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こどもとつくる舞台『花をそだてるように、ほんとうをそだてています。』

こどもとつくる舞台『花をそだてるように、ほんとうをそだてています。』

ひとごと。

こまばアゴラ劇場(東京都)

2021/03/24 (水) ~ 2021/03/28 (日)公演終了

実演鑑賞

満足度★★★

コトバと踊りを、絵の具のように手に付けて、画用紙の上を自由に塗りたくったようなプリミティヴさ。

楽しい!

ネタバレBOX

子どもの話を演劇化する企画は、以前、岩井秀人さん・森山未來さんたちの「なむはむだはむ」がある。
それは完成度の高い「演劇」を組み立てようとしていたが、こちらはより直感的に話を身体に落としてストレートに見せていた。

追悼として犠牲者数と同じ靴を並べることがある。
舞台の上に置かれた靴にそれを重ねてしまった。
そこへ「花」を挿していくことで、さらに慰霊や鎮魂の印象。
子どもという、きらきら光る「生」と、静かな「死」のコントラストのようにも。

川隅奈保子さんの笑顔には救われる。
藤瀬のりこさんのダンスはすっとしていて気持ちいい。
生きてる風/ ブタに真珠の首飾り

生きてる風/ ブタに真珠の首飾り

アマヤドリ

シアター風姿花伝(東京都)

2021/03/18 (木) ~ 2021/03/28 (日)公演終了

実演鑑賞

満足度★★★★

『生きてる風』

昨年から延期になった公演。

「ひきこもり」の意味合いが微妙に異なってきた時代の「社会的ひきこもり」。
なのだが、ひきこもりの人たちについて語っているようで、どうやらそれだけではなさそうだ。

ネタバレBOX

<似合う服理論>

「ひきこもり」の意味合いが微妙に異なってきた時代の「社会的ひきこもり」。
なのだが、ひきこもりの人たちについて語っているようで、どうやらそれだけではなさそうだ。

すなわち、「人のアイデンティティー」はどこから生まれ、それを変えることはできるのか? ということではないか。

作中で「似合う服を選ぶ」というワードが示すように、それを「自分でできる人」もいれば「他人してもらうことでしかできない人」がいる。
「自分に似合う服」を選べた人は、「(社会での)居場所」が確保できる。

それが「ひきこもり」という「服」の人もいる。
その服を着替えたいと願っている人もいる。
それの手助けが「支援事業」ではないだろうか。

どんな服を着るかは自由だし、それが似合う似合わないを決めるのは、本当は自分なのだが、社会がそれをすべて許すわけではなく、社会、あるいはもっと狭い学校のような生活圏や、さらに狭い「家族」から「その服は着替えたほうがいいよ」というような、圧力(同調圧力の場合もある)が、常にかかってくる。

その圧力がまるで「正しい」ようにかけられている人たちが、いわゆる「ひきこもり」の人たちであり、その圧力があるから逆に「着替えることが困難」になっている場合もあろう。

そうした葛藤と、諦念とがいり混じった人々が、深夜から未明、そして夜明けの短い時間に混ざり合う。

当然「答えはない」。
それは「似合う似合わない」は、結局のところ自分次第であるということだからだろう。

人々は、それを確認し、その場を去って行く。
ある人は「着替えよう」と考え、ある人は「今のままでいい」と考えて。

「ひきこもり」を描いているが、「似合う服理論」とでもいう考え方は、実のところすべての人に当てはまるのではないかと思った。

自分が着ている服(貼られた「レッテル」)は本当に自分に合っているのか、今着ている服は自分で選んだものではないが、自分の意思で着替えることはできるのか(一度貼られてしまった「レッテル」を張り換えることは可能か)などなど。

高校デビュー、大学デビューという言葉があるように、人生のタイミングに合わせてなんとか着替えたいと思う人もあれば、今のままの服でいい人もいるわけで、舞台の上の「ひきこもり」の人と同じかもしれない。

個人的には、アマヤドリなので、もう一歩踏み込んだテーゼとか問いかけが欲しかった。

「着替えたい人」竹前総次郎は、不器用(わざと?)ながら人との接触を試みようとしていたのが印象的。

総次郎の妹・瀬奈は、正論で攻めてきていい感じに恐かった。
一史の少し達観した感じ。
一史の兄・譲は、弟がそんな感じなのに、やっぱりありがちな正論で、やんわり弟を責めているようだった。
そんなわけで、はばゆりなさんと、河原翔太さん、沼田星麻さんが印象に残った。

ラストにかかる曲は、ヴェルヴェット・アンダーグラウンド 「サンデー・モーニング」。
個人的には「月曜日の朝」のほうがしっくりくるのだが、歌詞的にはそんな感じだろう。

