ハンダラの観てきた!クチコミ一覧

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蒲田行進曲

蒲田行進曲

ふれいやプロジェクト

シアターKASSAI【閉館】(東京都)

2018/07/04 (水) ~ 2018/07/09 (月)公演終了

満足度★★★★

 舞台美術は至ってシンプルだ。(華4つ☆)

ネタバレBOX

奥に暗幕を置いて手前に上手、下手をずらした迫り出しにして袖を作ると同時に出捌けとしても用いている。他はフラットだ。必要な状況設定の多くは効果的な照明と音響で代替されている。
 照明に関しては、放射状に様々な焦点から照射される光の照射がスターの特殊性や光輝を表すなどつか独自の照れ隠しの突っ張りやナイーブさを役者に投棄する演出として見せ、階段落ちのシーンでは、ビニール傘を使用した階段の比喩的表現が観客のイメージを確固としたものにし、音響と役者陣の仕草がその危険と不吉な結末を盛り上げる。
ところで、ホントのことは地味で深い。だから多くの者が見過ごし、結果その真の意味も深い知恵と味わいも無いことになってしまいがちだ。然もギリシャの昔にソフィストが詭弁を弥縫するにレトリックを用いたように、嘘は華やかで一見センスの良い見てくれで人々を惹きつける。中身など何もなくても、こうして薄っぺらで本質を欠いた表象が人々に認知され、彼らの判断のベースになってゆく。ポピュリズムはこのようにして形成される。
 今作は、こうした状況を逆手に取り、つかが、己の被差別者としての位置を作品に織り込みつつ、銀と安そして銀の子を孕んだ小夏の三角関係を通じて、人の痛みの痛切さ、大好きな銀の子を孕んだ小夏を押し付けられながら、小夏に惹かれ、銀に引き裂かれる大部屋俳優の安のアンヴィヴァレンツを生き抜く壮絶な生き様をを中心に“存在の痛み”としてエンターテインメント化して見せた作品である。今作が大反響を呼び、映画にもなったことは、多くの方がご存じだろう。
 良い劇団だと思う。それだけに初日とはいえ、噛むシーンが多かった役者がいたことは残念。更に伸びる為には、こういう点も頑張って欲しい。
dreaming - ホエル

dreaming - ホエル

システマ・アンジェリカ

早稲田大学学生会館(東京都)

2018/06/29 (金) ~ 2018/07/01 (日)公演終了

満足度★★★★

 しょっぱな、披露されるパフォーマンスは、ダンスというより、静止とポージングを意識的に取り入れたパフォーマンスでとても面白い。華4つ☆

ネタバレBOX

 所謂ビート派のケルアック、ギンズバーグ、バロウズら、打ちのめされた世代の文学者たちの話である。尤も今作にバロウズは出てこない。その代りと言っては何だが、ホモセクシュアルはたくさん出てくる。彼らがRimbaudのLe Bateau ivreを引用するのも面白い。Rimbaudは、恋仲にあったVerlaineを銃撃しているからな。今作でもギンズバーグに恋人のルシアン・カーを取られたディヴィッドの嫉妬に耐えかねたルシアンはディヴィッドを刺殺している。無論、ビートジェネレーションにはヤクに手を出していたというか、完全なジャンキーも居た。一般人からみれば、ロクデナシの屑ということになろう。だが、そうだろうか? 文学の最高形態、詩の言語というものは、単なる単語の羅列ではない。言葉という物質のめくるめき争闘である。詩人は、言葉を物質化する為にありとあらゆる可能性と狂乱、開闢以来の争闘を自らの身に引き受けて物質化した言葉として羽化するのだ。
 今作は、そのアーティストの素質としての鋭敏、傷つきやすさや、純粋さを暗示するかのように狂気に奔ったギンズバーグの母もずっと舞台上に居り、時に収容施設での“治療”の有様なども語られるが、これは、詩的才能を持った者が詩人になる為に科された一種の宿命をも表しているだろう。ラディカルの何たるかを示した作品と言えよう。
棄児も泣かずば雨たれまい

棄児も泣かずば雨たれまい

劇団 枕返し

北池袋 新生館シアター(東京都)

2018/06/29 (金) ~ 2018/07/01 (日)公演終了

満足度★★★★

 板奥中央に硝子窓、窓からは外に広がる森が見える。窓の両側には、窓枠よりかなり長い真っ赤なカーテンが垂れ下がっている。この赤は、遺棄された子供たちの血の涙にも見える。
板上はフラット。

