ハンダラの観てきた!クチコミ一覧

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FLY ME TO THE DREAM 〜夢の欠片の向こう側〜

FLY ME TO THE DREAM 〜夢の欠片の向こう側〜

Succeed Project

六行会ホール(東京都)

2014/01/24 (金) ~ 2014/01/26 (日)公演終了

満足度★★★★

溌剌
 一人前の魔女への通過儀礼は、1年間、人間界へ派遣され与えられた条件でその責を果たすことだ。

ネタバレBOX

然し、魔法は3回しか使えない。それも1年間にだ。もし、それ以上、魔法を用いたら、総てを失い消滅するのが彼女らの運命である。
 若手主体のニュージカルなので、技術的に未だという点はあるが、溌剌と演じている様は気持ちが良い。
 シナリオは、このイニシエイションの規定に見られるように可也厳しいものだが、その点が良い。否応なく選択を迫られ、それが、劇的要素を保証するからである。
 許された回数総てを使い切った後に、本当に魔法が必要な状況が出来し、魔法を使うべきか否かの実存的選択が迫られるというシナリオもドラマチックで良い。
生きろ!

生きろ!

シノハラステージング

戸野廣浩司記念劇場(東京都)

2014/01/21 (火) ~ 2014/01/26 (日)公演終了

満足度★★★★

臨界点
 シチュエイションの設定が、想像力の形を素直に出している点が良い。

ネタバレBOX

 関東大震災クラスの大災害が起こって、東京駅の地下に閉じ込められた12人。そんな状況の中で必ず出来するであろうような話を、取材と当を得た推理・推論を基にした想像力で組み立てた。実証の裏書を感じさせるシナリオである。最初から尾籠な話で恐縮だが、12人は男女混合である。当然生理作用は生じる。例えば手洗いだ。羞恥心もある。トイレが、閉じ込められた空間にあるとは限らないし、あっても水洗機能が使えるか否かも定かではないといった問題から、飲食、時期によっては暖冷房などのできない状況下でどう消耗しないで正気を保つかという問題、情報、殊に災害に関する情報、閉鎖空間内の人間関係等々を閉じ込められてからの時間経過を考慮しつつキチンと組み立てている為、リアリティーがあるばかりではなく、実際、何時起こってもおかしくない、関東・静岡辺りを震源とする大震災の際には参考になりそうなことも描かれている。同じように閉じ込められた限界状況を描くアメリカの映画作品は多い、とのことだが、日本及び日本人は、同じような状況でどのような対応を見せるのか? についての考察も見逃せない。
Day By Day

Day By Day

劇団かさぶた

OFF OFFシアター(東京都)

2014/01/23 (木) ~ 2014/01/26 (日)公演終了

満足度★★★★

日常とはこれほどまでに滑稽なものだったか!
 シナリオの視点、役者の技量と演出の上手さで、何げない日常生活はこれ程画期に満ち、馬鹿馬鹿しく、おかしなものなのが良く分かるコメディーだ。中盤以降、ラスト迄の笑いのトーンが似通っている為、やや食傷する点が無いではないが、この点にあと少し捻りを加えることが出来れば、更に面白くなろう。ラストの落ちも上手い。
 拝見したのは傘チームだ。

ネタバレBOX

 照之と詩織は、例年、紅白歌合戦の勝敗を見て、其々の買いたい物を買う賭けをやっている。紅組が勝てば、その年は詩織が望んでいた物を買い、白組が勝てば照之が望んでいた物を買うわけである。そんな訳で、大晦日に紅白を見ることは、欠くことのできない行事になっていたのだが、どういうわけかいきなりTVが映らなくなってしまった。電器屋に電話を入れるが、大晦日の夜でもあり、而もレシートも保証書も見付からずに修理を断られてしまう。そんなバタバタ騒ぎの最中に、突如、詩織の妹、あずみがやって来た。彼女は現在役者を目指して東京で暮らしているのだが、自分が主役を演じることになり、主婦役なので姉を訪ね、泊まり込みで夫婦生活を取材する目的であった。詩織はそういう目的ならば、泊まらせる訳にはゆかない、とあれこれ断りの理由を述べるが、その騒ぎの最中、隣室で同棲している裕次と美鈴が歯を治療して欲しいと駆け込んでくる。歯医者で働いている詩織なら何とかしてくれると思ったのである。然し、詩織は受付や、簡単な補助作業をするだけなので、治療はできない。偶々、妹の持っていた正露丸を虫歯に詰めて急場をしのいだことがきっかけで近所付き合いが深まることになった。そこへ照之の友人、関根と柴田が訪ねてくることもあって珍妙な大晦日から三が日が展開する。
The Gold Rush

The Gold Rush

DANCETERIA-ANNEX

The Glee(東京都)

2014/01/24 (金) ~ 2014/01/24 (金)公演終了

満足度★★★★

愉しんだ
 このグループの魅力は、何より渡辺君の真摯で実意ある生き方が、その歌と姿勢に現れていることと、パーカッションの甲田君との信頼関係、更にピアノの加藤氏の巧みな技、ベースの近藤君らとの息の合ったセッションにある。
 また今回の会場は、山下 洋輔などの超一流ミュージッシャンも出演する店であり、気の利いたサービスと音響に配慮した、佇まいは流石である。リラックスして聴くことを堪能した。

地獄篇 ―賽の河原―

地獄篇 ―賽の河原―

鬼の居ぬ間に

王子小劇場(東京都)

