薄布 公演情報 薄布」の観てきた!クチコミ一覧

満足度の平均 2.8
1-9件 / 9件中
  • 満足度★★★★★

    鑑賞日2019/04/14 (日) 13:00

    ストーリーはいつの時代も変わらない自分探しでしたが、新感覚のリズムにあふれたステージ。前半は違う世の中になってきたなあ、私についていける世界はこれがギリギリかなあ感がパなかったですが、後半にはリズムの妙を理解。伝染性のある作品でした。

  • 満足度★★

    この芝居の面白さを見つけることができず、75分観ているのがきつかったです。チラシの説明文を読み期待して出かけたのですが残念でした。

  • 満足度★★

    その薄布を取ってみよう・・・破れるのも覚悟で剥がすのだろうか?それとも丁寧にゆっくり?感じさせる言葉自体が曖昧に思える。その曖昧さが作品の中にも垣間見えた。薄布というデリケートなものの意味合いも感じられない。演技・演出に関しては皆さんのおっしゃる通り。自分たちの作品を客観視することをお勧めする。若いが故の作品としてはそれはそれでよいのかもしれないが。

  • 若者達の群像劇。
    若い頃に抱える、もやもやした気持ちや葛藤は分かるような気がしましたが、 登場人物の台詞は、観る年代によって感じ方が違うと思いました。演技・演出は「・・?」という印象でした。

  • 満足度★★★

    全体として面白く観ることは出来ました。でも,他の方も書いているとおりのことを自分も感じました。まだまだ若い,今後に期待します。

  • 満足度

    内容うんぬん以前に、二ヶ所で同時に喋って台詞が被ってなんだかわからないシーン! 背中を見せての演技⁉︎ しかも、正面を向いている役者を隠す立ち位置にいたっては意味がわからない。演劇の基本から乖離している演出は、斬新かも。

  • 満足度★★★★

    「この街を、離れられるとしたら、離れられないとしたら、その違いは何だろうか。」には迫れていないと思いました。彼女にはラップで表現することが、薄布を取ることだったのでしょうか。本当にヒップホップな新境地だったんですね。基本、ラップは好きではありません。普通に喋れよ!と思ってしまうので。でも、ラップにのせることで自分を表現することができるなら、それはそれで本人にとっては大事なことのだろうと思います。
    当日パンフの役者さんの名前は、役柄と併記していただけると後で見るときに助かります。

    ネタバレBOX

    それぞれが話すことがかぶるシーンがありましたが、私には聞き分けられません。たいしたことは言ってないので、ちゃんと聞こえなくてもいいのだよ・・・と受け取って良いでしょうか。
    いろんな若者がいましたが、同じ年頃の子を持つ身としては考えさせられました。
  • 満足度★★★

    公演は生活感のない、どこか乾いた印象をうける。フライヤーには現代的なアングラを模索してきたが、今回はヒップポップな新境地といったことが書かれている。何となくスタイリッシュで、感情というよりは自分を見つめる心象劇のようだ。しかし悪くはないと思う。
    (上演時間1時間15分)

    ネタバレBOX

    セットはタイトルの薄布のような映写幕があるだけ。シーンに応じてテーブルや椅子が運び込まれる。説明からすると舞台は”東京の街”のどこかということになるが、その情景は浮かんでこない。ただ乾いた印象から、”東京砂漠”というフレーズを思い出す。

    梗概…平々凡々なサラリーマン生活を送っている主人公、その友人で起業して成功している者やカフェバーを経営している者、さらにはひょんなことで知り合ったラッパー仲間など、様々な人々との触れ合いを通して自分自身を見つめ成長しようとする。ラップという韻律を利用して、自分の気持を吐露する。普通の言葉で言い表せない、それをラップに乗せることによって心の自由が得られるという。

    ラッパー仲間と自分の本音表現を言い争う場面は、その気持(心)の正当性を相手に押し付ける、またはマウントするようで本音=自分勝手のように思える。また心の問題を捉えていることから、心療内科のカウンセリングシーンはシュールだ。
    友人との関係も親しくありたい、しかしある程度の距離も保ちたいという微妙な心理。若者の日常断面を切り取り、瑞々しく描いた一種のサブカルチャーのようだ。

