すばらしい日だ金がいる 公演情報 アマヤドリ「すばらしい日だ金がいる」の観てきた!クチコミとコメント

  • 満足度★★★★★

    凄まじい台詞の攻防と、台詞の圧
    “トーキング・リトル・エレファント”なのか“リトル・エレファント”なのか。
    「言葉はほとんど伝わらない」と考える。


    (ネタバレ長く書きすぎたかも…)

    ネタバレBOX

    アマヤドリの公演は、ひょっとこ乱舞時代から毎回期待度が高い。
    演劇としての醍醐味、ダイナミックな物語の展開があり、帰宅しながら公演を反芻する面白さがあるからだ。

    今回の作品もまさにそうだった。

    冒頭から、部下を、とてもイヤな言い回しで舐めるようにディスる上司。
    笠井里美さんが演じる上司・大野は、後で会社の同僚たちが噂するように、「殺人マシーン」のようだ。
    もの凄いテンポで、「(あとからわかるのだが、心の病になったから)医者に言われたので休暇を取りたい」という糸山和則さん演じる部下・天城をなじり倒す。
    速射砲のようなコトバが天城をなぎ倒してしまう。
    誰が見てもそれはそうだろうと思う。
    ひょっとしたら、それは冗談なのかと思っていたら、本気だったところに恐さがあった。

    しかし、大野にとっても、そのコトバは諸刃の刃であって、自らのストレスを高めていた。
    ストレスは周囲の環境によって軽減されることがある。例えば、家庭であり、例えば、職場である。

    職場の状況は、同僚たちの台詞にもあるように、部下の天城だけでなく、大野にとっても支援のネットワークとなっているとは思えない。
    家庭でも娘との関係が微妙なのことは、のちの短いシーンでも明らかになっていく。

    ここで、大野はストレスを溜めていきながらも、“過労死”へ突き進まなかったことがポイントではないか。
    “死”ではなく、“逃避”すること“逃げる”ことを彼女は選択した。

    そこには「娘との関係」が大きく作用しているのだはないのか。
    彼女は、娘に対しての気持ちがあるから、“死”によって断ち切ることができなかったのだろう。
    ひょっとしたら“うつ”に対する、何らかのヒントになるのかもしれない。

    ストレスは、「自分の思い通りにならない」ことから生まれる。
    大野にとっては、(使えない)部下だったり、義理の娘だったりする。

    娘については、“期待を持ち続けること”がストレスに変換されている。
    それは、自分についても同じことである。

    また、それらの行動は、実のところ、「人の期待に沿うように行動したい」という想いからやってくることがわかる。

    そういう状態にある人のことを「イイコ」と名付けた(正確にはそういう定義ではないが)学者もいる。その状態を表すには、言い得て妙のネーミングだと思う。
    大野もあとで出てくる勉強会のメンバーも、勉強会の主宰もイイコ(症候群)なのだ。
    この特性が強いほど、“自己イメージ”が低いと言う。
    勉強会の主宰が何度も口にする「個人化するな」と言う言葉がそれを指摘する。
    大野の状況はまさにそれではないか。娘との関係は「自分がいい母ではないからだ」と言う。

    グループセラピーのような勉強会がある。
    ここでのファシリテーターの役割を担っている、渡邉圭介さん演じる立花が、とても胡散臭くていい。
    この胡散臭さはどこから出てくるのかと思ったら、彼自身がグループのメンバーと同じな“うつ”であり、薬物中毒な様子である。

    勉強会の主宰であるが、彼もまた、この勉強会を通じて、実は治癒(寛解)することを望んでいるのではないのか。
    だから、ファシリテーターなのだが、“介入”の度合いが強い。

    相手から、自らのコトバを引き出すというよりは、ガイドしているようでさえある。
    「彼(立花)が望んでいること」を言わせているようなのだ。
    この点は、ラストにかかわってくるのではないだろうかと思った。

    勉強会にはさまざまなタイプの人が集っている。
    舞台の上では勉強会の、数回だけが演じられているので、それまでの経緯は不明だが、メンバーは主宰を信頼しているのはわかる。ただし、それには濃淡がある。

    彼らの“うつ”のタイプがさまざまであり、一見、達観したような元パン屋の児玉(宮崎雄馬さん)のような人もいるし、つい興奮してしまう桜井(石本政晶さん)のような人もいる。