2014/01/23 (木) ~ 2014/01/27 (月)公演終了

満足度★★★★★

評価が分かれよう
 子を失くした母親の時計は止まってしまう。この国のかたちを描いた秀作。内実が深い為、解釈によって評価は星4つと5つに分かれよう。(追記2014.1.26)

ネタバレBOX

 (文意が分かりにくくなるので、頭から)子を失くした母親の時計は止まってしまう。対極にあるのは、女の業と言われる訳の分からないイメージだろうか? 無論、思想的オリジナルを辿れば、仏教のカルマに行きつくだろう。だが、それは、性差を意味しない。然し、大抵は、そんな高尚な哲学とは無縁のレッテル貼りに過ぎまい。そうでなければ、皮相なレベルで差別などするものか。これは社会的階層の問題ではない。総ての人間が、己自身の尊厳の問題を持ち得るか否かの問題である。経済的に力を持っていようが、政治力があろうが、社会的地位が高かろうが、そんなことは一切関係ない。要は、己の力を正確に知り、為すべきことを知ってそれを実践しているか否かなのである。身の丈以上のことはできないし、する必要等ない。己の出来ることをしっかり為せばよいのである。
 狡い連中が、その能力だけを活かして他者を追い詰める時、蟻や蜂他の社会的生物には考えられぬ程オゾマシイ腐敗に浸り切るのが人間の特性である。この卑劣極まる狡猾によって、人間だけが異常な格差を持つ社会を作り上げた。狡猾な連中に宗教は無い。在るのは欲得のみである。彼らが宗教の話をする時、それは、宗教を用いて或いは政治化して如何に儲けるかであり、如何に牛耳るかなのであってそれ以外ではない。今作の基本コンセプトの中で語られる賽ノ河原での被害者、或いはいたぶられる者は、無論、子供である。が、既にこの世のものではない。その死因が、子の祖母による殺害であっても、その死を最も深く負うのは、生母である。今作冒頭シーンは、祖母が、孫の首を絞めて殺害するが、それを止めようとする生母をその実姉が止める。結果、子供は死んだ。その罪の意識は生母が負わされた。このような構造が、妖怪を生み出す前提にある。少なくとも、この国の形である。
 賽ノ河原のシーンは一度も登場しない。それは、音によって表される。この辺りが、怖さを感じさせる為に仕組まれていることは容易に推察できよう。ところで、デハケは、敢えて不自然な間や、互いのシーンの干渉し合う形が取られている。観客は、作品への没入を阻害されるので、この演出をどう捉えるかで評価が分かれる原因になろう。然し、無論、これも、この国の形を表している。自立を阻み、他者との共存の為には、己を虚しくしなければならぬ、という強制である。恐らくは、世界史的に見て最も早い段階で確立された為政者の手腕が、このような民衆の意識を作った。少し、説明しよう。人別帳がハッキリし、民衆が抗う為の武器を取り上げ、為政者が弾圧の手段を独占するという体制。これが、この国の基本的な形である。(具体的には太閤検地と刀狩)によってその基礎が築かれ、江戸時代の武家・町人諸法度、五人組等による連帯責任制、分限思想と儒教でがんじがらめに縛ったのである。このような状態で革命など夢のまた夢であるのは、必然であろう。お上に楯突くことは、即ち犬死にすることにほかならなかった、この国の民衆の非独立性が、またその奴隷根性が、この国の形を規定していると言っても過言ではない。
 日本以外には、恐らく「四谷怪談」流の恐怖はあるまい。この作品が、忠臣蔵外伝として書かれていることも象徴的である。
 今作も、怨みつらみの源流にあるのは、即ち地獄の正体は、このような、この国独自の歪つな支配とそれに馴らされた衆生の哀れなすすり泣きである。

四時の籾(しじのしいな)

四時の籾(しじのしいな)

劇団HumanDustUnion

d-倉庫(東京都)

2014/01/23 (木) ~ 2014/01/26 (日)公演終了

満足度★★★★★

時代の鏡
 「酒が飲みたい夜」という石原 吉郎の詩があるが、そのフレーズに“酒がのみたい夜は 酒だけでない 未来へも罪障へも 口をつけたいのだ”というのがあって、実に、この詩のような感触を持った作品である。(追記2014.1.24)

ネタバレBOX

 佐久間 象山の弟子には傑物が多いが、中でも勝海舟と本作の主人公、吉田 松陰は東西の横綱と言うべきか。黒船来航以来、江戸は時代も空間もひっくり返った。何せ、鉄で出来た黒く巨大な船が、海に浮いていたのだから、庶民はびっくりしてしまったわけだ。而もびっくりしたのは庶民ばかりではなかった。太平の世にうつつを抜かしていた幕閣も然りだったのである。
 このような状況を如何に正確に読み解き、欧米の植民地政策から身を守り、どのように身を処して行くのが良いか? これは喫緊の課題であった。その事を正確に理解し、どのようにするのがベストか、という具体的施策を持っていた大小の天才達が居た。勝にしろ松陰にしろ、その師であった象山にしろ、緒方洪庵の適塾に集った俊英達にしろ、薩摩の西郷たちにしろ、土佐の龍馬にしろ、傑物達が、命を賭けて如何に在るべきかを考えた時代のヴィヴィッドな空気を長州を中心に画いた今作。
 抜群のシナリオと主だった役を演じた役者達の力量、立ち居振る舞いや和服の着こなしなどの振付、演出の細部迄目の行き届いたバランスの良さ、適確な照明、音響の自然など、優れた舞台である。
続ける理由

