ボム木偶の観てきた!クチコミ一覧

21-40件 / 59件中
どんとゆけ

どんとゆけ

渡辺源四郎商店

こまばアゴラ劇場(東京都)

2008/10/16 (木) ~ 2008/10/19 (日)公演終了

満足度★★★★

娯楽の責任?
非常によく考えられて、効果が緻密に計算された脚本、美術。
しっかりと、安定した演技。

笑いながら、じっくり、重いテーマに向き合うことができる、希有なお芝居に、嬉しくなる。こんな芝居を観たかった!

ネタバレBOX

裁判員制度が、もうすぐ、はじまる。人を裁くことの責任が、ますますみえにくくなる。でも、それは、国だけの責任ではないと思う。僕ら、国民も、常に、あらゆる責任から無関係でいようとしていて、それが、まわりまわって、国の責任放棄を招いているのだろう。

「死刑」は、一応、国民国家の、一番大切な主権のひとつである。人を、合法的に殺す権利は、近代法のうえでは、国家にしかないのだ。でも、その権利にともなう責任を、国民が引き受けなければならないとしたら。

さて、『どんとゆけ』(Don't you kill は、津軽弁でこう聞こえるとのこと)の日本では、これがさらにエスカレートして、犯罪被害者や遺族が、犯罪者の絞首刑を、実際に行うことができるという、「死刑執行員制度」というものが存在する。

「ロープはどうなさいますか」
「持ってきました」
「おそれいります」

淡々と、被害者の妻と、義父は、作業を進める。ロープは、亡くなった義母が、一針一針縫ったもの。だが、この被害者の若い妻と、彼女の将来を案じる義父との間には、犯人を殺すことに対して温度差があって、それが、物語を牽引していく。

死刑とは、なにか。前法務大臣の、死刑執行のサインに対する批判をめぐる問題は記憶に新しい。ひとを殺すことの責任について、ゆっくり、じっくり、僕ら観客に考えさせる。笑いも織り交ぜられて、負担に、ならない。観るものの視点を中心に作られた、非常にすぐれた舞台だった。

けれども、非常にレベルの高いものだっただけに、残念に思った点がある。この舞台は、問題提起と、娯楽とを、高いレベルで両立させて、その緊張感で、物語を進めていたが、最後に、大きく、娯楽の側に傾く様相を見せるのだ。いってみれば、娯楽としての責任を果たそうとしているかにみえる。

物語には、最後に二つ、オチのような結末が用意されている。

まず、獄中の死刑囚と結婚して、死刑執行の場所となる民家を提供した、死刑囚の妻。彼女は、最後に、死刑囚との結婚を繰り返し、死刑執行を行うことを楽しみとしていることを告白する。

もうひとつは、被害者の妻の、現在の恋人が、「こんなことしちゃいけない」と、乗り込んでくるというもの。

それまで、舞台は、特に被害者の妻と、義父の、気持ちのぶれを中心に描いていた。二人は、この葛藤に、どう決着をつけるのか、観客の関心は、まっすぐに、そこに向けられていた。

それが、最後、突然、角度をカクッと曲げられてしまった。エンターテインメントとしては、これで良かったのかもしれない。しかし、それまで、問題を、舞台を通してじっくりと考察していた思考の緊張感は、オチがついた瞬間に、急速にゆるんでしまった。

舞台は、結局、死刑の執行で終わる。被害者の妻は、乱入してきた恋人を拒絶して、なし崩し的に(ここは、詳しく描かれない)、死刑を行うという責任を引き受ける。彼女の、決意の瞬間は、はぐらかされて、描かれない。これは、脚本が、問題を、娯楽にすりかえる、ある種の責任逃れとして、僕には、映ってしまった。

それでも、ここまで、「責任」という問題と正面から取り組む舞台は、日本では稀だと思う。最後、妙にすっきりと終わってしまったのは残念だったが、それは、葛藤を続けるという文化のない、日本の演劇の限界でもあるのかもしれない。
ハイバイ オムニ出す(チケット売り切れましたが特別追加公演やります。)

ハイバイ オムニ出す(チケット売り切れましたが特別追加公演やります。)

ハイバイ

リトルモア地下(東京都)

