満足度★★★★★
流石、と言わなければなるまい。全編、日本国憲法を内在化し、且つそれを担った者にしか表せない視座、想像力と事実認識に基づいて描かれ舞台化されている。松元ヒロさんの原作を坂手洋二氏が脚本化し演出しているのだが、脚本の上がりが遅くなったことが(役者さんにとっては大変だが)ホントに未だ話題になって連日メディアで報じられる安倍の桜に絡む更なるマヤカシやつい先日幕張で行われた(追記後送)
満足度★★★★★
大人の童話。
ネタバレBOX
設定はキャラが突然入れ替わってしまう「乞食と王子」のような奇抜なものだが、緻密で外連味を敢えて取り除いた作品内容の科白には思わずハッとさせられるような珠玉の科白が幾つも有り胸を突かれる。人の幸せの何たるかを再考させてくれる作品。そんなに煌びやかに見せては居ないが、舞台美術に用いられている数々のベンチやテーブル等も構造的に負荷を支えるのみならず、球体や三角柱を通常とは異なる角度で置いた上に天板を載せてあったり、直方体や立方体の置き方がわざとずらしてあったりするので、一見、使用には支障が無くとも、バランス計算を間違えると、!? !!!というようなメッセージが舞台美術から作品内容へのコレスポンダンスとしても用いられていて奥が深い。実際、誰でも聞いたことぐらいはあるような、それで居て実際には縁遠かったり、自分の周りでは起こって欲しくはないような、極めて日常的な生活が少し入れ替わっただけで全く別の様相を見せたり、固定観念で突き進んで来た人生が、他の視点から観ると全く異なる様相を呈したりしつつ、人が生きる意味とは何か? 人と人の繋がりの意味するもの・こととは何か? 幸せとか不幸せとは何か? など普遍的な問題をやんわり提起してくる。脚本だけでなく、演出、演技も良い。冒頭、大人の童話ち記したが、極めて味のある、そして上品過ぎないほど良さに仕上げられた、童話であり、深さ、優しさがある所が良い。
満足度★★★★
個々の演者のレベルは高いが、こういう公演は総合芸術だ。高い能力を持った個々人の素晴らしい表現を、どう全体として関連づけ、統一感のある作品に仕上げてゆけるかが課題と観た。(今回は、ネタバレに挙げたような理由で華4つ☆としたが、今後に期待している)
ネタバレBOX
昏い空間は想像力を羽ばたかせる。寺の本堂仏前に設えられた結界が舞台になる。この結界は、竹籤で多少歪に編まれた上部三分の一程が開いた球形のほやの中に電球を埋め込んだ構造の照明器具を楕円の円周上に十近く並べた光の結界だ。可也明度は低い。本は絶対読めないし、輝度の調性はするが、時折、黒い衣装がギリギリ明度の差で分かる程度のシーンもあり、全体として白い衣装で雪を顕わしつつダンサーが群舞する時でさえ、表情がハッキリ見える程度の明るさだ。この明暗のセンス、殆どの時間聞こえる水音、開演前のチェロの音等々。並々ならぬ美的センスを感じるし、個々のダンサーの舞いの腕は見事なものである。これだけの舞い手が群舞を踊った時など当に圧巻。舞とはこれほどまでに美しいものか、と感激した。
但し、一応「雪女」という民譚を下敷きにしているのであれば、メインストリームと、若い女が冬山に入って雪女に出会い、命の攻防に敗れるシーンや、男の忍びが、暗がりの中で何者かに襲われるシーン等、幾つかの挿話が踊られるのだが、その各々の踊り自体の素晴らしさとメインストリームとの関係が見えないのは残念であった。冬山に入った若い女を踊ったダンサーさんに訊いてみたら、彼女としては、好きな男を追って冬山に入った若い女を踊るという気持ちで踊っていたのだと伺った。そういうことならば、ほんのちょっとした科白を序盤に挟むとか、その後、音響を用いて後追いをする女の道行のような雰囲気を音で描くなり、何処かに伏線として短い科白を仕込んでおくと、何故、雪女は、里の男に出会いに山に彷徨い出るのか? などと観客は勝手にイマージュを膨らまして、物語りはドンドン深まり、忘れ得ぬ作品として心の奥に何時までも残るだろう。大抵の昔話で雪女に出会った男は殺されている。男に会えば殺してしまわざるを得ない雪女の悲しさ、寂しさと、赤子を抱いて現れた今回の雪女の、残した物が、多数の大判だということは、彼女にとって耐え難いアイロニーですらあろう。女性として子を産みたい、惚れた男の子を産みたいという切なる念も考えるなら、彼女の孤独の深さ、悲嘆の深さには同情すべきものがあるようにすら思うのだ。そして、このように雪女を捉えるなら、何故、彼女が若く美しい女を殺したのか? その哀れで惨めな気持ちも表現することができたであろう。このようにして各挿話と雪女の関係が示唆されていたら、大傑作になったこと間違いなしだ。
音響も面白い試みが為されていた。まさかアフリカの楽器・カリンバが登場するとは思わなかったのだ。自分も西アフリカのギニア・ビサウとセネガルに住んでいたから懐かしくもあったし。
ダメ出しをもう一つ。パーカッションを叩く人が入れ替わったりしていたが、ダンサーの身体的動きとパーカッションの打ち方がずれていたシーンがあったのは残念。個々の演者はポテンシャルが高いので、もう少し事前のリハをキチンと決めて貰えればありがたい。今後に大いなる期待をしている。
満足度★★★★★
初見の劇団。期待を良い意味で裏切られた良い作品であった。(追記2019.12.6)