ネタバレBOX


 ところで1977年のフランス映画に「これからの人生」(日本公開は2年後)と邦訳されシモーヌシニョレが主演した作品がある。彼女(ローザ)は既に年老いていたが、パリの娼婦たちの私生児たちを預かることで方便(たつき)を立てていた。中には養育料を支払わない親もいたが、老婆はそんな子供たちも見捨てた訳では無かった。殊にモハメドは、彼女のお気に入りだった。然し寄る年波には、勝てない。既に彼女は、病に蝕まれていたのだった。偶々モハメドも彼女の病状が思わしくないことを知り、何とか自分で稼いで少しでも彼女の手助けをしたいと願う。進行する病の中で彼女は、“ユダヤ人の隠れ家”と自称する部屋でモハメドとの時を共有する。モハメドはモハメドで失踪していた父との関係が明らかになる中、彼の努力も空しく息を引き取ったローザを2人だけの隠れ家に保存したまま、倒れてしまう。発見された時、彼もまた病に罹っていたが、その病とは、遺体と共にずっと一緒に居たことであった。これらの経緯を記したテープが、カラカラと回る、それがラストシーンだったと記憶している。この乾いた幕切れは、モハメドが精神を病み、病院に収容されたことを暗示するが、死体と共に密室に籠るという確かに常識を超えた愛情表現ではあっても、映画は、彼らのメンタリティーを理解しえない乾ききった世間を告発してもいよう。
 今作で、雨が降り続いているのは、単に陰鬱を表すというより遺棄された子供達の心に潤いを与える為であろう。またその雨音は密やかな子供達の心の陰り、深いトラウマを洗い流そうとするようでもある。登場するキジムナーは、ガジュマルに棲む精霊であるが、その花言葉は“健康”だそうである。そのキジムナーが、親に捨てられたと自覚している者達に寄り添っている所にも一見チャラけたように見えなくもない今作の深みを見るべきだろう。
 親に捨てられたと自覚した時点で、子供達は、裏切られたという痛みに心底深い傷を負う。それが例え2歳という年齢でも、子供はハッキリ覚えているものだ。そして、この記憶は長期に亘って子供達を苛む。無論、親の事情もあろう。ケースバイケースだが、母は殊に子供以上に傷つき思い悩む場合もあると同時に己の欲望に負け、子供を見捨てる場合もあるだろう。
 今作にも様々なケースが、描かれる。問題が余りにも深刻であるが故に、敢えて滑稽な要素を入れて、軽みを持たせた部分もあるが、一方でシリアスな科白も中学2年の今は元施設の教師であった女性の里子になっている聡明な子に言わせている。多くの人に見てもらう舞台という表現形式から許容範囲であろう。と同時に、子供達も己の苦しみを通じて、他者の痛みを知り、他人を許すことが出来るようになることによって、己自身をも救うという摂理まで想像して構うまい。そのきっかけになるのは、信頼できる他人に出会うことであり、その人から魂を救う愛情を注がれることである。
このゆびとまれ2

このゆびとまれ2

演劇ユニットZANNEN座

OFF OFFシアター(東京都)

2018/06/28 (木) ~ 2018/07/01 (日)公演終了

満足度★★★★

  短編を組み合わせたオムニバス形式の舞台だが進行及びタイトルは時間割に基本的に従う。脚本は、かなりシリアスな部分も含み期待以上の出来だ。

ネタバレBOX

 板上のレイアウトは衝立を張り巡らせ、板奥の中央が左右に開けられるようになっていて、衝立で隠れたままになっている部分が袖として使える。他板上手に時間割、日付、日直名等が書かれた緑板が斜めに設えられているが、緑板中央はスクリーンとしても用いられる。他はフラット。必要に応じて若干箱馬が用いられる。
尚、時間割は下記の通り 1時間目:国語
            2時間目:英語
            3時間目:数学
            4時間目:体育
            給食  :
            昼休み :
            5時間目 :社会
            6時間目 :音楽
            放課後  :
 以上である。科目名と内容にはかなり落差もありこれも楽しめるのだが、個々の挿話に内容があって、普遍的なものに棹差す傾向も見て取れ、味わい深い。
惜しむらくはオープニング、尺の心配もしたのであろうが、間の取り方が余りにスピーディーで劇調が軽くなり過ぎたキライがあることである。この辺りじっくり間を取って演じた方が、深みが増してずっと良くなるのではないだろうか?
 
緑色のスカート

緑色のスカート

みどり人

新宿眼科画廊(東京都)

2018/06/29 (金) ~ 2018/07/03 (火)公演終了

満足度★★★★

 開演前と上演中に使われるのが奥のスクリーンに映る映像なのだが、チェコやデンマークのクレイアニメのような雰囲気で実に好ましい。(追記2018.7.1 0:36)華4つ☆

ネタバレBOX

 ところで作品内容は流石に女性の脚本というか、かなりリアルな恋愛文様を為している。それも実際多くの人々が体験してきたように、思う人からは思われず、思いもしない人からは思われる行き違いなどと登場人物たちの個々の出会いが更に絡まる恋だ。この行き違いと、その微妙や辛さ、しんどさなどをつぶさに舞台化している点で、頗る女性的な作品である。同時に実際に同棲するような間柄であっても、カップル各々の思いが重なっていることは、先ずない。という事実をキチンと突き付けている点が自分には好みである。
 それが良いか悪いかはともかく、現代日本に於いては恋の成就に対する強烈な否定や、否定をする人々、社会的タブーは、昔ほど強くないから、炎に油が注がれた燃えるような恋というものも珍しくなっているのかも知れない。それかあらぬか、男も女も互いに中性化し、ぬるま湯の中を揺蕩うエパーヴとして浮遊しているだけであるのかも知れない。もしそうであるならば、かつてヘテロの男は柔らかなものを愛し、ヘテロの女が固いものを愛していたのとはことなる組み合わせが可能となるであろう。対立する性質への愛ではなく、同質の者への愛が斬新的増加を遂げているとすれば、今作のラストは必然ということになろう。LGBT等が或る程度社会的に認知されるようになった背景には、このような変化もあるのかも知れない。
ダイアナ

ダイアナ

feblaboプロデュース

新宿シアター・ミラクル(東京都)