アマヤドリは、セットがカッコいい。今回もシンプルだけとカッコ良い。
そして、未明からの照明の具合もよかった。

ちょっと気になったのが、「ゲームをする女」。
舞台を観ていたときには「ゲーム」をしているようには見えなかった。
ヘッドホンをして画面を見ていることはわかったのだが、それがゲームだったとは。
相関図を見て「ゲームをしている」とわかったのだが、それでいいのだろうか、演劇的には。
光の祭典

光の祭典

少女都市

こまばアゴラ劇場(東京都)

2019/08/21 (水) ~ 2019/08/27 (火)公演終了

満足度★★★

俳優は熱演。好感が持てた。しかし、全体の印象としては雑。設定も展開も雑に感じた。モノを創り出す苦悩と恋愛問題が絡んでくるというストーリーで、かつそれがあまり上手く機能していない様は、それこそ自主映画全盛時のダメな学生映画を見ているようだった。

(以下「ネタバレBOX」には否定的な意見ばかり書いてますので、そんなの読みたくないという方はお読みにならないほうがよいと思います)

ネタバレBOX

元彼から受けた傷によって映画を撮ることができなくなってしまった女性と、優柔不断でなかなか自分の作品を作り上げることができない男性の話。

彼らを取り巻く周囲がごちゃごちゃしすぎで、2人の関係と行動がすっきりと見えてこない。
特に男のほうの阪神・淡路大震災への影響が、神戸ルミナリエ=故郷の懐かしい光景というふうにしか思えない。
いきなり後半でちょこっと3.11が出てくるのだが、それも効果的ではなく、単なる過ぎ去った光景として出てくるだけ。
つまり、オリンピックのPR動画の素材としての位置づけでしかないところに少し憤ってしまう。阪神・淡路大震災と重ねるところがあるわけでもなく。
もう「歴史」の一部、時間を語るための単語になってしまったのか?

そもそも学生時代の課題だったか卒業制作の映画が、国際的な映画祭で受賞するというファンタジーがダサすぎる。
良い映画を撮ったということの証明が、国際的映画祭というボキャブラリーしかなかったということ。

学生時代の仲間と“偶然”カラオケで出会い、その“偶然”出会った女性が“偶然”介護に訪れた家が、学生時代の知り合いだったとか、偶然が酷すぎる。

一番酷い偶然は、(彼がいると知って訪れるのだが)道に迷ってしまい“偶然”その彼と出会うのだが、両方とも相手が誰なのか気づかない(これも酷いが)。
そしてその場で彼が、その彼女にしたことについて、突然別の知り合いに話し出し、それを彼女が“偶然”聞いてしまう……さらに2人の話が終わったところで、“偶然”今の彼女が登場する……。
なんという偶然!……というか、ストーリーのためだけの偶然が雑すぎ。

フリーの照明マンが、おじいちゃんのお願いで撮ることを依頼されたのが、オリンピックの公式PRビデオって、そんなことあり? 
そのオリンピックの公式ビデオでメインキャラのように登場するのが、日活ロマンポルノで主演をした女優ってあるかな? それは無理じゃないの?
(劇中では「ロマンポルノ」と言っていたと思うが、ロマンポルノは日活が制作したピンク映画の名称)

有名な監督が女好きと聞き、文字通り体当たりする女優が、見事(ロマンポルノではあるが)主演を得るというのもアリなの? って思っていると、その監督は本当は男のほうが好きということで(えぇ??)、今度は男が近づき、その彼が映画のメイキングを撮らせてもらうことになった、というのもなんだか雑な展開。
しかもその映画のメイキングというのが、日活ロマンポルノらしい。ロマンポルノってメイキング作るの?

それと不思議なのは「ロマンポルノ」や「山形国際ドキュメンタリー映画祭」という固有名詞が出てくるのにもかかわらず、「ぴあ」だけがなぜか「ぴお」。

熱っぽさがいい感じだったけど、次々現れる「偶然」の雑さ加減に段々うんざりしてきてしまった。
繰り返しになるが、阪神・淡路大震災(=神戸ルミナリエ)が全体に効いていれば、また受ける印象も違ったのかもしれないのだが。
アリはフリスクを食べない

アリはフリスクを食べない

青年団リンク やしゃご

こまばアゴラ劇場(東京都)

2019/08/31 (土) ~ 2019/09/10 (火)公演終了

満足度★★★★★

やしゃご『アリはフリスクを食べない』@こまばアゴラ劇場

親が亡くなり知的障害を持つ兄と暮らすことになった弟と、彼らを取り巻く人々の話。

説明なしにそれぞれの関係と背景を見せていく、脚本の上手さ。

(実世界では、あたり前のことなのだが)誰もが1つの役割としての性格や設定を持つのではなく、ちょっとしたエピソードや台詞・会話によって、その人物像に深みを持たせている。
だからリアルであり、人間の(他人の目から見た)可笑しさ、哀しさが感じられる。

