暗くなるまで待って
日本テレビ
サンシャイン劇場(東京都)
2019/01/25 (金) ~ 2019/02/03 (日)公演終了
満足度★★
「罠」「検事側の証人」と並んで「ミステリ劇」の代表作と言われている戯曲。あとは、「スルース」とか「デストラップ」とか。いかにもウエストエンドで役者を変えてはかかりそうな著名ミステリ作家の筆になる作品たちだが、この作者ノットは「ダイヤルMを回せ」とこの作品だけが著名。ほかには一作しかない。それで十分の資産家だったようだ。
原戯曲はサスペンスとしてよく出来ていて、日本でも何度も上演されていてる。主人公が交通事故で視力を失った視覚障碍者(凰稀かなめ)の若妻。見えないと言う事以外は一般人の女性が、たまたま自宅に持ち込まれることになった麻薬犯罪のブツを狙う犯罪者たち(加藤和樹、高橋、猪塚)と対決することになる。主人公が見えないと言う事や、事件が起きるのが一般家庭であること、主人公の夫が写真家で自宅に現像室がある、などの条件を生かして、ドアがドンドンとノックされるたびに、主人公に何か起きるのでは、とサスペンスが高まっていく。
今回の美術はかつてパルコ劇場での上演の朝倉摂の美術を踏襲して、中央に階段があってそこが出入りになっている。半地下の部屋は、作品が書かれた1966年当時の市民生活を良く写しているのだろう。介助のために訪れる上の階の少女(黒澤美澪奈)とはつながるパイプ管をたたいて連絡するとか、現像室の作業中には赤ランプがつくとか、冷蔵庫は別電源になっているとか、細かく一般人の生活を生かしている。五十年前の話だから、電話が固定しかないとか、麻薬運搬の手法が牧歌的なところは致し方がない。それを認めてもうまく出来ている戯曲なのだ。
ところが、俳優たちがそろって大振りで、サスペンスが生きない。細かいリアクションが出来ないし、セリフ術が拙い。今はマイクがあるのだから、小声の会話も成立するのにその技巧がない。悪役三人組が平板で面白くない。加藤はみえをはりすぎ(2・5ディメンション出身らしい)、高橋、松田は力不足。主役の凰稀かなめ、目が見えなくとも凛と立つ役なのだが、芝居が細い。対決する主役同士がこういう調子だからハラハラしない。
少女(黒澤美澪奈)はいい脇役なのだが、どういう位置なのか、芝居が定まらない。芝居を見ていると、外を見るときにブラインドを下げて下を見る。おや?、ここは2階か三階か、と感じる。そういう小さな違和感が随所にあって、行き届かないから芝居がますますつまらなくなる。そこは演出が決めてやらなければいけないだろう。
戯曲は、ミステリ劇の商業演劇ながら、突然交通事故で失明した若い女性の自立物語でもあり、何かというとすぐバッシングの対象となる今のご時世でも障碍者を主役にしたいい芝居だ。もっとうまくやれなかったものかと残念だ。
それにしても、これが8,800円は、どう贔屓目に見ても高すぎる。
冬のカーニバルシリーズ Mann ist Mann (マン イスト マン)
KAAT×まつもと市民芸術館
KAAT神奈川芸術劇場・大スタジオ(神奈川県)
2019/01/26 (土) ~ 2019/02/03 (日)公演終了
満足度★★★★
キャバレー演劇の趣向でブレヒトを見せる。串田和美らしい演出で、本人もお気に入りの道化語り手の役を楽しそうに、一方では周囲に厳しい目線を送りながら演じている。2時間。
ブレヒト作品の中でもあまり上演されない演目のようで、多分初見。
舞台は幕を引いただけの見世物小屋風、前に10ほどのテーブルが置かれ、客が二三名づつブランチを食べている。客席はその後ろで階段状で250位か。客席には拍手用とブーイング用の玩具が渡され、開演前には予行演習までやる。最近はやりの観客参加型を志向している。バンドが3人。これが芝居につかず離れずでいい。
串田の口上で幕が開くと、コック姿の役者たちのダンス、中から安蘭が出てきて歌う、オンシアター以来の手慣れた演芸会風舞台である。だが、今回の舞台は英国植民地時代のインド。駐留地の英国兵のグループ(昔で言えば「分隊」か)から脱走兵が出て、分隊の仲間のメンバーが、旅団がアジアの奥の聖地に向けて進軍を始めるまでに見つけ出そうと、さまざま手を尽くす、という馴染みのない話である。象が出てきても、地元風俗がエキゾチックでも、ここが辛い。舞台では客席にしきりに乗れ!とけしかけるが、なかなか飯食いながらの客席の温度が上がらない。仕込みなのか一部だけが盛り上がる。しらけ気分で見ているうちに、おや、これ、どこかで見たな、という気になった。横浜からの長い帰りの電車の中で、思い出した。地点が数年前にやった「ファッツアー」である。同じブレヒトだが、追い詰められた軍隊の閉塞状況は同じ。表現方法は随分違う。真逆と言ってもいい。どちらも出来てしまうところがブレヒトの融通無碍なところで、ここでその議論をすればきりがないから止めるが、専門家はこの機会に、それをネタに啓蒙してもらいたいものだ。
串田、安蘭、以外はおもに松本在住の俳優が出ているが、舞台経験が少ないので、声の出し方が揃わない。マイクの使い方も習熟していない。台詞にリズムが生まれない、ブレヒトの寓話性が表現できない。現在の舞台芸術の基礎になる俳優訓練も重要な課題だと思った。ここを地方だから仕方がないと放っておくと、止まってしまう。ここへ来るまで串田はかなりの年月を松本で費やしてきた。オンシアターを客席80からコクーンまで引き上げた力量をここでも見せてほしいものだ。