2018/06/21 (木) ~ 2018/06/25 (月)公演終了

満足度★★★★

 舞台上はほぼフラット、脚立が3つ、パイプ椅子が2脚、」型の客席に画された対面の壁に立てかけられている。脚立は1つだけ組み立てられている。

ネタバレBOX


 ポール・アンカの大ヒット曲を日本では和声ポップスとして山下 敬二郎が歌った、あの「ダイアナ」の歌詞の中に“君は僕より年上と”というフレーズがあるが、これが、最大限利用される男2人、女1人の3人芝居。
 極端化すると此処まで引っ張れるのか!? と驚嘆するような展開が面白い。大恋愛の持つエネルギッシュな賭けが、生命再生産という本能の持つ業と深く、強く繋がり因縁という名の宿業が描かれる。
 幼稚園の時からの幼馴染、賢一と優は親友だ。現在は30歳を少し過ぎている。賢一は郵便局で働いているが派遣のフリーター、優は、コンサルをやっていって羽振りがいい。「大事な話がある」と賢一から呼び出された優は、来年には取り壊される廃校になった小学校に忍び込んだ。無論、賢一は先に来ていたが中々、話を切り出せない。結局話を棚上げにしたまま、雑談に興じていたが、優が結婚することになった彼女(翔子)を表で待たせているというので、中に呼び入れることになった。中に入って来た翔子と出会った賢一はちょっと不自然に何気を装うが、翔子もまた歯牙にも掛けないそぶりで“初対面”の挨拶を交わす。  偶々、父の癌の件で電話を受けた優が席を外すと、翔子と賢一の関係が明らかになってゆく。翔子は賢一の元カノであった。而も、現在彼が付き合っているトシ子(58歳)さんと付き合い始めた時期が翔子と付き合った期間と被っている。一方、翔子が友人の車を借りて事故を起こした際に掛かった費用、126万は賢一が弁済していた。それ以外にも少額の貸付があったのだが、彼女は返済していない。また、翔子が優と知り合ったきっかけは、彼女が居酒屋で優の落とした財布を拾ってくれたことだった。尤も、中に入っていた現金は、2万にも届かない額ではあったが抜き取られていた。
 賢一は、自分への不誠実な彼女の対応と優の話から、翔子が彼の財布に入っていた現金を奪ったのではないか? との疑念を抱く。
 戻って来た優と賢一、翔子三つ巴の闘いが始まる。というのはあと1年の余命と宣告された父は、仕事一筋で妻、トシ子に頼る他ないのに、彼女は今、賢一の彼女であり、相思相愛になった結果、71歳の父との熟年離婚を望んでいた。翔子は、親友の元カノである。互いの愛は譲れないが、親子の情、親友の強いメンタルな結びつきも切れない。
 これらの思いを相互にぶつけあう舌戦がみもの! ラストは、結末を敢えて曖昧にして余韻を持たせ、観客の想像力に任せている。

7人の壊れた女と男がひとり

7人の壊れた女と男がひとり

マニンゲンプロジェクト

「劇」小劇場(東京都)

2018/06/20 (水) ~ 2018/06/24 (日)公演終了

満足度★★★★

 舞台は廃村と化した場所。(華4つ☆)

ネタバレBOX

ここにDV、遺棄、セクハラ、三角関係の縺れ、家庭内問題でのトラウマ、義父によるレイプ、セックス依存などで、男を受け入れることができなくなったり、男や過酷な状況からサンクチュアリを求めた女7人が集められた。期間は1年、大手企業が廃村を利用して年齢も育った環境や学歴なども総て異なる7名を共同生活させ、男女の混在する社会との差異を検証する為に集めて実験をしているのである。無論、報酬は生じる。
 ところが11か月目に、森の中で首まで埋まった男が発見された。この事件に、女達が示す反応の違いや、それぞれの女が抱えている問題が明らかになる。女だけの時との対比も当然出てくるのだが、この辺り、個々の男性経験や経験の質が、露骨に彼女らの認識に影響を与えている点は、子を産むことによって未来を生み出し、生命の源流を繋ぐ性である女性を表しているようで興味深い。一方、対男性では、どちらが阿呆であるかについての言い争いも見物だし、殺人事件などシリアスな状況を描きつつ、アルゴリズム体操が随所に挿入されて様々なタイプの笑いを引き出す演出もグー。
 演じられる様々なキャラクターが、男の物理的暴力の前で、如何に力に拠らぬ方法によって生き抜き未来を孕むか、という問題にあるように思うのは自分だけだろうか? 力に対する時には、味方を増やして敵を圧倒する他、個々では敵わない大きな力に対しては団結し、それまでの経緯を反故にして立ち向かうことを矛盾と捉えない思考経路なども実に興味深いのである。
 普段、男から観て、とても特徴的だと思える女性の思考、行動についてかなり自然に描かれている様に思う。
 また、途中からずっと続く雨音は、猛獣が捉えた獲物を生きたまま貪り食う音のように聞こえ、生き続けることの凄まじさを表しているようで、グー。生きるということは、どんなに気取って見た所で、所詮、他の命を貪り食う事ではあるのだから。この事実を茶化すように挿入されているアルゴリズム体操は、グロテスクなまでのリアルを想起させているのだ。(アルゴリズムを態々説明する科白が入っているのもこれが狙いだろう)
裏の泪と表の雨_

裏の泪と表の雨_

BuzzFestTheater

赤坂RED/THEATER(東京都)

2018/06/20 (水) ~ 2018/06/24 (日)公演終了

満足度★★★★★

 釜の様子が良く描かれ、作品に深みを与えている。主役級のドラマは無論のこと、脇役キャラの設定も素晴らしい。(追記2018.6.26)

