恐怖が始まる
ワンツーワークス
劇場HOPE(東京都)
2013/05/24 (金) ~ 2013/06/04 (火)公演終了
がんばれ美香子「なにそのタイトルやめてよ」
製作委員会
新宿シアター・ミラクル(東京都)
2013/05/31 (金) ~ 2013/06/02 (日)公演終了
裏切る舞台、嫌いですか?
裏切る舞台は、嫌いですか?
これは、単なるコント短篇集ではない。
登場する人物に何かしらの悲劇性があり、男と女、生き方、科学といった、極めて重要なテーマと向き合っているからである。
一話目は、外国人住民やホスト風の役人のキャラクターが 群を抜いて 笑えた。いわば、典型的なコントといえる。
しかし、2話目以降、徐々に重要なテーマに傾斜した。
オムニバス形式を取らない舞台構成ではあるものの、短篇のコントを繋ぎ合わせただけではなく、一つの物語として完成された料理を提供している。
製作委員会は、デート観劇を勧める宣伝をした。なら、一度くらいは激アツアツな場面があってしかるべきだったと思う。場面がなかった理由を考えると、答えは第三話目に記してあった。
つまり、マイクやカメラ(=科学)に拾われない、その“人間の部分”は これからも不変であり続ける、ということだ。それを強調したかった。
意味は、舞台を観劇した者にしか解らないない。
作品の内容がコントだったので、ネタバレに漫才のネタを書いてみました。
蒲田行進曲
インソムニア
Geki地下Liberty(東京都)
2013/05/29 (水) ~ 2013/06/02 (日)公演終了
日活黄金期を思い起こさせる、「生き様」論
今作は、劇作家・つかこうへい原作のもと公開された、映画『蒲田行進曲』に脚色したストーリー構成である。
脚色は、『劇団チョコレートケーキ』の主宰であり、近年、重厚な社会派の舞台を造り続ける古川氏だ。
今でこそ、俳優が番宣目的でバラエティ番組に出演することは当たり前の時代ではあるが、石原裕次郎の全盛期と重なる“日活黄金期”
の頃は格別の存在であった。
“銀幕のパールライン”と称された、浅丘ルリ子。私は日活の撮影所が設営されていた調布市で『アカシヤの雨』を鑑賞したことがある。当時の日本人男性の平均身長は150センチ台、多くの国民は地方で暮らしていた。昭和初期まで、新潟県が東京都を押さえ、最大人口を有していた事実からも伺える。
ところが、『アカシヤの雨』に出演する高橋英樹に関しては身長180センチ程度あると見受けられ、主演の浅丘ルリ子も都会的な雰囲気が漂う。幾度となく、夜の銀座のシーンが流れる。
帝国劇場や宝塚歌劇団の舞台俳優と明らかに違うのは、“銀幕俳優”は観客にとって日常の生活とはかけ離れた存在だったという点ではないか。
仏・シャルル・ドゴールの大統領選選挙ポスターが国中の田舎にも貼られたように、映画は地方都市の人間も含めて鑑賞できるエンターテイメントだったからである。
舞台俳優が有楽町や、宝塚市を中心とした都市的なものであったのに対し、映画は占領下の沖縄を除き普遍的であり、鑑賞する人々も また庶民だった。
戦後、テレビ放送のアメリカホームドラマに接するなかで、日本人は米国式生活に喉から手を出してしまった。
同じように、多くの日本人が“銀幕俳優”の長身と、都会的な振る舞いに接し、時代のシンボルとして祭り上げた。日活が それを準備したのではないか、と思う。
続く‥
ロボティクス・ノーツ
トライフルエンターテインメント
こくみん共済 coop ホール/スペース・ゼロ(東京都)
2013/05/03 (金) ~ 2013/05/12 (日)公演終了
日本の「人ーロボット」の歴史を再認識
何より革新性があったのは、毎回ゲストを招き、出演者とロボット対決をしてしまうコーナーである。
通常、舞台というのは、脚本と演出家の頭が考えた“作品”を素直に上演してみせるものである。
舞台こそリアリズムであり、人間の対話だが、あくまでNHKの教育放送のように決められたことしなければならない。
その点でいえば,『ロボティックス•ノーツ』のロボット対決コーナーは ニコニコ動画の生放送ではないか。
ニコ生と表現したのは、出演者とゲストの対戦の模様を、小型カメラで撮影し、舞台のモニターで生中継するシステムだったからだ。
手ブレは生じてしまうし、編集や画面切り替え が不可であるところが ニコ生と表現できる。
私が観た回は、ゲストがアニメ声優の女性だった。
出演者も、「あの声優さん、かわいいわね!」とゲストに対する配慮を忘れない。
男性ゲストなら、「あの○○さん、かっこいいわね!」か。
ロボット対決の対戦内容は、第一回戦が向かい側に置いてある風船を先に刺す、第二回戦がロボットの背中に付けられた風船を刺す、だった。
第一回戦では出演者が、第二回戦ではゲストが、それぞれ風船の割れる音を劇場に響かせた。
決めの第三回戦は「ストーリーの進行上」(レフリー)と前置きされ、出演者が 見事?に駒を進める。
日本のロボット技術を語るうえで、鉄腕アトムは 避けて通ることのできない存在だろう。
手塚治虫が世に発表した国民的漫画キャラクター。今も生まれた場所とされる高田馬場の高架下にはアトムの笑顔がある。ちなみに御茶ノ水には、そうした記念物はない。
動力は原子力。その点を取り1970年代「平和利用という名の下、原子力発電の建設を誘導する作品」と原発建設反対派から非難を受けた歴史があるが、手塚治虫自身「原子力発電には反対です」と明言している。
アトムはトビウオ博士に開発された、原子力式の人間型ロボットだ。しかし、開発の経緯は、トビウオ博士の亡き子供を蘇らせるため、その子に似たロボットを作ることにあった。
つまり、鉄腕アトムは ロボットとしてではなく、人間として造られたのである。
2000年代、SONYは犬型ロボット•アイボを発売し、国内にブームが巻き起こった。
人間が到達できない地点へ、ロボットの機能を通し、到達する。
これが、世界のロボット開発の常識だろう。
しかし、この国はアイボを例に取れば解るように、“愛着”を重視する開発方針を貫いてきた。HONDAの二足歩行ロボットを考えてみてほしい。ランドセルを背負った、少年の姿をしている。
舞台に話を戻すと、種子島高校ロボット研究部に所属する主人公?の少女は自身で造り上げた巨大ロボットに対して、非常な“愛着”を持ち合わせていた。
JAXAが財政援助を申し込んだにもかかわらず拒絶、かつて姉が設計したオンボロ1号機に“愛着”を感じるからである。
そうした単なる機能性を超えた、“愛着”としてのロボットは、鉄腕アトムが原点だった。
ロボット対決が終了した後、巨大ロボットを表すのは人の身体とモニターであった。現代舞踏のキレで、身体の持つ ぬくもりで、日本のロボット開発の歴史性を示すパフォーマンス(作品)だった思う。
拡散も、一つのテーマだった。
Twitterや、LINEを通し、ある“つぶやき”が1分も経過せぬうちに世界中へ拡散する時代。パブリックな井戸端会議が、無数に展開されている。
そうした時代だからこそ、逆に何が本当か分からない。SNSは雑音が多いから、新聞やTVで言っていることを鵜呑みにする。昨年の総選挙は、その例だろう。
選挙期間中、Twitterで つぶやきリツイートされた政治ワードは『維新』が圧倒的だったのに、新聞、TVが世論調査結果を一斉に発表した直後、それは『自民』に交代した。
メディアが、“風”を吹き付けると、TwitterやLINEで 数倍の風速となり、世界に拡散する。
多種多様なサファリパークを提供するはずのSNSが、そのパブリックな井戸端会議的要素によって、ある単一化の方向に誘導されてしまう道具となりうる格好の例が昨年の総選挙だった。
舞台は、SNSが発展した社会を私たちに考えさせる一石だろう。他方、女子高生がロボットのプログラミングをする社会も、あながち間違いではない。バレーに励む少女がいれば、ロボットに打ち込む少女もいる。
IT化の社会は幅を広げることに繋がるわけなのだから、種子島高校ロボ研が私たちの目指す姿である。
(艸'∀゚*)lilΣ( @Д@∥;)i|l(゚∀゚三゚∀゚三゚∀゚)。+.。゚p(≧□×。)q)))゚。+。゚。+。(ご来場下さいまして、誠にありがとうございました!!!!!!!!!)