ネタバレBOX
所謂ゾンビのコンセプトを下敷きにした作品だ。そしてゾンビ物に対しては、「四谷怪談」などの文化を持っている場所で育った自分には単に滑稽感しか持つことの出来ない作品群なのだが、今作については初めて、深い悲しみ苦しみを、リリーの死ねない「命」に対して覚えた。
物語は、カルト教団が支配する街の高校3年生の教室を中心に展開する。数日後にひよこから準会員になる為の儀式があり、これが卒業の通過儀礼となっているのだが、どういう生き方をするのかを宣言せねばならないのだ。が、この街しか知らない生徒でもこの街何となくオカシイんじゃないか? と感じている者は多く而もその疑問を口外することはタブーのようにも思えて言い出せない。そんなことを言おうものなら、浄化と呼ばれるリンチが待っていることを既に経験しているからだ。クラスには、こんな状況にも拘わらずアダプトしない者も若干数居ない訳では無いがマイノリティーだ。カルトの教義を熱心に支持する者もいるが、内心の不安や怯えを表しているということも考えられる。何れにせよ、鍵を握っているのは、外の生活を知っているリリーで、彼女はこの街に越してきて日が浅く、偶々彼女の父が喧嘩の仲裁に入ったもののその優しさと正義感が裏目に出て殺されてしまったことを、カルトの教義、感情は穢れ、個人を求めることは穢れとの教義に救いを求めた母がカルト教団の支配するこの街の高校へ転校させた訳である。因みに彼女が現在通うこの高校は私立であり、当然の事ながら教団の教理が仕込まれている。教師達も内面の優しさや思いやりから連帯保証人になった挙句自己破産に追い込まれる等の過去を持ち、教祖、サリの持ち出す屁理屈に逆らえない。また教団設立時にサリと共に教案設立に帆の素し、今も信者として教団を支えている第1世代は格が高いとされ、極めて傲慢で権威主義的であるから、普通なら真の宗教の持つ真理探究の姿勢と普遍妥当性を追及し実践する生活態度を身に着けて初めて、マトモな信者となる訳だが、そういった要素が一切ないだけのことで既に宗教失格である。だが、内心オカシイと気付きはしても「浄化」という単語を用いて為されるリンチに対する恐怖や、仲間でるハズの者達総てから異端視され八分にされることの恐怖と親権に対する裏切り感覚等が己の論理的、人間的心情の正しさを認めさせないという内面の精神構造が殆どの生徒に自らの人間としての当然の権利や義務等からの自己阻害を齎していた訳だ。
然るに、猫を追掛けて飯場の中にあった穴に落ち、其処に在った鉄筋に心臓を刺し貫かれたにも拘わらず死ぬことから遠ざけられたリリーも、そして公立中学に通う弟も母に勝手にファーストネームを変更され、母の演出する狂気のままごとの登場人物として、その型に嵌った演技を強制される日々を送らされていたが、事故以来、通常の食べ物は不味くて食べられず、食欲の湧くのは人間が何か己の自由や真実に向かって必死にその宿命にチャレンジするキラキラした情熱を感じた時、その原因を作った人間に対してだった。死ねない体を持ち、そのことを重々承知した上で、普段は空腹に苛まれるだけで餓鬼の如く食べること、食欲を満たすことしか考えられなくなった己をリリーは力なく見つめざるを得ないことに極めて自覚的だった彼女が、学校に赴任してきた最も新しい教師の姉が実はこの学校の元教師ぇあり、自殺していたこと、その原因を探る為にフリーのジャーナリストと組んで、このカルト教団の真の姿を暴き出す為にここで教職に就いていること等が明らかになったばかりか、ここでサリと特別な関係にあり、信者でも無いのに、教師を務めあまつさえ、何をやっても非難されることの無い教師、藤塚アヤメが実はかつて製薬会社の新薬開発研究チームのリーダーだった女であり、無認可の薬品を用いて人体実験をやっていた廉で逮捕され出所後、この学校へ来て再度教師や生徒たちを人体実験のモルモットとして利用しようとしていることが判明、リリーのクラスメイトが、皆各々の人格に目覚め、校規に反逆しようとキラキラし始め、おいしそうになった所に新薬を強制投与され食欲を満たせなくなったリリーの反逆が始まる。結局、薬は未だ完成形ではなく、効力は一時的なものぁったので、薬が初めから効かなかったリリーが反逆の狼煙を挙げると仲間たちも、1人、1人と覚醒して、悪の権化サリとその相棒を警察に引き渡すことができた。
「国」中が忖度とやらに躍起になっている今日この頃の日本、情けないだけの祖国、哲学はポスト実存・構造、主義辺りから真理よりは雄弁を、探究より優位獲得と維持を目指す為だけのツールと成り果て、そんな中で己の実存と生き様を根拠に十字架を背負って歩む者を警戒し恰も怪物であるかの如く看做すように成り果てた。リリーは、猫を追って飯場に行き着きそこに在った穴に落ちた時に心臓に鉄パイプが刺さり死ぬことが無かった。という形でその在り様を示された存在だが、臆病で卑怯そのものである傍観者たちは、己の感じている不条理に本当は気付き乍ら一向行動に転じることが無い。その彼らのメンタリテイーを表象するものが、意味も無く永遠を生きるリリーの感じる空虚感で表されているとしたら? 彼女こそ、これらの臆病で卑怯な傍観者・即ち我々の憑代となるに相応しいキャラクターである。このように解釈するなら、今作が抉っているもの・ことが現在の日本に生きる我々自身であることに簡単に気付けるハズである。
