
いびしない愛
ばぶれるりぐる
こまばアゴラ劇場(東京都)
2022/10/13 (木) ~ 2022/10/17 (月)公演終了
実演鑑賞
満足度★★★★
劇作家協会新人戯曲賞の最優秀賞を取った作品がようやく東京公演が実現。こまばアゴラのラインナップを見て秋を楽しみにしていた。それだけの事はあり、よしよしと劇場を後にした。

アイ・アム・ア・ストーリー
シベリア少女鉄道
シアター・アルファ東京(東京都)
2022/10/12 (水) ~ 2022/10/23 (日)公演終了
実演鑑賞
満足度★★★★
シベ少、と略して語る兄貴の「伝説的」過去作品解説を印象深く聴いたのは7年近く前の事。自分の知る演劇とは違う世界の事として聞いていたのだが、気になり始めた。元来好奇心は強いが行動に移るのは遅く、一年位置いて赤坂REDで観たのが伏線仕込み90分、回収15分という勢いの代物であった。独自に確立された世界観が提示されていて、印象的だったのが俳優たちの演技。真情を演じつつどこか見る者に突っ込ませる余地を与え、徐々に壊れて行く塩梅が舞台を成立させている事が、私の発見であった。話自体は伏線回収を全て把握できなかったが中々面白いと思った。
二回目の観劇機会は程なく訪れたが私的には残念な出来。数年が経ち、今回新しい劇場で三回目のシベ少観劇となった。

マニラ瑞穂記
文学座
文学座アトリエ(東京都)
2022/09/06 (火) ~ 2022/09/20 (火)公演終了
実演鑑賞
満足度★★★★★
観劇後だいぶ日が経ったので記憶も朧気であるが、舞台の光景は比較的鮮明に刻まれている。面白い戯曲であるが、秋元作品中あまり話題にならず、データも少ない。
以前新国立劇場の上演を観たがもう八年前の事、栗山演出だったか・・彼っぽい舞台の使い方で、装置に目が行って役者の話が耳に入らなかった(話の筋が追えなかった)記憶がある。今回は文学座アトリエにて松本祐子演出という「マニラ」再観劇の有難い機会であった。
こういう話だったのか、と・・全く覚えていなかったが、女衒の秋岡伝次郎と女郎たち、領事と職員、軍人、植民地からの解放運動に協力する日本人らが見事に絡んで、日本人の「外地」との関わりを先行的に描いた作品は批評性に富んでいる。舞台は前半が領事館、後半は解放運動の拠点として伝次郎が出資した建造物(の残骸跡)、そして再び領事館に。「私」的事情と「公」の事情が糸で衣を織りなす如く絡み合い、刻々と世界の変化をもたらす。三好十郎を師とする作者の面目躍如たる戯曲であるが、まだ咀嚼し切れていない。舞台は面白く興味深く観たが、芝居がスポットを当てたこの時代の本質、対外関係における日本のあり方を、もっと汲み取らねばならぬ気がする。(これは個人的な感覚であるが。)

