「捨て子問題」を解体し、社会と交わる舞台の確立
社会派の、テンポのよい、痛快な“ヒューマンドラマ”であった。
「前説」を名乗りながら舞台のストーリーテラーとして登場する男(もみあげ!)によれば、妊娠中絶反対の見方にたって描かれたという。
まず、初めに幕が上がり、目の前に拡がった景色が異様だった。
ホワイトカラーの髪をした女の子が、低い天井に 吊られる ブランコに乗り、何やら大声で“母親”なるものに語り掛けている。
「○○ですよね、 お母さん!」
手塚治虫の代表作である『鉄腕アトム』、トビウオ博士によりアトムが生まれる、まさに その実験室のような雰囲気であった。
ETV(NHK教育テレビ)から、テレビ朝日の某人気深夜バラエティ番組まで。
途中、地上波放送局の番組をモチーフとし、夫婦の関係、子育て、あるいは捨て子の関係者を番組に出演する当事者として招く、そんなコーナーがあった。
『観ている』時には理解できなかったが、その構成において、男女の問題ー捨て子という道筋を辿っている。つまり、このことは妊娠中絶反対の基本の描き方に則り、「捨て子」が 日本に存在してしまう「軽さ」を扱っていたと考えるのが普通だろう。
「ゆりかごポスト」は響きはよろしいが、道義的にも、社会通念上も 「捨て子」を行った親を責めないわけにはいかない。
「捨て子」は、
1経済的な事情
2義務教育段階での啓発不十分
3子育ての個人化
が要因として考えられるが、当事者以前の、行政が抱える課題だ。日本はEUと比べるとソーシャルセーフティが未発達なのは間違いない。
では、制度を整えれば「捨て子」は起こり得ないか。違う。
「前説」を名乗った男の伝えた内容を紹介したが、この舞台は客観的、現代的な表現でありながらも、妊娠中絶反対の考えに基づき描かれた作品だ。
妊娠中絶反対は、人の思想そのものである。アメリカの例が よく知られているとおり、民主党は妊娠中絶容認、共和党は妊娠中絶反対が党の基本スタンスである。
両党とも安全保障では重なる部分が多いのに、どうして ここまで 二分されるのか。
人の思想、要するに、生き方に直接的に結び付く、基盤の思想だからである。
日本には旧法の流れを汲む「母体保護法」が長らく存立するが、妊娠中絶を国が勧める悪法ではないか、と専門家の間で議論されてきた。
中絶を容認するか、反対するか、それはアメリカの州選挙の一大テーマになり得る。そうした、極めて大切なテーマである妊娠中絶問題を、戦後いつのまにか制定された旧法に身を任せた日本は 無思考の国だった。
妊娠中絶問題が生き方に直結する基盤の思想だとすれば、「捨て子」も同様に思想だろう。妊娠中絶は道義的に反対するのであって、「捨て子」も道義的にあってはならない。
国は、近年、妊娠検診に掛かる費用を自治体と合わせ全額負担するようシステムを変えた。「捨て子」対策の一環である。
その一方、「ゆりかご」に預けられた「赤ちゃん」の1人目は3歳の男児だった。もはや、国の制度ではなく、親の道義が 「捨て子」のほとんど全てで あることを証明している。
舞台の話に戻ろう。
劇場は、狭い。だが、客席の中央を 役者が幾度となく通り過ぎ、あえて幕を使って「造った舞台です。」を強調する姿は、劇場を社会の中に位置づけた姿であった。
「まだ、やってんだ、俺たちのこと」
かつて「捨て子」だった人々が、後ろの方から客席に囁く。舞台を社会の中のイベントとし、それに社会の当事者=「捨て子」が応える、二重の仕組みである。ドキュメンタリータッチだけが、社会派ではない。世の中を解体した上で、それを構成していた材木や瓦を 客席に届けるのも社会派の舞台だ。