酒井一途の観てきた!クチコミ一覧

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「ジャパニーズ・ジャンキーズ・テンプル」

「ジャパニーズ・ジャンキーズ・テンプル」

ハイブリットハイジ座

シアター風姿花伝(東京都)

2013/03/06 (水) ~ 2013/03/10 (日)公演終了

娯楽と諷刺と
好みは観る人によって全く分かれると思うが、僕は好きだ。シュールなギャグがことごとくツボにはまって、笑いを堪えるのが大変だった。ただハイジ座の作品はそれだけで終わらない。痛烈に社会批判の目を向けようとする意志がある。

今回の作品はアイデンティティ・クライシス(自己喪失)への警鐘が作品の根幹にあると感じた。自分が何者で、どこから生まれ、何を目的として生きているのか。ある種の喪失感に抗う主人公は最後、これまで逃れられなかった性質に背き、ひたすら自分の思いに向き合おうとする。

ハイジ座は割といつもそうだが物語という物語は描こうとしていない。非物語の中で娯楽と諷刺を行き来する。日常の生活に埋没して機械的な行動に打ち込む、といったような消費社会における現代人への批判的な眼差しは、ハイジ座の作品には通底している要素のように思う。

今回批判は描かれていたもの、読み取りづらくはあった。確かにその案配は難しいところなのだ。余計なことだけど、作り手としておそらく満足しきってはいないだろう。とはいえ作品そのものとしては楽しめたのも事実。これから幾らでも伸びしろある才能なので同世代として楽しみ。

ちなみに作、演出の天野峻は同い年。彼の作品は処女作から観ていて、今回で五本目。観られてないのも二本あるから、凄まじいペースで作品を作っている。学生的なノリとテンションを残しながらも、独特のテンポある演出方法は我が道を行っていてクセを生む。はまる人は絶対好き。

『熱狂』・『あの記憶の記録』3月に完全再演致します!!詳しくは劇団ページをcheck!!

『熱狂』・『あの記憶の記録』3月に完全再演致します!!詳しくは劇団ページをcheck!!

劇団チョコレートケーキ

ギャラリーLE DECO(東京都)

2012/10/31 (水) ~ 2012/11/11 (日)公演終了

あの記憶の記録
感想は言葉にし難い。ここで語られていることは参考文献とした記録を元に、作家が編み直した記憶だからである。肉声を伴って記録を再現することに意義はあるが、いかにその記録を、物語としての記憶に再構成するかに作家の度量が表れ出てくる。

記録は(改竄されていない限りにおいて)事実であり、記憶は虚妄だ。現今の作家が歴史を取り扱うには、記録を元にして物語=虚妄の記憶を作り、その中に何かしらの真実を見つけ出すための努力が必要とされる。

ネタバレBOX

今回の作品、上演時間のほぼ半分は登場人物が個人の記憶を語ることに費やされた。そしてある一人の人物がそれを記録していた。つまり記憶を元に記録を作り上げる現場を我々観客は目撃するわけである。

歴史を歴史のままに記録するのは歴史家にでも任せればよい。そうではなく作家が書いた作品を観にきた以上は、物語=虚妄の記憶からいかなる真実を見出すかに観客は期待する。

ゆえに憎しみは何ものをも生まない、という戦争を考える上で割とありきたりな解答に行き着いてしまったのは、平凡であったように思う。

作家の意義として必ずしも新しいものを生みだすべきだとは言わない。が、すでにその記録について扱う作品が数ある中で、なにゆえに改めて自分の手で描きたいと思ったか、というオリジナリティを見たいところではあった。

……と、脚本についてばかり触れてしまったので、他についても一言だけ書いておく。

演出としては八人もの登場人物がいながら、空間を混雑しているように見せず、また自然と観客の集中力を人物に向けさせることに成功していて良かった。役者もみなさんそれぞれに役として自分なりの考えを持っていたようにおもう。

僕は作家志望の人間なので、とりわけ脚本への意見が多くなってしまうものだが、他意はない。なお満足度に関しては、そもそも作品を星の数や点数で評価することに違和感があるためにつけていないことを明記しておく。
被告人ハムレット

被告人ハムレット

声を出すと気持ちいいの会

演劇スタジオB(明治大学駿河台校舎14号館プレハブ棟) (東京都)

2011/05/04 (水) ~ 2011/05/08 (日)公演終了

観劇。
山本タカさんの演出力には素直に舌を巻く。過去二作観ているが、今回の出来は群を抜いてよかった。勢いで駆け抜けるがゆえの中弛みはありつつ、際立った幾つかのシーンが脳裏に残る。何より役者の演技力の上達が、成功の要因に大きく影響している。

コエキモの芝居は毎回密度が濃くて疲れる。舞台上で発せられる怒鳴り声が、躍動する肉体の勢いが、観客を圧する。体感時間が実に長い。八十分の上演時間だったなどと、とても信じられない。それだけ世界に引き摺り込む力が強いのだと解釈する。舞台美術も相変わらず凝っていて楽しい。

アンナ・カレーニナ

アンナ・カレーニナ

東宝

シアタークリエ(東京都)

2010/12/25 (土) ~ 2011/02/06 (日)公演終了

観劇。
一路真輝さんの東京公演千穐楽。ダブルキャストが初めてだという一路さんは、自分一人だけが先に楽日を迎えたことがないのだろう。カーテンコールでの挨拶の際、何を話していいのかわからずといった姿を見せたけれど、「ありがとうございました、という気持ちを伝えたくて」と言う真摯さは、言葉を通さなくてもその素直な感情が伝わってきた。感動を共有した六百人を超える観客の割れんばかりの拍手は、昂ぶった感情をさらに大きく膨らませた。

