tottoryの観てきた!クチコミ一覧

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壊れた風景

壊れた風景

劇団かに座

スタジオ「HIKARI」(神奈川県)

2023/06/02 (金) ~ 2023/06/04 (日)公演終了

実演鑑賞

老舗の域になる神奈川の地域劇団だが、世代交替が実現している模様で活動の主体は若手。前に観たのが10年前、今回2度目であった。5年前に別役戯曲に挑戦していて、今回「壊れた風景」をやるというので久々に出かけた。スタジオHIKARIも暫くぶり。
「壊れた風景」は私が別役作品の秀逸な世界観を知った最初の戯曲で、別役に「強い」名取事務所が周到に構築したシュールで怖い舞台だった。
別役戯曲がその成立のために要求する役者力、演出力を、失礼ながら備えている劇団とは思わないながら、しかし意外に迫れているのではないか、との“若干の”期待もあった。当日は遅れて入場。野山を行く者が持主のいないシートに置かれた荷物と鳴り続けている蓄音機に目を止め、次第に集まって来る。何のかのとうまく正当化をしながら置かれている豊富な食べ物に手を出していく。別役らしい丁寧な言葉遣いによる会話全てが、さもしい自己正当化のために為されて行く光景は日本的な村社会の縮図であり、そして他人の物を奪う侵略の構図でもある。
平常な会話は意外に(失礼ながら)面白く進んで行く。だがラストに至って浮かび上がるもの・・これが見えて来なかった。それはやはりそれまでのやり取りの中で欺瞞に満ちた人間の本質が伏線として表現し切れていない所にある。最後のオチは別役氏が作品を着想した実際の事件の顛末なのだろうが、この戯曲は冷や水を浴びせるような警官の報告を聞いて、死者たちの遺した(れっきとした持主が存在した)食べ物を食欲にあかして口にしていた、という己の行為を突きつけられ、動揺させられる風景でなければならない。そこを到達点とすると、やはりこれは一筋縄で行かない戯曲であった。
会話のテンポは中々よく、アプローチによって芝居の核に迫れたのでは・・という感触は残った。

雨の世界

雨の世界

SPIRAL MOON

「劇」小劇場(東京都)

2023/06/14 (水) ~ 2023/06/18 (日)公演終了

実演鑑賞

満足度★★★★

二度目のSPIRAL MOONは前回に同じく「劇」小で。ウテン結構作品を初めて取り上げた上演の由。一時間余の小編である。私としては物語の要素を回収し切れたのか?という戯曲の問題が残ったが、若い作家の若い作品をSPIRALの手で端正な舞台に仕上げた、と見るべきだろうか。

ネタバレBOX

雨男、雨女に着眼した意欲的な作品だが、Spiral所縁のはせひろいち氏ならばどう書いたか、前川知大なら?などと想像する。SFや空想科学なフィクションで重要なのは設定で、役者がその世界を生きられているか。私が観た組はその存在である主役は秋葉女史。初日だったせいか台詞の一瞬のまごつきも(ステージが間近なだけに)見えたが、役の存在を人生観にまで落とし込めていたか、あるいはそれが可能なテキストだったか、気になった。彼女にとって雨は小さい頃からイベント毎に降られていたものだった、とすると、それが彼女自身にどう影響したか、また通った小学校は不運な年代として全校児童が共有する記憶になるものだろう。実は百発百中ではない、という事であれば、本人も周囲も奇異には感じなかったという事があるだろう(個人的にはその線で行きたい)、そうすると四人組の友達でやった「実験」の結果の捉え方もより緩やかになろう。それがある確信に至るまでもう一プロセス必要だろう、とか。
エピソードは面白い。恋と友情の青春時代、そして雨女の由来に迫り「立ち向かう」人生の師として現れた姉の存在等。その人の人生にはいつも雨が降っている、というイメージは強く感覚に訴えるものがある。舞台はそれを意識した感があった。
が、上記諸々により終演時に浄化へ到達しなかった後味である。以後のステージではどうなっているか、また別の組もあるとの事で、見てみたい気持ちはある。
再生

再生

ハイバイ

東京芸術劇場 シアターイースト(東京都)

2023/06/01 (木) ~ 2023/06/11 (日)公演終了

実演鑑賞

満足度★★★★

この演目の底力が今回も実感された。TOKYOデスロックによる「芝居」の繰り返し(通常3回)が可視化する「再生の限界」という逆説は、岩井秀人氏が快快で行なった身体パフォーマンス要素の強い(台詞が後退)ピースの繰り返しでより際立ったのだろう(その初演は見ず)。2019年のKAATでの快快公演は衝撃であった。ダンスの得意な役者、身体能力の高い役者が、舞台装置の中で人と接触したりの動線が決まっていて、ダンスがそうであるように楽曲が色を決める。選曲が重要。3度繰り返す事により「やらされている感」が滲み出る、というのが言わばこの演目のオチなのだが、再生されるパッケージであるパフォーマンスの中身の面白さ、そしてそれが繰り返される事によってまた面白味が出てくるか否か、も大きな要素なのだろう、と推測。
さて今回の再生は、名前を知らない若手たち、全員ではないが舞踊をやってる者、身体表現に長けた者によるもの。KAAT公演との比較で言えば、KAATでは必ずしも「得意でない」者らがやっており、後藤剛範といった屈強が、へばって来る面白さもあったのに対し、今回は「動ける者たち」である。押しなべて奇抜な衣装を着け、各所で色々とやっている、というのが最初は「風景」として見えて来づらい。
だが次第に各者の動きが判別でき、中々気合の入った動きをやっている事が分かって来る。そして3度目、彼らは最後の力を出し切ろうとテンションを上げ、音響も最高潮に上がる、という事で割と健全なダンスパフォーマンスを観た、という感覚に近い後味があった。
また違ったバージョンを発見して見せてほしい。