2008/10/19 (日) ~ 2008/11/05 (水)公演終了

満足度★★★★

ねじれ、よじれる、可能性。
ハイバイの新作は、4つのジャンルのオムニバス。初日は、4つの中から、「SF」と「落語」。これが、とっても面白かった。

ネタバレBOX

オムニバス上演、最近、やたらと目にする形。それらの多くは、「手軽さ」をウリ、目的としているみたい。今回のハイバイの『オム二出す』も、お手軽で、とても初心者に優しいものになっている。でも、もちろん、それだけじゃない。僕は、オムニバス形式って、ハイバイのエッセンスそのものという気がする。

オムニバスという上演形式が、これほどしっくりくる劇団もないのじゃないか。ハイバイの作品は、いつも、一つの作品でも、なんだか、いくつもの作品を同時に観たような気になるのだ。

さて、初日に観た2作品だけれど、やっぱり、ハイバイらしいのは、「落語/男の旅—なつこ編」だと思う。

物語そのものは、とっても単純。三人の若者が、フーゾクへ。三者三様のフーゾク模様。役者さんは、一人で、その場の何人かを、落語よろしく、同時に演じる。時には、二人で四人を演じたり、三人で四人を演じたり、変則的なことも。

ホンモノの落語と違って、演じるので、一人をちょっと演じて、無言で場所を移って、もう一人を演じる。これで、例えば、ひとりでセックスしてる二人を、やったりする。爆笑をさそいながら、同時に、物語に、微妙なズレが生じる。つまり、役者さんが、役を入れかわるタイムラグが、物語そのもののズレと、まったりと重なっていて、最後は、一瞬、物語が、完全に二つに分岐してしまう。

これは、ちょっと、わかりにくい。観ていて、爆笑しながらも、気を抜くと、すぐに置いていかれそうになってしまう。そしてそれこそが、ハイバイの魅力のひとつだと、僕は思う。

ハイバイの作品は、けっこう、構造が複雑で入り組んでいる。それは、表面上の物語が単純にみえるだけに、いっそう不気味に、ぼんやりと、浮かび上がる。まっすぐには進まない。たとえば、小刻みな反復をくり返す。それは、同じことをくり返しているはずなのに、微妙なズレを生み出したりする。

そうするうちに、ひとつの物語……というより、「話」が、観ている僕の頭のなかで、どんどん勝手に分岐して、なんだか、無数の可能性そのものみたいにみえてくる。道は、ねじれよじれて、迷路みたい。ひとつの入り口が、たくさんの出口につながっている。

それは、なにやら、人、そのものに、触れている気がする。僕のカラダの底にある、敏感な所に、ぴとっとふれる。

僕にとって、それは、あまり気持ちのいいものではない。やめてよ、というほうが、どちらかというと強い。でも、それなのに、ハイバイの舞台を、とても楽しみに観てしまう。ハイバイは、観客をも、ねじれ、よじれ、させるのかもしれなくて、それは、気持ち悪くて、気持ちよいのかも、そんなふうにしか、いえない気がした。
生きてるものはいないのか

生きてるものはいないのか

五反田団

東京芸術劇場 シアターイースト(東京都)

2009/10/17 (土) ~ 2009/10/31 (土)公演終了

満足度★★★★

ぽっかり空いた、無の世界
 大味にみえて、とっても繊細なお芝居だと思った。

ネタバレBOX

 ちょっとしたひな壇があるだけの舞台の上で、17人、次々と意味なく死んで行く話。

 周りで人が死ぬ。最初はびっくりして、大声だして逃げたりしてたのが、段々慣れてくる。自分も助かりそうにないと分かると、誰と死ぬとか、何を言い残そうとか、なんとなく寄り集まって、みんなで日常に逃げ込むようすが、日本人の僕らそのままな感じ。

 ……と、ここまでは戯曲で読んでも同じ。でもここで、ト書きに一言「死ぬ」と書いてあるところに、どったんばったん七転八倒して必死の形相で死んでいく目の前の俳優さんが加わると、もう、なにも考えられなくなる。オーバーすぎる演技に、頭をごっつんごっつんする様子に、真っ赤になって血管浮き出た顔に。つられてけいれんしながら、こちらもただただ笑って笑って、お腹を抱えて笑っているうちに。ふと気づくと、なんだかわからない、なんにもない感じにとらわれて、ものすごく怖く、かなしくなった。