宗教劇団ピャー! !
新宿ゴールデン街劇場(東京都)
2013/05/08 (水) ~ 2013/05/13 (月)公演終了
『ピャー』は普通の若手劇団になるな
『ピャー』よ、君はどこへ向かおうとしているのか。
発足時からの中心メンバーの姿が消え、新たに多摩美大の演劇サークルメンバーら客演で陣を固めた。
確かに、今までが「生き方を変える強烈な演劇」だったのであり、その強烈さが抑えられても なお『ピャー』は日本の世界遺産候補である。
しかし、が、しかし、今回の舞台は、数々の前代未聞を築いてきた『ピャー』に相応しかったか。
塚本さんよ、あえて問おうじゃないの。
『ピャー』の精神世界が、防護ネットを被せられたまま、発揮できるのかいな?
1人の“わたし”が、自分を客観視するロードから抜けられない。
外国人に 米粒付けられ、巨大な生命体が襲来、 という極度な環境のために、色々な“わたし”が話す、そして殴りあう。
現代社会の、確実に存在している一部を見せつけられたぜ。ゴチャゴチャなようで、実は全体としては単一化が進行している。
プレトークでドラマトゥルク•野村政之さんの話が出ましたな。野村さんとはメールの やり取りしたことがあるが、社会の中の劇場の在り方を考えてる稀有な人だ。
宗教劇団ピャーは、社会に訴え掛けるのではなく、あるいは社会の一部を劇場に映し出すのではなく、もう、『ピャー』でいて。
二次元を一つのスペースで 演劇(や)ちゃって。
斜い人 (はすいひと)
ナイスコンプレックス
サンモールスタジオ(東京都)
2013/05/02 (木) ~ 2013/05/08 (水)公演終了
「捨て子問題」を解体し、社会と交わる舞台の確立
社会派の、テンポのよい、痛快な“ヒューマンドラマ”であった。
「前説」を名乗りながら舞台のストーリーテラーとして登場する男(もみあげ!)によれば、妊娠中絶反対の見方にたって描かれたという。
まず、初めに幕が上がり、目の前に拡がった景色が異様だった。
ホワイトカラーの髪をした女の子が、低い天井に 吊られる ブランコに乗り、何やら大声で“母親”なるものに語り掛けている。
「○○ですよね、 お母さん!」
手塚治虫の代表作である『鉄腕アトム』、トビウオ博士によりアトムが生まれる、まさに その実験室のような雰囲気であった。
ETV(NHK教育テレビ)から、テレビ朝日の某人気深夜バラエティ番組まで。
途中、地上波放送局の番組をモチーフとし、夫婦の関係、子育て、あるいは捨て子の関係者を番組に出演する当事者として招く、そんなコーナーがあった。
『観ている』時には理解できなかったが、その構成において、男女の問題ー捨て子という道筋を辿っている。つまり、このことは妊娠中絶反対の基本の描き方に則り、「捨て子」が 日本に存在してしまう「軽さ」を扱っていたと考えるのが普通だろう。
「ゆりかごポスト」は響きはよろしいが、道義的にも、社会通念上も 「捨て子」を行った親を責めないわけにはいかない。
「捨て子」は、
1経済的な事情
2義務教育段階での啓発不十分
3子育ての個人化
が要因として考えられるが、当事者以前の、行政が抱える課題だ。日本はEUと比べるとソーシャルセーフティが未発達なのは間違いない。
では、制度を整えれば「捨て子」は起こり得ないか。違う。
「前説」を名乗った男の伝えた内容を紹介したが、この舞台は客観的、現代的な表現でありながらも、妊娠中絶反対の考えに基づき描かれた作品だ。
妊娠中絶反対は、人の思想そのものである。アメリカの例が よく知られているとおり、民主党は妊娠中絶容認、共和党は妊娠中絶反対が党の基本スタンスである。
両党とも安全保障では重なる部分が多いのに、どうして ここまで 二分されるのか。
人の思想、要するに、生き方に直接的に結び付く、基盤の思想だからである。
日本には旧法の流れを汲む「母体保護法」が長らく存立するが、妊娠中絶を国が勧める悪法ではないか、と専門家の間で議論されてきた。
中絶を容認するか、反対するか、それはアメリカの州選挙の一大テーマになり得る。そうした、極めて大切なテーマである妊娠中絶問題を、戦後いつのまにか制定された旧法に身を任せた日本は 無思考の国だった。
妊娠中絶問題が生き方に直結する基盤の思想だとすれば、「捨て子」も同様に思想だろう。妊娠中絶は道義的に反対するのであって、「捨て子」も道義的にあってはならない。
国は、近年、妊娠検診に掛かる費用を自治体と合わせ全額負担するようシステムを変えた。「捨て子」対策の一環である。
その一方、「ゆりかご」に預けられた「赤ちゃん」の1人目は3歳の男児だった。もはや、国の制度ではなく、親の道義が 「捨て子」のほとんど全てで あることを証明している。
舞台の話に戻ろう。
劇場は、狭い。だが、客席の中央を 役者が幾度となく通り過ぎ、あえて幕を使って「造った舞台です。」を強調する姿は、劇場を社会の中に位置づけた姿であった。
「まだ、やってんだ、俺たちのこと」
かつて「捨て子」だった人々が、後ろの方から客席に囁く。舞台を社会の中のイベントとし、それに社会の当事者=「捨て子」が応える、二重の仕組みである。ドキュメンタリータッチだけが、社会派ではない。世の中を解体した上で、それを構成していた材木や瓦を 客席に届けるのも社会派の舞台だ。
踏切があがるとき
神奈川県演劇連盟
KAAT神奈川芸術劇場・大スタジオ(神奈川県)
2013/05/03 (金) ~ 2013/05/05 (日)公演終了
日本人の生き方を、70ー80年代を軸に再考察
「演劇の神奈川」を体感するには十分の舞台であった。
1970年代の国鉄は、国労のストライキにより多数の乗客に対し列車遅延の被害を与え、日本経済の生産性に障壁となっていた。
その様子は、朝日新聞に連載されていた70年代の『サザエさん』(作_長谷川町子)にも度々、登場する。
一方、グループ総帥•堤康次郎死後も「国土計画」を通じ堤家支配が続いた私鉄の西部鉄道は、ストライキが発生していない。
「国鉄一家」という造語がある。
国鉄は、現東京ヤクルトスワローズなどのプロ野球団を持ち、職員のためのオリエンテーションに努める さきがけ的な存在の事業団である。
たしかに国労が日本の労働運動に汲みした役割、または位置づけは過小評価すべきではないだろう。
しかし、「国鉄一家」の身内争いが、客人である乗客=一般大衆を困惑させ公益性の障壁となった事実も合わせて考えなければならないのではないか。
「昭和」から「平成」に掛け、人々のライフスタイルは変わった。
昭和のライフスタイルは1950年代の「さんちゃん農業」(じいちゃん、ばあちゃん、母ちゃん)、から「モーレツ社員」へ。福田赳夫が「自民党は農家の皆さんの味方です!」と息巻いてから減反政策がスタートし、「カイシャ的共同体」の中で生活する日本人=男性が急増した。
72年頃に入社した小泉の組合運動への専念というのは まさに 「モーレツ社員」「カイシャ的共同体」オモテ裏のうち、その裏側に位置したのである。
現在まで、公務員にストライキ権は付与されていない。
代わりに、内閣から独立した人事院があり、労働争議の仲介も行われる。
国労を含めた国鉄系労働組合、地方郵便局長系の全特、地方公務員の自治労等は、各々が大政党(自民党、日本社会党、民社党)の組織票であった。
こうした、冷戦集結前の公務員、国有事業団職員による“業界運動”が政治力を持った結果、社会全般の権利を向上させた面はあるが、たとえば全特を例に取れば 彼等は既得権益者であった。