一度しか
ほりぶん
三鷹市芸術文化センター 星のホール(東京都)
2022/09/29 (木) ~ 2022/10/10 (月)公演終了
実演鑑賞
満足度★★★★
この所定着している、出演シーン一言解説付き自己紹介を初めて見たのは、神保町花月プロデュース「予言者たち」だったか、もっと前だったか。。以後の「かたとき」、今回と3度以上見ているがこの自己紹介も磨きがかかり、今となってはこれはナイスなアイデアで毎回やる価値有りだ。
ほりぶん、ナカゴーは大いに笑えるが、やはり回を重ねて楽しみ方を会得した方が良い、と思う(というか、何処となく癖になった今、自分は会得したのだな、と思う・・当初はそうではなかったので)。
よくお笑い芸人が、目指す「笑い」の理想を、一度乗っかったら次、次と笑いが起き、会場が波打つ、等と言う。当初ナカゴーの笑いは、演劇の笑いではなくこの「お笑い」の笑いという気がしており、それが証拠にツボを突かれて波状攻撃で「笑わせられる」という側面が強かった。顎が疲れて、芝居が終るとハーと溜め息をついて帰路につく。もちろん作品は一様ではなく一緒くたに語れるものではないが。しかし生み出す笑いは独特である。
(お笑いでなく)芝居では、ドラマの高揚が目指され、笑いはこれを相乗的に高めたり、息抜きを与えたり、「潤い」がある。他方、芝居がその高揚の部分でなく底辺・下地の部分で、シニカルな空気を欲する場合には、乾いた笑いが有効。風刺や皮肉といった笑いに近く、ニヒリズムの世界を提示してそこに人間的な何かを描き出そうとする芝居で、乾いた笑い(を通したドライな人間観・世界観)が注入される。今書きながら想起しているのは大人計画の「キレイ」だ。
つい先日ぴあ演劇学校という催しで「松尾スズキ」の回を視聴し、大人計画の主宰の「お笑い観」を聴く機会があったが、ウェットな笑いとドライな笑いとあり、日本には前者が多いが、自分は後者の笑いが好きである、との事。例としてジョン・ベル―シ、モンティパイソンのジョン・クリーズ、俳優ではジム・キャリー。狂気を帯びた笑いの世界だそうだ(日本では、昔の喜劇人が凄かった、との弁)。
ほりぶんは間違いなく後者の方であるが、それは登場する人物らのキャラと切り離せず、また演じ手である川上友里、墨井鯨子らの形象力とも切り離せない。
三鷹市芸文のNEXT COLLECTIONに登場と知って意外に思ったが、「演劇」に枠を嵌めていない自由人は同センター・M氏の方か。
演劇か笑いかの話を始めてしまったが、過去私が見たほりぶんは1アイデアで突き進むといった印象であったのが、「かたとき」(紀伊國屋ホール)と言い、今回のと言い、交わる線が増え、脚本書きの貫禄を自分的には感じていたりする。

ソハ、福ノ倚ルトコロ
演劇集団円
吉祥寺シアター(東京都)
2022/10/07 (金) ~ 2022/10/16 (日)公演終了
実演鑑賞
満足度★★★★★
千秋楽に滑り込んだ。内藤裕子作品を一昨年漸く目にして今回三作目。大納得であった。今作は休憩込み二時間半、やや長尺だが、二幕劇の建付けが(といった事は良くは判っていないが)見事に時代物に合致し、井上ひさし戯曲が掠めた。要は一幕は「八犬伝」の内容も含めざっくりと、田植えの辛抱を以て物語の要素を仕込み、言わば些か忍ぶ時となるが、二幕で一気呵成に終幕まで雪崩れ込む。終章に至って稀代の戯作者曲亭馬琴の存在と、彼が生み出した長大な八犬伝を通して創造の営為への畏敬が沸沸とこみ上げて来た。作者は馬琴を最終的に支える事となった嫁・路に光を当て、最初その目線で綴って行くが、語り手を他の役が引き継ぎ、路の物語となる。観客は路を介して人物と歴史に触れる。

『地獄変』
芸術家集団 式
シアター・バビロンの流れのほとりにて(東京都)
2022/10/15 (土) ~ 2022/10/17 (月)公演終了
実演鑑賞
満足度★★★★
直前に観た他劇団の舞台も「芸(術)」に命を懸けた男の話で、そちらは実在した人物の話、こちらはフィクションだが、それぞれに鬼気迫る形象があり自分の中では呼応するものがあった。
山の手事情社を暫く観れておらず(恐らく5年、いやそれ以上)、という事もあって足を運んだ。やはり山の手出自のユニットらしく身体表現が山盛り。静と動と、目まぐるしいが、腑に落ちる所大である。客席への問いかけの形である種の「議論」を試みる。そこに創造者の挑戦を感じる。そのあたりは、後日。