ミュージカル「アンナ・カレーニナ」は、幸せな家族を作ることになるキティと、不幸に生きるアンナとの対比が非常にわかりやすく明確に描かれている。原作を読まずとも(つまり話の補完をする必要がなく)、ストーリーを理解できた点を考えると、トルストイの大作をよく三時間に収めたものだと感心する。なお、原作は未読(今年中に読むつもり)

アンナに感情移入させることができたのは、紛れもない成功である。身勝手な行動をするアンナに観客が拒否反応を起こしてしまっては、この劇の感動が生まれることはない。アンナには感情移入させるべきなのだ。それは第一条件と言ってもいいかもしれない。そういうわけでメインプロットは「アンナに感情移入させる」という大きな柱を見事に成立させていた。

しかしサブプロットであるキティに纏わる幸せな家族の話は、正直途中でどうでもよくなってしまう。アンナに感情移入させた一方、幸せな家族の方に拒否反応を起こさせてしまった。異論はあるだろうが、少なくとも僕はそう感じた。幸せをぬるま湯のように感じさせることで、不幸を強調して同情を誘う。ここに鈴木裕美演出の強みも弱みもある。

原作の小説「アンナ・カレーニナ」の冒頭は「幸せな家族はみな同じように見えるが、不幸な家族はそれぞれに不幸の形がある」の一文で始まる。
一様な姿をもって幸せになっていく家族など見ていても、別に心惹かれることはない。「みな同じに見える」ものをわざわざ意識して見る必要はないではないか。大体、キティの夫レーヴィンの演技が過剰すぎる。あまりにも内気で煮えきらない。しかも最終的には幸福になるのだろうと容易に想像できるから、「さっさと思い告げて幸せになっとけよお前」と思ってしまう。
つまり僕は、不幸な道を一直線に歩んでいくアンナにこそ感情移入しており、暢気に幸せになっていくであろう家族にはいまいち興味を持てなかったのである。多様な形を持つ不幸の家族に、より強い関心を向けることになったのだ。

思うに、幸せな家族を描く時間を「長引かせすぎた」のが悪影響を及ぼした。幸せな家族は観客の想像力で勝手に幸せになっていってくれるから、濃く描く必要なんてない。「幸せ」に関して、人は想像するのが得意である。ロマンチックな状況に男女がいたら、ああこの後二人は幸せになるのだな、と想像する。現実ではそう簡単に行かなくても、劇世界では想像力の思うがままだ。
だから幸せな家族はさっと見せるだけでも、観客の心に強い印象を残していくことができる。不幸との対比をさせるにしても、不幸の家族を描く時間と、幸せな家族を描く時間をイコールにしてしまっては、幸せな家族の方をしつこいと感じさせてしまうのが関の山なわけである。

不幸な家族としての生を背負ったアンナは、実は幾つもの深い愛情を受けている。ここに、アンナの夫カレーニン役を演じた山路和弘さんを讃えたい。世間体を気にし、妻アンナの不貞に気にもかけないはずの冷酷なカレーニンを、実に愛情深い人物に作り上げていた。台詞の上では、完全にアンナを突っぱねているのだ。しかしその卓越した演技力によって、心の奥に秘めるアンナへの強い愛情が、観客には痛いほど見えてくる。
不倫相手であるヴロンスキー伯爵を演じた伊礼彼方さんも上手であった。一度「エリザベート」で彼のルドルフ役を観ているが、そのときに比べ演技力が上達したなと感じる。若く情熱的な愛からアンナの心を奪いつつも、しかし罪悪感によって傷ついていくアンナを救えないことへの苦悩が見える。彼もまた最後までアンナを愛し続けた男であったのだ。
それでいてアンナは、自分に向けられるそれら深い愛情に気づかずにいたり、また或いは目を背けたり、罪悪感のために正面から愛に向き合えなくなってしまったりする。どうしようもなく不幸に堕ちていくのである。そんなアンナの姿を見ていると、「幸せになり得ない人物」というのが現実に存在するのではないか、などと思ってしまい、強い恐怖感を抱いた。

浮標(ブイ)

浮標(ブイ)

葛河思潮社

吉祥寺シアター(東京都)

2011/02/01 (火) ~ 2011/02/13 (日)公演終了

観劇。
台詞をこれほど美しいものと感じたのは初めてかもしれない。耳に入ってくる台詞ひとつひとつに生命のエネルギーが宿っている。前日に観た「アンナ・カレーニナ」では音楽に震えたが、今日は三好十郎の台詞に震えた。俺泣きすぎだよ本当に。でもただただ泣くしかできないんだ。

二村周作さんの美術と、小川幾雄さんの照明が秀逸だった。砂浜の上、ひとりの人影が左右にふたつ映し出される。まるで海の沖合で浮標が揺れるようにゆらゆらと、人が生と死との狭間を漂うように…。その境目は僅かな紙一重であるというのに、ひっくり返った瞬間にすべてが変わってしまうのだ。

そして晒しの舞台上で負けなかった役者の根気に、何よりの拍手を。田中哲司に藤谷美紀、大森南朋の迫ってこんばかりの演技が身体に染み渡る。安藤聖は演技力こそ伸びしろがあるものの美しい声。しかし1日2ステとか馬鹿じゃないのかと本気で思う。観る方ですら憔悴する芝居だというのに。

