家具が、何もない、がらんとした、畳まれてしまった部屋に置かれていた。
満足度★★★★★
故郷を捨てた者の、望郷の念が溢れ出た舞台
さすが桟敷童子、面白い。
観て損はない。
ネタバレBOX
オープニングには驚かされた。
井戸から大手忍さん演じる杏がいきなり現れたと思ったら、池下重大さんが演じる千春とともに井戸に飲み込まれた。
大きな水しぶきとともに。
そして手前の書き割りが左右に開いて、舞台の上に現れたのは、大きな池(湖)!
その池から2人が水面に浮かび上がってくる。
会場の「すみだパークスタジオ倉」の舞台のサイズは、たぶん横12、3m、奥行き7、8mぐらいではなかろうか。
その中の4分の3ぐらいが、本水を張った池なのだ。
こんなセットは初めて観た。
そして、舞台の上で本当に人が泳ぐのを初めて観たのだ。
天井から水が勢い良く流れ出し池の四方からも水が噴き出す。
いきなりのスペクタクルである。
毎回、桟敷童子の舞台にはスペクタクルがある。
感情が溢れるラストシーンにそれは多く、一見外連味のように見えるのだが、そうではない。
舞台装置やセットとともに物語を語っているのだ。
今回はオープニングにそれがきた。
昭和50年代の九州地方の田舎が舞台となる。
いつもの桟敷童子がお得意の戦後・昭和の時代設定だ。
山の幸を採ることで生計を立て、山を信仰の対象としている集落。
山に湖が現れるときに、余所者がやって来て、集落に災いをもたらすという言い伝えがある。
以前の桟敷童子であったら、30年前の出来事を絡めて、もっとドロドロした人間模様を描いていたと思うのだが、今回は少しだけ異なっていた。
それは、観客にとって、今回の作品自体が、近しい存在になっていたからではないだろうか。
妻と子どもを置いて出て行った、池下重大さんが演じる千春、そして山主の長男であったが、家を出て音不通になり、骨になって妻(もりちえさん)の手によって帰ってきた男。
彼らは、故郷を離れ、都会に出ていた者たちの姿、あるいは想いなのではないだろうか。
作・演出の東憲司さんは、九州の出身(作は正確には、サジギドウジとクレジットされているが)。
彼が作った、ほとんどの舞台の上では九州の方言が話される。
標準語は都会の言葉となる。
彼が戯曲を書いているときには、自分が暮らした昭和の九州が頭にあるのではないだろうか。
彼の頭の中、イメージの中にある故郷は、昭和のままで止まっていて、集落は信仰や生活や人間関係が絡まっている。
時には、それらがそこに暮らす者たちをかんじがらめにしていたりする。
そんな故郷は、実際にはもうない。イメージの中だけにある。
タイトルの「エトランゼ」は、異邦人、見知らぬ人という意味のフランス語。
あえて日本語のタイトルにしなかったところにも、故郷を離れた者の中に湧き起こる、違和感を感じさせる。
故郷を捨てた者は、もうその場所の住民ではない。
だから、そこには「異邦人」となって戻るしかないのだ。
死を間近にした千春と、死んでも戻りたかった山主の長男の、捨てたはずの故郷への強い気持ちは、ほかの故郷を捨てた者たちと同じだろう。
彼らにとって、今やイメージの中だけになってしまった故郷は、いつかは帰りたいと願う場所であり、心のアンカー、最後の心の拠り所になっているのではないだろうか。
この作品は、そんな東さんの想いであり、そのことによって、故郷を捨ててきた者の気持ちをトレースしているのではないだろうか。
舞台の上では、山の中に幻の湖が出来る。
それは、故郷を捨てた者の胸に、あるときふいに湧いてきてしまう望郷の念のことではないだろうか。
溢れて溢れて、大きな湖になってしまうようなモノだ。
だから望郷の念の湖が現れたときに、かつてそこに暮らした彼らが、「異邦人」となって現れるのだ。
この舞台では、故郷を訪れた千春はまた去り、長男の嫁も去る。
骨になった長男だけが、残ることができる。
つまり、故郷を捨てた者が、故郷に帰ることができるのは、魂だけだ、というラストではなかったのか。
故郷はイメージの中にしかないから。
作・演出の東憲司さんは、戯曲を書くたびに、そうした自らの胸に湧き出る水(故郷への想い)を綴っているのかもしれない。
今回の作品は、いつもに増して群像劇の印象が強い。
軸になるような主人公的な、絶対的なキャラクターを立てていなかったようだ。
と言うより、登場人物1人ひとりの書き込みが丁寧で深さがある。
台詞が、物語を進めるためにあるのではなく、自分を、そして他者を語っている。
つまり、それぞれのキャラクター設定と台詞が自分自身を立たせるだけでなく、周囲の登場人物を立たせる役割がきちんとしている。
笑いも結構ある。いい感じの笑いだ。
集落の人たちの関係がとてもいいことを示しているようだ。
そこには、反目し合う村人たちという図式はなく、板垣桃子さん演じる志乃を、みんなで助けようとしたりする。
敵役は、もりちえさん演じる奈緒美だ。
彼女は、結構恐い。
数を数えるところや「家族のように暮らしていた」に、洗脳を思わせる。
なかなかの迫力だ。
ラストのずぶ濡れのシーンも、彼女が大きく見える。