日本国憲法に、公務員は国民の「公僕」と明記されている。だが、昭和の時代、そして平成を越えて今も自治労メンバーは「国」へ目を向ける。民営化された事業団の職員は現代でも法規上は特殊会社•社員の身分であり、霞ヶ関の中央省庁から庇護を得ることしか考えていないのである。
そして、平成のライフスタイル。
小泉は倒れた後の晩年、若い頃に張り切った登山を付き添われながら挑んだ。
しかし、それでも小泉は笑顔ではないことから、バブルが崩壊し“生き方”を暗中模索した90年代の時代性と見て取れる。決して、肯定しているわけではない。
喋々喃々
劇団 CAT MINT
ブディストホール(東京都)
2013/04/27 (土) ~ 2013/04/29 (月)公演終了
「見て 面白い」を追求する、現代版「ねずみ」
落語は、歌舞伎から派生した日本の伝統芸能である。
歌舞伎を1人で演じる試みが、座布団に座り、使える小物は扇子と手拭いだけ、後は噺家の力量のみの「寄席」という世界を生んだ。
2012年、桂小三治師匠の落語を聴きにいったことがあった。
「生まれはUSA、えー山口県宇佐市」の紹介を 冒頭に盛り込み、客の心を掴む。
「落語はむかし、花形の歌舞伎演目の後にやっていたんですね。落語をやるのは暗くなってから。灯籠の芯をパチンとするのも噺家の役目だった。芯を打つ、芯、打ち、そこから『真打ち』という言葉が出来たんですよ。だから当て字ですね」
落語は、噺家のしゃべり、振る舞い、雰囲気を観客が具体的に構成する、極めて高度な伝統芸能といえる。
それと対比できるのが、映画である。『スパイダーマン』はアクションシーンの人間の顔にもフルCGを使用し、製作者サイドが具体化された画を提供する。
ニコニコ動画を運営するニワンゴの執行役員を務める片岡義郎氏は、具体的=完成されたジャンルとしての映画と、観客によって脳内再構成されるジャンルとしてのアニメーション、並びに舞台を対比する考えを主張されている。
落語と演劇、この二つには途方もないギャップがあることは間違いない。だが、片岡氏が主張するジャンルの対比によれば、明らかに同一のジャンルではないか。
桂三四郎 師匠の噺=「ねずみ 」 は、関西弁がいい味を出す、そっと耳に入る聴きやすい内容だった。「ねずみ屋」の質素な屋内が目に浮かぶ。
31歳だそうだが、端正な顔立ちをされているので、現代的なビジュアルである。
それが、落語家も今、同じときを生き抜く人間なのだという事実を気付かせてくれる。
※ 続きは、バレてないネタバレへ。
緋色の町
★☆北区AKT STAGE
北とぴあ ペガサスホール(東京都)
2013/04/26 (金) ~ 2013/04/29 (月)公演終了
つかこうへい 原発支配論ーフクシマ+オキナワ
北区つかこうへい劇団の後継団体として、東京都北区を中心に上演を続ける北区AKT STAGE 。
今回は架空の王国「福の国」を巡る、金=富と悪霊=代償のドラマである。
さすが、劇作家•つかこうへいのDNAを受け継ぐ劇団だけあり、必死のコメディやダンス•パフォーマンスが散りばめられるものの、核の部分は政治に翻弄される人間ドラマであった。
「金の鉱山が発見され この国は豊かになったが、その悪霊で死んでいる人がいる」
「それでも、金が見つからなければ、私たち は飢えていただろう。振り返ってはダメ」
この『金』を、『原発』に置き換えたら どうだろう。いや、むしろ、制作者の意図において、このことは 物語の前段階として描かれている。
『福の国』は、『福島県』か。
日本で原子力発電が進んだのは1970年代、50年代後半から中曽根康弘元首相らが軍事用の転化を視野にいれ積極的に動いた結果だった。
中曽根氏は戦前の内務省官僚出身である。戦後、日本民主党から出馬し、引退まで対外的には親米派、国内的には風見鶏のごとく政局を読む政治家として振舞った。
中央が金を出し、地方が潤う。
地方が犠牲になり、中央が成り立つ。
その構造は、1938年の戦時下体制前でも、現代の日本社会でも変わっていない。
戦時下体制以前、初の対外全面戦争となった日清戦争時、戦地に送られたのは地方の農家、特に次男、三男であった。
内務官僚の中曽根氏が、そうした中央地方関係を理解していないはずがない。当時の内務省は現在の総務省とは規模が違う。
日本で初めて、商業用の原発が建設されたのが福島第一原発だった。明治時代、福島県は 喜多方事件(1882年)などが頻発する反中央が際立つ地域であった。
戦時下を経ても、そうした姿勢は同じまま。
中曽根氏を中心とする原発勢力の政治家が初の商業原発立地地域を福島県の地に設定したのは、原子力の軍事用転化のみならず、中央に従順な地域へ手なづけることにあったのではないか。
東京電力は元々、日本発送電(1939年設立)が1951年に分離し継承(再)された会社だ。
九州電力、関西電力など、9の地域電力会社へ細かく地域ごとに分社化した。(1社別形態)
では、なぜ、東北地方の福島県なのにもかかわらず、下半分は東京電力の管轄となったのか。
別に福島県の浜通りと言われる地域が反中央の傾向が際立っていたわけではないが、原発建設が国会で議論される前に このような「線引き」がなされたということは、やはり中央地方関係の政治的な意味合いがあったのではないかと思う。
アフリカの地図は旧宗主国が話し合い決めた。異様な国境線をしており、ウガンダやスーダンなどで民族単位の紛争が生まれる。
福島県の電力会社管轄区域も、政治的な理由で決められたと考えるのが自然だ。
中曽根氏を中心とする原発勢力は、電源三法を通過させ、電源立地地域対策交付金の名の下(制度変更あり)、1974年以降、福島県の双葉町などへ多額の金を与えた。
福島県全体の交付実績は、累計2969億円にのぼる。県内のGDP76669億円(2008年実績)に比べると低いかもしれないが、全て電気利用者の負担だ。
私たちが普段の生活の中で電気を使う その電気代からも原発用の税金が拠出されている。震災前のデータで、電源利用対策として1kWhあたり
18.5銭を、電源立地対策として1kWhあたり19.5銭を負担。また、電源開発促進税として1000kWhあたり375円(販売電気)が掛かる。
目的は、「発電用施設周辺地域整備法の規定に基づく交付金の交付発電用施設の設置及び運転の円滑化に資するための財政上の措置」と説明している。
「運転の円滑化」とは何を指すのか。公共施設を建てることで、反対派住民を町内から退けること(少数派にする)を意味しないか。
以上、福島県が発表している「福島県における電源立地地域別対策交付金等にかんする資料」に基づき、紹介した。
日本には停止中の機も含めると、九州電力から北海道電力まで全国に54機の原発が設置されている。世界第三位の設置数だ。
だが、沖縄電力、つまり沖縄県には原発が設置されてはいない。
通常、原発は運搬や冷却システム等の理由から海辺の地域に建設される。当然ながら福島第一原発も そうだし、御前崎市の浜岡原発も 海辺である。
では、四方を海に囲まれた沖縄本島に原発がないのは、どうしてか。
答えは、米軍基地が 土地の 20%を占めるからだ。
中国の移動式短距離ミサイルは、台湾を常に狙っている。この問題を巡り、1990年代に台湾海峡の危機が発生した。