新漂流都市

新漂流都市

水族館劇場

臨済宗建長寺派 宗禅寺 第二駐車場 特設野外儛臺(東京都)

2023/05/17 (水) ~ 2023/06/06 (火)公演終了

実演鑑賞

満足度★★★★★

千秋楽に観劇に漕ぎつけた。雨のけぶり始めた羽村駅から宗禅寺境内に到着すると新宿でやっていた頃を思い出す列をなした観客。桃山亡き水族館劇場の第一弾は前作で舞台にも立っていた翠羅臼がかつて水族館に書き下ろした作品の新装版、演出も翠氏による。文体やリズムは異なるが、「旅」「時空」「世界の暗部」「永遠の恋」といったテント劇団共通の要素がある。
パタリ、パタリと板が剥がれるさり気ない屋台崩しと、ワイヤーと水の激しさとのコントラストは中々であった。満場の拍手をさらった。
時間があれば後日追記。

海の木馬

海の木馬

劇団桟敷童子

すみだパークシアター倉(東京都)

2023/05/30 (火) ~ 2023/06/11 (日)公演終了

実演鑑賞

満足度★★★★

木馬と言えばトロイ戦争。本作でも近代戦争に「木」の飛行機を用いた愚かしい史実が題材となっている。客演小野武彦を現在の老人とし、時代を遡った回想場面にそのまま登場して当時を演じるというシンプルな趣向が効果的であったが、震洋と命名されたその片道切符の"航空機"に乗るべく彼らが配置された山陰地方の漁師町では、機密情報はとうに漏れていて彼らが「特攻」で散る運命であり、町を挙げて迎え入れる体制。靖国の妻となった戦意十分な女性(板垣)や、小野氏とささやかな交流を持つ女子(大手)、夫が出征中の家のために婦人会長に名乗り出させられ、覚束ない働きぶりであった女性(石村)が彼らとの交流や空襲の激化の中で逞しくなっていく、等の心温まるエピソードの合間に、軍の上官らが役得をほしいままにする様や、出動命令が出ては村人と別れの挨拶をし、出動時刻までの数時間(時には半日)を緊張に体を固くして待機したかと思えば「敵機来襲の情報が誤り」として解除される、という事が何度も繰り返されるなど、日本軍の組織力を皮肉る視点も挿入している。彼らを歴史の英雄に祭り上げる事を許さない「愚かな組織の犠牲者」という視点は、ラストに結晶する。
終戦直後に筑豊で起きた武器弾薬庫爆発事故を描いた作品(前々作あたり)に通じる。史実を「受け止めるしかない事実」と飲み込む事を観客に強いる、甘味でない芝居。

カストリ・エレジー

カストリ・エレジー

劇団民藝

紀伊國屋サザンシアター TAKASHIMAYA(東京都)

2023/05/26 (金) ~ 2023/06/04 (日)公演終了

実演鑑賞

満足度★★★★

鐘下作品上演とあれば目の色変わり、「破戒」に続いて民藝観劇。初の鐘下戯曲と老舗劇団との繋ぎ手として演出シライケイタ。氏の作る舞台はいまいちピンと来ない所があるが(彼の思う「劇的」のポイントが自分のと少し違うようで)、新劇団へのある種の先入観は払拭する力強い舞台であった。
冒頭、廃屋に逃げ込んだ二人が水筒の水のやりとり、やがて一方(阪本篤)が知能が人に劣る人物を形象していると判り、「二十日鼠と人間」の二人らしい台詞となる。「え?自分は民藝のカストリ・エレジーを観に来たのだっけ?別の公演に迷い込んだ訳では・・?」と一瞬記憶を巡らした。後で見れば本作はモーム作を下敷きにした作品とあり、納得したがそれほどに「二十日鼠」のやり取りが(作家的には意図的に)再現されていたという訳である。

二人はある長屋に流れ着く。強突張りの大家と、長屋をしばしば訪れるその女房・・というあたりはどん底である(二十日鼠にその要素があったかは不明)。二人組に序盤で出会ったもう一人との間で共有される「秘密」が物語のポイント。守ろうとするものと、それを脅かす「外敵」という構図を、長屋の人間たちという群像が取り囲んでいる。大家の女房は新顔の彼らにも興味を持つ。旦那の嫉妬心に火がつけばヤバい。そして物語が進むにつれ首をのぞかせる不安(「二十日鼠」での不安要素でもある)がある。図体がでかく知的に弱い彼には一つの趣味(性癖)があって、それは手触りの良い動物への執着。だが撫でる内にその怪力で絞め殺してしまう。冒頭でも密かにポケットに入れていた鼠の事を相方に見つけられ、「出せ」「いやだ」のやりとり。出した鼠はすでに圧死していた。

どん底からの借用部分は、長屋仲間の群像の形成に寄与しており、シベリアという渾名の者が、少し前まで大家女房と関係していた。過去形なのがミソで、心の穴を埋めに、(勿論シベリアの姿を探してもいるのだろうが)長屋を覗きに来ては男共への、あるいは人間への興味を無邪気に持つ。過去の人間である夫との生活から、未来を見たい人間としても形象している。

鐘下氏は物語の舞台を敗戦直後のどこかに設定し、氏特有の人間同士の情と本心が激しくぶつかり合うドラマを書いた。が二十日鼠のラストに集約させるには、シンプルな方が良い感じもある。二人組にもう一人加わる浮浪者(実は金を隠し持っている)や、長屋の風景は敗戦後という世相の背景を与えていて、それは大きな要素であるが、人間の「自由」への渇望というテーマを凝縮して提示するなら「どん底」か「二十日鼠と人間」か、どちらかを選んだ方が良いのでは?という作家を愚弄するに等しい身も蓋もない感想が浮かんでも来た。「この作品でしか見られない」風景が見たかった、というのは正直な思いである。戯曲、演出どちらの要素に関わるかは分からないが。。