続ける理由

おかぼれ

座・高円寺1(東京都)

2014/01/22 (水) ~ 2014/01/26 (日)公演終了

満足度★★

ねんざん
 一応、演劇とバンドのコラボというコンセプトなのかと思いきや、全体の構成がキチンと考えられているとは思えず、而も、演技・演出、発声、注意力などの基本が出来ているとも思えなかった。音楽の方もパーカッションは打力もスナップの利かせ方も、パンチ力、鋭さに欠ける。叩き方が単調で、とてもステージに立って聴衆に聞かせるレベルではない。
 演技に関して一つだけ、具体的に変だと思った点を上げておくと、一応、室内を表しているように思える広くて大きな敷物の中央に卓袱台が設えられ、男が一人正座している所へこの家の主婦が麦茶を持って入ってくる最初のシーンで、正座している男は、外で履く履き物を履いたまま正座しているし、主婦も矢張り履き物を履いたまま、着座するのである。洋室という設定にしてテーブルとイスは洋風の物を用いるか、履き物を脱ぐかどちらかにしなければ、如何に和洋折衷大好きの日本人であっても不自然であろう。
 歌われている歌の歌詞を聞いてもうわっ滑りで、唯、皮相の見だけが見える。表現する者とは言い難い。

しろたへの春 契りきな

しろたへの春 契りきな

演劇集団 Ring-Bong

サイスタジオコモネAスタジオ(東京都)

2014/01/18 (土) ~ 2014/01/26 (日)公演終了

満足度★★★★

ショパン 革命
 大好きな曲がオープニングで演奏された。この曲、ショパンの才能を惜しみ、ポーランドに居ては、反体制運動をして死地に赴くと心配した友人たちが、彼を国外に逃した後に、ショパンが祖国の運命に思いを馳せて作曲したとの話を聞いたことがある。非常に激しい、断腸の思いの籠った名曲だ。(追記2014.1.23更に付けたし予定)

ネタバレBOX

ソウルが未だ京城と呼ばれ、朝鮮半島が大日本帝国の植民地下に在って、系譜を非常に重んずる朝鮮族に対して創氏改名が為された1940年代初頭から現代までを、当時、京城で堀写真館を開いていた一家の家族史と、此処に出入りしていた朝鮮族の人々と末裔の歴史を通して描いた歴史物。直球勝負の佳作である。
 堀 賢治は、京城で写真館を営む。十数年前結核で妻を失くした後、妻に瓜二つのキム ソルを女中として雇い、家族同然に暮らしている。その関係で弟のチュンセンも書生として此処にいる。長女の蕗子は、朝鮮総督府の経営する病院の医師と結婚し、近いうちに満州へ行くことになっていた。妹の芽は、母に似たのか歌が上手く、以前、この家で書生をし、現在はラジオの放送局に勤めるチュンセンの兄の番組で合唱を歌うことになっており、練習に余念が無い。曲は“野薔薇”。日本語とドイツ語で歌うようである。きちんと歌う為には、無論、ピアノのレッスンも必要とあって、賢治の古い友人でジャズ好きのピアニスト、パク ウヨンが先生である。
 明るく、豊かで、フランクな家庭であったが、ここにも戦争の影は忍び込む。ラジオ局に勤めるチュンセンの兄が、特高にパクられたのだ。在米の朝鮮族が母国の運命を憂い、戦争の実体をアメリカから短波放送を使って流していたが、その放送を聞いていたことが、罪に問われたのである。ミッドウェー海戦で日本が大敗を喫した後、大本営の嘘とは裏腹に日本は負け続けていたので、その事実を報道されることも、受信することも、軍部は固く禁じていたからである。捕まった後も彼はジャーナリズムに携わる人間として節を曲げなかったので、連日拷問を受け続け、終に命を奪われた。
 戦争が劣勢になるや、日本は、朝鮮人、台湾人等も皇民として徴兵、チュンセンも心を寄せた芽の為、世話になった堀家の為に応召に応じるが、幸い生き残って日本に復員、その後、結婚して子を設け、日本へ戻って写真館を開いたと聞いた堀写真館を訪ね、親子の写真を芽に撮影して貰っていた。民族の言葉を喋れなかったチュンセンは、ハングルを学び、1971年に韓国へ行くが、反共独裁朴 正熙政権下の韓国でスパイ容疑を掛けられ逮捕されてしまう。兄と同じように、毎日拷問を受けたが、監守の隙をついて焼身自殺を図った。然し、耳も眉も炎で焼かれて跡かたも無くなり、口も殆ど開かない程の大やけどを負ったものの、火を消し止められ、目的は果たせなかった。傷が癒えるとまた獄に戻されたが節を曲げなかったが故に獄殺された。
  記号化
 囚人番号をつけられることの本質は何か? それは、人間性の剥奪、生きて、同胞として、尊厳を持った個人として当たり前に生活することの否定である。だから、総ての権力は、個人に圧力を掛け、その精神を挫く為に、必ず一切の例外なく記号化を行うのだ。
 権力側が、記号化するのに対して、面会者は、囚人、収容者の個人名を呼び、個人の尊厳を持った者として接する。ここには、決定的な差がある。ニュース報道などで、死者何人などとして報道されることは、本質的な意味を為さない。それは、誰でも無いからだ。数字即ち記号にされた者は、ただ、忘れられる為に、記号化されるからである。人の死とは、そんなものか? そうであってはなるまい。だから、報道にあっても、本質的な報道であろうとすれば、本来は、亡くなった方々の個人名と個人史を掲載した上で、亡くなったことを報じるべきなのである。著名人であれば、そのように報じられることも稀ではないが、本来は、総ての人に対して、個人情報保護上問題が無ければ、そのように報じられるべきであろう。
「塔/明るい夜」お蔭さまで連日の満席ありがとうございました。良い再スタートを切ることが出来ました。

