相馬から世界へ。国境なき演劇
福島県の人々は今、放射線に対する意識が鈍くなっている。
3.11後、原発維持派の人々は「放射能に対する危機を煽ってる」「インドやイランなど、放射線が高い地域に住む住民に健康被害の報告がない」等の論拠により、脱原発を批判してきた。
では、3.11以前は放射線について どういった問題が提起されていたか。
欧米路線を飛行する国際線の航空機従事者(パイロット、キャビンアテンダントなど)は、年間3mvsを被曝すること明らかになっている。他方、妊娠中の女性が受け差し支えないとされる被曝量が2mvsである。
もし、女性パイロットで、しかも妊娠が発覚するのが遅かったら限度量を超えてしまう可能性もある。CT等の妊娠検査による被曝を考慮すると、人体に影響が生じるかは解らないが基準は大幅に超す。
ここで述べたいのは、この安全基準は航空機従事者の労働基準法に則り国が定めた基準であるという点だ。
3.11前、もっと航空機従事者の被曝を抑えなければならないのでは、と専門家の間で議論が巻き起こり、朝日新聞にも特集が掲載された。
3.11後、つまり今現在、国は福島第一原発が位置する双葉町民、SPEEDにおいて最も過大な放射能汚染が予測された飯館村に住む県民の被曝上限を20mvsとしている。国際原子力委員会は原発従事者や航空機従事者を除き、人が年間に受ける放射線の上限を1mvsと定めていた。
ただでさえ、原発が水素爆発する以前から放射線の影響を抑える方向で社会が動いていたのにもかかわらず、あっさり20倍オーバー。
今年の3月13日、28日に川内博史前衆院議員が東電関係者以外で初めて福島第一原発の屋内に入った。(東京新聞 『こちら特報部デスク』4月11日付 )
その取材中、川内氏が被曝した量が11mvs。年間と、一時的な被曝では人体に対する影響に違いはあるものの、原発に入った人間の2倍が妊婦や子供を含めた『安全基準』とされる。
内閣の原子力担当の参与が泣きながら辞任するのもうなづける。
この基準が事故当時、原発から離れていた日本人に適応されるなら まだ 理解できる。ところが、元々 水素爆発の風向きにより被曝量が多い(20mvs超す住民多数報告)のにもかかわらず、飯館村の人は不安を抱えながら住み続けなければならない。コンクリートの隙間にはセシウムが溜まり、空気中の放射能濃度は近隣県を下回ったことはない。避難区域外の大半の県民が事故後ずっと居続けたのは、避難区域の住民に一律に支給される一人あたり月10万円の補償金が貰えないからだ。
今も、原発事故が収束したわけではないし、汚染水の流出は水に流せない課題である。原発立地地域は従来から放射線が横須賀の海軍基地の次に高い。
政府は移転費用の増大を恐れ、双葉町民に将来戻れるかのようなカモフラージュをする。飯館村の住民には補償金を渡したくないから、国際的に間違った安全基準を設けるのだ。
だが、福島県民は、1政府の安全説明、2経済復興、3地域コミュニティの一体感への切望、によって
放射能に対する危機感が和らいでいるのが実情だ。
そこで、あえて今回の舞台•相馬市ではなく、双葉町民を主人公とし、放射能被害を防いだ上で、これからもコミュニティを維持しながら生活するための私なりの構想を提示したい。キーワードは、昭和の思い出•団地である。
団長を主題のテーマに捉え、それが3.11に繋がる形にしたい。
住宅団地は、戦後の日本人にとって目指すべき欧米式生活のショーケースだった。
八千代団地…ひばりヶ丘団地…そして多摩ニュータウン。次々と建設された、その五層縦長の鉄筋コンクリート(多摩ニュータウンなど70年代以降の団地は一部高層棟)は、新婚のカップルが 都市的な生活をおくるための、新たなステータスになった。
数千世帯の住民を束ねる自治組織が生まれ、外では行政や企業に物申す連合体となり、内では 夏祭りなどの催しを積極的に行った。その巨大な建造物には、昭和10年世代を中心とする、巨大なコミュニティが形成され、選挙などにも一定の影響力を及ぼした。