YOKOHAMA 3 PIECES
theater 045 syndicate
KAAT神奈川芸術劇場・大スタジオ(神奈川県)
2022/10/13 (木) ~ 2022/10/16 (日)公演終了
実演鑑賞
満足度★★★★
地元神奈川の劇団が3作品持ち寄った公演だが、中々の充実度だった。
もっともKAAT大スタジオの広さを埋めるための工夫と力量の必要も実感。密度が薄くなる。客席がやや寂しいのもそれに輪を掛ける。オムニバスという事で可動な舞台装置に限定されると、「広さ」がいや増し、声も吸われる。
マイナス条件はともかく・・。まず、虹の素。横浜川崎でコンスタントに公演を打ち、青の素という若手公演も手掛けて「頑張っている」印象だが未見であった。実在する(した)生物に着目しドラマ化した舞台で、「なぜこの物語なのか」興味を惹かれる所だが、その「?」に答えるもう一つが欲しかった気がする(40分)。
二つ目がG9プロジェクト、横浜で活動30年になる劇団との事で名前は知っていたがこちらもほぼ初めて。作品は「12人の怒れる・・」を高校版に翻案した短編(登場人物も12人)。素行の悪い生徒の処分を決定する会議を見届ける。シンプルで判りやすい芝居を、演者・観客共々如何に面白がれるか、要はアンサンブルを見せる演目とも言える。キャストの演技アプローチの不揃いが、徐々に珍味の域、逆に面白くなるが、締める所ではもう一つ締めたかった(約30分)。
三番目が無論(?)私の目玉、theater045(約35分)。平塚直隆作品のナンセンス爆発の路線はその通りであったが、間抜けな男子高生のいじましい青春断章?が045がやるせいかハードボイルド色を帯び、作品にも合致していた。話が何やら妙な方向へ行き、伏線の台詞がラスト前でふいに輝き、「まさかあれをやるのでは」と確信した所(あれ、と言ってもあれを聴いた事はなかったのだが)、やっちまった時には腹が捩れた。その後に訪れる爽快感が忘れられぬ。(そういや昔斎藤晴彦という歌う俳優がいたなぁ)
名作ヨコハマヤタロウから注目の劇団だが今回は継続に値する企画を打ち出した(theater045がやる所に意味がある)。他団体も巻き込みつつ是非続けて欲しい。(そのためには毎回theater045が秀逸な一本を提供せねばであるが...ところでこの劇団名の略称は無いものか。)

ひとりでできるもん!
うずめ劇場
シアター風姿花伝(東京都)
2022/10/12 (水) ~ 2022/10/16 (日)公演終了
実演鑑賞
満足度★★★★★
うずめ主宰ペーター・ゲスナー氏の還暦と在住30年で一つお祭りを、という事で落語を題材にした舞台。前作に続き内田春菊絡みだが、今回は脚本の書き下ろし。下調べゼロ。うずめ劇場の今回の見世物は・・(ひとりでできるもん、の心は・・)?とわくわく開幕を待ったが、文句なしに嬉しい題材。春菊氏のエピソード創造力と、落語への愛情が窺える脚本に観ながら内心ウハウハであった。「一人でできる」のは落語のことである(言われなくたって書いてある)。
毎回終演後のパフォーマンス(女性落語家を中心に)とトークがあり、私の回は三遊亭律歌、小噺の後内田氏進行による対談。客席にいた某元アナウンサーが質問コーナーで振られていたが、彼女は「花柄八景」を生んだ公演企画(噺家縛りの新作上演)を企画した人。そんなこんなで落語三昧な贅沢な時間であった。
芝居の方は最近ペーター氏の演出に感じられる飾らなさと、役者本位、ポイントを押えたアイデア演出(限られた材料で最大効果、的な)が印象に残る。
多彩な客演者もさることながら、うずめ俳優三名(今回はゲスナー氏もガッツリ片言日本語で登場したが)の働きに胸が熱くなった。かなり個人的な思い入れが以前に増して増量しておるが、これも芝居の内、としておこう。

車窓から、世界の
iaku
新宿シアタートップス(東京都)
2022/10/01 (土) ~ 2022/10/02 (日)公演終了
実演鑑賞
満足度★★★★
アゴラで観た初演はiaku観劇何作目だったか、「面白い!」と思った記憶があったので、今回足を運ぶ事にした。リーディングという事で何か趣向を期待したが割と普通の読みであった。アゴラの舞台は長い閑散としたホームの美術が見事だった事を思い出し、想像の翼をもがれたように序盤はもどかしく感じたのだが、恐らく今回作者が甦らせたかっただろうテキストの後半のやり取りでは、ドラマに入り込んでいた。こういう話だったか、という感じ。シリアスである。関西地方のとある新駅。ト書きの解説に、住民の要請で出来た「要請駅」の失敗例で利用客が少ないとある。この駅のホームから、中二の女子3人が電車に飛び込んだ。二人は死に、一人は重体で病院の治療室にいる。雨が降るこの日、3人が小学生時代所属していたガールスカウト主催のお別れの会がある。喪服で登場した若い女性教員と私服の若い男。恋人らしい。そこへ同じく喪服を着た女性二人は一人がPTA副会長、一人がガールスカウトでスタッフとして働く女性。電車は事故で遅れており、行き先の同じ2組はいずれ会話を交わすが、屋根のないホームの端のベンチに茫然と佇む若い男を気にして、カップル男が駅員を呼びに行く。やがて現れる駅員、その後やって来る例の若い男と、登場人物は計6人。(舞台上にはト書き読みと合わせて7人が居る。)
若い男は漫画家志望で、実は三人と接点があり、彼は描いた漫画を三人に見せていたのだが、その内の一人が漫画のストーリーに自分と男の関係を重ね合わせているらしい事を察知し、空想を諦めさせるために描いた漫画の続きを見せた所、その翌日に事件が起きてしまったと告白する。そこから、自死の責任問題が一しきり話されもするが、事の責任のありかより、不分明でありながら厳粛な事実を残された者の側に何が問われたのか(と理解すべきなのか)に問いは変質して行く。
現在ネット上で顕著な、個人の行為に対して即断罪、締め上げに走る言論が根本的に見落としている物事の多面的な理解の余地を、この戯曲は示唆する・・とまとめるのは平板過ぎるか。だが時事イシューを巡るネット言論は深刻な病みを抱え、私はこれを参照したテレビラジオ放送、ましてや政治はあり得ん、というより質の低い言論に数が多いというだけで一目置いてしまう振る舞いの奇妙さを思う。