断っておく必要があるのは、激しい集中力を使うことで体力的に憔悴する芝居でありつつも、精神的には生命の活力がみなぎり溢れた芝居ということだ。生きて生きて生き抜くパワーが伝わってくる。倍の値段払っても全く惜しくない芝居に出会えるなんて、そうあることじゃない。素晴らしかった。

最後に、パンフレットからの知識の引用となるが、一言書いておこう。幕末の国難を乗りきった一度目の奇跡、第二次大戦敗戦から復興を遂げた二度目の奇跡を我々日本人は経た。そして今、三度目の奇跡を果たすべく、未曾有の社会状況に立ち向かっていかねばならないという。まさに時代の過渡期にある。

今こそ我々には生きることを強く願う意思が必要だ。執拗なまでに生の讃歌を歌い上げるのだ。戦渦にあった三好十郎が書いた台詞を、「生きて生きて生き抜け」という言葉を、後世の日本に引き継がんためにも。

夜にだけ咲く花

夜にだけ咲く花

楼蘭

神楽坂die pratze(ディ・プラッツ)(東京都)

2011/02/03 (木) ~ 2011/02/06 (日)公演終了

観劇。
ピアニストの紡ぐ音楽が物語の世界と合致しており、効果的だった。しかし特異な言語を扱うこの脚本を役者に喋らせる割には、演出の甘さが目立つ。自分の演技に酔ってる奴は芝居を駄目にするであろう。幸いというか、僕の友人二人は上手く世界に溶け込んでいた。

自分の演技に酔う人は、板(舞台)の上に上がるべきでない。「台詞を歌う」ことは、それが演出であるならば別にいいのだ。しかし金を貰って見せる以上、少なくとも「演技に酔う」という一点は徹底的に排除されなければならない。酔った演技は不快感こそ生みはすれど、観客に何物をも伝えることはない。

例えば宝塚はものすごいキザな台詞も多いけれど、あれは自分に酔ってはいない。見せるための基礎が身体に叩き込まれているし、大体規律と厳しい上下関係の中でそんな演技をしようなどと思うはずもない。そもそも酔った演技では、千人規模の大劇場の空間を支配することなど到底出来ないことは自明。

言うまでもないことであるが、役者は表現者たるべきだ。己の中に溢れてくる表現欲求を具現化し、見る者にそれを伝えられる人を表現者という。だから自己満足であってはならない。せめて自己満足から脱却する努力をせねばならない。ひたむきな努力は、その人の表現に自然と垣間見えてくるものである。

自己満足であるか、そうでないかの線引きは非常に難しいけれども、自分の演技に酔うという行為は、役者としてあるべき姿勢とは正反対に位置する。とても表現者とは言えないし役者でもない。よって板に上がるべきでない。まして金を取る興行であるならば。と、僕が言いたいのはそういうことである。

ここまで言うのは、この重大な問題点は「自覚」という二文字によって、今からでも改善出来ることだからだ。その二文字は恐ろしく空高く聳える壁だが、飛び越えることは不可能じゃない。他人からの助言を素直に聞くことで、足掛かりを作ることもできる。ただし最終的に越えるのは自分と忘れてはならぬ。

残り3日間5ステか。僕のこの文章が果たして意義を成すものかわからないが、足掛かりの一助となってくれればと願う。役者が演技に酔わなくなるだけで、この芝居は随分と観る人の受ける印象が変わってくると思うのだ。

なんにせよ、旗揚げおめでとうございました。公演の無事をお祈りしています。

チェーホフ?!

チェーホフ?!

東京芸術劇場

東京芸術劇場 シアターイースト(東京都)

2011/01/21 (金) ~ 2011/02/13 (日)公演終了

観劇。
芸劇「チェーホフ?!」観劇。理屈で語れない強烈なアート体験であった。冒頭から劇空間のあまりの美しさに、涙が一筋零れ落ちた。何を表しているかを理解出来なくても感性を揺さぶられる。本来物語性を重んじる僕がこのような感動を味わった驚きは新鮮で、自分の感性に新たな水を注がれた思いがした。

台詞は殆どない。プロセニアム型舞台の中に、役者の精緻な動きが絵画を描いていく。その絵は時に影絵であり、また浮世絵であり、唐突に立体化する。生オーケストラと共に踊りが展開されるが、振付はなく毎回役者が音楽に合わせて即興しているという。信じられない。完全に完成された動きだったからだ。

アフタートークで毬矢友子さんが子供のように朗らかに笑う姿を見て何故か、ああやっぱりこの方好きだなあと心底思う。憑依型と言われることもある彼女の演技は、以前他の芝居で観た際の顔とは別人のようで、演出家の色に染まる女優の不思議さを考える。

ルパージュの演出を受けたことのある毬矢さん曰く、タニノクロウは彼と感覚が似ているという。共にビジュアル面を独特の感覚で追及していく作り方だという。タニノクロウは演出する時、頭に巻いていたタオルを手に持って、筆を振るようにして世界を形作るらしい。正直、意味がわからない。

ルパージュにまるで感動しなかった僕は、しかしタニノクロウは今後も観続けたいと思った。何が両者を隔てるのかは僕には謎である。前者は演劇と映像で、後者は演劇と絵画なのか。果たしてそんな単純なものではないだろう。自分の肌に合う美意識の違い、なのかもしれない。

モーツァルト!