「塔/明るい夜」お蔭さまで連日の満席ありがとうございました。良い再スタートを切ることが出来ました。

楽園王

タイニイアリス(東京都)

2014/01/16 (木) ~ 2014/01/19 (日)公演終了

満足度★★★

塔がgood
 塔は、ちょっとカフカ的で面白い作品であったが、明るい夜は如何か? 興業的に映画をたくさん見ている人を考えたのであれば、少なくともコリッチの上位メンバーは、ちょっと違う。その辺りの事情が、皆のレビューに出ているように思う。無論、自分も含めてである。塔については、後ほど、追記する。塔だけであれば、もう一つ、星を増やすのだが。

最後の晩餐

最後の晩餐

劇団Spookies

シアターグリーン BASE THEATER(東京都)

2014/01/16 (木) ~ 2014/01/20 (月)公演終了

満足度★★★★

楽しめた
 3時間寝たか否かで、一日過ごしていたので、寝てしまわないか心配しながら拝見していたのだが、自分には、とても面白く見ることができ、最後まで楽しんだ。十二使徒の着衣の色などで、登場人物の呼称が決まり、それが、聖書の記述に連動したり、所謂、エリートである医者とヤクザがつるんでいたり、警察と某組織のエージェントがダブっていたりと、案外、この植民地の実態に近い。二転、三転する展開もGood!

ネタバレBOX

 事件の発端に巻き込まれた女性が、そのことで家族を殺され復讐に走るのだが、それも、ゲームに組み入れられていたり、そも、この謎を解き明かしてゆく主人公の父の位置が微妙だったりで、面白さが増すと同時に、完全犯罪が成立する為のヒントが提示されている点にも興味を覚えた。
セントエルモの灯は揺らめく

セントエルモの灯は揺らめく

劇団みどり

北池袋 新生館シアター(東京都)

2014/01/18 (土) ~ 2014/01/19 (日)公演終了

満足度★★★★

優れたセンス
「銀河鉄道の夜」の作品としての宙ぶらりんを、生き抜く次元に着地させた。

ネタバレBOX

 公演成功の鍵は、無論、導入部のポリフォニックな入り方で、事実の多面的な展開を同時に示すことによって、真を隠蔽しているもの・ことが如何に多いか、例え、それが真を追求し続けた賢治の、同一作品に用いられている表現の、真を目指す表現に繋がるものであってさえ、異なる場所で使われた場合には、一度期には如何に捉え難いかを示し得たことにも現れていよう。
 即ち、導入部に於いて既に現在への移行を果たすべく、原作は解体されているのである。当然のことながら、以降は再構成という形を採ることになる。
 その上でカムパネルラと重なる裕也の遺体を、矢張りジョバンニと重なる文香が発見することが示唆されることによって、生き残った者と既に死んだ者が明確に対比され、次のステップ、即ち生を選び取る次元へ移行するのである。必然的に、この移行はスムースだ。
「日」本ヘラヘラなぐさめあい in flont of ロボット・演技性人格障害・紗羅薔遺兎子の聖聖瞬(DQN or 中二 mixmax)→ていうかそれすらどーでもいいから神待ちhapppppppppy!!!!!!!!!

「日」本ヘラヘラなぐさめあい in flont of ロボット・演技性人格障害・紗羅薔遺兎子の聖聖瞬(DQN or 中二 mixmax)→ていうかそれすらどーでもいいから神待ちhapppppppppy!!!!!!!!!

宗教劇団ピャー! !

王子小劇場(東京都)

2014/01/16 (木) ~ 2014/01/20 (月)公演終了

満足度★★★★

ポコペン
第Ⅰ部では、現在、若者のみならずこの「国」の普通の人々が置かれているカオティックな状況が、その精神のアンバランスという形で表現されている。今回は、“ピャー”がこの数作特徴的に描く、巨大な機械や正体不明の何者かに焦点を当ててみよう。(追記2014.1.19)

ネタバレBOX

 今作では、ポコペンと名付けられたロボットだが、カオスの中で悶える人々の光明たるべく、科学者が作り出したものだ。
 ところで“ピャー”作品に現れるカオスは、ギリシャ神話でクロノスの前に支配者であった始原のカオスではない。生存の与件が壊された果てのカオスである。そして現代資本主義社会に於ける生存の与件とは、言うまでも無く、衣食住が、基本的に自給できること、健康で不安のない暮らしをする為に、余計な災厄の心配をする必要がないこと、其処に生きる人々が思想と自由を制限されない保証として借金財政でないことの三つである。
 だが、現在、我々の生きる日本社会はこの与件総てが壊されてしまった。カオス以外にどのような様態が可能であろうか? 而も、このカオスが、ギリシャのそれのように初源の物でない為に、一体化はしておらず、分裂している。片やロック音楽として、片や飲む宗教として。アウフヘーベンならざるアウフヘーベンとしてポコペンが位置づけられていると考えることも可能である。
 というわけで、仕上げに科学者は、日本の歴史を教えている所だ。若者と言えば、社会的力が貧弱で経験も少なく、経済力も乏しい、というのが基本であろう。即ち、社会的弱者に近い。彼らの武器は傷つくことのできる柔らかな感性と魂である。その柔らかい感性と魂で彼らは正確に何が壊されたかを理解している。その上で、彼らの力だけでは、手に余る部分を機械という形の表象にして紡ぎ出しているのだ。こんなわけで、ポコペンは、恰も生き物を思わせる形態を採る。裾は膜か襞のように広がり中央部は煙突のようにそそり立つ。とはいえ、ポコペン唯一の機能は、他人の話をしっかり受け止めることだけなのではある、が。
 これらの要件が揃った所で、第Ⅱ部では、自らの位置の再思考、再定義が行われ、生命に収斂して行くが、物も、ヒトの生き方も何もかもが、命を目指す流れに組み入れられてゆく幻想と捉えたら良かろう。或いは、そういう願望と。
終に終幕第Ⅲ部 生命の羽ばたきが聞こえる。蜂か或いは蝿の王、ベルゼブブか? これも問題だ!
二人のロミオと、二人のジュリエット

