藤原ちからの観てきた!クチコミ一覧

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ココロに花を

ココロに花を

ピンク地底人

王子小劇場(東京都)

2013/05/31 (金) ~ 2013/06/02 (日)公演終了

満足度★★

「雰囲気=世界観」では物足りない
前回の東京公演『明日を落としても』でも採用されていた、俳優たちの発声によって環境音をつくる手法は、今回はメトロノームのように一定のリズムを刻んでいくのだが、残念ながらそれはわたしには眠気を誘う効果しかもたらしてくれなかった。低い唸り声のようなものがずっと鳴っているシーンにしても、いったい何の意図があったのか。停滞したムードしか感じさせない。ある種の暗い世界を描きたかったのだとしても、これではまるで生気を失ったゾンビの世界ではないだろうか(そしてそのゾンビ性が、何か批評的な視座によって導き出されたものだとも感じられない)。

そもそも台本がまずよろしくないと思う。「イスラエルとパレスチナ」など、歴史、復讐、赦し……などなどのよくある話が語られるのだが、結局こういった紋切り型を振りまいてみても、何かを考えている「かのふうな」ポーズにしか感じられない。またそれらの話が、この物語のメインとなる事件とどう繋がるのかも今ひとつ見えてこない。

演劇ではしばしば、なんとなくの雰囲気が「世界観」と呼ばれてしまうことがある。「この世界観が好き/嫌い」という言い方は確かに感想としては言いやすいものだし、この『ココロに花を』にはその意味では「世界観」があったけど、そこから何かがひろがっていく感触は得られなかった。

役者の演技も単調だった。もちろんそれは演出のせいでもある。リアリズムの会話で押すところにしても、空想的なシーンにしても、もっと発話の方法や舞台での居方を練り上げていく必要を感じます。例えば単純な話、やっぱり女性の板挟みになる男には、ああ、この人なら確かにモテるわ、しゃーない、というくらいの説得力が欲しい。

ネタバレBOX

記憶を無くしている男は、面会謝絶になるくらいの大事故に遭ったらしいけども、そのわりには全然怪我をしている感じがなく、つるんとしていた。例えばの話、映画『イングリッシュ・ペイシェント』のような、包帯でグルグル巻きになってもはや匿名の存在にならざるをえない(自己を証明できない)、くらいの切迫感は欲しい。包帯巻けばいいという話ではないのですが。

映画といえば「タランティーノ」をはじめ、映画監督の名前が幾つか持ち出されるけども、それもなんとなくの「雰囲気」を醸成するために動員されたように思えてしまった。映画への愛がもしも本当にあるのなら、『レザボア・ドッグス』はもっと魅惑的に模写してほしい。加えて言うならば、「オウム真理教」なども含めてぽろっと簡単に名前が出て来るけれども、そうやって名前を持ち出すことに対して「畏れ」がほとんど感じられないのは劇作家としては問題ではないだろうか。例えばル=グウィンの『ゲド戦記』をお願いだから読んでくださいという気持ちになります。

ところで衣装は、赤、黒、白、の3色からのみ構成されていたと記憶していますが、その狙いはなんだったのでしょう?
兄よ、宇宙へ帰れ。【ご来場ありがとうございました!】

兄よ、宇宙へ帰れ。【ご来場ありがとうございました!】

バジリコFバジオ

駅前劇場(東京都)

2013/05/29 (水) ~ 2013/06/03 (月)公演終了

満足度★★★★

愛すべきキモカワ人形
人形が!
素晴らしい!

……と開演前からワクワクさせてもらった。KINO4TA氏によるこのキモカワ人形はぜひETVとかにも進出していただきたい。なかなかシュールな教育番組がつくれると思うし、子供への教育効果(?)も抜群だと思います。

客入れの雰囲気も非常に良くて、みんなでワイワイガヤガヤしながら始まるのを待つ感じ、なんかいいな、と思った。

しかし実際の本編ではあまりその人形が活躍しなかったのが残念。もっと出番が見たかった。いちおう「演劇」に関わる人間の端くれとしては、感動を誘う物語ではあった。ただ、テーマ自体はシンプルなわけなので、これならもっと上演時間をコンパクトにして、エンターテインメントとして押し切ってもよかったのではないかと。

ネタバレBOX

美輪明宏のモノマネと人形が素敵……。そして引きこもりの男を演じていた武田論がその美輪明宏役でもあったと後で知ってさらに衝撃。いろんなところで観てみたい俳優さんだなと思った。
黒塚

黒塚

木ノ下歌舞伎

十六夜吉田町スタジオ(神奈川県)

2013/05/24 (金) ~ 2013/06/02 (日)公演終了

満足度★★★★★

怪優の誕生、物語の可能性
驚きの快作。

これまでの木ノ下歌舞伎の実績からして期待値は高かったけども、十六夜吉田町スタジオという小さな空間で、こんな派手なエンターテインメントが観られるとは想像していなかったこともあり。なんといっても、鬼婆を演じた武谷公雄の演技があまりにもダントツに群を抜きすぎていた。今、これを観ないでどうする?、という気持ちになり、初日に観たにも関わらず、次の日もまた当日券で観てしまった。さらにその後もまた当日券に並んでみたのだが、あまりにも人が満杯なので、キャンセル待ちの券を他の人に譲って(多くの人に観てほしかったから)泣く泣く諦める……という始末。

『黒塚』はどこかで耳にしたことのあるようなシンプルな物語である。この、いわゆる「現在性=アクチュアリティ」がほとんどないはずの作品に、いったいどうしてそこまで惹きつけられたのか? しばらく考えていた(それだけ舞台のイメージが残留する力も強かった)。

ひとつは、ジャン=フランソワ・リオタールによって「大きな物語の喪失」と言われて以後の、日本の若者たちの「物語れなさ」という深刻な問題……要するに、自分たちの「今ここ」の閉塞感を何らかの形で訴えるより他に方法がない、という問題があったとわたしは思うのだが、それに対して、近年の文脈(労働問題、震災と原発……etc.)をあえて無視して、古(いにしえ)に眠っているシンプルな物語を力強く持ってくる、という方法を採っていたこと。『黒塚』は単にかつての黒塚伝説を掘り起こしただけではなく、さらに他の「眠れる無数の物語」の力を現代に亡霊のように蘇らせ、それによって観る人たちの心を揺さぶることに成功していたと思う。それは歌舞伎版の「黒塚」をただなぞるのではなく、元の黒塚伝説の様々な異説を主宰の木ノ下裕一が調べ、それをもとに演出の杉原邦生がエピソードを付け加え、全体を再構成した、というところに拠るところが大きい。彼らが挿入したエピソードに、日本にかぎらず、ギリシャ悲劇などにも見られるような普遍的といっていいようなモチーフがあったことで、物語一般(様々な物語)を感じさせたのだろう。