(ネタバレBOXへ)

ネタバレBOX

登場人物たちの配置も見事だ。例えば加奈子の母がいることで、障害者を家族に持つということを、智幸と歩の兄弟からの視線だけでないものを見せてくれるし、母の「触らないで」の一言も、それだけで物語全体への意味を持ったりもする。

「正論」として振りかざす手の空虚さを感じつつも、その正論に共感したり、でも「しょうがない」という気持ちにも納得したりする。
もし自分が同じ立場であったとしても、やっぱり正論を振りかざしてしまいそうだし、苦渋の決断もするであろう。

つい「誰が悪い」とか「何が悪い」と「悪いもの・こと」を追いがちであるが、この物語を観ることで、そうした考え方が果たして良いのであろうかと疑問を投げかけてくる。
つまりそれを追うことが、差別につながってしまうということにも気づかされるのだ。

他人から見る場所からは、正解は見えない。
それぞれが、それぞれの立場で考えることが正解なのだろう。

「私たちだったらどうするか?」「私だったら何という言葉を発するのか」という投げかけを受けて、帰り道もずっと考えるというのも良いことだった。

知的障害を持つ兄役の辻響平さんがとても良かった。
弟・歩の婚約者を演じた幡美優さんの後半の絞り出すような台詞もいい。
兄弟の幼なじみ・舘そらみさんの自然体の優しさが良いから、ラストにちょっと哀しくなってしまう。
工場の社長・工藤さやさんの、工場を急に任され、実は少し無理しているのかも感もいい。
知的障害があり兄弟と同僚役の井上みなみさんのインノセントさからくる叫びが、ヒリヒリする。
三上(男のほうの)役の尾崎宇内さんの「何かが起こりそう」さを孕む、ヒヤリとした冷たさがたまらない。
発表せよ!大本営!

発表せよ!大本営!

Aga-risk Entertainment

駅前劇場(東京都)

2019/08/15 (木) ~ 2019/08/20 (火)公演終了

満足度★★★★★

アガリスクエンターテイメント『発表せよ!大本営!』

日本海軍が大敗したミッドウェー海戦。それをどう伝えようかと苦悩する大本営海軍報道部の、ドタバタコメディ(!)。

こういうコメディを得意としているアガリスク。このテーマと聞いて「おっ!」と思った。
討論&会議&落としどころを探り出す演劇にはうってつけのテーマだから。


(ネタバレに長々書いてます)

ネタバレBOX

オープニングは1944年。
彼我の戦果と損害について、発表と実際を一覧にする。その差があまりにも大きすぎて「一体どうしてこんなことに……」からスタートする。
その原点ともいうべきところがミッドウェー海戦にあるのでは、ということなのだ。上手いよね。

歴史や戦史マニアの方たちには厳しいものがあるかもしれないが、何も知らない若者たちには、いろいろ考えさせるというインパクトはあるようだ。

当日配布するペーパーには、「大本営」はもとよりいろいろな基本用語の解説もある。
ただし主宰の言葉を借りると「歴史はそれほど知らなくても大丈夫です。ただ日本が負けたことだけは押さえて見てください」とのこと。

ミッドウェー海戦の大敗と、その戦果の事実を曲げて発表した大本営という史実は動かせないので、そこがスタートであり、決着点。

アガリスクらしいテンポの良い会話と、場面の切り替え。
気持ちいいほどどんどん進んでいき、ラストの畳みかけはやっぱり上手い。笑いが多くとにかく面白い。

戦果と損害の数字をどうにかしようとするのだから、「数字」なのだが(台詞にもあるが)、観客としてはそれは単なる数字でないことがわかるだけに、そういう台詞をさりげなく言わせたり、「数」に注目させたりというところがとてもブラックな上手さ。
大本営にとっては「数」であり、そこに「人」はいない。

さらに甘味処に代表され一般市民は「勝ち負け」のみしか気にしてない。勝って当たり前の日本軍だったし。

そうした視点でしか見ていないのは、「歴史」となってしまった現在私たちの見方とも重なる。
空母が沈めば大勢の人が死んでいるだ。

そうしたものを内在しながらも、そこをみなまで言わないというセンスの良さ。

「事実を自分たちの都合の良いようにねじ曲げて」がこの作品の表テーマであるとすれば、裏テーマは「人(命)」を「数」としか見ていない戦争の怖さであると思う。

一般庶民のエピソードを単なる騙された国民として描いているのではなく、微妙に翻弄された人たちの、その微妙さの加減がいいのだ。声高じゃなくて静かに翻弄されるというか、さらりというところがアガリスクの上手さでもある。

報道の者としての使命に燃える、新聞記者と放送員の2人。うまいこと説得されてしまうのだが、いわゆる「大本営発表」はこの後も続く。オープニングの「数字の差」にもあらわれている。
今回黙ってしまった彼らはどうなったのだろうか。
召集されて前線へ、などということもあり得そうだ。