地図を見てみれば、少し右にそれると沖縄本島が そこにある。米軍がグアムに基地を移設したのも、中国の短距離ミサイルの精度、飛行距離が伸びたことが要因だと、拓殖大学教授の森本毅元防衛相は考察している。
もし、沖縄に辺野古原発が あり、ミサイルで破壊された場合、沖縄の米軍は壊滅的な打撃を被る。何より、数千の兵士が被曝してしまう。
米国は、このような事態だけな避けなければならないと考えている。だから、沖縄には原発は造れない。
原発が全国に54機も建設された表面上の大きな理由が、CO2を大量に排出する石炭や石油などの火力発電に代わり原子力エネルギーへ代替することで、『クリーンなエネルギー』を進めていこう、というものだった。米国のオバマ大統領も、基本的には そうした考えだ。
では、沖縄電力の発電割合は どうなっているか。
石炭 76%
石油 22%
新エネ 2%
(2011年 実績 沖縄電力HP)
透明な海が汚れてしまいそうな、CO2排出のオンパレードである。
原子力発電、ダムによる水力発電が可能な他の電力会社に比べると、非常に環境に不適応だ。
8年後に液化天然ガスを29%まで増やすスケジュールを公表しているものの、尖閣諸島の行方によってはガス田開発が座礁し、数字を達成できないことも考えられる。
先に見てきたように、原発は中曽根康弘元首相をリーダーとする原発勢力が国策として進めてきた。
であれば、借りに沖縄電力に電力不足が生じなかったとしても、中央地方関係を考慮すると建設の旗を上げるのが普通である。
しかも、沖縄県は地震が圧倒的に少ない。IT企業が集まり、地震保険は県民にとってポピュラーではない。
一方、福島第一原発の電源喪失は、津波だけではなく、地震によるものではないか、という疑いも出てきている。
川内博史元衆院国土交通委員長は、今年の3月14日、28日の二回にわたり福島第一原発の屋内に立ち入った。(東京新聞 2013年4月11日)
東電関係者以外で屋内に入るのは、初めてのケースだった。
首相、大臣、評論家が施設付近に入ったが、屋内は難しいのだ。
なぜか。川内氏は11mSvを被曝した。パイロットやキャビンアテンダントら飛行機従事者が年間に受ける被曝量3mSvをはるかに超す。放射線の被曝は、一時的な方が身体にダメージを与える。
被曝を顧みず、屋内に立ち入った川内氏が「地震の破損で電源が喪失し、循環 冷却ポンプが作動しなくなった可能性」を上げた。これは極めて重い証言である。
震度6強で、原発が水素爆発を起こし放射能を放出したレベル7の事故=チェルノブイリ級(国際原子力委員会判定)が 発生したなら。南海トラフトの3プレート同時大地震が襲う確率は高い。再稼働など言語道断である。
地震頻発地域と、地震の少ない地域では、どちらが原発に適してるか、という問いには原発保持派も含め後者だと回答するだろう。
であるなら、日本では最も地震が少なく海に浮かぶ沖縄本島に原発がないのは、どうしてか。オイルショック前に等しい沖縄電力の電力供給の構成をみれば、原発を建設する方が普通だ。
だが、土地の20%を占める米軍基地を放射能からガードするために、原発保持派の彼等は そこに建てようとは決してしない。
原発は、既得権益グループが明治以降の中央地方関係を保持するためのシステムという一面もある。
だから、最初の原発建設地は歴史的に中央と距離を置く、福島県だった。
原発がない沖縄県では電源対策費を与えることができない。
では、既得権益グループは どのようにして、沖縄県の既得権益層を含め住民に『金』をやるか。
沖縄振興費である。
2000年の省庁再編、北海道開発庁は国土交通省の北海道開発局に吸収、及び縮小された。ところが、沖縄開発庁は内閣府の内部部局=沖縄振興局として さらに中央へと進出した。
最近では一部国会議員から、「沖縄バカンス特区」が提唱されている。いずれにしても、県民や首長、県会議員の考えを通りこし、「中央が地方=沖縄になにかしてやろう」といった思考だ。
福島にしろ、沖縄にしろ、中央が『金』を与えるのは、反中央的な機運を抑え込むためである。
沖縄県では辺野古移設反対で保守系の仲井真知事を含め県民が声を一つにしている。中央は困惑だ。
しかし、福島県の場合、とくに第一、第二の原発が立地する浜通りは 自民党が 比較的だが 強い保守地盤である。明治以降、喜多方事件にみられるような独立主義の地域性は失い、典型的な地方県になった。
原発に警鐘を鳴らした双葉町長は、震災後、町議会から不信任案を可決させられた。非原発派の首長は、県民から、議会から、他 色々な手順で政治生命を追われている。
福島県に限っては、中曽根氏らが意図した中央地方関係の強化が うまくいっていたのではないか。
原発の最終廃棄物処理の誘致先は、青森県六ヶ所村である。(建設中)中央が劣化ウランの一時保管先を求めているのは事実だろう。だが、その地域=青森県を支配する手段でもあるのではないか。
それぞれの地域が自立し、地域のことは地域で決めることが基本である。他方、公選されたはずの首長さえ、既得権益グループに追いやられる歴史がある。
どうすれば いいのか。
静かに抵抗したうえで、女性や子供に上から目線なのは承知だが教育しなければならい。
既得権益グループは女性、子供にターゲットを絞り、行政やメディアをフルに使い 国策の同意者とするケースが見受けらる。
であれば、市民団体やNPOが政治と関わりの薄い女性、子供を対象に『連帯』を呼び掛けるのである。
沖縄県の平和運動や、初期の脱原発は まさしく世代や性別を超えた『連帯』があった。
それでしか、利権で結び付く『共同体』に地方の人々が抗し、また交渉することなどできまい。
HIKOBAE
HIKOBAE実行委員会
天王洲 銀河劇場(東京都)
2013/04/20 (土) ~ 2013/04/21 (日)公演終了
相馬から世界へ。国境なき演劇
福島県の人々は今、放射線に対する意識が鈍くなっている。
3.11後、原発維持派の人々は「放射能に対する危機を煽ってる」「インドやイランなど、放射線が高い地域に住む住民に健康被害の報告がない」等の論拠により、脱原発を批判してきた。
では、3.11以前は放射線について どういった問題が提起されていたか。
欧米路線を飛行する国際線の航空機従事者(パイロット、キャビンアテンダントなど)は、年間3mvsを被曝すること明らかになっている。他方、妊娠中の女性が受け差し支えないとされる被曝量が2mvsである。
もし、女性パイロットで、しかも妊娠が発覚するのが遅かったら限度量を超えてしまう可能性もある。CT等の妊娠検査による被曝を考慮すると、人体に影響が生じるかは解らないが基準は大幅に超す。
ここで述べたいのは、この安全基準は航空機従事者の労働基準法に則り国が定めた基準であるという点だ。
3.11前、もっと航空機従事者の被曝を抑えなければならないのでは、と専門家の間で議論が巻き起こり、朝日新聞にも特集が掲載された。
3.11後、つまり今現在、国は福島第一原発が位置する双葉町民、SPEEDにおいて最も過大な放射能汚染が予測された飯館村に住む県民の被曝上限を20mvsとしている。国際原子力委員会は原発従事者や航空機従事者を除き、人が年間に受ける放射線の上限を1mvsと定めていた。
ただでさえ、原発が水素爆発する以前から放射線の影響を抑える方向で社会が動いていたのにもかかわらず、あっさり20倍オーバー。
今年の3月13日、28日に川内博史前衆院議員が東電関係者以外で初めて福島第一原発の屋内に入った。(東京新聞 『こちら特報部デスク』4月11日付 )