ネタバレBOX

ちなみに戯曲は本になっており、冒頭を読むと実に示唆的にわかりやすく二人の関係が描写されているのだが、舞台では図体の男が「後先考えずに行動してしまう」要素である「水を飲むな(うがいだけしろ)」という相方の制止を平然と無視して飲み干すくだりをのっけから演出では変えていて、「飲みたいから相方の制止にもかかわらず(ずるっこして)飲んだ」と描いた。五郎というその男の「らしさ」を掴むのに冒頭しばらく時間を要した(何なら辻褄は微妙に合ってない=戯曲に比して)原因が分かった気がしたが、演出がなぜそう変えたのか私には分からない。五郎は相方には決して逆らわない、依存している、だからこそ「俺だって一人で生きて行けるさ」と漏らす言葉の意味合いも見えて来ように・・と逆に疑問が湧く。
だが、それは演出が戯曲の制約から解き放たれた舞台を構築するための努力の片鱗だったのかも・・?
糸井版 摂州合邦辻

糸井版 摂州合邦辻

木ノ下歌舞伎

KAAT神奈川芸術劇場・大スタジオ(神奈川県)

2023/05/26 (金) ~ 2023/06/04 (日)公演終了

実演鑑賞

満足度★★★★

2019年KAAT公演を見逃し、何故か「絶対良い」確信を引き摺ってKAATでの再々演を当日券で観た。公演は中々であったが、この「絶対」とまで思わせたその舞台を調べても見当たらない具体的には糸井幸之助@木ノ下歌舞伎が「良かった」記憶がそれなのだが糸井演出による木ノ下舞台はこれが初めてなのでどうやらこれは誤り。FUKAIPRO以外での糸井氏の仕事で感銘と言うと一昨年?アゴラでのぐうたららばい公演が良かったが時期的に後。結局判らず終い。

どうでも良い話は置いて・・題名から勝手に想像していた以前木ノ下でやった義経千本桜だったか(弁慶牛若が登場のやつ)の世界とは全く異なる色恋の世界で、なるほど糸井氏がオファーされたのも納得、であった。恋の狂気、荒ぶる情念と破滅を糸井氏流のポップな楽曲と演出で堪能する舞台。
この日は終演後にトークとあったが、三時間どっぷり濃い芝居に漬かった後、木ノ下歌舞伎主宰が登場して「自分がトークをする」と宣言、しかも1時間の予定という。観客の反応を予測したかのように前代未聞の挙と自嘲しつつ、「語りたい事が沢山ある」という主宰の熱意で客の反応も唖然から興味へ。トークの主題は義太夫の歴史からとらえたこの演目という事で終わってみればあっと言う間。ぶっちゃけ矛盾と無理の多い「摂州合邦辻」(主宰の弁)の魅力を捉え直す事ができた。個人的には主役を演じた内田慈の演技を興味深く見たのだが機会があればまた。

人魂を届けに

人魂を届けに

イキウメ

シアタートラム(東京都)

2023/05/16 (火) ~ 2023/06/11 (日)公演終了

実演鑑賞

満足度★★★★★

コロナ渦中の異色作「外の道」に時代と人間への深い洞察(とそれを作品化する力量)に大物の予感を覚え、今作でほぼ確信に至った(「外の道」はイキウメ的に外れた道でなかった)。引き込まれて見てしまう二時間のドラマという濾紙を通して、作者が時代に対し物を言っているのがありありと浮かぶ(この感覚も「外の道」と同じだ)。整理できない感情を持て余して唸りながら帰路についた。

ネタバレBOX

今最も「劣化」が顕著に思える内憂は、人への想像力。現代の落ちこぼれはこの時代の被害者だけに、逆に加害側の要素を内在させていたりする。そういう傷を負った者たちが、いつしか集っている場所。森の中にその場所を作り、場を与えている「おかあさん」(篠井)。(おかあさんの元に居た、という意味での)「息子さん」の遺骨を届けに来た刑務官(安井)。来訪者である彼の「関心」により、滞在者一人一人が浮かび上がる。現代の病理を体現する者たち、とも言える。もう一人の来訪者、森に迷い込んで死地を彷徨った所を助けられた公安警察(森)が、疑念に囚われた目として対置される。理解と無理解の相克。「そういうものに、私はなりたい」のよ・・。かあさんの志を「継ぎたい」(それを街に出て作りたい)と言い出す青年(藤原)が、劇を飾る美談としてでなく、存在の根底から立ち上がるもののように見える。
WE HAPPY FEW

WE HAPPY FEW

劇団昴

Pit昴/サイスタジオ大山第1(東京都)

2023/05/20 (土) ~ 2023/06/04 (日)公演終了

実演鑑賞

満足度★★★★

「ラビット・ホール」を上質な舞台にした昴の同じく翻訳物の舞台という事で、迷いなく観に行く(千葉哲也演出というのも後押ししたかもだが当日は認識がなかった)。膨大な量の戯曲(200頁とか)を大幅に刈り込んで上演とのこと。冒頭雑然とした「稽古場」に人が訪れ、どうやら亡霊らしき者も現われたり。でもって人物らの会話が喧しく交わされるが個体識別が追い付かず寝落ち。どうにか復活して観始める。「劇的」な場面が立ち上がる。休憩後物語は動きを見せ、これは感動物の戯曲であるのだな(そして俳優はそう演じているのだな)と遅ればせに悟り、引き込まれた。イギリスで戦時中、女性だけで結成された劇団の成功と苦悩、破綻と和解が描かれる。不幸な死と生命の誕生で締め括られる(という意味ではオーソドックスな)戦争を題材とした舞台だが、戦争そのものは後景にあって描かれるのは人とその背景、相互の関係性である(悲劇としての戦争を安易に借用していない)。休憩込みの三時間。

綿子はもつれる

綿子はもつれる

劇団た組

東京芸術劇場 シアターイースト(東京都)