そして、すべてが終わったあとの彼女の表情が素晴らしい。
そこまでのキツさが一気に解けたような表情を湖の中で見せる。
山の神官のような神業師を演じた外山博美さんも、変に笑いに走らせることなく(笑いのシーンは多いが、笑わせるようとしすぎない)、ちょっと達観しているところと、下世話さがいい塩梅にミックスされていたと思う。それは、脇の役だが台詞の量がそれなりにあることから、彼女を描け、演じることができたからではないだろうか。
山母兵糧師のリーダー・秀代を演じた山本あさみさんは、落ち着きがあり、懐の深さを感じさせる女性をうまく演じていた。
山主を演じた原口健太郎さんも、いつもの感じで手堅くいい味。
チカを演じた新井結香さんの、不思議ちゃんから、ラストにかけてのほぐれ具合もいい。
今回も客入れのときに劇団員総出のスタッフワーク、ラストのお見送りまで、手抜きなしのホスピタリティが素晴らしい。
満足度★★★★
Simple stage equipment and speedy production.
Admission free!
But,
It staged in English & No Japanese subtitles.
Brief description of each scene had .
2 hours 45 minutes ( break , including 15 minutes)
※English mistake , please forgive me
However , please tell me the fatal mistake .
It will fix gently . ;-)
ネタバレBOX
Hamlet has been hesitant . It appears to be not suitable to his age.
Hamlet impression pale , it is a beleaguered boy .
But,In other words, Hamlet on this stage is not a young boy , he looks for an adult.
The body of the actor who played Hamlet is showing that way.
Its cause it seemed to be in his father.
It is the strong presence of his father.
And even when the ghost it was the same.
That way it looked .
Includes Hamlet , there is a character all energy.
It is , I had until now , different from the gloomy image of this work .
Poroniasu also , at first but was as old , from around going to explore the cause of the Hamlet of confusion , energy comes overflowing.
Come overflowing even humor from him.
However , I think he humor is too much . I think him there is no such margin .
It is because he is subjected to very concerned about that daughter of marriageable age .
Ophelia is also energetic in about invisible pathetic to.
She seems to be confident .
I think the state of her feelings is always constant. Also , I think a strong and therefore also her gait .
Therefore , it crazy she does not look pathetic.
……Unfortunately.
Representation of the lines using the body , are different from the Japanese.
Body language it 's different . But it's of course.
Monologue of Hamlet , was not towards the inside of his own.
He was talking to the audience.
However , it was not unilaterally speak to the audience.
