ハンダラの観てきた!クチコミ一覧

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時代絵巻AsH 其ノ拾四『紺情〜こんじょう〜』

時代絵巻AsH 其ノ拾四『紺情〜こんじょう〜』

時代絵巻 AsH

シアターグリーン BOX in BOX THEATER(東京都)

2019/06/12 (水) ~ 2019/06/17 (月)公演終了

満足度★★★★★

 この劇団の長所である歴史物語に見事に人間性が描かれている点がお勧め!!(追記2019.6.17)

ネタバレBOX

 オープニング、村人に気遣われつつ、足の古傷が痛む老人が入場、間もなく身分の高い武士の一団が彼を訪ねてくる。筆頭は領主でぁる。彼らは関ヶ原の戦いで唯一の生き残りである老人に、偶然入手した鎧が本当に豊久が身に着けていた物か否かを鑑定して貰うと同時に往時の模様を知り為訪れたのである。何となれば、訪ねて来たのは島津家の者ではあっても養子であり、往時の様子を詳しくは知らず、薩摩武士としてその拠って立つ所をキチンと己の目と耳で確かめたかったからである。ところで、この導入部だけで実に多くの情報が観客に伝えられる。例えば、古傷という単語一つで老人が往時武士であり、而も一目見て領主を認識するくだりでは、領主側近の相当の地位に居た人物であることが伝わる。東京の人々にも分かるように相当デフォルメされてはいるものの、それは、薩摩弁で語られる物語として構築されており、遠い戦国末期の闘いに参加した九州最南端の雄藩・薩摩の領主、その弟や息子、そして主君に仕える忠臣らを通じて人の生き死にに、頼朝以来の武士としての矜りを受け継ぐ島津氏中にあっても中核を為す薩摩島津の親子・近親の情、友情や意地という形を採って現れる薩摩武士の矜りなど人間としての苦悩や生き甲斐を、闘いに賭けた生き様を通して描く。
 剣道に造詣のある人なら薩摩示現流のことは聞いたことがあるかも知れない。その修練の厳しさと威力は、彼らが練習に用いた木々が立ち枯れた話や用いた木剣が折れた話など数々の逸話にその打ち込みの鋭さと威力が如実に現れている。日本刀で何かを切った経験を持つ人なら、その凄まじいまでの切れ味には、心底背筋がヒヤリとするような慄然たる感覚と余りの切れ味にヒリヒリするような快感を味わったことがあろう。その切れ味の鋭さは、腕くらい切り落したところでホントに殆ど手応えは感じまいと思わせる。それほど切れ味の鋭い刃物であるから刀同士がぶつかり合うような立ち合いは殆ど無かったと考えるべきであろう。(刃こぼれが酷い、ヌンチャクなどで側面から叩かれれば折れやすい等の理由から)まあ、示現流の一の太刀を刀で受けたらそのまま折られ真っ向唐竹割という結果になろうというもの。また、保守的傾向の強い九州にあって薩摩気質は、他人のしないことにチャレンジしたりリスクを取ること、取って果敢にチャレンジすることを尊ぶ精神がある。明治の幕を開けた二大雄藩に薩摩藩が名を挙げるのは今作で描かれたような経緯があったと考えたい気になるのも、維新の評価は様々にあろうが納得のゆくものではある。
 また、関ヶ原の戦いに於ける豊臣方敗戦の原因として流布されている小早川の裏切りについても、ここでは好い加減な裏切りと捉えず、武士の残すべき二つの価値即ち、所領と家名を残す戦略・戦術の一環として捉えている点も興味深い。
チューボー ~SECOND HOUSE Ver~

チューボー ~SECOND HOUSE Ver~

SECOND HOUSE

シアターシャイン(東京都)

2019/06/12 (水) ~ 2019/06/16 (日)公演終了

満足度★★★★

 もろ厨房の話である。であるのに、オープニング早々、17年もコックをやってきた男が、デシャップの上にバッグを置くなんてことはあり得ない。彼の何を表そうとしたのか? 何れにせよ不徹底。気に入った役者さんは、服部役と子役の女の子。(追記2019..6.14)

ネタバレBOX

料理は人生と同じくらい奥が深い。その証拠といってはなんだが、英国にしろ米国にしろ戦争ばかりやりたがる国の料理は基本的にマズイ。人間の食い物とは思えないのだ。旨い食い物が世の中にはあることが、習慣として分かってしまうと誰も戦争なんぞやりたくないのは分かり切ったことだから。少なくとも近代国家以降、戦争ばかりやって人生を棒に振る国に旨いオリジナル料理など無いという偏見を自分は持っている。
 ところで今作では随所に様々な引用が、態々役者によって舞台コーナーで度々発語されるのだが、これはポピュリズムへの安易な逃避でしかあるまい。これでは脚本の質を自ら否定するようなものだ。何となれば、引用は余程大人になった表現者自身が自家薬篭中のものにしている場合以外、必ず内容との不自然な齟齬を生じるからである。引用として用いて齟齬が生じないのは、作り手の生き方そのものである場合とそれを目標として生きている場合であり、後者の場合は己が生きられるのはたった一つの生であることを知りぬいた場合のみである。こんなに様々な人々の引用ができるようでは、己の人生が真っ当できていないことを少なくとも自分の頭を使って考える習慣を持つ人間の前では告白しているに等しい。
 因みに服部役が何故自分の気に入ったかは、脚本も演技も服部という人物造形で嘘が無いからである。(無論舞台上で演じられるのは、ご当人とは直接関わらないかもしれない。然し、我らは実人生に於いても例えば父親、例えば母親、例えばサラリーマンや商売人、時に渡世人などを演じているに過ぎない。その意味では本質的な径庭は無いと言うこともできるのだ)その意味で職人気質のある種の職業人の真実を見事に描き、演じているからだ。
 子役の女の子については、大人と子供の差についての自分の考えを述べてから書くことにしたい。自分の勝手な定義では、大人とは、関係の只中で己を活かす術を持ち且つ実践できる人間を意味し、子供についてはそのノウハウを持たない者を意味するが、前者の武器は利害計算と自己制御、後者の武器は天真爛漫と自由である。そして天才とは、後者を60~70%、前者をその介添え役として按配され、結果世の中で己の自由を存分に活かしつつ社会契約許容内で人生を送れたラッキーフュウを言う。
 服部は料理人として天才的な人物である。従って自分は彼のキャラ評価については自分の定義のラストに近い所で評価している。一方、子役については、しっかりした賢い女の子を今の彼女の地続きで演じていればいいだけなので、決してちょっと褒められたからといって図に乗らないで欲しい。自分は若い頃から、子役、元子役で売れた人々(それもメジャー)と付き合いがあったので、図に乗った実際相当賢い人々がその後どうなったかを散々見てきている。どうか、本物の一流を生涯通す人々ほど、毎日が勉強で自分などはまだまだ、と心の底から考え、勉強し続けていることを知っておいて欲しい。無論、勉強といっても学校の教科書で学ぶような単純なものではない。日々を生きる中で人は、どのような時、どんな人々と会って、どんな会話を交わしたり、交わさなかったり、或いは会話の届かない距離に居て、内心何を考え、或いは企んでその時、その人自身の選択をしたのか? その結果どのようになったのか。結果から考えて、その人の選択は正しかったのか、自分に引き付けで考えるといったような勉強だ。
夜のジオラマ

