Hell-seeの観てきた!クチコミ一覧

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このままでそのままであのままでかみさま

このままでそのままであのままでかみさま

COLLOL

BankART Studio NYK(神奈川県)

2010/03/26 (金) ~ 2010/03/30 (火)公演終了

満足度★★★★

あなたは正しい。
子供の頃、隣町の教会で毎週日曜日に行われているミサに親に内緒で参加していたことがある。終わった後に、おいしいお茶とおいしいお菓子がいただけるのだ。それだけの理由でミサに参加するとは何とも現金な子供であったが、かみさまにお祈りすることはきっといいことなのだから。漠然とそう信じていた。
この作品はそんなあの頃の記憶が蘇ってくる不思議な体験で、信じることを終わりにした時、いろいろなことが変化していくことや、誰かを信じること、言葉を信じること、誰もが普遍的に抱えている感覚について思い出させてくれるお芝居だった。そして何より、あの空間にいられたことが幸せでした。

ネタバレBOX

会場に一歩足を踏み入るともうすでに目の前では何かがはじまっていて。
あるひとは『ユダヤ人問題によせて ヘーゲル法哲学批判序説』を音読し、あるひとは静かに佇み、またある人たちは踊ったり、追いかけっこをしたりして、はしゃいでいた。白っぽい着衣をまとい、どこか浮世離れをしているそのひとたちは、中世のヨーロッパ建築を思わせる異国情緒漂う空間のなかに点在していて、わたしたち観客はあたかも天使たちの住む楽園にうっかりお邪魔してしまったようだった。

開演時間が近づくにつれ、自由奔放に動きまわる天使たちの戯れのなかに混じって一緒に踊ったり背後からついていったりするひとたちや、戯れの輪の中に存在していようとするひとたちが増え、なかには絵画の中から飛び出してきたような赤いドレスを着た美しい女のひとや、シルクハットに黒いマント姿の不思議なジェントルマンが立ちすくみ、ひとつの世界を生み出していて、観客と演者の境界線がボーダーレスになっていた。というよりも、同化していた。

ほどなくして開演時間が訪れて入口の扉が施錠されると、これまでの伸びやかな空間は一変し、ぴーんと糸が張り詰めたような静寂が訪れてヨブ(田口アヤコさん)がヨブ記の冒頭を朗読する。 そのひとことひとことに呼吸が重くなるような、閉塞感を感じたけれど、立ち上がる物語には、大きなダイニングテーブルが壁に照射され、ろうそくの明かりの灯るそのテーブルの周りを囲うように、ヨブの子供を思しき者たちが時々じゃれあったりしながら幸福をつくりあげていく。柔和な照明とやさしい音楽も流れていて、それはとても穏やかな食卓…。
しかし幸せはそう長くは続きませんよ。
サタンがそう嘲笑うかのようにけたたましい不幸な音を辺りを満たして…。

「ぼくは死にたい・・・。」
「けど世界が終って欲しいとは思わない・・・。」
あるひとりの青年はひとりごとのようにそう繰り返し、まるで闇の手に抱かれて、孤独の力に翻弄されていくよう。
「あたしとこどもをつくろうよ。」
そう言う彼女の言葉は、嘘じゃないのに心なしか空回りしているみたい。

壁に大きく照射される、溢れだす言葉が砕け散っていくイメージ。
言葉がすべて。だけど、言葉は何も伝えないこと。への矛盾や戸惑いを抱えながらこれからも生きていくわたしたちはどれだけ清い心でいられるだろう。理不尽なおもいをしても尚、正しくいられるだろうか。
劇中、出演者の女性から「あなたは正しい。」とわたしは言われた。
多分、大丈夫だとおもう。出来ることならそう信じていたい。

溢れだすイメージの洪水のなか、観るひとのなかでそれぞれ紡がれていくようなお話だった。わたしのなかにも残像や触感はまだまだあるのだけれど、言葉にできるのは今はこれだけ。 この作品のなかで強く感じたのは、足音と呼吸といびつで金属的な残響音。そして、国境という概念が失われた世界。変な話、スケールが大きくなればなる程、強度を増す演劇だとおもった。次回も是非、みたいです。
演劇機関説・空の篇

演劇機関説・空の篇

劇団再生

Asagaya / Loft A(東京都)

2010/03/26 (金) ~ 2010/03/27 (土)公演終了

満足度★★★★

演劇的な死生観。
トークショーと演劇的な死生をモチーフにした芝居の二部構成。
第一部のトークショーでは芸術家が表現すること、演じること、独自性とは何か。その核心に迫るもので、つづいて第二部の演劇では、肉体から発せられる真の声に信頼を置いた上で発露し、構築した世界をほんの一瞬にして破滅させた瞬間に演劇への本質的な愛憎と、言葉という名の鋭利なナイフで身体中を切り刻まれるような痛みを感じ、いづれも言葉の存在について深く考えさせられる内容だった。

ネタバレBOX

第一部は映画監督、大浦信行さんを招いてのトークショーで『借り物』をキーワードにスパイ粛清事件によって逮捕、服役後に作家としてデビューし、5年前に命を絶った見沢知廉について語られた。彼は文芸賞も受賞し出版社から期待もされていたが、ドストエフスキーを模倣した文体を意識せざるを得ず、そのことにコンプレックスを抱え、生涯オリジナルな借り物でない表現について苦悩していたのではないか。また、人を殺したその瞬間、数秒だけ彼は、彼自身になれたのではないか。という見解。大浦監督は現在、見沢知廉にゆかりのある人たちにインタビューを行いドキュメンタリー映画を製作されているため、とても説得力のあるお話だった。つぎに『借り物』でない表現とは何か。またその表現を達成するためのヒントとしての読書論を具体的な名前を列挙されたのが非常に痛快で、絶対的な個がある者にとって本は邪魔者にしか過ぎず、小津も溝口も黒澤明なども本なんて大して読んでいなかったのではないか。ピカソは教養もなく原始人に近い、現代によみがえったドン・キホーテのような存在だ。草間彌生さんの文章は、あの作品群のままですごい。などの見解に思わず二ヤリ。
芸術家は独自性という掟に生涯悩まされる生き物なのかもしれない。
『永遠は足元か背後にほんの一瞬だけあるもので、芸術はそれを最大限に引き延ばす作業である。』という大浦監督の言葉が強く印象的だった。

第二部はどこかの航空基地を舞台に血と衝動を戦闘力に戦うパイロットたちの物語。
登場人物にゼロという名前や、ゼロ戦という単語、演劇という単語が繰り返されるので、日本史的な戦争と、演劇的な闘争をモチーフにしていることはわかるものの、敵が出て来たり銃撃戦を行ったりする場面はなく、役者は絶えず前方を向き各々、現在の状況と感じていることをモノローグするため、ひたすら内省的である。
また、誰のため、何のために戦っているのかが曖昧な点がスカイ・クロラ的でもあり、舞台は航空基地で戦闘機を整備しているパイロットが数人いて、小隊長から攻撃するな、と指示されている。ということが物語のラストまでほぼ変動しない。
変化するのは役者の心象風景と、戦闘機に見立てた鉄パイプで、これが小隊長の周りをぐるぐると取り囲んでいき、現在進行形で造られていく芸術品といった感じで圧巻だった。

ラスト、敵への攻撃を許可した小隊長は戦闘機の燃料である深紅の血を頭から被り、パイロットたちが轟音と共に空中へ散っていく光景は、演劇の死が訪れた瞬間のように思われたのだが、それだけに留まらず、これまでの物語を、演劇の嘘を、演じた役の名と本名を、そして俳優の日常までをも俳優自身が告白し、更に劇場の嘘まで告発したのだ。

物語のすべては詩的なイメージの連続のようなものだったので、完全に理解しているとは到底思えないが、私たち人間が生きる以上、言葉と演じることから逃れられないことを意味しているように感じた。
完全な真空×BLACK BOX

完全な真空×BLACK BOX

演劇ユニットG.com

テアトルBONBON(東京都)

2010/03/24 (水) ~ 2010/03/28 (日)公演終了

満足度★★★

リアリストたちのブレイクタイム。
何をして誰のために生きるのか。その大きな問いかけはこの話に出てくる主人公たちにとっても例外ではなくて、理想と現実の揺りかごのなか、身の丈にあった幸せに折り合いをつけつつ暮らしている。 そんな彼、彼女らがある日それぞれ、すこし不思議なひとらに出会い、すこし不条理な体験をして、またいつもの日常に戻っていくまでの会話劇。
日常と非日常をゆるやかに隔てる空間に、丁寧に配色が施された照明と、
ミニマルでいて適度にメロディアスな音響が印象的でした。

ネタバレBOX

普通に仕事をして普通に生活していることに疑問を持っていないサラリーマンと仕事に対するストレスや、将来に対する不安を抱えているOLが主人公の短編、2本立て。

『完全な真空』はある日、偶然か必然か、地下迷路に迷い込んでしまったサラリーマンが遠い未来の自分と、近い将来妻となる女性に出会う話。

舞台装置がベンチひとつで浮浪者が出てくる辺り、場面設定こそ違えど不条理に重きを置いているので、ベケットや先月のイキウメふたり会で上演された岡田利規さんの戯曲『二人高利貸しの二十世紀』を思い出しました。

G.comは毎回不条理をテーマにした作品を製作されているそうですが、本公演は不条理SFオムニバスと公演を打っていますので、常人の理解を超えた超常現象的な『SF(すこしふしぎ)』要素と、思わせぶりな言動の積み重ねによって、常人の理解を超えた理不尽と思しき感情の連なりを体現する『不条理』の美しいハーモニーを期待しました。
2作品ともSF(すこしふしぎ)なコメディテイストな作品としては楽しめたのですがSF(すこしふしぎ)な不条理劇という観点から見ると少々肩透かしを食らった印象です。

情報開示をどのタイミングで行い、そしてどこまで謎を残すか。がSF(すこしふしぎ)作品には欠かせないとおもうのですが、その鍵の使われ方が勿体ないと思うところがありました。

たとえば、とても些細なことですが冒頭の、人びとが忙しなく行きかう都会をイメージするシーンからその他大勢が掃け、彼がひとり立ち尽くし、地下迷路に関心を持ち、中に入るまでの回想をモノローグする場面は、何も説明せずして無言で地下の階段を下りてく方がミステリアスなような気がしましたし、どうして地下迷路に彼が来たのか。は浮浪者が彼に教えてあげるべきことだったように思います。
また、浮浪者は彼のその後の人生をすべて熟知していますから、『私は何でも知っていること』 『君の未来が見えること』を彼に知らしめ、それを知った彼は、浮浪者は狂人か胡散臭い占い師なんかなんじゃないかと不審を抱きながらも自分の未来に関心を寄せる…。
するとこの地下室にいるべき人物は、彼と浮浪者で、後に彼の妻となる女性は、浮浪者と彼の合意の元で(運命的に)あらわれる方がナチュラルですし、最後のシーンは、人生に絶望していた浮浪者が若かりし頃の彼女の姿を見て生きる希望を取り戻し、浮浪者と彼女が脱出して彼が地下室に幽閉されることの方が不条理なように思えてくるのでした。

再び、雑踏を人びとが行きかう都会的なイメージの場面の後に、映画館で鑑賞している人びとのワンシーンが挿入され、先ほどのベンチが今度は映画館でのワンシーンとして使われ、役者が観客に背を向けて何も映っていないスクリーンを見ているのに場内から笑いが零れている音響が不思議さを醸しだして…。

つづいて2作品目、BLACK BOXはある晩公園を散歩していた普通のOLが公園のベンチに置いてある箱を偶然見つけ、それに触れたら世界の、人類の運命を決めることになってしまった、ある晩の夢のお話。

夢の中が現実で、現実が夢のようだ。という感覚が、当パンで言うところの芥川龍之介的な世界観を意識した部分だとおもうのですが、この作品のなかでの夢と現実はその感覚とは少し違っていて、夢はお金が自分のもとにたくさんあること。でも現実は使えない部下とヒドイ上司の板挟みになってる結婚適齢期を過ぎた女性というだけで、大事なモノはお金。と主張していた普通のOLがどうして世界平和を願うまでに発展していったのか、人類の運命を決めるという重要な選択の必然性がなぜこの箱に隠されているのか、わかりませんでした。が、登場するキャラクターは面白かったので、コメディとしては楽しめました。
モグラの性態

モグラの性態

ぬいぐるみハンター

参宮橋TRANCE MISSION(東京都)

2010/03/25 (木) ~ 2010/03/31 (水)公演終了

満足度★★★★★

近年稀にみるセイシュン超大作!
ガラスのハートを持ってる非モテ男子にとって、気になるあの子に相手にしてもらえないことは首つりするよりツライ。屈辱的ですらある。
愛をクダサイ。とは死んでも言わない。女なんかいらない。ならまぁいいか!?
妄想力の肥大化とコンプレックスと女子への恨みと羨望の眼差しなんかに翻弄されながら日々、玉砕しているDOTEIソーヤングたちが織りなすダーティーワード満載、シュールでナンセンスなギャグに抱腹絶倒の暴走劇。 
あぁ、セイシュンがこんなにも情けなくて汚くて救いようがなかったなんて!

