映像鑑賞
上演中止となった日に当った。代りに10月の沖縄公演の上映があると告げられ、一瞬迷ったが観ることに。近年観た二作が良かったので(と言ってもたまたま(神里という鯨が水面から頭を出しただけ)な感触は残るのだが・・語り手の到達感に観客としても共鳴できた気がした)、少からず期待する所あり、映像でどれ程伝わってくるかというのもありつつ、一時間強の上映を見た。結論的には「映像はやはり映像」。定点映像であるので着色無しのプレーンな記録として見られたが、起承転結のあるストーリーは(この劇団だから)当然なく、断片的な場面の背後関係を探り切れず、生で見てどうにか納得を持ち帰る内容であったのかは判定できない。ただ毎度ながらの「よく判らん」舞台であるのは同じである。
東京公演では三名の役者の他に身体パフォーマンスの方が競演する予定であったが見てみたかった。
作品の中で越境の旅をする岡崎藝術座は、今回はラオスへ向かう。三人の俳優のモノローグと動きがあり、後半三人が同じ場所(現実の場所でないかも)で黙ってラオチューを飲む。紅一点の女性は祖国に居る母か叔母かとテレビ電話で話す。松井周、大村わたるはそれぞれの語りと動きがあったが相互の関連は特にない。各ピースが何を媒介してどう結びつき、全体としてどういう図が描けたのかは掴めない。点を頼りに図を描くのは観客だとして、図を作るに足る点がなくては、という所だ。
新しい知や体験は実は手の届くところにある・・世界を見渡せば直前まで持っていた観念は補強される事もあるが大概崩される。その要素を持っている(はずである)。旅がスタンダードであり、変化が常態である感覚を、伝えたい衝動を岡崎藝術座の創作活動に想定している。
観客にとっては自分の「意に叶う」要素があってどうにか「新たな対象」との遭遇を受容する。薬は甘味をつけて飲むのが良い。
成長の過程では世界を広げていく新しさそれ自体が悦び。演劇の創造はこれを他者に提供する営為とも言える。岡崎藝術座の試みはひどく唐突な感を与えるが、鯨が顔を出す瞬間を期待して観客は足を運ぶ。
岡崎藝術座の名を知ったのは十年前。個人的に振り返ってみた。
その開催中に知った「FTトーキョー」という催しのラインナップに、「レッドと黒の膨張する半球体」というアート系への関心をそそるタイトルを見つけたが、惜しくも観劇叶わず、そのリベンジで観たのが一年余後の次作「隣人ジミーの不在」だった。これはハイアートが過ぎて折れた。チェルフィッチュの特権的肉体・山縣太一の存在感(醸される面白さ)から作品の意図を探るも、舞台上に出現する現象の総計じたいが僅かで(上演時間も短い)、「思わせぶり」を持続する限界がこの程度だった、と見えた。
出来のムラが激しいアーティストかも、と思い直したのは神里氏の出自を題材にしたテキストを出し始めてから。他団体による神里戯曲の上演では冒頭以外殆ど寝てしまったが、言葉は饒舌、「言いたい事は幾らでもある」書き手と再認識し、新作と前作のダブル上演で前作「サンボルハ」を観たかったが見られず、期待せず「イスラ!」をSTスポットで観たがやはり長いモノローグを基調にした舞台(物語性は観客の脳内構築に委ねられる)。
「ハズレを引いてる感」が続くが、まだ追いかける。「バルパライソ」が岸田賞を獲り、海外俳優による同作をドイツ文化会館で観たが、彼が現出したい世界が漸く舞台化されたかと思わせる良い時間であった。続く「ニオノウミにて」を面白く観る。奇想天外な舞台装置の上の現象は密度濃く詰まり、幾本ものテーマ軸を通し、作品のために発明されたと思しい楽器もあった。
上映会後のトーク(徳永京子進行で本来は他のゲストであった所、作者神里氏とのトークとなった)で氏曰く、「どうもモノローグで語ってしまう癖が自分にはあり、そうでないものを作ろうと最初は思ったが結局モノローグ主体になってしまった。自分の能力の問題かなと」。そうか脱しようとしたのか、と。演劇は対話だ、と語る演劇人もいる位であるが、このダイアローグという概念を神里作品の中に置いた時、「これは何である」と表現できるだろうか。松原俊太郎やイェリネクの「戯曲」と親和性のある地点の舞台も想起しながら「演劇とは何か」を考える。まあ面白きゃ良いという話ではあるが、つい考える。