二人のロミオと、二人のジュリエット

トウキョウ演劇倶楽部(活動終了)

ザ☆キッチンNAKANO(東京都)

2014/01/17 (金) ~ 2014/01/19 (日)公演終了

満足度★★★

豊饒と貧困
 ご存じシェイクスピアのロミ・ジュリだが、シェイクスピアの作品内へ現代の若者が入り込んで、ロミオ、ジュリエットと出会い、彼らと関わることで成長を遂げる物語だ。が、シェイクスピア翻訳部分でのダイアローグの煌めき・ボキャブラリーの豊穣に対し、現代の若者達の語りに見られる発想の乏しさ、ボキャブラリーの貧困が、際立つ。恐らく、それは、実際、プアな会話なのであって対話になっていないのだろうし、ボキャブラリーやイマジネイションの深刻な迄の枯渇もその通りなのだろうが、その点をもっと批評的演出で強調して欲しかった。
 発声に関しては、悪くは無いが、未だ身体の深さについての認識は甘いと言わざるを得ない、と終演後役者の一人と話して感じた。何と風姿花伝も知らないのだ! 演劇に関係している人間が、20歳を越えて基本中の基本を記した本も読んだことが無いばかりか、知りもしないのだ。驚く以外に何ができよう。
 アフタートークでも多くの出演者が読む、というレベルで朗読を語っていたことは、矢張り残念だ。身体パフォーマンスが伴わないということをタメの訓練として用いれば良いものを。この辺り、スターシステムの中に在る何らかのメソッドを学んだだけで金科玉条としているのかも知れぬが、それでは、大成できないことが明らかである。
 ジュリエット役だけが、内面からの表現の意味する所を意識していたように思う。彼女は星4つ。他の役者は3つ。トータル3つである。

『白痴』 『コーカサスの白墨の輪』 

『白痴』 『コーカサスの白墨の輪』 

TOKYO NOVYI・ART

シアターX(東京都)

2013/03/22 (金) ~ 2014/06/07 (土)公演終了

満足度★★★★★

必見
 あらすじは当然割愛するが、脚本は、ドストエフスキー作品の深さを見事に表現している。ムイシュキン役の演技の素晴らしさは格別だが、ロゴ―ジン役、ナスターシャ役、リザヴェータ役らの役者も上手い。其々の個性がキチンと立った演技である。また、オープニングの列車での移動シーンでは、車両の揺れに合わせて座席が揺れる様などを演じさせて、観客の目を飽きさせない。この辺り、多くの上演を通じて体得したであろう演出の機微である。照明は、想像力を最大限に膨らませる為に極力絞ってあるので、目で追う動きが無いと、仕事が終わって劇場に駆けつける客の中には、睡魔に襲われる客もあるだろうからである。
 ナレーションも始めは少しスローかと感じられたが、内容とマッチしたゆったりとしたものであることが、観ているうちに納得できる仕掛けである。
 照明の微妙な使い方の見事さ、効果的で邪魔にならない音響、舞台装置は殆ど変わらないのに、其々の場面にぴったりの設えに感じられる魔法、発声の確かさなど、どれをとっても素晴らしい舞台。必見である。

櫻ふぶき日本の心中

櫻ふぶき日本の心中

椿組

ザ・スズナリ(東京都)

2014/01/15 (水) ~ 2014/01/19 (日)公演終了

満足度★★★★

男と女のおとしまえ
 エンターテインメントとしても楽しめる舞台である。然し、実に様々な要素が織り込まれているので、観る者の関心によって様々な観方が可能な作品である。

ネタバレBOX

 平時に、男は女を守るだろう。だが、非常の際、オトシマエをつけるのは女である。殊に日本の非常時、男の責任の取り方は死ぬことだけのように思われる。このことが、尚の事、人間としての全体について深く考えることを阻害しているのだ。
 江戸時代、心中御法度の時代から敗戦闇市の時代を経て60年代安保、70年代沖縄闘争翌年辺り迄の状況に弄ばれる男女の心中を連綿たる横糸として通し、男女の対応に絡む時の流れ、擬制を縦糸として、男、女それぞれの時代に対するオトシマエ、互いに対するオトシマエとその有効性について、また対応の差異の要因と差異差による発展性について考えさせる舞台である。
 舞台美術では相変わらず冴えた加藤 ちかの、手際が目立つ。舞台上に描かれた桜とも薄赤い花の絨毯ともとれるような、心に沁み入る文様が印象的であるばかりではない。見事な展開が用意されているから期待して観るべし。
 また、原始共産性に於ける共有・共同は何処迄許容できるかについてや、その際、何を具体的に共有・共同の実体として纏まるのか? といった本質的問題が提起されていることも重要である。未だに残る地域もあると言われる若衆宿の伝統的習慣などにも、この発想は連綿と息づいているわけだし、イデオロギー的にも解決されていない本質的問題の一つである。
 更に、闘いの絶えないヒトの歴史に於いて、暴力以外にヒトを纏める力についての考察への非常に示唆的な対応が、女性の持つ融通性や非戦闘的調整能力としても提起されていることが重要である。
 燕のいる駅