ネタバレBOX

客入れ時から役者が舞台にいてぐだぐだ何かやってますね。
(といっても、爆音で音楽かけながら4人でつるんでるだけなのですが。ブランキーとか嘘つきバービーとかオナマシとか流れているのでPUNK ROCKがお好きな方は早く行かれた方が楽しめそうです。)

舞台装置がすごい!色んな意味ですごい!!グラビアアイドルやヌードモデルたちのスクラップがテキトーに壁一面に貼られていて、スプレーで落書きされていたり、鼻毛書かれてるグラビアアイドルがいたりして、カオスちっく。
上手側にはソファーが3脚あって、下手側は廃置き場みたいな感じ。
席は上手側の方が観やすいとおもいます。(下手側に座っても見えないことはないです。)

ストーリーは『つけると快感が得られるコン●ーム』を製造・販売している会社の一社員がひょんなことから世界中に蔓延させてしまった新型HIVウィルスのワクチンを開発するまでのエピソードと、このコン●ームを使って公然と援助交際が行われている高校生たちの日常にウィルスが広まっていくエピソードが交錯し、最後はへたれでDOTEIソーヤングな男子たちの愛で世界を救ってしまう、なんだかちょっぴりいい話。

地下室みたいな硬質な場所で公演しているためか、全体的にざわついた、がしゃがしゃしている感じの舞台で銀杏BOYZやゆらゆら帝国の曲がとてもよく合っていて、世界観を惹き立てていました。
『グレープフルーツちょうだい。』なんてセリフもあったりするのがちょっと粋。

世界中に新型HIVウィルスが蔓延する設定は、レオス・カラックスの映画、『汚れた血』を想起しました。(カラックスの方は愛のないセックスによって特殊なウィルスに感染する設定ですが。)

劇中、この新型HIVウィルスが発祥した時期や、現在の状況説明なんかを
マイク・パフォーマンスという形にしてライヴ感覚でやる演出が新鮮でした。(このまま一曲歌っちゃったりしないのかな。と期待してしまったり。)

ギャグは個人的にはグッとくるものが多くガブリエルのI was gay、ターミネーター、暴れん坊将軍、H2Oの想い出がいっぱい・・・などたくさん笑わせてもらいましたが、タイトルにもなっているモグラと人間の接点が、あまりわかりませんでした。あのモグラは、単なるギャグだったのでしょうか。謎でした。
そして、今後公演を打つ際も団体のマスコットキャラクター的な存在として着ぐるみは登場するのでしょうか。その点は少し気になります。

キャラクター造形が丁寧になされており、言い回しや特徴など誰ひとりとしてカブっていなかったのであれだけ多くの登場人物が舞台にわしゃわしゃいても混乱することなく観ることができました。

強いと言えば、主要な4人のボーイズたちの性格があっさりしているように感じました。他が強烈なキャラクターなため、バランスは取れていたのですが、
4人のうち2人くらい出払っている時に少々手持無沙汰だったような…。
性に対して真剣な彼らを打ちだす方法としてたとえばあらかじめダーティーワードが吹き込まれたテープレコーダーを再生しながらテキストを開いて練習してるような光景を描いてもいいんじゃないかなぁ、とおもいました。
【第7回杉並演劇祭参加作品】春、さようならは言わない

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江古田のガールズ

ザムザ阿佐谷(東京都)

2010/03/05 (金) ~ 2010/03/07 (日)公演終了

満足度★★★

シャンソンやるべ。
ドラッグクイーンがもの想いに耽っている風のフライヤーが気に入り、CDをジャケ買いする感覚でふらり観劇。
これはきっとハイテンションなオカマがたくさん出て来て歌ったり踊ったりするアブノーマルな作品に違いない。
そんな期待を胸いっぱいに膨らませていたが、全然違った。シャンソンやりたい純朴な高校生たちのお話で思いがけずイイものを見てしまった後ろめたささえ感じた。そしてバンドの生演奏は最高だった。

ネタバレBOX

通っている高校にシャンソン部がないことを疑問に感じていたタチバナは、3人いれば部として成立することを知り、部員確保に奔走する。
張り紙を見て来た西村に音楽は好きだけど、軽音部はコワイから嫌だという理由で入部希望のオカマの稲川、顧問に小日向先生を招き入れ、更にピアノが上手な関西弁の遠藤さんとスレンダーな桐嶋さんも加わって、シャンソン部は無事発足。
タチバナらは小日向顧問のお友達のフランス人、ドゥドゥー・徹・コマンタレブーにシャンソンのイロハを教わり校内のビッグイベント、学園祭に向けて練習にはげむなか、恋だってする…。
文化祭が終わると予定調和に時は過ぎ卒業間近、タチバナと西村が想いを寄せる桐嶋さんがフランスへ留学することを知り意気消沈するも、桐嶋さんの門出を祝う。そして一年後の春。桐嶋さんの訃報を知った元シャンソン部員たちはさようならさえもう言えない…。

似非ミュージカルと公演を打つだけあって、わたしは人生の大根役者〰♪なんて胸のうちを吐露するオリジナルソングをシャンソン風にうたいあげ、スタンバっている13人のミュージシャンが舞台を盛り上げる。
ただし、似非ミュージカルなので、シャンソン部員たちは一曲歌い終わるとそれぞれ何事もなかったかのように会話に戻るのが演劇的で愉快なのだが、ご本人さまたちはなんだかあんまり楽しそうじゃない…。苦笑
全体的に表情が薄いというか、セリフとセリフの間に微妙な間があり、キャッチーなコミカルさがあまりない。
普通ってことばがしっくりくるような、クラスのなかでもあまり目立たない、地味でピュアな生徒らを意図的に描いているため、卒業式にタチバナが「お前らちょっと変わってるけどな。」というようなセリフには少々違和感を感じてしまった。普通っぽいけどちょっと変わってる要素の共通項、シャンソンが好き、を違う角度からも掘り下げたらもっとよかったかも。たとえば、シャンソン愛が足りない部員にシャンソンの歴史や蘊蓄を叩きこむ、シャンソン蘊蓄大会をする、等々。
あと、どうしてシャンソンじゃなくちゃダメなのか。動機がちょっとあっさりしていた印象。
稲川が軽音部が怖いからシャンソン部に来たって設定は、もう少し話が膨らんでもいい気がした。(高校生くらいだとオカマをヒヤカす輩などはいないものかなという素朴な疑問。)
シャンソンの曲になぞらえて物語を構成してもいいようにおもった。

花園だん子というシャンソンディーヴァが素晴らしい歌唱力で歌いあげるところや、桐嶋さんの親御さんがやってくる場面などは非常に楽しく、前のめりになりつつ観劇した。花園だん子を演じた三軒茶屋ミワのシャンソンショーは機会があったら是非見てみたいとおもう。
なんでもねぇが、突然バーンと落ちてきた ただそこに転がる日

なんでもねぇが、突然バーンと落ちてきた ただそこに転がる日

ロ字ック

APOCシアター(東京都)

2010/03/20 (土) ~ 2010/03/22 (月)公演終了

満足度★★★★

人生は、ライク・ア・ローリング・ストーン。
とりあえず、周囲にいるひとたちに合わせて適当に笑ったり、相槌うったり、時々ジョークなんか飛ばしておけば避難される機会から逃れられることだろう。社会人たるもの顔で笑って心で泣け。的な教訓は美徳として脈々と受け継がれていると思しき今日において、そのようになれない者はおはじきみたいにはじかれて組織の枠からいとも簡単にあぶれてしまう。
普通に暮らす。って、まともになる。ってどういうことなのさ。とつくづくおもう。
この物語の主人公は、苦虫を噛むように押しだまって黙々と何でもない毎日を消化していく忍耐があるだけの、しかし曜日感覚が欠落してしまった類の若者で、周囲は彼の気持ちなどお構いなしに好き勝手にやりたい放題、身も蓋もないオチも微妙でくだらないジョークがマシンガンのようにぶっ飛んでくる。両者のテンションの温度差がものすごい。
相手の立場になって物事を考える、という人間の初歩的なことがすっかり抜け落ちていて感心する。惨たらしいテロリズムだった!

ネタバレBOX

あ、逃げるなら今のうちですよ。だってコレはテロだもの。
なんてオープニングからはじまっちゃうストーリー。

サトウは木造オンボロアパートに暮らしている、NO FUTUREな若者。
先日一年ちょい勤めていたリフォーム会社をクビになり、今はおっかさんからの仕送り(フロム青森)が主な収入源。仕事を探すつもりも、理不尽な社会に中指を突き立て反抗する気合いも全然なくて、コンビニ弁当食ったりいいとも見たりしながら悠々自適(?)なニート生活を送っていたが、ある日の昼時、大家からサトウの住むアパートを近々取り壊すことを聞かされた。
最悪な気分に浸る間もなく腹を空かせた全身真っ赤に着飾ったナゾの女がどこからともなくやってきて勝手に宅配ピザを注文するわ、ハレルヤ灯とかいう万人の幸福を願うために布教活動を行っているらしい新興宗教団体が押しかけてくるわ、NHKがLOVE過ぎる集金オッサンはやって来るわ、ピザ屋のバイトくんからは金貸せ!だなんて軽く恐喝まがいなことまでされるわでサトウの小部屋はたちまち小さな戦場に。

カミからのSEX or DIE!のお告げのあったらしいハレルヤ灯の一員の女は、ピザ屋のバイトを誘惑しちゃってせっせとやりまくり、NHKがLOVEすぎる集金オッサンはドレミファれっしゃ(おかあさんといっしょのエンディングテーマ)を全力で踊りまくり、ナゾの女はトイレに立てこもり、挙げ句、サトウが敬愛しているマイケルさんスリラー踊るわ、イナバ物置のオッサン出てくるわのそのどろっとしたエネルギー量の大きさに「すげぇ…」と呟いていたほど。

で、好き勝手し放題な奴らの行いのどこかにサトウも参加できればよかったのだが…、あいにくどこにも馴染めなかったサトウは、ハブられたような孤独感に部屋がめちゃくちゃに荒らされていくフラストレーションが相乗効果となったのか、包丁をぶんぶん振り回してしまい、それをきっかけにして奇妙なパーティーはお開きとなる…。苦笑

帰り際、NHKがLOVEすぎる集金オッサンは「受信料は払えよ。義務なんだから。」なんてサトウの肩をポンと叩いて会社に戻り、全身真っ赤のよくわからない女はサトウに会って一番最初に聞いた質問、「私が不幸な女か惨めな女かどっちだとおもう?」なんて、どちらにしたってサトウにはさして問題のないことをもう一度問いただし、その上理不尽の反対って何なのさ。って問いを投げかけ去っていく。
サトウの住むボロアパートの目の前の道路を、輝かしい未来約束します。そんな理想を訴え選挙カーを走らせるどっかの政党もサトウにとって何も意味のないことだった。


物語の冒頭とラストで流れるゴダイゴのガンダーラがサトウの、雲を掴むようなぼんやりとした日常をなぞらえる唄として用られている。そういえばゴダイゴの由来は、GO DIE GOで、ガンダーラは三途の川を超えた者を想い、そちちの世界でお世話になるまで死を夢想するうた、であるはずだった。

謎の女の言葉を借りれるならこの”ハイパー暗い唄”にサトウが何となく聴いてしまうまでの、心の揺れのようなものがもう少しあってもいいようにおもった。サトウなら自殺未遂くらいはしそうだな、うっかり薬にだって手を出しちゃいそうだな。っていうのがその理由。

ハレルヤ灯と国主党の言ってることって基本的に同じだったので、ここは是非ひとつにまとめて、宗教×政治でメタ化して頂いてもよかった気がするのだけど、どうなのだろう。謎の赤い女と大家さんの言い回し(誰かのものまねをする時)が同じだったのもちょっと気になった。

個人的なザ・ベスト・オブ・アクトは、ハレルヤTシャツの上からブラジャーつけて恍惚とした表情で官能的(?)なダンスを踊りまくった水色Tシャツ宗教女さん。(あぁいうはっちゃけ方、めちゃくちゃ好き!)