だがそれは一歩間違うと陳腐な「よくある話」になるという際どい試みでもあったはずだ。それを救ったのは、やはり老女=鬼婆を演じた武谷公雄の存在だろう。かつての「特権的肉体論」に比べてひ弱であると(たぶん)されてきた現代の俳優の中から、圧倒的な技量を持った存在がついに現れたという感じがした。武谷はモノマネの名手でもあるのだが、そのモノマネの技によって、かつての名優の幻影を突破したのではないかとも思う。(詳しくは、6月末発売の「ele-king(vol.10)」という音楽雑誌に書きました。宣伝みたいで恐れいります。)

杉原と木ノ下のコンビは、アフタートークでも夫婦漫才並みに息の合ったところを見せており、この完成度の高いトークもまたこの作品の魅力のひとつと見なしていいと思う。ただやっぱり作品そのものの感動だけで退出したかったかも……と感じた人もきっといたはずなので、作品が終わってからトーク開始まで、もう少し時間を設けてもいいのでは?、と感じた。

彼らの試みは、歌舞伎を単純に破壊的に現代に移し替えるということではなくて、かなり丁寧に原作を読み込んでいるし、伝統芸能へのリスペクトを感じさせる心憎い目配せも随所に散りばめられている。稽古でまず歌舞伎版の完コピをした、という手法も活きていたと思う。

音響(星野大輔)、照明(中山奈美)、衣装(藤谷香子)、といったスタッフワークも素晴らしかった。特に音響は、繊細さと、邦生演出ならではの爆音との両方を見事に実践し、豊かな音の空間を実現していたと思う。

ネタバレBOX

完成度は相当高いけれども、さらなる高みを望んであえて難を挙げるならば、武谷公雄の突出ぶりに比べてしまうとあとの4人が少し弱かった、というところ。老婆を際立たせるためだけに僧たちがいる、ということではない「黒塚」をやりたかったはずなので、だとしたら、他の俳優たちとその演出に対してはさらなる奮起を促したい。鬼婆と対決する僧役の夏目慎也はさすがの安定感を見せていたけれども、彼の実力からすればこれは当然いけるだろうという範囲にも思えるので(高望みでしょうか)、さらなる迫力を導くような演出が欲しかった。ダンサーの北尾亘はファニーで印象に残る動きを披露してくれたけれども、できれば、どうしても彼じゃなくてはならないと感じさせるほどのものを観たかった。大柿友哉と福原冠にしても(それぞれに魅力を持った人たちだと思うが)、引き出しはまだまだあるはず。

劇中で、老婆の難解な言葉を翻訳してあげたり、エピソードを挿入したりと、わかりやすさを担保する親切設計になっていた。それ自体は全然悪いことではないけど、ちょっと説明過剰じゃないの?、と感じる部分もあり。観客が想像して行間を埋めていくような余地がもっとあれば、黒塚の寂寞とした感じはさらにひろがったかもしれない。
My Favorite Phantom

My Favorite Phantom

ブルーノプロデュース

吉祥寺シアター(東京都)

2013/04/26 (金) ~ 2013/04/29 (月)公演終了

満足度★★

「素朴さ」を超えてほしい
ブルーノプロデュースは、これまでドキュメンタリーシリーズと称する一連の作品群の中で、「記憶」を扱ってきた。それだけならばありふれているのだが、扱うのが作家本人の記憶ではなく、つねに他者の記憶である、という点が興味深いと思ってきた。今作では、そうした他人の記憶にアプローチするこれまでの試みを、すでに語り継がれている『ハムレット』という物語にいかにして接続するのか、というところが見所となるはずだったのだと思う。

しかし端的に言ってこの作品は「失敗」だったと思う。若者たちの声がひたすらぎゃーぎゃーと鳴り響くのを、ずっと聞かされるという苦行……。正直なところ、審査でなければ途中退出したかった。声、にはもっとこだわってほしい。

こうなったのは、彼らが何かしらの「挑戦」をしたからでもあると思う。「挑戦」のないところに「失敗」はないのだし、そうしたチャレンジ精神は嫌いではない。ただこれを少なくとも「失敗」と断じる人物が客席にいたのは事実だし、それはおそらくわたしだけではない。そのことは、演出家だけではなく出演した俳優たちにも受け止めてほしい。舞台は(当たり前だけど)演出家だけがつくるものではないのだから。

それと違和感が強くあったのは、この作品で示されている「若者」の姿で、実際に若い俳優が演じているとあたかも「当事者」のように見えはするけれど、このイメージは果たして本物なのだろうか? 「ダラダラした若者」というイメージを捏造し、なぞり、反復していくのは、わたしにはあまりよろしくないことのように思える。『ハムレット』が遠い世界の物語であり、理解できない、馴染みがない、読んだことがない、といったことの「素朴な」無知の表明も、正直なところもう聞き飽きたと思うし、それはとりあえず近づく努力を最大限にしたうえでもう一度話をしましょうよ、という気持ちになってしまう。自分たちの「素朴さ」の中に閉じこもるのはもはや甘えでしかないのではないか(彼らの持っているピュアネスには惹かれる部分もあるけれど)。世界にはもっと豊かなマテリアルがそこかしこに散らばっているのではないか。そして、それをたぐり寄せていくのが、現代のアーティストと呼ばれる人たちの仕事ではないだろうか。

好きな俳優たちが多数出演していたので、作品としてそれが活かされなかったのは正直なところ残念。でも変な話だけれども、観終わってから一月半くらいが経過した今、ま、そうゆうこともあるでしょう、長い道のりの中では、みたいな気持ちになっているのも、また事実ではあります。

ネタバレBOX

「『ハムレット』の最初に登場するのが歩哨」という着眼点は面白くなりそうだった。
左の頬(無事全ステージ終了!ご来場まことにありがとうございました))

左の頬(無事全ステージ終了!ご来場まことにありがとうございました))

INUTOKUSHI

シアター風姿花伝(東京都)

2013/04/10 (水) ~ 2013/04/21 (日)公演終了

満足度★★★

紋切り型の範疇を超えてくれない
観ていて、少々しんどく感じられてしまった。鈴木アメリと二階堂瞳子の闘いは見所ではあったし、好感を持つ部分もあったけど、あるあるネタ=クリシェ(紋切り型)の扱い方がいささか凡庸に感じられてしまう。他の劇団の例を出すのはできるかぎり避けたいところではあるのですが、例えば、クリシェをバラ撒くと見せてそれをむしろ裏切っておかしなほうに物語を転がしてしまうサンプル(松井周)とか、あえて「ハンカチ落としましたよ」とかのベタな展開に持ち込んでおいて、からの、マジカルな回路を幾重にも見せてくれるロロ(三浦直之)のような名手(?)に比べると、犬と串はまだ無自覚にクリシェに振り回されているように見えてしまう。

それと、わたしはこういう熱量押しみたいな舞台は苦手で、というのは、こういう「かつての小劇場」っぽい(あるいは学芸会っぽい)身体や言葉から自分にとって未知の(だがどこか切迫感を持った)何かが生まれてくるという感じは受け取れないから。時間とお金をかけて観に行きたい、という気持ちにはなかなかなれないのです……。

ネタバレBOX

エレクトリカルパレードの場面(何度か通り過ぎていく影を鈴木アメリが捕まえようと試みる)は面白かった。なんだか滑稽で笑ってしまった。あのシーンには、お約束を食い破るようなものがちょっと仄見えたようにも思う。
わが友ヒットラー