夜のジオラマ

SPIRAL MOON

「劇」小劇場(東京都)

2019/06/12 (水) ~ 2019/06/16 (日)公演終了

満足度★★★★★

 何より驚かされるのが、このように本質的な作品が2007年に発表されたことである。(追記2019.6.14 01:08)

ネタバレBOX

2007年といえば、安倍晋三内閣の第1期、安倍が晋太郎の遺産相続で脱税、週刊現代にスクープされ辞めた年だ。その時点でこの内閣の作り出すディストピアという本質を描いていることに対する驚きである。キーとなる状況やコンセプトがポツン、ポツンと示され、徐々に全体状況が類推できる極めてデリケートな作品だが、このデリカシー故に、終始緊張感の途切れない脚本・舞台である。それは時代という名の秤の上に、嫌も応も無く載せられた裸の神経そのものだ。描かれているのは、まさしく我らが現実にそこで生きている日本という名のディストピアである。
 ここで描かれるディストピアとは他人を操る技術としての政治(嘘と隠蔽、そして詭計によって設計され、利害によって裏打ちされた支配体制と本来そのような事態を粉砕すべく立ち上がる民意の無効性を予め制度に組み込まれ、己の頭脳を用いて考えることを奪う教育によって画一化された社会やマスゴミによって洗脳されていることにすら気付かなくなった人々と、一応理性が機能しているかのように装われた彼らの心の浅薄極まる機微の底の底に蠢く、既に狂ったように感じられる分正常な魂に、漠とした不如意として現れるもの・ことの意味する所で、キチンと事実を腑分けして抉り出し、己の頭で連関の必然性を見出すことのできる想像力を持ち合わせたドキュメンタリー作家が、洗脳されたとも知らぬ民衆から心無いバッシングを受け、夫婦・家族が孤立化してゆく過程で起こる災禍を太陽フレアを原因とする磁気嵐や、そのことが原因で起こる電子機器の不具合や故障等々によって機能しなくなった社会、蔓延するパンデミック等々総てを21年の時の壁を行き来する装置として、大きく隠れ家的建築物と、其処に置かれたいくつかの先代住民の置き土産が丁度映画や書物が一種のタイムマシンである如くに2040年と2019年を繋ぎつつ、展開するが、何分通常のタイムトラベルものと違って、ありきたりの出し方ではないので一瞬の弛緩もなく観ることができる。無論、観客が要求されているのは、このような点描で示される要素を観客自身の脳で思考し、深め、連関を見出し、先ずは何が描かれているのかを特定することだ。
 その上で、起っている事件の中での各々の行動の意味とその結果を観客自らの脳内でトータライズしてみせることである。その時、各々の脳内に2―1=の答えが浮かび上がってこよう、答えは1つでなくて良い。アヤのsuicide attackの持つ意味や動機、ノマドの名とアヤの親友の名の同一性及びアヤの行為の社会的意味とその行為の持つディストピア社会での唯一無二の希望としての尊さなどが浮かんでくる。そして、この点に気付かなければこの物語に救いの要素は無い。丁度、我らの民意が、他ならぬ安倍晋三という象徴的国賊によって根こそぎ奪われているように。
 ところで、この現況を覆す方法が無い訳ではない。それも平和的に。それには、先ず国民自身が目覚めねばならない。ポピュリズムを警戒しつつ、直接民主制を構築すること、その為には現行法を改革しなければならないし、選ぶ際に、党や人でなく政策そのものを選ばなければならない。経済に関してはアベノミクスなどという最初から破綻した論理ではなく、現在タブー視されている公共貨幣制度を基軸化する必要がある。今挙げたことだけで2~3冊本を書かなければならない程の問題だが、この辺りが、真の基点として提起できる基礎の基礎である。今作の提起している問題はことほど左様に深く、本質的なのである。
 おっと、電気エネルギーに関しては、水素発電がお勧め! まあ、既得権益持ってる電力会社やそこに関わってズブズブに儲けてる企業、それに群がる政治屋、官僚共なども叩き潰す必要があるから、この辺りも各々がキチンと調べて叩くとグー。こういう形で具体的に利権を潰してゆくことができれば、原発などという唯湯を沸かす為だけにトンデモナイリスクを負わされるアホラシサからも解放されよう。因みに原発仕事が無くなって困るという方々には廃炉で活躍して頂けば現実的だろう。但し、作業者の被ばくに関してはキチンとケアするという条件をつけてというのは、当たり前だ。被ばくが原因で作業者が足りなくなったら、推進してきた人々を強制的に作業員として働かせるべきであろう。倫理的にもそれが最も理に適っていようし。
玉響ノイズ〜空蝉に、風光る〜

玉響ノイズ〜空蝉に、風光る〜

えび

シアター風姿花伝(東京都)

2019/06/05 (水) ~ 2019/06/09 (日)公演終了

満足度★★

 自分には合わなかったようだ。

ネタバレBOX

 基本的に開演前に当パンを読まない主義なので、帰宅してから目を通してみたら、ゲシュタルト崩壊などという言葉が作家の文章に出てきたのでちょっと面喰ってしまった。作品を拝見した限りでは、作家の知的営為を余り感じなかったからである。何となれば、主人公・紡は、他人にコミットすることしかしてこず、孤立を恐れ、孤独に耐えて己を深める道を選ばなかった結果、漸く自分が虚ろであることに気付き、何とかしようともがくにはもがくのだが、結局、曖昧模糊とした幻影の中に逃れるだけで一切本質的な対決と選択をせずに時を過ごしてしまう。必然的に彼は己が己として存在し得る地平も知らず、その地平へ至る術も持たぬまま、幻影と共に元の木阿弥に戻ってゆく。問題はこの過程が作家にとって曖昧なことである。対象化し切れていないことが明白であるから、ドラマツルギーが成立しておらず、そのことを意図できていないから己がスタンスに対しての揶揄もなければ、自己憐憫などの知的メスをも己の精神に当てていない。Rimbaudではないが、言葉によって表現する者は自らが己のメスによって生きながら己を手術をするような憂き目を実践できなければならない。そこが表現する者と一般人との差である。矢鱈と意味も無く踊られるダンスは、この虚の齎した必然的結果である。無論、皮相なレベルでのゲシュタルト崩壊はあり得よう。然し、今作にも出てくる2次元に嵌ってイケメン以外には話をできない少女程度の歪みでしかあるまい。2次元に深みは最初から期待できないのだから、せめてそこに明澄性の光を当てて地獄を見せるようなことでもやってくれれば面白かったのだが。
脱獄5

脱獄5

家のカギ

新宿シアター・ミラクル(東京都)

2019/06/05 (水) ~ 2019/06/09 (日)公演終了

満足度★★★★

Bチームを拝見。(華4つ☆)最後迄ネタバレしては面白くニャイ。更なる追記は、終演後のネタバレで。

ネタバレBOX


 他の囚人たちからは離され而も男女同居の雑居房という訳の分からないコンセプトによって集められた4人の囚人たち。脱獄を図り各々の役割を分担して迎えた決行の日、あろうことか脱出計画を任されたチームリーダー・沼田の計画は余りに“みむめも”なものであった。硬いコンクリートの床をスプーンで掘ろうというのだ! 而も時間は看守の目を逃れることができ、鏑木が段取りをつけた電源破壊が修復されるまでの僅かな時間のみ。だが、決行する他、脱獄成功の道は無い!! 中盤迄、総てがこのような馬鹿げた展開で推移し而も結果的にそれらが決定的に悪い方には転がらない、根性リズムや決意性一般の浪花節・センチにも陥らないので、このバカバカしさが楽しい。
 ところで堀った穴の1つが、服部という囚人が閉じ込められていた独房に逢着してしまい、服部は雑居房に現れることとなった。当初4人だった脱獄メンバーは5人に増えた訳である。
なんてったって