自分の座った位置からTV画面の右上に小さく”ぶっ生きかえす!”とか張ってあったり、青森LOVEなのに何で壁画は富士山なの?と軽く心のなかで突っ込めるような配慮が随所になされていて好感持ちました。

あと、非売品のティッシュもらいました。ありがとうございました。家宝にします。笑
おばあちゃん家のニワオハカ

おばあちゃん家のニワオハカ

鳥公園

市田邸(東京都)

2010/03/17 (水) ~ 2010/03/23 (火)公演終了

満足度★★★★

イロトリドリの。
自分たちの親は将来、誰が面倒をみるのか。という素朴な疑問は兄弟姉妹間で綿密に話し合われなくとも生まれた境遇や立場で何となくわかっているものだとおもう。すべての困難を優しさでカヴァーできでれば何ら問題はないかもしれないけれど、なかなかそうはいかないのが実情かもしれない。
老いという自然の摂理に伴う現象を、受け入れざるを得ない現実に対する繊細な心情のズレやわだかまり…そのどうしようもない気持ちを掬いあげ、伝わる言葉にすること、行動することの難しさ。時には相手を深くおもう優しさの、ほんの些細な言葉のニュアンスから大きくすれ違ってしまうことも…。
介護の理想と現実、人の重みが静かに大きく横たわるかのような質感のなか、夢でもいいから逢いたい。そんなファンタスティックで痛切な想いがここ、とそこ。を繋ぎとめて、あの頃を取り戻すかのように色とりどりに満たされたおとぎの世界で遊んでいたら、いつしかここ。が、そこ。になって、そこ。があそこ。になってまたここ。に戻っていたりして、まるで終わりのないかくれんぼをしているような不思議な感覚で、わくわくした。帰り際、おじゃましました!と思わず言いたくなりました。

ネタバレBOX

門をくぐって玄関で靴を脱いで客人としてお家に通されて、座布団の上に正座をしながら所在なさげにしていたところに家主の声が聞こえたとおもったら、たちまち、あれやこれやとはじまるものだから、どうしたって目が離せなくなってしまいます。

主な登場人物は3人。
しっかりもののお姉ちゃん、マイペースな妹、そしておばあちゃん。

物語は、おばあちゃんが旅立った日の回想と姉妹の現在を主軸に夢のなかで姉妹が出会うおばあちゃんと、おばあちゃんの子どもの頃の記憶や妄想が挿入されます。
(庭と居間を用いて上手に表現されているため混乱はしません。)

おばあちゃんの介護をしていたのはお姉ちゃんで、妹はおばあちゃんの葬式の時にすら家に帰ってこなかった。

ある日、突然帰ってきた妹が夢の中におばあちゃんに出会い、
そこでお姉ちゃんも知らない真実を知り、ある頼まれ事をされる。
それを知ったお姉ちゃんと妹のやりとりと、その後に映し出されるおばあちゃんの気持ち。のくだりが秀逸で、誰が悪いわけではないけれど、
お姉ちゃんの言ったほんの些細なひとことをきっかけに関係性が大きく変わってしまうような、そんなシーンでした。

まさか黒柳徹子が登場するとは思わなかったので、かなり驚きました。
(これはおばあちゃんの、素敵な妄想だったのでしょうか。)
徹子さんのモノマネの完成度もすばらしく、楽しかったのですが、
エピソードとしては少し散漫だったような・・・。
おばあちゃんとお母さんを描くシーンがもう少しあってもいいようにおもいました。

おばあちゃんが学校に通っていた頃のくだりでは望まれない子供はどうしたらいいものか。質問する森さんに回答する先生のとまどい…。
生命を象徴するたまごの使い方も効果的でした。

ラストの色あざやかな儀式には、前向きな希望を感じました。
わたしたちは無傷な別人であるのか?

わたしたちは無傷な別人であるのか?

チェルフィッチュ

横浜美術館レクチャーホール(神奈川県)

2010/03/01 (月) ~ 2010/03/10 (水)公演終了

満足度★★★★★

○、△、□などで語る。
チェルフィッチュを見たのは今回が二度目。一度目は約5年前。「目的地」という今回同様、横浜を舞台にした話だった。その時はキャラクターがそれぞれ持つ身体的なクセ ― たとえば鼻をすすったり片手をプラプラさせたりする動作をエンドレスに続けながらぐだぐだの若者言葉を発話するスタイルに衝撃を受け、アウェーを感じ、戸惑いながらの観劇だったが身体的な面白さが少々目立ち過ぎてるように思えてしまったのも事実。今回、かつて抱いた印象は瞬く間に覆された。ある人の性格や特徴をフィードバックした動きをする点において変わりはないものの、発露の仕方が以前観た時よりずっとタイトに抽象化されていて、一語一句確かめるようにゆっくりしゃべる俳優の言葉やセルフポートレート的な身体を手掛かりに観客が各々、頭のなかで物語の背景や情感を肉づけしていく。それは○とだけ書かれた白紙に線を引いたり、色を塗ったり、△や□に変えてみたり、時には動かしてみたりするのを好き勝手にひとり遊びをしているよう。
描いたイメージは人によって異なるけれども、元を正せば同一であるため何かしら、幾何学的な形を保持したままであの人やこの場所が変化していくチェルフィッチュ独自の語りからは”私”の存在の危うさのようなものや直接触れ合っていなくとも”私たち”が反発しながら社会や時代という目には見えない枠組みで繋がり合っている共同体のようなイメージを抱いた。
物語は幸福な者と幸福の外側にいる者を淡々と描写する。彼らを幸福と不幸に分けたのは何か。その説明は特にない。両者は己の立ち位置を自覚し、反芻してこそ生きることを可能にする故。

ネタバレBOX

舞台装置はまぁるい壁時計がひとつ。あとは何もない。
同じ物を見ているのに、印象が全く違ってくることを共有されないことだ。と仮定するとこのリアルに時間を刻む壁時計と舞台で行われている時間とは時を刻むこと、時間が経過することについては同等だけれど両者は、同質の時間をタイムリーに刻むことはない。この決して交わらない時刻を追い続けていく作業は、何千年の時を経ても一向に分かり合えない人間同士がすれ違い続けてる感覚に似ているような気がするけれど、単なる思い過ごしであって欲しいと願う。願っているのに、男のひとがいます。そのひとはとても幸せなひとです。男のひとは海沿いの道端にたっています。500mlのビールを片手に、です。ビールを持っているから幸せなのでしょうか。なんてどうしようもなくツマラナイ問いかけからこの話ははじまるから私たちはそんな初歩的なことから始めなくてはならないほど愚かしい存在なのか、とわからなくなる。

話自体は非常にシンプルで、幸せであるらしいこの男のひとと素敵な奥さん ― 大手三社の夢のコラボレーションによって実現された都会を一望できる海沿いの、ゴージャスなタワーレジデンスに胸を時めかせるだけでなくてその34階のフロアーの一室にこの春入居が決まっている”私たち”の2009年8月29日の土曜日と、30日の朝を中心に描く。

ある日。素敵な奥さまサワダさんは今度の土日のどちらか、できれば次の日に食器を片づけたりできるから土曜日に勤め先の同僚のミズキちゃんを自宅に招きお食事をしたいと考えているけど、夫は土曜でもいいけどもし日曜日だったらみんなでTVを見ようよ、衆院選の開票速報があるから。なんてとりとめのないことを言っていたり。

土曜日。くるみ板のフローリングにワックス掛けを終えた後、アームチェアが枕のように大きく設計された皮張りの快適なソファに横になる妻のもとへひとりの男がやってくる。素足で清潔感がなくひどい身なりをしている乞食のようなその男は、私は金銭的に困り幸せの嵩がほんの少ししかないがお金を欲しいとも足りない幸せの嵩を均したいともおもっておらず私はただ、私が不幸せであることをあなたがよく理解するまであなたのすぐ傍で語り続けると言う。脳内に不法侵入してきた観念的なこの男に対して妻は「幸せは決して特別なことではなくて誰でもほんの些細なことで得られる気持ちなのよ。」
と諭してたところでそれは途方もない徒労に終わる。

数分後、間もなく完成予定のタワーレジデンスの視察を終え、バスに揺られてマンションの7階の部屋に帰宅した夫は妻に帰り際のバス停で自分の隣にいた携帯の液晶画面を見ながらヘッドフォンで音楽を聴いている若い男に対し、無性に腹が立ったと話す。無論、男が顔をチラチラ見たり、笑っていたワケでもないのだが、そういう男が生理的に嫌いでいっそのこと殴ってしまおうかとすらおもった。と。

同じ頃、夫妻の家に招かれたミズキちゃんは、駅ビルの輸入食品店でチーズとワインを選んでいた。チーズはクセの少ないもの、ワインは1本で2本分くらいの値段のものをセレクトし、夫妻の家へ向かう電車の中に取り付けられた液晶モニター画面を眺めていると、以前この画面で見たあるニュースを思い出す。それは無差別大量殺人事件。同じような事件は珍しくはないものの、その事件の記憶が強烈に思い出されるのは犯人とミズキちゃんとが同じ歳であったから。

夫妻の住むマンションに面する公園に、ブランコに乗りゆれの大きさを競っているふたりのスカートを履いているプール帰りの小学生の女の子をベンチに腰かけ菓子パンを喰らいながら怪しい目つきで眺める若い男がいる。彼女は彼と私とは同じくらいの歳なのではないかしら、とぼんやり思う。男がベンチから立ち上がったのでミズキちゃんは公園の様子を見るのをやめて夫妻の部屋へ向かう。

夜。私は幸せだけど、私がずっと幸せでいていい理由がわからない。と言って瞼を腫らす妻にそれは僕にもわからないことだけど、幸せなひとがひとりでも多くこの世の中にいることはイイ事なんだよ。と諭す夫。やがてふたりは快適な部屋の中で幸福な性行為に堕ち、朝が来ればパンを買いにいくついでに選挙の投票に行く。その様子を幸せの外側にいる男が寝そべりながらじっと見つめて・・・。

これがこの話のおおよそあった出来事で、こんな風に書いてしまうと特別なことはまるでない普通の話なのかな。なんて思ったりもしてしまうけど、この普通さって劇的でない日常にすごく似ていて、そんな日々が漠然と続いていく不安や、猛烈な嫌悪感に特別でない私たちは日々、毒されているようなもんだからどうしたって身体から抜けていかない。たとえ太陽に背を向けていたとしても現実の厳しさに苛まれ、もがいている人たちは確かにいて、その様子を上空から見下ろすようにそびえ立つ幸福と裕福、権力なんかを象徴するタワーレジデンスはまるで、バベルの塔みたいだな、っておもった。 いつか崩壊するなんて夢にもおもわないで絵に描いたような幸せがそこにあると信じて、多くの人々が地を掛けずりまわる。勝者はほんの一握り。その絶対数はきっと多分あらかじめ決められていて、努力で何とかなる場合もあるし、天性ってこともある。てっぺんを目指したけど、ダメだったひとや、そもそもそんな資格や覚悟すら持ち合わせてないひと、てっぺんにいたけど、明日喰う種に困るまでに落ちぶれてしまったひとなんかもいるかもしれない。 相容れないことを胸に留めながらも無関心で無傷で居続ける”私たち”が繋がるのは、犯罪という恐ろしい二文字でヘッドフォンの音漏れに苛立つ夫が生身の人間を本気で殴る日かもしれないし、ミズキちゃんがサワダ夫妻の住んでるマンションに隣接する公園で目撃した若い男の怪しい視線からは、生まれながらにして幸福な子供たちに制裁を。とばかりに歪んだ正義を振りかざすテロリストのような風貌が漂っていてこれから夫婦の間に生まれる子供が将来、何かしら事件に巻き込まれる危険性を孕んでいるのではないか、という悪い予感はあのアキハバラ事件を思わせる吐き気がするほど凄惨な血なまぐさい事件現場の映像が犯罪の例題として、頭のなかに飛び込んでくるかのよう。加害者は、いつしか無罪な人びとに対して『申し訳ないと思っている。』と上っ面の謝罪文を発表し、しかし自分が神のような絶対的で透明な存在であると妄信するかもしれないし事件の被害者になることによって、無関心であった”私たち”がようやく分かち合える。なんて傲慢を平気で口にするかもしれない。そんな社会をチェンジ!できるやもしれない衆議院総選挙にパンを買いにいくついでに選挙に行くというアクションが一般庶民の普通っぽい感覚でラストでの、快適な部屋で性行為ができるのは幸せなひとたちだけです。だなんて恐ろしい皮肉がキラリと光るからだろうか。広がる幸福の格差への支払う代償は大きいと知りながら無関心を装いつづけていく私という認証さえ不確かな”私たち”は今日も相対的な歪みのなかから解き放たれない。
僕たちの失敗~もう誰も信じない…~

僕たちの失敗~もう誰も信じない…~

ラブリーヨーヨー

駅前劇場(東京都)

2010/03/11 (木) ~ 2010/03/14 (日)公演終了

満足度★★★★

真剣におバカする律義さと誠実さ。
ひとくせもふたくせもある非現実的で常識を逸脱している妙ちきりんな人びとのドタバタ強盗珍喜劇。
フライヤーには本格お茶の間サスペンス!とありますが、実際には難しいことなど何も考えずに楽しめる単純明快なコメディ色の強いお話で、テレビドラマの2時間モノのサスペンステレビドラマにあるような凄惨な流血シーンなどもないので、どなたでも安心して楽しめます。
笑いのツボってどうしても人それぞれなのですが、こちらの方々は笑いをとることに対して戸惑いがないように思えたので観ていて非常に清々しかったです。奇をてらったキャラクターが登場するだけでなく、それぞれの思惑が錯綜するエピソードが連なって、精神的にも肉体的にも追いつめられた極限状態にうっかり出ちゃう人間の業も妙でいざという時助けてくれなさそうな知人の顔が脳裏を掠めました。
次回は是非、イヤホン解説にトライしてアナザーワールドに触れてみたいです。