2023/05/17 (水) ~ 2023/05/28 (日)公演終了

実演鑑賞

満足度★★★★

トラムでの「もはやしずか」に最も近い空気感。白い壁、じわじわと何かが迫って来る感覚、そして安達祐実と平原テツのコンビ。夫婦の間のよくある風景(?)が独特の筆致で切り取られていた。連れ子(田村健太郎)とその級友の間の恋沙汰を面白おかしく対置させつつ。

ネタバレBOX

加藤氏が昨年の作品で岸田戯曲賞を獲っていたとは。戯曲賞とは言いつつ(戯曲だけでなく)舞台成果を含めた賞だから、私の観た「あれ」がその対象となった由。審査員の評を見てみたい。(どういう言葉を当てているのか気になるな。)
『人間狩り』+『改札口』

『人間狩り』+『改札口』

T-PROJECT

赤坂RED/THEATER(東京都)

2023/05/16 (火) ~ 2023/05/21 (日)公演終了

実演鑑賞

満足度★★★★

小説家・筒井康隆の戯曲集というのがあるらしい。今作は短編小説の舞台化だろうか。映画は「ジャズ大名」を観(「時をかける少女」「ねらわれた学園」を挙げるべきか?)、ドラマで「七瀬ふたたび」「なぞの転校生」など大昔に観たな・・と思い出しつつ、舞台は初である事を確認。初のものは観に行く理由付けになる。そんな事に後押しされ、劇場だけは馴染みの赤坂REDTHEATERを訪れた。
シュールで「怖い」世界観を期待できる筒井作品の、勘所を掴んだ舞台で、男ばかりの面々でも十分美味しかった。

ネタバレBOX

芝居中、奇妙な音が終始鳴り続けた回で(恐らく観客のスマホのアラームだが出所は突き止められず)、休憩を挟んでなお小さな音で(しかし確実に耳に入り続けるBGMとして)鳴り続けるという、奇異な状況であったが、後部席の方は結構な邪魔物だったと思う。休憩中他にも主催側に報告する人がいたが、ガヤの中では聞こえず、流石に「今更切れない」とダンマリを決め込んだ当人も休憩中止めているだろうとの予想は外れ、後半になってもなっていたのは驚いた。休憩中客席の間からは「何かBGM的なものが鳴っていたね」と鷹揚な感想、また若者同士からは演出法の一つとして(違和感を持ったのを好意的に受け取ろうとして、、もしや誘った側が相手に?)言及するのが聴こえてきた。
芝居はリアルに(普通に)攻めている演技。BGMで誤魔化す必要は1ミリもない、どころか明白に邪魔をしていた。あまり芝居を見慣れない人には「こんなものか」と受け止められたかも知れないが、人物が立ち上がる架空の舞台の悦びをその人は手にし損ねただろう、と思うと残念。
Wの非劇

Wの非劇

劇団チャリT企画

駅前劇場(東京都)

2023/05/17 (水) ~ 2023/05/21 (日)公演終了

実演鑑賞

満足度★★★★

配信も含めれば観る頻度が上がったチャリT企画。同じ「ふざけた社会派」でも、自分にフィットするかは毎回違っている気がする。中々捕えどころがない劇団、と感じる理由は、「社会派」「ふざけた」という真反対の要素の分量比で雰囲気が変わるからか・・。軽妙さと皮肉とは比例せず、軸がどちらかで空気が(場合によっては物語も?)変わる道理であるので、どちらかと言えば前者を大事にすると見えるチャリTの「皮肉」の効き具合は作品によって起伏がある訳である。・・と色々とそれらしい事を考えてみてもこの書き手の感覚はよく掴めないのである。
いずれにしても今作は両者(軽妙と皮肉のことね)がうまく出会い、問題への踏み込みがコメディ度を高め、賑やかかつ目まぐるしい展開が本質を逸らさず逆に穿つといった具合で。要は出来が良かった。
俳優陣が存分に役を演じ切れていた事もテキストの良さを証明していそうである。題材のタイムリーさ(ビッグウェンズデーに乗ったかのような)もそうだが、演技とシチュエーションの<美味しさ>は密度が濃かった。
もっとも序盤に必ず訪れる「リアル」との葛藤は健在?だが。(今回ので言えば深刻なレイプ疑惑の告白を聴く友人の態度、また話す側の態度、二つを足した時の奇妙なリアリティの無さ・・だがここでの課題は「出来事の提示」。自分も段々とそういう見方が出来るようになってきた。)

ネタバレBOX

プロデューサー・ジョニーが集めた新人の下の名前「太郎」「レオ(玲央?)」に着目し、ウルトラマンブラザーズ結成を企画。他にも居ないかと探させ、見つけたのが「ゾフィー」(笑う所)30歳。三人が「合宿所」に呼ばれるその前、「噂」を心配するノッポの青年、小柄なクール顔、そして熱いキャラの30男の会話が面白い。小柄男はそういうのは慣れている、商売でやってた事もある、と告白。「引いた?」「でもいざとなったら俺が盾になってやるから」と心強い。熱い30男はあくまでやる気満々の風。で、いざ合宿所へ。夜。ジョニーがやって来る。ノッポの布団に入って来るが、小柄男はなんと熟睡。万事休す、とそこへ熱い30男はこの時のために潜入した旨を明かし、ウルトラゾフィーに変身(このあたりでトーンが変わる)。悪者は退治され若いジュニアは事なきを得る。カーット!の声で映画はクランクアップ。

この芝居でシリアスを担うのは「被害者」(実は酒飲んで記憶が飛び、自分が新進映画監督の腕を引っ張ってラブホに入り勝手に服を脱いで朝を迎えただけの女性のタレントの卵)のあつかいを巡って周囲が右往左往している中、「知られざる過去」に焦点が当たる、その部分。
冒頭からの本筋からは脇へ逸れるが、無理なくこのエピソードに入り、過去あったいじめ自殺、その真相は・・と謎へ分け入る。ここで「性被害」(女性の)に触れられる。胸が苦しくなる。