ガラスの動物園
新国立劇場
新国立劇場 中劇場(東京都)
2022/09/28 (水) ~ 2022/10/02 (日)公演終了
実演鑑賞
満足度★★★★
戯曲に目を通して臨む、と決めていたが、自宅にあった文庫本が散逸。図書館各所も全貸出中、最後は新刊書店大手に二か所寄ったが置かれておらず、この公演のせい? 等と妙な推測をしてしまった。
代わりにネットに出ている「あらすじ」を読んだり、以前この作品の戯曲の性質について書かれた文章を思い出しても、いまいちどんな作品なのかピンと来ず、演劇界で著名すぎるこの作品が、とりあえず演劇史的には「現代の精神状況を表現した」(ゆえに同時代性を感じた多く人から支持を得たと思しい)ことが推察されるのみであった。
結果的にはこの演目の舞台を初めて目にして、合点した事は多々あった。
米国を中心とする「西側」諸国の爛熟、全世界的にも科学技術文化メディア等が急勾配で発展した。「戦後」という時代はやはり不可逆な、特殊なものだと言える。その起点で蠢動のような変化があり、国を問わず、芸術家はその変化を察知して作品を成した。「ガラス・・」が描く欠損家族、それを捨てた息子の罪(父がそうであった、とあるのでこれは原罪に近い)。この風景は、戦前ではなくやはり戦後という時代に発見された風景である気がする。何がそう思わせるのかはうまく言えないが(外面的な状況よりも内面に焦点化しているからでは、と取り敢えず考えてみる)、母も姉も、病的であるからこそ、美しく、いじましく、懐かしく、切ない・・。この感覚は、「回想」が可能ならしめるものである、と思う。
この作品の演劇史的な貢献は、回想という手法で(演劇に限らずだが)ドラマ構築の一つの定型を示したこと、ではないか。
回想する主体であるトムが、観客に語りかけるナレーターで、物語を描写する。横内謙介の秀作「ホテル・カリフォルニア」をわざわざ挙げるまでもなく、ストーリーテリングの主要なフォーマットであるが、「ガラス・・」がその原点と言えるのはその完成度ゆえ、なのかも。(今思い出したが戦前の作であるワイルダーの「わが町」もナレーションで回顧する語り口で、「発見」と言うのは大袈裟に違いないが、ただ語られる内容という点では、やはり大きな違いがありそうである。)
この作品で語られているもの(トムが敢えて語ろうとしたもの)は、そもそも何なのか。
刑罰に問われない「内面の罪」は、甘味さを伴う事があるがそれは回想という中においてである。己の加害性にシクシク胸が痛もうとも、(隣国の民族の「恨」のように)ある意味で生きる「原点」となり、いきいきと生きる「実感の源」になる。己を厳粛な思いに立ち返らせるもの、それが己がふと犯した罪の記憶であり、それは真の意味での「生きる価値」をそのままの形で自分に保証する。即ち「悔い改めて進む」道・・キリスト教の影がそこに落とされていると仮説する。
だが、身を貫いた「生きる」実感に応えて、その後の人生を生き直すケースは稀で、多くがそれまでの習い性、怠惰に流れるのが常。だがその事は埃に塗れた自分の中に再び輝きを見出そうとする時に、再び現われ、「怠惰であった己」の罪が、逆説的だが己を照らし、再び「別の道」が示される・・。
もっとも、今回上演された「ガラス・・」は、(戯曲の原形を推測しながら観劇したところでは)原作にあったノスタルジーの色彩を殺ぎ、ドライな後味にした、と見えた。イザベル・ユペール演じる母は「病気」の要素よりも、逞しさ(ラストに見せた落胆は、その喚き散らす様子が「絶望を断ち切る生命力」に見える)があり、トムの姉は原作ではいじいじと傷つきやすい引っ込み思案な所、現代の引き籠りのように救済回路を見出していて、それなりに自宅での生活を送れている・・。ガラス細工の動物への執着はさほど病的に見えない。ジムへの恋に破れた後、彼女は自分の世界で生き続けるのではないか。
この演出は、何となくの印象ではあるが、この作品の「感動」の形である所のノスタルジーを補強する典型的な(同情を誘う)弱者像を避け、境界を跨いで存在する「個性」が一つ屋根の下で同居する様、を示したかったのかも。これもうまく言えてないが、いじましい家族たちは、過去という墓に葬られず、今も生きているという臨場感を示したかったのかな・・という。
想像が飛躍し過ぎかも知れないが。