ネタバレBOX

ATM、カウンター、保険&貯金のプレートなど本物と見間違えるほど現実感たっぷりにつくられたどこか、地方の郵便局内が舞台。導入部や暗転時の度に用いられるカントリーロック調の曲がやたらノスタルジックで・・・。

10日前、トオル先輩に銀行強盗しようぜ、と誘われたひろしは犯行当日、開店10分前の郵便局内で待ち合わせる。お互い顔がバレないように工夫しよう。って話していたにも関わらずトオル先輩は何を思ったかキャッツ・アイ風の黒いレオタードに劇団四季ミュージカル、CATS風メイクで登場。ひろしは覆面マスクを用意しているのはいいものの家にある一番怖いモノを持ってきた、との事から鎖鎌をチョイス。これにはトオル先輩も驚きを隠せず「ドラクエ以外ではじめて見た。」と言われる始末。更にトオル先輩は郵便局に来るっていうので「一万円当たりますように!」なんてポストに懸賞はがきを出して願掛けし、ついでに携帯電話からTwitterに「はがき出したなう。」「ひろしと一緒なう。」なんてつぶやいちゃう。(ココ、後ろのプロジェクターにTwitterの画面出してやってもよかったんじゃないかな、なんて思った。)

そうこうしているうちに郵便局は昨日と変わらない今日をはじめ、今日と変わらない明日が続いていく・・・。そんな風にコピ&ぺーストされた日々の素晴らしさを噛みしめながら仕事は至ってテキトーにこなすのがモットー。しかし今日は月末。この世に月末なんかなけりゃいいのに。チッなんて舌打ちする飯田局長は新人・宮田に自分の仕事を押しつけるけどアイドル的存在のゆかにはちゃん付けで呼び猫なで声を使う編愛上司。今日はアフター5に宮田の歓迎会を行う予定があるが、宮田は飯田局長を心底嫌っているため、テキトーな理由を作って断り、宮田抜きで宮田の歓迎会を飯田局長の家で行うことに。田所局長は宮田のことなんか本当はドーでもよくて、とにかくゆかと一緒に居られることが嬉しくてたまらない。というこのシチュエーション。車、出そうか?と普通に言えばいいものを車という単語を必ずや”俺のシルビア”と変換する飯田局長のウザさなんか特に。コレあるある、としみじみしていたところでひろしとトオル先輩の出番。
トオル先輩は持参したスーパーマーケットのレジ袋にありったけ金を詰めるよう要求。トオル先輩の身なりにドン引きする郵便局員に
「自由って怖いだろ!」との神発言も飛び出し、ここまではよかった。が、次の瞬間ピストルを持った金髪男が登場し、ひろしとトオル先輩はあっけなく被害者に降格。郵便局員同様、囚われ人となってしまったひろしとトオル先輩らは一致団結して郵便局内からの脱出を試みる。
ここでごにょごにょとしたヒソヒソ話から、マイクを持ったライヴに変わり、トオル先輩はその長い爪先を空に振りかざした背後には満月が浮かびあがり、ゆかは金髪男の気を惹くために縄跳びをする演出が最高!

しかし、程なくして宮田が警察に連絡したことがバレてしまい、全員携帯電話をぶっ壊される羽目に。

そんな折、奇跡は起きる。腹を空かせた犯人は、「好物スペース犯人でググれ!」と警察に出前を要求したのだった。ひょっとして、出前を装った警察官が現場へやってきて助けてくれるのでは?と一同は踏み、喜びもしたがやってきたのはラーメン屋のジジイ、小川さん。この小川さんがいい味出してて、ラーメン持ってきたのはいいけど、汁を空で切るわ、長ネギ、大根は切らずにありのままの姿で持ってくるわ、5センチづつしか前進出来ないときてる愛すべきジジイ。で、田所局長は「汁だけでも大丈夫な子だから!」なんて言って床に零れた汁の恩恵を受けようと這いずりまわる…笑。

呆れた金髪男は、ひとりづつ解放すると宣言。そこで真っ先に立候補したのは田所局長。理由は明日までにエロDVDを返却しないといけないから。部下の安否などものともせずに自分のことばかりを考える、どこまでもゲスな上司である。

一方、ひろしは宮田に立候補するように促す。それは、ひろしと宮田は実は中学校の同級生で、しかもひろしの初恋は宮田。東京で夢破れて郵便局に就職した宮田は実は男で、ひろしは自分の思い出のなかで宮田は女でいて欲しい。との想いからだったのだが、この宮田が実は男というエピソードはちょっと蛇足に思えてしまった。初恋のひと、もいいけれどひろしの兄弟が東京の郵便局に勤めていたが左遷されてこの郵便局に転勤してきて偶然鉢合わせしまった、などという風にしてもよかった気がします。

やがて金髪男は宣言通り、最初は宮田、その次に田所局長、トオル先輩&ひろしを解放し、ゆかだけ残るが、車に乗ってどこまでも走り去れ、と金髪男から指示された通りにする。・・・というエンディングまでは全て、大学を出たクレバーなゆかの考えた茶番劇で金髪男はゆかの言うとおりに動いてただけ。
ゆかは不要になった金髪男の頭を拳銃で撃ち抜いて、自殺に見せかける。

翌日。田所局長は昨日の強盗事件で誰ひとりとして負傷しなかったことを本部で褒められたことを自慢気に宮田に話す。ほんとは自分の命が助かることしか頭になかったくせに!と誰もが思ったところで涼しい顔してゆかが出社。
昨日あんな事件があったために集配所まで持っていけなかったゆうパックを集配所まで持っていこうとした矢先、やたら重い荷物が。その差出人はゆかで、宛先は実家だった。なかに入ってるのは郵便局の金。ゆかは田所局長に「明日、お母さんが誕生日なんですぅ」なんて言い、そのままスルーで荷物は運ばれ、ゆかのうすら笑いで幕を閉じる。

現実的にはこんなことは絶対にあり得ないし何せ、盗んだ金って使っても番号でバレてしまうし足がつくのも時間の問題でしょうが、「正義が勝つのではなく勝った者が正義」と詠うフライヤーのマンガでのセリフがゆかの行いとリンクしていてお見事でした。
又、終演後に行われた多田岳雄さんの引退セレモニーは、過去12年間の多田さんのステージに立っている姿のスライドショーに多田さんからのご挨拶、メンバー3人がそれぞれ長淵剛、SPEED、金八先生に扮して旅立ちをテーマにした歌をうたったのですが、なんだかもうそれだけでドラマがあってそのなかに全ての想いが込められているような気がして、じーんときました。
X星団の四囚

X星団の四囚

劇団上田

シアター711(東京都)

2010/03/04 (木) ~ 2010/03/08 (月)公演終了

満足度★★★

遊星からの物体X4
紆余曲折の末、2年振りの本公演。下北沢初進出を果たした劇団上田の今作は4つの星と4人の囚われ人のSFチックなオムニバスコメディ作品。
黒タイツに白シャツ、黒サングラスというお馴染みの恰好に「劇団上田プレゼンツ」からはじまるあのショートコントは健在。久しぶりに上田の雄姿を拝見し微笑ましい気持ちになった。

ネタバレBOX

茶の間と宇宙空間を舞台にした4つのお話。

①姉・星野 聖子はある日「私は宇宙へ行くわ。」と弟に宣言。
姉の行った宇宙空間には珍妙な人びとがおり、そこではケンタウルス・けん太郎という役をこれから演じる役者が、かつて同役を演じた初代、4代目、9代目から演じることへの心得やアドバイスを伝授されていた。

②X星団子をつくっている団子屋(茶の間)が舞台。
父は息子に団子屋を継がせたいと思っているが、息子はその気がなくバイトで雇っている男は自分が後継ぎになることを狙い、息子に毒入り団子を喰わせようとするが誤って自分で喰らってしまうトホホな話。要所要所で流れる団子3兄弟のうたが効果的だった。

③任務を終えた惑星調査隊、X星団がコントをはじめる。
ここで既存の名前のイントネーションや区切り方を変えるだけのショートコント、「劇団上田プレゼンツ○○」シリーズが登場。赤坂見附、ジョージ・ルーカス、大手町など、懐かしいネタもお目見えしその時会場は爆笑の渦に包まれ、ひとつとなった!

④X星団の四囚を書こうとしているがなかなか書くことが出来ずにいる作家。そこにXという名の怪物がやってきて宇宙の規律を乱そうとするが、正義のヒーローが現れて事なきを得る。このヒーローがいつしか商店街に現れて団子屋の親父やケンタウルスけん太郎などと接触し、明日に向かって走っていく。
・・・というそんなお話。

本編がはじまる前に、③の惑星調査隊が登場し予告編が4、5分程度上演されたのだが、これが画期的でかなり笑えた。なぜなら映画館では予告編があるのが一般的だが、演劇ではこのようなことはそうそうないから。しかも、予告編を上演した後に一旦場内が明るくなり、「もうすぐ開演いたします。今しばらくおまちください。」とのアナウンス。
これには一緒に行った友人と思わず顔を見合わせて笑ってしまった。
矢張り、劇団上田の真骨頂はこのような茶目っ気のある演出力や予告編で観たようなコント力だとおもった。だからこそ、当パンに挨拶文や、登場したキャラクター名が書いていなかったこと、笑い所はあるけれど、全体を通して何を言いたいのか(あるいは言いたいとこは特になかったのか)がイマイチ伝わってこなかったのがちょっと惜しい。物語の構成についても③の惑星調査隊を主軸に置いて、彼らから観た世界というような設定にした方が上田の魅力がもっと惹き出されたようにおもう。

『上田展』のような、身体の柔軟性を生かしたコントや、切れ味のあるショートコントのみで行われる公演をまた観たくなった。
家族の証明∴(公演終了!次回は10月シアタートラムにて!)

家族の証明∴(公演終了!次回は10月シアタートラムにて!)

冨士山アネット

池袋小劇場(東京都)

2010/03/01 (月) ~ 2010/03/04 (木)公演終了

満足度★★★★

スタイリッシュなホームドラマ
ひとつ屋根の下に暮らす幸せそうな家族の行動パターンによって生まれる協調性や感覚のズレから家族の在り方、家族間における適切な距離感を推測する作風。劇中、発話はほとんどなく登場人物たちはほぼ無に近い表情である意味、写実的。はじめは少々戸惑ったものの、フーコンファミリーの如く、そこにいる登場人物たちが言いそうなことをせっせと脳内でアテレコをする。慣れてくると物語の背景がだんだん浮かびあがる。
すると今度は立場、境遇、態度、心情等が生かされている各々の複雑な動作には、すべて意味のある行いであることが分かってくる。
役者の身体はまるでトビウオのように瑞々しく躍動し、非常にエキサイティング。楽曲、衣装のセレクトも抜群で映像の使い方も素晴らしく、驚きの連続でした。

ネタバレBOX

冒頭で視線を交わす夫婦にはこれから更に幸せが訪れる気配がある。
舞台の奥に立ちつくす3つの人影は愛の結晶。もうすぐ妻のお腹から生まれ出る胎児。父と母が交互に抱きかかえ、手塩をかけた子供たちはダイニングチェアーにふわり着席した途端、あっという間に大人(青年期)になる。時の経過を一瞬にして描写するこのシーンが幻想的でとても秀逸。

家族が囲むダイニングテーブルに浮かび上がる家族写真。
ゆっくりと壊れていく幸せだったあの頃の幻影。
解いても解いても次から次へと飛び込んでくる終わりのない数式問題。

兄弟は悪びれる様子もなく爆音でロックミュージックを垂れ流して踊り狂い、お気に入りの洋服一着を取りあう兄と姉に遠慮の二文字はない。

長い間暮らしを共にする家族の、身体の奥にまで染みついた行動パターンが嫌悪感に拍車を掛ける。たとえばそれはテレビ画面のまん前で新聞を広げて読む父、朝支度で洗面台を使う兄弟3人が自己中心的で譲り合おうとしないこと。

ある時、反抗期の弟(僕)は家出。これまでバラバラだった家族たちは弟を捜索することで家族の絆を確かめる。
そんな折、今度は偶然目にしたレントゲン写真で、兄弟たちは母の身体が悪いことを知る…。
息をつく間もなく立て続けに起こるこの2つのアクシデントは情報量が多く、弟(僕)と母、どちらに主軸を置いて観たら置いたらいいのか迷ったのと、
身体の具合が悪いのは父だったのか母だったのかイマイチよくわからなかった。母はタバコを吸っているところを姉に注意されていて、父と息子は家出をもう二度としないことを約束させられていて、母とも二度と暴力を振わないこと、宿題をちゃんとやる約束を交していて、レントゲン写真をみた両親は二人ともうな垂れていたから。その点だけ、モヤモヤ感が残る。
もしかしたら、断片的な言葉、たとえば母さんとか父さんとか一音だけ用いたら親の心子知らずだった”僕”の成長に効果的かもしれません。