わが友ヒットラー

シアターオルト Theatre Ort

駅前劇場(東京都)

2013/03/27 (水) ~ 2013/03/31 (日)公演終了

満足度★★

この過剰な演技は一体?
Ort-d.dを観るのは初めて。若手だけではなく、中堅やベテランと呼ばれてもおかしくない人たちがCoRich舞台芸術まつり!にエントリーしてくるのはとても嬉しいことだと思ったし、単に若さで押し切るのではない演技や演出に出会えるかもしれないと期待していた。

しかし結果からいうと、この作品の観劇はわたしには苦痛を伴う厳しい体験になってしまった。三島由紀夫の戯曲を上演する際の制約(忠実な上演)があるにせよ、3時間もこの状態が続くのかと……。役者(レーム役)の大仰な演技はもちろん演出によるものだろうが(あるいは俳優の暴走を演出が抑えられなかったのか?)、あんなに過剰に振る舞う必要がどこにあったのかわたしには分からない。それが現代日本人の言葉=声でないのはもちろんだが、かといって、ナチス時代のドイツ人があのような発話をしていたはずもない。もちろん演劇は「演じる」ものだから、発話の仕方を創造するのは全然結構なことなのだが、わたしにはあれは「嘘の言葉」を喋っているとしか感じられなかった。あるいは何かしらの異化効果をともなって、別の世界を見させてくれるものだとも思えなかった。レームを演じたスズキシローは別のところで観たことがあって、その身体性が面白いと思っていたので、今回どうなるのか、むしろ楽しみにしていたのだけれども。

また、わたしが思うにあの戯曲の妙は、まず、ヒトラーが狂人ではなくて「普通の人」だということ。そして同性愛的傾向を含む三角関係の中で、中道を歩むと称して身内を切り捨てていくところ、かな、と思うけど、どこらへんに今回の演出の肝があったのだろうか。

これが、Ort-d.dの中ではあまりうまくいかなかった失敗例なのか、それともベストを尽くした結果がこれであるのか、他の作品を観ていないのでなんとも分からないのですが。

『熱狂』『あの記憶の記録』ご来場ありがとうございました!次回は9月!

『熱狂』『あの記憶の記録』ご来場ありがとうございました!次回は9月!

劇団チョコレートケーキ

サンモールスタジオ(東京都)

2013/03/23 (土) ~ 2013/03/31 (日)公演終了

満足度★★★★

フレッシュなヒトラー像
『あの記憶の記録』は、「アウシュヴィッツの後で詩を書くのは野蛮である」というあのアドルノのよく知られた言葉を想起させるものであり、生き残りがいかにして語りうるのか、に真摯に向き合った作品だと言える。しかし果たしてこの真摯さ(生真面目さ)は、有効だろうか? お勉強として、ナチス・ドイツがユダヤ人たちに対して行った「歴史」を教育・周知する効果はあるだろうけども、むしろ本気でこの問題に取り組もうと(その必要があると)感じているのなら、おそらくこの道では到達できないのではないか。既視感を食い破るものは感じられなかった。

いっぽうの『熱狂』はまさに熱くさせられる快作であり、俳優陣に安定感もあった。この「熱さ」が罠であるというところが良い(ネタバレボックスへ)。

ネタバレBOX

まず『あの記憶の記録』については、終盤の幾つかの対決シーンに白熱するものはあったけども、まず長男のキャラクター造形がいささか単調というか、愚かすぎたと思う。理想に燃えるのは結構だが、あまりにも無知すぎる。先生のキャラクターも、もっと複雑に描かれてほしい。なぜ彼女があのような立場をとるのか、今ひとつ伝わってこない。過去を語ることを頑なに拒んでいたはずの兄が、弟に触発されて語り出す心境の変化についても、もう少し細やかな描写が必要だったと思う。

で、『熱狂』だけれども、これはなんといっても、ヒトラー(西尾友樹)にあのチョビヒゲを付けさせない、というところが良かった。よくあるヒトラー像とは一線を画したところで、新たなヒトラー像を創出することに成功していたと思う。見た目の小道具に頼らず、しかし演説の模写などはかなりよくできていて説得力があった。またぜひ観てみたい俳優さんだなと思った。なぜ、ナチスの党員たちが、ヒトラーを支えていったのか(あるいは反目していったのか)。そして彼がどうして人々(大衆)の支持を得たのか。このカラクリを見事な政治劇に仕上げていたし、最後は客席を「熱狂」させるような仕掛けになっている(つまり、観客はあろうことかナチスに感動してしまう!)。
枝光本町商店街

枝光本町商店街

のこされ劇場≡

枝光本町商店街アイアンシアター(福岡県)

2013/03/23 (土) ~ 2013/03/30 (土)公演終了

満足度★★★★★

町を立体的に浮かびあがらせる演劇の力
開演が5分早まった。というのも、予約をしていた人たちが全員集まったからだ(基本は予約制だったことに加えて、もしも急遽参加したいという地元の人が突然現れても、それはそれで受け入れ可能だと判断したからだろう)。開演時間が遅れることはあっても、早まる、という経験はおそらく初めてで、ちょっと新鮮というか、なんだか微笑ましいものを感じながら、『枝光本町商店街』は始まった。

参加者(観客)は、案内人・沖田みやこに導かれて、北九州にある枝光という小さな町の商店街をめぐっていく。回る順番はいちおう決まっているけれど、そのあいだ、商店街で買い物をするのは自由。ゆるやかな枠組みの中で、上演時間も特に決まってないので、参加者がどういうメンバー構成か、によっても体験の質(時間感覚など)はおそらくずいぶんと異なるものになるのだろう。

実はわたしはすでに1年ほど前に、この『枝光本町商店街』を経験している。基本のルートやゴールは今回も変わっていない。けれども、以前にはなかったエピソードや登場人物が加わっていて、特にあるエピソード(ネタバレBOXに書きます)は、この作品を以前よりもさらに「フィクション」として立体化させることに貢献していたと思う。

この作品はこれで80回目の上演になるらしい。それだけの回数、出演者(町の人)たちは外からやってくる人たちを迎え入れ、同じような話を繰り返し語ってきたことになる。そうなると最も危惧されるのは、語りを反復していくうちに町の人が「語り部」として固定化・パターン化してしまうことだ。そうなると倦怠感が漂うのは避けられないだろう。しかし驚くべきことにこの作品は、1年前に観た時よりもさらにフレッシュに感じられた。彼らがこうしてモチベーションを失うことなく、新たな参加者を迎え入れるためのホスピタリティを発揮できているのには、幾つかの理由があると思う。

(1)演出家の市原幹也が出演者たちとの関係を日々構築・刷新してきたこと。わたしはこれをこの作品における「演出」と呼んでいいと思う。演出の目的のひとつは「俳優をフレッシュに保つこと」なのだから。

(2)案内人の沖田みやこが登場人物たちとの信頼関係を深め、阿吽の呼吸が生まれたこと。

(3)登場人物たち自身の技量がアップしたこと。単に語る技術が向上したというだけのことではない。上演を繰り返す中で、彼らはその身体を通して、これまで町を訪れてきた人たちとの関係やエピソードが記憶(レコード)しているはずだ。