なんてったって

青春事情

OFF OFFシアター(東京都)

2019/06/05 (水) ~ 2019/06/09 (日)公演終了

満足度★★★

 アイドルっていくつ迄? (華3つ☆)

ネタバレBOX

 男3名のアイドルユニット・ゴットチャイルドは、17歳でデビューして以来20年間キッズと呼ばれる固定ファンに支持されアイドルとして活動してきた。アイドルに禁じられているのは恋の噂、中でもファンの女性との恋愛沙汰は最大のタブーだ。無論、他のスキャンダル、揉め事、ファンの支持を壊すような総てが禁じられている。20年もの間、彼らがアイドルを続けて来られたのはアイドルの鏡と言われるリーダーの献身的なファンサービス、メンバーの律儀等々ではあったが、流石のゴッチャも寄る年波には勝てない。髪が気になる者、体型が気になる者と門題が出ているばかりかアイドルのコンセプトからも外れるのではないか? と内心恟恟、社長にした所でいつまでも手を拱いている訳にもゆかぬから新人スカウトやオーディションで新人発掘に乗り出している。
 ところが、何の問題も無かったハズのリーダーが、写真誌にJKと共に自宅に出入りする現場写真を撮られてしまった。雑誌発売の前日、事務所にその旨記した文書が届いた。
 脚本は奇抜な発想が無く正解が先読みできてしまうので、タイミングをずらすなどの笑の取り方以外に笑える点は、自分には少なかった。演出にも際立った工夫は感じられない。だが、この当たり前が、如何にもロートルらしくもあり、終盤の盛り上がりに寄与してくる。つまり、華やかで格好良いアイドルという幻想を維持する為の仇で過剰な努力は、妻と夫の間に横たわる無限の孤独と深淵を知る年になれば誰もが感じる老いと死そして空しさと、子を持つ親として向き合わねばならない現実生活のリアルの前には、現実的な深刻さなど微塵も持たないという当たり前を、一瞬覆い隠すイリュージョンとして機能する共感が成立している。
ARTE Y SOLERA CONCIERTO Vol.25

ARTE Y SOLERA CONCIERTO Vol.25

ARTE Y SOLERA 鍵田真由美・佐藤浩希フラメンコ舞踊団

世田谷区民会館(東京都)

2019/06/01 (土) ~ 2019/06/01 (土)公演終了

満足度★★★★

 スペインからやって来たというミュージシャンたちの歌やギターが素晴らしい。(華4つ☆)

ネタバレBOX

オープニングの群舞・Sevillanasは、体が充分温まっていないことと、オープニングの緊張からか、全員の動作の合わない所があったが、まずまずの出来。唯、この時点でスペインや南仏で観ていたgitano/gitana(gitan)の持つ天性を感じさせる躍動感、野性味と身体の差は如何ともし難い。まあ、致し方あるまい。生活が全然異なるし、東洋系身体と欧米系やアフリカ系、gitan系と我々の身体は形態がかなり異なるのだから。土方巽が、舞踏を編み出した背景にあった大きな理由もこの身体の差異であった。
 フラメンコの発祥については諸説あって定かではないものの、スペインのアンダルシア辺りの芸能とgitanoの芸能が混じりあって現在のような形になったものだと考えられそうだ。政治的には、無論スペイン系が優勢、オリジナリティーとこの芸能の本質部分に占める重大性についてはgitano系が圧倒するのではあるまいか? 何れにせよ、人生の悲哀も情熱も愛の強さ・辛さも地中海の海の緑と明るい碧空、強い紫外線の下では、また漆黒の闇に輝く満天の星の瞬きの下でも、静かに完全に癒されることは無い。それを背負って生きてゆく人々の突き抜けた強さが、フラメンコの魅力であるとすれば、この魅力を知る方々の踊りであったには相違なく楽しむことができた。
 最も関心したのは、鶯色の扇を用い、裾の後ろ側が長く伸びたスカートを穿いて東洋系身体の弱点を上手く隠し、スカートの裏地、髪飾りの色等を総て扇に合わせ、而も衣装全体は暖色系で纏めて鶯色にタイアップしてみせ、全体のコーディネイションを女性らしい柔らかさと温かさたおやかさで表すと同時に、あでやかに舞ったダンスは、東洋系身体を考慮したと思える知的ダンスの妙と共に心に残った。
ピッキー

ピッキー

東海3県県民ミュージカル

シアターグリーン BIG TREE THEATER(東京都)

2019/05/29 (水) ~ 2019/06/02 (日)公演終了

 奥が嵩上げされて踊り場になっており中央に扉、やや上手に窓。手前はフラット。物語りの展開で扉、窓などは取り払われる。奥はスクリーンになっており場面によって海や空、島の景色などの背景が映し出される。観客には子供も多く4割以上が子供だろうか。一応、ミュージカル仕立て。歌、科白はマイクを用い発声に無理は無いが、まだまだ発展途上の子供たちが出演者の大部分を占めるので技術的な評価は控える。

ネタバレBOX


 改めて驚かされた点と言えば、子供向け作品とはいえ、演劇作りの基本は矢張り大人のものと変わらないのだと改めて認識させられた。子供向けになっているのは、大人の論理に逆らうことが愉快なのでそのような悪戯原則が至る所で適用されている点だろうか。無論、学校的良い子は、ここでは通用しない。実際、そんなものが真の創造性を削ぎかねないことは心有る親なら誰しも気付く所であり、日本人でも態々子弟をシュタイナー学院に入学させる親が四半世紀前には結構居た。(今は知らないが)自分は作品を拝見しながら「梁塵秘抄」の有名なフレーズ“遊びをせむとや生まれけむ”を思い出していた。
かさぶた式部考

かさぶた式部考

劇団櫂人(解散しました)

上野ストアハウス(東京都)

2019/05/29 (水) ~ 2019/06/02 (日)公演終了

満足度★★★★★

 今作の式部は式部でも紫式部ではない。和泉式部である。原作の秋元 松代が想を得たのは当パンによれば柳田 国男の「女性と民間伝承」記載の文章からだという。
 庶民の抱え込まざるを得ないどうにもならない門題を秋元 松代はキチンと脚本化している。彼女と一緒に仕事をしていたプロデューサーが、秋元のことを話してくれたことがある。決して大きな方ではなかった。寧ろ小柄な方だったというが、彼女の最もな主張に異を唱える者があると、「無礼者!」と叫ぶや否や態々数歩下がって腰を屈め頭を先頭にして頭突きを喰らわすような激しい闘志と矜りを秘めた女性であったという。作品を拝見してついこの話を思い出してしまった。富岡 多恵子さんや亡くなった「苦界浄土」の作家、石牟礼 道子さんのように真の優しさ(菩薩性)を持った女性なのだろう。今作の中にも菩薩についての説明は出てくるので興味のある方は是非、作品をご覧頂きたい。(1回目追記少しだけ5.31 17時23分 2回目追記6月1日2時46分 3度目の正直6.1 5.25 おまけ)