ラストでの、観客に背を向けて食卓を囲む家族の背後、ホワイトボードのランプが3つになった時には家族のもつ温かさ、言い知れぬ静謐さを感じた。それがアンサーなのかな、とも。
決して特別でないよくありがちな家族の日常風景を生活感たっぷりに描きながらも、人工的で無機質な雰囲気なのがかなり斬新で、全体的に動の中、バラバラの家族が食卓につく時だけ不穏な静寂が流れる物語の強弱、弟(僕)が自室でエロ本を読んでいるくだりの映像と演出方法、母の誕生日をお祝いしようとサプライズを用意するシーン描写などもかなり痺れました。
「肉 the 光速華撃団~肉汁&男汁~」「黒豆☆弾肉」

「肉 the 光速華撃団~肉汁&男汁~」「黒豆☆弾肉」

男肉 du Soleil

こまばアゴラ劇場(東京都)

2010/03/02 (火) ~ 2010/03/04 (木)公演終了

満足度★★★★

宣伝文句に偽りなし。
各方面で波紋を呼んでいる大阪の劇団、男肉 du Soleilが只今アゴラ劇場に上陸中。当方は黒豆☆弾肉(チョコレート☆ディスコ)を観劇。
破廉恥で痛々しい妄想、肉肉しいダンス、スポ根系青春コントが中心の男肉的センチメンタル・ディープジャーニー。
必要なのは、楽しむ覚悟。笑って許せる心もあったら最高。
宣伝文句に偽りなし。宇宙的カオスシアター。気になるあの子とレッツ・エンジョイ!

ネタバレBOX

客入れ時より男肉 du Soleilオールスターズ&女肉3人衆がHIPHOPやらパンクロックやらを歌っている。そのすべてがオリジナルソングで、何とも小気味よい。楽曲の完成度も高く、軽くカルチャーショックを受ける。
もしや本編もこのまま音楽ライヴ的な流れでいくのかと思ったが、暗転を挟み始まったのは、ショートコント。
ある日、ある時、ある場所で子供らが知ってしまった秘密。それは父・団長が何とはなしに言い放ったひとことであった・・・。
オマエらは行きずり黒人女との間に孕ませた子供なのだからな。
そんな衝撃的事実を突きつけられた子供らはこの惑星圏内にいるかもしれないママンに想いのたけをぶつけるべく渾身のダーンス。
そのなかのひとりは何を思ったか俺はドー○ーだ!と叫び、この会場内で彼女を作る!なんてドサクサに紛れて大いに意気込む。
悲しいかな。世界の中心でメールアドレスを叫んでもノーアンサー。
さえない、モテない、モテたいけど、女子とまともに会話を交わしたことがないようなひとつの男肉の叶わぬ切なる想い…。
今度は求愛ダンスで気を引こうと試みるもののびっくりする程色気というか、猥雑さがない。性を誇張しているにも関わらず、だ。
至ってスポーティーで健康的なノリなのだ。しかもバックミュージックがPurfumeのポポリズムときてる。だから、意外とノレルし不思議と楽しい。
そして楽しい気持ちが損なわれないまま怒涛のコントが続く。

最も印象的だったのは、やはり東雲高校ダンディー部。
ダンディー部とは、土の上のフィギアスケートとも言われる競技。
守る、責める、だけでなく芸術点の配分も大きいスポーツで
真剣に取り組まないと怪我をしたり気絶したりもするが、カイワレ大根を食べると大概治るという。(このノリがすごいよマサルさんのセクシーコマンドー部を彷彿とさせる)
新人編では、入部初日の新人が守るはMT、責めはダンディー(だったと思う)を教えるところから始まる。
MTは脇をしめて90度に保たないとならぬ、ダンディーは芸術点の配分が大きいので表情も忘れずに。立身編では先輩部員と対戦し技を磨き、全国大会編では全国一位になるために必殺技を放ち、ゲームオーバー。全員デスってこれにて終了・・・。なオチ。

かと思いきや、必殺技を放った本人だけは生き残り、冒頭での衝撃的な事実は嘘で本当はオマエたちは人間っぽいアンドロイドだと天使になった父・団長より知らされ舞台は何故か男肉du Soleilの卒業式へ。
ぼくたちわたしたちは演劇を卒業して、就職して社会の歯車になります!
そんな春らしいポジティブ(?)なエンディング。

実は劇中、疑問符が浮かんだり首を傾げたりすることは幾度かあった。けれども、純粋に楽しかった。芯がブレてない、というか我が道を突き進んでる感は嫌いじゃない。
最も気がかりだったのはコントのクオリティの高低差。
ダンディー部とかPurfume登場とか神々の叫びとか素晴らしい作品も多々あったのだけれど、もうちょいハイブリッド化されてもいいような作品もあった。
具体的には、フルーツバスケットと世界の車窓からゲーム。
どちらとも既存のゲームをなぞるだけでオリジナリティが少し弱いようにおもいました。

あと余談ですが、客入れ時に会場内にてG麺(焼きそば)やビールを販売していた方が柿喰う客の七味まゆ味さんだったのでビックリしました。
二人の高利貸しの21世紀

二人の高利貸しの21世紀

イキウメ

キッド・アイラック・アート・ホール(東京都)

2010/02/16 (火) ~ 2010/02/28 (日)公演終了

満足度★★★★

Aプロ(浜田さん×盛さん)みました。
チェルフィッチュの岡田利規さんが10年ほど前に執筆された戯曲、二人高利貸しの21世紀を前川知大さんが脚色し、イキウメの俳優陣が2人づつ4チームにわかれてそれぞれ演出プランを考えて発表する番外公演。
なんでも勉強会から出発した自主企画だそうで、チケットもぎりや案内係をもイキウメの俳優陣自ら行っている手作り感いっぱいの公演でした。
しかも開演前には普段滅多にお目にかかれない前座が、終演後には出演俳優から長めの挨拶があり、観客への感謝の意を表するとともに公演へのレスポンスを恐縮しながら求める姿には、演劇を通じてコミュニケーションを図りたいと願う痛切な想いが込められているようで印象深かったです。

ネタバレBOX

会場の入り口では伊勢佳世さんがひだまりのようにあたたかい素敵な笑顔で迎えてくださいました。
前座は窪田さん。盛さん、浜田さんに頼まれて引き受けたそうです。
今回の公演目的をざっくりと説明した後、一発ギャグのようなものを数回繰り返されて退場。観客を和ませるための配慮だったとは思うのですが、イキウメンの意外な一面を垣間見ました。

さて、本編ですが舞台装置は非常にシンプルです。上手にドラム缶と古タイヤ。下手にベンチ一脚のみでストーリーは、タイトルの通り。高金利で貸し付けをしているふたり、アマノくん(盛さん)とヤグチくん(浜田さん)のお話です。
借金を返せなくなったひとらの臓器を売りさばき、ようやく目標金額である一千万円に到達したのはいいけれど、勤務態度に関する相違から喧嘩になったり、かとおもえばいつの間にやら仲良しこよしになっていたり、二十一世紀になったら過去の産物になるものやら、神さまについてだとか、巻き上げた金を全部持ってトンズラしたいだのそんなとりとめのない事柄をそこら辺の適当な公園みたいなところでダラダラとお喋りをしているのを隣のベンチで寝たフリしながら薄目をあけて聞き耳たてて時折クスクス笑っているのが無性に楽しい。
そんな、すこしふしぎ(SF)なお芝居だったとおもいます。
劇的なことはもちろん何も起こりません。
そういう意味では、サミュエル・ベケットのゴドーを待ちながら。なんかに雰囲気が似ているかもしれません。

原作を読んだことがありませんので、どの程度脚色されているのかはわかりませんが、戯曲は”転機”をモチーフにしているそうです。

ことの始まりとその予兆。何が変わり、何が変わらなかったのか考えた時、一番最初に浮かんだのがふたりの会話の最中で二十一世紀が訪れたことでした。しかし時代が変わったからといって、人間の本質は揺らぎません。
げじげじむしが神さまになることも、神さまが増員されることも、ニセ札が本物になる望みも薄いでしょう。それでも信じる者は報われる説が新世紀でも濃厚で、そこにすべてを懸けてみるのなら今とは違った未来があるかもしれません。

劇中、小道具が充実していて、モーリーこと盛さんが勢いあまって被ったヘルメットがなかなか外れなくてアタフタしているのが可愛らしかったのと、イキウメの本公演ではまずあり得ないような人物設定の盛さんの怪演を観れたこと、浜田さんがあどけなさの残るふしぎな少年チックでクリストファー・ロビンにしか見えなかったことも、番外公演ならではの醍醐味でした。
おうもの

おうもの

アメウズメ

ギャラリーLE DECO(東京都)

2010/02/23 (火) ~ 2010/02/28 (日)公演終了

満足度★★★★★

世にも美しく恐ろしい寓話
どこだかよくわからないその陰鬱で閉鎖的な村社会にはそこだけにしか流通していない独特の声のトーンや、這いつくばってでも逃げ出したくなるどろっとした不気味な重苦しい空気感、血の匂いが渦巻くような気配がある。
理性が音を立てて崩れ去るその一歩手前、いつ何時誰が死んでもおかしくない綱渡りの危うい世界で疑心暗鬼になりながらも生きることを選択しつづける人間の執念を見た。

ネタバレBOX

※ラストシーンに関する記述があります。未見の方はご留意ください。


秋の終わり。鈴虫が鳴き、弱々しい光が差し込み、木枯らしが吹きすさぶ、どこかの村。
藁に覆われた簡素な居間に赤子を孕んだ女(三保野)が子守唄をうたっている。
夫妻(振根、三保野)は閉鎖的なこの村を出て暮らすことを切望していて、そのためには金が要る。たくさんの金が。しかし今日は鼠の皮しか獲れなかった。これではいくらの金にもならない。

ある日、振根の弟・東世が犬を拾ってきた。
どこかで死んでいたらしい。米を持ってくるとあれほど三保野と約束したというのに。

その頃、満知は東世にある疑いを持っていた。
それは行方不明になった自分の息子を殺したのは東世ではないか?ということ。
なぜって、一昨日死んだ村のばあさんの犬を東世が殺しているところを見たと噂で聞いたのだ。

疑惑を胸に夫妻の家へあがりこみ、犬はどこにいるのか問う満知に振根は気持ち悪くて捨てたと答える。そこに東世が現れて憎悪が沸点に達した満知は鋭利なナイフで東世の目玉をぶっ刺す。

断末魔の叫び声をあげる東世などお構いなしに満知は夫妻の家を乗っ取ることを宣言。更に夫妻の有り金すべてをふんだくる。

この村で生きるためにはこれ位の代償は仕方がない。それがルールで大人の責任なんだろうか。ふたりの兄である東升はお願いだ、わかってくれと振根に懇願する。

家も金も失って希望を遮断された夫妻の気持ちを繋ぎとめるものはいよいよ絶望しかなくなった。盲目になることで罪をペイした東世は何事もなかったかのように大好きな三保野のために米を持ってくるよ、と無邪気に出かけ、物質的に満たされても子どもを亡くした喪失感を拭い去れない満知はもうなんだっていいよ。と自暴自棄に陥り、そんな満知を気が狂いそうになりながらも支えていく東升がこれから背負っていく十字架は重く苦しい。

そんなラストを象徴する”おうもの”とは血縁関係を考慮した運命論や原罪を守ること、罰を克服する機会を奪われないために追いかけることで、ゆるやかにすべり落ちる疑惑が解決されなくとも信じる心を失えないのはきっと、良心の呵責のせい。問題は霧につつまれて、そのまま遠い空に消えていくような、刹那。
「光がないんだ 風がないんだ 靄があるんだ さんにんいるだけなんだ」
ひとりごとのようにそうつぶやく三保野が儚く美しい。
真・侍ヘンドリクス

真・侍ヘンドリクス

おにぎりスキッパーズ2

テアトルBONBON(東京都)

2010/01/27 (水) ~ 2010/01/31 (日)公演終了

満足度★★★★

期待を裏切らないOEDOなジミヘン。
お江戸のアウトロー、平賀源内の末路を町人文化やロックテイストを盛り込んで親しみやすい形にアレンジした作品。
(お江戸はOEDOとローマ字表記した方が似合いそうな雰囲気。)
有り体に言えば、笑いあり、涙あり、歌あり、ダンスあり(お色気も少々含む)。のカラフルなエンターテインメントショーだった。
役者さん達のノリがよく、しかもそのエネルギーが内輪ノリではなくてベクトルがきちんと客席に向かっていたので、会場全体の空気感がよかったです。