満足度★★★
ドンモヤイダは何だろにゃ。nYa~!(華3つ☆)
ネタバレBOX
設定は30年程前に4人の仲良し4人組がやっていた交換日記をネタに40代半ばを迎えた友人が遂に言行一致のモットーの実現形態としてゲットした彼(敢えて控え目に年収三千万以上、ホントは五千万以上らしい彼との結婚に漕ぎ着けた4人組の一人・ちよ)との結婚披露宴の二次会で披露する友人代表のイベントの打ち合わせを、ラインを通じた多人数同時会話サービスを利用して、ちよ以外の女性・みよっち、めんみ、のんたんの3人がああでもない、こうでもないと議論し合っている場面の実況中継という形で上演される作品。3人の内既婚者はめんみのみで高校生になった息子が居る。めんみは母親ということもあるのだろうが、携帯が脳に与える悪影響について語っていて、まあ、打ち合わせがメインなのでさわりだけだが注意を喚起し耳に携帯なりスマホなりを近づけることの危険を指摘している点がグー。日本は官僚という名の下司共が天下りの先行きを考慮してヨーロッパでは携帯電話器使用の前後から危険性を指摘していた問題をスルーするのみならず、安全宣言を出して企業論理に加担していたことまで含めての説明は無論していないが、脳に距離を置いて通話できる機器を勧めている点で評価できる。科学的な根拠を挙げておけば、用いられている周波数と脳の要領との間に何らかの共鳴現象が起きた場合には、どんな影響が脳に起きるか分からない。音叉の科学実験をやったことがある人なら、共鳴するガラスコップが音叉の音によって粉々に破壊される事実を知っていよう。無論、他にも心配せねばならぬ要素はあるが此処までにとどめておこう。みよっちは女性に対する割礼儀式に対する抗議を行っていたが、もっとレベルを上げて、ジェンダーの深みと知性を噛み砕いての科白を作家には書いて欲しかった。このままでは、確かに通じ安かろうが、たかだか今時TV番組を見ている程度の人々に通用するにしても直ぐ古びてしまう。もう少し普遍性のあるレベルを目指して欲しいのだ。こう思う一方、現状日本を或る意味鏡のように映し得ている可能性も感じた。この最後の感想が当たっているとすれば、残念乍ら、この「日本という国」は完全に終わっていると惨憺たる気持ちにはなる、が。女性らしい作品の創り方ではある。
満足度★★★★
華4つ☆(追記後送)
ネタバレBOX
タイトルから類推がつくようにデリケートな作品であり“ひかり”が開かれた表記であることも、また劇団名が万年生きると、この国やその文化の大本の国、恐らくは経由地の国々でも伝えられてきたのであろう亀に対する非科学的幻想に?マークを敢えて付けていることでも解釈する側の観客の多面性に対する用心が見て取れる。
満足度★★★★★
喜劇で笑いを獲る基本は、無論桁外し! これが実に巧みだ。(
終演後若干追記する)
ネタバレBOX
前説から様々な手法の桁外しが行われ並々ならぬ力を見せつける。桁外しの方法は実に多様だが基本パターンは用意してあって、これが様々なヴァリエーションを生みつつ多様に展開すると共に、別次元の桁外しがふんだんに用意されているので、兎に角笑える。而も単に笑いだけではなく、喜劇のこれも王道である社会戯評も可也辛辣なものが実際ありそうなリアリティーを伴って描かれているのみならず、アルツハイマーを疑っても良いか? と思えるような言動を見せる会長を医者が「いや、しっかりしている」と太鼓判を押して、伏線化している点も実に上手い。
満足度★★★★
二度用いられる「アヴェ・マリア」の使い方は、特に気に入った。'(華4つ☆)
ネタバレBOX
今回、生演奏を入れていない分、舞台は広めに使っている。言う迄もなく音楽は抽象的な芸術だ。殊に西洋音階は謂わば東洋や中東の音階がアナログだとしたら、デジタルだろう。キッチリ音符で再現すべき音を記帳し、それに従って演奏されるから中間的音階が無い。その分、個的才能のみならず、オーケストラのような多くの人々がコンダクターの指揮に従って演奏する曲を作ることが可能だ。この前提になるのは、基本を同一の規則に従わせることだ。丁度、数学が定理や数に関する約束事で絶対を構成し其処に個々の演奏者の才能を花咲かせることができるように。無論、バロックの頃のように楽器自体が結構不自由で微妙な音が出た時代は兎も角、中東の人々や我々アジア系に馴染みのある音は、クラシックでは、中々表現されない。
一方東京イボンヌは、クラシック音楽と演劇の融合を殊に目指してきたのであるから、身体という生ものにこの絶対を対置させる訳である。従って表現を効果的足らしめる為には、相当根源的な方法を編み出さねばならぬ、この点に目指している世界を実現する困難がある。