燕のいる駅

Theatre Polyphonic

ギャラリーLE DECO(東京都)

2014/01/14 (火) ~ 2014/01/19 (日)公演終了

満足度★★★★★

上手い
 チケットに開けられたパンチが燕なのだ。これで、一気に気に入ってしまった。期待は裏切られなかった。A castを拝見(追記2014.1.19)

ネタバレBOX

 日本4番駅に集まった者は全員で7人。弟と待ち合わせた裕美 販売店従業員、戸村 駅員三郎と 高島、売れない漫才師、鈴木と本多 謎の男、佐々木だが、三郎は外国人認証バッジ(赤)を常時襟につけている。準日本人として扱われているが、他に黄色や緑色もあり、こちらをつけている者には大きな制限が課せられている。かつてナチスがユダヤ人にマークをつけさせたり、現在イスラエルがパレスチナ人に対して行っている具体的な法的差別だけで55もある実体を思い起こさせる。実際、現在イスラエルのシオニスト達がパレスチナ人に対して行っている差別は、ハーバード大学のサラ・ロイ教授の指摘する通り、かつてナチスがユダヤ人に対して犯した犯罪的差別と本質的に変わらない。(詳しくない方の為に説明しておくと、サラ・ロイ教授は、ガザに関する研究では世界トップクラスの研究者であり、彼女の両親は二人ともホロコーストサバイバーである)
 さて、今作の話に戻ろう。この駅には前夜最後の列車が出てから、一切列車の発着が無い。連絡も一切無いのだ。線路が何らかの理由で途切れたのか、来るべき列車が爆破されたのか、或いはもっと大きなカタストロフの為に、総ての連絡が途絶えざるを得なかったのか。一切が五里霧中である。残った人以外は、昨夜集落を発っていた。駅員達の休憩室の隅には、パンダのような模様の蜘蛛が居座っており、徐々に大きくなっている。
 改札ロビーに居る漫才師の内の1人、鈴木はキンキン声で癇に障ることばかり言い続けるクレーマーである。皆が迷惑がっているのを一切顧慮することもない。おまけに、裕美を戸村が休憩室に招じ入れると、自分達もロビーではなく休憩室で休ませろ、と捻じ込んでくる。仕方なく招き入れるが、相変わらずの無頓着で、他の人々に迷惑ばかり掛けている。そうこうするうち、集落を見回っていた三郎が帰ってくると、途中で奇妙な男を見掛けたと話す。鈴木は、「その人、何か知っているかも知れない」と連れてくることを提案。「既にロビー迄は連れてきている」という答えに直ぐ、皆で行きそうになるが、この男、酷く引っ込み思案で皆で行かない方が良い、と三郎1人で迎えに行き、何とか皆の所へ連れて来たものの、佐々木は緊張の余りか、素っ頓狂な声を張り上げたり、殆ど意味不明の言葉の切片を吐きだすだけで、ロビーへ逃げ帰ってしまった。三郎が再度呼びに行き、何とか連れ戻す為の条件を聞き出すことに成功したが、その条件とは、知らんぷりをしていて欲しい、ということであった。そこで、皆は、対策を練り、最初、休憩室に居る人間の数も減らし、奥に隠れた人達を呼び出すきっかけの合図も決め、佐々木を会話に巻き込む算段も整えて待つことになった。皆、自然を装いつつ、尻取ゲームをして佐々木を巻きこむことにしたのだが、佐々木から何とか聞き取れた言葉は、蜘蛛が大きくなったら、終わる。段々、耳が遠くなる。など漠とした話だけだった。だから、何故、何の連絡も入らないのか? 何が起こったのか? など皆が知りたい情報の核心は一切分からないまま、不安だけが募ってゆく。唯、三郎が矢鱈に眠ったり、誰彼と無く少しずつ耳が聞こえ難くなったり、弟を探しに実家へ行った裕美の帰りが不自然と思えるほど遅かったり、食糧が切れたので、食品を扱っている店へ行ってくる序に、裕美の家へ立ち寄る、と言って出掛けた戸村の帰りが矢張りまだだったりということが重なり、佐々木もいつの間にか姿を消して、不安ばかりが大きく重くのしかかってくる。漸く、戻って来た裕美は、食品販売店の前で佐々木を見た、と言う。然し、動いていないようだった、怖かったので確認はしていないが、と報告する。前後して、漫才師達は徒歩で脱出を図っていた。駅舎内に居る者は、終に世界の終わりを覚悟する。蜘蛛はどんどん大きくなっている。
 不安の増してゆく不気味さを、曖昧な情報を流しておいて、出掛けた人の帰りが不自然に遅いと感じられる残った人々の心理で描き、1人、1人、何か調子がおかしくなってゆく様を、実に示唆的に、完璧な表象で表してゆく所が凄い。
 実は、今作の後、短編が1つ上演される。楽しみにして欲しい。
ある程度の教育【フリーカンパ制につき無料公演】

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ポーラは嘘をついた―Paralyzed Paula―

B201 [早稲田大学学生会館](東京都)