ミュージカル レベッカ
東宝
シアタークリエ(東京都)
2019/01/05 (土) ~ 2019/02/05 (火)公演終了
満足度★★★★
演劇大手・東宝の基幹劇場クリエの十周年記念公演。東宝が開発したオーストリーミュージカルによるイギリスのサスペンス・メロドラマだ。20世紀最高の大衆ロマンとされているが、80年前のイギリスの階級社会や女性の地位を背景にしたロマンスで、今の女性観客は来ないのではないかと思うとさにあらず、10年間で三演、再演は最大の劇場・帝劇が開いた。もっとも、時代に合わせ少しづつ変えて長持ちさせるのは東宝のお家芸だから、今回もAKB48出身の桜井玲香をヒロイン・トリプルキャストの一人に組んでいる。大入りである。見たのは、大塚千弘、涼風真世の組み合わせ。
筋書だけだと、西洋時代劇かというメロドラマだが、心細い純情薄幸少女{わたし}も、前のご主人に忠誠を尽くすと見せながら、実は悪党の執事・ダンヴァ―ス夫人も、妻に振りまわされる夫も、姿を見せないレベッカも、誰もが乗りやすいキャラで、今も読み継がれ、こうして舞台化されるのもうなずける。
舞台化されたミュージカルは、長年、東宝が作ってき歌を柱にした作りで、脚本も、一幕は身分違いのロマンス、二幕は豪邸に潜む謎とサスペンス、に絞ってあり、2時間50分、20分の休憩をはさんで飽きさせない。一幕では、ロマンスにはさんで、雇い主(森公美子)、夫の姉夫婦(出雲綾・好演)、貴族仲間のゴルフとかコミックリリーフもうまい。二幕のマンダレー館は、正面に遠見に大海の荒波が打ち寄せている大きな窓と、カーテンで顔が隠れている前妻レベッカの肖像画を壁にかけているセットがいい。シ-ンも多いが道具の出し入れ、音楽のつなぎもスムースで破局の火事のシーンまで一気に進んでいく。
夫マキシムは山口祐一郎、少しお疲れ気味か、以前のような男の色気に陰りが見える。ダンヴァ―ス夫人の涼風真世、コワい、歌がうまい。私の大塚千弘、演出の山田和也。どうということはなのだが手堅い。しっかりした脇役たち。そこにも今迄になじみのない俳優もキャスティングされていて、結構力を見せている。こういう周囲を育てて、今の東宝ミュージカルがあることを実感する。安易にジャニーズを呼んできて混乱を起こす愚挙をしなくても大入りにできる、老舗の価値はある。贅沢を言えば、ダンスシーンに縦横の動きだけでなく、立体的な振り付けが欲しい、とか、オケピが半端だなぁ、とか、山口にもダブルキャストがあってもいいじゃないか、とか思うが、それはそれで難しいことでもあろう。
PANIC×遺すモノ~楢山節考より~
THEATRE MOMENTS
上野ストアハウス(東京都)
2019/01/17 (木) ~ 2019/01/21 (月)公演終了
満足度★★★★
演劇の国際交流、さらに共同制作と言うのは本当に難しいものだと思う。ことに、演劇のマーケットを共有していない国とは、とっかかりを見つけるだけでも大変だ。
これは、その難しさがモロに出たマレーシアとの国際共同作品だ。日本とこういう企画が進んだ経験がないのだろう。まずは観客にマレーシアの飴を配って、両国の紹介みたいなことから始まる。納得しやすいと言う事かもしれないが、日本の国際的に知名度のある作品を演目に選ぶ。安倍公房「PAMIC」と深沢七郎「楢山節考」の二本立て。
「PANIC」の方は、マレーシアの俳優が主演で、演出は日本。舞台言語は英語、中国語(マレーシア語)日本語で、三ヶ国語の字幕が出る。前説で、身体言語でやるから、言葉はあまり必要ないと、念を押されるが、この小説は、言ってみれば、不条理劇の世界で舞台に上げて見るとそこはよくわかる。しかし、条理の部分は身体だけでは説明できない。出来たとしてもうすいものになってしまう。台詞がかなり重要な部分になる。やむなく、観客は字幕を見ることになるが、これが三か国語で(全く分からないマレーシア語の部分は字幕に頼らざるを得ない)煩わしく、次第に気分が舞台から離れていく。
マレーシアの俳優は柄も作品によくあって、うまいし、演出も小道具のトイレットぺーパーを上手に使っているが、ご苦労様と言う以上の演劇体験にはならなかった。45分。
続いて「楢山節考」。こちらは日本人俳優・演出だ。大小の白い木枠を持った俳優で場面を作りながら、ほぼ、原作通り。1時間20分。テキストにあまり手が入っていないだけに、この原作の力強さがナマで伝わってくる。俳優のガラが生きたのは、若い嫁くらいで、若い女優がやるりんも、ほぼ彼女と同年齢に見える辰平も、柄を越えて作品を生きて、観客をひきつける力がある。国際的に高い評価を受ける原作だけのことはあると改めて思った。この枠を使うという手法はどこかで見た記憶があるが、そのシンプルさを生かした振付・演出は成功している。ほかに音楽がうまい。曲も説明的のようで、そうでもない、という微妙なところでうまく抑えている。