その取材中、川内氏が被曝した量が11mvs。年間と、一時的な被曝では人体に対する影響に違いはあるものの、原発に入った人間の2倍が妊婦や子供を含めた『安全基準』とされる。
内閣の原子力担当の参与が泣きながら辞任するのもうなづける。
この基準が事故当時、原発から離れていた日本人に適応されるなら まだ 理解できる。ところが、元々 水素爆発の風向きにより被曝量が多い(20mvs超す住民多数報告)のにもかかわらず、飯館村の人は不安を抱えながら住み続けなければならない。コンクリートの隙間にはセシウムが溜まり、空気中の放射能濃度は近隣県を下回ったことはない。避難区域外の大半の県民が事故後ずっと居続けたのは、避難区域の住民に一律に支給される一人あたり月10万円の補償金が貰えないからだ。
今も、原発事故が収束したわけではないし、汚染水の流出は水に流せない課題である。原発立地地域は従来から放射線が横須賀の海軍基地の次に高い。
政府は移転費用の増大を恐れ、双葉町民に将来戻れるかのようなカモフラージュをする。飯館村の住民には補償金を渡したくないから、国際的に間違った安全基準を設けるのだ。
だが、福島県民は、1政府の安全説明、2経済復興、3地域コミュニティの一体感への切望、によって
放射能に対する危機感が和らいでいるのが実情だ。
そこで、あえて今回の舞台•相馬市ではなく、双葉町民を主人公とし、放射能被害を防いだ上で、これからもコミュニティを維持しながら生活するための私なりの構想を提示したい。キーワードは、昭和の思い出•団地である。
団長を主題のテーマに捉え、それが3.11に繋がる形にしたい。
住宅団地は、戦後の日本人にとって目指すべき欧米式生活のショーケースだった。
八千代団地…ひばりヶ丘団地…そして多摩ニュータウン。次々と建設された、その五層縦長の鉄筋コンクリート(多摩ニュータウンなど70年代以降の団地は一部高層棟)は、新婚のカップルが 都市的な生活をおくるための、新たなステータスになった。
数千世帯の住民を束ねる自治組織が生まれ、外では行政や企業に物申す連合体となり、内では 夏祭りなどの催しを積極的に行った。その巨大な建造物には、昭和10年世代を中心とする、巨大なコミュニティが形成され、選挙などにも一定の影響力を及ぼした。
ベストセラー『団地の空間政治学』(NHKブックス)『レッドアローとスターハウス』(新潮社)の著者であり明治学院大学政治学部教授・原武史氏の講義を聴いたことがあるが、『団地の空間政治学』『レッドアローとスターハウス』等の著作からも住宅団地が いかに戦後日本の政治を形作っていたか、が よく分かる。
開発企業体、大手ゼネコン、公団(都市基盤整備公団及び地域振興整備公団)、建設省は、戦後の経済成長に一定の功績がある。また、人口の増加が著しいなかで、住宅供給不足の解消にも役立った。役目を終えた旧公団は、現UR都市再生機構となっている。
しかし、70年代の『サザエさん』でさえ、20年後には出生率が1%台前半になることが紹介されている。現在の日本の現実は、多摩ニュータウンを せっせと作っている頃から分かっていた。
出生率が低くなるということは、高齢者の割合が高まることを意味する。逆ピラミッドと呼ばれる構造だ。
住宅団地が いずれ健康な老人ホームと化することは、住む人々も、把握できた。それなのに、都心のアクセスを向上させることもなく、周辺に産業を整備することもなかった結果、こんな現実に至る。
表参道ヒルズは建築家・安藤忠雄氏が設計し、2006年にオープンした商業施設だ。アパートを一部残した上で、全面的に建て替えた建築物だった。
住宅団地とアパートの違いはあるが、もはや『団地』とは土地を有効活用できえず、商業施設や高層マンションに変わるべき障害物のような存在だろう。
人々のなかで、コミュニティに対する意識が高まっている。それは、東京臨海地域の超高層マンションの住民も、同様。だが、コミュニティに関わりたい意思とは反対に、実際に関わっている住民は圧倒的に少なかった。(防災とコミュニティに対する住民意識に関する研究 その1 超高層集合住宅居住者への2010年度の意識調査 小島隆矢 早稲田大学人間科学学術院 若林直子 (株)生活環境工房あくと )
『団地』の文化性が瓦礫にならない方法があるとすれば、私は3.11後求められている社会的コミュニティ機能だと思う。
先の『団地の空間政治学』で紹介されていたように、集合団地では お祭り などを通してコミュニティを形成していた。また、当時でいう婦人達がマンモス学校の教育に問題意識を持ち、共同して勉強会を立ち上げるケースもあった。
地域の一軒家、商店街が軒を連ねる従来のコミュニティだと、人間のコネが大切な要素だ。ところが団地の場合、コンクリートの壁で各家庭に強力なプライバシーが与えられたことから、より社会的、普遍的なコミュニティが存在したといえるのかもしれない。
あるいは、超高層マンションだと、コミュニティ自体が機能しないのはもちろん、最上階と一階の住民では格差が生じ、平等の観点から外れる側面も見逃せない。
以上、集合団地の持つ、社会的コミュニティは、今の日本に要求されるべき社会的コミュニティとマッチングしている、ではないか。
震災後、最大の避難所となったビックパレットふくしまで陣頭指揮を取った、福島大学特任准教授・天野和彦氏。天野氏は、原発の避難区域圏内で長期避難をしなければならない双葉町などの自治体を、町ごと別の場所に移転するセカンドハウス プランを復興庁へ提唱している。
一軒家、公共施設を一つ一つ建設するのは莫大な予算が要るので、私は戦後の団地式に『双葉団地』なるものを福島市や郡山市、いわき市に建設するのも案として成立するのではないかとも思う。町長と一緒に住民ごと避難した人が1500人超。世帯数に換算すれば、このような規模のマンション地帯など、東京近郊なら溢れるほどある。
多摩ニュータウンへ移転すれば、ゴーストタウン問題も消えるに違いない。横須賀市田浦地域は、一軒家の空き家率が1割を超えるゴーストタウンとして一部で名が知られる。被災者に仮設住宅を新たに建設し提供する一方、こうした宅地の種別におさまらぬ日本全国の課題は 放置したままでいいのだろうか。
双葉町民のコミュニティを第一に考え、日本の少子高齢化に伴う3.11以前から続く社会構造に適応するのが、私の構想だ。
TheStoneAgeヘンドリックス「おおきないし」たくさんのご来場ありがとうございました!
The Stone Age ヘンドリックス
サンモールスタジオ(東京都)
2013/04/09 (火) ~ 2013/04/14 (日)公演終了
目に見えないから愛おしい。そして、悲しい。
とにかく何も考えずに ひたすら笑える、関西流の“笑い”。(新喜劇文化)
3.11の津波や原発問題までも題材とした、その“ドラマ性”。
短い舞台の中に両者が見事に組み込まれ、舞台の持つ力を改めて感じさられた。
しかし、日曜日の お昼公演という最大の集客タイムなのにもかかわらず、空席が目立つ。
夜の千秋楽に関しては、「倒れそうなくらい」チケットが余っているという。なぜか。
演劇は地域に囚われず上演できるエンターテイメントである。翻訳さえ表示されれば、外国の演者•演出•技術スタッフ(経済的な事情から日本人スタッフも登用される)のまま上演できる。
そうした海外もの のケースでは、劇場や主催者側が宣伝を含めバックアップする。