さて、作品の評に入ろうか。舞台美術の落ち着いた色調と自分達が過ごした小学校の木造校舎の床のような板張の、而もワックス掛けをしていないくすんだ感じは、余計にシューベルトの曲を楽しませる。下手のバーカウンター、樽を用いたテーブルに粗末な木製椅子、上手奥の出捌け、バーカン手前と奥の壁に掛かったランプ等、全体に少し暗めの照明も音楽を聴くには最適だろう。だが、シューベルトの科白にはもう少し工夫が欲しい。唯飲んだくれて「俺は駄目だ」と言っているだけでは、物語りは動かない。動かす為に自分なら、先ず彼の天才故の徹底的な孤独、孤立を表すような科白を伏線として敷く。その上でなら「俺は駄目だ」の科白を然るべき場所に用いることは一向に構わない。この伏線の後にクラウディアにふられる経緯を展開するなら、観客は思わず知らず、彼の孤立の深まりを破滅に向かう必然性を享受するだろう。無論、クラウディアの選択の根底にあった貧しさと援助者・バロンの豊かさ、貴族、平民という身分意識の抱える根本的な社会的問題つまり差別を意識させることすらない民衆による王制支持と、その差別構造故にシューベルトに懸想するエリザベスは、彼に会えたことの矛盾迄含めて屹立し合うもの・ことをドラマとして効果的に用いることができよう。そうすることで、バロンが献金によって爵位を得たように金次第でどうにでもなる階級という社会システムの本質を暴き(それが現代世界を席巻している新資本主義そのものであることも)、ミミがクラウディアも街角に立ったことがあることを明かして描かれた舞台がぐっと深みを増したように、そしてシューベルトが、悲しみの余りクラウディアを想起させるミミとの関係を持ち、為に死に至ったことの強く、底の無い孤独をも、最後の最後にクラウディアに看取られて逝く時に彼女が彼に彼自身の創作の秘密を明かしたような生き様がドラマとして屹立するように思う。
満足度★★★★★
無論、イプセン原作の作品だが尺を約半分の1時間程にしているから脚本はかなり手を加えているが、その本質は見事に掬い上げていると見ることが出来よう。(追記2019.11.26)
ネタバレBOX
登場人物はヴァンパイヤのアルフレッド、幼い時に両親を殺され生きる気力を失い自死しようとしていた少女に生きる活力を与える為、首筋を噛み同族とした妹のようなアスタ、相愛の妻・リータ、道路工事の現場監督/人と人の心を繋ぐ医師でもあるボルグハイム、そして鼠を駆除することで知られる鼠婆さん、子供のできないアルフレッドが妻に与え、子に恵まれることは決してない二人の悲願を幻想として実体化した人形・エイヨルフ。
夫婦になって10年、初めて妻を置いて一人旅に出てしまったアルフレッドが前触れもなく戻ってきた直後から今作は始まる。
板上には防水用マットが敷かれている。というのも丁度センター辺りに黄金風呂のような形態のバスタブが設置されているからでオープニング早々、リータが乳白色の湯に浸かっている。部屋の奥に設えられた収納用凹みの左右には、何やら巻貝のような形のオブジェが2つ並んでいる。この小屋の鰻の寝床のような下手長辺にはアスタ。2人は前触れもなく帰ってきたアルフレッドについて意見を交わしている。2人の関係は、真に女性らしい。リータはアルフレッドを独占したく思っているので心の底、否、魂の底ではアスタが邪魔である。一方のアスタは、両親が何故殺されたのかも知っており、ヴァンパイヤならずとも人間からは敵視される存在であることを自覚している。アルフレッド以上に孤独な存在である。
観劇していて、不可思議に思ったのは、鼠婆さんが来、エイヨルフを攫い、それまで鼠をどのように退治するかについて細かい話をしていたのだから、この時点で姿を消した彼女によってエイヨルフの身体は湖の底に沈められ、包帯が浮いていたとか、泳げない子が湖で溺れたとの伝聞も伝わってくるので、エイヨルフにまつわる総ての幻想性は悉く破壊され、その幻想を一切信じることも出来ずに10年間嘘を吐き続けてきたアルフレッドの何ともいたたまれないような魂の傷を、無論彼は未だ清算できておらず、幻想が打ち砕かれた妻の痛みを思って悶々としていた。が、鼠婆さんが出て行ったあと、彼女の杖が室内に残っていたこと自体は、この幻想は、夫婦がエイヨルフと名付けた人形が、子供を作ることができない自分達の愛の代償として吐き続けてきた魂の震えそのもののような嘘の結晶であり、二人は共にそのことを重々知りながら演じ哀しみを共有することにあったことに気付いていたことで共幻想(=対幻想)に陥ることができたことを表しているが、この幻想破壊自体は実際に起きたことを物語っていた。これを仕組んだのが、道路工事の監督、即ちヒトの心と心を結ぶ医師でもあるボルグハイムだったのであり、この計画を手助けしたのがアスタであった。因みに現実に演じられたあのスペースでアスタの隠れ場所は無いので下手手前に体を丸めてうずくまることで、鼠婆さん登場シーンでは、アスタ不在を表していたと解釈できる。総ての謎が解かれる中で、人間存在の不如意が新たに別次元で提示されている辺り、流石にイプセン作品というべきであろうし、ここまでイプセンの原作の本質を捉え、表現した脚本家、演出家、役者陣の演技を褒めるべきであろう。
切り込みの入ったお洒落な当パンの折り方のセンスも頭を使った作りになっており、とても気に入った。
満足度★★★★
カナダ人と日本人が共同で創った作品、ストーリー・ダニエル、音楽・エリオットそして演出/影絵美術・矢内 世里、他に日本のミュージッシャン作の2曲が用いられている。
ネタバレBOX
物語りは環境破壊が極限に達し、最早手の打ち様が無くなった時代、それでも政治家は嘘と詭弁と選挙のことしか考えず、対策として宇宙にカバを送り出すことを決め、実行した。無論、御用学者もプロパガンダの一翼を担った。