ネタバレBOX

 舞台は愛隣地区といえば地元民ならだれでも思いつく、釜ヶ崎の一角にあるお好み焼き屋だ。板上には正面に畳敷きの客用スペース、お好み焼き用の鉄板のついたテーブルが2台、各々に座布団が4枚ずつ置かれている。上手手前には冷蔵庫、その手前を入った所が袖、袖の裏側辺りにトイレが設定されており、店内畳敷きの奥には、少し腰かけられるほどのスペースの奥に窓が左右1つずつ。室内上部には棚があり、だるま(未だ目が入っていない)、招き猫、神棚などが置いてある。
下手、店のくぐり戸を抜けた辺りから側壁までが、街の様子を表現する為に労務者風の人物が、雑談や用足し、路上飲酒等々、釜の生活を表現する場所になっていて、今作にとって極めて重要な場所だ。
店主は大学を出た後、2年勤めに出ていたが、店をやっていた母親が体調を崩したので一時の手伝いのつもりで店に入ったままずるずると続け、しょんべん臭いニコヨンの街で18年のうちに味の良い店としての評判と、個性的で魅力的な従業員たちの対応でかなり繁盛する店になっており、常連客もついている。
 ところで、今作、しょっぱなの話が、阪神戦ともっと大事な話として、お好み焼きをひっくり返す道具を何と呼ぶかの激論だという所が如何にも釜らしい風情を描いていて見事だ、つまりこの実に他愛もない話題から、釜の生活を象徴的に表している点も高い評価をすべきなのだ。無論、他にもこの「隠され見捨てられた街」の表象はいくらも出てくる。
 例えばこの辺りは社会インフラも余り良い状態とは言えないせいか、下水管が詰まって汚水が溢れだすということも大雨の時には起こりがち。街が臭いのは、単にドヤの住人が立ちしょんすることだけが原因ではない。地元で状況を良く知った地域職員が粉骨砕身の対応をしている一方、国や府からは忘れられたような街なのは、我々が毎日食べる野菜にさえ、独特の癖や特有の臭い、個性が失くなって久しいが、そのことに気付く人々が殆ど居なくなってしまったのと同じように、実体とイマージュに深い乖離があるのだ。それでも街も多少は「綺麗」になった。とはいえ、この有様だ。冬になれば、ドヤに泊まる金が無いばかりに凍死する人が居るのがこの街の実情であり、良いか悪いかの判断は兎も角だが。存在を色濃く主張しているのだ。そういえば、横浜の寿町、東京の山谷も現在ではすっかり様変わりしてかつての面影はない。が、ここ、釜だけは、未だに往事の風情を保っている。
 そんな街の生み出した人々の群像劇であり、ある種の褒め歌である。
娯楽天国の“お気に召すまま~As You Like It~”

娯楽天国の“お気に召すまま~As You Like It~”

劇団娯楽天国

TACCS1179(東京都)

2018/06/20 (水) ~ 2018/06/24 (日)公演終了

満足度★★★★★

 簒奪と骨肉の争いは、シェイクスピアならずとも良く登場するテーマだが、自分は今回、この実に良く現代的にアレンジされつつ、シェイクスピア作品の本質を捉えた作品の中で、特に注目したのが道化だ。(追記後送)

ネタバレBOX

齢を重ねた為か、近頃では、特にトリックスターの放つ科白の深みに共感を覚えるということも原因の一つかも知れない。何れにせよ、ナマジッカな方法では、この世の何も引っ掻くことすらできないのが実情。そこへゆくと道化の役割、箍を外すことによって世界を逆転させて見せたり、皮肉、追従、擽り、辛辣な批評、背理、飛躍、嘲笑、形式論理等々あらゆる言語テクニックと知恵を用いて紡いでゆく極めて知的な遊戯は、効果に於いても、インパクトに於いても絶大な上、仕込まれたウィットの洒脱、韻律の洒脱、笑いの喚起などが加わり、敵を作らない。これこそ、道化の力である。
Bare Knucle

Bare Knucle

SPINNIN RONIN

APOCシアター(東京都)

2018/06/16 (土) ~ 2018/06/17 (日)公演終了

満足度★★★★★

 Spinnin Ronin所属の吉田 憲章氏と榎本 鉄平氏が出演。(追記後送 華5つ☆)

ネタバレBOX

Spinnin Roninを未だご存じない方も居るかもしれないので説明しておくと、代表は、加世田 剛さん、23歳で渡米、15年間NYでダンスを学ぶ傍ら、チャイナタウンで武術を学び全米武術大会でも3度優勝の実績を持つ。メンバーは皆身体能力の高い人ばかりで、今作でもこのユニットの特徴である身体能力の高さを用いた演技が取り入れられている。(大山 倍達ではないが、ダンサーの格闘技能力は非常に高い。)
 因みに榎本氏は学生時代、ラグビーフットボール19歳以下日本代表に選ばれているが、その他に古武道、現代アクションもこなす。吉田氏は元々、関西の小劇場で演じてきたが、2012年にこのユニットに出会い参加している。現在中国武術を学びながらの役者業である。
 ところで、今作2人で9人を演じ分ける。キャラの変更は単純なレベルでは衣装だが、無論、子供を演じる時には、キチンと子供の表情になり、厳しい状況では、役に合った仕草、表情になる。
 物語は真剣師の話だ。真剣師とは、賭け将棋(麻雀・碁)を指して生計を立てている者のことだが将棋の魅力については、演歌・王将を出すまでもあるまい。が、真剣師には将棋一筋だけではなく無頼の臭いが纏わりつく。だからこそ“プロ殺し”の異名をとった小池重明の破天荒で破滅的な人生に妙に惹かれるのかも知れないし、自分に流れる無頼の血の為せる業なのかも知れない。 
 
必然スクープ

必然スクープ

月ねこ座

ART THEATER 上野小劇場(東京都)

2018/06/16 (土) ~ 2018/06/17 (日)公演終了

満足度★★★★

 シリーズ第3章、完結パートである。(2018.6.18若干追記)