    自分の気持に正直であること、同時に相手(友人)の話にも耳を傾ける。それぞれがグループを成し勝手に喋っている場面がある。芝居の台詞としては聞き難いが、実際にはこの騒然とした場面の方がリアル。芝居と現実、どちらの観せ方に重きを置くか、または優先するかは劇作家の思い、そこに観客の理屈は不要かもしれない。この公演、序盤は緩いテンポで説明調の台詞回しに違和感を覚えたが、中盤以降は相手の気持と言いながらも自分勝手な人間の本性が見え隠れする。そんな物語性がはっきりして面白くなった。
    次回公演を楽しみにしております。
  • 満足度★★

     作家も若いし演者も若い。

    ネタバレBOX

    おまけに作・演出が同一人物なので悪い方に転がってしまった。作家に訊くと演者達と相談しながら作劇していったのだというが、見切れ、かぶり等々、演劇の基本、客に見せるという点迄無視する役者に従ったのでは流石に演劇のイロハを知らないと非難されても仕方あるまい。演劇は殆ど有史以来存在する歴史の長い芸術形式であり、少なくともあらゆる民族のどんな歴史にも見られる芸術だから、現代の作・演出家も過去の多くの歴史的遺産に負う所が大きい。現在でも未だギリシャ悲劇・喜劇は往時のシナリオを用いて(無論翻訳も含め)演じられることもあれば、それをベースに新たな戯曲が書かれたり、演じられることも多く、チェーホフの登場以来、彼の作品と格闘することで、近代演劇の演出法を確立したと言われるスタニスラフスキーやそれを継承したメソッド演劇等の手法以外にも、韓国のイ・ユンテクさん等が韓国の古代演劇の手法や中国演劇の伝統から様々な遺産を継承して優れた演出をし続けていることは、多くの演劇人が知る所である。そもそも、Baudelaireが言うようにQu'est-ce que l'art? Prostitution.芸術とは何か? 売春、と言い「芸術は売春の趣味」であるのだから、裸の精神を見せてナンボである。それを演劇では身体や人形などを用いてやる訳である。
     一方、今作では現代日本を生きる若い世代の閉塞的な世界(半径5~10m程度のことにしか関心を示さないような)が齎す“己”の問題を扱っている訳だが、自分、自分という割には、徹底して自己に拘ってなど居ない。少なくともRimbaudが書いたように Je est un autre.(私とは他者だ)という意識すらない。フランス語は人称に合わせて動詞が変化するので、1人称単数に対応するêtre の形はsuisが文法的には正しい。然しここで用いられているのが、三人称単数のestであるのは無論、自己の他者性を強調する為の詩的テクニックである。ランボーはフランス人であり、フランス語の天才詩人であったから、このような芸当をやっている訳だが、この1行は実に本質的に己というものの性質を表している。
    例えば言葉である。己を表現する為に今作ではラップが重要な役割を果たしているが、それには言葉が用いられており、それは社会的なものであって、ラッパー自身の発明では無い。本当に個人的な言語があるとすれば、流通するか否かは兎も角として、それは狂人の発する言語、即ち純粋に錯誤した言語である。何故ならば狂気の定義がM.フーコーの言ったように“純粋な錯誤”であるならば、その純粋錯誤を通じて用いられる言語は、言語表現の秩序を踏み外したものたらざるを得まいからである。而も、ラップそのものはアメリカの黒人が発明したものではなかったか? そんなものを猿真似すること自体、己を大きく離れ、自己矛盾を起こしている。従ってこのラッパー達の主張の根拠そのものが簡単に崩れてしまう程度のものでしかないのである。演劇の基本中の基本は論理であり、論理の働く場は関係性という場である。脚本家はそのことに常に心を配らねばならない。演出の点でも、役者が相当時間観客に背を向けていて演技が一切見えず(背中で演技している訳でも、その技量が在る訳でもない)、而も観客に対し正面を向いている役者の演技も背中で隠してしまって見えなくしている。スペースが無い訳でもなければ、全員の表情がキチンと見えるような配置が取れない訳でもないのに、これは失策中の失策である。役者の中に見切れを気にしない役者が居てその意見を入れたと聞いたが、ナンセンス。何の為の演出だ!? ということになってしまう。これでは、客はつかないよ。いい芝居を観て研究すべし。また哲学や論理学、そして深い思惟、更に多くの鍛錬、勉強が必要である。

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