燐光のイルカたち
劇団青年座
ザ・ポケット(東京都)
2022/09/23 (金) ~ 2022/10/02 (日)公演終了
実演鑑賞
満足度★★★★
ピンク地底人3号の作品を一度観た気でいたがどうやら初であった。架空の世界(日本の近未来的な)とそこに暮らす人間を描いた作品で、骨太な印象である。舞台は場末の喫茶店を思わせるカウンターとテーブルのある店(若干広く物が少ないのが寂びれた地方や途上国のどこかを思わせる)。冒頭、風雨の中、店に入って来た若い男をカウンターの中の男が迎えて見合っているが、これが奇異な出会いである事を窺わせる。若い男は「カミ」の地域からやって来た。店の男は若い男の服装でそれを察知し、厳しい目で凝視しながら、庇護する意思を示す。監視塔はカミからこちら側を監視している。手続を踏めばカミからこちらに来る事はできるが、その逆はできない。カミの人間は裕福に暮らし、こちら側は貧困にあえいでいるが、両の経済力の差ではなく、こちら側が囲い込まれているためだ。こうした状況が序盤の短い台詞のやり取りで浮かび上がる。連想は一気に、イスラエルが建設した分離癖で囲まれたパレスチナに飛ぶ(パンフを読むと明確にその事に触れている)。圧倒的に非対称な状況を強いられている、にも関わらず「複雑な歴史的経緯」の一語で「どっちもどっち」と扱われるパレスチナの状況を、日本に仮設したドラマから何が見えて来るか・・。戯曲はそれを試みており、恒常的な「戦時状況」での日常がまことしやかに描かれる。絶望的な状況での分断された人間同士の共生の可能性、といったテーマは当然潜んでいるが、「問題提示→解決」が容易に訪れないパレスチナ人が獲得している(だろう)「日常」は口当たりの良い答えには辿り着かせない。だがシンプルな人間の感情はそこにある。芝居は結末を迎えるが、問いは浮遊する。

天の敵
イキウメ
本多劇場(東京都)
2022/09/16 (金) ~ 2022/10/02 (日)公演終了
実演鑑賞
満足度★★★★★
2017年の初演から、自分には少々早い再演観劇であったが、超常・異常の世界に浸る娯楽作品に「現在」的視点を鋭く据える作者であるので、パンデミック前後での変化を見たく(配役の違いにも期待)観劇に赴いた。
初演の記憶はわりと鮮明。劇場が芸劇イーストから本多に移っても風景、そして物語にも大きな変化はない。が「見え方」が違う。どこまでもクリアな立体舞台を観た。

ドードーが落下する
劇団た組
KAAT神奈川芸術劇場・大スタジオ(神奈川県)
2022/09/21 (水) ~ 2022/10/02 (日)公演終了
実演鑑賞
満足度★★★★★
作演出の近作を3つ観たのみだが、らしい世界観である。平原テツの役柄もあってバイバイの胸苦しい芝居を思い出す(金子氏の出演もあり)。