この作品の中では、様々な、心を通わせる瞬間が生まれうる。幾つか、それが起きやすいシチュエーションが用意されてはいるけれども、最終的にはそれはある程度の偶然性に委ねられている。誰が訪れても必ずそれが起きる、という仕掛けを用意したほうが、アトラクションとしては楽しめるのかもしれないけれども、この作品はそうではない。観客は一方的なお客様(消費者)としては考えられていないのだろうと思う。わたしはそのことを魅力的だと感じる。観客はこの町でいろんなものをもらう(具体的にも、おまけでモナカやコロッケや珈琲をもらったりする)。でもたぶん外からやってきた人の訪れは、少なくとも彼ら(出演者である町の人たち)には何かしらの栄養分にもなっているのではないだろうか。町の人すべてがその恩恵に預かっているとはかぎらないとしても(でも目に見えない形で循環はしているはずだ)。こういうことは、「お金を払えばなんでも手に入る世界」ではなかなか起こらない。

ネタバレBOX

新たに加わったエピソードに、モナカ屋のみずまさんが語る「赤いソファ」の話がある。路地にある古い家からある日、目を惹く豪奢な赤いソファが粗大ゴミとして道路脇に棄てられてあった、というもの(いったいどこまでが真実なのか……?)。これは、その道路がかつては「白川」という川であり、遊女たちが2Fの窓から手を引くような地帯であった、というエピソードと絡めて語られるので、「赤」と「白」というカラーと共に、町の淫靡な記憶が立ち上がってくる。ラストシーンでは、取り壊されることになっているかつての旅館の屋上にのぼり、この白川の跡である道を、ランドスケープとして眺めることができる。かつてそこにあり、今はもうないものが、一瞬、幻視されるような気がした。これこそが「フィクション」の力ではないだろうか。
キャッチャーインザ闇

キャッチャーインザ闇

悪い芝居

王子小劇場(東京都)

2013/03/20 (水) ~ 2013/03/26 (火)公演終了

満足度★★★

3つの物語がどんな像を結ぶか
3つの物語が並行して語られる。(1)手術で目が見えるようになった女、夫、愛人の三角関係の物語。(2)すぐに記憶を忘れてしまう青年とその友人や先生との物語。(3)とにかく早く走ることに命を燃やしている女、ライバル、コーチ、ドキュメンタリー映像作家(?)の物語。

それらは「現在」に閉じ込められた人々の逃走(の反復と失敗)の物語、という意味で共通性を持っている、と徐々に(わたしには)理解されてきたのだが、その諒解に至るまでの時間があまりにも長すぎたし、待たされたわりには、何かパッと明瞭に像を結ぶようなカタルシスがあるわけでもなく、しかもずいぶんと頭を使わなければ理解できないものになっているので(見える? 見えない? え? みたいな)、もっと体感的な説得力を持っていてほしかった。そのせいか、ところどころでは良いセリフがあったとも思うけれど、それらも、物語から浮いた決めぜりふで終わってしまった感がある。

悪い芝居はこれまでも何度か観ているので、彼らの熱い演技=演出方法に馴染みがないわけではないし、愛すべき人たちだと思う気持ちもないわけではない。ただ、この作品のメッセージを乗せるにあたって、果たしてこの演技方法でいいのかどうか、という点においては疑問を感じざるをえなかった。俳優がダメということではない。むしろ特に大川原瑞穂や池川貴清にはこれまで以上の達成が感じられたんだけれども……。

また戯曲も、いささか風呂敷をひろげすぎた感がある。「闇」にしても、「過去・現在・未来」にしても、「運命」にしても、ただハイテンションで押しきれるテーマではないし、ひとつひとつをもう少し丁寧に掘り下げて、解像度を上げていく必要を感じる。

ハリボテの岩を動かすことで自在に変化する床面(舞台美術)と、それを使いこなすテクニックはお見事。

また、衣装が良かった。時代を超越した感のある色合い。

音に関しては、選曲や作曲も含め、もう少し繊細さが必要だったかも。特に開演前の客入れ時は圧迫感があった。(開始して最初の数分の完全な闇と、光がもたらされる瞬間までは好きだったけど)。

月の剥がれる

月の剥がれる

アマヤドリ

座・高円寺1(東京都)

2013/03/04 (月) ~ 2013/03/10 (日)公演終了

満足度★★★★

もうひとつ食い破るものがほしい
壮大なスケールを持った作品だった。アマヤドリの前身であるひょっとこ乱舞の最終公演だった『うれしい悲鳴』と同じく、近未来SFの様相。作品世界の設定をなんらかの形で観客に説明しなければならないSFは、その説明くささがネックになりやすいけど、今回は前作よりもスムーズな説得力を持っていたと思う。

最初のほうの日程では完成度が低かった、とも複数人から聴いたけれど、わたしが観たのは千秋楽で、役者たちの息も合っており、クオリティは非常に高かった。場転が(彼らの得意技である)群舞によってスムーズに切り替わっていくのも楽しい。これだけの人数が動くのはやはり迫力があって見応えがある。個々の役者についても、小菅紘史、村上誠基、川田智美、小沢道成などの客演陣が印象的な活躍をしていたように感じた。

ただ、もうひとつ、突き抜けるところにまでは至らなかった。無いものねだりかもしれないが、物語が全体につるんとしてしまった(枠にはまってしまった)印象は否めない。もちろん登場人物は物語の中を生きている、いわば「駒」だとも言えるけれど、わたしは演劇の登場人物(そしてそれを演じる俳優)には、やっぱりその「駒」であるところを超えて、物語を食い破ってしまうほどの強さを求めたいのだ(それは劇作や演出の意図を超えて暴走する、という意味ではない)。この作品には、そうした食い破りを可能にするような、裂け目やほころびのようなものが乏しかったように思う。

別のところで、ロラン・バルトの写真論から、《ストゥディウム》と《プンクトゥム》という概念を援用したけども(http://d.hatena.ne.jp/bricolaq/#coffee)、それでいうとこの作品はほとんど《ストゥディウム》に支配されていたように思える。頭では理解できる。でもやっぱりそれでは、演劇的な感動や怖さは生まれてこないのではないか。どうしてもこの人たちのつくるものを見たい、と思わせてくれるような何かが欲しい。

ネタバレBOX

散華(さんげ)を指導してきた慇懃無礼な男が、女に働きかけて内部スパイとして散華を潰そうとする話は面白くなりそうだったのだが、特に回収されずに尻切れトンボになってしまった感がある。結果的には、軍人でありリーダーである男の妹が、同じことをする(散華の死に対してさらに自死で報いることで、散華の理論を破綻させる)とはいえ……。

学校のエピソードも微妙に中途半端さが残った。B組から転校してきた子が、実は産まれていなかった、というふうにも読み解けるけれども……? あちらの世界と、散華のストーリーとの関連が今ひとつよくわからなかった。
ストレンジャー彼女