宇宙船は銀河を逍遥するが、或る時、ゼータの宇宙船に拿捕されカバはゼータに連れて行かれる。が、偶々彼らの信仰していた神の姿はカバに似ていたのでゼータの長は様々な実験、調査をする。そして体の大きいカバを敵対し戦争をしているアンドロメダに送り込む。然し、カバのコントロールに失敗、カバはアンドロメダの捕虜にされてしまう。アンドロメダでも神の姿はカバに似ていたので長は大衆統治にカバを利用してやろうとしたが、何とかこれを逃れたカバはアンドロメダ軍の攻撃に遭い危うく命を失いかけた。だが、地球を出発した時の相棒、エサ用ロボットの活躍で命からがら逃げ延びた。然しロボットは弾薬の代わりの餌を撃ち尽くしてしまいカバは飢え死にしそうになった。それを救ったのが蜥蜴マン。食糧を用意しカバの面倒をみてくれたのだが、気付くと蜥蜴マンはゼータとつるみカバを売り渡してしまっていた。然し彼はカバに特殊な能力を開発させていた。サイコキネシスである。カバはこの力を用いてゼータと闘い勝利する。だが、それも束の間、今度は蜥蜴マンが、カバをアンドロメダに売り渡していたのだ。でもそれは、壊れてしまった宇宙船の代わりをカバの為に新たに買う為であった。蜥蜴マンは、攻撃を受け殺されてしまった。カバと餌ロボットは蜥蜴マンの買ってくれた宇宙船で新たな旅に出るが、隕石の衝突で通信機器が壊れてしまい船外に出て修理しようとしたが、失敗。宇宙に放り出されてしまう。これをバッテリー寿命が切れる寸前のロボットが救い、カバはゼータ・アンドロメダのエイリアン達が信仰する神が祭られている神殿に辿り着き、自分に良く似た神像の口から流れ出る液体を飲む。するとカバ自身が神として迎えられる。カバは雌で最初に地球を発った時には、生まれたばかりの子が居た。それを引き離されたのがずっと気懸りであった。既に地球上にあった総ての生命は滅び、同じ固体を再生することは神にも許されないという。然し、娘は転生し輪廻を巡っていつかまた進化したカバの形を採って現れる。それまで永遠の命を持つ神として娘を見守ることはできる。但し触れることはできない。母カバは数十億年の時を費やし、決して人間を生じさせないような進化の過程をデザインして公害の無い世界に進化したカバを出現させることに成功した。
エイリアン達の用いる言語は、英語、日本語、仏語、ほにゃらら語など。ダニエルの発想がかなり面白い。唯、カバが神になることと、予め神像があったこととは、時間的矛盾と観ることができる。無論、パラレルワールドを自由航行できる科学技術を想定することもできるし唯神像がカバに似ているだけだとの解釈も可能なのだが、子供向けでもあるので余り細かいことは問題視されていないようだ。
満足度★★★★
当パンにアンケート用紙も入っていなかったが、ネットで余り厳しいことを言わせない為にも付けた方が良さそうだ。序盤から中盤辺りの展開は凡庸で集中が途切れる。
ネタバレBOX
ミュージカル界に新風を、ということらしいが所謂ミュージカルをそれほど観ていない自分には、これで新風と言えるのか否かは定かで無い。然しストーリーテリングな作品でも、ミュージカルとして上演された作品はそれでも数十本は観ているだろう、そのような作品と比較した限りでは、それほど新機軸を感じた部分は無い。若干現代社会の創られた表層性やその虚妄を見抜くことのできない勉強不足や知の欠落傾向に己の存在根拠が揺すられ自らを失って漂う哀れな人間存在が発するトートロジカルで陳腐な堂々巡りが、その内実を欠き結果として実体を虚体化してゆく様は木霊のように描かれているとは思ったが、そこから先に知が踏み込んでいる形跡はない。
一応大筋を追って見えてきた解釈は、6体の人間の形をした♂・♀が、河童であるかも知れにと嫌疑を掛けられ、河童では無いことを自ら証明しなければならない、という悪魔の論法に縛られた結果自縄自縛を強いられ、何とかそれから逃れる為の旅をしつつ、ああでもない、こうでもない、という答えの出せないもどかしさの中で食糧も尽き、遂には命の危険に晒されるが、この試練を何とか持ち堪えある場所に辿り着くと、そこは空気も水も澄み、汚染もされていない桃源郷。そこで彼ら・彼女らは、自らが解放され浄化されて世界に溶け込むことを学んだ。即ち、ここに描かれているのは、普通の人間存在(高い能力や知性、天分に恵まれた一部の人間ではなく)凡庸そのものの人間のイニシアシオンではないか、という解釈だ、彼らは自分達が全員河童であったと気付き、浄水の中を自由に泳ぎ回るのである。当然のことながら、問題解決など一切ここには無い。
然し、上演形態でいえば、歌の上手い役者とダンサーのキャスティングはバランスが良く、天井から丁度ブランコのように吊り下げられたプレートを上下に動かすことで水面を見下ろす形になったり、水中になったりの演出は面白く拝見した。
満足度★★★★★
遅刻してしまったのだが、嫌な顔一つせず迎え入れられたのには、ホントに感謝している。観劇前に公演に遅れる場合の連絡先なども予め連絡をして頂いて居た上での体たらくに対してである。兎に角、温かい。何も言い訳などせずともイマジネーションを働かせて柔らかく、温かい対応が返ってくる。主催者のみならず、役者・スタッフ皆がそうなのだ。この辺りにこの劇団の本当の強さと本物の優しさを感じる、追記2019.11.26 華5つ☆