かもめ
ハツビロコウ
小劇場B1(東京都)
2022/09/20 (火) ~ 2022/09/25 (日)公演終了
実演鑑賞
満足度★★★★★
鐘下作品だけでなく古典・名作も手掛けるようになったハツビロコウの今作は「かもめ」。これまでイプセンや三好十郎等、硬軟で言えば「硬」に寄った印象ではあったのだが、(松田正隆作品をやった時はその印象を覆したが残念ながら未見)此度はチェーホフ。ところが開幕前、この希望の無い物語へ誘われようとしている間際に言い知れぬ不安が過ぎった。「与えられなかった」人間がそれゆえ希望を抱けず絶望に堕ちて行くという、身も蓋もない様を高みから愛でる作品(そうして辛うじて直視できる真実)を、己の事のように見せられる予感だ。冒頭の二人、甘く切なく甘味な恋の姿が「形」として(即ち本物と知れるように)描かれる。ハッとする。二人にとってのこの瞬間の「偽りの無さ」が、成る程全ての始まりであった。ハツビロコウの「かもめ」が始まった、と実感する。
かくして麻酔が効いた後の治療のように、ハツビロコウ版「かもめ」(今回はテキレジは少なめに思えた)の活写する酷薄な人間ドラマを、漏らさず味わい尽くす時間となった。
毎度ながら、どう手を入れたのか、と思う程に、戯曲の骨格がクリアに浮かび上がって来る。昨年川崎で観た秀逸な「かもめ」はまるで対照的、人物たちの滑稽な生き様を臆せずぶった切る喜劇的演出を極めた舞台であった。一方こちらはハツビロコウらしい「リアル」を掘り起こした言わば「悲劇」の舞台だが、人間の心の赤裸々なありようを透徹した時、そこに微かな救いが見える。「人間」という作品そのものの美が、チェーホフをして文字に起こさしめた。
最近読んだ「戯曲」に関する論考によると戯曲は大きく分けて「人や世界は変わり得る」と信じる思想に貫かれた戯曲と、「変り得ない」との世界観に基づく戯曲とがあると言い、前者=リアリズム演劇の典型としてイプセン以来の多くの演劇、後者にはギリシャ悲劇、そしてチェーホフが挙げられていた。
なるほど一つの穿った分析だが、困難を乗り越える物語の濃度を高めるのはその困難の大きさであり、現実の中にその困難というものはある。この現実の不条理により肉薄する事で、物語は使命の半分は終えている。より厳しい現実(の抉り方)が問題の所在をまずは明示したからだ。そう考えると、酷薄な現実の描写はたとえその事態の好転を記さなくとも、何らかの解決、和解の萌芽を観客は認めるも可能。チェーホフの長編作品にあるロシアの没落や時間の不可逆性への諦念は、人と世界の真実はこうだと突き放しているが観客は絶望して帰路につくわけではない。人生や社会について噛み締める。それはリアリズム演劇にないというものでもない。

全部あったかいものは
コトリ会議
こまばアゴラ劇場(東京都)
2022/09/14 (水) ~ 2022/09/21 (水)公演終了
実演鑑賞
満足度★★★★
アゴラに来るコトリ会議を数年前の「カッコン」から見ているが(前公演「ポチ」は見ず)、久々の今回はちょっと新鮮。最近アゴラで立て続けに見ているトリコ・A、ニットキャップシアターも「おや?これがあの」と意外な作風であったが、こちらも脱力・不条理のテイストは堅持しつつリアルの側面がやはり出ていた。かつて作者がいた職場が舞台という事もあってだろうか・・。不可思議の要素と泥臭いリアルのバランスが私的には程よくなり、変キャラたちも破綻なく存在し、リアル領域では何つっても男女関係のもつれが笑え、<普通>にとどまらぬ関係性が楽しい。非正規のダメ男(主人公)を、正式に付き合ってる男よりも「好きだ」と表明する女(それで関係性を変える訳ではない)や、「やらせてくれない」女と付き合ってる男が男版ツンデレを発揮したり、やらせてもいない女が不貞の相手(やってないんだが)に別れを切り出し、実は最も気にしているのは夫(主人公)であるのに妙な距離を作ったり(これもツンデレの一種か)。その夫がどうやら「住んでるらしい」部屋=契約社員の控室が、劇の舞台となっており、この「場」に何となく居る男や、「出る」らしい女(幽霊?)も、やがて明かされる裏ストーリーの登場人物。もっともこの種明かしの話の部分は如何ようにもである。物語の一本の筋の上で、賑々しく立ち回る人物たちが面白い。