モーツァルト!

東宝

帝国劇場(東京都)

2010/11/06 (土) ~ 2010/12/24 (金)公演終了

小学生以来
脚本家M.Kunzeと作曲家S.Levayのコンビは僕の中で不動の地位である。「モーツァルト!」も大好きなミュージカル。小学生の頃に観て以来だが、CDをダブルキャストの両方持っていて、ほとんどの曲を歌詞も曲調もソラで歌えるほど聴き込んでいる。

ヴォルフガング役の井上芳雄はさすがに安定感が素晴らしい。初演CDでは所々危うかったのが、何度もの再演を経て完全に地に足の立った心地よい歌声を聴かせてくれるようになった。
妻コンスタンツェ役の島袋寛子(SPEED)は目立つことこそないものの、安心して観られた。
姉ナンネール(高橋由美子)の調子がいまいち優れない。綺麗な歌声ではあるが以前はもっと伸びがあった。
大司教コロレド(山口祐一郎)は相変わらず歌い上げてくださる。山口さんはこの役やってるときが一番不自然じゃない気がする(まあ結局何やってても同じなんだけど)。

今回特筆すべきは、父レオポルト役の市村正親だろう。役作りが変化していた。父親の役柄上、市村さんご自身が子供を授かったことが大きく関係しているはず。
以前は息子に厳しく辛く当たる印象の強かったレオポルトが、息子への愛情に満ち溢れているのが見て取れた。息子の幸せを考えるゆえに、心ならずも息子と仲違いしていくレオポルト。その際に見せる、これ以上ないほど寂しげな彼の背中は、だからこそ観客の胸を強く打つ。
一転、カーテンコールでの市村さんはステップを踏みながら飛び出してきた。思わず吹き出してしまうほどに陽気な姿であった。

小池修一郎の演出について。床下に描かれた五線譜、舞台上に踊る幾つもの音符が良い。音楽の中での物語と感じさせる。
ただしここが小池演出の良さだと特筆出来る点がない。またビジュアル面で「このシーンは美しい!」と感じることがない。大劇場だから可能な美術は必ずあるはずである。
もう一押し舞台セットを豪華に立て込んで、美術としての綺麗さがあれば文句ないのだが。背後に浮かぶ風景の映像演出は余分ではないものの、プラスにも働かない。抽象の演出は小池さんに向かないのではないか。
初演から続く演出から、そろそろ新演出を打ち出してほしい。山田和也は絶対嫌だけど。

ネタバレBOX

この作品において、ヴォルフガング・アマデウス・モーツァルトは二人一役である。神童と呼ばれた頃からの天性の才能を子役アマデが具現化し、対して青年としての苦悩や喜びを知っていくのが主演ヴォルフガング役だ。アマデは常にヴォルフと共に存在し、曲を書き続ける。一方ヴォルフは破天荒を生きる。

次第にあまりにも大きすぎる才能が、一人の人間の器を超過していく。それはモーツァルトの身の破滅を意味することになる。一幕終わりで「影を逃れて」を歌いながら、ヴォルフはアマデに羽根ペンで腕を刺される。アマデは表情一つ崩すことなく、ヴォルフの腕の血を使って曲を書き始める。

ヴォルフは自分の影であり、同時に過去の栄光である才能アマデから逃れることを望み、「お前すらいなければ」と己の運命を呪う。しかしアマデもまたヴォルフ自身なのだ。引き裂けるものではない。父の与える幸せを捨て自由を勝ち取った今、ヴォルフは自分の足で歩くしかない。青年期からの脱出である。

二幕終盤、父の亡霊からレクイエム作曲を頼まれて、初めてヴォルフ自らがペンを持ちピアノへと向かうが、結局曲を完成させることは出来ない。アマデが作曲するために必要なヴォルフの血は最早残っていないからだ。最後の手段として残った、未だ血の通っている心臓に羽根ペンを突き刺して、彼は死ぬ。

芸術家は己の苦悩よりも先行する社会や世界の苦悩を背負い、芸術に昇華して表出する。モーツァルトやシューベルトのように若い頃にその全てを費やして身を破滅させる人もいれば、ベートーベンのように積み重ねていく人もいる。共通するのは常人には計り知れない才能と、才能を支える人間としての器だ。

ミュージカル「モーツァルト!」は才能と人間を二人一役で表した。一方は歌い踊り悩み恋する奔放な青年。また一方は一言も台詞がなく、表情の変化もまるでない子供。モーツァルトを演じるために完全に正反対の二人の姿形を使った。正にここにこの作品の偉大さがあると思う。
ウラの目と銀杏の村【公演終了・ご来場誠にありがとうございました!】

ウラの目と銀杏の村【公演終了・ご来場誠にありがとうございました!】

キコ qui-co.