さて現実の日本では、ジュリー藤島の会見映像を境に潮目が変わり、被害者を「被害者」として遇する報道が支配的となった。利害で繋がった領域には報道も筋を曲げる。(その直前までとは打って変わったのはネット世論も同様。)
その一方で、安倍晋三隆盛の時代に起訴を取り下げられたジャーナリスト山口某(安倍礼賛本を書いた)が強姦した相手による告発には、セカンドレイプが起きた。安倍王国に傷をつける邪魔者だったからだろう。そうした構図は今も変わらない。
ジャニーズの件では、その事まで問題を遡求し、問題を「見える化」してほしいと真面目に思う。統一協会とのズブズブも国民は許したようである。
舞台・エヴァンゲリオン ビヨンド

舞台・エヴァンゲリオン ビヨンド

Bunkamura

THEATER MILANO-Za(東京都)

2023/05/06 (土) ~ 2023/05/28 (日)公演終了

実演鑑賞

満足度★★★★

数年前の「PLUTO」が中々であったので今回も「エヴァ」原作を知らない身であるが期待して訪れた。冒頭を逃したのは残念。入場すると紗幕前での舞踊パフォーマンス。その後教室の日常シーン、だったか。恐らく冒頭では原作主人公に当たる少年(芝居では叶トーマ)と、使途との格闘シーンで(指令に当たるのは若手の女性司令官か父親に当たるメンシュの創立者叶か)、苦悩の呻き声を上げてどうにか戦闘を終える・・という感じだっただろうか。
実は何年か前、アニメ版を見始めようとした事があり第一回、二回まで視たか・・だが続かずそれきりになった。主人公はエヴァンゲリオンに乗り込み(実際には操作室に入り一体化する)、戦うのだが終始拒絶感を覚えて叫び続ける。恐怖と闘う。この作品は時代に合ったのか大ブレイクし、従来の勧善懲悪な正義のヒーロー像とは一線を画した作品と聴いていたが、それらひっくるめて目で確かめてみたかった。
原作を踏まえたオリジナルストーリーだという。その評価がポイントのようである。
私的には舞台処理等の技術は「PLUTO」を思い出させたが、演出家の本業でもある舞踊の比重が高い。紗幕を使ってその前で踊りを見せ、その間に裏で大転換をやる方法が多く取られていた。これは普通の暗転に近いテンポで、ややダイナミックさに欠いた。
そしてストーリーの方であるが、どの程度オリジナル(と言ってもアニメ版、映画版3作品と見ると多様であるらしい)を反映したのか不明だが、無理やりに織り込んだように思われる部分が終盤に、ほころびを露呈したようで些か寂しかった。

ネタバレBOX

メッセージが環境問題であってもいい。だが回収しきれないものが残る。
自分的に決定的だったのは、「攻撃をしない」事で使途の攻撃が封印された体験を踏まえ、(これは大実験なはずなのだが)最後に表れた四人の使途に(トーマを失った同級生らがある種の結束に至り)立ち向かおうとする。その時の事だ。
もう一人の主人公である「過去の少年」が、長い不在を経て新任教員として戻って来るのだが、かつて思いを伝えられず去ったその相手=女性司令官との再会の中で、エヴァを開発したこのメンシュの活動自体に対する疑問を伝える。「子どもしかエヴァを操縦できない」設定(これはオリジナル?)が面白いが、使途と呼ばれる怪物が現われ始めた10年前の「隕石落下」によるクレーターは、実はある地上での実験によるものだった・・という疑惑、そして使途という存在への認識の変化がある。子どもたちを犠牲にする「戦闘」のあり方への疑問にもつながる。
話を戻せば、新任教員は、三人の生徒にも「今まで信じていたものを疑う」という観点での影響を与えていたと見えた。そこから新たなストーリーが展開するかと期待した。だが彼の「過去」は、互いに想っていた相手である現在の女性司令官の両親を、彼が行なった戦闘で死なせてしまっていた。その事を告白しないではいられず、彼はその過去を語るのだが、彼女は今までの自分を支えていた「使途への恨み」が瓦解し、混乱する。それを見た彼は、過去との清算をしようとエヴァに乗り込むのである(子どもでない彼がエヴァと一体化する事はほぼ死を意味するらしい)。
だがこれでは、今まさに「攻撃をしない」アプローチを試みようとしていた三人を差し置いて、一体何やってんの? となる訳である。
また、メンシュは人工身体(的な何かである)「マユ」の培養に成功しようとしており、これは科学の進歩が「子どもの犠牲」を強いない段階を迎える意味で歓迎すべき事態、とも見える。ただし人工身体の過去作が実はエヴァ操縦技術を鍛えている生徒の一人であり、ただ彼の場合は人間と同じく成長する、マユは成長しないので永遠に戦闘し続ける事ができる、という説明が為される。このマユが水槽の中に漂う様(舞踊)は妖しく、人倫に反している印象は与えるが、議論は省かれている。
新任教員と使途との対決の場面はなく、観客の想像に委ね、その終盤の舞台上には緑なす地球のとある場所が映し出されて、戦いの無い世界、環境を破壊しない(戦闘によっても街を破壊するらしい..マジか)世界を予見する終幕となる。

メンシュという存在を疑い始める段では、盲目化された人間が目を見開かされるという、現代に示唆的な要素が見えたが、メンシュの長である叶をいささか「悪く」描くことで個人への批判が勝ってしまい、彼一人を葬ってしまえば良い、という所に落ち着いてしまったのが私的には残念。もちろん彼は大きな何かを象徴してはいるが、彼は「騙しおおせた」から生き延びたのか、彼を歓迎する社会の要請もあったのではないか・・そしてそうであってこそ人間の決断の困難と貴さが浮かび上がるのではないか。
最後まで見せる舞台パフォーマンスはさすがであったが、ストーリー上の精度がもう一段二段欲しかった。
虹む街の果て

