カストリ・エレジー 公演情報 劇団民藝「カストリ・エレジー」の観てきた!クチコミとコメント

  • 実演鑑賞

    満足度★★★★

    鐘下作品上演とあれば目の色変わり、「破戒」に続いて民藝観劇。初の鐘下戯曲と老舗劇団との繋ぎ手として演出シライケイタ。氏の作る舞台はいまいちピンと来ない所があるが(彼の思う「劇的」のポイントが自分のと少し違うようで)、新劇団へのある種の先入観は払拭する力強い舞台であった。
    冒頭、廃屋に逃げ込んだ二人が水筒の水のやりとり、やがて一方(阪本篤)が知能が人に劣る人物を形象していると判り、「二十日鼠と人間」の二人らしい台詞となる。「え?自分は民藝のカストリ・エレジーを観に来たのだっけ?別の公演に迷い込んだ訳では・・?」と一瞬記憶を巡らした。後で見れば本作はモーム作を下敷きにした作品とあり、納得したがそれほどに「二十日鼠」のやり取りが(作家的には意図的に)再現されていたという訳である。

    二人はある長屋に流れ着く。強突張りの大家と、長屋をしばしば訪れるその女房・・というあたりはどん底である(二十日鼠にその要素があったかは不明)。二人組に序盤で出会ったもう一人との間で共有される「秘密」が物語のポイント。守ろうとするものと、それを脅かす「外敵」という構図を、長屋の人間たちという群像が取り囲んでいる。大家の女房は新顔の彼らにも興味を持つ。旦那の嫉妬心に火がつけばヤバい。そして物語が進むにつれ首をのぞかせる不安(「二十日鼠」での不安要素でもある)がある。図体がでかく知的に弱い彼には一つの趣味(性癖)があって、それは手触りの良い動物への執着。だが撫でる内にその怪力で絞め殺してしまう。冒頭でも密かにポケットに入れていた鼠の事を相方に見つけられ、「出せ」「いやだ」のやりとり。出した鼠はすでに圧死していた。

    どん底からの借用部分は、長屋仲間の群像の形成に寄与しており、シベリアという渾名の者が、少し前まで大家女房と関係していた。過去形なのがミソで、心の穴を埋めに、(勿論シベリアの姿を探してもいるのだろうが)長屋を覗きに来ては男共への、あるいは人間への興味を無邪気に持つ。過去の人間である夫との生活から、未来を見たい人間としても形象している。

    鐘下氏は物語の舞台を敗戦直後のどこかに設定し、氏特有の人間同士の情と本心が激しくぶつかり合うドラマを書いた。が二十日鼠のラストに集約させるには、シンプルな方が良い感じもある。二人組にもう一人加わる浮浪者(実は金を隠し持っている)や、長屋の風景は敗戦後という世相の背景を与えていて、それは大きな要素であるが、人間の「自由」への渇望というテーマを凝縮して提示するなら「どん底」か「二十日鼠と人間」か、どちらかを選んだ方が良いのでは?という作家を愚弄するに等しい身も蓋もない感想が浮かんでも来た。「この作品でしか見られない」風景が見たかった、というのは正直な思いである。戯曲、演出どちらの要素に関わるかは分からないが。。

    ネタバレBOX

    ちなみに戯曲は本になっており、冒頭を読むと実に示唆的にわかりやすく二人の関係が描写されているのだが、舞台では図体の男が「後先考えずに行動してしまう」要素である「水を飲むな(うがいだけしろ)」という相方の制止を平然と無視して飲み干すくだりをのっけから演出では変えていて、「飲みたいから相方の制止にもかかわらず(ずるっこして)飲んだ」と描いた。五郎というその男の「らしさ」を掴むのに冒頭しばらく時間を要した(何なら辻褄は微妙に合ってない=戯曲に比して)原因が分かった気がしたが、演出がなぜそう変えたのか私には分からない。五郎は相方には決して逆らわない、依存している、だからこそ「俺だって一人で生きて行けるさ」と漏らす言葉の意味合いも見えて来ように・・と逆に疑問が湧く。
    だが、それは演出が戯曲の制約から解き放たれた舞台を構築するための努力の片鱗だったのかも・・?

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    2023/06/12 08:54

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