 どんどん死んで、最後の5・6人くらいになると、こちらも慣れて、笑わなくなる。でも、なんだかわからない怖さのなか、生きることをあきらめていく人々の間で、看取る看取らないでちょっともめるシーンがでてくる。

 「ちょっと、あれだけど、ちょっとわがままなんじゃないかな」
 「は? だって、僕死にそうなんですよ」
 「いやわかるけど、俺だってあれじゃん、いつ死ぬかわかんないじゃん、その時間をさ、ていうか、命を? 命っていっちゃうとちょっとあれ、あれかも知んないけど、そんな誇張してないと思うんだけど」

 「命」っていっちゃうとちょっとあれなところが、この作品、とっても高貴だな、と思った。「命」とか「運命」とか「魂」とか、そういう大きな言葉を使うことに対する、とてもデリケートな感覚がある。大きな言葉を、表現する人は使いたがる。簡単に心が動いたような気にさせるからだ。でも、それを使わない。

 「命」という言葉や、「死」というイメージの持っている、大きな意味とか理由とか、そういうものの価値が、慎重に疑われて、解体される。死体以外に何ものこらない最後のシーン。すべての価値をはぎとられて、ぽっかり空いた虚無の世界で、僕らはただ呆然とするしかない。
音楽劇 夜と星と風の物語

音楽劇 夜と星と風の物語

THEATRE1010

THEATRE1010(東京都)

2008/07/26 (土) ~ 2008/08/03 (日)公演終了

満足度★★★★

たくさんの自分、ひとつの自分
『夜と星と風の物語』は、じわりとしみ込む物語だ。きっと、観た人全部の中に、地下水脈としてたたえられていることだろう。

それは静かに、いつかきっと、何かの機会にしみ出して、乾いた心を潤してくれることもあるだろう。そんなことを思う。なんだか、今すぐではなくて、何年か先だとか、何十年か先の僕らに向けて演じられているような、とても不思議な舞台だった。

ネタバレBOX

当たり前のことだけれど、舞台には、役者という人がいて、そのことに、とても安心する。役者は、誰かを演じているのだけれど、大体において、舞台の上に居る間は、特定の誰かとして、そのまま、居続ける。

最近の前衛演劇の世界では、そういう、役者が特定の誰かになることに異を唱える流れがある。現代を生きる僕らは、いくつもの自分たちのなかを生きていて、「自分」として、一人の人物を特定する必要はないと、そういう流れにある人々は考える。そして、一人の人物を、例えば、複数の役者たちが同時に演じたりする。

自分は、何人いるものなのか。それは、時代によってかわるものである。近代と呼ばれる時代以降、長い間、自分は一人である世界が続いた。でも、それは、終わろうとしているのかもしれない。

自分の数はかわっても、からだの数は、ひとつ。そこに、演劇の、根本的な、救いは、ある。そういう気がする。

舞台上には、飛行士、飛行士の恋人、飛行士の両親が、登場する。けれど、今、記した、「飛行士」は、それぞれ、別人でありながら、同じ人物のようでもある。自分の数が、無数でありながら、ひとつなのだ。たとえば、飛行士は孤児で、彼の両親は、砂漠で、行方不明になった。つまり、「飛行士の両親」の息子と、ここにいる「飛行士」は、別人だ、ということになる。でも、今、この両親は砂漠をさまよっていて、そのまま、帰らなかったとしたら、「砂漠で行方不明になった」ことにはならないか。また、彼らは、昔、飛行士と、飛行士の恋人として、墜落した砂漠でさまよったという、今現在の記憶を共有しており、飛行士と恋人は、彼ら自身であるようでもある。こういう具合に、彼らは、ほとんど共通の記憶を共有しながら、すんでのところで、重なることができない、いくつもの自分たちなのである。

星の王子さまは、こんなことになってしまったのは、自分がやってきて、時間が混乱してしまっているからだ、という。そして物語は、この混乱を収束するために、後半、猛スピードで疾走し、からまりあっていた時間は、鮮やかにほどけていき、そして、ほどけたその先には、誰も残らない。