ネタバレBOX

 シリーズ第3章、完結パートである。パート1では、政治家と建設会社の癒着をスクープし、一躍名の売れた記者・里見と立木出版の話をメインに。これに目を付けた業界最大手の編集局長・藤崎が不気味な動きをし始める所まで。
 パート2で藤崎は、里見を引き抜こうとしたが部下・勝俣の謀略によってその地位を奪われ、退社するハメに陥った。
 パート3では、これら一連の動きの裏にあった因果とからくりを解き明かしつつ、探偵物風な展開にジャーナリスティックな視座を絡め、ファクトを解き明かす為に取材者が負う命の懸かるリスクを編み込むことで、作品に生きた人間的視座を脈ずかせる。
 序盤、矢鱈緊張して噛むシーンがあったりしたものの、中盤以降の展開は中々しっかりしたもので引き込まれた。劇団の雰囲気は、家族的で温かいのではないかと類推したが、会場でのアンケに書いたような点(カメラの構え方、紙焼きの扱い方など神の宿る細かい部分への役作りとダメ出しについて)は改めて欲しい。
 
ゆとりアルバイター山田くん

ゆとりアルバイター山田くん

劇団おおたけ産業

RAFT(東京都)

2018/06/15 (金) ~ 2018/06/17 (日)公演終了

満足度★★★★★

 所謂ゆとり世代と所謂団塊の世代ジュニアの相克話であるが、(追記2018.6.18)

ネタバレBOX

他にサトリ世代や団塊世代も何気に包含されており、遠く離れた歴史とは思わないが、何故、こんなにラップが選挙演説にピッタリなのか? 不平をいうのにピッタリなのは、その発生からもあきらかであるが、実演されてあまりに嵌っているので、ホントに驚かされた!? 
 まあ、実質完全植民地なのに、宗主国にスリスリして喜んでいる連中が多いのだから、選挙など茶番である。そのことに異を唱えるということが、ゆとり世代からのメッセージだとすれば、ラップが此処までピッタリくるのは、当然なのかも知れないが。
 何れにせよ、コンビニ店員達の仕事状況を描くことで、日本の現状を炙り出し笑いに紛れさせながら、とても大切なことを訴え掛けてくる今作、大いに楽しめる。
 役者さん達の演技も良い。
作品内容
 24時間営業のコンビニ。人手不足で店長は、17時間労働などが結構あり、へとへとの状況、そこで新たに募集を掛けた。応募して来たのはまともな履歴書も提出せず、而も履歴書を封筒にも入れず折り畳んでポケットから出し、面接に遅れて事前連絡もしなかった山田くん。
 だが、疲れ切っていた店長は彼を採用した。然し、採用後も彼の遅刻癖は直らず、言葉遣いも良くない。当日のシフトキャンセルや、その為の嘘等が重なり終に堪忍袋の緒を切らした店長は、解雇を申し渡す。だが、24時間営業のコンビニを営業し続けるのは体力的にキツイ。おまけにずっと働いてくれていた女性が結婚の為に退職した。そんなこんなが重なって青息吐息の所へ、未精算の給料を受け取りに山田君が来店したのは1か月後、彼が定職につかなかったのは、小劇場演劇の役者として一旗揚げるべく上京してきたからだったが、諦めて実家へ帰るという。この店に迷惑を掛けた理由も説明した。
それによると他にも仕事をし、睡眠不足やオーバーワークになっても安い時給で生活は苦しく、稽古時間を取る為に借金を重ねた結果、返済に追われ、芝居に総てを賭けるような生活ができなり、遂には夢を諦めざるを得なくなったとのことだった。
 事情を素直に説明し、キチンとした詫びを入れた山田くんに、店長は言う。夢を諦めない方が良い、と。その為には彼を再雇用し、チャンと仕事をすれば、時給も上げる、と。山田くんに、再始動のチャンスが与えられて幕。
 今作には、チェーンだフランチャイズだのと大手に旗を振られ、グローバリゼイションの波に揉まれながら悪戦苦闘する中小個人商店などが、傘下に入り、収奪される有様が如実に描かれている。最低賃金しか出せないような劣悪な就労環境の中で、それでもバイトをするしかないような、協調性ばかり仕込まれ起業などの発想に至りつかないか、至っても実現する為のノウハウを獲得し得ないような人々が、それでも夢を追い、四苦八苦している我々自身の似姿が、ゆとり世代VS団塊世代ジュニアの相克を軸に描かれているのだが、この対決にサトリ世代の論理が楔を打ち込むことで、社会の歪を見事に炙り出す構造になっている。ただ、これだけでは、余りにも荒い展開になってしまうから、ゆとり世代ではあっても、ただ、生活する為に淡々と仕事をこなすキャラを入れたり、ありがちなパートさんを入れたりすることで、自然な感じを醸し出している。
 一方、新たに選挙戦に打って出た若い女性が、このコンビニのアルバイトの主戦力である淡々と仕事をこなす人物の同級生であることを通じて、ゆとり世代の持つ価値観の新たな可能性を開示して見せてもいる所がミソ。

沼田宏の場合。

沼田宏の場合。

グワィニャオン

シアター1010稽古場1(ミニシアター)(東京都)

2018/06/15 (金) ~ 2018/06/17 (日)公演終了

満足度★★★★★

 沼田 宏が撥ねられて死んだ。(追記2018.6.26華5つ☆)

