地獄篇 ―賽の河原― 公演情報 鬼の居ぬ間に「地獄篇 ―賽の河原―」の観てきた!クチコミとコメント

  • 満足度★★★★★

    評価が分かれよう
     子を失くした母親の時計は止まってしまう。この国のかたちを描いた秀作。内実が深い為、解釈によって評価は星4つと5つに分かれよう。(追記2014.1.26)

    ネタバレBOX

     (文意が分かりにくくなるので、頭から)子を失くした母親の時計は止まってしまう。対極にあるのは、女の業と言われる訳の分からないイメージだろうか? 無論、思想的オリジナルを辿れば、仏教のカルマに行きつくだろう。だが、それは、性差を意味しない。然し、大抵は、そんな高尚な哲学とは無縁のレッテル貼りに過ぎまい。そうでなければ、皮相なレベルで差別などするものか。これは社会的階層の問題ではない。総ての人間が、己自身の尊厳の問題を持ち得るか否かの問題である。経済的に力を持っていようが、政治力があろうが、社会的地位が高かろうが、そんなことは一切関係ない。要は、己の力を正確に知り、為すべきことを知ってそれを実践しているか否かなのである。身の丈以上のことはできないし、する必要等ない。己の出来ることをしっかり為せばよいのである。
     狡い連中が、その能力だけを活かして他者を追い詰める時、蟻や蜂他の社会的生物には考えられぬ程オゾマシイ腐敗に浸り切るのが人間の特性である。この卑劣極まる狡猾によって、人間だけが異常な格差を持つ社会を作り上げた。狡猾な連中に宗教は無い。在るのは欲得のみである。彼らが宗教の話をする時、それは、宗教を用いて或いは政治化して如何に儲けるかであり、如何に牛耳るかなのであってそれ以外ではない。今作の基本コンセプトの中で語られる賽ノ河原での被害者、或いはいたぶられる者は、無論、子供である。が、既にこの世のものではない。その死因が、子の祖母による殺害であっても、その死を最も深く負うのは、生母である。今作冒頭シーンは、祖母が、孫の首を絞めて殺害するが、それを止めようとする生母をその実姉が止める。結果、子供は死んだ。その罪の意識は生母が負わされた。このような構造が、妖怪を生み出す前提にある。少なくとも、この国の形である。
     賽ノ河原のシーンは一度も登場しない。それは、音によって表される。この辺りが、怖さを感じさせる為に仕組まれていることは容易に推察できよう。ところで、デハケは、敢えて不自然な間や、互いのシーンの干渉し合う形が取られている。観客は、作品への没入を阻害されるので、この演出をどう捉えるかで評価が分かれる原因になろう。然し、無論、これも、この国の形を表している。自立を阻み、他者との共存の為には、己を虚しくしなければならぬ、という強制である。恐らくは、世界史的に見て最も早い段階で確立された為政者の手腕が、このような民衆の意識を作った。少し、説明しよう。人別帳がハッキリし、民衆が抗う為の武器を取り上げ、為政者が弾圧の手段を独占するという体制。これが、この国の基本的な形である。(具体的には太閤検地と刀狩)によってその基礎が築かれ、江戸時代の武家・町人諸法度、五人組等による連帯責任制、分限思想と儒教でがんじがらめに縛ったのである。このような状態で革命など夢のまた夢であるのは、必然であろう。お上に楯突くことは、即ち犬死にすることにほかならなかった、この国の民衆の非独立性が、またその奴隷根性が、この国の形を規定していると言っても過言ではない。
     日本以外には、恐らく「四谷怪談」流の恐怖はあるまい。この作品が、忠臣蔵外伝として書かれていることも象徴的である。
     今作も、怨みつらみの源流にあるのは、即ち地獄の正体は、このような、この国独自の歪つな支配とそれに馴らされた衆生の哀れなすすり泣きである。

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    2014/01/25 11:30

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  •  観る人はキチンと観ていますね。

    2014/01/26 10:13

     観る人はキチンと観ていますね。

    2014/01/26 10:12

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