しかし、二作ともに、国際共同制作という枠のために犠牲を払っている部分も大きい。PANICは言葉でつまずくが、楢山節考は状況説明を紙芝居でやる。この紙芝居でも、前説でもしきりに現代との接点を説明しようとするが、それが非常に浅い理解でこういうものなら邪魔になるとさえ思う。例えば、権力者と言うので英国女王を出してみたり、作家と総理は同じ安倍でも違う、などという「解説」はあまり面白くも、愉快でもない。PANICのほうは、現代の失業者問題につながるところがあるし、楢山は普遍的な老人問題につながる。紙芝居で、現代の建売のような農家の絵で、農村社会時代の日本を解説する必要もないだろう。
この劇団は初見で、マレーシアにつられて見にいったが、結局マレーシアそのものについても新たに発見がなかった。このよく知らない、しかしこれからは労働者から交流が深まりそうな国と人をもっと知りたいものだ。
遠慮ガチナ殺人鬼
企画演劇集団ボクラ団義
ザ・ポケット(東京都)
2019/01/09 (水) ~ 2019/01/20 (日)公演終了
満足度★★★
ビアホールなどで、一仕事終った後の若者たちが大勢で埒もなくさわいでいる。聞くともなく聞こえる話題のどこが面白いかと横で飲んでいる者は思うが、当人たちは元気よく上機嫌、楽しそうだ。いいなぁ、若いうちだぞ。
ボクラ団義は十二年目というが、初めて見た。小さな劇場ながら十数公演もあり、客席には追っかけファンらしい客も多い。開演前から前説に凝るサービスぶりだ。話は、本格ミステリのパロディみたいな謎解きで、老陶芸家が死んで、葬儀に集まった十三人全員自分が犯人だという、さて、誰が真犯人か。一人刑事役が加わって、小さな舞台にほぼ全員が出ずっぱりである。十三人の役どころは、コミックの人物ように決まっていて、みな懸命に声張り上げて自分が犯人だという。
主な筋は陶芸家の贋作問題と、彼の家族関係。どちらも、思い違いからの筋書きがいくらでもできるから、終始をつけるのは大変で、2時間20分、葬儀参会者が右往左往する舞台である。意外な結末もあるが、そこから何か世界が開けるわけでもない。
とにかくその場を面白くというコミックと2・5ディメンションの影響が濃い。それが悪いとは言わないが、今までの演劇にない新しさがあるかというとそうでもない。前説にこだわったり、やたらと動けばいいと思っている演技はキャラメルボックスで辟易したスタイルだし、行き届かせようとはしている物語も無理が目立つ。これから先、このグループから時代のリーダーが出てくるとすれば、どこなのか、見当がつかない。なにもないのかもしれない。
トロンプ・ルイユ
パラドックス定数
シアター風姿花伝(東京都)
2019/01/09 (水) ~ 2019/01/14 (月)公演終了
満足度★★★
この劇団のこの劇場での連続公演も後半になって、今回は正月と言う事もあってか、骨休め娯楽編。地方競馬の話である。
素材選びで工夫する作者だから、地方競馬となれば、動物愛護、とか、公共賭博、地方地自体の財源、とか俗耳に入りやすく、また議論際限ナシの「喫緊のテーマ」が面白おかしく(結構、無責任に)展開するのかと思いきや、今回はそういう難しい話は後退して、走る馬と、走らせる人間のヒューマンドラマである。内容的に新鮮味があるわけでもなく、安易なテレビドキュメンタリーや週刊誌特集のレベルの話題である。地方競馬に回されてきた故障馬、老齢で中央で走れなくなった馬、地方の牧場の経営危機、閉鎖的な仕事場など、こういう物語向きの人物と馬の配置で舞台は進行する。
競馬を舞台に上げる工夫と言えば、競走馬6頭と、競馬関係者6人をダブルキャストで組んでいて、俳優が時に馬、ときに人間になって進行する、と言う点と、瀬戸内海を挟んだ尾道と丸亀の地方競馬に場面を設定していることだろう。第一のかなり無理な設定も、舞台だからこそできる約束事で面白く運んでいくが、やはり、馬に人間的な感情を乗せすぎると、違和感がある。笑っていても、失笑という感じになる。俳優たちが、初日ということもあるが、全員柄に頼っていて、しかも経験が乏しいので百人の客席に(満席だったが)隙間風が吹く。馬に限らず動物を擬人化したいい舞台はたくさんあるが、人と動物の按配が難しい。なかなかキャッツのようにはいかないのだ。
海を挟んだ地方競馬と言うのは、馬が海を見て感懐にふける、最後の根岸競馬は船の汽笛だけが聞こえる、というところをやりたかったのだろう。そこは、競馬場の賭博の空しさを季節に託して効果はあるが、これも寺山修司の詩一篇に及ばない。。
カタルシツ演芸会「CO.JP」
イキウメ
SuperDeluxe(東京都)
2018/12/19 (水) ~ 2018/12/28 (金)公演終了
満足度★★★★
イキウメの番外公演。最初に安井順平が口上で、ドラマとコントの融合を狙ったが、コントの比重が高くなってしまった、と話していた通り、イキウメ的コント集であった。
ドラマとコントの違いをどこに引くかは、キマリがあるわけではないだろうが、確かにリアリズムと合理性、継続性(脚本から演技までの)を基盤としている演劇と、抽象性を基盤に即時性、身体性、偶然性を笑いにつなげるコントとは、同じステージ表現としてもお互い逆行する思考法で成立している。
イキウメの舞台は、ときにそこを何もなかったように越えているところがあるのが魅力だが、そこを意識的にやってみようということか。