なんと静かで、不思議な物語だろう、と思う。このような、目に見えないものを描こうとする、抽象的な物語が、目に見える舞台という形をとろうとする。それを可能にするのは、舞台上に、役者という身体がいる、ということだ。彼らが動き、話し、歌うことで、僕らは、そこに描かれている抽象の向こうに、人の営みが捉えられていることに、そうとは知らずに気づくのである。

舞台の袖で、音楽も、生身の身体によって、奏でられる。抽象を表現する全てが、あえて、全ての要素をそぎ落とされたとしても残らざるを得ないだろう、ひとつの身体たちによって、具体的なものとして現前される。

そして、僕らは、確かに、そこに、居たのである。きっと、その場にいた他の誰かと、この舞台の話をしても、通じあうことはないかもしれない。みんな、違うことを感じたかもしれないのだ。それほど、今は、立場が、たくさんある。それでも、確かにそこに、一つの身体として居たというそのことだけは、きっと、共有できるのである。それは、たとえば未来の僕が、今の僕と、記憶を共有できなくなっているとしても、そしてそこでは、自分の数が、今と違っているとしても、やっぱり、通じ合える、ただひとつの確かなことなのだろうと、思う。
七人は僕の恋人

七人は僕の恋人

大人計画

本多劇場(東京都)

2008/11/08 (土) ~ 2008/12/07 (日)公演終了

満足度★★★

「べったり」or「突き放す」
とにかく、とんでもなくくだらない、下ネタオンパレードのコント集。どこまでアドリブなのかわからない、一回限りの瞬間にふくらむエネルギー。役者たちも大変だろうけど、観るのも大変。体力勝負。笑った。とにかく、疲れた。

ネタバレBOX

生徒8人、離島の分校でのオナニーをめぐるコント、本番だけ方言だらけになる地方のテレビ局コント、田舎の集落の労働者たちがM1を目指すコントなど、限定された地域を舞台にしたコントが目についた。

大人計画に全く明るくない僕でも、観ているうちに自然と入ってしまうくらい、俳優たちがキャラ立ちしているので、ファンならもっと楽しいだろうし、そうでなくても大丈夫。どんどん暴走する舞台に、三分の二を過ぎたあたりから、笑い疲れもあって、客席は、笑いよりも、大丈夫なのか、とはらはらしながら舞台を見守る。このギリギリのボーダーを疾走する感じが、置いて行かれる客席に妙な一体感を生み出す。不思議。

いつのまにか、全然知らない俳優たちが、好きになっていて、おどろく。でもそれは、こっそり好きでいたい感じのそれだ。劇場は、秘密のファン集会みたいな雰囲気になって、なんだかそれは、コントの舞台の、限定的な人間関係の空間と重なっていくようだった。だから、劇場を出るとき、ほっとしつつも、少し寂しい。あんなにくだらなかったコントたちが、なんだか、切なく映る。

最後のコントは、50を過ぎてもアイドルをやめられない男と、ファンをやめられないおばさんたちのコント。男は、医者に止めれられても、義理の息子に「気持ちわりー!」と殴られても、やめられない。おばさんたちは、彼が麻薬をやっていても、カツラだと知っても、やめられない。ホテルの部屋を借り切ったファンクラブイベントが終わって、みんな布団に入ったところで、「本日の公演はすべて終了いたしました」のアナウンス。そのまま、幕。カーテンコールもなし。最後まで置いてけぼりの客席は、それでも暖かい拍手を送る。

こんな夢オチみたいなコントで終わらせてしまうのが、すごい。それは、なんだか、べったりついていきたい、今のファンとの関係を、突き放すものでもあるからだ。ついていく安定をとるのか。不安定でも距離をとるのか。与えられる二択が、どちらも少し極端にすぎる気がするが、それは「関係」をめぐる問題そのものである。このギリギリのバランス感覚に、今をみつめるしたたかな目を、感じる。観客の態度が、試されていると思う。

すてるたび(公演終了)

すてるたび(公演終了)

五反田団

アトリエヘリコプター(東京都)

