薄布 公演情報 天ノ川最前線「薄布」の観てきた!クチコミとコメント

  • 満足度★★

     作家も若いし演者も若い。

    ネタバレBOX

    おまけに作・演出が同一人物なので悪い方に転がってしまった。作家に訊くと演者達と相談しながら作劇していったのだというが、見切れ、かぶり等々、演劇の基本、客に見せるという点迄無視する役者に従ったのでは流石に演劇のイロハを知らないと非難されても仕方あるまい。演劇は殆ど有史以来存在する歴史の長い芸術形式であり、少なくともあらゆる民族のどんな歴史にも見られる芸術だから、現代の作・演出家も過去の多くの歴史的遺産に負う所が大きい。現在でも未だギリシャ悲劇・喜劇は往時のシナリオを用いて(無論翻訳も含め)演じられることもあれば、それをベースに新たな戯曲が書かれたり、演じられることも多く、チェーホフの登場以来、彼の作品と格闘することで、近代演劇の演出法を確立したと言われるスタニスラフスキーやそれを継承したメソッド演劇等の手法以外にも、韓国のイ・ユンテクさん等が韓国の古代演劇の手法や中国演劇の伝統から様々な遺産を継承して優れた演出をし続けていることは、多くの演劇人が知る所である。そもそも、Baudelaireが言うようにQu'est-ce que l'art? Prostitution.芸術とは何か? 売春、と言い「芸術は売春の趣味」であるのだから、裸の精神を見せてナンボである。それを演劇では身体や人形などを用いてやる訳である。
     一方、今作では現代日本を生きる若い世代の閉塞的な世界(半径5~10m程度のことにしか関心を示さないような)が齎す“己”の問題を扱っている訳だが、自分、自分という割には、徹底して自己に拘ってなど居ない。少なくともRimbaudが書いたように Je est un autre.(私とは他者だ)という意識すらない。フランス語は人称に合わせて動詞が変化するので、1人称単数に対応するêtre の形はsuisが文法的には正しい。然しここで用いられているのが、三人称単数のestであるのは無論、自己の他者性を強調する為の詩的テクニックである。ランボーはフランス人であり、フランス語の天才詩人であったから、このような芸当をやっている訳だが、この1行は実に本質的に己というものの性質を表している。
    例えば言葉である。己を表現する為に今作ではラップが重要な役割を果たしているが、それには言葉が用いられており、それは社会的なものであって、ラッパー自身の発明では無い。本当に個人的な言語があるとすれば、流通するか否かは兎も角として、それは狂人の発する言語、即ち純粋に錯誤した言語である。何故ならば狂気の定義がM.フーコーの言ったように“純粋な錯誤”であるならば、その純粋錯誤を通じて用いられる言語は、言語表現の秩序を踏み外したものたらざるを得まいからである。而も、ラップそのものはアメリカの黒人が発明したものではなかったか? そんなものを猿真似すること自体、己を大きく離れ、自己矛盾を起こしている。従ってこのラッパー達の主張の根拠そのものが簡単に崩れてしまう程度のものでしかないのである。演劇の基本中の基本は論理であり、論理の働く場は関係性という場である。脚本家はそのことに常に心を配らねばならない。演出の点でも、役者が相当時間観客に背を向けていて演技が一切見えず(背中で演技している訳でも、その技量が在る訳でもない)、而も観客に対し正面を向いている役者の演技も背中で隠してしまって見えなくしている。スペースが無い訳でもなければ、全員の表情がキチンと見えるような配置が取れない訳でもないのに、これは失策中の失策である。役者の中に見切れを気にしない役者が居てその意見を入れたと聞いたが、ナンセンス。何の為の演出だ!? ということになってしまう。これでは、客はつかないよ。いい芝居を観て研究すべし。また哲学や論理学、そして深い思惟、更に多くの鍛錬、勉強が必要である。

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    2019/04/13 01:12

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