His monologue is , seemed to like interacting with the audience.
To do so I was surprised.
It was interesting thing is that Hamlet had welcomed the Rosenkrantz and Gilldenseturn as a friend.
In Hamlet I've ever seen , it had been cold shoulder the two friends.
It is , they are "We 're friends of Hamlet ," though he seemed to have been self-proclaimed with.
However, in this stage Hamlet to welcome them.
The two men , appeared on stage with a tennis racket. Thereby , they had become the mechanism which can be seen well whether what the person of.
Stage equipment was simple.
They had been using well the case for the move.
It's easy , but it was effective.
Speedy is a scene deployment.
In Hamlet I've seen up to now , the actors in order to put the emotion , was talking slowly lines.
However , it was not the case in this stage.
Words had come out very quickly.
Of course , emotional expression had to have forgotten.
It has been played only in the actor of 12 people.
They do also play instruments.
There is also singing and dancing.
Therefore , production in speedy , had been carefully constructed.
Like capture the audience , it was a friendly opening.
Ending , with dancing and singing , it had marked the end of fiction.
It was a very fun stage!
Questionnaire was English .
満足度★★★★★
今年は、(ほぼ)FUKAIPRODUCE羽衣の公演
脚本・演出・音楽が糸井幸之介さんで、出演者はFUKAIPRODUCE羽衣に客演さんたち、の感じ。
では、いつものFUKAIPRODUCE羽衣とは何が違うのか?
それは、切なさはあるけど、リビドーがないこと。
ネタバレBOX
としまアート夏まつりの「子どもに見せたい舞台」は、何度か観たことがあるが、その中では今回が一番。
子ども向けとしながらも、演劇としての完成度が高く、歌や踊りもある音楽劇として観客を楽しませてくれた。
通常のFUKAIPRODUCE羽衣で取り入れられている手法だが、より「音楽劇」としてわかりやすい構造になっている。
演劇としての完成度が高いのは、アンデルセンの童話をもとにした戯曲が成功しているからだ。
例えば、人魚姫の物語を「泡たち」に語らせることで、物語に深みと幅が出たのではないか。
ラストの付け足しも効いてくる(ま、個人的にはそれは蛇足に感じたのだが・笑)。
アンデルセンの童話で、取り上げたのは、『はだかの王さま』『人魚姫』『五粒の豆』『みにくいアヒルの子』、そしてアンコールとして『マッチ売りの少女』。