虹む街の果て

KAAT神奈川芸術劇場

KAAT神奈川芸術劇場・中スタジオ(神奈川県)

2023/05/13 (土) ~ 2023/05/21 (日)公演終了

実演鑑賞

満足度★★★★

「虹む街」から2年とは時の速さよ。まだ鬱々とした、一年遅れの東京五輪を控えて揺れていた時期に、横浜黄金町の昔の風景はこうだったか、というようなコインランドリーや自販機のある朽ちた鉄骨建屋とその周辺の多国籍な店、その界隈を「完全に模した」かのようにぶち立てていた。美術(稲田美智子)ともども界隈に人が行き交う風景には、歌はあっても台詞は殆どなく、観客はそこで生起するものを「観察」するのみ。「今日が最後の営業日」・・コインランドリーの管理人(オーナー?)の安藤玉恵が見せる背中が・・。多くの店がつぶれていった世相を映し、同時に(神奈川県在住の多種多様な人種民族の)人間たちの飄々と生きる力強さを対地させていた。

そして今作は、メインの出演者が応募から選ばれた(オーディション等をやったかは不明)神奈川県人。二人だけはオファーで出演した人おにょうだが、彼らも皆と並列で、有象無象の一人として出る。一般人はと言えば、やはり多種多様な民族をルーツに持つ人らである。
前にも増してストーリーはなく、「虹む街」からどの位経ったか知れない未来の、同じ(よりくすんだにせよ)コインランドリーのある建屋と周囲の店の風景がインパクト大。彼らが明確にメインとなった事で、観る側としては見やすくなった。前回も出ていたアリソン・オパオンの唄とギターがしっかりヒューチャーされ、他の持てるキャラ、才能を開陳しながらも、逆にそれらを飲み込んで息づく「街」が主役となっている。
街には私たちもフリーアクセスできるが、そこに暮らす人々を知る事はない。

母【5月11日~14日公演中止】

母【5月11日~14日公演中止】

劇団文化座

俳優座劇場(東京都)

2023/05/05 (金) ~ 2023/05/14 (日)公演終了

実演鑑賞

満足度★★★★

千秋楽までの数公演が中止に。ほぼ初日あたりに観ていてラッキー、とは自己中心な発言だが芝居好きの本音。(昨年「中止」を悔やんだのはマキノノゾミ「モンローによろしく」・・これは一日こっきりで中止に・・、流山児「夢・桃中軒牛右衛門の」を未練がましく覚えている。)

「母」とは小林多喜二の母であった。演じた劇団座長で、最も歴史ある新劇団の創立者二世でもある佐々木愛をフィーチャーした企画で、企画性が見えすぎる演目であったりもするが、肉親の目が見た多喜二の人物と人生を描きつつも、劇の焦点はこの母と、多喜二が温情を掛けて苦界から引き出したある女性との交流(いくつかの接点でしかないが)である。その点で多喜二はある意味若気の情熱の副産物とも言えるこの女性を、母に残したとも言え、母はこの女性を通して息子を「想う」にとどまらず、多喜二が見据えた社会を、その「具体」に他ならない女性を通して触れ、知ったとも言える。母の世界観が間接的に多喜二を語り、社会とそこに生きる人を語る舞台である、とも言える。

コンマ0.2秒の間は芝居のリアリティに影響する。ひやっとさせる母の長台詞の綱渡りをクリアさせるのが、長い俳優業で培っただろう「乗り切る」技術、「合わせに行く」直感と瞬発力。正直その様子が見えるようであったのだが(僅かな間ではあるのだが)、むしろ子を思う母イメージが、ありきたりに堕ちそうな所を踏み留まったのが大きい。多喜二とは今で言う所のどういう存在か(他の人物たちも)、その想像の余地を残す素朴さが、本舞台及びテキストの密かな魅力であった。

空に菜の花、地に鉞

空に菜の花、地に鉞

渡辺源四郎商店

ザ・スズナリ(東京都)

2023/05/02 (火) ~ 2023/05/05 (金)公演終了

実演鑑賞

満足度★★★★

工藤良平を久々に拝めた。彼の「身体」をフル活用。畑澤氏が重いテーマを軽々と扱う「遊び」の勝った舞台で、音喜多咲子、山上由美子ら常連に新顔の頑張ってる俳優も多数(人材には苦労しない?)。
「北のあの方」の命を受け、青森の核再処理施設に潜入した青年の前に、このお方が現われる。「わが国の科学の粋を結集した」脳内図像伝送技術?によって工藤良平演じる北の方は頻出する。核処理施設の安全をPRする展示館のマスコットガールに恋をした青年。そこにも現われ「惚れたな」と突っ込むお方。
核物質が集められ、頭上をミサイルが飛び、三沢基地も抱える当地からの舞台は恋と使命に引き裂かれる青年の物語を縦軸に、どこまでも軽妙に進む。「翔べ、原子力ロボむつ」を思い出す。

エンジェルス・イン・アメリカ【兵庫公演中止】

エンジェルス・イン・アメリカ【兵庫公演中止】

新国立劇場

新国立劇場 小劇場 THE PIT(東京都)

2023/04/18 (火) ~ 2023/05/28 (日)公演終了

実演鑑賞

満足度★★★★★

前半に第一部、第二部を観た。コンディションに恵まれなかった第一部はもう一度観たいな。
以前読んだ戯曲に関する本に、「叙事詩劇」の優れた作品と紹介されていた。題名は覚えておらず、作者名を見てハッと思い出し、レビューにも背中を押され観劇。上記の本を後で読み返して見ると、さほど字数は割かれず、書いてある事は作品を観た後ではピンと来なかった(戯曲がどう優れているかの説明が晦渋)。
しかし一部、二部それぞれ3時間を超えるこの大作が、20世紀後半に書かれた代表的な作品と紹介されていても何ら異議はない。
「死に至る病」であるエイズを扱った作品と言えば「RENT」がよぎったが、この戯曲で扱われる出来事や事実、状況は全て俯瞰され、対象化され、人生や世界を構成する一要素に過ぎないように見えて来る。登場する天使や天界の博士たち、自分たちの先祖に当る人物らが織りなす不可思議の絵は、苦悩する登場人物の内的世界を象徴するかに見え、同時に世界そのものの視野に導く。詩的な台詞がこの構図にずっしりとした中身を与える。(あんこたっぷりな鯛焼き、でも甘さ控えめサッパリで重くない。)
休憩二回で殆ど疲れさせない面白さ。作品の魅力などうまく説明できない。トニー賞とピューリッツァ賞を獲った作品なだけはある、と書いて済ませるが早いかも知れぬ。