今回の演目は7コント。ニ三分のものもあるが、やはり劇団が作ったものだけに、コミュニケーション不在をネタにした「霊媒師」(背後霊ならぬ前方霊がある)「インタビュー」(あいづちの打ち方)、言葉についての「手術」(カム、ということ)が面白い。コントとしては、芸人では面白くならない風変わりな面白さである。それだけ、理に落ちてはじけきれないところもある。
出演者では、紅一点の東野洵香が、独特の無神経キャラを押し強く演じて(少し気味悪くなるくらい)出色だった。
しかし、こういう劇団的に言えばエチュード集、みたいなものを集めて、面白く見せることもできるのではないだろうか。先刻見た30年続いた「アラカルト」も最初はエチュード集から出発している。うまくショー化して興行的にも定着して観客が楽しめるよような【演芸会】にしてほしい。
あゆみ
feblaboプロデュース
新宿シアター・ミラクル(東京都)
2018/12/15 (土) ~ 2018/12/26 (水)公演終了
満足度★★
新宿のはずれの雑居ビルの4階の小スペース。ほぼ、四角のスペースを囲んで30席。約10席はどうやら出演者のご両親と見えるかたがたで、10隻は空席。何だか身内感横溢のヒルの回だった。現代女性のありようを、8人の白い同じ衣裳の若い女優が中央のボンを回りながら、リレーのように次々と演じていく、という趣向。主人公も、飼い犬まで演じるわき役も、次々に代わるのは新趣向だが、肝心の女性のあり方が、意図的なのかもしれないが、徹底的に平凡である。この演出形式だと、性格を立てた役を作れないのは仕方がないが、その退屈さは、演出の趣向や音楽を演奏してみたりしたくらいでは防げない。幕開きで生まれた女性の人生の60年くらいの年月が語られるが、舞台の時間の設定はあいまいである。地方から出てきた女性が新幹線の車窓の富士山に感銘する、なんてのは、まるで漱石時代の古めかしさで、現代感がない。学校でミステリ読書会に入るなどという極めて特殊な設定も出てくるが、学校のミステリの会は、早慶京以外は、現在は壊滅状態である。恣意的なのは普遍につながらない。ただの行き当たりばったりである。俳優たちも個性を立てない演出に加えて、動きも円形の場に限られ、役も変わるので、俳優個性を生かす場がない。振り付けも平凡。90分。
音楽劇 道 La Strada
梅田芸術劇場
日生劇場(東京都)
2018/12/08 (土) ~ 2018/12/28 (金)公演終了
ファン集会で「見る」ものじゃない、と言われている公演に幸いチケットが(定価で)手に入ったので劇場へ行った。昔ルボー演出のベニサンピットのイプセンがよかった記憶が残っている。
グローブ座も敬遠する人は多いが、舞台だけ見れば、健闘している公演もある。打率はそう悪くはないのではないだろうか。今回も、かつて、海の夫人を両サイドの客を入れて上演した同じスタイルを日生劇場でやっている。おなじみのジェルソミーナの話を軸にして音楽劇にしている。やはり狙いはファンご機嫌伺いの公演なのだが、サーカス団の群衆演出(綱渡りの使い方等うまい)とか、振付とか、衣装とか、舞台が独特の様式性でまとまってその期待には応えている。しかし、この本だと、肝心の主演者が場をさらう場はほとんどない。まさか裸を見せればファンは満足だろうとおもっているわけではないだろう。テレビなどでは芝居のうまい人だけに、ここはファンでない外国人に脚本を任せたのが拙かった。もうひとつ、音楽劇と言うなら、もう少し音楽に神経を使ってほしかった。映画の名だたる名曲があるのだから点が辛くなる。これでは主演者の実演を見に来たファン以外は納得しない。
ジェルソミーナを薄幸の少女にしたのもよくわからない。どうせ、ジュリエッタ・マシーナのようなことはできないと、ハナからら思っているのなら、この企画は再考すべきだった。添え物扱いで可哀そうでもある。
アトムが来た日
serial number(風琴工房改め)
ザ・スズナリ(東京都)
2018/12/20 (木) ~ 2018/12/29 (土)公演終了
満足度★★★★
新鮮で面白い芝居の誕生である。素材の中身的には社会劇だが、形は討論劇とか、SFと言ってもいいかもしれない。しかし、この舞台が新鮮なのは、今までの社会劇や討論劇にありがちの政治性や、結論目配せ型から抜けて、その素材を巡る関係者の生活実感の断片の集積を芝居にしていることである。
素材は原子力エネルギーと人間との関係である。1950年代、被爆国日本が原子力利用にかじを切った時代に原子力を推進した人々と、近未来の2040年、北海道の過疎地に使用済み燃料の保管庫が出来、そこの職員とが交錯する。二つの時代を交差しながら原子力エネルギーに向かう人間たちの生き方(考え方)が問われるが、議論が一方的になることはない。13名のキャストが何十もの役をこなしながら、二時間余り休憩なしで、台詞のシーンが続くが、原子力エネルギーについての概論から、現状や未来まで、多くの幅のあるデータが無理なく提供されていく。飽きることはない。結論も示唆しない。今までも多くの社会劇が、「幸せな」問題解決をアピールしてきたが、それで幾何の解決がなされたか。実は結論を決められないところに現代の問題があると作者は言っている。そこが画期的に新しいと言えるだろう。だが現実に問題は起きているのだ。