どれも「オチ」のようなラストの構造にしていないことで、物語は観客の中へ広がっていったのではないだろうか。
観客は、「子どもに見せたい舞台」にふさわしく、圧倒的に親子連れが多かった。
しかも、低年齢の子どもが多い印象だ。
そんな観客層へ、オープニングのつかみは最高だった。
月を演じた深井順子さんが客席に降りてきて通路を行くのだ。
まわりにいた子どもたちのテンションが一気に上がったのがわかった。
舞台の上にいる人が降りて、そばにやって来るというのは、凄いことなんだなと、改めて感じた。
これがラストまで、うまい使い方で、観客を沸かせていた。
エンディングも役者さんたちが通路を通って去っていくとのが、いい。
深井順子さんや、日髙啓介さんは、自分から手を差し出すことができずに、少しためらっている子どもたちにも、積極的に手を触ったり、頭を撫でたりしていた。そうしてもらった子どもは、本当にうれしそうだった。
子ども向けということからか、『人魚姫』で、泡から空気になった人魚姫ということで終わりではなく、子どもの躾的な話題で、客席に語りかける展開になっていくのだが、これだけは蛇足に思えてしまった(語りかけるところが)。
「いい子でいようね」とか、子どもは聞き飽きているんじゃないのかな。
逆に、『はだかの王さま』で、「王様は裸だ!」と観客に叫ばせてもいいかな、とも思ったり。参加するほうがいいと思うので。
とは言え、低年齢の子どもたちにおもねるわけではなく、大人でも十分に楽しめるレベルの演劇を見せてくれる(機織り職人が、「飲み食いをせず徹夜(鉄矢)で」と言って髪をかき上げる仕草をする、ということではなく・笑)。
誰もが知っているアンデルセン童話のアレンジがうまいから、メッセージとして伝わってくるものがある。
そのメッセージ、テーマは、いつものFUKAIPRODUCE羽衣に通じるところがあるのではないか。
孤独だったり、切なさだったり、前に向かう自由さだったりと。
……リビドー、というかエロさだけはないけれど(笑)。
それがないことで「青春の…」的な感じではないところで、子どもの親世代にもグッとくるところがあったのではないか。
わからないけど。
深井順子さんの、テンションの高さが子どもたちの気持ちにマッチしていたと思う。
高橋義和さんの王様、よかった。澤田慎司さんの王子様もぴったり。鯉和鮎美さんの人魚姫、いい歌を聴かせた。
井上みなみさんのマッチ売りの少女は、歌も含めて、儚さと切なさが抜群だった。
歌は、やっぱりいい。
いつものような、シャウトではないところが、また違った感覚。
振り付けが井手茂太さんなので、それもいい結果となっていた。
公演のサントラを販売していた。
700円。
もちろん買った。
通常のFUKAIPRODUCE羽衣の公演でも、その演目のサントラをその日に販売するといいのにと思った。
以下、公演のときに観たことで、心に残っていること。
ラストで月が帰るときに、月の帽子を忘れていく(演出で)。子どもたちが一斉に「帽子」「帽子」と叫んでいたこと。そのあとの展開は、みんなが笑っていたこと。
近くにいた幼稚園ぐらいの女の子が、弟にアンデルセン童話のストーリーを教えてあげていたこと。
人魚姫が声をなくしてから、気持ちを歌っていたときに、「しゃべってる! しゃべってる」と親に訴えていた子どもがいたこと。
ついでに。
この公演は、0歳児からOKとしている。
しかし、実際0歳児は厳しいだろう。
この日も、乳児が何人かいたようだ。
前のほうにいた乳児は、後半、引きつけを起こすのではないか、と思うほどぐずって泣いていた。
観客も集中できないが、それよりも、赤ちゃん大丈夫か? と気になってしまった。
さすがにO歳児は、託児サービスの設置をしたほうがいいのでは。
満足度★★★★★
虚構を交えながらも、歴史を物語にすることは、過去を検証する糸口を示してくれる
「A級戦犯に問われた外交官たちの証言から開戦の真実に迫る」とフライヤーにあった。
ということは……、と思って観た。
ネタバレBOX
やはりパラドックス定数・野木萌葱戯曲は素晴らしい。