ネタバレBOX

いいなづけから貰った弦楽器を橋の上から捨てた女性にひとめ惚れたしがない江戸っ子、水掛又次郎が名前だけしか知らないその女性に弾いているところを見てもらいたいが為に奮闘し、健気な又二郎の淡い恋心を成就させるべく、お江戸のスターを引き連れて一本芝居に打って出ようと試みる又二郎の親友、平賀源内と、源内がツメの作業に入っているエレキテルを奪おうと企てる奉行人とその手下が絡み合う・・・。

エテキテルをギターアンプに見立て、そこに南蛮から来た龍吐と呼ばれる弦楽器をプラグインしてエレクトリックギターまがいの発明を編み出してしまう発想が大胆で斬新。
それに加えて、エレキテルが発明された年の時事ネタとして解体新書の出版を挿入し、史実として関わっていたメンバー(前野良沢)が劇中劇のメンバーとしてさりげなく登場しているところや、中心メンバーである、お江戸のスター、四代目 岩井半四郎の高低差のある声の響きとしなやかな動きが素晴らしかった。また、暗転時の”めくり”は次場面の情景が簡潔に説明されていたのでストーリーが混乱することがなく、安心して楽しめた。

奉公人にエレキテルの秘密を教える鍵屋の看板娘の着物の模様が水玉で裾がミニスカートのように短いのがやけに今時っぽかったり、平賀源内が友だちおもいのイイ奴なんだけれども、戯曲を一本書きあげることも出来ず、解体新書の訳者として名前を刻まれないハンパ者で、しかもチャラチャラしていて大いに笑う。
客人に出す日本茶の数を減らすことにこだわっている又次郎の厳格なお母様の存在はかなり強烈だったが、とても楽しそうに演じていらっしゃったので高感度高し。
お茶を居間に運ぶアクトがちょいちょいあって、その都度日本茶からはきちんと湯気が立ち、小道具ひとつとして手抜きをしないスタッフワークに敬服。
そして、お母様のお団子頭は常に抑えていないと落下しそうなほどうず高く盛られているのでその頭を片手で抑えつつ、客人を追い掛け回す最中で、不用意に自らの手の甲にかかってしまった際には熱いじゃないのよ、ときちんとフォロー。(自業自得なのに)

ジミ・ヘンドリクスに捧げるオマージュ的な要素がふんだんに盛り込まれていたところもとても楽しめた。
摩擦によって熱を持ったエレキテルの雷針に接触した場面での墨を顔に塗りたくったような面にパンチパーマのヅラというジミ・ヘンドリクスのパロディは島崎俊郎扮するアダモちゃんに見えないこともなかったが、なかばトランス状態で奏でられるアメリカ国歌のイントロのあたかもロックの神が天から舞い降り又次郎に君臨したかのような意気揚々とした佇まい。
ジミ・ヘンドリクスの真骨頂でもある歯弾きや背面プレイの模倣!(弦楽器を燃やすことはもちろんありませんでしたけれども。)

あっぱれですね。
エレクトリックギターをかき鳴らすお侍さんをこの目にしかと焼き付けるのがこの日の目的と言っても過言ではなかったですから。
なんて、そんな満足感にひたっている間もなく物語はぐんぐん進行していき、
又次郎がひとめ惚れした娘の所在がわかり、娘がいいなづけに持っていく筈だったカステラをふたりして頬張り以心伝心。恋に花を咲かせている頃、又次郎の親友、平賀源内は危険物所持法違反の罪に着せられ投獄。雪の舞い散るなかでもがき苦しみながら死ぬ一方で、紗幕のような薄いグレーの布で仕切られた舞台奥では冒頭での橋の上の一幕が、娘と又次郎の心が通じ合い、二人仲良く相合傘をさして通り過ぎる情景としてしとやかに演じられ舞台上手側では、アコースティックギターを持った男性がメランコリックな歌を見事な歌唱力でうたいあげる何とも抒情的なラストはこのまま息絶えていくであろう平賀源内のスピリッツが現代に受け継がれていることへのメッセージでもあり、腑に落ちた。

ただ少し気になったのは、弦楽器の弾き方を相談する又次郎に対する源内の「龍吐の弾き方おしえてやるよ」発言。世界で一番最初にギターを弾いた男が又二郎だとすると、つじつまが合わなくなるように思いました。
The Stone Age ブライアント『胸に突き刺さった5時43分21秒』

The Stone Age ブライアント『胸に突き刺さった5時43分21秒』

The Stone Age ブライアント

サンモールスタジオ(東京都)

2010/01/27 (水) ~ 2010/01/31 (日)公演終了

満足度★★★★

夢は叶わないかもしれないけれど・・・
夢を叶えるのはごく僅かの限られた人だけで夢を追い続けるには犠牲が伴うもの。しかも夢と挫折は隣り合わせで一瞬でも気を抜くと挫折側へ即刻ゴーアウト。人生とは常にへヴィーな代物であります。
「何事もあきらめが肝心。」
多くの大人たちはいつしか我が身にそう言い聞かせ、身の丈にあった生き方へシフトチェンジしていきます。そして、これでよかったんだ・・・とひと知れず呟くのです。

この物語の主人公は無様なほどがむしゃらに無謀な夢を追いかけます。
笑われたり、罵られたり、悔しい思いを沢山しながらも諦めないで立ち向かう姿は私たちがいつしか無関心になってしまった情熱を確かに教えてくれました。どうやら、可能性がゼロでない限り挑戦する価値があるようです、人生は。

ネタバレBOX

大石、35歳。旧型タイムマシン学校10年生。この春、通っている学校が新型タイムマシン学校の建設により廃校が決定した。今度こそ卒業試験をパス出来るのであろうか・・・?
結末を確かめてきてほしい、と校長先生に頼まれた同級生3人は一ヶ月後の未来へワープ&ジャーンプ。そこで見たのは誰も知らない大石の姿だった・・・。

学校近くのUFO公園で卒業試験に向けて自主トレに励む大石に教官は、オマエはいつも言い訳してばかりでどうせダメなんだからいい加減、諦めるよう説得するが大石は10年前のアノ事さえなければ今頃、立派なパイロットとして活躍していたに違いない、と確信しているため受け入れられない。

かつて大石に助けてもらったり、励ましてもらったりした3人は弱気な大石の姿にショックを隠せないが、100分の1の確率でしか成功しないであろうサイアクな条件の試験に向けて頑張るひたむきな大石にエールを送ることを決意。この声が大石の耳には聞こえないとわかっていても励まし続ける。
そして運命の時・・・。奇跡は起きた!?

二転三転し、永遠に完成しないパズルのように謎が残る歯切れの悪い、けれど観たひとがこれまでの生き方によって、捉え方が全く異なってくるようなラストの描き方がとても秀逸。
(あの時見た光景が夢か錯覚でこの先決して訪れない未来だったとしても、希望のある方を、出来ればまだ信じていたい、とおもった。)

タイムマシンの技術が発展途上にあるため、一ヶ月後先の未来までしか行けないという設定も斬新で、舞台照明をタイムマシンに見立てたぐるぐる訓練なる過酷なトレーニング方法は演劇ならではの醍醐味があった。また、ベンチの周りを奇妙なツーステップでくねくね回る独特の動きが妙。そして緑に白いラインが3本入ったダサダサなジャージに汗くさくて人間くさい、未来予知能力ゼロオッサンパイロット訓練生のガッツがすばらしい。シスターたちの大石に捧げた90年代を代表するあの名曲を讃美歌調にアレンジしたアイデアも最高でした。

しかし彼はどうして10年間もの間留年してまでパイロットになりたかったんだろう。年齢的にもパイロットとして就職するのは厳しそうだし、学費だってすごい掛かっていそうだ。それに過去にしか行けないタイムマシンの操縦方法しか知らないパイロットなんて将来的に必要とされるのか疑問だ。ひょっとして、夢を追いつづけること自体が彼の夢そのものになっていったのではないだろうか。それとも人生をもう一度、本気でやり直したかいと痛切に思うからこそ真剣なのか。人は未来を描いていくのに、このひとの未来は過去に向かっている。当の本人に悩んでいる暇などはなく、合格しない試験を全うしている・・・。

そんな愛すべきダメ人間だからこそ校長や教官、シスターらと絡みあうエピソードがもうすこしあったらいいなぁ、という欲も沸いた。たとえば、シスターたちは大石がパイロットになれなかった時のためにジーザスとしてスカウトしてキープしておく(ジーザスクライスト!)、大石と駆け落ち希望のシスター見習いに待ったをかけた校長も実は、大石を自分のものにしたいが為にメカ担当の山下に仕掛けを施して貰い卒業を先送りにしていた。と何故か衝撃的なカミングアウトを聞いてしまった大石ビックリ!卒業試験と恋のバトルで二重の苦しみを味わう・・・等々。

キャラクターの味付け加減が、特濃で刺激強し。どつきどつかれ、突っ込むスピードが早いはやい。これぞ大阪、本場の笑い!?
普段見慣れてないので新鮮でした!
見えざるモノの生き残り

見えざるモノの生き残り

イキウメ

紀伊國屋ホール(東京都)

2009/12/02 (水) ~ 2009/12/07 (月)公演終了

満足度★★★★★

Dear,ハピネス
エキセントリックな妄想が濃度を上げながらゆるやかに、現実という静謐なサークルをまわり続けて着実にその形を失っていきながらアウトプットされる世界は、半信半疑であろうとも、受け入れざるを得ない現実として大胆に提示する作風と英語を日本語に直訳したような説明的なセリフを抑揚なく淡々と話す役者陣がその特異な世界観を更に唯一無二なものへと昇華させるイキウメだが、他の方々も言及されている通り、今回は少々勝手が違う。私も正直、戸惑った。なぜなら、立ちはだかる現実問題に追い詰められたひとたちは、そこにある対人関係をごまかさないでしっかり向き合おうとしていたからだ。
とはいえこの芝居を見た直後は、なんだか物足りなさが残った。けれど後々、思い返せばひとはそんなに不幸でない時、幸せについてあまり深刻にならないし、さほど執着しないものだと気づく。そう思うとこの、一見ほのぼのしたようにも思えるドラマには、不満を感じるくらいで丁度いいのかもしれない。

かつて人間として存在したモノたちと、何かが崩壊しかけた者たちが、ささやかな交流の先に、それぞれの世界でちゃんと生きようとする物語。110分。


ネタバレBOX

物語は新入りの座敷童子、ナナフシに先輩座敷童子タイコウチの経験談と、
なぜ彼が座敷童子になったのか。そのあらましによって描かれる。

舞台は上段下段に分けられて、下段にまだ死んでいない人間が、上段に座敷童子が配置され人間界を軽く俯瞰するような形だ。舞台美術は非常にシンプル。イス数脚に机。扉に見立てた木枠がひとつ、あとは、上段に柵が2つだけ。照明は透きとおった群青色で、夜明け前を思わせる。

人々の行き交う足音。都会と思わしき雑踏の中で、舞台に背を向けたひとりの青年に中年の男は声をかけ、一緒についてくるよう指示。そしてこう言う。
「お前は今日からナナフシだ」
青年は自分が誰だかわからない。記憶がないのだ。青年はナナフシという名の座敷童子である自分を”受け入れる”

座敷童子にはお宅を訪問する際、その家に住む者が全員そろっている時でなけれなばらない、「お茶をいっぱいいただけますか?」と言う。人間に触れてはならない、恋をしてはならない、など様々なルールがあり、先輩であるタイコウチの経験談をシュミレートしながらそのHow toを学ぶことに・・・。

タイコウチの担当した梅沢夫妻はどこにでも居る、普通の夫婦。いただきます。とは言うのに、ごちそうさま。とは言わないことや、自分のことを愛してる。と言葉にして言ってくれない夫の態度に妻は不満があり、夫の方は起業したものの軌道に乗らず、苛立っていた。お互い夫婦関係がうまくいっていないことは自覚しているようだが核心にせまる話合いを避け、顔を合わせれば何となくその場を取り繕ってやり過ごしてしまう。

すれちがっている夫妻のもとにある日、顔はオッサンだが子どもみたいな体たらくのタイコウチと名乗る座敷童子(子どもじゃないので正確には”家守”)が訪ねてきた。夫妻は”座敷童子”という存在は知っていたものの、座敷童子は鬱蒼とした森のなかにぽつねんと佇む日本家屋にいるもので、高層ビル群が鎮座するトーキョーシティーにいるものではないという固定観念から最初は少々戸惑っていた。奥さんの方は夫婦関係が冷え切っていたということもあってか好意的だったが、旦那の方はあまり気が乗らない様子だったが「座敷童子は幸福をもたらします。」という一般論をタイコウチが投げかけると、旦那はとても好意的に”受け入れた”