花まる学習会王子小劇場(東京都)

2010/10/09 (土) ~ 2010/10/13 (水)公演終了

キコの色
キコは旗揚げも観た。二回目にして既に「キコの色」がはっきりとわかる。そして僕はそのキコの色が好きだ。身体が沸騰するような熱さを覚える。幻想を世界観に馴染ませる確かな説得力がある。演劇でしか味わえない力を持っている。

好きだからこそ、率直な意見を書きたい。今回は終盤完全に話を追えなくなり、途中から物語の整合性を考えることを止め、その瞬間瞬間の演技の凄みや肉体の躍動に目を向けることにした。それはそれでとても面白かったので作品に対して不満があるわけではない。
しかしオープニングから序盤の物語への引き込み方、那保さんが出てきた瞬間に文字通り凍り付く空間、その時の己の心臓の激しい脈動を思い出すと、もったいないと思ってしまった。この世界観でその後も物語がすべて繋がれば、と。十歳以上年下に言われるまでもないかもしれないけれど、強くそう思った。

それにしても「凍る瞬間」を見せつけられるのは演劇の特権だろう。舞台上はもちろん、客席までも包み込んで凍りつく。そういうシーンを書ける小栗さんの感性に限りなく尊敬の念を抱くし、共演者も観客もぶち殺してやる的な那保さんの演技に鳥肌がたつ。そして、そういう瞬間は演劇の特権であっても、そうそう観られるものではない。観に行くといいと思う。


最後に、なんかみんな書いてる制作面について。場内整備が席を詰めさせるためのアナウンスをしているだとか、開演前に客同士の下らんトラブルがあったとか、そんなのは別にお芝居の内容に結びつかないじゃないか。そのせいで「気持ちよく観られなかった」とか言うのは観客のエゴでしかない。

制作側の細かいケアがなっていないのはもちろん良くないことだ。でもお芝居が始まれば、舞台を隔てて、作り手側と観る側の対面勝負になる。「さあ始まるぞ」と心を入れ替えて真剣に向き合わなければ、作り手に失礼だと思うのだ。僕も最近作り手側に回った人間であるが、観客として劇場に足を運ぶ時はそんなこと関係ない。実際、僕はこのお芝居が始まった瞬間、それまでのことなどすっかり忘れて劇世界に引き込まれたのだから。

Project BUNGAKU 太宰治

Project BUNGAKU 太宰治

Project BUNGAKU

ワーサルシアター(東京都)

2010/09/30 (木) ~ 2010/10/10 (日)公演終了

新鋭演出家四人のガチ勝負
原作は一つも読んでいません。唯一、人間失格だけは高一ぐらいの時に読もうとして、半分も行かずに放った気がします。多分それ以降太宰は肌に合わないという先入観が作られ、食わず嫌いです。良くないですね。感想は長いですが特にネタバレしていません。

『HUMAN LOST』演出:広田淳一(ひょっとこ乱舞)
物語はまったく意味がわからなかった。ただ空間の中での役者配置、動きを含めた舞台上のヴィジュアルの見え方、計算された音の入りが美しい。僕は途中から話を理解することを止めて、その場で起こっていることを楽しむことにした。でもきっとそれは僕がいろんな演劇を観ているからこそ、見方を変えることが出来たのであって、ふつうに観たとしたら話が理解出来ないというのは大きなハンデになる。
公演後に話を聞くと、原作も意味がわからないらしい。それでも説明的な台詞を作るのは全力で避け、わかりやすさを排除したとか。「出演者含め総スカン覚悟」であったものの、原作を読んでいる人にとってはとてもうまく構成し直してあると感じられ、人気が高くて意外だったとのこと。これから観に行く人は、読んでからの方が楽しめるかも知れない。

『灯籠』演出:吉田小夏(青☆組)
観ながら何度か鳥肌の立つ瞬間があった。僕は芝居を観ているとき、話の筋と関係なくとも照明や音響、舞台の作りが好みにぴったりと嵌ると、その度鳥肌が立つほどの感動を覚える。小劇場の芝居では珍しい。「忘却曲線」しか観たことがなかった僕は、小夏さんがこのような演出もすることに驚いたし観ていて非常に面白かった。みな着物を着ているが、所作がきれいである。日舞をやっている人が役者の中に何人かいたからこそ、短期間で仕込めたのだという。着物を着た芝居はプラスに作用すれば大きいが、マイナスにも作用する恐れがあると思う。この芝居では良さを活かし、断然プラスに持って行けていたのではないか。

『ヴィヨンの妻』演出:松枝佳紀(アロッタファジャイナ)
何度もリプライズされるHaendelのSarabandeが芝居の間をきれいに埋めていく。統一感がありつつも、様々な録音が楽しい。一度稽古場のお手伝いをした際に、通し稽古を見させて頂いていたのだけれど、話のおもしろみが以前に増してギュッと凝縮された印象。何度か観ていたこともあって、台詞一つ一つが「あ、そうか」と腑に落ちた。その腑に落ちた言葉がとても重要であったりした。最後のシーンがとってもすき。稽古場で初めて観たとき、ぞくっときた。

『人間失格』演出:谷賢一(DULL-COLORED POP)
もうなんか転換の曲が流れ始めた瞬間に谷さんワールドが全力展開していて、面白い。広田さんに話したら共感してくれて「谷のターン!って感じだよね」と。上演しながら、舞台上にいろんなものが雑然と撒き散らかされていくあたりも谷さんらしい。作風はご自身で語っている通り、ダルカラ色が強い。僕は「幸せの歌を歌う犬ども」「幸せを踏みにじる幸せ」のようなふざけ方が実は苦手だったので、やはりこういう作風が好きだ。完全に僕の好みの話で申し訳ない。でももうこれはダルカラの新作みたいなもんだから、ダルカラのファンは絶対に観に行くべきである。
どこまで自己投影したのかわからない。途中で、どストレートに谷さん自身と葉蔵が被ってきたので、それはそれで驚いた。『心が目を覚ます瞬間』といい、谷さんが自己投影をした作品には、深く観客の精神世界に切り込んでくる力を感じる。有無を言わせず、心を揺さぶる力を感じる。サンモールスタジオで同時上演されている谷さん脚本の『悪魔の絵本』も観に行かないわけにいかなくなった。
お前は谷さんの子分だから、とか事情は抜きにして、はっきり僕はこの『人間失格』が四作品の中で圧倒的に好き。『灯籠』で鳥肌が立っていたのでどうなるものかと思っていたけど、完全にやられた。変な言い方だけど、一番にせざるを得ないものがそこにはあった。

