先ず注目すべきは、ヴィクター・フランケンシュタインも怪物も女性が演じていることだろう。怪物が、己のアイデンティティーについて深く悩む中でヴィクターとの約束に至ったのは、己の相似物の創造であった。即ち同類の他者の創造である。Rimbaudではないが、凡そ存在を意識する存在が、自己の存在を正当化できるのは、他者に因って己が誰々であると認識される限りに於いてである。Je est un autre.なのである。Rimbaudは、天才であったから、通常Jeに対する繋合動詞êtreはsuisでなければならない所をわざと三人称単数のestと表現することで客観性を表しているのである。 アイデンティティー問題は、何度も出てくるが本質は以上の点にあろう。だが、今作の呈示する問題はこればかりではない。アイデンティティーの揺らぎは、現代人の殆ど総てが抱えている問題であろうが、この揺らぎ故に現れ、各自の存在感を脅かすもの・ことこそ問題なのである。それを効果的に描く為にこそ、ヴィクターも怪物も女性が演じているのだとしたら? ここには、LGBTやジェンダーという極めて現代的な知の問題が提起されていると言えよう。アホな保守党議員などには想像も及ばないような微妙で本質的な問題が提起されているのである。 他にギリシャデルポイのアポロン神殿に刻まれているという格言γνῶθι σεαυτόν(汝自身を知れ)やデカルトのCogito ergo sum.(われ思う故に我あり)などの科白も出てくるのは、今作が単なるゴシックホラーではなく、優れて人間的且つ普遍的なテーマに貫かれた作品であることを表している。メアリー・シェリーが原作を書いたきっかけが、例えバイロンに誘われ詩人のシェリー(後の夫)らと共にレマン湖畔で過ごした際に提案された怪奇譚創作の提案だったにしてもである。 原作では、怪物は極めて知的であり、その知力によって、人間の未来をも昏いものとするに足る存在なのが、今作でも踏襲されている。このことは、現代の科学で制御できない技術が齎す危険を訴えると共に、作られた怪物が実は名づけようもない即ち社会の構成単位としては認知されていない何らかの存在でしかないという深く哲学的な問題を提起している。その存在が、極めて人間に似ていることからくる本質的問いは、人間の鏡としてである。従って、怪物がフランケンシュタインを名乗るのは偶然ではない。そして彼に関わる総ての人々を殺害してゆくことも。怪物は、己のアイデンティファイしようのない「存在」の非社会性を創造者・フランケンシュタインに体現させることによって、彼を己の鏡へと逆転させたのである。ラスト、怪物は冒険家から、フランケンシュタインの実験ノートを手渡される。怪物が彼の遺体と共に去ったということは、怪物がフランケンシュタインを生き返らせる可能性をも示唆していると言えよう。このことは、善悪の彼岸に於いて知の追及が為されるであろうこと、それが知を持つ生き物の業(カルマ)であること、そして新たに齎された知は、それが完全に制御されない限り、常に総ての生命を滅亡に導きかねない両刃の剣であるという事実も。だから、我々は思い出しておく必要があろう。デルポイの神殿に刻まれたもう一つの格言”度を越すなかれ”を。
ハンダラ 拝