BREATH
キャラメルボックス俳優教室
新宿スターフィールド(東京都)
2022/09/14 (水) ~ 2022/09/19 (月)公演終了
実演鑑賞
満足度★★★★
キャラメルボックスっぽい、とかキャラメルボックス風、的、系といった形容はきっとあったと思う、というのも、こういうテンションでノリで演じてる若者の芝居を以前、中々の率で観たし若者に好まれるのも判る。
昔TVで見た(そんな時代もあった)同劇団の「サンタさんが何とか」とか言う芝居が、開演と同時にすぐさま甦った。舞台手前両脇で2人が電話している図、話が噛み合わない内に切れて片方が困り顔、だったり、発語のテンションだったり、総勢で見せる歌、そして踊りのタイプも「効率的に客を乗せる)。テンポを作る音楽(場の間ずっと鳴る)、無音、メロウな音楽の切り替えなど。(観客は終始音楽に気分を誘導されている。)
もっとも本作は数年前に書かれた作品。作者がパンフにネタ元や、自身の過去作からの借用設定等をあっけらかんと紹介していて、バックステージ物である本作で上演される芝居が、先の「サンタさん・・」である事も(確かに台詞練習の場面ではスクリーンのこちら側とあちら側がどうだと言った台詞を吐いていた。かつての公演のパンフにも劇作家はネタ元をウディアレンの某映画だとか、あっけらかんと書いたに違いない)。
転換のインターバルが短いのは数個のエピソードが並行している事によるが、それぞれの接点もある。2、3クール回ると表面上の対立や不具合の背景が少しずつ顕われて来る。最初はランダムな線たちだけであったのが、面の中の空隙となり、やがてはっきりとした穴となり、着実に埋められて行く。
で、思ったのは「キャラメルボックス」的舞台は数あれど本家の完成度には敵わない、という事である。
なお役者を陥落から掬っているのは台詞、台詞がそこへ至る不安定さを解消して役者を輝かせる。

夜の女たち【9月3日~8日公演中止】
KAAT神奈川芸術劇場
KAAT神奈川芸術劇場・ホール(神奈川県)
2022/09/03 (土) ~ 2022/09/19 (月)公演終了
実演鑑賞
満足度★★★★
溝口健二監督作品、ミュージカル(荻野清子作曲)、の二点でもって観劇に及んだ。☆5を付けたい衝動はある。ミュージカルとして堪能できた実感は残るが、その「ミュージカル」性について判断つかない、というか持て余す部分がある。いずれにせよ「夜の女たち」の世界を味わい、こみ上げて来るものがあった。そう、映画は未見であったので、自分の中の古きシネマの残滓を集めて投影したような感覚・・(例えば成瀬巳喜男の「浮雲」や川島雄三「洲崎パラダイス・赤信号」「風船」、小津監督の「東京暮色」等)。観劇後、あらためて映画「夜の女たち」を観ると、舞台は原作をほぼなぞっている。若干ニュアンスが異なる部分もあるが、僅かな差異は意味的には大きい。主人公は終盤商売仲間たちからボカスカやられるが、舞台では二度それがあってキツかった(一度であれば記号的な理解に止められるが二度やると生理的にも「持たない」と思われ、それを払拭する演技上の正当化なり展開が求められる)。ネガティブな要素はそこのみ。他は良い効果を持ったと思う。前半の貞淑な妻が夫に死なれ一粒種にも逝かれた後、身を寄せ体の関係もあった社長に実の妹を寝取られる(というより男を妹に寝取られる)に及ぶ。空白の時間を挟んで現れた主人公は夜の商売に身をやつしている。江口のり子の(歌はともかく)関西弁の演技は中々痺れるんであるが、秩序外に生きる人間の心の荒みと、肉親思い(実の妹には母親代り、死んだ夫の妹には姉代り)との両面性が(映画でも田中絹代が好演しているが)見せ所。彼女の己を支える(男への、社会への)復讐心を吐露する時、頭にスカーフを巻いた仲間の一人がすかさず「叛逆やね」と小声で言う。教育のない彼女らに、主人公が知恵を入れたか、「どこかにあるといふ」希望の別表現として「叛逆」を二度言う。これは映画には無かった。だが闘う構えを見せる事で、その対象である大きなもの、社会が照射され、ドラマの構図に到達する。
時分にとっての「目玉」であった荻野清子(音楽)は、今回の仕事でようやく蘇った。
(何度も書いてそうだが)黒テントの「メザスヒカリノ・・」では松本大洋の飄々とした、多彩な場面で構成される舞台を多彩な音楽で支え、松本ワールドを具現した名作となった。長らく名前を見ずに過ごしてある時ミュージカル界にその名前を見つけ、著名な脚本家による舞台を普段は踏み入れない高名なタレントや俳優の出る劇場に(彼女が音楽というので)足を運んだが、ガッカリ(芝居が超つまらなく、これにどう音楽をつけるの?という作曲家の声が聞こえそうな位で、劇中音楽の流れる箇所は僅かだった)。その後も一つ見ていて、こまつ座「十一ひきのネコ」の宇野誠一郎氏の楽曲をベースに新たな楽曲を一、二加えていたが、宇野氏のテイストと荻野氏のは異なり、同じ劇の中で両者が棲み分けている状態(私には荻野楽曲が流れる時間が心地よいが、激全体は宇野氏テイストなのでバランス的に難しいものがあった)。
今回のミュージカル楽曲は全体にジャジーで、特徴的な楽曲2つを多義的に頻度高く用いて効果的であり、劇的高揚を幾度も味わえた。
一つ、ラストではアウトローを自認した女たちの群唱が、転調を重ね、綾なすように声が折り重なるのだが、荻野女史は、最後にテーマのメロディに戻る前の混沌において、一つ音を探し出せなかったのではないか、と思った。「音程の向こう側」を表すにもその音が欲しいはず、、勝手な推測だが。
俳優については江口以外は事前に確認しておらず、舞台上で福田転球が判った以外は後で確認した。
☆4にした理由が判った。女の悲運の物語にいくら感情移入しようが、よく描かれていればいる程、男はその甘味な情感に浸れるのであり、そこには慎みを求められるような。。何となく、そんな感覚に見舞われる。