「キムンウタリOKINAWA1945」「OKINAWA1972」【4月6日(木)19時の回の公演中止】

「キムンウタリOKINAWA1945」「OKINAWA1972」【4月6日(木)19時の回の公演中止】

流山児★事務所

ザ・スズナリ(東京都)

2023/04/06 (木) ~ 2023/04/23 (日)公演終了

実演鑑賞

流山児×詩森ろば舞台は、第一弾「OKINAWA1972」、数年後の「コタン虐殺」を観た。今回はその続編的・総集編的公演のようで観たいが二つは厳しい。「OKINAWA1972」の方は概略分っており、アメリカ世(ゆ)から「本土返還」までを時代設定とし沖縄ヤクザという題材のユニークさ。「知らなかった」知識に触れた「面白さ」が評価の大半だったので(書き直したとは言え)骨格は変わらないと踏んで「キムンウタリ」に絞った。

結論から言えば、やはり自分の肌に合わない作品を作る人だな、という感想。何がそう思わせるのか・・。宮台真司によれば「芸術は痛みを伴うもの」。演劇はどうか。現実に傷ついた人の心を慰撫する演劇も立派な芸術だが、本当に感動した舞台は現実の(真の)「痛み」に届いている。ただし宮台氏は「痛み」を「刺す」「不快」とも言い換えていて、フィットするのは「不快」である。快感という甘味にまぶして薬を飲む喩えで言えば、快感より不快が上回る。詩森ろば氏の舞台のこの「不快」から、私は色々と考察を余儀なくされても来た。今回も、不快の源を考える。

詩森氏は劇作家である前に「演出家」と自認する、とは何度か(トーク等で)耳にしたが、この「演出」が肌に合わない、と感じる事が過去幾度か。感覚的なものだが、自分にとってのそれは例えば、客席に向かって俳優が喋る(ナレーション)台詞・演技が多い。そしてダイアローグでない台詞の時間を舞台上で「持たせる」ためにリズミカルに、時に歌に乗せて、何らかのアクションとセットで言わせる。「埋めてる」感が嫌である。それは自分が言葉を理解したいと考えるからか・・。演出意図は恐らく「説明言葉が理解できない」観客層に配慮しての事だろうと思うものの、ノリノリで言わなくとも、普通に説明すりゃいいじゃん、と思ってしまう。
劇中人物としての発語に感情移入させないために持ち込む異化効果は例えばどんでん返しとして、またはディープな芝居の息抜きとして、現代演劇でも用いられる一般的な手法だが、これは、「芝居を観て解決しても(カタルシスを覚えても)現実の解決にはならない」という社会変革を志向したブレヒトの「思想」を超えて、汎用性を持ったという事。しかし詩森氏はこの「異化」の元来の趣旨を感覚的に導入しているのかも知れぬ。
・・仮説はともかく、今回「不快」であった理由は、その構造にある(いや構造そのものは優れているのだが)。

ネタバレBOX

オープニングは楽しい。まだ客電も点いた中で、平場でのやり取り(役者が互いを俳優名で呼び合える空間)。ここでまずこの芝居の複雑な構成を整理する。芝居(詩森が書いた)は、知念正真氏の戯曲「人類館」に「インスパイア」されて書かれたもの、と繰り返す。この繰り返し具合から、戯曲「人類館」にあやかった、または引用された箇所も多いのかな、と推察される(知ってる方はパクリと言う勿れ、また意に沿わなかったらそれは「人類館」が私に書かせたもの、という弁明で詩森氏の舌出し顔が浮かぶ)。そして戯曲「人類館」は1903年大阪博覧会でアイヌや植民地化した台湾高山族等を「展示」した人類館を題材にしたものである。これらを解説している(タキシード姿の)自分は「調教師」(山下直哉)だと言い、相方の黒服女性(伊藤弘子)は「女」、同じく黒の塩野谷正幸が「男」、彼らは「現在」に生きている。
一方他の役者たち・・舞台奥、脇に足場が組まれ、中段にズラッと軍服やモンペ姿の男女が並ぶ。冒頭場面では中央の話し手と肩の力の抜けたやり取りをして小気味よい。そして彼らは1945年地上戦に突入した年の沖縄を舞台に、劇中劇を演じる役者たちだ。

「構造」というのは、「本体」と言える劇中劇と、これを見世物として紹介し時に割って入るなど君臨する「調教師」という構図。劇の開始と終了を仕切りながら、劇の内容をせせら笑う。だが、終盤に至って彼は敗勢に回り、引きずり降ろされる(が、それで解決した訳ではない、という含みを残す)。
戯曲「人類館」を見て(読んで)いないので何とも言えないが恐らくこの調教師の存在は採用したのではないか。何しろ皮肉が効いている。