淺越さんがもっと屁理屈で責めてくるかと思ったのに(笑)。
作戦課長の北川竜二さん&陸軍報道部の高木健さんはアガリスクにない、いい味。そして津和野 諒さん抑えた熱演。軍務局課長役の木内コギトさんが、とても上手いテンポの台詞。スパッと決まり気持ちいい。

榎並夕起さんと熊谷有芳さんも、とっても良かった。
で、結局あのゴミを集めていたおばさんって? 笑。

アガリスクの俳優さんたちは、安定的な良さがある。見ていて安心。
しかし、毎回思うのだが、全体的に前のめりになりすぎているのではないか。
少し落ち着いてみたらどうだろうか。もちろん畳みかけるところは別にしても。
ぐっと奥行きが出るような気がする。
水鏡譚

水鏡譚

昭和精吾事務所

こまばアゴラ劇場(東京都)

2019/06/25 (火) ~ 2019/06/27 (木)公演終了

満足度★★★

2つの戯曲の選択はとても良いと思ったし、寺山修司&岸田理生の物語自体が面白い。
そして、こもだまりさんの存在感。声の通りというか座り方がとても良い。

ただ、万有引力好きでJ・A・シーザー好きなので行ったのだが、どうも私には合わなかったようだ。

ネタバレBOX

前半は「詩劇」という形で寺山修司さんの詩などを音楽をバックに朗読。手に台本があったりなかったりが気になる。役者さんの目の向きなどが。単なる朗読ではなく、それなりに演出もあるのだから、台本なしで良かったのでは。

後半は、映像を交えた演出だったが、最初と最後のほうでしか使わないマイクが4本、狭い舞台の上にずっと立っていたのがあまり格好のいいものではなかった。小道具など、ほかでいろいろと工夫しているのだから、もうちょっとどうにかならなかったものか。

劇中の生ギターは格好いい。
しかし録音の音楽に生ドラムの演奏はイマイチ。録音の音楽と生音のレベルやトーンが違いすぎていたし、ドラムの置き方の問題か少々バタバタしていたし、ドラマーへのモニターの問題かリズムが微妙にズレている感じもしてしまったりした。
録音の音楽なしでドラムだけのほうが良かったのでは。

第2部のあとで、また寺山修司さんの文章に戻ったのだが、そこまでの2本の物語の軸「親殺し」と噛み合っていないようで、蛇足に感じてしまった。
……「親殺し」の意味に「アメリカ」をかけた? ってことはないですよね。
ジャン×Keitaの隊長退屈男

ジャン×Keitaの隊長退屈男

青年団国際演劇交流プロジェクト

アトリエ春風舎(東京都)

2019/06/22 (土) ~ 2019/06/26 (水)公演終了

満足度★★★★★

三島景太さんの1人芝居。なのにラストまで、舞台上の熱量がまったく変わらず、惹き付けられた。凄すぎる。そして、これが翻訳モノとは! の驚き。


(ネタバレBOXへ続く)

ネタバレBOX

この作品で唯一の軍歌に導かれて、冒頭から少しの間は威勢の良い言葉が並ぶ。
しかし、そこに「過去の思い出」が紛れ込んでくる。
軍隊での演芸会のようであり、また明らかに盆踊りの櫓でもある。黒白の提灯と紅白幕の残骸。

隊長はお盆に帰って来ているのではないか。

隊長によって行われる、一種の狂乱のような踊りや流れる歌謡曲、それは彼の頭の中での出来事だろう。

これを見ながら思い出したのは、映画『ジョニーは戦場へ行った』で、手足を失い五感も失ったジョニーが、意識があるのに誰ともコミュニケーションをとることが出来ずに、頭の中でひたすら過去を思い出し、妄想を重ねていく。

隊長のこれらも、ジョニーのそれと同じではなかったのか。

隊長は自分の頭を撃ち、ジャングルに朽ち果てようとしている。
たぶん部下などにそのまま置き去りにされたのではないか。戦傷ではなく自殺だからということもあろうか。

隊長は、死ぬまでのわずかな、あるいは延々と続く時間を自分の過去や妄想の中にいるのだ。

そしてその妄想の中で、軍隊の演芸会と郷里の盆踊りが交錯して、一人舞台が始まっている。母や家族のこと、彼にかかわりのあった女性たちの象徴が赤いドレス。彼は彼女たちとも一体化していく。
軍人である彼も時折顔を見せる。