夫妻は自分たちの願いを叶えてもらうことを望んだ。
「あなたは何をしてくれるかしら?」
タイコウチは言う
「わたしには何もできません」
”座敷童子は幸福をもたらずが、願いを叶える能力はない”(←当日パンフレットより抜粋)のだ。

がっくり肩を落とす夫妻だが、座敷童子が家に来てからというものの、どういう訳か事態は好転。妻は夫の仕事を手伝い始め、事業は右肩あがり。夫婦仲も好調だ。やがてタイコウチは任期満了のため家を出た。

座敷童子がいなくなると、それまでの幸せも同様に、いなくなってしまうものなのだろうか・・・。夫の事業が傾きはじめ、夫婦は喧嘩が絶えなくなった。夫は幸せであることに対して消極的な発言が目立ちはじめ、タイコウチからせん別にもらった幸福のシンボル、ふわふわの天使の綿毛のようなケサランパサランもふたりの目にはもう見えなくなっていた。

失ったらまたもう一度一からやりなおせばいい・・・。
夫婦がお互いを受け入れた時にふたりの目には確か見えるケサランパサランは、彼らのこれらを祝福しているかのようだった。

すべての人間関係は他者を肯定するところからはじまるが、何かがうまくいかないとき、何かのせいにしたいと思うことがある。それでは思い通りにいかないのは当然だとわかっていても、良いアイディアも浮かばず、頭を抱える日々が続くと藁をもすがるおもいで何かを頼りたくなる時もある。
座敷童子はそんな人間の弱さに対して何も出来ない。けれど誰かをひたすら見守る無力な存在としてそこにいるのが彼らの精一杯のやさしさで・・・。
誰かに何かをしてもらえないと誰かに何かをすることを躊躇してしまったりもするけれど、そんな気持ちを翻していくことが人間の独善性を立ち直らせていく手段であるし、地にしっかりと足をつけ、前を見据え、こじれた関係を修復し、許し、受け入れ、助け合うことができるのならば、そしてどんなに辛い時でも、隣人をおもいやり、愛を持って接することをを忘れなければ、ひとは孤独という呪縛からほんの少しだけ救われるかもしれない。


物語は後半、ナナフシが断片的に思い出した記憶の断片とナナフシが見たある二人の掛けあいから梅沢夫妻とは異なる幸せについて検証していく。

自分は何者であるのか?その手掛かりになるナナフシが思い出した断片的な記憶とは、自分の名前は竹男で母は竹男を女手ひとつで育てていたが竹男が思春期の頃のある日、男を作って家を出ていった・・・というもので俗っぽく、お涙頂戴系のテレビ番組などで見受けられるような、不憫でよくありがちな話。これが非常に短いダイジェストで簡潔に説明される。(他人の不幸はこれくらい軽いという現れ。とも受け取れる)
そして家を出て行く母親が、困ったらここに連絡を入れるように。と投げやりによこした番号に一本の電話を掛けたことから彼の人生の速度があがる。

電話口で男は今から来るよう指示。母と薄い繋がりのあるその男は便利屋だった。主な仕事は借金の取り立て。堅気な仕事とは言えなかったが、ナナフシはこれを”受け入れる”
矢口という若い男に先導され、持田喜美という若い女性の働くファミレスに行く。彼女の両親は莫大な借金を残して行方をくらましてしまったため、彼女がその借金を引き継いでいるのだそう。彼らの仕事はもちろん滞っている借金の返済をさせること。持田喜美の住む部屋まで押しかけ、借用書をチラつかせる。竹男はおどす役を任された。(仕事初日ということもあり、即戦力になっているとはいえないような仕事ぶりだが、彼なりにベストは尽くしているようだ。)

矢口は持田を説得し、自己破産させようとするが持田は、借金は自力で返していくという。持田は両親が自分に借金を残していったのは、自分に試練を与えるために良かれとしてやったことでそれは生きる糧のようなものだ、と反論。すると矢口はキ ミ ハ オ カ シ イと言い放ち、ナイフを取り出し『俺はキミの幸福の糧を奪う』と脅す。

他者から見れば明らかに「この人はどうしたって不幸だ。」と断言できるような状況下でも、本人が満足感を得られているのであれば、幸せなんだ。と言えるのか?幸福とは満足している状態のことを表わすものなのか?答えが停滞するなか、幸せの価値基準について問うこのドラマは途中で打ち切られることになる。竹男による持田への暴力行為を持田の家に棲みつく座敷童子、日暮の一手がイザコザと竹男の人生共々を終わらせたからだ。

かつて竹男と呼ばれた男の一生はあっけなかった、本当に。当人もそれを認めていて、肉体的な死をポジティブに捉えている。彼は自分が死んだホントウの理由を知らない。単なる心臓発作で死んだと思っている。
日暮はチームリーダーの金倉(別名:ゴッドファーザー)にナナフシにホントウのことを言った方がいいかどうか、判断を仰ぐ。
金倉は別にいいんじゃね?とでもいうような非常にフランクなノリで交わす。
”知らない方がナナフシにとっては幸せだと思うから”なんだろう。

もしも人生が理不尽を受け入れることの連続なのだとしたら、唐突に命を落とすことになったこの運命とも言い難い不憫なアクシデントを納得し、素直に受け入れられるだろうか?あるいは、もともと自分はこういう運命だったのだ。と諦められるだろうか?
座敷童子になれる基準、ちゃんと死ねなかったモノ。とはちゃんと生きられなかったコト。への未練のように思えるのだ。
その罪滅ぼしのためにも座敷童子としてよみがえり、第二の人生とも言える道を”別れの練習”を繰り返しながら、生きる受難を受け入れ、生きる喜びをもたらそうと日夜励んでいる姿は、とても切ない・・・。

すべての行いは愛があるかないか。で決まるという話をどこかで聞いたことがある。この物語には人間に対する根源的な愛と、現世を生きる者へのささやかな想いと営みで溢れていた。信ずるべきはオカルティズムなパワーではなくて、あなたのすぐそばにいるひとたちなんです。
僕が戦うから君はコーヒーを買って来て

僕が戦うから君はコーヒーを買って来て

コーヒーカップオーケストラ

明石スタジオ(東京都)

2009/12/04 (金) ~ 2009/12/07 (月)公演終了

満足度★★★

いざさらば、ありきたりな日々よ・・・いつか心に太陽を。
さえないティーンのビターコーヒーのようにちょっぴりほろ苦い恋心。
せまりくる、どうしようもないロールプレイングゲームさながらの宇宙戦争。
なかば強引に繰り広げられるベタベタでチープなハードボイルド。
などが相まって摩訶不思議なプリズムが放たれた快作。

ネタバレBOX

冒頭は闇。宇宙空間で作業をしている3人の宇宙飛行士の背後からヒューマロイドタイプの宇宙人が姿をあらわし、そのうちのひとりに噛みつく。すると宇宙人の中から人間の生き血を吸って蘇った人間が!

所変わって、舞台は茶の間。怪力高校生、桜々丘 男太郎は朝、
「ちぃ すうか? ちちすうか? すってくか? すってけ。」
という母に反抗し、いやいやながら母親の胸に顔をうづめる。
それが、男太郎の母に対するささやかな愛なのだ。

男太郎の通う高校には、ジャージーのズボンをやたら上にあげて履き、茶色い健康サンダルに瓶底めがねをかけている、 現在妻と離婚調停中で気持ち舌ったらずな喋り方をする霧ケ峰先生、病気がちな妹のためにも女子プロ野球選手になりたい宇治川素子、 お腹を押すとチャイムが鳴るという芸を持っているふとっちょで愛嬌のある信夫など、愉快な仲間達がいるワンダフルな学園生活。 もちろん、好きな子だっている。村上春子だ。

ある日、見知らぬ客が家に来る。地球防衛軍・・・。
息子の将来を心配した母が内緒で願書を出していたのだ。
彼らは言う。
「男太郎くんは合格です・・・」
涙ぐむ母に嫌がる息子。

グッドニュースはそう長く続かないのが世の常とばかりに、歯車は少しづつ狂っていく。

男太郎の母親が”危険人物”として地球防衛軍に連行されたのだ。 宇宙防衛軍によって連れ去られた人々は日本地図に載っていなければ、どこにあるのかもわからない ウバ島という場所に葬り去られ、二度と帰ってくることは出来ないという。

男太郎は、大好きな春子にコーヒーを買ってくるように言い、自分は戦うことを決意する。

が、そんな男太郎の決意をあざ笑うかのように追っ手がせまってくる。
するとクラスメイトの宇治川素子が魔球を投げて 窮地に一生を得るもののやがて宇治川素子は動かなくなり男太郎は地球防衛軍に確保され、ついにウバ島送りにされてしまう。

そして母との再会・・・。
そこには、宇宙からやってきたアイドルらもいた。
息子の将来を気にしている母は言う。
「宇宙に大学はあるでしょうか?」頷く宇宙人。
男太郎は母の期待に答えるため、宇宙へ飛び立つことを決意する。

旅立ちの日。男太郎はラジオ局を乗っ取り、大好きな春子に別れを告げる。男太郎の短い春が、 センチメンタル・ジャーニーが終わった瞬間であった・・・。


物語はこの他、 宇宙からやってきたグラビアアイドルとマネージャ(あだ名はジャーマネ)、事務所社長、自衛隊、総理大臣、医師、ラジオDJなどあらゆるキャラクターを 役者が数役づつ掛け持ちする形で描かれた。
たとえ1シーンしか登場しない役柄であってもおざなりにせず、 割り振られた役柄をとても丁寧に育んでいた。 稽古場ブログによると、今回の稽古は2ヶ月間行われたそうで、 稽古期間をいつもより長く設定し、本筋に関係のないことをすることからはじめたという。 コミュニケーションを図り、信頼関係を築いた上で作品づくりをしていきたい、 という劇団側の狙いがあってのことだろう。 劇中で巻き起こることがいちいち非現実的でありながら、 突飛な世界観に飲みこまれない疾走感や、勢いをもたらしたのは 素晴らしいチームワークの賜物ではなかろうか。

ただ奇抜なキャラクターや舞台設定でありながら、全体的にあっさりした印象だったことは否めない。
感情の造形やそれぞれのエピソードがよくも悪くもフラットだったからだ。
たとえば、春子にコーヒーを買ってくるように頼むシーンはタイトルを象徴する重要な場面であるはずなのだが、 男太郎の春子への熱い想いが性欲に特化されていたために、あっさり流れてしまっていた。 これは非常にもったいない。それこそ宇治川素子や前田キミ彦の心情を吐露するあのコミカルなモノローグを用いたり、 少女漫画に出てくるような、ベタベタでステレオタイプな恋愛ドラマを男太郎の妄想シチュエーションという形で挿入してもよかったのではないかと思う。

もう少し突っ込んで書くと、男太郎の”怪力”の処理がちょっと曖昧。
男太郎は自分の持ってるその不思議な力を受け入れている、というよりもさして気に留めていない様子なのがどうも気になってしまった。
彼はその非凡な力について悩んだり悪用しようと企んだりすることはないのだろうか。

正常な血液を注射して血液を逆流させることで宇宙人化することは避けられる代わりに右手が怪力になるという説明がもっと早い段階でなされていれば、あるいは、その注射をするために男太郎が通院している医師に相談する場面があれば 、母の血を吸うのはもうやめたいけれど、自分の血を吸ってもらうことで満たされ、 息子とつながっていられると実感できる母のことをおもうと断りきれない 男太郎の愛情というか、やさしさのようなものを描けたように思う。
春子の犯し方も例えば、右手が勝手に・・・などと言い訳をしたり、 春子にキスをするフリをして血を吸いたいが我慢したりするアクションを加えれば、 男太郎の屈折した愛憎や変態性を打ち出すきっかけになったのではないかと思う。 このほか、怪力であることで何か生活に支障をきたす事が取り上げられていれば、もっとよかったかもしれない。

あと、冒頭に出てきた宇宙人が総理大臣として鎮座していたけど、目的は一体何だったのだろう。これは宇宙人の王道、地球を侵略しに来た、ということでいいのだろうか。それにしては、栗田総理はあまりにもナチュラルすぎるように思えたのだが・・・。地球に来て間もないために言語が追いつかないのだろうか。非常にもやもやする。ナンセンスという一言で片付けていいものか、悩ましくもある。
また、冒頭で行方不明になった宇宙飛行士がその後劇中で触れられることが全くなかったが、地球防衛軍(or自衛隊)が宇宙飛行士をモデルケースにどんな宇宙人が人間に何の損害をもたらすのか。ついてリサーチしたりプレゼンしてくれたら、半分ヴァンパイア化している地球人を地球防衛軍が狙い撃ちすることへの意味や、凄みが増幅したように思う。
(宇宙人にも人間と同じように階層があってピラミッド社会なのではないかしらん。と栗田総理やグラビアアイドルを見て何となくおもったので。何の参考になるか全くわからないが、とりあえず書きとめておく。)