ストレンジャー彼女

tsumazuki no ishi

【閉館】SPACE 雑遊(東京都)

2012/03/28 (水) ~ 2012/04/01 (日)公演終了

満足度★★★

「暗黒面」に向き合おうとする真摯な作品
 霊を召喚できる一家が奇妙な難事件を解決していくミステリーとして、テレビドラマとかにシリーズ化できそう。内容が陰惨すぎておそらく無理だろうけど……。当日パンフに書かれていた通り「暗黒面」に向き合おうとする陰惨な芝居だった。世の中の悪事や犯罪を列挙し、内蔵やら血やらを描写し、加害者や被害者の心理をトレースしていくのだから、脚本を書くのは相当しんどい作業だったのではないかと想像する。わたしはこの「なぜ人を殺してはいけないのか?」という90年代の呪いみたいな問題に対して、個人的には猟奇的な面ではあまり強い興味を持ってないんだけれども、世の中のダークサイドはむしろ見えないところで拡大しているのかなとも感じています。
 照明からしてとにかく暗い舞台だけど、地底人(寺十吾)が出てくるあたりからコミカルさが投入されて面白くなる。神なのか? 悪魔なのか? 人間を遙か遠くから見下ろすこの地底人キャラには、人間社会のウジウジした日常を突き放すような痛快さがあった(かなりキャラ濃かったな……)。淡々とした表情で的確にツッコミを放つ女(とみやまあゆみ)も、探偵ミステリーにおける助手的役割として印象に残ったけれども、後半は出番が急に減って、今ひとつ全体の中での位置づけがよく分からなかった感じ。登場人物の数のが多いせいもあるのかしら? もう少し、配役や、ひとりひとりの人物造形が丁寧であってほしかった。とある人物を演じた福原冠は、感情というものを表に出さない「透明な存在」を抑制した演技で好演していたと思う。へええ、こういう演技もできる人なんだ、と驚いた。ただ欲を言うなら、もうひとつ恐ろしい狂気を見せてほしかった。神戸の関西弁としてこれで果たして正しいのだろうか、とかそんなことが妙に気になってしまった。  
 囲み舞台ではあるけれども、人物の動きがあまりないので、場所によっては見え方がどうなのか、ということも気になった。特にディスカッションの場面になってくると、動きのなさが気になった。照明が暗いのも、演出上の効果を狙ったものとはいえ、あまり役者の表情が見えなくて少し残念。音楽の使い方もややもっさり(?)している感じ。若い観客にアプローチするにはそうした面での洗練が必要だとも感じる。現状では、演劇に馴染みの薄いお客にとっては敷居がかなり高いのではないだろうか。(以下、ネタバレボックスに続く)  

ネタバレBOX

 ラストシーンで、ビールが飲みたいから買ってこいとか、あとご飯と味噌汁を登場させるというのは、ある種の定番とはいえ生理的に訴えかけてくるものがあった。まあ、あんな暗くて死人に近い場所でご飯を食べたいとは思いませんけども……(笑)。
くろねこちゃんとベージュねこちゃん【ご来場ありがとうございました!!】

くろねこちゃんとベージュねこちゃん【ご来場ありがとうございました!!】

DULL-COLORED POP

アトリエ春風舎(東京都)

2012/03/14 (水) ~ 2012/04/08 (日)公演終了

満足度★★

愚かすぎる母の造形は何のため?
 うーん、こんなにも人生は牢獄めいていたんでしょうか。この物語が何を救うんだろうか? あるいは何を壊したいのか? 誰に見せたい芝居なのかよく分からなかった。エンタメとしては共感に乏しいし、逆に単に無理解な母や家族への恨みを果たしたいのだとも思えないし……?
 とにかく主要人物たる母親が、「内助の功」を絶対的な価値として信じる超保守的なジェンダー観の持ち主であるのがキツい。もちろんこの過剰に類型的なキャラクター造形は故意になされたものに違いないが、にしても、まったくそこに厚みがなく、「家庭=主婦=母親」を絶対視するあまり、盲目的で愚かすぎて、まいった。いくらなんでもこれはないと思う。物語が人間賛歌である必要はもちろんなくて、人の醜さを描いたり、時には何かを激しく糾弾したりしてもいいけど、人間やその生きる世界を過度に低く見積もるようなことは、作家としてやってはいけないことだとわたしは思う。作家はなんでも書けてしまうのだから(演劇の台本は、編集者や書評家の厳しい目に晒される小説に比べてチェックが緩すぎるとしばしば思う……)。もちろん「あえて」書いているのは分かる。しかしその「あえて」がどこに向かうのかの倫理的なタガは必要ではないだろうか。
 彼女の記憶を呼び起こし、その気持ちを代弁する二匹の猫(?)は、生き生きとしていて愛嬌もあったけれども、ギスギスする空気を和らげるという緩衝材以上の効果は感じられなかった。とにかく彼女たちがいなかったら相当キツかったのは確か。開演前には希望者に猫たちが紅茶を振る舞ってくれるサービスがあり(わたしもいただきました、美味しかったです)、フレンドリーな開演のアナウンスも含めて親近感を抱かせるものになっていた。アトリエ春風舎は地下にあり、ともすれば息苦しい雰囲気も帯びかねない劇場ではあるので、アットホームな空間へと読み換える演出は面白かったと思います。
 ただ「劇中で使用する煙草の煙は少なめのもので云々……」というエクスキューズがあるにも関わらず、開演前に主宰者が喫煙所でタバコを吸っていたのは、狙いなのかなんなのか。アトリエ春風舎は構造上、タバコの煙の中を通って劇場に入らざるをえない。あそこでしか吸えないのかもしれないが、あまり気持ちのいい感じはしなかった。穿った見方かもしれないけども、それが一種の反骨精神を示すポーズなのだとしたら、闘う方向を間違っていると思います。(以下、ネタバレボックスに続く)  

ネタバレBOX

 愚かな母だけではなく、周囲の人間の描かれ方も微妙だった。例えば家政婦(?)がキレるシーンで、雑巾を投げつけるのをためらうまでは良かったが、その後の罵倒がちょっと言い過ぎではないかと思う。まともにコミュニケーションもとらなかったくせに勝手に不満を抱え込んでキレるのは、幼稚としか思えない。そもそも雇い主の元夫の死(それも亡くなったばかり)に対して、「自殺の可能性が云々……」とか平然と口にしてしまうのは家政婦(?)として(人間としても)かなり無作法ではないだろうか。「最後にキレる役」として配置されたとしか思えない。
「4 1/2」 「キッチンドライブ」

「4 1/2」 「キッチンドライブ」

劇団子供鉅人

ポコペン(大阪府)