戦争の始まりへの分岐点にかかわった(かかわってしまった)外交官たちから見た戦争を描く。
舞台は、極東軍事裁判開廷の直前に5人の外交官たちが揃うところから始まる。
そこが起点となることで、「どうして戦争になってしまったのか」「戦争を避けることはできなかったのか」という点が語られる。
ミズーリ号艦上での調印式や満州事変勃発、満州国、国連脱退、ベルリン大使館、三国同盟締結など、大陸での戦闘行為が拡大し、さらに太平洋戦争への突き進む「分岐点」を、舞台の上で行き来する。
外交官同士の反目や、軍部との関係、そして世論に揉まれながら、戦争へ突き進むという選択をしていく。
それは、小さな選択であったのかもしれないが、戦いに敗れ、戦犯になってしまったということから、「分岐点」になっていたということに、理解が及ぶのだ。
すなわち、自分たちの、小さな妥協や単眼的な視点が日本を悲惨な災いの中に放り込んでしまった。
最初の一歩は何だったのだろうか。
広田弘毅は、「軍部大臣現役武官制」の復活だったと悔やむ。
この舞台の設定は、先に書いたとおり、東京裁判の開廷前にある。
そこから始まって、そこへ向かってストーリーは進む。
重光葵が声を掛け、「裁判対策」と称して元外交官たちを集め、帝国ホテルの一室で話し合いをする。
なぜ、重光葵は「裁判対策」と称して会合を持ったのか。
そこは疑問であったが、物語が進むにつれて明らかになってくる。
つまり、日本国の、同じ外交官であったとしても、ライバルのひとりであったり、上司や部下の関係であったりすることで、互いの心のうちがわかっていたわけではなかったのだ。
ある意味一匹狼のごとく、国内外と対峙していて、その都度、選択し決断しなくてはならなかったからだ。
だからこそ、彼ら外交官には、この戦争の責任の一端があるのではないか、ということなのだ。
そのときほかの外交官ちが「何をどう考え」「どう行動したのか」は、裁判において自分の事案とも密接に関係するからこそ、「裁判対策」が必要だったのだろう。
彼ら外交官の小さな判断ミス、小さな譲歩が戦争に向かわせてしまった、と考えるのは無理がないのだ。
戦前・戦中の威勢の良さとは異なって、悔やむわけであるし、責任を感じるわけなのだ。
自分たちの戦争への責任とは、「あのときできなかったこと」「あのときに世界情勢が見切れていなかったこと」など、忸怩たる想いから生まれていった。
そこは東京裁判の問題点などとは関係なく、純粋に自分ができなかったこと、判断したことで、災いを被った国民へのお詫びの気持ちから出たものであろう。
彼らに付き従う若い次官たちとは、そのあたりに隔たりがあるのが、リアルだ。
最初のシーンは、極東軍事裁判開廷直前であり、ラストのシーンも同じシーンとなる。
しかし、少しだけ違うところがある。
法廷に呼ばれて部屋を退出するときに、それはあった。
広田弘毅が、出口で歩みを止めて、重光葵に何かを言おうとするが、言わずに終わり、重光葵がそれを察するのが最初のほうである。
そして、ラストでは、同じように広田弘毅が歩みを止めて、重光葵に「この中から、誰かが犠牲にならなくてはならない」(正確な台詞ではないがそんな内容のこと)を告げる。
多くの観客が知っているように、広田弘毅は唯一、文官でありながら、A級戦犯として死刑になった人だ。
裁判では何も語らなかった。
重光葵が開いた「裁判対策」で広田弘毅は自分の過ちを重く受け止めてしまったということだ。
もちろん、このような「裁判対策」は、フィクションであろうが、広田弘毅の中では同様の振り返りが起こっていたのかもしれないのだ。
「A級戦犯に問われた外交官たちの証言から開戦の真実に迫る」とフライヤーにあった。
ということは、広田弘毅が何をどう考え、そしてどう行動したのか、という点が物語の中核をなすのではと思っていた。
文官として唯一A級戦犯で死刑判決となった人だからだ。そこには物語がありそうだ。
しかし、野木萌葱さんは、そこに直接的な焦点を当てなかった。
彼の個人的な問題よりも、もっと大きくて根本的なところに焦点を当てた。すなわち、「なぜ戦争が起こって(を起こして)しまったのか」を、外交の分岐点に絞って見せたのだ。