ネタバレBOX
今作には、主催であり座付き作家・演出家でもある井保三兎さんの持っている様々な要素と生き方・感じ方がふんだんに注ぎ込まれていることがありありと見える。子供達にも楽しんで貰えるよう、舞台は学校の音楽室。そして物語の主たる内容は、この学校の音楽室で展開されるのだが、読者諸氏は、夜の学校に忍び込んだことはあるだろうか? 小学生位の年齢だと結構スリルのあるものである。自分の小学校時代の理科室には、骨格模型や人体模型、様々な動物の剥製などがあるし、廊下は板張りで軋み、必ず七不思議や幽霊の話を昼間の教室で聞かされたりしているから、それだけで既に不気味なのである、だだっ広いし、風が吹き抜ける音が聞こえてくるし、自分独りのハズなのに足音が響いて誰かか何かの霊が彷徨い歩いているような気もしてくる。自分以外のいたずらっ子が割ったガラス窓にも、応急処置がしてあって風で唸り声を上げる等々。無論、フェンスの破れや鍵が締められていない窓などは探せば結構あった。雨樋を伝って上の階へ上がれば入れる場所を見つけるのはそれほど難しくなかったのが、自分達の小学校時代であった。ホントに悪戯ばかりしていたからな。大人をからかうのはとても面白い遊びだったし。
その代り「坊ちゃん」ではないが、自分の場合ほぼ2階の高さから飛び降りたこともあった。用務員さんが見回りに来て危うく見つかりそうになったのだ。自分は頗る身軽だったので坊ちゃんのように怪我はしなかったが。まあ、この文章を子供達が読むことはないだろうが、もし読んでも真似しちゃだめだよ。オジサンが子供の頃、こんな無茶をやって怪我しないのはオジサンだけだったんだからね。オジサンの真似して骨折ったりした奴もいる。大抵は怖がって真似しなかったけどね。それが正解。
By the way,kono sakuhin wo taihen kiniitta.Nazekatoiuto hontoni hitotosite atatakaikara.Kono Gekidanha Wakatewo totemo jyouzuni sodateru.Wakai gekidaninga minna totemo sunaoda.Sosite konokotoha totemo taisetuna kotoda.Nazenara geijyutuka ya hyougensha ni totte ichiban taisetunakototoha massugu mono/kotowo mi sono keikenwotoosite handansurukotodakarada. Ihosan ha sorega dekiru wakamonowo erabi sodateteiru.
小学校時代に習ったローマ字を60年ぶり位に思い出して書いているので間違いがあったらお許し願いたい。兎に角、大人も子供も愉しみながら、作曲家に親しむことができ、良い音楽を身近に学べる。学ぶことが楽しいことだという発見は、実際強制され受験に追われて詰め込みをされ続けることでは基本的に生まれない。フランソワ・ラブレーという医師でもあった、イギリスのチョーサーと並び称されるフランスの大作家は、「ガルガンチュワとパンタグリュエル物語」の中で、巨人族の王子であったパンタグリュエルの教育の有様を描いているが、決して強制しない楽しく学ぶ教育法を描くことで、当時主流だった詰め込み教育の愚を揶揄している。「エセー」で知られるモンテーニュも領主の子息であったから、通常の学校には行っていなかったが、ラテン語は当時のフランスでラテン語を高等教育機関で教えていたような人々が家庭教師として就いていたから、子供時代既にフランスきってのラテン語の名手であった。モンテーニュも知の愉しみを知って学んでいた人物の一人であろう。現代では、日本でも意識の高い親たちが一時盛んに留学させてもいた、エンデの出身校・シュタイナー学院などがこういった教育姿勢で臨んでいるのではないか? 日本の文科省をはじめ官僚たちの頭の固さには呆れるばかりである。こんなことでは国際競争に勝てる訳も無いのは無論のことだから、そんなことは打っちゃっておくが良いのだ。梁塵秘抄にもいうではないか。遊びせむとや生まれけむ、と。
満足度★★★★★
脚本、演出、演技。舞台美術何れも素晴らしい。無論、効果もぬかりない。
ネタバレBOX
観終わって、尻切れトンボのようなこのタイトルの絶妙に感心。
舞台は山奥の広大な土地に建てられた別荘。養蜂業を営む森尾社長一家は携帯の電波も届かないこの僻地に年に一度保養に来る。台風が近づき大雨と強風に曝される中、友人・井川と釣りに出ていた息子・旬が帰宅するが、車が故障して立ち往生していた平山一家を直ぐに井川が案内してくるという。