酒を櫓の周りに撒き、死者と生者との間に結界を作る。ビンからこぼれる砂は骨。線香を点け、供養が続く。彼自身が自分も含め供養していくのだ。

草の陰に斃れ、土に還っていった、数百万人の人々。日本人だけではなく、軍人だけでもない。そうした人々へのレクイエムである。

彼を含む供養してもらえないまま異国の地に眠る人々に向けての供養。時間とともに忘れられていく人々への供養。

彼は櫓の上にいて、ジャングルの道ばたにもいる。そして朽ち果てていく。それさえも彼は見て(感じて)いる。

ラストは彼の魂が天に昇っていくようであり、あまりにも美しい。
しかし、ジャングルの道ばたで斃れ土に還った彼の、いや彼らの魂は、天に昇ることが出来たのだろうか。

彼が終始話していた「揺さぶるのはやめろ」の意味は、「死者を忘れるな」ということであり、さらに「死者を起こすな=2度と同じ過ちを繰り返すな」ということではなかったか。

そうした意味においても、この作品で気になったのは、彼が将校であり、すなわち職業軍人ではないかということだ。

彼はたぶん中尉で小隊長。
赤紙一枚で戦場へ連れて行かれた兵とは違うような気がするからだ。もちろん将校と言えども、望んで軍人になった者ばかりではないだろうが。

どうでもいいことだが、「そんな無理言うな」って話だが、隊長=三島景太さんの肉体があまりにも整いすぎていた(笑)。痩せこけた姿だったら、さらに鬼気迫ったものとなったのではないか。

私は、(運良く?)上演中にお線香を手向けることができた。
はなればなれたち

はなればなれたち

ロロ

吉祥寺シアター(東京都)

2019/06/22 (土) ~ 2019/06/30 (日)公演終了

満足度★★★★★

ロロ『はなればなれたち』@吉祥寺シアター

劇団というのは、太陽系みたいなもので、何らかの引力で、役者やスタッフがつかず離れず(時には離れて、時には彗星のように太陽系を横切る)くるくる回っている。

はなればなれのようで、結びついている。

そんな劇団をや、演劇・役者・演技のお話。

「ネタバレbox」へ。

ネタバレBOX

前半は、普通の面白い演劇作品のようで、ラベルが「ロロ」じゃなくても、「そうかも」と思える感じだったが、後半は、ロロだった(『わが星』が出てくるわけではないが『わが星』と見事にリンクしていくというか、それを力点にしていくような感覚)。

「はじまり」があり「終わり」があって、「終わりではない」話。物語によって救われる話でもある。「物語」が生まれ(人々の中で)広まり、時代の肉付けをされ、未来へ生き残っていく。

物語が演劇となっていくときには、文字通り(役者や演出家やスタッフたちの)肉体を持つ。肉体を通って行った「物語」は、拡散され、その多くは時間とともに消滅していくが、わずかな細い枝のようになって残っていく。

その残った「物語」には、通り過ぎた「肉体」の記憶、と言うか香りが付いているのではないだろうか。そんなことを思った。肉体はなくなってしまっても。

前半、「淋しい」を演じた森本華さんが魅力的なのだが、後半は、「すい中」を演じた望月綾乃さんがどんどん魅力的に見えていく。魅力的なのは「役」なのか「役者」なのかわからなくなっていく。

そして2人が重なっていくのだ。

曽我部恵一さんの歌、めちゃめちゃ良かった。

こう言ったらアレかもしれないけど、演劇の(誰にも気づかれない)地面って、舞台の上にあるのではなく、こっち側(観客席)にあるのかもしれないな、とも思ったりして。
「ボードゲームと種の起源・拡張版」

「ボードゲームと種の起源・拡張版」

The end of company ジエン社

こまばアゴラ劇場(東京都)

2019/05/29 (水) ~ 2019/06/09 (日)公演終了

満足度★★★★★

#ジエン社「#ボードゲームと種の起源・拡張版」

ジエン社が得意とする会話の重ね方。
時間と場所の「レイヤー」が重なっている。
今回は、それが洗練され、すべてが聞こえ、何がいつどうなったのかが分かりやすくなっていた(以前は同時発声で重ねることに意味があったとも言えるのだが)。

観客の集中が必要だけど。

(以下ネタバレにダラダラ続きます)

ネタバレBOX

ジエン社がこの舞台のために作ったボードゲーム『魔女の村に棲む』が作中世界とリンクしていく。

そのゲームは黒と赤の2種類のカードと「怪物」カード1枚を使い、自分だけが何色のカードを持っているのかわからないまま、他人との会話しながらそれを探っていく。自分が多数派の色に属し生き残るために、自分とは反対の色であろう他人を指さし「殺す」という方法を使う。そのほかに「祈る」「守る」等々のルールがある。

当たり前のことなのだが、ルールに従わなければゲームに参加できない。
社会も家族も自分自身が生きていくことは、ゲームと言ってもいいのかもしれない。そのときには、「誰のルールに従うのか」が大切である。自分だけのルールに従って生きることはとても難しい。
ひょっとしたら「家族」も「社会(生活)」も、ボードゲームで言うところの、「フレーバー」のひとつなのかもしれないのだが。