しかし(そろそろ批判に入る)・・まず当初はこの調教師が、皮肉な存在であるとは判らない。単なる進行役と見ていたら、最初「ご覧あれ」と劇中劇の開幕を宣した後、「この猿芝居を!」と言う。「え?今何つった?」と耳を疑うが、早口ながら「サルシバイ」としか語を形成しない音が残っている。始まった芝居が、なるほど気持ちの入らない「なんちゃって」芝居になっている(演じる役者はそうしなくたって良いだろうに、である)。この時点で「おちょくってんの?」となる。
俳優自らがアイヌ、沖縄すなわちマイノリティを名乗る者でない場合、その存在を貶める行為を「演じる」事の慎重さを考えねばならない。これはマジョリティの弁えの大原則だと考えている。後々それら(侮蔑的な扱い)は、「調教師」がニヒリズムやウヨ言説を象徴する存在として見えて来る事で、初めて飲み込めて来るのだが、これはよくよく最初に明示しておかなければ、「手放しにマイノリティを揶揄する時間」を許した事になる。(調教師という存在がヒールである事を示しておかなければ・・という意味だ。)
戦地を逃げ惑う沖縄人、ひめゆり隊、日本兵となったアイヌ人らの運命を描く各シーンは次第に本域になって行く(感情移入を誘う)が、これを茶化す調教師が終盤になって漸く敗勢になる。そしてウヨ言説の薄っぺらさ共々暴露され、「真っ当」な認識が勝利する事にはなる。逆転劇は見事である。
だが、良きヤマトンチュを杉木に担わせ、美しく描く割に、現代のネトウヨ世論に通じる差別的言語をアイヌや沖縄人に浴びせる場面を、よく舞台上に再現できるな、というのが正直な感想だ(彼らに浴びせた同じ分の罵倒、侮蔑をヤマトンチュに対しても舞台上で同じ時間又は強さをもって浴びせるのでなければ、釣り合いがよろしくない)。作家自身が「差別する側である自分自身を偽らず・・」という事なのだろうか(まさか)。
しかも・・ほぼ最後に近い台詞に、沖縄がアイヌと一緒に慰霊碑に祀られるのを好まない、と沖縄人が抗議した事を紹介し(これは史実だろう)、「虐げられた者の中にも存在する差別感情!」といった言葉で総括させるのである(一体何様だ)。

「人類館」が書かれたのは沖縄人の目線から、つまり沖縄からの告発であり暴露の戯曲であったと想像される。被虐の立場から、身内の弱さを吐露することは許される。調教師は言わば沖縄自身であり、己の中にあるそれを自虐的に吐露し、戦争悲話や美談、心温まる物語が如何に都合よく「消費されてきたか」を皮肉り、最後に言わなくていいエピソードまで添えて、「身内」を告発しつつ、その先にある大きな存在を告発したのではないか。
だが詩森氏のこの作品では、役者らのアイデンティティを沖縄・アイヌに設定しきれていない。そう名乗ることも相当な覚悟だが、そうした上でこれから私たちは演じるのだ、という宣言が足りず、なし崩しに「勝手に」沖縄やアイヌに成り代わっている。この不遜さが終幕の段階でも私の中で払拭できなかったわけである。
作品はある種の「挑戦」なのかも知れないが、どことなく「自分に甘い」感じを受ける。せめてパンフにその事のフォローに十分な文字を割く位の配慮をもって、それはやるべき事である。それが私の判定だ。

(比較して恐縮だが、畑澤聖悟がコザ騒動を背景に沖縄を描いた自作「HANA」に寄せて、己が「沖縄」に犠牲を負わせ差別してきた側に属する事を忘れず、同時に、東北の縁辺で差別された歴史と先人の思いを受け継ぐ者として、かの地と関係を育んでいきたい、これからも仲良くして下さい、といった言葉を紡いでいた。詩森氏の中にどの程度「自分はどこに立つのか」の問いの突き詰めがあったのか判らないが、私にはそれが感じられなかった事が非常に残念であった。)
SEXY女優事変

SEXY女優事変

劇団ドガドガプラス

浅草東洋館(浅草フランス座演芸場)(東京都)

2023/04/25 (火) ~ 2023/04/30 (日)公演終了

実演鑑賞

満足度★★★★

おっとこれは・・現代を描くとこうなるか。という新鮮なドガドガプラスの新作。「現代日本」を盛り込み切れず、皿からこぼれている。一方、性風俗と親密な距離にある望月氏がAV新法という悪法をトリガーにまっすぐな愛情を見せるのが、業界で真摯に葛藤の中で働く者たちの描写。音楽・歌と踊りは相変わらず中々である。平均年齢が低そうな女優陣の健気に演じる姿が題材と重なってくる。受付にCDが置かれ「追悼野島健太郎」と紙があった。音楽担当のこの人は映画にも携わり、望月氏との接点はそこだったか。残した楽曲を構成しての今回の舞台だったか、遺作となったのかは不明。

ハートランド

ハートランド

ゆうめい

東京芸術劇場 シアターイースト(東京都)

2023/04/20 (木) ~ 2023/04/30 (日)公演終了

実演鑑賞

満足度★★★★★

久々のゆうめい観劇。最初に観たのが数年前下北演劇祭の若手をピックアップする下北ウェーブに登場した1時間作品「弟兄」。自伝的要素があり一発屋な感じも持ったのだがその後尽きる事なく作品を出し、「イタイ」世界を構築する。見逃し多くそれでも今回4作目、芸劇での公演、出演陣もちょっと気合の入った面々という事で気になっていたが、当日たまたま時間が出来たので運よく観劇したら、秀逸。中央にドカンと高い岩場のような装置があってこれが一軒の建物で、下手側の階段を上って玄関、待合室、カウンターバー、奥が居間と段々低くなる感じで、具象が多い割に戸をエアでやってたり、プチ変則な約束事をちりばめた奇妙演出が、独特な端折りで話が進む(後に勿論つながる)進み具合も、場面単独のディテイルのリアリティで見せてしまう。
終盤「音楽」でクライマックスは以前の作と重なり、持ち味。そこはズルいが、見事に嵌まっていた。(作者の熱い部分は台詞でなく歌とか、そういうのに代弁させたいタイプ?) 殺伐とした現代の風景を基調に、その底流に通う人間の血の温度を、その可能性を見せる。「ハートランド」の字体がよく見るとホラー系。ディストピアでの人間の棲息風景、にも見える。

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