2014/01/09 (木) ~ 2014/01/12 (日)公演終了

満足度★★★★

才能の輝き
 モノとの適切な距離感が、硬質で透き通った言語強度を生み出しており、モノローグの部分は、演劇シナリオというより詩である。パパとの会話になった時に、詩の呪縛は解かれるが、会話部分に詩的硬度を持ち込んだら、めくるめく作品になるだろう。それができるポテンシャルを秘めた作家なのではあるまいか? 今回は、其処まで、凝っていないので、星は4つにしたが、今後、大いに楽しみな才能である。

ネタバレBOX

人口抑制が急務である現在に近い近未来、子宮内では臍の緒で繋がった胎児が、言語学習、一般常識等を学んでいるが、彼女も実は16歳である。而も、未だ外界には出られないのだ。老子を目指しているわけではない。唯、許しが下りないのだ。とはいえ以上のようなことを言い得る程に外界とのコンタクトは取れており、彼女はパパを認識することもパパと交信することも可能である。そのパパから生まれ出る許可が、まだ下りないのである。
 通常10月10日で産まれるハズの胎児が、何故、16年間も子宮内に留まっているのか? パパが言うには、未だ早いのだという。だが、何故未だ早いのかは中々教えてくれない。良い子にしていれば産まれることができる、とも言うが、良い子にするとはどういうことか、良い子とはどんな子かは、考えると混乱をきたす。問答をしているうちに、パパは、少女がロボットなのだという。そしてロボットが問題なく外界に接触出来る為には、外界の総ての機器が、ロボットの構成機器とキチンとシンクロしなければならないのだと言う。そうでなければ、壊れてしまうのだと。だから出す訳に行かないのだと。こんな話を聴く前迄は、少女もパパを産まれるぞ! と脅かすこともできたのだが、この件を指摘されてからは、問題は自分の現実存在を破戒、即ち身体の死と考えるレベルで自由を選択することの重さが加わった。結果、自由とは、身動きならぬものであるというテーゼが現れてしまった。
 ファーストシーン、いきなり暗転した中でモノと触れあうだけで結晶化する認識と言語が、その結晶化に相応しい硬質な暗闇の中の水晶のような硬度を以て語られるのだが、その知育程度に於いて般化され、孤立の余り透き通ってしまったかのような胎児の目が見えるようである。
スーホの白い馬みたいに。

スーホの白い馬みたいに。

劇団しようよ

王子小劇場(東京都)

2014/01/11 (土) ~ 2014/01/13 (月)公演終了

満足度★★★★

千年の都
 京の伝統と現在。

ネタバレBOX

 犬、ピーチの死に目に会えなかった少女は、ピーチが焼かれ、埋葬された後にも、中学校を抜けだして犬を探しまわる振りをする。それは、単に彼女が、犬の死を受け入れたくないという幼児性のためなのだが、兎に角、彼女はこの奇矯な行動を繰り返すことによって、界隈では噂の塵邸住人、コラピスおじさん(公園に出向いては子供相手に紙芝居を打ちコーラとカルピスの混ざったような色の液体を振るまってくれる所からついた仇名)の邸に入り込むことにもなった。結果、誰にも知られることのなかったおじさんの暮らしを知る。その生活とは、とうの昔に亡くなった奥さんの遺体と共に、暮らしている姿であった。
 一方、恋愛感情に走ると、完全に我を失い、嫉妬に狂って浮気をした相手を殺しかねない母を持つ少女は、故郷を離れ、都市に出た後、ストリートミュージシャン、たかしに恋心を抱く。が、その後ルームをシェアしたあかねと彼は恋仲になる。彼が2人の住む部屋を訊ねると約束していた日、到着が随分遅れ、あかねは不在であった。彼はあかねと結婚するつもりであることを女に告げる。その為に、音楽も止めるとも。
 これを知った彼女は、母親と同じように、好きな男を襲う。結果、たかしは失踪、行方は杳として知れぬ。26歳になっていた彼女は、その後行方を晦まし、実家玄関まで辿りつくが、恐らく其処で自殺を図った。
 ところで、コラピスおじさんの塵邸は火災で焼けてしまったのだが、この家、塵の臭気、虫、風による飛散等々で近所中の迷惑であった。この為、放火されてもおかしくない状況はあったのだが、火事のあった日、偶々、近くの河原で大学生達が、酒を飲み、花火をしていた。その為、火が引火したのではないかと疑われた。つまはじき者のことが問題になったのは、コラピスおじさんを地域住民として認め、復帰させようとしていた人が居たからである。
 然し、出火原因は異なった。近くの中学で生徒会長をしている誠がパシリに使っている石原が、体育祭に使う横断幕のデザインを申しつけられたが、焼け跡の灰から生まれ出るフェニックスを描く為に、大きな炎を実見しないと描けなかった為、放火したことが示唆されるのである。
 これらの物語が、殺人を犯す少女の話をメインに展開するのだが、同一の役者が何役かをこなしフラッシュバックの仕方が多少ランダムで、而もサブストリームは、中学生の話を中心に展開しながら、こちらも同一の役者があちこちにフラッシュバックしながら、様々な時を行き来するので、フラッシュバックの構造を見切るのに若干苦労を要する。が、話自体はかなり面白く、如何にも京都の学生らしいたゆたいを感じさせる。
 というのもミュージシャンが生演奏をしている一角を除いて、3方が客席になっているので、真ん中が演技スペースになるのだが、その中央に据えられた洗濯機は、少女が呪われた血を浄化する象徴でもある。彼女は、一度、汚れた血を浄化する為に、漂白剤を飲んで自殺を図ったことがある。そのような汚れと浄化を中心に置いて、周囲では、始まりと終わりに同じ歌詞の歌で手踊りが踊られ、それは恰も地域のルーティンと化した行事のように舞われるのだ。(ルーティンを表す意味で途中、何度かこの手踊りは挿入されている)
 これら日本の踊りのパターンである手踊りを伝統的ルーティンとしつつ、特権階級である学生が漂うように暮らしている雰囲気が、如何にも京都の学生生活らしいのである。