「他人の目」が特に気になる。
「他人の目」は「多数」側にある視線だ。
まさにこのボードゲーム『魔女の村に棲む』であり、自分の評価(色)は自分では分からないし決めることもできない。「自分が何者なのか」は他人の目が決めることでしかない。
他人の顔「色」をうかがいながら、自分の棲み処を探していく。
他人からどう見られているのかが気になって仕方ない。

この際、魔女に呪われた「黒」なのか、そうでない「赤」なのかはまったく関係ない。ゲーム内でもそこはまったく問われない。
とにかく多数派でいることが大切なのだ。

作品内に出てくる人たちは、どう考えても「多数派」とは言えそうにない。そういう彼らが多数派を目指すゲームを作り上げていく様は、とても悲しい。
多数派でないことのステイタスのようなものを密かに胸にしながらも、多数派に憧れたりする。それは「普通の生活」と呼ばれるものだったりもする。

東京とは、自分たちのいた場所、ゲーム仲間が大勢いたりして、自分の居場所だったと思い込んでいた場所だが、炎に包まれている。
逃げるしかないと思い込むための「火事」であって、リアルではないのかもしれない。
ルールのひとつに過ぎず、本来の意味での「対岸の火事」であったはずが、気が付けば炎はすぐ側までやって来ている。

「ここはもうダメだと思う」は「ここ“も”もうダメだと思う」なのではないか。
人を指さすことはできても「自分を指さす」ことはできない。
「自分は多数である」ということを「祈る」ことしかできない。
この世界を破壊してしまう「怪物」は自分かもしれないという、口に出すことができない恐れを常に抱えて。
世界の破壊は(内なる)自己の破壊である。世界を認識しているのは自分だからだ。
とにかくゲームだけは続けなければならない。

SNSを辿りながら「界隈」を蝕んでいく「そつある」が恐い。そつあるを演じる湯口光穂さんのイヤな感じがじわじわ来る。明らかに他の人たちとのトーンの違いと、また同様に同じ匂いもさせる上手さ。

善積元さんの台詞回しがジエン社らしくて好きだ。どの作品でも誰かに語るではなく、自分に向けて話している感じがいいのだ。

善積元さん演じる根利と須貝英さん演じるエレの、ほぼ無言の会話がとても良かった。根利は、本質的なこと、すなわち(エレにとっての)恐いこと、を言っているのではないか。「みんなが同じゲームをすることはできない」「種が違う」。しかしエレには伝わっていない。というか聞いていないのかも。つまりボードゲーム『魔女の村に棲む』の雑談のようにウソかホントかわからないから、聞き流しているのか。


6月3日の公演後に実際にゲームを体験した。
最初のターンで瞬殺されてしまった。笑。
このゲームは、外野で見ているだけでも面白い。
人がどう策略を練るのかが面白いのだ。たぶんその「人」が出てくる。
その人の「色」が、つまり他人からしか見えない「色」が見えてくるということ。

ゲームをやることないだろうな、と思ってゲームを購入しなかったが、買っても良かったかも、と少しだけ思っている。
ハッピーな日々

ハッピーな日々

ハチス企画

アトリエ春風舎(東京都)

2019/01/18 (金) ~ 2019/01/27 (日)公演終了

満足度★★★

ベケット作。
ウィニー役の岩井由紀子さんが活き活きとしていて魅力的。
ほぼ彼女の一人舞台で、動きもあまりないのに、最後まで集中して見ることができた。
素晴らしい!

そしてセットはびっくりするほど美しい。


しかし、私が感じたのは、今回の作品が見せたものとはすこし違ったものだった。

ネタバレBOX

ベケットの『ハッピーな日々』に登場する男女は、50代ぐらいと60代ぐらいらしい。
その目で観ていると、長い間一緒にいる夫婦(長い間連れ添ってきた夫婦)に見えてきた。
作品に、夫婦の「会話」と「存在」を感じた。

第一幕では「泥」に腰まで埋まった女。それはいい意味でも悪い意味でも、「家」や「家族」「地域」「社会」に縛られている姿。そこからは移動できない。しかし、それを苦にしてるようには見えない。彼女は、それに気づいていないのか、気づかないふりをしているのか。

あらゆるものが手が届く範囲にあるようにも見える。近くにあるカバンの中には、必要なものが入っているが、何かが足りなかったりする。拳銃は重くてカバンの底のほうに移動してしまいそうなのだが、手を入れるとすぐに出てくる。実は、それが女の願望であるのかもしれない。

