カストリ・エレジー 公演情報 カストリ・エレジー」の観てきた!クチコミ一覧

満足度の平均 4.3
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  • 実演鑑賞

    満足度★★★★

    鐘下作品上演とあれば目の色変わり、「破戒」に続いて民藝観劇。初の鐘下戯曲と老舗劇団との繋ぎ手として演出シライケイタ。氏の作る舞台はいまいちピンと来ない所があるが(彼の思う「劇的」のポイントが自分のと少し違うようで)、新劇団へのある種の先入観は払拭する力強い舞台であった。
    冒頭、廃屋に逃げ込んだ二人が水筒の水のやりとり、やがて一方(阪本篤)が知能が人に劣る人物を形象していると判り、「二十日鼠と人間」の二人らしい台詞となる。「え?自分は民藝のカストリ・エレジーを観に来たのだっけ?別の公演に迷い込んだ訳では・・?」と一瞬記憶を巡らした。後で見れば本作はモーム作を下敷きにした作品とあり、納得したがそれほどに「二十日鼠」のやり取りが(作家的には意図的に)再現されていたという訳である。

    二人はある長屋に流れ着く。強突張りの大家と、長屋をしばしば訪れるその女房・・というあたりはどん底である(二十日鼠にその要素があったかは不明)。二人組に序盤で出会ったもう一人との間で共有される「秘密」が物語のポイント。守ろうとするものと、それを脅かす「外敵」という構図を、長屋の人間たちという群像が取り囲んでいる。大家の女房は新顔の彼らにも興味を持つ。旦那の嫉妬心に火がつけばヤバい。そして物語が進むにつれ首をのぞかせる不安(「二十日鼠」での不安要素でもある)がある。図体がでかく知的に弱い彼には一つの趣味(性癖)があって、それは手触りの良い動物への執着。だが撫でる内にその怪力で絞め殺してしまう。冒頭でも密かにポケットに入れていた鼠の事を相方に見つけられ、「出せ」「いやだ」のやりとり。出した鼠はすでに圧死していた。

    どん底からの借用部分は、長屋仲間の群像の形成に寄与しており、シベリアという渾名の者が、少し前まで大家女房と関係していた。過去形なのがミソで、心の穴を埋めに、(勿論シベリアの姿を探してもいるのだろうが)長屋を覗きに来ては男共への、あるいは人間への興味を無邪気に持つ。過去の人間である夫との生活から、未来を見たい人間としても形象している。

    鐘下氏は物語の舞台を敗戦直後のどこかに設定し、氏特有の人間同士の情と本心が激しくぶつかり合うドラマを書いた。が二十日鼠のラストに集約させるには、シンプルな方が良い感じもある。二人組にもう一人加わる浮浪者(実は金を隠し持っている)や、長屋の風景は敗戦後という世相の背景を与えていて、それは大きな要素であるが、人間の「自由」への渇望というテーマを凝縮して提示するなら「どん底」か「二十日鼠と人間」か、どちらかを選んだ方が良いのでは?という作家を愚弄するに等しい身も蓋もない感想が浮かんでも来た。「この作品でしか見られない」風景が見たかった、というのは正直な思いである。戯曲、演出どちらの要素に関わるかは分からないが。。

    ネタバレBOX

    ちなみに戯曲は本になっており、冒頭を読むと実に示唆的にわかりやすく二人の関係が描写されているのだが、舞台では図体の男が「後先考えずに行動してしまう」要素である「水を飲むな(うがいだけしろ)」という相方の制止を平然と無視して飲み干すくだりをのっけから演出では変えていて、「飲みたいから相方の制止にもかかわらず(ずるっこして)飲んだ」と描いた。五郎というその男の「らしさ」を掴むのに冒頭しばらく時間を要した(何なら辻褄は微妙に合ってない=戯曲に比して)原因が分かった気がしたが、演出がなぜそう変えたのか私には分からない。五郎は相方には決して逆らわない、依存している、だからこそ「俺だって一人で生きて行けるさ」と漏らす言葉の意味合いも見えて来ように・・と逆に疑問が湧く。
    だが、それは演出が戯曲の制約から解き放たれた舞台を構築するための努力の片鱗だったのかも・・?
  • 実演鑑賞

    満足度★★★★

    全体的にオーソドックスな演技・演出の印象だが、水の音が絶えずしているのは興味深い。
    紀伊國屋サザンシアターは、収容数の割にはトイレが少なく休憩がある公演では休憩時に長蛇の列ができるし、夜公演ではエレベーターでしか降りられず順番待ちになるので、このホールにはなるべく行きたくない。

  • 実演鑑賞

    満足度★★★★★

    鑑賞日2023/05/29 (月) 13:30

    座席1階

    この作品を書いた鐘下辰男は、小劇場ブームだった1987年に「ガジラ」という劇団を立ち上げた。本作は94年の初演。演出のシライケイタは一世代後だが、鐘下の「門下生」だったという。アングラ劇にフィットする物語を、新劇の民藝がどう演じるのかが興味の一つだったが、脚本の面白さを損なうことなく演出しきったこの舞台、派手さはないがとてもよくまとまっていた。

    だが、この作品が下北沢の小劇場、例えばスズナリとかで上演されていたらどうだったかな、と妄想する。あるいは、野外のテント劇場だったらどうだろうか。どぶ川の橋の下にあるバラックが舞台で、それこそ台風の豪雨の場面もクライマックスへと続く重要なファクターだから、唐組や新宿梁山泊がやったらすごかっただろうな、とさらに妄想する。民藝もテント劇をやってみたらどうか。

    物語は終戦直後、焦土の東京で食うや食わずの底辺を必死で生きる復員兵や老人、そこを取り仕切るヤクザの夫婦ら。その中で主人公の二人はフィリピン戦線から帰ってきた戦友で、一人はやや知的に遅れがあるが優しい心の持ち主のゴローと、その相棒のケン。二人の秘密の夢は、小さな家を買って畑を耕し、動物好きのゴローがウサギを飼うこと。そんな果てなき夢がひょっとしたらかなうかもしれないというところで、物語は思わぬ方向に展開していく。
    ケンとゴローのささやかな絆が夢破れていく中で裂かれていく姿に、胸が締め付けられる。欲望むき出しの底辺の世界。そんな人間関係の中でのささやかな絆なのに、と。その破局的な結末を食い入るように見つめるしかない。

    やはり、これがテント劇場だったらという妄想に帰ってしまう。紀伊國屋サザンシアターという大きな舞台での演出は難しかっただろうと想像する。シライケイタのいつもの舞台から見ると少しマイルドな感じがしたのはそれも一因だったか。

    民藝のお客さんだから、高齢者は多かった。しかし、シライケイタの舞台でもあり、いつもはあまり見られない若い人も目立った。民藝の俳優たちもしっかり対応していたし、新劇も変わろうとしているのを肌で感じる。民藝には、劇団の歴史を大切にしながらもこのような作品をどんどんやってほしい。

    おもしろかった。ぜひ見てほしい!

    ネタバレBOX

    途中休憩15分込みの3時間だが、これはやはり、民藝バージョンだ。もっとコンパクトにして、一気にクライマックスへ行ってほしい。

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