    グループワークでは、参加者とのやり取りを通じて多面的に自己を確認できる。いわゆるグループダイナミクスの効果である。
    そういう“場”が、まさに舞台の上に表出していたのには、驚いた。
    台詞のやり取りが生きているからだ。

    ファシリテーターの立花が、(やや介入度合いが強いものの)グルーブ内での主導権を握り、“課題”を与え、エクササイズをさせる様が見事なのだ。
    いわゆる、“何をどう言ったのか”という「コンテント」だけに目を向けることなく、“感情”に焦点を当て、“背後にある気持ち”を探っていくことで、「パブリックの領域」から、「ブラインドの領域」へ、さらには「アンノウンの領域」まで自己理解を高めていく。
    舞台の上では、決して長くはないのだが、そうしたことが行われていることを察することができ、これがとても気配りされた戯曲であることがうかがえるのだ。

    立花を演じる渡邉圭介さんの台詞回しと動きがいい。
    焦点がボケるぐらいな距離に顔を近づけたり、スキンシップをとったり、主導権の握り方と、“場”の把握具合の演技(&演出)がとてもいいのだ。言語だけでなく、こうした“非言語”のエッセンスが入ることで、勉強会のステータスが感じられる。
    技法的なことを知らなくても、観客は、雰囲気を察知するであろうから、胡散臭いやり取りに引き込まれていく。

    また、立花は、「自分がまさにそうだから、勉強会の参加者のことがわかる」というようなことを言う。カウンセラーにありがちで、陥りがちな問題点をさりげなく入れたところも、戯曲の良さだ。

    「言葉はほとんど伝わらない」と思わせることで、“諦める”ことを覚え、大野の“他者(娘)に対する期待”が下がるということを示すのも上手いと思った。
    相手が“トーキング・リトル・エレファント”じゃなくて、“リトル・エレファント”ぐらいに考えていたほうが楽なのだから。

    勉強会では「〜すべきである」の「べき」が話題に上る。
    「べき」に囚われてしまい動きが取れなくなってしまっている。
    その状況に疑問を投げかけるメンバーもいる。
    そうした人は、その囚われから抜け出すところに来ているのかもしれない。

    なので、勉強会の対話は示唆に富んでいてとても面白いのだ。
    さまざまなタイプの人がいるから、“寛解”(治癒ではなく)に対する定義も、それへのアプローチも異なるのだ。
    それが勉強会のシーンで明らかになっていく。

    心のストレスを解消するには「アサーティブ」(相手を慮った自己主張のようなもの)のスキルを身に付ける必要があるという。
    勉強会ではそれが積極的に行われ、さらにラストでは、大野の気持ちが一気に噴き出す。
    しかし、大野のそれは一方的な自己主張であり、また大野の中の“気づき”というよりは、立花のガイドの力が大きかったためか、「ウソでした」と言い逃れてしまう。

    ただし、娘は、彼女が学生だったころと同じシチュエーションで、言葉が同じなのだが、返す言葉とともに母(大野)を突き飛ばしたことで感情を露わにした。
    そこで、大野の「お金貸して」である。
    互いの感情が交差した一瞬だったのかもしれない。
    大野が寛解していく一歩になったのかもしれないのだ。
    まさに「すばらしい日」となるのだろうと感じさせるいいラストだった。
    それを裏付けるように、群舞が作品を締めくくった。

    大野を演じた笠井里美さんの、恐いぐらいの台詞のテンポには参った。
    特に終盤の、椅子の上の台詞回しには、鳥肌が立った。
    妹役の小角まやさんとのやり取りも見応えがあった。
    あまりにもキツイ言葉の応酬で、実は姉妹の関係が、そんなには最悪ではない、ということがわかるようなのだ。
    信頼と期待が混在となっているからこその、激しい言葉であり、またそれが姉を追い詰めているという図式がいい。

    山小屋に妹たちが来るシーンで、虫を登場させたのが、上手いなあと。どうしてそんなことを思いついたのだろうか、とさえ思った。

    “うつ”をテーマにして、「言葉はほとんど伝わらない」と思うほうがいいと言いながらも、言葉に囚われて、言葉に裏切られて、だけど言葉に救われて、と、言葉を使う者から言葉を使う者へのメッセージとなっていると感じた。
    たとえ相手が、“ただのリトル・エレファント”であったとしても。

    見応えのある作品だった。
    これからもアマヤドリは見逃せない。

    付け加えるとすれば、中村早香さん推しの私としては(笑)、彼女が出てないことだけが不満であった。

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    2015/09/20 07:38

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