ネタバレBOX

 彼が天国へ迎え入れられるか、地獄へ落とされるかは、死者達の園に暮らす12名の陪審員に任された。偶々選ばれた陪審員達は随分個性的だ。その元職は、ヤンキーもヤクザも地獄帰りの人斬りもいる。生きていた時代も様々だ。この他、看護師、教師、作家、革命家、ホステス、ホテルマン、オタク、社長、半死半生(中々明らかにならないのでここでも伏せておく)の12名。評決は全員一致制を採る。
 脚本は、如何にもグワィニャオンの脚本らしく、単に完成度が高いというレベルではない。実に落ち着いたそして説得力のある科白の応酬に満ちたシナリオである。この優れた作風が、科白を極めて自然に観客に届けてくれる。無論、今作の風合いを着実に観客に届ける演出、役者さん達のキャラの立った演技、照明と音響の効果とシンプルだが無駄の無い舞台美術や裏方さん達の活躍があって初めて、これだけ優れた作品が紡ぎ出される。
「明日見た笑顔」「ココロノカタチ」

「明日見た笑顔」「ココロノカタチ」

しみくれ

阿佐ヶ谷アルシェ(東京都)

2018/06/13 (水) ~ 2018/06/17 (日)公演終了

満足度★★★★★

[ココロノカタチ]を拝見。追記2018.6.26

ネタバレBOX

 或る意味タイトル通りであり、頗る素直、素直すぎるほどに素直な作品である。だから一般の人には分かりずらい。何故なら一般の人はもの・ことを真っ直ぐ見る術を知らないからである。今作は、真っ直ぐもの・ことを観る人の作だと考える。善悪ではない。唯、バイアスをかけず、見たものをそれとして提示できるだけのノウハウを持っている人が書いた作品だと感じるのであり、それ以上でも以下でも無論ない。
 正解があるという見解も無いという見解も成り立つ作品である。というのもヴァーチャルが現実にどこまで食い込んでいると見るかで判断が変わってくるからである。これは、今作が以下に述べるような認識論に基づいているように思われる点から自分が類推した結果である。即ちこの認識論成立の根拠が、認識することによってしかヒトは何かを意識することさえ出来ない、ということだとすれば、存在を意識出来ない時に存在は無いと判断されるか、せいぜいが感覚によって捉えられたある種の“分からないXが在るかも知れない”とぼんやり類推することができるのみなのであり、この認識論的根拠は無いことになってしまうだろうからである。
 こんな不可知論に陥りそうな思考を刺激してくれた点が、自分には面白かった。
希望のホシ2018

希望のホシ2018

ものづくり計画

あうるすぽっと(東京都)

2018/06/13 (水) ~ 2018/06/17 (日)公演終了

満足度★★★★

 物語のトーンが、TV的な枠を超えていないのが残念。

ネタバレBOX

テイストはもろに「タイガーマスク」だし舞台美術なども細部まで拘って作られていない。全体にポリシーが感じられないのである。腕をねじ上げるシーンなども技が一通りなのでは、飽きが来る。もっとバリエーションをつけるか、一度だけにして欲しい。ラスト、沢木が仮面を被ってクライマックスを演じている時に、かつてのニコヨン仲間が仮面姿で現れるのも頂けない。
 舞台が一回こっきりの勝負だということの意味をもう少し掘り下げて欲しい。映像は編集が大きくものをいうが、生の舞台では演出がものを言うべきである。
 また希望は、espoirを意味する場合とespéranceを意味する場合の2つがあると思うがパンドラの函の底に残っていたのは、espéranceではないか? と考えるのは、単に自分の臍が曲がっているからだろうか? 然しながら、このように考えた方が、パンドラの函を開けたことの意味する所は幾層倍も深い。
 因みにespoirは実現可能な希望を、espéranceは、実現は先ず無理な希望を表すという差がある。
ピース

ピース

SPIRAL MOON

「劇」小劇場(東京都)

2018/06/13 (水) ~ 2018/06/17 (日)公演終了

満足度★★★★★

 今回は、どちらかというと今迄のどっしり地についた舞台美術というより、もっとモビリティーを感じさせる舞台美術である。
 この劇団は何時拝見しても、その脚本の良さ、演技の質の高さと丁寧で細やかな表現、演出の巧みと切れの良さに感心させられるのだが、今回も期待は裏切られることが無かった。是非、前提条件無しで見て貰いたい舞台である。(追記2018.6.26)

ネタバレBOX

詳細は、終演後に書かせて頂くが、設定も素晴らしい。どんな設定かは想像して欲しい。舞台美術でモビリティーがあると書いてある事がそのヒントである。(華5つ☆)
舞台上に作り込まれているのは、港に係留された船体のイメージであり、出港するのを待っている船の姿だ。無論、板の中央よりやや上手に置かれたテーブル用の造作や、椅子に用いられる箱馬、重なり合う船体の手前に置かれている箱馬などは、総て白である。空や海は照明で表現される。出捌け、下手は船体の合間に1か所、上手は船体と劇場の板へ降りる階段の合間に設えられている。
 話は、少子化の進んだ日本の今後の進路を決める為、厚生労働省と総務省が中心となって人間関係の中核となる家族の今後の方向性を決める為の参考データを取得する為、或る実験をすることが中心だ。この実験の為に集められた一般人が船客であり、担当する官僚たちは、このプロジェクトの成否で出世競争に差が出、参加した人々には成功報酬として下船後の10年間、あらゆる国税が免除される。選ばれたのは様々な世代、職業の人々であるが、報酬は、21日間の航海を終えて無事、目的地の東京へ帰りついたチームの協力者だけに与えられる。無論、チームは、この船の乗員だけではない。数艘の船に同じような条件で人々が乗っている。
 21日間の間に彼らが為すべきことは、疑似家族を演ずることである。シチュエイションはその都度、担当官僚から提示される。
 先に設定が優れていると書いたのだが、何故か分かるだろうか? 無論、船という一旦港を出てしまえば絶対孤絶の世界が、この話の舞台となるからである。即ち、基本的には、船上で起こることは、例えどんなに困難なことであろうと、船の中で解決せねばならぬ、ということだ。死を別にすればどこにも逃げ道はない。これ即ち、演劇として理想の舞台設定なのである、