会話は女(妻)から一方的にまくし立てられる。男(夫)は受け身。細かく指図されている様子が、なんだか長年連れ添った夫婦の会話のようにしか見えないのだ。

したがって、「50代・60代の男女」という設定が、私の、この作品に対するイメージにぴたりと重なる。
だから演じている役者さんの若々しい見た目からはなんだかずれてきてしまったのだ。

さらに「泥」も同様だ。舞台の上にはさまざまな明るい色の毛糸によって(富士山のように隆起した)地面があるのだが、それは、やはり「泥」には見えない。

彼らの(あるいは彼女の)人生で体験したことは、そうしたさまざまな毛糸によって織られてきたのであろうが、その色とりどりの経験は、色が混ざると「灰色(泥色)」になってしまうのではないか、と考えてしまう。それがどんなに美しい経験であったとしても。もちろん、その1つひとつを取り出せば、赤や黄色や青の美しい色であることには変わりはないのだが。

男(夫)は女(妻)比べて自由に動き回っているように見える。
逆に腰まで、さらに首まで泥に埋もれた女は、「家」や「家族」「地域」「社会」に縛り付けられているようである。
第一幕では女(妻)は男(夫)に、中に入るように命じるのだが、男(夫)はそれがうまくできない。女(妻)からは、「入りたくない」ように見えているのかもしれない。しかしそれは、女(妻)からの世界観だ。

実は男(夫)から見た世界は、女(妻)と同様に、自分だけが泥に首まで埋もれていて(社会とか生活とかに)、自由に動き回っているように見えているのは女(妻)なのかもしれない。

そうした解釈をしてしまった私としては、今回の作品は、登場人物たちが若々しく、さらに美しい「泥」に埋まっているので、少々違和感を感じてしまったのだ。

ただ、この(若)夫婦は、今は美しい泥の中にあるのかもしれないのだが、この先、泥(色)に埋もれ、身動きができない状態になっていくのかもしれない、などという悪い想像もしてしまった。

まあ、ここであえて言えば、「夫婦」あるいは「家族」というものは、そう悪いものではない、とも付け加えておきたい(笑)。

舞台を見ながら、ピート・シーガーの『Waist Deep in the Big Muddy』を思い出した。
泥に知らず知らずのうち埋まっていくと、なかなか引き返すことができないものだ。
ただいま

ただいま

劇団こふく劇場

こまばアゴラ劇場(東京都)

2018/12/12 (水) ~ 2018/12/16 (日)公演終了

満足度★★★★★

私的で美しい舞台の中には、まるで身の回り数十メートルぐらいで起こる出来事・エピソードが淡々と語られる。そうした身近なところから、ふいにパースペクティブに「死」(死者)の姿が見え、重なる瞬間に起きる感覚は、「演劇にしかできないことだ」と強く思った。

舞台が始まったときに、「あざとい演出……」と一瞬でも思った自分を恥じた。

死ンデ、イル。

死ンデ、イル。

モダンスイマーズ

東京芸術劇場 シアターイースト(東京都)

2018/07/20 (金) ~ 2018/07/29 (日)公演終了

満足度★★★★★

3.11が背景にあり、そこに居場所のなさ、高校生という微妙な年齢がプラスされ、胃がきりきりする感覚で、普通に生きているはずの少女が狭いところに押し込められていく。
誰も悪くはないのに。
ラストの強さ、開かれていく視界に強い希望を感じた。
ラストの見せ方の上手さ。海の中へ向かうパッドエンドかと思っていたが、海と逆方向に歩かせる。
「生キテ、イル。」の字幕とともに。

クグツ流離譚

クグツ流離譚

玉城企画

アトリエ春風舎(東京都)

2018/07/12 (木) ~ 2018/07/16 (月)公演終了

満足度★★★

こんなに素晴らしい照明を見たことがない。
この照明なくしてこの作品は成立しない、と思ったほど。

くぐつは人形であって人形遣いでもある。
境目は曖昧。
目隠しして演じ、(過去の)頭陀袋の物語を読み上げる。

したため#6『文字移植』

したため#6『文字移植』

したため

こまばアゴラ劇場(東京都)

2018/08/11 (土) ~ 2018/08/14 (火)公演終了

満足度★★★★

始まってから「ああ、この感じでいくのね」と思っていたのだが、あの後半である。この原作と演劇がリンクしているように感じたのだ。
すなわち翻訳する原作に取り込まれていく作者と、戯曲(原作)に取り込まれていく劇団とがだ。
本や演劇というものが「虚」を扱っていて、さらにその中にある「原作」という「虚」であり「実」であるものと、作者(の体験)や役者(の身体)の「実」との関係が内側にこもっていくようで、ラストに向かって外側に開けていくようにも感じつつ、やはり「虚」であるという「お釈迦様の手の中」感がたまらない。

「したため」は初めて観たが、この感覚は好み。

消す

消す

小松台東

三鷹市芸術文化センター 星のホール(東京都)