2012/03/25 (日) ~ 2012/04/16 (月)公演終了

満足度★★★★★

アイデアとガジェット溢れる豊かな世界
 大阪の若き雄・子供鉅人の『キッチンドライブ』は、フレッシュなパワーと、築100年の古民家ポコペンという時空間的スペックとが融合して素晴らしく面白い舞台になっていた。同居するある貧しい男女の気持ちのすれ違い。その、色を失ってしまった寂しい世界に、愉快な乱入者たちが現れ、世界を豊かで華々しいものに変えていく。これは、一種の魔法ですね。日常がいかようにも変幻自在であることを証明した。個体として生まれた以上は原理的に孤独でしかありえない人間の、しかし「どう生きてもいいのだ!」という自由を感じさせてくれた。
 左右の2つの部屋で展開される同時多発会話も、近しいはずの部屋同士の「遠さ」を感じさせる演出として効いていた。他にも、モールス信号、ラザニア、クリオネ、チープなフランス映画、ごま油の匂い、ロールキャベツ、シャンパンとワンカップ酒、両開きの冷蔵庫、押し入れ(笑)、電子レンジの音……様々なアイデアとガジェットが『キッチンドライブ』の世界を豊かなものにしている。築100年のポコペンは床が抜けそうなボロい家屋で、役者が歩くたびに軋む。階段を駆け上っていくシーンは底が抜けるのではないかと思った(それはあの家の長い歴史を感じさせた)。
 何より、リリー役の益山寛司の身体能力の高さは類を見ない傑出ぶり。あのバイセクシャル感はちょっと真似できるものではない。また乱入者たちに共感した女(キキ花香)の表情がパッと明るくなるのも、この物語世界の渇きと潤いとを表現していて良かった。
 開演前にはドリンクのサービスがあり、友達の家にお邪魔しているようなアットホームな雰囲気をつくりあげていた。寒い夜に観たので、ブランケットの貸し出しなどのサポートも有り難い。芝居の最中、あんまり面白くてつい手を叩いて笑ってしまった場面があったけれども、それもこのアットホームな雰囲気があったからこそだと思う。例えばもしデートで観に行ったら、帰り道のご飯がいつもより美味しくなりそう。
 今回は築100年の長屋という特殊な場所での上演だけれども、次回作『バーニングスキン』(再演。2012年6月末@原宿VACANT)はもう少し広い場所になるし、わたしは大阪の芸術創造館で観たけど、もっと幻想的なイメージの世界がひろがっていた。秋にはなぜかチャンバラ劇もやるらしい……(笑)。とにかくまだまだ底が見えない人たちだなと思います。

【耳のトンネル】満員御礼!ありがとうございました。

【耳のトンネル】満員御礼!ありがとうございました。

FUKAIPRODUCE羽衣

こまばアゴラ劇場(東京都)

2012/03/09 (金) ~ 2012/03/19 (月)公演終了

満足度★★★★★

実は(?)詩的な言葉!
 冒頭から心をつかまれた。羽衣は「妙〜ジカル」と名乗る演劇界の異端的存在ではあるけれども、これはまぎれもなく「演劇」だと思う。糸井幸之介(作詞・作曲・演出)は非常に優れたリリカルな言葉のセンスを持っているのだな、とあらためて。あけすけな男女のセックスの歌を書きながらも、細かい心情の機微を突いてくるのが素敵だった。
 今作はいつにも増して「生への肯定」に溢れていたように見えたけれども、とはいえやはり死(タナトス)の気配が根底にあってこそと感じる。あっけらかんとして生き、死んでいく人たちの業をやさしく捉えている。生殖によって子孫をつくり生き延びていくしかない人類が、何千年何万年と繰り返してきた行為だと考えると、なるほど、セックスとはつまりは永劫回帰なのだと思ったりもした。
 俳優陣の好プレーが目立ったが、特に素晴らしいと感じたのは日高啓介だ。少年の感受性のまま大人になり、楽観的に、だがたくましくキラキラと生きている自称ミュージシャン(?)を好演。28万円のエレキギターを買ってくれる母(西田夏奈子)や、うらぶれた旅館の女将(伊藤昌子)との絡みも非常に良く、糸井の描くまっすぐで詩的で、それでいて根の深い絶望を抱えているような世界観をよく体現していた。また、旗揚げ時から長年所属していた劇団ハイバイを卒業し、新たな道に踏み出した金子岳憲と、羽衣メンバーの鯉和鮎美とが、中学生に扮して初体験を果たす「ロストチェリー」の場面もしみじみと。笑えて、泣ける(しかも同じ場面で)、実にエンターテインな舞台だった。
 ぜひカップルで観てほしいとオススメしたい作品。ただし微妙な時期のカップルの場合、その恋がその夜のうちに一気に成就するか、あるいは完全に破綻してしまうかのどちらかと思われます。決め手に欠ける人は清水の舞台から飛び降りる気持ちでえいやっとどうぞ。
 ひとつだけ気になるのは、ヘテロ的な異性愛を前提にしすぎているのではないかという感じが、今回はいつも以上に気になってしまったこと。わたし自身が、夫婦別姓で全然いいし、むしろあなたの苗字になりたいとか言われても別に嬉しくないと思っちゃうタイプだからでしょうか。もっと旧来の「男/女」観では割り切れないラディカルな存在が入ってくれば、羽衣の描く世界はもっと広がっていくようにも思うし、今や仮にそうしたものが入ってきたとしても、性の悦びと哀しみにあふれた羽衣の持ち味が消えることはないはず。
  あと完全に蛇足になりますが、高橋義和による「高橋名人の冒険」のシーンが超愛らしかった。なんか、がんばれ、と応援してしまうあの感じはなんだろう……。

うれしい悲鳴

うれしい悲鳴

アマヤドリ

吉祥寺シアター(東京都)

2012/03/03 (土) ~ 2012/03/11 (日)公演終了

満足度★★

群舞はお見事、しかし……
 得意としているのであろう群舞シーンはお見事だと思いました。本公演のパンフレット(面白かったです)によれば「全員で動く」ことは彼らの重要なメソッドであるらしいので、劇団名をアマヤドリに変えても、今後も何らかの形で継承・発展されていくんでしょう。
 しかし残念ながら物語はわたしには退屈だった。「感度」が今作のテーマとのことだが、登場人物たちの「痛み」が今ひとつ伝わってこない。それは、あるセリフを吐く時の(吐かざるをえない時の)根拠が不足しているせいではないか。もっと逃れようのない場所にまで踏み込めたのではないか。「敵の見えない現代」を描きたいという意志は感じるけども、「自分にしかそれを描けない」というやんごとなきパッションまでは感じられなかった。
 この物語は、いわゆる管理社会型ディストピアSFだけれども(ジョージ・オーウェル『1984年』や、レイ・ブラッドベリ『華氏451度』、テリー・ギリアム『未来世紀ブラジル』、最近では伊藤計劃『ハーモニー』etc.)、その設定がどうにも幼稚に見えてしまった。例えば「アンカ」という処置執行システムを遂行する「オヨグサカナ」のメンバーの議論には、思想的葛藤や知的蓄積がほとんど感じられず、とてもこの人たちが国家の命運を左右しているエリート官僚だとは思えない。SF的な発想には今後も可能性があると思うし、個人的にも嫌いではないけども、リアリティが必要なところはしっかり描いてほしい。誤解のないように言い添えれば、リアリズム演劇が見たいわけでは全然なく、荒唐無稽で一向に構わないのですが、なまじロジカルな説明によって世界観を構築しようとしているのに、その論理が幼稚なのでは説得力に欠けてしまう。ただ、(小説や映画と違って)演劇でそれをやることの難しさも分からなくはないので、だとしたら思い切って説明的な部分を書かない、とかの英断もアリなのかもしれない。
 演出・演技の面では、肝心の「感じない男」の長ゼリフが魅力的ではなかった。実力ある俳優たちはいたはずなので、個々の場面が生きてくれば、もっと豊かで起伏のある舞台にできたのではないかと思ってしまう。観た回がとりわけ良くなかった、という可能性もあるかもですけど。