したがって、盛り上がりそうな、裁判の判決については何も語らないのだ。後日談的なものもない。つまり、広田弘毅を非劇のヒーローにしなかった。潔い。
これは盛り上げたいという気持ちと、作品としての終わらせ方としてはこれでいいのだ、という相克があったのではないか、というのは素人考えだろうか。
物語は、順を追えば、なんとなく昭和のピンポイントの歴史が見えてくるようにはなっている。
しかし、満州事変から東京裁判ぐらいまでの歴史が、ざっくりとでも頭に入っているのといないのとでは見え方が異なってくる。
とてもうまいつくりだと思う。
虚構を交えながらも、歴史を物語にすることは、過去を検証する糸口を示してくれる。
70年戦争をしていない国に生まれ育っているにもかかわらず、一番近い戦争の歴史を、学校でほとんど習ってこなかった、私たちへ、「戦争」を考えるきっかけのひとつになるだろう。
この作品では、性急な結論を出しておらず、(自分の業績のことも考えつつも)誠実に仕事をしたことが戦争につながってしまうこともあるのだ、ということを知ることができるだろう。
もちろん、作者の意図や気持ちは、フィクションの中の登場人物たちが語ってくれているので、それを汲み取る必要はあるのだが。
ひとつだけ気になったのは、軍部や政府には、この戦争は「自存自衛」であるという考えが支配していたと思うのだが、その点について外交官たちはどのようにとらえていたのかを語ってほしかった、ということ。
野木萌葱さんの劇団、パラドックス定数は非常に面白い。
戯曲の面白さもあるが、役者さんたちの熱があるからだ。
とても誠実で丁寧な演技だ。
熱っぽい男祭りな舞台だ。
しかし、若いということが唯一気に掛かるところでもあった。
今回、青年座の舞台で、年齢にバラエティが出て(しかも高めで)、野木戯曲がさらに深みを増したようだ。
演出の黒岩さんには申し訳ないが、野木さんの熱っぽい演出でも観たかったと思った。
青年座の役者さんたちは、さすがにいい味を出している。
重光葵を演じた横堀悦夫さんは、青年座で前回観た『鑪―たたら』で演じていた軽みとは打って変わって、気骨ある外交官を好演していた。
松岡の右腕を演じていた山賀教弘さんは、独特の飄々とした感じと、一気にテンションを上げた演技が印象に残る。
野木萌葱さん(パラドックス定数)は、『東京裁判』『昭和レストレイション(226事件)』そして『外交官』と、ピンポイントで、このあたりの昭和史を描いているので、次はどんな角度で、何を見せてくれるのか、非常に楽しみだ。
満足度★★★★
花園神社進出30年目、夏の風物詩
団扇で風を入れながら、新宿の喧噪をBGMにし、テント芝居を楽しむ。
椿組の芝居は、内容も濃く、楽しい。
ネタバレBOX
鄭義信さんの脚本がとてもいい。
深みと人の情が伝わってくる。
「演劇」らしい楽しさがある。
「脚本家」になりたかった映画館館主と「映画館の館主」になりたかった脚本家が、それぞれを「夢」のように思い出す。つまり、それぞれが、そうなっていただろうという自分を妄想し、呼びかけ合う。
演劇らしい展開と演出だ。
テント内の暑さと、明治通りを行き交う車のエンジン音やテントのそばを歩く人の気配と音、花園神社にお参りに来て鳴らす鈴の音など、街の喧噪も相まって、芝居を作り上げていく。
音を含めた環境が、男たちのノスタルジー度をさらに増していく。
ただ、気になったのは、すべて「過去へのこだわり」ばかりで後ろ向きなこと。
2人の登場人物が「なりたかった」と思い出すのは、今自分の仕事がうまくいっていないからだ。
脚本家は、自分の書いたシナリオを何回も書き直しを命じられ、しかも映画は遅々として進まない。
映画館は、観客の入りが少なく、手放そうかと悩んでいる。
想像していたような自分になっていないからだろうか。
そんな男たちは、「なりたかった自分」を振り返る。
「もし、そうだったら、どうなっていたのか」と。
映画のエピソードに登場する監督も同じだ。
過去に素晴らしい作品を撮ったのらしいのだが、今度こそは自分の思い通りの作品を撮りたいと四苦八苦している。