ザ・キャラクター

ザ・キャラクター

NODA・MAP

東京芸術劇場 プレイハウス(東京都)

2010/06/20 (日) ~ 2010/08/08 (日)公演終了

野田というブランド
訳あって2回観劇。別に感激してとかじゃない。

むしろこの作品はいろいろと不完成であったように思う。芝居に完成形があるわけではないが、あまりに不出来が多すぎた印象。脚本の弱さ(史実に縛られ自由が無く、奔放さが無いため辛い。ギリシャ悲劇の必要性や題材との関係性に驚きを見出せない)、豪華な役者活かしきれず(比べるのは野暮だが、それにしても野田の他の作品に出ていた時の方が圧倒的に映えていた役者が多い)、意味のない言葉遊びが冗長(「何の空、上の空、秋の空」とか言葉遊びにもなっていない気が。いい長台詞だからこそ余計)など。

こういう批評する奴はこぞって無責任だとは知っている。ただ野田さんはテレビでも随分偉そうなこと言ってるから、観たままの感想を持って対抗したい。こんな場所見ないだろうが、発信に意味がある。日本人はブランドに盲目過ぎる。観客がもっと正当な審美眼を持って評価しないと、退廃演劇が蔓延る。野田だからいい。蜷川だから凄い。そういう評価は才能を潰すことになるのではないか。

どうぞまだ青い青い浅学非才な若者の戯れ言と思って下さい。
以下は観劇直後にtwitterで呟いた文章の転載。

1回目:6月25日S
流れ流れる情報の中で社会が忘れ始めた過去、同じことが繰り返され得る現代への警鐘。何度でも洗い直す必要のある事件だが、テーマ性ばかりが浮き彫りで史実に縛られ奔放な自由さがない。ギリシャ神話は有効だったのかも疑問。そこに落ち着くのか、と。
アンサンブルは圧倒的だが、そちらに気をとられ過ぎてか役者活かしきれず残念である。これはパイパーでも思った。黒田育世振付の呻きにも似た身体表現と、その動きが物語に繋がってくる終盤は見事。野田の作品には胸にグサッと突き刺さる何かを期待したいのだけれども。勿論この作品にも意義はあった。

2回目:7月11日M
2階サイドシート3000円。初回よりも楽しめたのは、単に体調が良かったのと、演出家としての目線で観たから。「声」が響き突き刺さってくる。宮沢りえの声は本当に貴重な存在。魂から絞り出したような「悔しいよ」の声。震える。
「パイパー」といい「ザ・キャラクター」といい、終盤の超長台詞にどうしても冷めてしまう。なんでだろう、俺の集中力の問題なのか。すべてを一人の独白で片付けてしまうのが気になる。蜷川も似たようなことを言っていたが、その独白だけが、詩のように独立して存在してしまっているように感じる。

電車は血で走る(再演)

電車は血で走る(再演)

劇団鹿殺し

東京芸術劇場 シアターイースト(東京都)

2010/06/18 (金) ~ 2010/07/04 (日)公演終了

初演に増してエネルギッシュ。
初演に続き再演も拝見。初演を観た頃は商業演劇ばかり観ていたので小劇場を知らず、「こんな芝居があるのか!」とただただ興奮していた。普通によく観ていた宝塚歌劇団が、名前をパロっただけで全くもって関係のない宝塚奇人歌劇団として出てくるのもなんだか愉快だったし、そのインパクトの大きさは半端ではなかった。

今回の再演。高校の二年間で数多の小劇場芝居を観、様々な芝居の色を知った上での再観劇はどのように感じるのかと期待と不安で胸を一杯にして劇場に行けば、やはり観劇後には衝撃ばかりが残った。血が沸騰するかのような熱さを感じる。激しい動の中に静が生きる。突飛で衝撃的な展開に、僕は知らぬ80年代小劇場界の熱狂を垣間見るかのようだ。

難を言えば、後半のシーンが少しだれてしまい、劇世界に連れ去られるようなパワーから一瞬なりとも解放されてしまったことであろうか。そのまま終幕まで観客をその背に乗せたまま全力で突っ走ってほしかった。が、まあそんなこと気にする以上に素晴らしく楽しめたからいいのだ。

コクーン歌舞伎「佐倉義民傳」

コクーン歌舞伎「佐倉義民傳」

松竹/Bunkamura

Bunkamuraシアターコクーン(東京都)

2010/06/03 (木) ~ 2010/06/27 (日)公演終了

それで世界は変えられるのか?
ただ一言。煽動された。この言葉に尽きる。観終わってからもしばらく身体が震えていた。脳内が掻き立てられた。魂を揺さ振られた。心の内から燃えるように熱い思考が思想が生まれ出てきた。初めての生コクーン歌舞伎は、凄かった。