翔べ翔べ翔べ!!!!!バナ学シェイクスピア輪姦学校(仮仮仮)

翔べ翔べ翔べ!!!!!バナ学シェイクスピア輪姦学校(仮仮仮)

バナナ学園純情乙女組

王子小劇場(東京都)

2012/05/24 (木) ~ 2012/05/27 (日)公演終了

満足度★★★

感覚を閉ざさせてしまうもの
 シェイクスピアの各作品のカットアップに加え、なぜか『三人姉妹』や『ゴドーを待ちながら』(どこでやってたの?)をミックスさせた混成軍が、例によって水やワカメを投げつけてカオティックな世界を顕現させる。過去に観たバナナ学園の中でいちばん水に濡れました。油断した……。まあでもそれは笑い話になるわけです。
 わたしがバナナ学園の良さだと思っているのは、完全に複製物や偽物まみれになってしまった現代における、その、もはやイミテーションでしかありえない身体の絶望を、オリジナルへの懐古や回帰によって埋めるのではなく、むしろ過剰に複製/模倣していくことによって死屍累々を築きながらも乗り越えていこうとするその無謀さである。殉死、殉死、それも大量の殉死……。それが感動を呼び起こす。
 しかし今回は、確かにディズニーランド的な楽しさはあったけども、やや狂騒的なアトラクションの方向に傾きすぎた印象も。そして今ひとつ「圧」が足りなかったと感じるのは、方向性が明瞭ではなかったせいでは? 二階堂瞳子自身、あるいは参加する役者たちは、自分たちの狂騒ぶりをどのように考えているのだろうか? 今回は、舞台上で役者が観客にセクシャルハラスメントを仕掛けるという事件が発生したらしい。わたしは性犯罪というものを心底憎んでいるし、被害者がそれを告発することが相当な勇気を要するであろうこともできるだけ理解したいと思って日々を生きているけれども、この事件をもってバナナ学園の(過去作品も含めた)全てを否定しようとは思わない。ただ6月10日現在、その行為が演出家の指示もしくは容認だったのか、役者個人の暴走によるものだったのかは明らかにされておらず、二階堂瞳子自身の肉声(?)が聞けてないことも含めて、正直ちょっとモヤモヤした気持ちは残る。なぜそこに誰も歯止めをかけられなかったのか、と組織の在り方にこれ以上不安を抱かせないためにも、できうるかぎりの事実は明るみに出したうえでの再出発を図ったほうが、今後バナナ学園に関わっていくかもしれない人たちも、気持ちに整理がつくのではないかしら。
 劇場は、観客の価値観が揺らぐような場所であってほしい。その意味においては「危険」だし、決して「安心・安全」な場所ではないとわたしは思っています。しかし肉体的な危険性はできうるかぎり排除してほしいし(できれば俳優たちにとっても)、その責任が主宰者側にはあると思う。バナナ学園が水やワカメを飛ばすのは、それが服を濡らすことはあっても、観客の身体を傷つけるものではないからだと思っていた。とにかくこれを機に自分たちがやりたいことの原点を見つめ直して、また元気に暴れ回ってほしいと思います。あとは当人たちの判断だと思うので、現時点でわたしから言えることは以上です。
 ちなみに今回、わたしは上記のような行為を直接は目撃していないのですが、そもそも舞台で何が起きているのか、感じられる時間が少なかったように思う。レインコートを過剰に気にして防御的になり、感覚をひらいていくことが難しかった。できうるかぎりそうしようと努力したのですが……。
 役者では、「菊池」の名札を胸に貼り付けたブルマー姿の浅川千絵の勇姿を久々にバナナ学園で見たけれども、やっぱり水を得た魚というか、群を抜いた存在感を発揮していた。今回は謎の黒人(!)とのコンビネーション……。七味まゆ味の『三人姉妹』演説はさすがの存在感。中林舞のダンスもこのカオスの中にあって異彩を放っていた。ただ全体的に群舞がモヤッしていた印象もあり、相対的に、個々のプレイの持ち味も100%は活きなかったような。
 最大のネックとも思えるのは、せっかくシェイクスピアを使ったわけだけれども、セリフやシーンを聞かせるのか、聞かせないのかもどっちつかずだった感じ。うまくいけばシェイクスピアを成仏させることさえもできた気もするんだけど……。

オーシャンズ・カジノ

オーシャンズ・カジノ

北京蝶々

王子小劇場(東京都)

2012/04/18 (水) ~ 2012/04/30 (月)公演終了

満足度★★

暴力の気配が感じられず
 カジノ船を舞台にした物語だが、いかんせんギャンブルのリアリティに欠けたのが残念。億単位の金額が動く話にしては、「暴力」の描かれ方があまりに浅薄ではないでしょうか。ボディガードも連れず飛び道具も持たずに単身であの中国人実業家が乗り込んでくるというのは、(どんなに彼がカンフーの達人であったとしても)ありえない。ギャンブルは、どんなに額面で稼いでいたとしても、それだけではただの紙切れ。最終的に実際にそのお金もしくはそれに見合うだけの担保を手にして無事に持ち帰れるかどうかにかかっている。権力だってそう。それ相応の見返りなり実効性なりがないと、人を支配下に置くことはできない。そこにはヒリヒリした暴力の気配があるはずなのだ。そうしたものが乏しいまま、命やら町やら愛やらを賭けてますと言われても「ギャンブルごっこ」としか見えなかった。フィクションであっても(フィクションだからこそ)物語世界を支えるための最低限のリアリティは確保する必要があるのでは? 特に今作はロジック(論理)で物語を動かしているわけですから。
 演出面では、派手さ・楽しさはあったけれども、テンションがひたすら高く、しかもシーンごとにブツ切れてしまうので、劇全体のグルーヴを見出すことが難しく、野放図なエネルギー過剰といった感じで疲れてしまった。こうしたいかにも小劇場的な狂騒ぶりは、言い方はアレですが、もはや古くさいのではないかとわたしは思ってしまいます。そんなことをしなくても、人と人とが見つめ合っているだけでも演劇になるかもしれない。や、もちろんそれだけでは演劇にならないんだけれども、だとしたら演劇とは何か?といった考察なり感性の錬磨なりを通じて、もっと恐ろしいものを舞台に乗せることができるのではないでしょうか。舞台美術とか、中国人実業家(鬼頭真也)の存在感とか、興味を惹くところもあったけれども、全体に、役者や物語が粗雑に扱われているという印象を受けてしまった。(以下、ネタバレボックスへ続く)