2008/11/15 (土) ~ 2008/11/25 (火)公演終了

満足度★★★

すてきれなかった名前
すてるたびを観ていると、なんだか、世界が、白紙に戻って行くような感じがする。

なぞなぞに、「じぶんのものなのに、たにんのほうがよくつかうもの、なーんだ」というのがあって、答えは、「なまえ」なんだけど、これが、幼稚園のころ、すごく不思議で、怖かった。すてるたびの向かう世界は、「なまえ」が不思議で怖いものだった、ちいさなころの自分がみていた世界に、どんどん帰っていくみたい。

ネタバレBOX

なんにもない空間に、パイプイスが四脚あるだけ。これを、どんどん動かして、空間が、いろいろな場面に、次々に変わっていく。それは、パッとかわるのではなくて、だまし船でだまされたみたいに、いつのまにか、ずれている、という感じに、変容していく。

男の部屋が、葬儀場になって、電車の車内になって、神社になって、穴の通路になって、洞窟になって。イスの動きだけで、場面が、これだけかわる。ナマで観ると、ほんとうにすごい。

また、それら、変化する場面で、四人の人物たちが、「タロ」という生きものらしいものを、扱う。これも、なにもないのに、四人の動きだけで、そこにいるように見える、不思議な生きものだ。犬だったり、死んだお父さんだったり、タロの実体は、よくわからない。定まらない。でも、それが、そこにあるようにみえる。

この、定まらない世界を観るのは、なぜか、ものすごく気持ちがいい。自分が、ほぐれていく気がする。いつも、イスをイスとしてみようとしたり、犬を犬としてみようとしたり、そういう仕方で世界を見ている僕らにとって、この、名前をつけようとすると、すり抜けていくような、ゆるやかな世界は、とても自由なものに思えるのかもしれない。

小さい頃の自分は、名前を、あんまり持っていない。とっても自由な世界だ。ものごとの境界線はとってもあいまいで、全部がつながっている。名前は、力で、名前が与えられると、そのものは、そのものでしかなくなり、安定するが、他のものである可能性は、うばわれる。

すてるたびの世界だけではない、前田司郎が描く世界は、一様に、こういう、ものごとの境界線を、すこしずつほどいて、世界を、名付けられる前の状態に近づけてていこうとする、たびみたいだ。名前をつけることで、あたらしいものやことが生まれるとしたら、この舞台は、すべてが、生まれる前の世界を目指している。どんどん、はじまりに還っていく。

還りついた先には、なにがあるのか。残念ながら、今回、すてるたびでは、わからなかった。というのも、この、白紙に還る、名前の呪縛から逃れていくような流れは、途中で、断ち切られてしまったからだ。

それは、温泉の場面。洞窟の中にいたはずの主人公は、いつの間にか温泉宿の露天風呂に、兄と一緒に浸かっている。そこへ、女性たちの声が聞こえてくる。まずい、隠れよう。二人は、ぴたっと、動きを止める。入ってきた女性たちは、彼らに気づかない。そして、ひとりが、しゃがんだ兄を指差して、「カエル」と言う。この瞬間。

僕には、しゃがんだ兄が、前田司郎にしか見えなかった。ここには、他の場面では、非常に注意深く用意されている、イメージの下準備がなされておらず、身体的な動きも、なかった。だから、僕は、「これはカエルですよ」という、女性の、言葉による説明を聞いて、しかたなく、前田司郎を、「カエル」としてみることを、承諾した。

「前田司郎だったものが、そうでなくなる」のではなくて、ここでは、前田司郎が、「カエル」と名付けられる。そして、その瞬間、僕は、名前によって、びっしりと支配された、現実の世界に、戻ってきてしまった。夢から、醒めてしまった。それ以降、かなりの間、夢がもどってくることは、なかった。

最後、四人は、「お父さん」の棺を、海に流す。でも、流れていかない。捨てきれない。すてるたびが、名付けをほどく、「名前」を捨てるたびだとしたら、それは、捨てきれなかった。それだけ、名前の、言葉の、支配は、強かったということかもしれない。前田司郎は、一瞬、気がゆるんだのか、名付けの権力を、ふるってしまった。

もし、流れが断ち切られずに、ほどけつづけて、なにもかもがほどけてしまったら、舞台は、どこへ向かったろうか。観てみたかった。少し、怖いのだけれど。

とりつくしま

とりつくしま

川崎市アートセンター

川崎市アートセンター アルテリオ小劇場(神奈川県)