脚本の出来だけを見れば、実はそこまで良い本ではないように思う。登場人物が立っていない。映像で観たコクーン歌舞伎「三人吉三」の衝撃があまりにも大きいのが原因かも知れない。あの本に出てくる人物はいちいち強烈な個性と深遠な心理、そして人物同士の繋がりが感じられ、主人公が何人もいるかのような芝居だった。それに比べると、「佐倉義民傳」では勘三郎演じる宗吾だけが濃く濃く描かれており、他の人物像の描かれ方が緻密ではなかった。

では何が良かったのかというと、圧倒的に演出と役者である。脚本の不具合を感じさせないほどに、芝居のほぼ全てを担っていた。演出がキャンバスにこれでもかと言うほど絵の具を描き殴って極彩色に塗りたくり、柱を背負った勘三郎が途中一度も倒れそうになることすらなく、三時間の芝居を走りきった。

全ては一つの道に繋がっているんだ。千年後までも。何を燻っている。日和ることなく進め。この自身の道すらもまた、千年後へと続いていく道だろう。このままの延長線上で、果たして満足できるのか?変えなきゃ、変えていかなきゃ、この世界を。

脚本の台詞からの言葉ではないが、そんなメッセージを僕は受け取った。「芝居が伝えられるもの」はまだまだ有り過ぎるほどに残っている。脈打つこの熱い血は芝居以外の表現媒体では注ぎ得ない衝撃だろう。

6月歌舞伎鑑賞教室「鳴神」

6月歌舞伎鑑賞教室「鳴神」

国立劇場

国立劇場 大劇場(東京都)

2010/06/02 (水) ~ 2010/06/24 (木)公演終了

歌舞伎の心意気
鑑賞教室ということで、初心者にわかりやすいよう一部は歌舞伎の解説や紹介、二部を「鳴神」の構成であった。

一部がまた非常に面白い。普通、解説とか聞くと退屈な香りがぷんぷん漂うが、 「観客を楽しませよう」という歌舞伎の精神がよく表れており、もう驚きの連続。幕が上がった瞬間から、三日月の映し出されてたスクリーン、回り舞台が回りながらセリが上下し、奥行き広い国立劇場の機構が観られて、それだけで劇場の神秘性を感じる。

舞台体験として、桐朋女子の高校生が二人舞台上にあがり、太鼓で滝の音や雨の音を鳴らしてみたり、振り袖を着て女形の歩き方をやってみたり、それは観ているだけでも、十分に楽しめるもの。隈取りをした役者が出てきて、歌舞伎のしゃべり方をしているのに、解説の歌舞伎役者は「あ、そう」とか「それで?」と現代口語で対応していて、妙に滑稽だったり。「歌舞伎ってのは古めかしいだけじゃないんですよ。民衆に楽しんでもらうために存在しているんですよ」という思いがとてもよく伝わってくる。そして実際に面白い。「観客を楽しませる」その心意気が、これまで歌舞伎が発展してきた支柱を成しているのだろうなあ、としみじみ思った。

二部は「鳴神」の芝居。20分の休憩のあいだに舞台美術ができあがっているのも、演劇のすごさ。さっきまで素舞台だったのに、もう山奥の社の美術となっているのだから。言葉はところどころわからない。でもそんなことは気にならず、話は追えるし、くすりと笑える。想像力も大きく刺激される。圧巻はラスト。鳥肌ものの終盤の盛り上がり。ただ物語の羅列をするのは好きではないので、ここでは控える。

今回は招待券だったものの、定価でも学生1300円である。安すぎる。「行政の支援を受けた面白い芝居がこんなに安値では、どうにも小劇場の立つ瀬がなくなる」だとか、「それほどまでに安く面白い芝居があるのに、一般にはその存在すら知らない人たちばかりでもったいない」など、もはや作品と関係なく作品外で思うところが多々あった。

目が明く藍色

目が明く藍色

くロひげ

BAR if(神奈川県)

2010/06/04 (金) ~ 2010/06/06 (日)公演終了

楽しみを見つける。
この作品は作品全体を通して観て「ああ、このシーンがここの伏線になっていて・・・」というものではない。事が起こるその瞬間瞬間を楽しむ作品だ。物語にはいくらでも観客に想像の余地があり、考えようと思えば繋がりを想像できる。考えようと思わなければ、それはそれで別の楽しみ方をすればいい。

美味しいランチ(お菓子)でお腹を満たし、特製のカクテルでほろ酔い、こぢんまりとした空間で、幸せな気分に浸る。こういう場で、作者の意図を理解しようと努めるなんて律儀なことはしないべきだ。むしろ観ている人自身の勝手な解釈で、楽しみを見つける。それでいい。

僕はとても楽しかった。

幸せを踏みにじる幸せ【公演終了!ご来場誠にありがとうございました】

幸せを踏みにじる幸せ【公演終了!ご来場誠にありがとうございました】

ジェットラグ

タイニイアリス(東京都)

2010/05/28 (金) ~ 2010/05/31 (月)公演終了

背けてはいけない目。でもやはり。
単純に好みの話から入ると、こういう作品は苦手。作家からすると「知るか!」って言いたくなる感想だろうけど、多分僕の場合作品の意図や伝えたいことを解った上で、やっぱり苦手なのだと思う。もともと万人受けするために作っているわけでも、観客を楽しませるために作っているわけでもない作品だから、こういう感想があっても。