作者がかなり我慢強くなければこういうドラマは書ききれないだろう。ことしは海外から「チルドレン」国産では「テンコマンドメント」のような原子力をめぐる新しい舞台が上演され、ともにいいドラマであったが、既成の劇の延長線上だった。これはちょっと違う。
この芝居を「クリティカル」な場にある人々に見せてみたらどうだろう。例えば、国会の科学の専門委員会、とか、現に原発がある地域の公民館とか。委員会や住民集会とは違った人間的な新しい反応が出るのではないか。そういう反応を生み出すのは、やはり、そこが演劇の力なのだと思う。詩森ろぼ、急成長である。現代のブレヒトだ。
グッド・バイ
地点
吉祥寺シアター(東京都)
2018/12/20 (木) ~ 2018/12/27 (木)公演終了
満足度★★★★
文芸作品のラップ版とでも言えそうな舞台だ。地点の舞台は、作品ごとに舞台構成が凝っていて、今回は舞台一杯に横に長いカウンター置かれ、その上にズラリと和洋酒の瓶が並んでいる。その上に草木が垂れている植え込みのある二重があり、そこで3名のバンドが終始、演奏を続ける。俳優は7名、そのカウンターの前で、リズムを踏んだ「グッド・バイ」という言葉を軸に、太宰の作品を引用しながら、太宰の死に至る経緯をラップ調に語っていく。75分。ずっと演奏は続くから、合わせるバンドも大変だが、俳優も息を合わせながらの動きもあるし、一時間を超えると、言葉が聞き取れにくくなる。それでも、太宰の言いそうなことはわかっているので、ついてはいける。
太宰の世界は、酒飲みのご託にすぎぬ、というクールな場を設定しておいて、そこから太宰のおなじみの言葉を次々と例の地点的振付とともに俳優が語る。バーの上に飾られたのは玉川用水の土手の草花と言う事も解ってくる。太宰の世界の相対化である。
それはそれで、面白く見ていられるし、その音楽とテキストと動きを統合したな独特の舞台の完成度は高く評価できるのだが、仕掛けが解ってくると、太宰の世界の中をぐるぐる回っているだけで、地点らしい批評性が見えてこない。飽きてくるころに、太宰の生涯もおわる。バンドも俳優も、75分演奏を続け、歌い(語り)続けるのだから、その迫力はあるのだが、全体は、いつものような硬軟取り混ぜた舞台の批評性が乏しく、一本調子なのが残念だった。
それにしても、地点のような若い劇団でも太宰に惹かれてクールになりきれない、というのは意外だった。私は、太宰の甘えた被害者意識も、その裏がえしのエリート意識も、日本人の根底に巣ぐっている情念とは思うが、あまり同感できない。グッドバイだ、ということを、地点らしい表現で期待していたのである。
移動レストラン 「ア・ラ・カルト」
遊機械オフィス
東京芸術劇場 シアターイースト(東京都)
2018/12/14 (金) ~ 2018/12/26 (水)公演終了
満足度★★★★
劇場の空気が他と違って柔らかだ。普段あまり劇場には通っていない二三人連れの客が年に一度の師走興行を楽しみに集まっている。常打ちだった青山円形で、ほぼ一月打てていた興業が劇場の閉鎖で、いろいろな劇場を転々とすることになって、今回は池袋の東芸の地下で半月。少しスペースが狭いがまずは青山の雰囲気である。ほぼ満席。
レストランを舞台にしたコントと音楽のショー、という形式で今回は30周年。劇場の閉鎖だけでなく、組んでいた白井晃との離別、とか一見楽しげなショーの裏側には多くのナマナマしい困難があったと思うが、高泉敦子が今なお、遊機械オフィスと名乗っているからには、小劇場を見取る後家の頑張りでこのユニークなショーを30年続けてきたのだろう。遊機械の考え方は、いまは多くの演劇人に受け継がれ発展しているし、即興コントから発展したこのショーも、少し規模は下がるが、昭和のパルコの「ショーガール」に比す平成の「アラカルト」と誇っていいだろう。
高泉敦子は柄は小粒だし小技がうまい役者だから、セットもレストラン一つという場でショーを成立させるためにずいぶん細かい工夫をしている。本では、ほとんど種も尽きているのだが、キャストも少しづつ変え、音楽の編成も工夫し、ゲストも日替わりでも行けるようにして、3時間の長丁場なのに、とにかく客をそらさない小技満載である。
今日のゲストは落語家の昇大。こういうゲストが違和感なくハマるところが、このショーといいところでもあるのだが、せっかく旬のゲストを呼んでいるのに、しかも、話が「都都逸」にまで行っているのに、この江戸文藝の面白さを専門家の昇大に話させない。惜しい。そういうところも、学生劇団上がり(というには年月がたっているが)の小劇場の甘いところでもある。
既に三十年、客席には若い人は少ないし、多分それ程共感もしないだろう。舞台は残酷でどこかで潮時がある。ここはいい退け時かもしれないし、たとえ、小さくなってもつぶれるまでやる、という手もある。つくづく三つ目の曲がり角、うまく曲がってくれと、ファンは思うのである。