レイニーレディー

レイニーレディー

ことのはbox

シアター風姿花伝(東京都)

2018/06/06 (水) ~ 2018/06/12 (火)公演終了

満足度★★★★

 Team葉を観劇。

ネタバレBOX

舞台上手に喫茶店、奥にカウンター、手前に4人用ボックス席など。中央は下手奥のスロープからそのまま上がり左折できるスロープ及び平坦な部分が平行して通り、やや高くなっている。その奥は2階部分になっていて、病院の屋上として用いられる。下手及び中央は、公園か何かのフリースペースとして用いられる。2階部分の高くなった壁に接してベンチ様の椅子。下手側壁前には植え込みが設えられている。
 オープニングで幸せの絶頂にあった玲子が、何等かの事故、事件に巻き込まれて不幸のどん底に突き落とされることは、作劇のセオリー通りということもあり、ミエミエだ。その後の展開も基本的な構造は、セオリー通りである。比較的若い劇団だから、まあ、仕方あるまい。
 玲子は。婚姻届を出しに行く途上で車に撥ねられ下半身麻痺、婚約は破棄され人生を失くしたという思いに囚われ、事故後2年が経過した後も加害者のみゆきに徹頭徹尾つらく当たるのだが、このガキっぽい甘えが、観客に嫌悪感を催させる所に狙いがあるのは、無論のことだ。この嫌悪感を煽る為に、みゆきの性格は極めて誠実、受動的に描かれている。而も、彼女は、責められることから逃げずに対応した結果、精神を病み、事故直後から心療内科を受診し続けているのである。
 ところで、ひょんなことからみゆきが付き合うことになった地元不動産会社の御曹司・隼人こそ、玲子の婚姻届にその名が書かれた相手だった。この事実が露見する直前、みゆきは元の職場である広告代理店に戻りビッグプロジェクトを推進することになっていたが、その矢先玲子から、降りるように命令された。彼女は悩むが、玲子の申し出を受け入れ、結婚を申し込んできた彼との間にできていた子(妊娠8週目)を下ろすことも、彼を諦めることも決断する。何故なら、玲子は不幸せなままなのに、自分だけ幸せになることは許されない、と考えたからである。
 茫然自失で馴染の喫茶店を訪れたみゆきの並々ならぬ雰囲気を感じ取ったマスター吉村は、彼女の悩みの深さを慮り、彼女の事情には一切触れず、自分がかつて経験し、一生涯自らを苦しめる心の秘密を語って彼女を救おうとする。この時のマスター役、加藤 大騎さんの演技が素晴らしい。
 この辺りから、展開が俄然良くなる。悩みに悩んだみゆきを玲子が突き飛ばした際、救急車を呼ぶ騒ぎになったのだが、流石にこの成り行きに玲子もショックを受け、入院しているみゆきを訊ねぶっきらぼうではあるが、詫びを入れる。漸く済んだことは済んだこと、己の地獄は己が精神を閉じ、依怙地になって居た為だと気付き、みゆきを許す。無論、みゆきが幸せになることも、出産することも、彼と結婚することも総て許すのである。
 その後、再び彼女を訪れたシーンでは、みゆきは2週間後には出産の予定で、途中階までしかエレベーターの無い病院屋上で玲子と会い、話をしていたのだが、雨が降り始める中、イキナリ産気づいてしまった。かつてみゆきに勧められたリハビリを始め、摑まり立ちなどはできるようになっていた玲子が、車椅子を離れ、必至になって医師らを呼びに駆けつける。結果、みゆきは無事女児を出産、名を歩美と名付けた。玲子の功労を娘の名にした訳である。
 

ボーダーリング

ボーダーリング

やみ・あがりシアター

アトリエファンファーレ高円寺(東京都)

2018/06/07 (木) ~ 2018/06/10 (日)公演終了

満足度★★★★★

 やみ・あがり、今回は婚活する忍者を中心に、人生の墓場、結婚への助走を描く。

ネタバレBOX

劇団本公演としては「スピークイージー」が、前作ということになるが、実際には3月に劇小劇場で3月に上演された60分もの「とんぷく虫」が間にある。シナリオ、演出の妙でいえば、やみ・あがりが優勝と思っていたのだが、東北から強力なミサイルが飛んできた。観客の乗せ方、役者の身体能力の高さとそれを利用したある意味バカバカしさ、そして脚本と原作(太宰治「走れメロス」)のマッチングの素晴らしさ等々で水をあけられ残念ながら2位に終わったことを教訓に、今作では知に走る傾向に敢えて歯止めを掛け、役者のキャスティングにも身体強健という要素を入れて選んでいる点、また今作終演部での婚活ベテラン二人の掛け合いで結婚するのに理性が邪魔であること、寧ろ勢いや、何気ないきっかけの方が、遥かに目的を遂げ易いことなどが了解され、これが実践されることになる経緯を描くことで、理に走り、知的比重が高かったこれまでの作品群に対する乗り越えを今作で果たしていると見ることが可能である。評者の指摘を頭の中で理解するのみでなく、すぐさまこのように作品に反映させることのできるフレキシビリティーと頭の柔らかさ、実践への適応力の高さは流石である。
 無論、やみ・あがり独自の発想や展開力が殺されている訳ではない。単に制御され、より高度なレベルで統御されているだけだ。
鏡の星

鏡の星

劇団あおきりみかん

シアターグリーン BASE THEATER(東京都)