ネタバレBOX

 何しろあの負け続けてるダメ青年がヒーロー気取りになってる理由がよく分からない。そこにみんなが町の命運を賭ける動機付けも弱かった。そもそも、あの最後の大勝負でポーカーを選ぶのは無理があるのでは? レイズありなら、掛け金が足りなくなるって最初から分かることじゃないのかな……。
深海のカンパネルラ

深海のカンパネルラ

空想組曲

赤坂RED/THEATER(東京都)

2012/04/15 (日) ~ 2012/04/22 (日)公演終了

満足度★★

オマージュは危険
 宮沢賢治の『銀河鉄道の夜』を原案にした芝居は何作か観たことがあるけれども、大体あまり面白くないのは、どうしてもジョバンニとカンパネルラの「友情」に引きずられてしまうせいでしょうか。もともと空想組曲はファンタジーを扱う劇団だと聞いてはいたので、やや寓話的な傾向はあると予想はしていたけども、にしても、宮沢賢治の世界に無批判に寄りすぎたのではないか。オマージュというものは、いつも命取りですね……。
 2つの世界を行き来するのはファンタジーの常套手段で、『オズの魔法使い』でも『果てしない物語』でも『ピーターパン』でも『千と千尋の神隠し』でもなんでも「別世界に行って帰ってくる」ことを通して成長が描かれるわけですが、今作はこの妄想に囚われた男の子の未熟な自意識というものが、わたしには全然響いてこなかった。現実からひきこもって逃避することで生まれる暗い妄念の恐ろしさを、もっと丁寧に描いてほしかった。表層的な世界に留まってしまった感があります。ただ、同級生(渡邉とかげ)が感情を爆発させるシーンは心を打つものがありました。
 あと、うーん、わたしにはどうもこの「やおい」に近い男の子同士の友情(恋愛?)になんだか気恥ずかしいものを感じてしまう。また、テーマや公演規模を考えると、上演時間2時間超えは長すぎたという印象も。冒頭の照明は美しく、期待感はあったのですが。

夢!サイケデリック!!

夢!サイケデリック!!

範宙遊泳

アトリエ春風舎(東京都)

2012/04/25 (水) ~ 2012/04/29 (日)公演終了

満足度★★

自由すぎた夢
 そもそも自由で無軌道すぎる「夢」を演劇でそれをどう統御するのか、あるいは逆にどう爆発させるのか。そこに今回の山本卓卓の挑戦があったんだろうし、誰が主体なのか不明瞭なまま物語を展開させていく語り口には、今後さらに掘り進めるだけの可能性もあるでしょう。しかしながら想像力が飛翔するタイミングを見失い、そのまま終わってしまった感じ。特に彼らの持ち味である遊び感覚が、今回は幼稚としか見えなかったのが残念。ヒロインである熊川ふみが頑張ってはいたものの、彼女の性別を消失・超越したような感じは、本来であればもっとこの「夢」の設定にハマれたはずなのになあと思ってしまう。他の役者さんたちもみな好きなのですが……。
 範宙遊泳の良さのひとつは、世の中のブラックな部分をユーモラスなやり方で舞台に引きずり出すところだとわたしは思う。決して綺麗でもなく、美しくもないもの、時としてどうしようもなくダメダメなものを、なんだか愛らしいと思わせてしまう。今作はその愛嬌が鳴りをひそめた。アトリエ春風舎の狭い空間であるにも関わらず、そしてわりと騒いでいるにも関わらず、終始どこかスカスカした感じがしたのはなぜだろう?
 山本卓卓は毎回手を変え品を変えいろんなことをやっていて、それはそれで素晴らしいアイデアの宝庫だと思うのだが、やはり長い物語を書いて上演するには、それ相応の筋力が必要だと思う。単発のアイデアを連射しても付かないような筋力が。長い物語では、うねうねしたグルーヴが生まれないとただのブツ切れの集積になってしまう。次回、再演となる『東京アメリカ』(2012年7月@こまばアゴラ劇場)はこれまで観た範宙遊泳の中で最も好きだった作品。彼らならではのグルーヴをぜひ見せて暴れてほしいなと思っています。

ことほぐ

ことほぐ

intro

生活支援型文化施設コンカリーニョ(北海道)

2012/05/31 (木) ~ 2012/06/04 (月)公演終了

満足度★★★★

北国のダークホース
 わたしにとってまったく未知の、名前すら聞いたことのない劇団だったintro。今回のCoRich舞台芸術まつり!のダークホース的存在。「ロストジェネレーション」問題が勃発して久しい、もはや貧しさがデフォルトになった現代的な町の片隅を舞台に、異なる価値観をぶつかり合わせながら、女が(人が)この先ゆき不透明な時代をどのように生きていくかを描いた物語。
 キャラクターとそのバックボーンがやや類型的に描かれすぎていると感じるところもあった。しかし貧しさの中にもささやかな幸福を追求しようとする人々への温かな眼差しには、同時代を生きる人間としてシンパシーを感じます。特に、北海道の盆踊りの特徴であるらしい「子供の部/大人の部」という二部構成をモチーフにした物語の構造は秀逸(だからこそディテイルはもっと冒険していい気もする……)。そして簡単に物語を投げてしまわない粘り腰がある。なるほど妊娠というのは、2つの生命体が特別な共存関係を持ちうる特殊な時間であり、にも関わらず、結局は人間はひとりなのだあ、と感じさせるものがあった。そのことはむしろ希望であり、清々しいもののように思えます。イトウワカナ(作・演出)の別の作品もまた観てみたい。『ことほぐ』は東京でも上演されるそうです(2012年9月@こまばアゴラ劇場)。
 ただ、序盤の時間があまりスリリングではなく、しばしば入るツッコミもグルーヴを損なっていたと思う。もっとアブストラクトでシュールな不条理劇に接近してみるとかいう方法もあるのかも。余談ながら、まだ全貌を把握しているわけではないので断言はできないのだが、地方演劇の弱さのひとつは、そうした抽象性への耐性が弱いところにあるのかもしれない。よく「分かりやすくしないとお客さんに通じない」と地方の演劇関係者が口にしているのを耳にするのですが、しかし、それは本当にそうだろうか? 観客のポテンシャルをもっと信じていいのではないか? 意外と大丈夫、という手応えを感じる実例に接することが、増えてきているので。(以下、ネタバレボックスに続く)

ネタバレBOX

 演劇のガジェットのひとつに「ちゃぶ台」がある。生活感も表現できるし、空間的にも(サザエさん的な)求心力をつくることができる。しかしこの『ことほぐ』ではおそらくわざとちゃぶ台を登場させていないのだと思う。安易に道具に頼らないそのこだわりはなんか、いいことのような気がした。
 3人の良き理解者にも思えた隣家の貧乏青年(今回の座組に単身大阪から参加した俳優・加藤智之が好演していた)が、突如裏切って妊婦たちを罵り始めてどんづまりになったところで、炊飯器の炊けた音がチャララーと鳴るシーンも印象に残った。善や悪、敵や味方といった区分けがすべて無効化されるような静けさがあり、あの時間がずっと続いてもいいなと思った。ラスト、力強く鳴り響く太鼓の生音がGood。

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