実演鑑賞
数年前初めてSCOTを観劇して今回二作目。SCOT東京公演は何処となく活動紹介的なイベントに思ってしまっていたが(今回も第二幕のみの上演だったり)、しかし鈴木忠志氏的には「第二幕のみ」は不完全を意味せず、二幕の面白さに着目したとの弁である。前回、殆ど眠る時間となった「北国の春」はトークで埋め合わせられたというよりお茶を濁された気がしたものだが、苦手と感じた団体も能うならば二度は見ようと思う自分であるので(平田オリザの言う観客のリテラシー)今回も寄り添って理解しようと努める。
正直な感想を言えば、地の底からの唸りのような発声、能のようなスローな動き(言葉に比重を持たせるためと思われる)、すなわち抑制的な演技は、自由とは対極の、狭い箱に押し込んだように感じられた。これはかつては「既存の概念を壊す」演劇の形態であったものが、その遺産に与って養分とした現代演劇では珍しいものではなくなり、敢えてそうする理由が見出しにくい、という事なのだろうか。
つい昨日SCOTの古い動画「トロイアの女」を観た。白石加代子の存在も大きいが舞台が躍動している。観客の目も熱く利賀の会場が舞台上の「作品」と観客だけで作る「劇場」となっているのが映像からも伝わって来る。出演者も多く、主役級と脇役、コロスが要所で密度の濃い場面を作る。動きの方は今より幾分大きく特徴的だが、発声は低く押さえつけた音にめらめらと火がちらつくような鬼気迫る感じ。ギリシャ悲劇であるが、場面の後ろで鳴る音楽、出で立ちと動きは脂の乗った時期の黒澤明の時代劇映画を思わせる。鈴木演出の特徴であるらしい音楽(歌謡曲)の意外なチョイスも効いていた。この舞台には鈴木氏の「トロイアの女」の物語世界への信頼と異化、現代批評が混在し、熱を帯びたものになっている。つまり物語への没入を否定してはいないと感じるのだ。
だが自分の観た近年のSCOT作品は批評が勝ち、物語への没入を鈴木氏自身が拒んでいるのではないか。
トークでは正にその事を「戯曲の持つ物語性の部分は嫌いだ」という言葉で表明していた。SCOTの現在は、主宰の意図とズレてか、あるいは意図通りか、変容したと考えると腑に落ちる所がある。(また何か思いついたら書いてみよ。)