ところで金持ちにとっての地獄は、我々貧乏人のそれとは、無論質が異なる。貧乏人の地獄は日々体験していることだから今更論う必要もあるまい。では金持ちにとって耐え難い地獄とは何か? 病? 稔らぬ恋? それとも・・・。答えを書いておく。それは退屈である。人間は己が地獄から逃れる為なら基本的に何でもする。卑しい動物である。幸か不幸か、知恵を持っているから始末が悪い。おまけに金持ちはふんだんに富を所有し、富は他人を支配するに頗る有効である。そんな森尾家に世話になることになった平山家は、ミドルクラスだ。というのも平山は自動車メーカーの研究職だから。オーナー社長一族に対する、プチブルの差が実に上手に表現されていると同時に、金満家の謂わば社会階層としての性格も実に巧みに描き出されており、そのような金満家に対する雇われ人のコンプレックスも、そしてそのようなことにコンプレックスを持たざるを得ない階層に属せばこそ、更に弱い者に対しては容赦せぬ差別的言辞を平気で行使する鈍感も描き込まれている。今一世を風靡する新自由主義とは、やや異なるものの、資本家階層の大衆との距離の取り方の上手さ、絶妙、そして諧謔や利用の仕方をも見事に表現した役者陣の演技も冴えたものであった。ネタバレになり過ぎるから書かなかったが、面白味は、森尾家の面々が退屈凌ぎに何をどのようにしたか、にある。
満足度★★
スリル14を拝見。
ネタバレBOX
脚本にリアリティーが無く、展開にも難がある為、物語りそのものがダレてしまい更に、その内容もホントに命が掛かる状況なのか、ただのドッキリなのかと分裂させてしまった上回収されて居ない為、ドラマツルギーそのものが成立し得ない。作・演が同一人物だが、脚本・演出共、基本をしっかり立て直した方が良かろう。
満足度★★★★★
日本では寺山 修司が愛し、多くの場面で言及したロートレアモン。
ネタバレBOX
そのロートレアモンをやると聞いていたので、是非とも観たいと予約を入れていたのだが、上演された作品は、作品を観る前に殆ど当パンなど解説を読まないことをポリシーにしている自分が想像していた有名な「Les Chants de Maldoror」ではなく、「Last Song」という作品で、ウルグアイのモンテビデオで1846年に生まれ24歳でパリの安宿で亡くなったロートレアモン伯爵として知られるイジドールデュカスの最後の作品、拝見した内容から想像した通りイジドールデュカスの死の直前・数時間を描いた作品だった。アントナンアルトー演劇を追及してきたこの劇団が何故ロートレアモン作品を上演することになったのかは、当のアルトーに理由がある。というのもアルトーはロートレアモン(=イジドールデュカス作品がお気に入りでアンドレ・ブルトン等最初にロートレアモンを評価した人々と同時期に彼を高く評価し文章をものしていたのだ)謂わばロートレアモンという極めて特異な才能に、ボードレールが己の鏡としてポーを見出したように、己の映し鏡として共鳴したのであろう。何れにせよ、グルソムヘテン劇団はそのアルトー演劇論を真っ当に継承している劇団と聞くからロートレアモン、アルトーの本流を汲む芸術家魂の直接の継承者と言っていいのかも知れない。上演形態はフィジカル主体で科白は非常に少なく、字幕も出るのでノルウェーの劇団だからと心配するには及ばない。但し、日本文化というのは、一般に節操が無い分、外国の様々なもの・ことを受け入れるのも表層しか見ないからできるのであり、実際何と格闘しているのか、何故、そのような表現形式を選び、そのような表現をする必然性があったのかについて考えようとも観ようともしない人が多いのだが、それでは今作の重要な部分は見えてこない。例えば開演前、ほの暗い劇場空間でも天井から吊るされた梟らしき鳥の飛翔する姿は誰の目にも明らかなのに、鳥の形態模写をする演者が現れた当にその時、剥製は暁闇ような闇に紛れてほぼ見えなくなるのは何故か? 現れた演者の何故か飛翔することにコンプレックスでもあるような、ぶきっちょな飛び方の意味する所は何か? その後、別の演者が現れ、反復するような動作が続けられる中で、オルガンは明らかに弾かれているのに音が出ないことには、どんな意味が込められているのか? 第3の演者が登場し机や椅子を用いる時、演者の身体が恰も宙吊り状態というシーンが繰り返されることには、人間存在の如何なる相が表現されているのか? また彼女が体を机に投げ出すようなぶつけるような仕草を繰り返すのは、何を意味するのか? といったことである。無論、自分は自分自身の解釈をしているが、先ずは、このような点にも留意して観劇してみて欲しい。第3の演者は他にも大変大切な演技をするが、ここでは伏せておく。
満足度★★★★★
舞台は伝統ある児童文学賞授賞式会場、授賞式当日。Spiral Moonの作品だから、物語の展開は実にスリリング、ネタバレすると観劇の愉しみが減りそうだから終演後に追記する。(華5つ☆)
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自分達位の年代の者は“秘密基地”という言葉を聞いただけでワクワクしてしまう。先ず、秘密が魅力ではないか!? あの頃は都内にも至る所に原っぱや空き地があって、子供達が遊び場に困るようなことは無かった。防空壕跡などもあって、時々事故に遭う子が無いでは無かったが、誰しも自分がそんな目に遭うとは考えず兎に角、暇さえあれば遊んでいたものだ。言葉は秘密でも、子供達は皆知っていたし、基地だから、戦闘もあった。パチンコに木の実を番えて戦ったりしたものだ。陣地は様々な物を利用したり集めたりして用いていた。直径1mはある太いコンクリート製の水道管などがあれば、直ぐ利用する。今のように大人が子供達にやいのやいの言わない良い時代だったのだ。その代り余り悪戯が過ぎれば、近所のおじさん等に叱られた。大人達は地域の子供全体をしっかり見守り温かい目で育ててくれたのだ。自分が五反田に住んだ頃には、空き地にドラム缶風呂があって貧乏だった自分達はこの風呂に入ったものだった。大人も子供も今より遥かに伸び伸び生きていたのだ。