それにつけても、こういうショーを定着させるのはものすごく難しいのだ。キャストだけではない、スタッフ、劇場、観客の息がそろうのは珍しい。あとはコマの地下でやっていた「ショー泥棒」位しか類例が浮かばない。ショーでなくても芝居でもいい。こういう季節と共に上演される劇場が作る風物詩はもっとあっていいと思う。歌舞伎には昔からそういう演目があったしいまは京都で師走興行が行われている。夏には椿組の花園神社興業もあるが、客が季節で楽しめる興業が欲しい。かつて竹中直人の会の晩秋の岩松芝居のような。いまなら、イキウメの図書館的人生かな。そういうことで芝居が市民生活の中に入っていくだろう。今日のアラカルトの観客こそ、いま演劇界が最も開拓しなければいけない市民層だと思った。
エダニク
ハイリンド
シアター711(東京都)
2018/12/07 (金) ~ 2018/12/16 (日)公演終了
満足度★★★★
先週見た三鷹の星のホールが見事だったので、同じ作者の舞台を追っかけ気分で見にいった。期待にたがわず。いやぁ、旨い作者は何でも書けるんだ。
こちらは三鷹の「逢いにいくの、雨だけど」とはがらりと変わって、喜劇調。松竹新喜劇の座付も勤まりそうな笑いのシチュエーションに、台詞の運びも「超」うまい三人芝居である。この戯曲は09年に自分の劇団でやった作品の再演と言うが、まったく古びていない。食肉処理場と言うなにかと難しい舞台を使いながら、笑いの中に、今も続く(これからも続きそうな) 社会問題から哲学的問題まで、現代社会の課題を生活者の目で巧みの潜らせている。関東の小劇場のように、声高に主張したり、これ見よがしに斜に構えたりするところもない。観客が芝居を見るたのしみを心得た心憎い大人の作りなのである。
登場人物は三人でその居場所も狭いものだが、その生活の場から笑わせながら大きなテーマにに広がっていく。類型的な人物設定ではあるが、キャステキングがうまくハマって、扉座の有馬自由など、久しぶりに生き生きしている。初めて見る比佐一平も、現代青年のガラを抜けた演技をする。この二人が芝居の進行とともに、観客の期待を裏切りながら変わっていくところが面白い。最後の四分の一ほどは少しドタバタになりすぎたかとも思うが、上滑りはしていない。90分。
この作者、私は今年3本目、どの作品もそれぞれによかった。いまは百人級の小屋だが、来年は、たちまち売れて200人級の小屋を席巻しそうだ。さて、そこから次が難しい。多くの期待を背負った関西の人たちがここで失速している。しかし、この作者は、戯曲の木目が細かいから折れないとも思う。年末の来年への愉しみが増えた。
「月に憑かれたピエロ」「ロスト・イン・ダンスー抒情組曲ー」
KARAS
東京芸術劇場 プレイハウス(東京都)
2018/12/01 (土) ~ 2018/12/04 (火)公演終了
評決-The Verdict-
劇団昴
あうるすぽっと(東京都)
2018/11/29 (木) ~ 2018/12/11 (火)公演終了
満足度★★★★
ミステリのベストセラーで、映画にもなってヒットした原作の舞台化である。ただし、それは四十年ほど前のこと。(原作は78年、映画は82年。脚本・マメット 監督・シドニールメット、主演・ポール・ニューマン) 今回は海外で脚色された台本の日本潤色版である。クレジットに構成・演出となっているから,かなり手を入れて2時間半(休憩10分)にまとめたものだろう。
原作の舞台は保守色の濃い東海岸のボストン。若気の至りで周囲に構わず正義に走り、中年に及んでアルコールにしかいき場がなくなった弁護士ギャルビン(宮本充)が、一念発起、教会のバックアップのある大病院の名医たちの医療過誤裁判の被害者の弁護人となり、勝訴するまで。その間に、アメリカ社会の基盤である保守的なさまざまの勢力(宗教(キリスト教)、裁判官制度(弁護士制度)、最新医学システム、民族・人種差別、などなど)が拮抗するアメリカの国情が告発されている。映画もその辺に重点を置いて、一種の社会ドラマとして評判にもなったが、今、日本でそのまま芝居にするには苦しい。
劇場の無料パンフレットによると、演出の原田一樹も原作と日本の観客の間でかなり悩んだようだが、結局はミステリ調裁判劇を選んだ。(少しわき道にそれるがこのパンフレットは充実していていいのだが、薄い黄緑の地に白抜きの字と言うのは劇場の明かりでは読めない。家へ帰ってからでも読むのに苦労する。意外にこういうところに無神経なのも昴らしくはあるのだが、折角のパンフレットが無駄になる)
不利な状態の中で、どうやって裁判で勝つか、というゲーム的な面白さを軸にしているわけで、幕開きはまず事件現場の手術室から、始まり、訴訟の中心点となる4分半の心臓停止からの回復時間、手術予備の記録が正しいか、などなど、医療過誤の焦点も解りやすく、それを守ろうとする病院側とそれを破ろうとする弁護士側、の攻防のサスペンスも面白い。裏では被告側大弁護団が送り込んできた女スパイ、などという原作の設定も生かしていて(この話をカットすると丁度いい時間になると思ったが)、裁判劇としてはよくまとまっており、飽きさせない。登場人物30名近く。配役キャストで22名だから、大劇団昴の大作である。もともと翻訳劇はやりつけている劇団だから、翻訳調台詞には日ごろ吹き替えで稼いできた実力もあって、よくこなして、まるで、映画の実演を見ているようだ。