ネタバレBOX


 どうにもならない庶民の抱え込まされる問題を、豊一を仲立ちとして、母・伊佐、妻・てるえ、そして彼らを嘲笑うかのようでありながら次元を異にする妖婦・智修尼。更に智修尼の二重性を、その俗での属性である肉欲によって表象させる装置としてのもう1人のタワケ・夢之助らが、和歌で表される韻文、生活者の描かれている散文、そして土俗を表す肥後方言によってキチンと描き分けられつつ脚本化されている秋元さんの筆力と社会観察の確かさを感じさせる作品だが、このような作品を選び、今上演する演出家・篠本 賢一氏の見識も高く買うべきだろう。
 櫂人は2011年結成のシニア劇団だが、結成以来篠本氏が、指導している。演技は総じて良くなってきているが、今回上手い役者さんが一人、いらっしゃる。信者のまとめ役を演じている方である。だが、何と言っても今作でいぶし銀の様に光るのは矢張り秋元 松代さんの戯曲だろう。因みに今作は大部分が肥後弁(つまり熊本辺りの方言)で書かれている。1960年代前半と言えば、1956年に熊本大学医学部が因果関係を明らかにする為の最終実験を始めた結果水俣病の原因がチッソの垂れ流す廃液であることを明らかにしたものの企業城下町での人間関係やチッソが国策会社であったことなどからくる隠蔽工作などで被害が拡大、貧しい者からは特に大きな被害が出た時代であり、石炭から石油へのエネルギーシフトにより斜陽化しつつあった石炭産業では、労働条件の悪化や坑道の無理な拡張と保守の不備から三池炭鉱では63年、戦後最多の死者を出した炭鉱事故が起きた。命を失くさずに済んだ者もCo中毒によって後遺症を発症したし、事故時のトラウマから今作でも描かれているように患者の気付く所で火を焚いたりすれば、事故時のショックが再現され、パニック障害を起こしたことも事実であるのに、専門家と称された医師団報告では病は詐症とされるなど、病因もハッキリさせることが出来ないままに被害者を遺棄していった時代であり、このような陰惨な事実を隠蔽する為にこそ、64年の東京オリンピックという花火が華々しく打ち上げられた。それは恰も、その華やかさと憂さ晴らしによって、民の間に蔓延する生き地獄が実は単なる悪夢、否、マヤカシでもあるかのように意識の表面を上書きして皮下を見えなくしてでもいるかのようである。丁度、福島人災を矮小化し、実体を隠し、今回もまた、癌と放射性核種による被ばくとの間には因果関係が無いかの如き発表が“専門家”によって為されているように。
ところで水俣病やイタイイタイ病のみならず、その後のサリドマイド禍や、非加熱製剤によるエイズ禍などでも厚生省、専門家はキチンと彼らの失策の責任を取ることをしなかったのは衆知の事実である。今作に登場する豊一はこのような犠牲者の象徴であることは明らかだ。何となれば、今作が書かれた動機の一つが、このような弱者に対する理不尽であり、作家・秋元 松代の魂に火をつけた原因なのだから。実際、秋元は炭鉱に出掛けてキチンとした取材をしている。さて、今作で奇蹟を感じさせる豊一の一時の覚醒だが、実際のCo中毒患者にもこのような事例がみられた。そのことを秋元は取材の過程を通して知った上で、多くの宗教組織の持つ政治性を撃って見せる為に、この事実が奇蹟と見えるように仕組んでいる。これは、彼女の豊かな才能の為せる技である。
今作の前後にはオリンピック関係の映像が用いられ作品をサンドイッチしているが伊佐とてるえの描き方は殊に見事だ。2,3例を挙げておけば、先ず序盤の口論の場面、てるえの勝気で現代的な側面に対して伊佐は原則的にその自由を認めており、てるえが伊佐の自分への微妙な心使いと村人への用心を矛盾と捉え、そのことが彼女を姑への反発に導いていることがてるえの若さとして描かれている。何となれば、てるえにとって伊佐は煩わしいからである。つまり、互いに中々頭の良い女性同士の鍔迫り合いということだ。てるえの吐き気からつわりを悟り何くれとなく心遣いをする伊佐の様子も、またこの時点でてるえと庄三との関係を疑っていることも窺われるので、彼女の可也自由な発想は筋金入りと言って良かろう。終盤でのてるえに対する態度もこの一貫性の現れで矛盾は無い。一方、伊佐の変化は、最終部に如実に現れている。山に籠って番をするようになってからのシーンである。お巡りの者達が訪れ、奇蹟を記念して描かれた絵馬を前にして口々に勝手なことを言う。「お茶を運んで来い」だの、豊一を「いい男」だの「綺麗なお母さん」だの「良い所の奥さまだった」だの、と。かさぶたに覆われてでもいそうなお茶を運んできた老婆(この場面での伊佐は無論、子を失って行脚し癩を患ってかさぶただらけの姿になった和泉式部その人の写しである)こそ、この絵に描かれた母その人だとも知らず、絵に見とれ、手を合わせ、ご本人にゾンザイ極まる口をきく。また、別のお巡りさんは息子をカドミウムにやられ、その痛みの鋭さ、辛さに苦しむ有様、手足も満足に動かせず赤子同然の大黒柱に心痛める母として「子を産んだことの無いあなたには分からないだろうけれど」と前置きされた後、己の息子・豊一同様、働き盛りに事故や公害で体を蝕まれ、世間から嘲笑われ、余計者と看做され、陰口を叩かれ、身の置き所さえないばかりではなく、勤め先からも何の補償や保障も無いどころか、それらの政策を推し進めて来た国や自治体からも遺棄された絶望の先に、藁をも掴む意で縋った信心にさえ裏切られ、命の髄を干からびさせられる程、即ち絶望できるなどということが如何に甘いかを思い知らされた挙句、日々音も無く存在の根拠を舐め取られながら、以上を支えていたハズの底など初めから無かったことを悟り、刻々音も無く底もなく尚深まってゆく深淵に、為す術もなく落ちてゆく己の、底抜けに深まりゆく絶望を呻きに変えて、科白には表せない民衆の怨嗟を突き付けてくる、或いは真の自由を。これは、かつて田中正造が足尾鉱毒事件を直訴せざるを得なかったような、この国の惨たらしい在り様が何ら変わっておらず、為政者、支配層が一切変わっていないことの証左である。そして1964年の東京オリンピックを終えて半世紀以上の時が経った今も、その本質は一切変わらなかったことを露骨に表しても居よう。であるなら我らは民衆は今、 一度、田中 正造の言葉を思い出してみる必要があろう。その言葉とは「亡国を知らざれば、これ即ち亡国」。我ら民衆は今、こんなに当たり前のことを言う口さえ失くそうとしている! のではないか? そのような位置にたってこそ、同時に真の自由のトバ口に立っているのかも知れない。
 おっと、大切なことを書き忘れていた。舞台美術は簡素化し得る限界迄簡素化されている。但し、それは何一つ肝心な要素を省いていない。深山幽谷を表す為の高低差や初代式部が籠り、身投げをした霊場迄描き出さねばならぬのだし、豊一一家の家も、お巡りさんらの宿泊所も、道行の工程も総てを表さねばならぬからである。無論、此処まで簡素化する以上、観客の想像力を最大限発揮して貰えるような仕組みも作っておく必要がある。これら総ての要素にちゃんと応える仕掛けとして用いられているのは、奥に行くほど高くなった厚めの平台、下手の階段、上手では、平台の高低差に応じた踊り場状橋掛かり、黒の緞帳、カーテンレール、幕などと小道具、そして出捌けなどのレイアウトとそのタイミング、観客席と観客に協力して貰った仕掛け(お巡りツアー席)、衣装等である。最も高い位置にある奥の霊場部分は大方閉じられているのだが、カーテン式に開閉出来る為、頗る大事なシーンでたったこれだけの仕掛けが、大変重要な役を果たすし、観客に協力して貰って座る最前列の10席では、お巡りさんの衣装を着用して貰う“お巡りツアー席”なるものが設けられており、当然のこと乍ら、客席にお巡りさんが同席するというメタ化が図られている。劇団としては協力して頂く訳だから、当日券より1000円安く観劇もでき、観客としても面白いと楽しむことができよう。無論、お巡りさんの衣装は貸してくれるが、席の指定はできない。座席は最前列の何処かに10席設けられるということだ。
ざくろのような