だが、一部を除く大半の国内劇団だと、たとえば東京をホームとする劇団が関西圏で上演する場合、そうしたバックアップ体制も乏しいため、やはり上演回数は1/2もしくは1/3程度に削減せざるを得ない。人的ネットワークも形成されにくい。
逆も また しかり 、関西の劇団が東京に来て上演する場合も、同じことがいえる。
6日間のスケジュールが果たして妥当だったか、どうなのだろう。
【公演終了】喜劇、泡沫(うたかた)煎餅【次回は10月です】
映像・舞台企画集団ハルベリー
シアター711(東京都)
2013/04/03 (水) ~ 2013/04/07 (日)公演終了
僕たちの町は1ヶ月後ダムに沈む *TypeC*
ソラリネ。
上野ストアハウス(東京都)
2013/03/27 (水) ~ 2013/03/31 (日)公演終了
ダムが生む壁。
ダム建設派「ダムは、治水や飲料、生活用水、電力の需給を考えると不可欠といってよい。水力発電の発電量は現在、約8%を占めています。火力に比べると低いですが、再生可能エネルギーよりは比率がある。原発事故でエネルギー事情がひっ迫する中、この数字の持つ意味は大きい」
ダム反対派「石炭や天然ガスに基づく火力発電に比べると、エネルギーの代替機能は劣る。ダムを建設するには数十年という時間が掛かるのです。
群馬県の八ッ場ダムだって、建設開始から四半世紀以上が経っている。
つまり、8%が今後、拡大していくことは考えられません」
ダム建設派「たしかに水力発電の急拡大は 非現実的だが、発電方法としてはクリーンエネルギーです。火力より二酸化炭素を排出せず、電力の使用が疎らな夜間に水を揚げることが可能、まさに日本の環境やエネルギー事情にマッチングした電力といえるのではないでしょうか?」
ダム反対派「環境省は水力発電(河川を含む)を自然エネルギーに指定していません。
個人的にも、ダム建設に伴う河川の整備は生態系を壊しますから、自然環境にマイナスだと思いますが」
住民「一旦、ダム建設が決定したなら、急いで突貫工事して頂きたい。電力とか どうでもいいんで」
ダム建設派「八ッ場ダムは、関東一帯の治水を保持するため早く建設しなければ。2009年10月に国交相が八ッ場ダムの建設中断を発表した際も、一都六県の知事が一丸となって反対しましたね。
今は国交省、県、地元住民、建設会社が一丸となり、関東の水災害を予防する八ッ場ダムの建設を進めています」
ダム反対派「ダムに沈む街は観光地という資源を失うんですよ。
自治体の観光課はダム湖畔を全面に打ち出しますが、やっぱり琵琶湖とか猪苗代湖、芦ノ湖には負けますね。
コンクリートでせき止めた、人工の大池と変わらないでしょ。
治水も 大事ですが、トータルで考えると地元にとっては経済的マイナスです。ダム建設にインセンティブが生じるなら、全国の村や町が『沈めて下さい』と懇願するはず。
退去金や建設費を合計した場合、八ッ場ダムなどの大型ダムの総経費は一兆円を超します。これ、税金ですよ?いいんですか?」
ダム建設派「ケインズ経済学には否定的な見解もありますが、穴を掘って埋めるだけでも、経済価値は あるんです。
田中康夫知事の長野県は、脱ダム宣言で生活が苦しかった。ダムを逆さまから読むと、ムダなのだといいます。
でも、そういう公共工事削減を強行して最も削れたのは県民の豊かさですよ」
ダム反対派「某政党は2009年の総選挙時、『コンクリートから人へ。』を選挙コピーとした。
ところが、政権交代後しばらくしてから建設団体の幹部が馬淵国交副大臣の待つ大臣室のドアを叩き、あっけなく そのコピーは白紙となりました。
田中康夫知事が二期目を目指した県知事戦で自公が推薦する候補に大差を付けられ落選したのは、豊かさを削られた県民より建設団体の組織票に負けたからではない
か。県知事の二期目は圧倒的に有利です」
地元住民「私たちが町長を選んでも、ダムの建設には 関係ありません。結局は、基礎的自治体というんですか、そう呼ばれる単位の行政リーダーか、県知事しか 国と交渉する力はないんです」
ダム建設派「ダムに沈む街は過疎化が深刻な地域が ほとんど です。
夕張市のような財政破綻を避け、住民の生活インフラを向上させることが住民、ひいては地域のためになるんですよ。
国や県が設備の整った代替地を提供し、補填費用を払い、ダム湖畔の観光地まで出来る。
八ッ場ダムの反対派の皆さんが次から次へ建設に手を上げてくださってる背景は、八ッ場地域の過疎化という現実があるのだ思います」
ダム反対派「ダム建設で街が沈んだら、町民は散り散りになる。
過疎化どころではなく、コミュニティの破壊ですよ。
『虹色ホタル』(東映アニメーション 2012)という映画は ご覧に なったことはあるでしょうか?ダムに沈む村を描いた、ファンタジー作品です。
ダムが沈む、それは地域の 人コミュニティ、伝統文化、お祭り、風習、自然を水に沈めること。
たとえ住民の半数が代替地に移転したとしても、日本から一つの文化地帯が消えてしまうことを意味します」
ダム建設派「代替地に郷土センターを造ったり、歴史的建造物の移転を行っている。
街のコミュニティが滅んでしまうこともありますが、代替地などは番地に配慮しています」
地元住民「町が激しく対立する。ダム建設の前に、話が来た時点からコミュニティは破壊されますよ」
円窓に惑う向こうは蒼天へ
蒼い電波塔の会
武蔵野スイングホール (東京都)
2013/03/27 (水) ~ 2013/03/31 (日)公演終了
平塚らいてう から 考える。
率直に、いかがでしたか?
「作・演出は、100年前に始まった女性の権利運動を通し、日本人を解き明かしたいのだといいます。
結局、男と女の関係は そう変わらないし、福島瑞穂参院議員のような事実婚を続ける新しい女は存在する。
大正時代というシチュエーションながら月9のテレビドラマと大差ない人物達だったのは、そういう人間の普遍性ではないかと思いますね」
平塚らいてう については?
「女性の権利運動の上で欠かせない人です。実際、困ったときに座禅を 組んだのかは知らないが
(笑)
ただ、男女同権運動ではなく、女性の権利拡張を目的としたことは注意しなければなりませんね。
例えば、つい最近まで労災法においては等級判定などで女性の方が優遇されていました。
『男女平等』から逸脱した憲法違反という判断の下、国会で改正され現在に至っています。
上野鶴子さん などは女性の権利拡張を『グローバリズムだ』と言っていますが、ただ権利を主張するだけでは『ナショナリズム』です」
若干、女性の権利拡張に否定的ですね。
「決して そうじゃない。
日本の国会議員比率は先進国 最下位だよね。
韓国では比例区において男女1名ずつ記載する義務があるし、アフリカのルワンダのような新興国だと国会議員の男女比が半数となるよう義務付けている。
ニュージーランドの場合、男女比とは関係ないが、少数民族のマオリ人が下院議長を歴任したんです。
世界中の国会議員の流れが女性へ、少数民族へ です。
ところがチルドレン現象でも起きない限り女性議員が1割に満たない日本は、民主主義が機能した結果なのか疑いたくなるくらい異常。
もし家長的な土壌(世襲)から女性が不利ならば、変えなければならないと考えますよ。まあ、TBSのディレクターだった小渕優子さんが あっという間に大臣に就任したのも、?ですが」
日本の女性 が 立候補しないのも要因では?
