真夏の夜の夢 公演情報 フェスティバル/トーキョー実行委員会「真夏の夜の夢」の観てきた!クチコミとコメント

  • 満足度★★★★★

    シェイクスピアを下敷きにして、野田秀樹+宮城聰の『真夏の夜の夢』
    シェイクスピアの『夏の夜の夢』に野田秀樹さんが人間的な深みとユーモアを増し、それを宮城聰さんがスペクタクルな夢の舞台に仕上げた。

    ネタバレBOX

    シェイクスピアの『夏の夜の夢』に野田秀樹さんが手を加えた(潤色)作品。
    オープニングで「そぼろ」(シェイクスピアの『夏の夜の夢』では「ヘレナ」)が発する台詞も「気のせい=木の精」「夏のせい=夏のせい」という具合に言葉遊びが乱発される。
    劇中もほぼそんな感じで、いかにも野田秀樹さんの台詞であるな、と。

    全体的にユーモアもあり、テンポがいい。
    テンポの良さは、舞台正面後方で演奏されるパーカッションたちの要素もある。
    演奏には俳優たちも加わり、テンポの良いリズムが刻まれる。
    聞いたことのあるようなメロディ(例えば、ダウンタウンブギウギバンド『港のヨーコ・ヨコハマ・ヨコスカ』など)も加わり、それが内容とリンクして効果的であったりするので、さらに顔はほころぶ。

    冒頭に「花金」という老舗料理屋? 旅館? が登場し、そこがシェイクスピアで言うところの「アマゾン国(王国)」であることがわかるので、これは『夏の夜の夢』ジャパネスク・バージョンかと思いきや、そうではなく、大胆に手が加わっていた。

    妖精王のオーベロンと女王タイターニアが揉める原因となる「美しい少年=取り替えっ子」が舞台に登場するのだ。
    この「取り替えっ子」は、シェイクスピアでは姿を表すことがないキャラクターだ。

    「取り替えっ子」(この作品では「捨て子」と言っていたように思う)が、実は誰だったのかはストーリーをかなり先に進めないとわからない仕掛けになっている。
    これがこの作品で大きなキーとなっている。

    「取り替えっ子」は、悪魔メフィストフェレスであった。
    彼は美しい少年に姿を変え、妖精の女王のもとにいたのだ。

    シェイクスピアの『夏の夜の夢』は、受け入れられない結婚と恋愛関係を巡り、妖精の棲む森の中で起こる、一種のドタバタなのだが、「メフィストフェレス」という“黒い要素”を一滴垂らすことで、人間の内面にある醜さのようなモノを炙り出したとも言える。
    それによって、物語に深みを増したのだ。

    メフィストフェレスの登場により、混乱するストーリーはさらにこんがらがってくる。
    メフィストフェレスがオーベロンやタイターニアと交わした契約書や、そぼろ(ヘレナ)が交わした契約書も出てくることで簡単に解決へと進まない(契約破棄には“1ポンドきっかりの言葉”っていうのは、たぶん『ヴェニスの商人』から来ているんだろうなあ)。
    その展開がなかなか面白い。

    「メフィストフェレスをこの森に呼び込んだのは誰か」ということで、そぼろが自分だと悟る。
    つまり、どこかそういう暗い感情が自分にあったことに気づかされるのだ。
    しかし、先に書いたとおりに、メフィストフェレスは捨て子の姿で自ら森に紛れ込んでいたことが、メフィストフェレス=捨て子ということからわかるのだ。

    これは何を示しているのか。
    そぼろが感じた「自分がメフィストフェレスを呼び込んでしまった」という感覚も間違いではなく、誰の心の中(根底)にもそういう“魔物”が棲んでいるということなのではないか。
    自分たちが気づかぬうちに、知らず知らずにそういう魔物を引き入れてしまっているということなのだ。

    シェイクスピアでは「取り替えっ子」と言っていたと思うが、ここでは「捨て子」である。
    「取り替えっ子」は、妖精が人間の世界から勝手に子どもを連れ去っていく者なのだが、「捨て子」は違う。
    自ら選択するものと、そっとそばにあるものという違いがある。
    つまり、その違いも意味するところは大いにあると思う。

    さらに、シェイクスピアの「取り替えっ子」は先にも書いたとおりに、王と王女の諍いの原因なのだが、台詞として出ててくるだけで舞台の上に姿を現さない。
    それを「舞台の上に姿を見せた」のは、野田秀樹さんのの企みのひとつではないのか。
    舞台の上に姿を現さない者の怨念であり、さらに“見えないモノ”に本質があるということを表しているのではないのか。

    結婚式で芝居を披露する者たちの演目は、この作品では『不思議の国のアリス』である。
    そこには、迷い込んでしまったアリスと、森に迷い込み、恋愛に迷い込んでしまった、そぼろを重ね合わせるという、言葉遊びにも似た面白さがある。

    妖精たちの舞台衣装は、布に新聞紙をプリントしたようなものであり、薄いクリーム色地に黒のモノトーン。
    舞台全体もそういう感じ。
    宮城聰さん作品らしく、主張が強い衣装等だ。
    対する人間たちは、白い衣装で、そぼろ(ヘレナ)だけが灰色の衣装。
    メフィストフェレスは妖精と同じようであるが、黒の面積が大きい。
    もう、衣装だけで、役割がわかってくる(見終わってからわかるのだが)。
    とても素晴らしい衣装とセット、装置。

    そんな妖精たちが舞台に溢れる様は、不気味であり悪夢のようでもある。

    もちろん役者は、そんな“主張の強い衣装や装置”に負けることはない。
    舞台に立つポール(ハシゴのような足を掛けるところが付いている)に上り、つかまったりもする。
    パーカッションの音楽が鳴り響き、舞台の上のテンポを補助する。観客もそれに急き立てられる。

    そぼろ役の本多麻紀さんと、メフィストフェレス役の渡辺敬彦さんが印象に強く残る。

    客入れのときからオープニングまで、雑踏のSEが聞こえていた。
    テント芝居を思い起こすようで、内容的にも(特に冒頭)アングラ度が強いためそれを感じた。
    客いじりもあったりした。

    エンディングは、確かシェイクスピアではパックの「われら役者は影法師……」という台詞で終わるのだが、この作品では役者がずらりと並びその台詞を客席に向かって放つ。内容に手が加わっていたかどうかはわからなかったが。

    オープニングの雑踏SEから舞台作品に入り、ラストの台詞で観客はもとに戻ってくる、という仕掛けなのだろう。

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    2015/11/04 12:39

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