ざくろのような

JACROW

座・高円寺1(東京都)

2019/05/29 (水) ~ 2019/06/02 (日)公演終了

満足度★★★★★

 世界一のリチウムイオン電池開発に絡む買収合併と開発に関わったチームリーダーのヘッドハンティングに纏わる主筋を中心に展開する物語。例の実話を基にした作品ということができる。

ネタバレBOX


 天才とそれを取り巻く凡人、秀才間のコンプレックス問題、妬み等の感情が渦巻くと共に独創的な発想や型破りな才能を潰すことしか考えない日本的体質と、実績のみで自由を守りぬく天才を知り、天才を活かす術を持ち、歴史的にも様々な基礎的発明や発想を為し、人類に貢献してきた民族との差も出ていて面白い。実際、自分の周りにも日本で賞を獲ったりして学会誌に名が載り海外から注目されてヘッドハンティングに応じ、二度と戻って来ない知人が何人も居る。そりゃそうだろ、日本に居たって面白いことなんぞ、一つも無いのは重々経験して来た訳だから。他にも語学が堪能で海外で友人を創れる日本人なら一人の例外も無く海外に住みたがる。それは当然のことである。
 実際、海外のエージェントからオファーを受けるとその条件は頗る良い。給料は年俸で日本の最低倍、2.5倍程度のものが多いようである。これは少数の人の経験値だから一般化はできないが、まあ、この程度は当然だろう。その他の待遇(休日、様々な保障、居住等)も下らない縛りが無くビジネスライクに仕事が出来る点でも、居心地は良いようだ。欧米の外資系で働いたこともある人なら、コンプライアンスについても従業員に対して日本の企業のような誤魔化しをしないことは良く知っているハズである。(良い例が労災)そして、一番良いことは能力主義で評価されることだ。日本では、バカが上司でも馬鹿の命令に従わなければならないことが大半なのだが、こういうナンセンスが無い。
 上に挙げたような事情を含め、語学が出来、キチンと国際社会の常識を弁えて外国人と友達づきあいが出来、合理的な思考をすることが出来、食べ物・飲み物の問題が無く、宗教的な問題も無く、且つ家族関係の調整が出来るなら、海外で働き生活することには頗る大きなメリットがある。
 今作では、上に挙げたような状況の反映を日本の典型的会社社会VS国際社会として描く訳だが、勝負は最初からついている。合理性に勝る方が勝のは必然だからであり、それを支えるのが人間の自由に対する態度であることを考えれば答えは自ずから見えてこよう。
 キチンとこの辺りを押さえた脚本の良さに舞台美術の合理性が優れているが、残念な点が一つ。箱が大きいので天井タッパも高く、面積も広いから役者の科白が場合によって届きにくい。この辺り、演出がもっとしっかり駄目出しをするか、どうしても声が届かないようならマイクを用いるということも考えて良いのではないか。折角の優れた戯曲が観客に一部でも届かないのは口惜しいではないか。
 無論、外資系は能力が無いとなれば、容赦は無い。その辺りもビジネスライクだが、こういう厳しさは当然のこと。その為、余暇の時間の使い方が大切なのだ。日々勉強、その意味では休む暇など無いが、それが楽しければこれほど面白い人生はない。
かげつみのツミ

かげつみのツミ

おぼんろ

BASEMENT MONSTAR王子(東京都)

2019/05/22 (水) ~ 2019/06/02 (日)公演終了

満足度★★★★

 3種類の変わり餡入りどら焼きにゃ~~~~(華4つ☆)

ネタバレBOX

 おぼんろ幕間の物語とされる今作、外部出演者のパフォーマンスレヴェルの高いことに驚かされる。バトンを操る妙技の見事さは、当に体の一部としてバトンが動く。自分も野毛の大道芸を仕掛けた人物とは既に何十年来の知己ではあり、彼はフランスで教えていた日本人であるから未だに野毛の大道芸にはフランスの芸人が多く集まる。自分自身もフランスで暮らしていたから大道芸は至る所で見て来たが、これほど見事なバトンの妙技を見たのは初めてである。この他、天井から吊り下げた布を己の身体だけを用いて体操ともダンスとも取れるパフォーマンスをしながら登り、降りてくる身体表現では、床にネットやマットの防護施設も無い中で、緊張した演技が展開され、一瞬たりとも目を離せない。狭い空間の中で、身体の柔軟性だけを武器に踊られるダンスや、切れのあるダンスを披露してくれるダンサーらの演技も見事である。
 このほか、いつもの語り部、4人。殊に類稀なほど他人を惹き付ける魅力を持つ女優、わかばやし めぐみさんの登場シーンは、カリスマ性さえ感じさせる。他に、白い着ぐるみの???たちが、裏周りの案内だの、本編中、様々なシーンでの雑事に登場して可愛らしさを醸し出しており、中々効果的。そういえば、中国、四川省で体中真っ白な野生パンダが設置カメラに写っていたというニュースがあった。
 ところで、今作、丁度どら焼きのような構成で餡の部分が3つの別の物語になっており、観客は、???(=キュルタムにゃ。後ろで解説してるのも、最初???なのも、にゃこが丸まって遊んでるんだにゃ~~~~)達に先導されて各々の物語が演じられる場所に移動して個々の物語を観るので餡の種類によって観る内容が異なる。つまり皮の部分(最初と最後)だけが観客全員が共有する部分であり、餡の部分は、粒餡、漉し餡、チーズ等で食感も味も全く異なると考えられるのであるが、自分は、体験箇所しか知らないので、こういう想像をし、それは作家の狙いでもあるハズである。
 脚本に関しては、導入部がマンネリ化しつつあるようにも思う。無論、細かな部分では新たな創意工夫もみられるのだが、これだけ世の中が狂いまくってくると、善意と素直さだけではなく、別次元の要素を織り込めれば、層の異なる観客層へも広がる可能性があるだろう。無論、今迄贔屓にしてくれた観客への配慮も必要だから一概には言えないが考えてみて欲しい。今作だけではなく、おぼんろの作品にはいつもアンビヴァレンツが内包されているが、作家にはもう一段地獄の階段を下りての視座を期待したいのである。
 演出では、ハイライトシーンで天井からミラーボールが降りてくる等細かいが効果的な配慮が為されており気に入った。
「ダルマdeシアター2019」