それはそれでいいが、この原作や映画持っていた、原作の医療と裁判の告発劇としての苦渋や、映画のアメリカで生きる人々の造形はなくなってしまった。例えば、主人公を支える古くからの先輩弁護士モーとの交流、証人として金で買うトンプソン博士が黒人であること、などは落ちてしまっている。主人公の裁判に立ち向かう動機も、被害者への同情と正義感だけになっていて、解りやすいがそれだけ薄くなってしまった。
原作の終わりは、皮肉で秀逸な終幕になっているのだが、それは映画でもこの芝居でも採用されていない。
医療や裁判を巡る功罪はいまも大きな問題になっていて、時宜を得たものではあるが、裁判劇の面白さを越えて訴えるものにはならなかった。
逢いにいくの、雨だけど
iaku
三鷹市芸術文化センター 星のホール(東京都)
2018/11/29 (木) ~ 2018/12/09 (日)公演終了
満足度★★★★★
本年度屈指の舞台である。テーマは、現代社会に生きるために誰もが直面する‘意図しない「加害者」と「被害者」の関係’である。奇しくも、今週は同じテーマで青年座の「残り火」(瀬戸山美咲・作)も上演された。ともに、今までの社会問題劇を超える秀作だ。素材は残り火は交通事故、こちらは、児童の集団生活のなかでの事故である。
二組の親しい家族の子供がキャンプに出掛け、子供らしいいさかいから一方は加害者になり、一方は被害者になる。被害者は左目を失った。これをきっかけに親しい家族は別れる、27年経つ。(残り火は12年後である。こういう時間の設定も共にうまい)
この事故は、二組の家族にどのような痕跡を残したのか。作者は、家族と本人、さらに周囲の人々それぞれの生き方の中にその痕跡をたどっていく。劇のなかの時間は、事故のあった27年前(事故の前後)と、現在(加害者が社会的な評価を受け、それをきっかけに被害者に会う)の二つの時間だが、そこへ二つの時間を並行させながら、ドラマを集中させていく技術は、とても若い作家とは思えない巧みさだ。2時間、観客はどうなることかとハラハラしながら見ている。
小道具の使い方も、よく考えられていて観客の心をつかむ。凶器になるペンが母の形見とか、十二支の年賀状とか、心憎い。よくある社会劇が、社会の反応をメディアや官のシステム(警察、裁判、福祉など)を鏡にするが、そういう安易さが一切ない。どこまでも人間のドラマとして押し通す。見事としか言いようがない。
俳優は、Monoからナイロンまで、小劇場からの混成群だが、それぞれの柄と経験がこの芝居によく生かされている。演出が行き届いていて、まだまだこれからよくなりそうだ。
舞台には、野球場の観覧席を思わせる円形の階段が大きく組まれている。その階段と、観客席出入り口を使ってドラマは進行する。この色がブラウンと言うのもうまい。階段セットはこのころよく見るようになったが、ここでは、野球という競技からのスポーツ事故も絡めて、このドラマのテーマに即してうまく使われている。衣裳も的確で、小劇場によくある、そこまでは手が回りませんでした、という言い訳がましいところがない。
要するに、あの暗い田舎道をわざわざ三鷹のはずれの小屋まで行った観客に正面から向かい合っている潔い舞台なのだ。
青いプロペラ
らまのだ
シアタートラム(東京都)
2018/11/29 (木) ~ 2018/12/02 (日)公演終了
満足度★★★★
結局この芝居のキモはラストシーンだろう。そこはネタバレで。
トラム推奨の若い劇団と言うのに、芝居は過疎化の進む地方都市のスーパーマーケットのバックヤードである。近隣都市にt都会の大型スーパーが進出してきた地元密着のスーパーはたちまち立ちいかなくなる。そこに勤める従業員のさえない日常が1時間40分。登場人物もどこかに絞ればいいと思うが、集団で行く。話題も新聞などで知っている話ばかりで切実さが迫ってこない。地方都市を車で通りすぎていて、ここでどんな暮らしがあるのだろうと、部外者が想像する域を出ていない。若い集団らしさがまるでない。演技は新劇団と青年団の中間あたり。パンチがある俳優がいない。演奏者が三人舞台に出ていて演奏するが、これがクラッシク楽器でなく電子楽器に打楽器と言うのも切ない。
で、大型スーパーに押されて、ついに地方スーパーは運命の日を迎えるのだが(以下ネタバレ)
残り火
劇団青年座
ザ・スズナリ(東京都)
2018/11/22 (木) ~ 2018/12/02 (日)公演終了
満足度★★★★
息をのんでみているうちに芝居は終わった。時計を見ると1時間40分。テレビの二時間ドラマと同じ時間で、誰もが忘れていたい人間ドラマを見た。青年座が部外の作者に委嘱する作品は、劇団と息が合わず、お互いすくんでしまう作品も少なくないが、これは、今年一番のヒットだろう。
まず、脚本がいい。交通事故加害者と被害者の事故12年後の対決である。よくある話を両者の家族の対立に絞ったところがうまい。相似形の家族というのも、作りすぎた感じがしない。その家族を直接対決させる。鋭い対決の中でそれぞれの人生を動かしていく。第三者の加害者の面倒を見るやくざ者、被害者を押し出す週刊誌記者が家族の物語に効果的に噛んでいく。加害者と被害者にはそれぞれ法律のバックアップもあるわけだが、このドラマが優れているのは、そういう法律を越えた現実の社会の建前と実体の中に現代人の生き方の難しさをきちんと描いている。よくある「社会劇」のように、問題を政治や法律や社会階層やメディアのせいにしていない。日々の生活の中で誰もが巻き込まれる恐れがある事件そのものが、現代の人々の心と生活の荒廃を生んでいることを鋭く描いている。だからこそ、この異様な事件を観客は息をのんでみている。