迷走する映画制作に、俳優やスタッフたちもうんざりしている。
資金も底を尽きそうだ。
監督は、「昔の自分」に囚われすぎているからこそ、「新しい自分の作品を作りたい」と思っているのだ。つまり、過去から逃げられないままなのだ。
脚本家を含め周囲からは、監督に対して「昔のような」作品を撮ってほしいとプレッシャーを掛ける。
映画館の館主は、少年の頃の自分と、姉とその恋人になるはずだった復員した足の悪い男のことを思い出す。
それも「あのとき姉が彼を追っていたら」という想いが募っていく。それは自分への後悔でもある。8ミリフィルムの中にそれを留めていく。
どうも誰も彼もが、「昔」にがんじがらめに縛られているようだ。
監督は、結局過去から逃げられずに、映画を諦めてしまう。その結果、脚本家は前に進むことができたのか、と言えば疑問である。
脚本家は、実は映画館館主の妄想のひとつであったようだ。ラストで館主に集約していくことからそうとわかる。
映画館の館主は、結局は、映画館を手放すことを決意する。しかし、それで前に進むことができたのか、と言えば、やはり疑問だ。
唯一、映画館の撮影技師(映画館に引き籠もっていた)だけが、外に出ることができて、新しい一歩を踏み出すことができただけ。
過去に囚われた館主が見た夢だからこそ、誰もが「過去に囚われている」。つまり、なりたい自分=脚本家になったとしても、彼は(自分は)過去を振り返っただろう、ということなのだ。
ラストに映画館館主は、自分の過去たちと妄想の自分と、これから取り壊されてしまう映画館の座席に楽しそうに座るのだ。
これは、「過去の自分」を「映画館とともに」、「葬り去る」のではなく、過去に囲まれた、つまり「過去に囚われたまま」の自分の姿ではないのか。
だとすると、少々救いがないような気分だ。
映画館館主のように、ある一定の年齢以上になってしまうと、もう先は、こんな風に「閉じること」しかないのか、と思ってしまう。過去に引きずられ、過去を振り返り、過去に囲まれて……。
なんともやるせない気持ちだ。
また、テント芝居の常として、ラストは舞台側の後ろを開けるのだが、意味を見出そうとすればできないこともないのだが、この作品ではイマイチ意味合いを感じなかった。
ヒマワリの花が座席に咲いていたのだが、もっと先へ広がるような、スペクタクルな、視覚的にも意味合いにおいても、視野が広がるような展開がほしかった。パッと気分が晴れるような、そんなラストが。
『幕末太陽傳』のタイトルで、舞台のオープニングの印象からも、それをベースに物語が展開するのかと思っていたが、それは外れた。少し残念だ。川島雄三をもじった松島雄三という名前の監督が出てくるだけ。
川島監督は名作『幕末太陽傳』を撮ったが、松島監督はそのリメイクの撮影自体を断念してしまう。「川島監督と映画へのオマージュである」とフライヤーには書かれていたが、少なくともこれでは川島監督へのオマージュになってもいないのでは。まあ、全体的に「映画」がキーワードとなり、随所に映画のタイトルや映画に関するエピソードが散りばめられていたが。
演出は、飽きさせないためか、あるいは暑いので舞台への集中度を下げないためか、シーンごとにダンスなどのモブシーンがあり、その都度、舞台の上が華やかになる。暑いのに、衣装も早替えして出てきて、全員の動きもとてもいい。見応えも見栄えもあるモブシーンだった。
そして、テント芝居なのにセットがとてもいい。
場面展開もスムーズ。
ただし、笑いが出るシーンが、役者が声を張りすぎてしまうので、笑えないのは残念ではある。
映画館館主役の下元史郎さんが、渋いしぼんだ感じがいい。ターザンとのギャップには笑った。
姉役の松本紀保さんは、変に声を張らなくてもきちんと台詞が通り、ひとり涼しげで、きりっとしていたところに好感が持てる。
客席はそれなりに暑いが、舞台の上は常に熱く、濃い、いい舞台だった。
テントのずっと後ろのほうから、台詞の練習のような声が聞こえていて、「今ごろ台詞の練習しているのか」と思っていたら、それは境内で漫才の練習をしている若い人たちの声だった。そうとわかってしまえば、それも楽しい新宿の喧噪のひとつ。