「ダルマdeシアター2019」

チームホッシーナ

西新宿きさらぎクリニック(東京都)

2019/05/18 (土) ~ 2019/06/02 (日)公演終了

満足度★★★★

 トランプが来ているせいで、警察・機動隊がうじゃうじゃ湧いている真夏日、湿度が低いことと実力者揃いなのが救い。(華4つ☆)

ネタバレBOX

 女性6名、男性1名の7名、病院などの慰労公演を目的に巡回興業を打つ為のオーディションを開こうとしている現場に集まった役者陣である。うち1名は裏長と呼ばれる主宰者。合否ジャッジは彼女が下す。
オーディション会場は、もう雨上がりにはのそのそ蛙も出てきているであろう新宿中央公園脇のビル1Fの本物のクリニックだ。本物のクリニックが舞台として使われるから、演技の行われる場所は観客席の前と下手の狭い空間で、上手の床上2m程の所にスピーカーが設えられ、下手コーナーにコントロールスペースがあって、他が演技空間なのだが、オペなどにも使われそうな開閉式ドア付の部屋が演技空間の真後ろにあるので、役者の移動や出捌けの際の通路として極めて効果的に使われている。
 皆、歌・咄嗟のアドリブ、パフォーマンスが上手く、レベルの高い実力者揃いの上、上記で説明したような設定になっているので目の前で演じられていることが、フィクション内フィクションという通常のメタフィクションの作り方ではなく、観客との見る・見られる関係自体がメタ化されている点が面白い。
ミュージカルで活躍している役者さんも多いので、様々なパロディーも埋め込まれているハズなのだが、自分は残念乍ら、それほど多くのミュージカルを拝見していないのでどの部分がどんな作品のどの部分に照応しているのかという点については良く分からない。ご勘弁願いたい。だが、実に軽やかで楽しい舞台であることは確かだ。
出演者が実力者揃いであることは無論だが、構成、物語り展開の自然らしさ、脚本、演出。音響などの効果もグー。何より、華やかなミュージカルの舞台裏をオーディションという形で描くことでミュージカルスター達を身近な存在として表現している点が良い。
 残念なことは、これだけの実力者が、これだけ楽しい作品を作り、演じてくれてさえ、自分の憂き意が晴れないことである。この「国」が余りに異常な狂い方をしているが故に。死ぬ時に「長生きしすぎた」とは言いたくない者の一人としては。
俺は間違っている。

俺は間違っている。

空想実現集団TOY'sBOX

遊空間がざびぃ(東京都)

2019/05/22 (水) ~ 2019/05/26 (日)公演終了

満足度★★★★

 久しぶりに階段上のゴジラに挨拶をしてきた。
(華4つ☆)追記後送

ネタバレBOX

 本質的に陰惨な苛め問題を扱っているのに、何処か爽やかな余韻を残して観終えることができるのは、劇団がキチンと本質を見ながらもアピールの仕方をピカレスク仕立てにして緩和する上手さに起因していよう。狂言回しとして前説から終演後のイベント迄ソフィストケイトされた演技で通すスマートさも良いし、役者陣の演技、演出、脚本の質もグー。
向井坂良い子と長い呪いの歌

向井坂良い子と長い呪いの歌

少女都市

シアターグリーン BASE THEATER(東京都)

2019/05/21 (火) ~ 2019/05/26 (日)公演終了

満足度★★★★★

 先程、帰宅した。何とか今日中に1行書いておこう。演劇数千年の歴史を知的に担う、或いは担うことを己に課した演出家の下でしごかれた、作・演出家が選んだキャストは基本的に正しい。殊に主役の“良い子”を演じた若手女優さんのポテンシャルの高さを感じた。無論、他の客演、客演の演技がキチンと立つように演じた劇団の役者さんたちの力もあってこの作品は独創的でありながら、とても納得のゆく良い作品に仕上がっている。(追記後送)

Otogi ~bis dann~

Otogi ~bis dann~

FAM

上野ストアハウス(東京都)

2019/05/22 (水) ~ 2019/05/26 (日)公演終了

満足度★★

 今更こんな当たり前のことは書きたくないのだが、どうやら勘違いしているようなので記しておく。(追記後送)

ネタバレBOX

生の舞台というものは総てが一回こっきりの生きものだ。即ち映画などと違って編集ができない。だから一回一回の舞台上演に総てを注ぎ込んで、役者の身体から滲み出るようなレベルの高い、意味深長で味のある、而も観客迄届く表現を目指して、戯曲家、演出家、役者、舞台美術家、照明、音響、衣装や制作を含めた裏方さん一丸となって表現に磨きをかけるのだ。
 つかこうへい存命中、本番中であっても毎日、入りの時刻は練習がキチンとできる時間帯であった。口だてで科白を変えていったから、彼の作品には所謂定本となる脚本がずっと無かった。聞いた所によると当時、ピーター・ブルックもつかと同じ方法で舞台づくりをしていたと言う。優れた舞台表現者である2人がこのような方法を採ったことは無論偶然ではない。このような方法こそが、舞台表現の神髄を為すからである。
 ところで今作には異様な表現がある。科白を聞いた途端仰け反るほどであった。
YELL!

YELL!

TEAM 6g

シアターグリーン BOX in BOX THEATER(東京都)

2019/05/22 (水) ~ 2019/05/26 (日)公演終了

満足度★★★★

 哲也を殺してやろうか、と思うほど観劇途中憎んだ。義父の温かい人情、愛情を一切汲み取らない設定で序破急の内、破までは物語が進行していたからである。(追記後送)華4つ☆ 自分の個人的体験と被らなければ5だったかもしれない。
良い作品である。

ねこのはこにわ

ねこのはこにわ

teamキーチェーン

ウエストエンドスタジオ(東京都)

2019/05/17 (金) ~ 2019/05/21 (火)公演終了

満足度★★★

 グリーンハイツの主にゃ。名前はにゃい。人間どもの面倒を見ているにゃ。猫にゃ~~~~~~(華3つ☆)