豚と真珠湾
秋田雨雀・土方与志記念 青年劇場
紀伊國屋サザンシアター TAKASHIMAYA(東京都)
2022/09/09 (金) ~ 2022/09/18 (日)公演終了
実演鑑賞
満足度★★★★★
沖縄語(八重山方言)を使った舞台で、これについては前方席で観られたのは(恐らく)良かった。(聴いて判らない単語が方言なのか、聞き取れなかった別の単語なのか、の違いが判別できるだけでも随分違う。)
敗戦直後から朝鮮戦争あたりまでを切り取った、石垣島の料理屋を舞台にした芝居。思い起こせば我が青年劇場初観劇の演目も斎藤憐の新作であったが、本作は(演出の力も大きそうだが)改めてこの劇作家の筆力を再認識する機会となった。
様々な「語られるべき」要素が人物の来歴とエピソードに織り込まれ、半紙を一枚一枚折り重ねて固めて柱が顕れるような具合に確かな世界が生まれていた。
演出面で幾つか目を瞠る箇所があり、この戯曲を現代の自分たちの目の前に差し出す事に成功している。
楽日前、土曜夜という事もあって(この劇団の観客的に)客席は淋しかったが役者諸氏の力は漲っていた。

青ひげ公の城
Project Nyx
ザ・スズナリ(東京都)
2022/09/08 (木) ~ 2022/09/19 (月)公演終了
実演鑑賞
満足度★★★★★
震災の年に暗鬱を吹き飛ばすかのような、あるいは癒すような「小鷹狩鞠子」を観たのが初ProjectNyx、以来足が向かずにいたが申大樹演出に注目して「売春捜査官」、説教節への興味で「さんせう太夫」、と観て来て女優だらけの舞台へのハードルも下り、寺山修司の未見作品に注目し、都合4度目のNyx観劇。見世物小屋の復権とは寺山天井桟敷のものだったか・・演劇の祝祭性を煮詰めた一大エンタメをスズナリで所狭しと見せられ、魅せられた。何気に金守珍の演出は毎回マンネリ化せず見事であるが役者揃いとはこの事。披露される「芸」の数々を並べればネタバレになるが、それらが余剰にならず舞台を構成する要素となり、それぞれ群像を形成する。演劇的な快楽がある。

笑顔の砦
庭劇団ペニノ
吉祥寺シアター(東京都)
2022/09/10 (土) ~ 2022/09/19 (月)公演終了
実演鑑賞
満足度★★★★★
前回のKAAT再演を観ての今回。期待通りバッチリ。不明だった部分もクリアに。細密度に瞠目。緒方晋がやっぱりなあ(感無量)。夜が明ける。笑いがある。