青年座の老練な俳優がいい。中流の下あたりの市民の生活を活写する力がある。この舞台では主演の山本龍二(加害者)もいいが、脇のやくざ者〈山路史人〉、被害者の父(平尾仁)が動と静の対比を見せて、ことに平尾は抑えた演技で卓抜だ。女優陣もいいが、これだけ巧者に囲まれると若者は全員苦しい。しかし、これは若い俳優にとってはいい経験になるだろう。そこが劇団の良いところだ。
殆ど小細工なしで、劇的対立で押し切った演出もいい。
難を言えば、音楽が仰々しすぎる。テンポよく次へ、と行くには音楽は重要だが、これほどサスペンスタッチでなくてもドラマは深まったと思う。
サイパンの約束
燐光群
座・高円寺1(東京都)
2018/11/23 (金) ~ 2018/12/02 (日)公演終了
満足度★★★★
長年舞台を勤めてきた役者というのはすごいものだ。渡辺美佐子、とても85歳とは思えない。老優が出てくると、それなりの配慮が観客にも見えてしまう舞台(それが当たり前、配慮でもあるのだが)が多い中で、この舞台でも配慮はしてあるが、ほとんど舞台の三分の二には出ていて新しい台詞を言う。どれほど早く脚本が出来たかは知らないが、この分量のセリフを覚えるだけでも大変なはずだ。激しい動きはないが、デリケートな表現は必要な役だ。歳を感じさせない動きもすごい。色気さえある。
大体、女優の方がすごいのは洋の東西を問わずのようで、ロンドンでも、ジュディ・デンチ、ヘレン・ミレン、などなど、いまも堂々新劇の主演を務めている。日本にも杉村がいた。人生百年時代、新しい老年世代をテーマに、これからの演劇の先達になってください。
十一月新派特別公演 犬神家の一族
松竹
新橋演舞場(東京都)
2018/11/14 (水) ~ 2018/11/25 (日)公演終了
満足度★★★★
久しぶりの劇団新派・新作一本建てで演舞場での公演である。かつては、ここの新派の舞台は、劇場との相性が良く、新派的花街・下町情緒があったのだが、今は無理に大店に入った場違いの店子みたいだ。それだけ、劇団が今のご時世に合わせる演目を発見できていないと言う事だろう。
暦をくれば新派の新作のヒットは「ハイカラさんが通る」が最後ではなかったか。今回の「犬神家の一族」は、ハイカラさんの本をまとめた齋藤雅文の脚本・演出。すっかり薄くなってしまった俳優陣にはベテランB作とタレント浜中がお手伝いに入る。で、映画で名高くなった横溝ミステリを、という企画だが、これが果たして50年前のヒット・乱歩「黒蜥蜴」みたいにうまくいくだろうか。
原作は、ミステリのジャンルとしては本格ミステリ。犯人を捜す面白さで引っ張っていくわけだから、当然、人間関係も複雑、被疑者も数多く、キャラの立った登場人物も多い。湖に面した山間の村で、三人の妾にそれぞれの男の孫がいるバイセクシュアルの大富豪の遺産相続で事件が起きる。その孫たちが家宝・家伝の「斧、琴、菊」にちなんで次々に殺される連続猟奇殺人の謎を巡って、ざっと数えて15人くらいの人物が、それぞれの思惑で動く。探偵役は金田一耕介。
時代は戦争直後。重要な時代背景の「復員」なんて言ったって今はなんのことだかわからないだろう。原作は本格ミステリとして評価が高く、人間関係、見立て殺人、犯人さがし、それぞれの動機背景など、ストーリーの展開に従ってよく考えられているが、現実的なリアリティはない。それを救っているのが、仮面の男とか、池から両足を逆立ちで突き出させる殺人方法など、ふんだんに盛り込まれた猟奇的なビジュアルな面白さである。
ところがそういう面白さは、映画では使えるが、舞台ではネックになる。舞台でできそうなのは歌舞伎の「菊畑」を模した菊人形殺人位で、脚本の齋藤雅文はさぞ苦労したと思うが、舞台脚本はそれらの原作の複雑な要素をほとんど取り込んで、その上、舞台としてわかりやすいように工夫している。原作脚色のうまさは高く評価していい。一部、原作を読んでないとわからないだろうと思う人物の説明不足もなくはないが、これだけ原作を生かせれば上々である。ことに、本格ミステリのドラマ化で本ではクライマックスなのに、舞台では退屈になってしまう最後の謎解きを、一幕の幕切れから二幕にばらして、謎解きを、それどぞれの役者の場をとれるシーンにしたのもお手柄である。
しかし、それで舞台全体が面白かったかというと、残念ながら、そうはいかなかった。
細かく配慮されているのはいいのだが、そこを乗り切っていく作品の情念が舞台化されていない。作品そのものはおどろおどろしいのに情念が足りないのは本格ミステリだからやむを得ないのだが、原作を立てたばっかりに、今の観客に通じる、舞台の芯になる情念が足りなくくなった。別の言い方をすると、猟奇殺人にも、金田一耕介にも、見ていて心躍らないのだ。芯になる八重子も久里子をいい歳になってしまったし、いまさら芸を変えるわけにもいかないだろうから昔通りの新派の芝居だ。懐かしいとも言えるが、そこで新派になればなるほど、浮いてしまう。
折角の演舞場の新派だが、そういうことが舞台全体を半端なものにしてしまった。