2011/10/18 (火) ~ 2011/10/19 (水)公演終了

満足度★★★

目の前に、ない
 なんだろう、人のからだ。その、動きの標本を、みるかんじ。

ネタバレBOX

 なにもない、素舞台。ただひとつ、舞台と、客席の間に、大きな金属(?)のフレームが、無機質に設置してあって、舞台の中央部分は、客席からは、テレビをみるみたいに、フレーム越しにみるかたちになる。

 スキンヘッドの男性ひとりと、小柄な女性がふたり。ゆったりとした、部屋着のような格好で、あらわれる。そして、それぞれ、舞台を、ただ、ひたすら、ゆっくり、ゆっくり、歩いて、歩いて、時折伸びたり、縮んだりしつつ、歩いて、歩いて、舞台の外れに、座る。歩いたり、座ったり、そのタイミングは、三人それぞれ、ばらばら。ひとりが立って、二人がそれぞれ座ることも、三人とも、歩くことも、ある。ばらばらに見えて、ときおり、関係が生じるかに見えることも。ひとりが立ち止まって、振り返ったり、その先に、もうひとりがいたりする。でも、そこから、物語が生じたりは、しない。気づけば、また、それぞれに、歩いて、歩いて、歩いて、座る。これが、終わりまで、およそ一時間、つづく。

 音楽と呼べるような音楽は、無い。が、無音、というわけでもない。ゆっくりと、水滴の落ちるような音が、断続的に、続く。道路に通じる扉を開け放しているのか、録音したものか、車やオートバイの通り過ぎる、街のノイズも、頻繁に聞こえてくる。照明は、細かく調節されるが、暗い。終盤は、ほのかな青白さが舞台をつつんで、夜中に、起きだしてしまった部屋のようだ。

 消え入りそうに幽かで、静かな舞台。物語のない能、のよう。体験としては、忍耐の必要な、つらいものだ。エンターテインメント性は、かけらもない。そして、そのぶん、僕の、なんというか、もののみかたは、揺さぶられる。これはなんだ、と思い続けているうちに、色々な、精神的な、体験を、感じだす。勝手に。

 たとえば。ある場面では、男性が、歩いて、歩いて、歩いた末に、舞台の手前、客席側、フレームの外側に、舞台の方を向いて、座る。テレビを見るような格好になる。どこまでが舞台で、どこからが、そうでないのか。ゆらめく。そういえば、舞台が、あまりに動きのない場面のとき。客席の方が、よほど賑やかであることに気づく。観客は、僕も含め、こっくりしたり、もぞもぞしたり、必死に観ている。客席が、舞台のように感じる、そんな一瞬にはっとしたりする。

 たとえば、動きが、ゆっくりにすぎて、ときおり、演者が、前に進んでいるのか、後ろ向きに歩いているのか、わからなくなったり。はっと気づくと、心がどこかに逝きかけてしまい、前後がつながらなくなったり。それでいて、舞台の終了の際には、あっという間に終わってしまったように感じて、終わりということが信じられないような感じがしたり。僕の中の時間が、思い切り引き延ばされたり、部分的に消されたり、小さく圧縮されたりする。

 眠気と、戦っていた、ただそれだけのことかもしれない。舞台を基点に、頭の、心の、内側へと、ゆっくりと沈んでいく。目の前の舞台ではなく、演者たちは、こちらの頭の中にいる、そんな気になる、静かな、動き。ダンスなのか、なんなのか。僕にはなにもわからないけど、観なければ、思ったり、感じたりすることのなかったものを、思い、感じた。きっと家にいたら、なにも思うことはなかっただろう。
顔を見ないと忘れる

顔を見ないと忘れる

演劇ユニット昼ノ月

調布市せんがわ劇場(東京都)

2008/09/10 (水) ~ 2008/09/15 (月)公演終了

満足度★★★

こまかいところが、作られていく感じ
刑務所の面会室。テレビなんかでよくみる光景。でも、それが舞台に乗ると、こんなに広い世界につながるのかと、不思議な気持ちになる。