ネタバレBOX

 板上レイアウトは、にゃこの動き回る導線がフラクタルに近い形になっていてその導線のあちこちに6つの部屋が配置されている感じだ。但しフラクタルとは言っても2階建てであることは、平台を置いて高低差を出していることでも、科白の随所に上の階に住んでいるとか、引っ越してきたとかいう所に示されているので、一見フラットに近い視覚的認識には注意すべし。基本的に住人は皆良い人なのだが、シングルマザーで幼い娘と別居中の若い女性を訊ねてくる男は、彼女の貯金を狙うだけであり、200万程度の借金で殺すと脅され怯えている男だが、中国人留学生と思しき彼女の隣室住人を不法滞在嫌疑で警察に連行しようとする辺り、そして連れて行った先が彼が借金をしているサラ金か何かのケツモチの組織らしいという所まで考えると、今作関係者が解釈するような単にだらしない男というより、結婚詐偽とでも考えた方がリアルではある。そのように解釈できる根拠は、彼女が通帳を渡そうとした時に彼女の信頼を得る為に敢えてその時点では受け取らず、彼女の留守中、合い鍵で忍び込んで盗難事件に見せかけようとしたことである。計算がミエミエであること、在日外国人をオーバーステイと即断し、入管法違反で脅す手口等だ。因みに入管法のオーバーステイで収容される人々がどのような目に遭わされているかは、オーバーステイしただけで何年も入管に収容されている実態、国際的な勧告を何度も受けていることからでも明らか。キチンと調べるのはかなり大変だが、興味のある方には、自分の参加している研究会にいらして下されば便宜は図る。
 然し昨日観た「ねこのはこにわ」は、実に日本的特徴のあるものであった。演じている役者の意識も観ている観客の意識も「自分の幸せ」感覚、浅いイメージに合致させるとそこでもう思考は終わり。後は頭を働かせることを停止し恬として恥じない。現実に生きることを阻害・阻止されるというマイナス要素を生活の中に持たないと思っているものだから、己の生活へのそれらの関与が間接的であるというただそれだけのことで思考停止に陥ってしまう現代日本の民衆の思考の危うさがそのまま出ている鏡のような作品だ。にゃこの描き方、その形態模写もスタニスラフスキーの演劇論を実践している諸外国の演劇人とは異なり、あくまでイメジャリーなそれであるから、リアルというよりイメージでどう感じられているか、その感覚表現であったのは多くの場面描写が示す通りだ。それ自体別に悪いとは思わないが、ゴロっと即物的に提示し、その即物性を観客に勝手に解釈させるという自立の基本からは、随分離れた表現形式であり、このような認識方法と思考方法、感じ方や受け渡しそのものの在り様が、日本人が己の社会を作り出す際に失敗し続けてきたことの原点にあるように思われてならない。これだけ酷く右傾化しているのにも関わらずその事態が何を意味しているのかを考えずに平気でいるから、尚世の中が右傾化してゆくのだ。
Charles Baudelaireが失語症を発症する前、猫好きだった彼は己の不遇と孤独を嘆いて“猫も居ない”と記した。無論、彼は猫の自由と其処から生まれる美しさ、気高さ等々についても詩にしているし、それが彼流のイデアの産物であることは確かだが、彼の批評意識は、単に美学的なレベルには留まっていなかったであろうことも、こちらの想像力の羽を少し広げてみれば思い及ぶ所ではある。現在アメリカを始めとする大国の動き(アメリカに追随することしか知らぬ日本を含め)を見れば、戦争やその火種を絶やさぬことによって人々の危機感を煽り、そこにマスゴミが在ること無い事を焚きつけて人心を惑乱し、一色触発の事態を作り出している。このようにして軍備が必要だとの認識を人々に刷り込み、無意味な軍備拡張合戦への同意に駆り立てている訳だが、これも武器を売らんが為の商戦の一環でしかあるまい。
一方、戦いというもの、ことを実際に経験した者がどれほどあろうか? スポーツでは無く、ルールの無い戦闘乃至は下手をすれば殺し殺される喧嘩をである。少なくとも日本には余り多く居まい。そんな所に付け込んでくるのが、死の商人達や彼らと深い関係を持つ政治屋なのである。彼らには儲けること以外に主要な目論見は無い。庶民がいくら死のうが常に闘いの背後に在って自らも、親族・眷属も戦争による死からは最も遠く隔たった場所に居る彼らには犬死の懸念は最少限に留まるからである。旗振りした奴が一番最初に抜け、付いて行った人々のみが馬鹿を見る。これが世の中の実相である。
 自分は糞リアリズムが嫌いだが、今作はリスクを回避する為に必要な最低限のリアル認識すら拒否し、在ることを在る事実として見ようとせず、その結果、与えられた偽情報や塵情報のみを判断基準にして結果取り返しのつかない過ちを犯すに至る日本人の感性と傾向とを如実に表しているように思う。
 終演後、出演した女優さんと話すチャンスがあったのだが、彼女の作品理解も大方の日本人と径庭が無いように思われた。残念である。
 にゃこばかりが自立しているのかも知れにゃいにゃ~~~~~。ふ~~~~~~っと。
 フォークナーじゃにゃいが、矢張り、にゃこの方が人間にゃんかよりマトモで賢いかもにゃ。にゃお~~~爪の垢でも舐めるか? 

 


某日快晴ワレ告白セリ

某日快晴ワレ告白セリ

タッタタ探検組合

ザ・ポケット(東京都)

2019/05/15 (水) ~ 2019/05/19 (日)公演終了

満足度★★★★★

 廃校が決まった母校の中学でタイムカプセルを開けるその日、25年ぶりに現れた男が、タイムカプセルを契機に当時を回想するというシーンから始まる今作。(観る方は、観劇前にネタバレを見ないでにゃ)

ネタバレBOX

ちょっと後悔も残る往時の思い出に重なるかのような回想に照明が見事にマッチしていきなり物語に引き込まれる。主人公の有田は、天文部、クラスの悪ガキ・木梨と川岸に苛められている詩人肌の14歳、担任の門馬は大酒呑みで朝から酒臭い。悪ガキ共が一目置くのが一匹狼の真鍋礼子、スケ番のような雰囲気を持つ女子だが、他人の心を痛みを良く知り優しく賢い。他に目立ちたがりの学級委員は内申書評価狙いの小賢しさ。女子のクラス委員と共に生徒会会長、副会長の椅子も狙う。テニス部部長の橋本は男子にもそれなりに人気のある女子だが転校生・遠山がその気取らない性格とルックスから男子の人気を独占し始めると嫉妬に駆られ、白を黒に、黒を白に変え、フェイクニュースなどで人々の判断を狂わせ、情報を操作することで力ある者、体制側に恩を売り、自らの利権を獲得・拡大するマスゴミそっくりな新聞部や、プロレス好きで城山に恋する乙女・石田らと組み、遠山苛めを開始する。だが、遠山と有田は何時しか、惹かれ合うようになっており、苛められ始めた遠山を庇う有田は己の羞恥心や内向性を脱し木梨と川岸にぶつかってゆく。この間、何度かの対決があるのだが、殴られて治療に来た有田に、保健室の矢井田先生は高い評価を下し励ましてくれる。有田が悪ガキと最終決戦をした後、彼らは一度お礼参りをしたものの、以降ちょっかいは出さなくなっていたが、橋本や新聞部のアンチ遠山キャンペーンが燃え盛った折、有田は遠山を傷つける言葉を吐いてしまった、「可愛そうだ」と。これは、彼女の自尊心を最も傷つける言葉だと気付かずに発された言葉だったが、遠山は独り寂しさに頽れそうになった。やがて彼女は父の転勤の為、東京へ引っ越してしまう。矢井田先生が彼女が東京に向かうという情報を、タイムカプセルに入れる彼女の文章を持って知らせに来てくれた。折しも大滝先生の英語の授業中で、大滝先生は有田が遠山を見送る為に授業を抜けることを赦そうとしない。そこに助け舟を出したのがNYからの帰国子女、真鍋であり、大滝を力ずくで止めたのが木梨であった。BGMには中島みゆきの「ファイト」。有田は走る、走る、生涯これほど一所懸命に走ったことは無い勢いで走った。然し列車の出発には間に合わなかった、が。
 25年後、母校に戻った有田の言葉から、彼がその後、遠山が交通事故で亡くなったことや、タイムカプセルに詰めた文章は、有田作の「不幸の手紙」で、本物は黒板の裏に隠してあったことが分かる。
 遠山の書いた文章が読まれる。予想通りの内容だが、其処に書かれていた文章は、遠山の魂が常にオープンマインドで率直、ピュアであり、彼女の純な魂の蒙った痛みがひしひしと聴く者の胸を掻き毟らずにはいない、詩人有田との詩人同士の魂の交流であった。
 タッタタは喜劇を演じる劇団だから、至る所に自虐的な嘲笑や箍外し、脱臼、発想の奇抜等のテクニックが用いられ笑わせてくれるが、間の取り方で笑わせるシーンは比較的少ないかもしれない。この要素にも更に磨きを掛けると作品に膨らみが増すとは思う。今回、予算の関係もあるのかも知れないが、暗転が多かったのは、作品の気勢を削ぎかねないのが残念だったが、この難点をしても強く切実な哀しみを訴える作品の訴求力には、流石と思わせるものがある。不幸の手紙も回送すれば済む、というレベルでは無いものの、ドライなタッチで描かれて居る為、後腐れ無い点がグー。
フランケンシュタイン