作品を観て、全身がグサグサ突き刺される感覚を味わいながら、その内自分が加害者もしくは徹底的な傍観者であるように錯覚する。玉置さんを知っている関係者の方はS心が刺激されたりしたのかも知れないけれど、そうでない僕はひたすら痛かった。お遊びやおふざけから発展する集団狂気を知っているが故、罰ゲームのような最初の拷問からして既に辛い。けれど劇場という閉鎖空間からは逃げられない。

どうしてもジャック・ケッチャム『隣の家の少女』を思い出してしまったが、別に意識していなかったようだ。決して救われないし、作者の狙い通り「二度と見たくない」と思ったものの、そこには谷さんなりの希望があった。でも作品を完結させる希望を遥かに上回る、現実に対する絶望がどんよりと沈んでいた。谷さん自身はこの作品を作ったことで、昇華されたものも大きいと思う。

ハイ・ライフ 

ハイ・ライフ 

花組芝居

ザ・スズナリ(東京都)

2010/05/25 (火) ~ 2010/05/30 (日)公演終了

簡素な舞台から
遅れて入ったので序盤5分ほど観られず。非常に簡素な舞台ではあるものの、役者4人がうまく空間を埋めていた。ここら辺の空間を埋めるということについては、数百人クラス劇場でも上演している加納さんの手腕なのかしら。

花組は初めてだったんだけれど、役者さんの力がとても強く感じられた。やっぱり知り合いに目がいく。堀越涼さんの小粋な演技が作品にいい感じのエッセンスを加えていた。演出に関しては未見のネオ歌舞伎とは全く異なる手法だろうから、特別目を引くことはなかったような。

百年時計【公演終了!】

百年時計【公演終了!】

声を出すと気持ちいいの会

演劇スタジオB(明治大学駿河台校舎14号館プレハブ棟) (東京都)

2010/07/24 (土) ~ 2010/07/28 (水)公演終了

身体性と言語性
既視感とシンクロする身体性、伏線としての「動き」が物語を追うごと解き明かされていく感覚。と同時に、言語に対する美的感性に優れている。幻想的で高潔な耳障りの良いその台詞は、観客の想像力を刺激する。期待していた舞台美術も美しい。転換の多い芝居を効果的に支えていた。

役者でひときわ映えていたのは鈴木由里さん。圧倒的に自分と世界とを馴染ませることに成功しており、一番自然に溶け込んでいた。声も他の役者と被ることなく特徴的で聞き分けが出来るいい声だった。
また、個人的に石綿大夢さん演じる役のエピソードに大いに心掴まれたので、その時の真っ直ぐと前だけを見つめる大夢さんの目が印象に残った。

難を言えば、ヴィジュアル的演出には長けていたものの、人物を深く描き出しまた掘り下げていく力に欠けていたのではないか。これでは「世界」を見せつけているだけであり、複雑に絡んでいる物語が理解されないことにはこの作品の印象が薄れてしまう。一つ一つのエピソードに社会性が感じられ、伝わらないのは損だからこそ、それは非常にもったいないと思う。

「伝えたい物語」は人物の内面部分にもっと眼をやることで、観客をも当事者としてその物語の中に引きずり込むことが出来、きっと心を揺さぶるパワーを持ったことだろう。

何にせよこの劇団が外小屋で芝居を打つときが楽しみ。

露出狂

露出狂

柿喰う客

花まる学習会王子小劇場(東京都)

2010/05/19 (水) ~ 2010/05/31 (月)公演終了

柿のスタイル
『悪趣味』『すこやか息子』に続き、三作目の柿。柿のスタイルは「形」あるいは「型」だと思う。作品のどこまでを形づけて演出しているのかわからないけれど、出来上がる作品は柿特有のものである。結局劇団の良さというのは、いつ見てもその独特さがあること。そういった個性はプロデュースでは出すことが出来ない。柿の公演はよく言われるようにお祭りだから、「観に来たら高揚感に満たされる」感覚に嵌る人が多いのも納得。ただアクが強いのも事実だから、全員が全員手放しで柿を褒めているかのような状況も不思議な感じはする。

物語は人間関係を見せているだけで深さとかはあったもんじゃないんだけど、その人間関係がとてつもなく破天荒でそれだけで面白い。そしてその少ないとは言えない出演者を、これほど魅力的に演出するのは中屋敷さんのすごさ。圧倒的な個性でどの役も引けをとらない。特に目が行ったのは七味さん、コロさん、深谷さん、岡田さん、熊川さん。

『悪趣味』の時はギャグに次ぐギャグで、本気で周囲に申し訳ないほどツボってしまい、必死で笑いをこらえながらもぶははと吹き出していたので、そういった終始爆笑させるところがなかったのは個人的に残念ではある。もちろんそんなことは観客のエゴでしかないけどね。

Do!太宰

Do!太宰

ブルドッキングヘッドロック

三鷹市芸術文化センター 星のホール(東京都)

2010/05/14 (金) ~ 2010/05/23 (日)公演終了

二人の人生
役者の動きで広い劇空間を埋めていることに好感。テンポ良く話が進んでいき、太宰と作家の重なりは確かに見えてくるのだけども、どうしても端役の印象が薄かったような覚えがある。見方が悪かったのかもしれないが、いまいち人間関係の全てを把握できなかった。

そしてやはり上演時間の長さは気になる。話が「続いている」感じがしてしまい、先の展開にめちゃくちゃ興味が湧いてくるわけではなかった。でもこれはこれで一つの作風で、僕なんかがケチをつける権利は全くないので、あくまでも個人的な感想です。

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