The Last Minute

The Last Minute

eNカンパニー

横浜赤レンガ倉庫1号館(神奈川県)

2014/01/08 (水) ~ 2014/01/09 (木)公演終了

満足度★★

少しはマシになったが
 自分の死に納得のゆかない魂がやってくる場所には、その生涯のハイライトを映す装置がある。そこで死に至る詳細を映しだされた魂の多くが、納得してあの世に旅立つという寸法だ。
 今作で実際にハイライトが映し出されるのは3組のカップル。

ネタバレBOX

 第一話は、リオデジャネイロと思しき場所、明日はカーニバルという日に、若く情熱的なカップルが出会い、互いに一目で恋に落ちた。然し、カーニバルの絢爛たるカップルの中でも特筆されるべきこのカップルは死神にも気に入られてしまった。この後の展開はトリスタン・イゾルデ伝説に準ずるような形だ。
 第二話は19世紀パリ、ムーランルージュ辺りが舞台だ。ロートレックに擬した、内容は余り似つかぬ貴族と、海外からやって来た貧乏小説家が、ムーランルージュの華を取り合う話である。貴族の性質は下司、自らの力を用いて華を落とそうとし、飴と鞭を使い分ける。飴はパリの一流劇場で花形女優としてのデビューと店への資金援助&保護、鞭は、彼女の惚れている小説家の殺害である。彼女は、小説家に連れない素振りを見せて振りはするが、無論、彼の命を救う為。だから、薔薇を一輪彼に投げる。彼もその意味する所に気付かぬ“みむめも”ではないから、とどの詰り、二人の恋は再燃し、という結末だ。
 第三話は、二話迄が、かなり象徴的な手法で構成されていたのに対し、パロディー形式が採られているように解釈した。然し、音楽の使い方等に、誰でもそれと分かる太いメッセージ性が無く、二話迄は、曲がりなりにも象徴的と解されなくもなかった手法では無い形式が採用された為、シナリオの不分明と相俟って中途半端な感覚を観客に与えて仕舞った。三話をパロディーではないか、と解釈したのは、チンピラ同士の喧嘩シーンがたくさんでてくるので、ウェストサイドストーリーのパロディーと解釈したわけだ。だが、そうとハッキリ認定できるようなヒントも自分には見付けられず、シナリオ自体に中途半端であった点に難があるように思われた。
 また、オープニングでは、偉くプレシオジテを感じて仕舞った。その上、ピアノの音が冗長で、とてもプロの音出しとはいえない。少なくとも自分の回りにいる音楽家達のレベルに達しておらずイライラした。この程度のピアノの腕で気取らないで欲しい。声楽はまあまあ。踊りもまあまあであった。
 舞台内容とは関係が無いが、重要なことを一つ。座席指定にするなら、ナンバーに規則性を付与するのは当然のことなのだが、それができていない。結果、とんでもなく着席に時間が掛かり、舞台が始まる前に観客は印象を物凄く悪くしている。幼稚園の子供ですら分かることだが、限られた時間内で素早く的確に観客に定位置に着いて貰う為には、一目でそれと分かる規則性のあるナンバーの振り方にすべきである。こんなことすら出来ないとは、その能力に疑いを持たれても致し方あるまい。
 舞台上は総合星三つ。客入れの要領については、星1つ。幼稚園児にも劣る。総合星2つ、以上。舞台の踊りなどは、それなりだし、プロレベルなので、お勧めにはしておく。
こぐれ塾第二回公演「誰かがドアをKnockするPart2」

こぐれ塾第二回公演「誰かがドアをKnockするPart2」

こぐれ塾

萬劇場(東京都)

2014/01/11 (土) ~ 2014/01/13 (月)公演終了

満足度★★★★★

次の次かその次には、敢えて破綻か不条理を見せて
 リーフレットにあった新幹線、こぐれ修の挨拶に共感してしまった。これだけの内容。実践した者にしか書けない、揺るぎないのだ。かく言う自分も現在、つか こうへい研究会の末席を汚す者として、この挨拶文に触れ、彼らのデビュー公演への取り組みを読んで、“これでこそ”と納得がいった。開演前に期待感が湧く。

ネタバレBOX

 さっと舞台を眺めると、一見、シンプルなのだが、隙のない舞台美術、流石である。狂言廻しの女性は、人気絶頂の頃の秋川 リサを思わせる雰囲気の女子。オムニバス形式で演じられる5つの話を要領よく解説し、カジノの話題を絡めることによって不自然さを消している。この辺り、シナリオ、演出、キャスティングの冴えが見える。
 演目は5話。上演中なので詳細は省くが、殆ど、同じ舞台美術で、内容、趣向の異なる5つの戯曲が演じられる。無論、センスは抜群と言って良い。作品配列の妙にも工夫が見え、敢えて失敗と見せ掛けたアドリブなどの高等テクニックも見せてくれる。これも、修練してきた内実あってのものである。

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