ベストセラー『団地の空間政治学』(NHKブックス)『レッドアローとスターハウス』(新潮社)の著者であり明治学院大学政治学部教授・原武史氏の講義を聴いたことがあるが、『団地の空間政治学』『レッドアローとスターハウス』等の著作からも住宅団地が いかに戦後日本の政治を形作っていたか、が よく分かる。
開発企業体、大手ゼネコン、公団(都市基盤整備公団及び地域振興整備公団)、建設省は、戦後の経済成長に一定の功績がある。また、人口の増加が著しいなかで、住宅供給不足の解消にも役立った。役目を終えた旧公団は、現UR都市再生機構となっている。
しかし、70年代の『サザエさん』でさえ、20年後には出生率が1%台前半になることが紹介されている。現在の日本の現実は、多摩ニュータウンを せっせと作っている頃から分かっていた。
出生率が低くなるということは、高齢者の割合が高まることを意味する。逆ピラミッドと呼ばれる構造だ。
住宅団地が いずれ健康な老人ホームと化することは、住む人々も、把握できた。それなのに、都心のアクセスを向上させることもなく、周辺に産業を整備することもなかった結果、こんな現実に至る。
表参道ヒルズは建築家・安藤忠雄氏が設計し、2006年にオープンした商業施設だ。アパートを一部残した上で、全面的に建て替えた建築物だった。
住宅団地とアパートの違いはあるが、もはや『団地』とは土地を有効活用できえず、商業施設や高層マンションに変わるべき障害物のような存在だろう。
人々のなかで、コミュニティに対する意識が高まっている。それは、東京臨海地域の超高層マンションの住民も、同様。だが、コミュニティに関わりたい意思とは反対に、実際に関わっている住民は圧倒的に少なかった。(防災とコミュニティに対する住民意識に関する研究 その1 超高層集合住宅居住者への2010年度の意識調査 小島隆矢 早稲田大学人間科学学術院 若林直子 (株)生活環境工房あくと )
『団地』の文化性が瓦礫にならない方法があるとすれば、私は3.11後求められている社会的コミュニティ機能だと思う。
先の『団地の空間政治学』で紹介されていたように、集合団地では お祭り などを通してコミュニティを形成していた。また、当時でいう婦人達がマンモス学校の教育に問題意識を持ち、共同して勉強会を立ち上げるケースもあった。
地域の一軒家、商店街が軒を連ねる従来のコミュニティだと、人間のコネが大切な要素だ。ところが団地の場合、コンクリートの壁で各家庭に強力なプライバシーが与えられたことから、より社会的、普遍的なコミュニティが存在したといえるのかもしれない。
あるいは、超高層マンションだと、コミュニティ自体が機能しないのはもちろん、最上階と一階の住民では格差が生じ、平等の観点から外れる側面も見逃せない。
以上、集合団地の持つ、社会的コミュニティは、今の日本に要求されるべき社会的コミュニティとマッチングしている、ではないか。
震災後、最大の避難所となったビックパレットふくしまで陣頭指揮を取った、福島大学特任准教授・天野和彦氏。天野氏は、原発の避難区域圏内で長期避難をしなければならない双葉町などの自治体を、町ごと別の場所に移転するセカンドハウス プランを復興庁へ提唱している。
一軒家、公共施設を一つ一つ建設するのは莫大な予算が要るので、私は戦後の団地式に『双葉団地』なるものを福島市や郡山市、いわき市に建設するのも案として成立するのではないかとも思う。町長と一緒に住民ごと避難した人が1500人超。世帯数に換算すれば、このような規模のマンション地帯など、東京近郊なら溢れるほどある。
多摩ニュータウンへ移転すれば、ゴーストタウン問題も消えるに違いない。横須賀市田浦地域は、一軒家の空き家率が1割を超えるゴーストタウンとして一部で名が知られる。被災者に仮設住宅を新たに建設し提供する一方、こうした宅地の種別におさまらぬ日本全国の課題は 放置したままでいいのだろうか。
双葉町民のコミュニティを第一に考え、日本の少子高齢化に伴う3.11以前から続く社会構造に適応するのが、私の構想だ。