サイトなんかに写真が載っているけど、まず、舞台美術が不思議。実際に行ってみると、木の匂いと手作り感に溢れる、なんだか暖かいセット。そして、俳優と客席が、ほとんどふれあうくらいの、狭い、緊張感漂う、熱いセット。僕らも演劇の監獄に入れられたみたいな気になる。

獄中の夫と、面会にやってくる妻の、ふたりのやりとりだけなのに、そこに見たのは、夫役の二口大学さんと、脚本・演出の鈴江俊郎さんの、火花を散らすやりとりだった。濃密な関係を、こっそり、堪能した気分。

ネタバレBOX

冒頭、ぎしぎしとやってきた二人は、おもむろにリコーダーを吹き始める。なんだなんだ? と焦っていると、吹き終わって、あたふたと定位置に移動する。この「あたふた」な瞬間から、二口さんに釘付けになった。なんというか、なめらかな佇まいに。

面会は、緊迫した雰囲気に、なりそうで、ならない。終始、ぬるい、夫と妻のなれあいの空気。でも、その底に、冷たいものがある。次第に、妻に、男の影が。夫は、焦り始めるけれど、それを、気にしないそぶり。

妻は、夫の窃盗癖を、なじる。こちらは、なんだ、窃盗だったのか、と、安心するけど、妻は、職場で、いじめられるし、息子に、説明できないしで、つらいと訴える。これで、窃盗でつかまるのは四回目。二人とも、どこかで、慣れている。「もうしない」という約束に、安心して、またやってしまうのだろうと、夫を責める。それも、そこまで緊迫はしない。というか、緊迫できないところに、悩みがあるようだ。

なれ合いの空気というのは、舞台で、よく見かける。でも、そのほとんどは、役者の甘えから生じる、自然と生まれてしまうものだ。ここでは、「抜け出せない、なれ合い」を、「あえて」作ることが要求されている。難しいことだ。しかも、妻の役の押谷裕子さんの方は、結構必死になってしまっている。それを、二口さんは、膨大なぬるさで、包み込む。と、同時に、自分の空気を、容赦ない作家の要求を越えて、するどく、作っていく。こまかいところが、目の前で、今、作られていくかんじがする。

テアトロに、戯曲が載っていて、読んでみると、この戯曲は、かなりナイーブに、象徴的なモチーフをちりばめて、詩的な伏線を、文字の上で張っている。気づかなかった。気づく必要がなかったのだろう。あらかじめ作られた細部は、その場で俳優が生み出す細部に、瞬時に上書きされる。舞台って、面白い。

役者と作家の信頼が、濃密な関係を作る。昼ノ月は、京都のユニット。長く続けるつもりだという。今作も、去年初演の再演。じっくり、残して、育てる。地に足のついた、職人のような作家と役者が、高め合うような関係を作っていくのだろう。日々、消費されて、関係が生まれるほどに作品が残らない、東京には、足をつける地がない気がして、少し、うらやましくなった。

舞台は、最後、それまでのぬるま湯を吹き飛ばす、二口さんの、哀切極まる長台詞(方言がきつくて、ほとんど分からないのに、涙が出る)のあと、それでも夫を捨てられない妻の、「顔を見ないと忘れるぞ」で終わる。昼ノ月は、京都へ帰る。東京へは、しばらく来ないみたいだ。さびしい。また来てほしい。東京の僕は、顔を見ないと、京都の人が驚くくらい、あっという間に、忘れるだろうから。
ロロvol.6 『常夏』

ロロvol.6 『常夏』

ロロ

シアターグリーン BOX in BOX THEATER(東京都)

2011/10/25 (火) ~ 2011/11/05 (土)公演終了

満足度★★★

泡と荒野と
 演劇は、はかない。一生懸命つくっても、後にはなにも残らない。

 アニメやマンガ、小説、音楽、ドラマにCM、アイドルなどなど。物語ることを要求されるこれらのメディアの数々を、ひとまず大雑把に「フィクション」と呼ぶとして。ちかごろのそれは、寿命がものすごく短い。はかない。

 ロロは、これらのフィクションを、ひたむきに、演劇の中に閉じ込めようとしているみたい。どうしてそんなことをするのだろう。なぜ容れ物が演劇なのだろう。ロロを見たのは今度がはじめて。僕は、その表現方法のバランスの悪さに辟易しながら、一点突破の偏った熱量におどろきあきれながら、同時に、無駄にも見える、彼らの、フィクションに対する冷めた視線と必死さに打ちのめされた。