「この国では、立候補するにも壁があり過ぎる。
供託金300万円に、事務所費、人件費、街宣車のレンタル代、チラシの印刷代を負担しなければならない。
1990年代の政治改革基本法で争う時期、自民党内若手改革派グループが算出したところ、中選挙区制に基づく選挙費用は1億円を越えた。
経営者か弁護士か政治団体メンバーか、はたまた党から支援を受けた候補でなければ 選挙費用を捻出することは極めて困難でしょう。
世襲そのものが家父長制ですから、女性は男性に比べると党の公認を受ける機会が少ないのです」
では、やはり立候補の制限に問題があると。
「大きいが、根本的な問題ではありません。
この前、御茶ノ水の明治大学中央図書館で時事通信社刊・政治概要の世論調査データブックを発見しました。で、僕は1970、80年代の世論調査をサラッと読んだんですが、当時 男性の無党派が2割台だったのに対し、女性は4割台だった。保革対立の時代です。
また、革新政党の支持率も男性に比べ女性が激減。かろうじて自民党は3割〜4割と 似たり寄ったりでしたが」
ほう。
「私の答えは日本女性の非ポリティカリル性です。
2009年に自民党から政権交代があった際、民主党へ元々弱かった50代以降の女性の支持が増えました。朝日新聞と東大の共同世論調査で判明しています。
無党派、何となく与党を支持する、これが日本女性の政治姿勢です。
国会議員の比率が低いのも、こうした政治姿勢が関与している、と考えるのが自然でしょう」
若者と女性は無党派層が多いですね。だからこそ、平塚らいてう の運動は評価されてしかるべきです。
「そうだね。
女性の権利運動の欠陥を指摘しておくと、敵対する男社会の上層部が男性の少数であるという意識が低い点です。東電の孫請け企業から徴収された原発の作業員は全員男性です。これからの女性運動は 男だ女 だ という二項対立を越えたものでなければならない」
永遠の果て果て
にびいろレシピ
シアター711(東京都)
2013/03/28 (木) ~ 2013/03/31 (日)公演終了
突き詰めないソフィー
A「要するに『ソフィーの世界』だ。
童話で描かれる世界に住む人々と、この現実に生きる人々。
テーマは、“私は誰なのか”ということに尽きる」
B「ファンタジーながら、モクモクと煙を焚き、イリュージョリニックな雰囲気を出す照明ではなかった。むしろ、カーテンに映し出す夕陽は 舞台の会話劇を堅実なものとしている」
A「シチュエーションとしては、ずうっと室内。ところが舞台のセット自体はカーテンの部分だけ削られた白壁と、椅子のみだ。そうした、シンプルなセットだからこそ、晴天や夕陽の輝き、夜の寒さを照明によって映し出すことが可能となるのかもしれない」
B「現実の世界における時代は いつなのか、疑問だ。
中央病院やパイ研(円周率研究会)などの名称から考えると、21世紀だと言える。
いや、衣装並びに家の設定から考えると、童話の世界と同じ 産業革命以前の世界とも言える」
A「時代性が正確に分からないのは、服装がポイントだ。登場人物は いずれの世界に存在する際も、同じ く アンデルセン風の衣装だった。
狙いがあれば別だが、兄妹の衣装については工夫ができたのではないか。
むしろ、“書き足し”により童話の世界と一体となっているのが鍵なのかもしれないが」
B「牌研の女性(現実)と、先生に噛み付いた女の子(童話)は、同一人物なのかも気になる。もう少し掘り下げてくれれば、より概要を理解できただろう。ラストの絡まる展開も、さらに誇張できなかったか」
A「『ソフィーの世界』は、紛れもない名作。人が持つ根本的な疑問を問うてる。
本作がソフィーへのオマージュかは知らないが、名作感が溢れ出ていた。これだけでも、誇るべき舞台である」
ハルメリ2013
世の中と演劇するオフィスプロジェクトM
座・高円寺1(東京都)
2013/03/23 (土) ~ 2013/03/27 (水)公演終了
『ハルメリ』現代論に、Twitterがプラス。
SNSは、国境を越えた人的交流を可能とする。
一昔前より、そのように考えられてきたが、実際 はビジネスを別として言語範囲内での交流が圧倒的ではないか。
小浜市民がオバマ大統領のTwitterをフォローする、“リトルモンスター”がレディー・ガガさん のTwitterをフォローすることはあっても、見知らぬオハイオ州市民のTwitterをフォローしている人が何人いるか。
Twitterを含むSNSは、グローバリズムの範疇に存在するのではなく、ある言語が及ぶ社会内部のネットワークでしかない。
『ハルメリ』は、一体、何なのだろうか。
否定も肯定もしない、というのは日本人ならではの姿勢だとされる。別の言い方をすれば、周りの意見によって是非を入れ替える姿勢と捉えることもできる。それは、本音とを別にして。
舞台の討論生番組、ハルメリ女性歌手が休業を宣言する途端に「ついていきます!」とTwitterで称賛の嵐が沸き起こるが、人気投票結果はミス・ハルメリ美人コンテストに軍配が上がる(本音)。ところがハルメリ女性歌手が“殉教者”との妊娠を告白すると、今度は Twitter上で圧倒的な支持を集める。
たしかに舞台のスクリーンへ写し出されるTweetは誰もが“ゾッと”するし、一人一人の曖昧さが連なる暴力性を感じる。Twitterに眉を顰めるお堅い人と同じ気持ちだが、では実際の世の中=日本人は このような傾向はない、と断定できるだろうか?
数年前、ホリエモンや亀田三兄弟、元朝青龍関のような人物が持ち上げられバッシングされることをテレビや雑誌で寝転びながら加担していなかったか。当時、TwitterなどのSNSメディアが社会に広まる前の現象である。
あるいは、死んだはずの評論家がTwitter上で発言し、『なりすましだ』とTwitterで批判された。SNSは著名人の場合、本人認証があるので、舞台で描かれた なりすまし問題の匿名性を理由にサービス自体を批判するには根拠が薄い。といっても、この点はSNSならではの課題と認めざるをえないが。
『CLUBハルメリ』のダンスシーンに関しては、一緒に踊りたくなってしまった。SNSの画面ではなく、若者やオジサン・オバサンが普段の社会生活から離れた場所において『ハルメリ』を共有する。場所を共有するスペースとしてはニコニコ動画のニコファーレニに近い形態だろう。
テレビや新聞、雑誌と比べて、今そこにいるリアリティがある。他方で『ハルメリ』が社会現象となった後も、SNS上で現象は拡散し、マラソン大会や政党名の冠にで使用される。だが、媒介するのが少数のメディア関係者か、大多数のユーザーかの違いだけで、何ら社会現象の構造は変わらないと私は思う。
以上の点から考察すれば、SNSは社会現象をバーチャルなステージで歪曲するという説は疑わしい。
『NEWS23』の編集責任者を歴任したTBSの金子キャスターもアラブの春真っ只中にあった講演で「Twitterがエジプトの革命を起こしたのではない。あくまでツールであって、主役は民衆だ」と言っている。
『ハルメリ』は、今その画面で、隣の街で進行中の出来事かもしれない。
決して、Twitterが既存の社会とは別個の新たな日本人を作り出す論は誤りだ。舞台は そうした事実を まさに理解している。
泡沫
TEAM☆イットクルゼ!
劇場HOPE(東京都)
2013/03/20 (水) ~ 2013/03/24 (日)公演終了
緊急座談会?『舞台とリアリズム』
A「『朝起きると 自分が誰なのかを確認する』というから哲学チックな舞台だと思ってた。でも実際、観劇してみると、ファンタジーの中にもサスペンス性があり、老若男女を飽きさせない構成だったね」
C「完全にイットクルゼの紹介文通りじゃないですか」(笑)
A「たしかに、イットクルゼの狙いは的中してる(笑)
まあ、狙いは的中してるが、僕なんかは最初の30分が不安でたまらなかった。小劇場の世界でも、主要キャストの一人は標準的な女性が必需だ。でも、ストーリー上の主要女性キャスト3人、役柄とは関係なく、みんな若干ぽっちゃり だった。
観客の立場からすれば、そこに気が反れてしまう面はあったから。ただし、この問題は東京ミルクホール主宰の佐野さんが言ってたことですので…ご勘弁を、何つって」
B「なんか違うと思う。演劇というのは、若い女性が老婆を演じたり、逆にお爺さんが幼児を演じることに価値があるのでは?」
A「その方が、演劇の魅力を引き出す場合もある。ただ、今回のイットクルゼの舞台は、ドラマ的だったから人物を違和感なくみせることが大事だよ」
C「昨年末、目黒パーシモンホールにて、『ミュージカルCARE WAVEAID 〜平和宣言3.11〜』が上演されたのですが、レミゼラブルなどに出演する女優さんの他、宮城県・気仙沼などの被災地からも多くの高校生達が参加したんです。やっぱり、それって演技だけではない、リアルな体験に基づく身体性があったから心に響く」
A「若い世代による戦争のミュージカルは よく上演されるけど、演者側の歴史教育がメインだ。パレスチナ自治区の若者が繰り広げるミュージカルの方が訴えかけるだろう」
B「この議論だけは納得できないな…。ミュージカル・テニスの王子様、略してテニミュって知ってる?」
C「姉が観に行きますよ。斎藤工くんにハマって以来(笑)本人は卒業したんだけど、20歳前の男子が初演時からドンドン成長していく姿がいいみたい。母親かよって!(笑)」
B「生みの親であるニコ動運営会社・ドワンゴ執行役員の片岡義郎さん の話を伺ったことがあるけど、そこのインセンティブを漏らしてた。でさ、片岡さんは、アニメと演劇は脳内で構成するものだと主張しているの。テニミュの試合も、サーブやスマッシュを光で演出する。観客は それを脳内でボールに置き換えて構成して、熱戦を感じるんだよ。
つまり、演劇はリアルさ より、演者や演出から生まれる観客側の脳内構成が遥かに大切だといえる」
C「ああ」
A「脚本が良かった。『バックトゥ・ザ・フューチャー』シリーズのハラハラ感と似ている。殺されるはずの女性と、2年後の女性。時を越えた愛情というテーマ。
僕としては、ラスト、事務所を訪ねる形もありだったかと心残りだ」
C「はい、心残りですが、…前半のファンタジー系と後半のサスペンス系が、とてもマッチングしていました!前半がなければ、単なるサスペンス系になりかねなかった。あと、東南アジア風の女性、声が通ってましたね。富士山まで届くかも」
B「総じていえば、今回の舞台は磁石だよ。幕が近付くほど引き付ける(笑)」
「男の果て」全公演終了いたしました。ご来場ありがとうございました!