フランケンシュタイン

富山のはるか

スタジオ「HIKARI」(神奈川県)

2019/05/16 (木) ~ 2019/05/19 (日)公演終了

満足度★★★

 ストレートプレイでこの作品を70分え上演するのはキツイと思っていたら、ダンスを多用した身体パフォーマンスであった。(華3つ☆追記2019.5.18)

ネタバレBOX

登場するのは、総て20代前半と思われる若者男女、恐らく作家も若書きであろう。オープニング早々「死ねない」というフレーズが各出演者によって呟かれる。フランケンシュタインによって創られた人造人間も深い悩みに苦しみ抜くが、今作ではグローバリゼーションの奴隷として生きざるを得ない、という発想しかできない大多数の若者の苦境を表現したと言えよう。
 舞台美術は極めてシンプル。中央に設えられているのは紗のような素材の横断幕で、その中央に飾りのように布をあしらってある。少し出捌けの幅を取って上・下に同じ紗のような素材の布が閉じたカーテンよろしく下がっている。更に客席側の上・下には台座に載せられた20吋ほどのスクリーン。上手奥の紗を透かして操作ブースが見える。開演前には、フランケンシュタインの呼吸音のつもりか、チューブにエアを通すような音が続いている。
 さて、具体的な内容を記述しておこう。上述したように極大化した収奪システムとして機能する現代資本主義は、その莫大な資金力が世界経済に占める割合の高さから世界をあらゆる局面に於いて支配する力を持つに至っている。先ずはメディア(マスゴミ、書籍、映像・音声、美術、芸能など)を用いての情報操作や洗脳、各国政府、世銀、IMF等の国際金融機関及び銀行と現行の銀行システム、政策としての3S等を通じての民衆への経済的締め付け(生かさぬよう殺さぬよう)、政治的タブーは殊に大国に於いてその効果を発揮している。その端的な現れが間接民主制という茶番である。日本でこの茶番システムがどのような結果を齎しているかを見れば明らかだろう。沖縄を具に見れば民意が反映されないシステムであることは明確だし、公憤の出易い無作為アンケートによる世論調査などでは、原発反対派が多数派を占めているのが明らかであるにも拘わらず、何ら科学的根拠の無い推進派の目論見が着々と実現されている有様や、閣議決定、強行採決で民意を裏切る法案がどんどん可決されてきた昨今の事例をみれば、主権者たる国民が今も臣民と本質的に変わらない扱いをされ、隷属させられているのは明らかだ。天皇家の民主的意識に関わらず、システムとしての天皇制を政治利用しようとする安倍ら権益受益者は、日本会議と共に我ら主権者の権利簒奪を続けようと目論んでいる。このような政治的状況を暴力を用いずに解決する唯一の革命的方法が直接民主制であると思われるので、終演後出演者らと話をした際提起すると彼らは寂しそうな笑いを浮かべるだけであった。恰も「それは、無理ですよ」との諦念の表明であるかのように。然し憲法を通常通り解釈すれば43条1項の例外規定を除くと存在しないのであるが、一方主権在民を掲げている以上、民意(公憤及び三バンに代表される権力機構との利害を通じた諸関係)の内、公憤は民の持つ理性として充分考慮されるべき重大要素であり、現在の間接民主制では、この部分は反映されないのであるから、キチンとこの部分を反映できる民主的手段としての直接民主制をこそ、提起すべきである。これだけ通信インフラが発達し、かなり安価で使用できるのであるから住民投票をその民意反映の為の手段として利用することは理に適っているし、本来の民主主義の理念にも合致している。かつて世界で最も民主的な憲法として評価されたワイマール憲法下、合法的にナチが成立し救世主と考えられたヒトラーがドイツ人にも他の民族にも惨禍を齎したのは周知の事実だが、この原因は、選ばれたのが人であって、政策では無かった点に存する。だから直接民主制が実施された場合にも、必ず、政策についての民意を問うべきであって、人を問うてはならない。(人を問えば三バン主義の罠に陥ることになろうし、民衆は選ばれた人に隷属することになる)、またここに挙げた直接性民主主義を実行するに当たって、総てを直接投票で選ぶことは余りに煩瑣で実効性に乏しくなる懸念のあることから、重要な件に関して国民の住民投票に掛けて民意を明確にし、その民意に従って議会や官僚が更に下位の法を定めてゆくという方法が良かろう。無論、政治家、官僚が民意に反した場合、罷免、リコール等は国民の権利として保障されなければならない。
 以上のようなことを国民一人一人が自分の問題として捉える為には、国民が事実を知って判断する為の情報公開は不可欠であると同時に、国民各々が己の頭で考える必要がある。また、この程度のことが自分で出来るようにならない限り、永遠に真の幸せも人間らしい生き方も出来はすまい。つまり奴隷である。そして現代の奴隷はキメラ以上にキメラで己を己自身でトータライズすることもアイデンティファイすることも出来ず、何故そうなってしまったかの原因すら己の知・己の頭脳で探ることもできない、何とでも交換可能なモノと化してしまうのである。丁度、原作ではなく映画等で怪物というモノにされてしまった「人造人間」としてのフランケンのように。
そんなの俺の朝じゃない!~再び~

そんなの俺の朝じゃない!~再び~

ライオン・パーマ

シアターグリーン BOX in BOX THEATER(東京都)

2019/05/15 (水) ~ 2019/05/19 (日)公演終了

満足度★★★★

 いつも通り当パンは読まずに観劇。(華4つ☆)

ネタバレBOX

ハードボイルドと笑いを同時に提供しようという劇団の意が具現化された舞台で、思いがけない発想で編まれた様々な科白やシチュエイション、齟齬と脱臼の取り合わせやキャラ設定の妙味、ダンディズムを具現化しつつ、選んだ生き方、生き様が何によって充実し、成立しているかを極めて巧みに表現することで、笑いの齎す軽みを人生のしみじみとした充実感や格好良さと対比してバランスよく着地させている。
火山家VS雪村家の葛藤の原因が、女性であることのアリキタリ=普遍的パターンを利用することで対立をやんわりと家庭的なレベルに設定した上で、飛び出す極大化した貧富格差の表象が小出しにされることや、下町庶民の持つ温かさに通じるようなメンタリティーを持つ脇の作り方が、長所とも短所ともなり得る点は、当パンを拝見すると、主催者の持つデリカシーの出ている部分のようだ。この部分をどう評価するかで観客の反応がかわりそうだが、本筋はブレない。ラスト、火山火山(ヒヤマカザン)の格好良さは格別である。

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