とここまでげんなりするようなことばかり書いてしまったが、ヴァンパイアと宇宙人の組み合わせや、地球に仕事を探しに来た宇宙人という設定は非常に斬新であったし、頼りない新人から必殺仕事人になるまでの成長を描いた前田キミ彦や、どんなに傷を負っても職務をまっとうしようとするアケミ先輩の何くそ精神、仲間を思いやる気持ちの描き方は秀逸で、男太郎の通う高校のクラスメイトの描写はエキセントリックで独特であったし、ウバ島送りにされたひとたちの方がなんだか幸せそうだったり、ウバ島を管理しているばあさんと芸能事務所社長のやりとりにほっこりさせられたり・・・。すばらしいところもたくさんあった。
また、コントやギャグは面白い、面白くない。に二極化されるシビアな分野だが、90年代のポップソングやつい最近流行った映画のタイトルを使ったそれらは非常にくだらないけれど、ぼんやりとした気持ちや世相を何となく反映していたし、コーヒーや清涼飲料を飲むシーンではCM通りの小道具がきちんと用意されていたり、ジャーマネが最後、銃で撃たれて倒れるまでをスローモーションで表現する時、地声にエコーをかけたりする細かな配慮などはいじらしくもあった。時折、ギャグの中に主張めいたものが紛れ込むのもよかった。

ひとり何役も演じるのは観る方としては非常に楽しかったが、気苦労も多かったことだろう。衣装替えの時間が取れないなど、物理的に制限されてしまう描写もあったのではないだろうか。 そう思うと、34人の登場人物を14名の役者で描ききったことは賞賛に値すると言える。それに小劇場では稀に見るワイヤーアクションはなかなか見ごたえがあった。観客に楽しんでもらうこととはいえ、大変な作業だったに違いない。

最後に一言。誰にも真似できない特殊なカラーはあらかじめ持っているので、今度はもう少し心の奥から叫んでみてください。もっとすごいことになると思います。 がんばってください。
倶楽部

倶楽部

Rotten Romance

ギャラリーLE DECO(東京都)

2009/12/01 (火) ~ 2009/12/06 (日)公演終了

満足度★★★★

ノイジーな意識、身体性のハードコア。
これは、あまりにもショッキングである。舞台にあるものすべてがメタ化されているのである。人が人であって、人でないのである。身体で描くイメージの連続なのである。それに加えて、起承転結のメリハリや、物語の着地点も見当たらないのだから、どうしたって混乱するわけだ。しかしながら、舞台から発せられるエネルギー量は尋常ではなかったし、よく理解出来てもいないのに、心動かされる何かがあった。

素粒子となって中空を漂いながら、街を俯瞰するジャンキーな戯れに呑み込まれているような。渋谷駅前のスクランブル交差点のど真ん中につっ立ってざわざわと通り過ぎていく匿名の人々や否応なく耳から入ってくる匿名の声や、足音、大型テレビモニターに映し出される情報なんかを、ただじっと眺めているような。上手く言えないがそんな感じだ。

何でもあるのに何にもない街、シブヤを美化せずに具象化した、アッパーでニヒルなリアリズムに満ちた舞台であった。

ネタバレBOX

まず会場に一歩足を踏み入れて唖然とする。
壁には、無数の新聞紙が無造作に貼られており舞台には、これまたおびただしい数の洋服が雑然と敷き詰められている。なかには”渋いたにまに”なんてよくわからない暗号のような紙も混じっていて、客席の下にまで散らばっている。(このラディカルな舞台美術を目に焼き付けるだけでも、価値のある公演だと言えよう。)
そこに死んでるように動かないものがみっつ、いる。表情はうかがい知れないがそれはまるで、情報の渦の中に個が埋もれてしまっているのっぺらぼうで。惑星が衝突するかのような音が鳴り響き、実体が立ち上がる。


冒頭で交わされる短い会話。
3人は、昨晩、渋谷のクラブ(倶楽部)で遊んだ。
宇田川町の小学校で教師をしている地球人は、冥王星まで旅行に行ってきた。
漁業が盛んな星で暮らす水星人は地球に来る時、肺呼吸に変換する装置を耳につける。
林業が盛んな星で暮らす木星人はジェット噴射で地球にやってきた・・・。

彼らの指先にはICチップが埋め込まれていて、互いの指先と指先が触れ合うことによって情報を交換し合うことが出来る。また、彼らのいる世界では、スモールライトや、ドコデモドアが市場に流通されているらしい。
そして四次元装置を2台使って人間が重力を自在に操り、惑星間をワープ出来る、我々現代人が憧れる夢のような世界なのである。
しかしながら、人が地球以外の惑星に住むことをはじめた時代にあっても、
人間のコミュニケーション能力が現代から進化していないように見てとれる。
それぞれが違う星に住んでいることに起因しているのか定かではないが、
ステディな友だちと言えるほど親密な関係でもないらしく、会話や関係性は、思いのほか発展しない。
言語が”ノイズ”として作用しているからだろうか。
はたまたコミュニケーションの手段が言語ではなくなっているのか。
その辺はよくわからないが会話は途切れ、存在は意のままに変化する。

時は変わって、白昼の渋谷のスクランブル交差点。人がすれ違っているイメージ。ヘッドフォンチルドレン。足音。雑踏に垂れ流される大量消費されるポップソング。街頭テレビの広告塔。109。などを身体を用いて表現される、視覚化されたノイズの群れ。

そして夜行性が騒ぎ出す。夜の速度はもの凄い。
天井でせわしなく動き回るスポットライト、終わりなく回り続けるミラーボールの具象。ダンスフロアで踊り狂う人々の表象。突拍子もなく執り行われる、メタ化された性行為と特殊性癖嗜好者。徒党を組む謎の集団。”自由”と吐き捨てて息絶える時代のアイコン。混濁するイメージの祭典。モザイク化する、エレクトリックシティー。果てしなく続く、ディスコミュニケーション。すべての事象の輪郭が浮き上がり、夜明けと共に消えていく・・・。

やげて立ち上がる、ひとつの自意識。記号として配置される奇妙な刺青を入れている男のモノローグ。
「テレビを見る芝居をする練習をしているんです。」
ひと気のない渋谷のスクランブル交差点のモノクロームの映像が流れるテレビ画面を凝視するその男は、観客に真っ向から背を向けて何度も何度もそう繰り返す。これは、役を演じる俳優が演劇というドラマから遠ざかる実像と、俳優でない自分自身でいるための虚像を演劇的な空間を保持しながらリアルなドキュメントとして同時に重ね合わせているように受け取れた。

心ここにあらず。とでも言うような、ドライで病んでる魂が、落ち着きなく中空を彷徨っている浮遊感や、何かの終わりが始まるまで続いていくサイケデリックな喧騒や珍妙な人々、相対性理論・・・。
もしもこの舞台を映像化したら、デヴィット・リンチの「ロスト・ハイウェイ」のようなカルト映画になるんじゃないかしらん。なんて思ってみたり。彼らがこれからどんな『手荒なまね』をして、演劇的既成概念を突破しようとしているのか予測不可能だけど、それはとても意義のある試みではないだろうか、と思う。

最後にいくつか気になった点を記しておきます。
渋谷の街の喧騒をザッピングするのが今回の主題なのかもしれないが、
もしも倶楽部が、何らかのシグナルを受信する場所だとするならば、少しパンチが弱かったような気がします。
多分、倶楽部が人が集まって散っていく場所のままだったからかもしれない。それを意図しているなら、成功したと言えると思うのですが・・・。
あと、時々登場したストリート系の格好をした若者がいたけど、あれは一体何だったのだろう。ストーリーのキーパーソン的な役割になっていたら、また違った見え方になっていたかも。
でも、倶楽部を取りまくヒトや街の描写は新鮮で目を見張るものがあったし、
ラブ・サイケデリコのBGMを使ったアクトは若者のリアルな日常のイメージを持たせるのに印象的だった。
全体的に荒削りだった感じもするけど、空間の使い方も無駄がなくてよかったし、何よりこんなにも濃密な時間を体験したのは久しぶりだったので、満足度は高いです。
フォト・ロマンス(ラビア・ムルエ、リナ・サーネー)

フォト・ロマンス(ラビア・ムルエ、リナ・サーネー)

フェスティバル/トーキョー実行委員会

東京芸術劇場 シアターイースト(東京都)

2009/11/26 (木) ~ 2009/11/29 (日)公演終了

まだまだ混乱している・・・
イタリア映画「特別な一日」をパロディにした映画を制作しているアーティストが検閲官にプレゼンをする。ただそれだけなのに事態はあまりにも複雑で・・・。それに自分の知識が乏し過ぎたため、すべての内容を理解できたとは到底思えないけれど、フォト・ロマンスから何かしら手がかりを見つけ出したいと思っている。

ネタバレBOX

舞台はべルイート。
レバノンの2大勢力である親シリア派(3月8日勢力)と反シリア派(3月14日勢力)の同時デモが開催される日。
その様子は、テレビ中継されている。
軍隊が出動し、有刺鉄線が張り巡らされ、街はものものしい雰囲気だ。

リナは離婚した主婦で、今は両親の家で暮らしている。
そこには兄弟、兄弟の嫁、その子供たちなど大勢のひとたちがいて、彼らは皆、学校やデモに出払っていていない。
リナは家事をしなければならないため、一人で家に居る。
頭を抱えうんざりする彼女は、ひとまず飼い猫を柵から出し、エサをあげる。
すると猫がジャンプし宙を舞い、部屋から逃げ出してしまう・・・。

猫が逃げた先は、かつて左翼系新聞記者であったひとりの男の部屋。
彼はラビアと言い、イスラエル軍によって8年間拘束されていたらしい。
猫をきっかけに彼らは心を通わせ、その一日が終るまでを描く。

という、イタリアの名画「特別な一日」をパロディにした新作映画を制作した
リナ・サーネーが検閲官であるラビア・ムルエに、プレゼンしていくという内容で、このドラマは、オフレコにすれば、リナとムルエが互いにアイデアを出し合って、ディスカッションしているような印象すらもたらすようにも思われるのだが、そこに検閲官とアーティストという役柄を与えられることによって。また、その役柄を本名で演じることによってリアルとフィクションの境界線がより曖昧なことにされている。

劇中で流れる映画は、モノクロ写真を連続し映す手法「フォトロマン」を用いていて、ビデオカメラで撮影した動画を静止させたものを繋ぎ合わせたものと、リナのナレーションのみで構成される。画面はグレーと白の淡いコントラストで、リナの真っ赤に染められたソバージュの髪と、冒頭の、レバノンの国旗と背景の青空、デモのニュース映像だけがオールカラーであり、このふたつの画は非常に重要な意味合いがあると受け取れる。
冒頭の風にはためくレバノンの国旗は、今だレバノン国内に蔓延する精神的ナチズムをアイロニカルにうつし出し、デモの映像は、レバノンの社会情勢を剥き出しに提示する。そして、リナの真っ赤な髪の毛は彼女なりの自己表現であり、女性の社会的地位に対するささやかな抵抗のようにも見える。

そのアリバイは、リナの兄弟、嫁や姪など様々なリナの家族が朝支度をするワンシーンで証明される。リナの家族はひとつの集団と捉えられ、その意見は皆同じではあるが、個の意見が反映されているものではない。
と考えられることから、彼女の家族は誰ひとりとして生身の姿を現わさない。
個人が一個人としての意見を持った時にはじめて登場人物としての焦点が合うのだ。

やがて、偶然出会ったふたりが他愛ない会話を交わすが、「特別な一日」で描かれるようなロマンス的な要素はあまりなく、至ってプラトニックなのである。それは、レバノンの社会情勢があまりにも深刻過ぎて、恋愛どころの話ではない。とも受け取れるし、男性が同性愛者なのかもしれないし、レバノンという国が、ロマンス的な表現を規制しているからなのかもしれない。

フォト・ロマンスはこのように、断定できない曖昧な要素が多数出てくるが、解決されないまま置き去りにされる。その兆候は、ラストに近づくにつれ濃厚となり、ついには映画のラストはふたつから選択できるという苦し紛れの運びとなる。何としてでも検閲を突破したいアーティスト、リナの焦りは深刻であるはずなのに非常にコミカルで、不謹慎ながら思わずクスリと笑ってしまった。

この作品を完全に理解するにはまだまだ知識が足りないと痛感した次第であるのだが、イタリアの名画「特別な一日」をベースに用いることにより逆説的に
この世にオリジナリティは存在するのか。という恒久的な問いを投げかけ、また同胞の気持ちに寄り添うように、体制に対し静かに意を投げかける。彼らはひょっとすると演劇を、多くの人々が社会を考えるためのヒントを与える機会だと考えているのかもしれない。その真剣な姿勢は、レバノンから遠く離れたわたしたち日本人の心にも言葉や国境の壁を超えて、伝わってきた。レバノンのことについて、まだまだわからないことだらけだけれど、色々と知りたいと思った。

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