2018/06/08 (金) ~ 2018/06/10 (日)公演終了

満足度★★★★★

 今回のあおきりみかんは、初の外部演出に流山児事務所の小林 七緒さんが関わっている。彼女は、作家の持ち味を上手に作品に引き出すと同時に、その鋭さも俎上にキチンと載せる才能のある演出家であるから、長らく中京地区の女王の名を恣にしてきた鹿目 由紀さんと組んだらどんな化学反応を起こすかと愉しみにしていたのだが、流石に才媛お二人。互いの良さを引き出しながら良い舞台に仕上げてくれている。殊に、鹿目さんは、文化庁の派遣でイギリスへ行き、新たな体験をしてきたとあって拝見する側としては、何を彼女がイギリスで獲得して来たのかについて大きな関心を抱いていたのだが、この期待は裏切られなかった。今迄は、社会状況そのものには、余り触れずに様々な喩や象徴、例え噺で作品を成立させてきた彼女が、初めて世界や世界情勢と向き合い、社会生活を営む人間をその社会を構成する掛け替えのない個々人として描いているのだ。社会のディーテイルは、各々の性格として身体化されているので、話の大きなストリームの中で、実に自然に状況を体現してゆくことができており、その上適度な擽りが入るので猶更自然に観客に世の中の不条理を訴え掛けてくるのだ。
 基本的な舞台美術は極めてシンプルで、板の一番奥に平台を置いて10㎝ほど高くし、その中央に高さ2m。巾1mほどの枠を設え、これを中心として手前に来るほど互いの間隔を広く取って,中、手前とシンメトリックに左右1つずつ枠が置かれている。
 場面、場面で必要な場合は、箱馬や、模擬カウンターなどを用いながら、地球と鏡の星、それぞれの運命を掛けた物語が展開してゆく。
 内容については、東京公演の後、九州公演も控えているので、観てのお楽しみということにしておく。更に詳しいことは、全日程終了後に追記するが、今迄とは一風異なったあおきりみかんを楽しむことができる。(華5つ☆)

フランケンシュタインー現代のプロメテウス

フランケンシュタインー現代のプロメテウス

演劇企画集団THE・ガジラ

ウエストエンドスタジオ(東京都)

2018/06/07 (木) ~ 2018/06/13 (水)公演終了

満足度★★★★★

 板を囲む客席は、「を反時計回りに90度回転させたように設えられ、上演中の光源は総て、ほやの付いたランプであるから、仄暗く嫌でも想像力を高める。演技は、どの役者の演技も熱演、船を囲んだ氷山の崩れる音? か、時折轟く凄まじい轟音は、観客の身体をも震わせる。(華5つ☆)

ネタバレBOX

 先ず注目すべきは、ヴィクター・フランケンシュタインも怪物も女性が演じていることだろう。怪物が、己のアイデンティティーについて深く悩む中でヴィクターとの約束に至ったのは、己の相似物の創造であった。即ち同類の他者の創造である。Rimbaudではないが、凡そ存在を意識する存在が、自己の存在を正当化できるのは、他者に因って己が誰々であると認識される限りに於いてである。Je est un autre.なのである。Rimbaudは、天才であったから、通常Jeに対する繋合動詞êtreはsuisでなければならない所をわざと三人称単数のestと表現することで客観性を表しているのである。
 アイデンティティー問題は、何度も出てくるが本質は以上の点にあろう。だが、今作の呈示する問題はこればかりではない。アイデンティティーの揺らぎは、現代人の殆ど総てが抱えている問題であろうが、この揺らぎ故に現れ、各自の存在感を脅かすもの・ことこそ問題なのである。それを効果的に描く為にこそ、ヴィクターも怪物も女性が演じているのだとしたら?
 ここには、LGBTやジェンダーという極めて現代的な知の問題が提起されていると言えよう。アホな保守党議員などには想像も及ばないような微妙で本質的な問題が提起されているのである。
 他にギリシャデルポイのアポロン神殿に刻まれているという格言γνῶθι σεαυτόν(汝自身を知れ)やデカルトのCogito ergo sum.(われ思う故に我あり)などの科白も出てくるのは、今作が単なるゴシックホラーではなく、優れて人間的且つ普遍的なテーマに貫かれた作品であることを表している。メアリー・シェリーが原作を書いたきっかけが、例えバイロンに誘われ詩人のシェリー(後の夫)らと共にレマン湖畔で過ごした際に提案された怪奇譚創作の提案だったにしてもである。
 原作では、怪物は極めて知的であり、その知力によって、人間の未来をも昏いものとするに足る存在なのが、今作でも踏襲されている。このことは、現代の科学で制御できない技術が齎す危険を訴えると共に、作られた怪物が実は名づけようもない即ち社会の構成単位としては認知されていない何らかの存在でしかないという深く哲学的な問題を提起している。その存在が、極めて人間に似ていることからくる本質的問いは、人間の鏡としてである。従って、怪物がフランケンシュタインを名乗るのは偶然ではない。そして彼に関わる総ての人々を殺害してゆくことも。怪物は、己のアイデンティファイしようのない「存在」の非社会性を創造者・フランケンシュタインに体現させることによって、彼を己の鏡へと逆転させたのである。ラスト、怪物は冒険家から、フランケンシュタインの実験ノートを手渡される。怪物が彼の遺体と共に去ったということは、怪物がフランケンシュタインを生き返らせる可能性をも示唆していると言えよう。このことは、善悪の彼岸に於いて知の追及が為されるであろうこと、それが知を持つ生き物の業(カルマ)であること、そして新たに齎された知は、それが完全に制御されない限り、常に総ての生命を滅亡に導きかねない両刃の剣であるという事実も。だから、我々は思い出しておく必要があろう。デルポイの神殿に刻まれたもう一つの格言”度を越すなかれ”を。

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