今作は秘密基地というたった1つの単語から、こんな果てしないイメージを直ぐ紡ぐ子供時代に比してチマチマ~してはいけません! という禁止事項ばかり声高に叫びながら、舌の根も乾かない内に嘘と悪意に満ちた中傷を流して平気で他人を貶める、下司としか言いようのない現在の日本に暮らす恥ずべき人々を描き出すと共に、その背景にある政治と経済の堕落・失墜を見事に描き出すと共に、どうすればこのギスギスした世の中が、少しは安心できる世の中を示唆して見せる。脚本の素晴らしさ、今回は役者としては出演せず、演出なさった秋葉 舞滝子さんの手腕の素晴らしさ、役者陣の演技力の高さ、小道具の隅々(例えば色合いなど)まで注意の行き届いたSpiral Moonの面目躍如たる秀作。
満足度★★★★★
毎年愉しみにしている晩秋のカパレット、今年も楽しい公演であったが、多和田さん、高瀬さんの登場時の演出も奇抜。高瀬さんが先を歩き、客席通路を通りながら「こんなに一杯で座る所も無いじゃない」などと言いながら登場するのだ。無論、毎年愉しみにしている観客が多いから満席である。
タイトルを聞いてピンとくる人も多かろう。無論原作はハイナー・ミュラー。初演はパリで1977年。ミュラー自身はオリジナルをシェイクスピアの「ハムレット」をベースにヘルダーリン、ドストエフスキー、アルトー等の作品群からの引用を鏤め、既存戯曲の構造を破壊するようなテキストであり、ミュラーの作品解釈も上演する者の解釈に任されている。
今作がラディカルなミュラー作品であることが、今、世界中で吹き荒れるナショナリズムの狂奔に対する異議申し立てとして、無論、多和田氏の解釈によって脚色された今作の意味であろう。世界中を飛び回って活躍している現代に生きる日本人の一人である彼女がタッグを組むのが、これまた優れたアーティストである高瀬アキさん。お二人とも普段はドイツに暮らす日本人アーティストだが、住む国の言葉が充分に出来、現地の生活に慣れた目で、日本を外側から見ると、一層、日本の姿がハッキリ見えるものだが、現在の世界状況は先進国と雖もドンドン人々の世界観が閉じられていきつつあるように思われる。その原因をお二人は明かさなかったが、自分は、矢張りグローバリゼーションの齎した経済の歪にあるように思う。無論、世界金融の元締めが関与している可能性は否定できない。少なくとも彼らが完全に潔白であるという証拠も無い。資本主義の理念通り、豊かな者達が、生産して儲けることができるのであれば、それは健全な資本主義と言えるのだろうが、現在の資本主義と言われるものの実体はピケティが指摘しているように、それとは異なり寧ろ生産性の向上が最早期待できない時代に入っており、富める者は生産性の向上より、既に彼らが所有している莫大な富を梃に利息や投機で儲け(以下は自分の解釈)更に彼らの富を増やし続けることのできる政治と政治過程を作り出すことで自らに有利な税制を敷かせ富の一極集中を実現、1%の大金持ちと99%の奴隷を作り出したことにより、頭の回転の鈍い奴隷たちでかつては中流を形成していた連中が、より弱い者を排除したり搾取したりという苛め構造を作って自らの糊口を潤すことしか考えることができなくなっている。つまりホントの敵を知らない訳だ。何という馬鹿者達だろう。そんなことをして、真の敵を利するとは!
満足度★★★
夢を追い掛け街にやって来た若い女の子3人は、(追記後送、華3つ☆)
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偶々、同じ時刻、同じ場所へ向かう同じ列車の乗客となった。訪ねた先も同じ、訪ねた目的も同じであった。3人が住んだのも同じ部屋。隣人に挨拶に行くと隣人は魔女。但し白い魔女、即ち善の魔女という、魔女という概念とは矛盾するが彼女達がスターに成る為には必須の人であった。が、彼女らは突然、ステージを去ってしまった。
満足度★★★★★
このぶっ飛び方がグー。(華5つ☆)
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コリッチの劇団説明を読んだ時は、「ミクロの決死圏」と同じような着想かと思いきや内容はSFと略せてもサイエンスファンタジーに近いか。無論、体内の様々な菌は登場するし、善玉、悪玉が居るのだが、このキャラ作りと用い方、様々な要素の組み合わせ方にドライでぶっ飛んだセンスがみられ、極めて面白く拝見した。音響、照明のセンスもグー。
可也、格闘シーンも多いのだが、役者さん達の身体能力が高く、良い切れ味を見せているばかりか、階段落ちのような難度の高いシーンもふんだんに盛り込まれていて飽きさせない。
満足度★★★★★
新宿歌舞伎町のど真ん中に開園した“にしぐちほいくえん”(これだけで笑える)は夜間開園の非認可保育園。何故歌舞伎町が新宿東口に在るのに“にしぐち”ほいくえんなのか? は観てのお楽しみだ。(追記後送)