元東京バンビ
OFF OFFシアター(東京都)
2013/03/09 (土) ~ 2013/03/17 (日)公演終了
カフェとホストと戦場。
男A「ついに、バンビ、蘇りましたね」
男B「噛まれると自分もなっちゃうから、気を付けたほうがいいよ」
男A「元劇団東京バンビは、ゾンビじゃありませんから。ゾンビっぽい元ホストとサラリーマン(変身後)はいましたが…」
男B「俺は、小太りの相槌が笑い転げたな。まあね、あんな相槌する人がいたら やっていけませんよ、普通」
男「それは、そうですよ。ちなみに僕は、注文した料理を待ち続けるOLの徐々に力む姿ですかね」
男B「ふーん、ふん、ふん。へ~、あーん、ふん、ふん」
男A「小石川さん演じる私立探偵(?)の 心境を、表に出したみたいな」
男B「はいはい。ふーん、ヘェ〜。ふん、ふん、ふん。」
男A「めちゃくちゃ、感化されちゃってますけど!」
シロツメの咲く後に
夏色プリズム
阿佐ヶ谷アルシェ(東京都)
2013/03/14 (木) ~ 2013/03/17 (日)公演終了
緊迫感、伝わる舞台。若手中心に。
杉並区の阿佐ヶ谷にある小劇場・阿佐ヶ谷アルシェにて2013年3月16日、夏色プリズム旗上げ公演『シロツメの咲く後に』が上演された。
作・演出は、硬派な作品を得意とする原田直樹氏。キャストには多くの20代が集結し、若手中心の舞台となった。
設定は、劇場を使った舞台のリハーサル。そこで、突如、入れ替わったナイフにより演出家が刺され、役者同士の疑心暗鬼が広がっていく。
どこまでが演技か、どこまでが現実なのか、観客という自身の存在すら分からなくしてしまう仕掛けを用いている。
劇場に詳しい情報通は、語る。
「たしかに、ここの劇場(阿佐ヶ谷アルシェ)でしか、緊迫感は伝わらないでしょう。劇場のドアが開かなくなったり、携帯の電波が入らなくなってしまう。たとえば、それを青山劇場で表現できるか(笑)。商店街から少し外れた場所にある、この劇場だからこそ、できるんですよ。しかも、地下の危うい雰囲気ね。下北沢の劇場と違って、電車のガタゴト音も聞こえない」
今回、阿佐ヶ谷アルシェで上演された舞台では、客席のキャパシティ(収容人数)は約100人ほど。形状としては、学芸大学の千本桜ホールが近い。
狭いスペースへ大勢の観客を詰め込めるが、段が低く、奥行きがあるため、舞台の下方は見えづらいという指摘もある。
前出の情報通は、こうも 語る。
「観客も、地下に閉じ込められるんじゃないか、という不安感があった。途中、演出の田中が音響の席からかな、大声でタメ出しをして、舞台が中断したシーンがあったでしょう。その声で、もう舞台か現実かグレーゾーンになっちゃった。あれは、もう、演出の人間だよね。映画業界にもよく、あんな人いるよ。演劇では見かけないタイプだけど」
舞台『シロツメの咲く後に』は、17日まで上演中だ。
僕たちの町は1ヶ月後ダムに沈む *TypeA*
ソラリネ。
上野ストアハウス(東京都)
2013/03/13 (水) ~ 2013/03/17 (日)公演終了
事情通に聞く! 『変わらない人と地』
今回の舞台、どうでしたか?
「ダムに沈んでしまう街。そういう設定だけで、泣ける舞台が要求される。演出にとってみれば胃が痛くなる思いだろうね」
中学校の同窓会というシチュエーションだけあって、全員20代の役者でした。
「小劇場の世界って、男優も女優も背の低い人が多い。テレビなどの映像中心の俳優と、最も違う点といってよい。だって、駅前劇場に阿部寛いる?(笑)
キャストの男優の背が高い、それだけでも、特徴的だよ。男優は、普段モデルとかもしてるんだろうけど」
地元に対する意見の対立、(中学生時代の)校舎への立て篭もり、など社会的な面も感じられました。
「今の若いひとは、上に従順だよね。例えば、1960年代の安保闘争のような、目的のために団結して闘うようなことは しないでしょう。東大安田講堂の占拠ばかりが歴史の教科書に記されているけど、国会周辺のデモが より激しかったら、現在の国に形さえ変わっていたかもしれない。でも、安保条約は延長され、岸信介首相が辞任し、安保闘争自体にも熱が失われた。
だから、日本人にとって、上への闘争というのは、負け覚悟のスパイラルから抜け出せないんです。
秩父事件しかり、刀で銃に立ち向かったが、官軍に負けた。もちろん今までの農民一揆とは異なり、それを指揮した人物は白い袴(死をいとわないことを表す)を着用していたので、彼らとしてはアピールではなかった。むしろ戦争を意図していたのですが、官軍と対等に闘う武器は調達しなかったのです」
中学校での籠城も、結局、負け戦になってしまいました。
「日本人にとって上への闘争とは、頭で闘うことではない。2011年にアラブの春が吹き荒れたでしょう。きっかけは、チュニジアです。大統領を反対する政治グループが結集し、チュニジアの市民をも巻き込みました。多くの国家では、上への闘争の際、様々な主義主張を持つグループが連合体を作るものなのです。
ところが日本人の場合、闘争が より分裂化する方向があります。
安保闘争もそうですし、成田空港反対同盟も そうでした。
脱原発もポリティカル性では 今あげた闘争と似たところもありますが、脱原発を標榜する政党が乱立したことは記憶に新しいでしょう」
舞台の話もお聞かせ下さい。中学生たちのダム建設反対も、大人になり、分裂化したといえるのではないでしょうか?
沈没一ヶ月前だというのに畑を耕す男性いれば、ダム工事の建設に携わっている女性もいる…。
「それは一概には言えない。ポリティカルなテーマとは、また違うから。
長野県の田中康夫知事時代は、脱ダム宣言を発表した結果、ダムの工事はストップした。ところが、彼は二期目の選挙で保守系の候補に敗れたね。
ダム建設の凍結だけが理由ではないが、要するに、工事関係者も潤わないし、その場所にいた、あるいは今いる住民も過疎に悩まされるわけ。
工事してくれた方が、ダム湖畔という観光スポットも出来る。たまに地方に行くと、風力発電の風車が観光地になっている。自然を損なう代わりとして、県の観光課や商工課がバックアップしてくれる。
そういう、蜜が味わえるわけだから、やはり一度、工事が進んだらスピードを上げてやってもらった方がいい。八ッ場ダムの反対派も、このインセンティブのため開発を求める方向に替わった。
やはりポリティカルなテーマではなく、地域の経済と環境の問題なんだ。
関西電力は、北陸の黒部ダムを作った。延にして数百万の人が建設にあたっている。過酷な現場で多くの人が亡くなったことは、NHKの人気番組でも放送されたことにより、社会的に認知されていると思う。
都市に電力を融通するため地域へ補助金を流し、現場は過酷労働。どこかの構図と、同じなんだよね」
ああ、原発ですか?ぜひ、舞台の話も聞きたいのですが…
「銀行マンや教師、広告代理店、公務員がいたね。あれは、日本の平均点な状況を考えると、違和感が。
過疎の村は、それほど 機会を得ることはできない。
一方、妹の女の子は、可愛かったね。舞台後方のドアを開けるシーンさ、眩しい光が差したでしょう。このシーンは、女の子を別の次元に上げる象徴的な意味合いだったのかな。
お兄さんも、変わらない笑顔が良かったよ。時々、そういう青年いるよね、僕の周りにはいないけど」