2018/05/18 (金) ~ 2018/05/27 (日)公演終了

満足度★★★★★

今までの小松台東とは違いヒリヒリギスギス感強し。台詞に一切無駄なく、会話のぶつけ方や重ね方、受け方が素晴らしい。
計算され尽くした動き&位置関係、視線。松本さんの台詞「寄り道…」の目つきと、荻野さんの「こめかみが…」の表情、脳裏に焼き付く。

見終わってからタイトルを見直すと……うむむむ、となる。

山山

山山

地点

神奈川芸術劇場・中スタジオ(神奈川県)

2018/06/06 (水) ~ 2018/06/16 (土)公演終了

満足度★★★★★

前作『忘れる日本人』と同じように松原俊太郎さんの戯曲が素晴らしい。
唖然とするほど膨大な台詞から選び取り、「山山」(あるいは「山と山」)、鬼に、その想いを込めていく地点の演出と役者の上手さ。
登っても登っても滑り落ちていく私たち。
一瞬笑ったとしても、日本の現状が見え戦慄する。

前作『忘れる日本人』から顕著なのだが、戯曲をカットアップしているようで、きちんと耳に届く言葉があり、ストーリーさえも見えてくるようだ。
2回続けて松原俊太郎の戯曲を選んだのには、そこに理由があるようにさえ思えてくる(今回『忘れる日本人』も併せて上演)。

青色文庫 ー其四、恋文小夜曲ー

青色文庫 ー其四、恋文小夜曲ー

青☆組

ゆうど(東京都)

2018/07/13 (金) ~ 2018/07/19 (木)公演終了

満足度★★★★★

リーディング公演。第一部が作家たちの恋文、第二部が青☆組の過去作品からのピックアップ。
過去作品からの切り取り方が上手く、物語が奥に広がっていく。
音(&歌)の使い方も上手い。
短い時間なのにたっぷり味わった。

ゆうどの井戸で淹れた麦茶が振る舞われ、喉を潤した。
そういうおもてなしの気持ちも、まるで青☆組の作品の一部のようだった。

日本文学盛衰史

日本文学盛衰史

青年団

吉祥寺シアター(東京都)

2018/06/07 (木) ~ 2018/07/09 (月)公演終了

満足度★★★★★

平田オリザさん、スゲー! 
アノ超長編原作をどう舞台に上げるのかと思っていたのだが、その構成には驚き&納得。
今まで意識して(たぶん)やってこなかったことも多く取り入れて(原作のアップデート化)の、貪欲な作品作り。
戸惑いながらも大笑いした。

台詞や設定などで、気づいたことやそれにまつわる蘊蓄などを、他人に話したい人が続出するのではないだろうか(笑)。
そのあたりの知識の有無やツボの違いで笑いが起こるポイントのズレもまた楽しい。

ネタバレBOX

影アナで、『日本文学盛衰史』をわざと『日本大学盛衰史』としてアナウンスして言い換えたのにも大笑い(笑)
『卵を立てることからー卵熱(リ・クリエーション)』『金柑少年(リ・クリエーション)』

『卵を立てることからー卵熱(リ・クリエーション)』『金柑少年(リ・クリエーション)』

山海塾

世田谷パブリックシアター(東京都)

2018/06/01 (金) ~ 2018/06/06 (水)公演終了

満足度★★★★★

この作品は2度目。前回観たのは20年ぐらい前だろうか。
息を呑むのよう美しさは変わらない。
オープニングに見せる、背中からの姿だけで、唸ってしまう。

衣装も見事。肉体の動きと衣装のラインが織り成す動く彫刻。

水があり土(砂)があり、舞踏手たちは風と炎か。
延々と流れる水と砂は時間と堆積していく歴史か。卵=生命は壊れやすく、なんとはかないものなのか。仏像のような舞踏手たち。すべてが美しすぎて胸が詰まる。

今回も天児牛大さんの出演はなく、カーテンコールの、あの手を振る姿が拝めないのがとても残念だ。

翼の卵

翼の卵

劇団桟敷童子

すみだパークスタジオ倉(そう) | THEATER-SO(東京都)

2018/05/29 (火) ~ 2018/06/10 (日)公演終了

満足度★★★★★

原田大二郎さんを客演に迎え、桟敷童子らしい設定のストーリーで安心の面白さだが、確実に心を揺さぶられ、ザワつかせる。
最初から最後までどっぷりと劇にハマる。

ラストの破壊とインノセントな美しさ。

ネタバレBOX

いつもと違いドスの効いたおばあさん役の鈴木めぐみさんが印象に残る。
それにしても板垣桃子さんの上手さ。ダメ男に惹かれる哀しい女を、切なく見事に演じる。席が前のほうだったので彼女の表情の細かさを観ることができ、その凄まじさに感動した。
大手忍さんには泣かせられた。

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