ネタバレBOX

 浴槽。それ以外にはなにもない異様なセットに、浴衣姿の女の子がひとり。「私は、風呂から生まれたフロ美。生まれて5秒で、恋に落ちた」と言う彼女の、「私の生まれるところ」から、舞台は、はじまる。

 何もないところに事件を見つけつづける探偵、「アリエル」を想いつづけるザリガニ、世界の破壊が使命の(肩が段ボール製のミサイルランチャーであることに悩む)怪人、それから、恋したりされたりには欠かせない女子たち。潔いくらいに現実を感じさせない、フィクションそのままなキャラたちの、「設定」と「恋」を出発点にした、無数の小さな場面が連なる。

 ひとつの場面は、次の場面がすぐそばで始まっても終わらない。前の場面の役者が、最後の動作を続けながら、残る。いくつもの動画が何重にも重なるPCディスプレイのように、パンツを脱がせ続けたり、パンツを脱がされ続けたり、なにかを探しつづけたり、客席に向かってピッチングし続けたり。残った役者は、同じ動きを繰り返しながら、ループし続ける動画のように舞台の一部に残り続ける。

 数えきれないくらいの場面は、最後まで、つながったり、ひとつの物語になったりしない。ばらばらの断片のまま。いつまでも終わらずに続きそう。と、突然(ほとんど唐突に)! 広末涼子の『MajiでKoiする5秒前』が流れ出したと思ったら、それまでずっと片隅で舞台を傍観していた浴衣のフロ美が、舞台上に残った「場面」を掃除するザリガニに飛びついて「スキ!」と叫ぶ。たたみかけるように舞台の三方を囲むカーテンが落ちて、むき出しの、劇場の裏側があらわになって、物語を動かしていた電源のブレーカーが落ちるみたいに終了。

 つまりは、この舞台。ホントに「生まれて5秒で恋に落ちた」フロ美の、「生まれてから恋に落ちるまでの5秒間」なのだった。それ以上でもそれ以下でもない言葉のまんま。意味付けやら解釈やらを凛としてはねのけて、ただ「言葉そのもの」として、激しい熱量で、舞台の上に「もの」化されてしまった「MajiでKoiする5秒前」なのだった。

 すごい! と思った。なんでわざわざ!? とも思った。とにかく、打たれた。だってまさか「MajiでKoiする5秒前」というフレーズだけを取り出して、言葉のままに、2時間かけて演劇化する、そんな発想、思いもよらなかったから。

 90年代の終わり(広末の歌は97年)から2011年現在までのフィクションたちは、もはやかつてのように「時代」や「物語」を背負っていない。うたかたの世に現れては消えていく、無数の泡のような存在たちだ。そのほとんどは、人々の記憶のうえには残らずに、人類のアーカイブ然とふるまうインターネット空間にのみ、ひっそりと、情報として、いつまでも残り続ける、それだけのもの。

 ロロの『常夏』は、そんなフィクションのはかなさを冷めた目で見つめながら、ものすごいエネルギーを消費して、わざわざはかない「演劇」という容れ物にぎゅっと濃縮した舞台。そして必死に「ただそれだけ」の舞台であろうとしているかのよう。それはつまり、それ以上のものとして、誰かの語るイデオローグライクな物語に回収されることを拒む、そんな若い潔癖さを持ち続けていることでもあるだろう。フィクションを舞台のうえでそのものとして見せる手法は強引だし、演出も雑。物語、意味付け、解釈。観客の楽しみをいくつも奪っているわけだから、もうちょっと丁寧に、表現手法で楽しませてほしいと、僕は思ってしまうけど、それでもロロは、溢れる若さを武器にして、今のまま、荒野をひたすら行くようなストイックさを持ち続けるのか。それとも……。
MOTION&CONTROL

MOTION&CONTROL

サスペンデッズ

OFF OFFシアター(東京都)

2008/08/19 (火) ~ 2008/08/24 (日)公演終了

満足度★★★

使い捨てられない
新国立劇場の企画「シリーズ・同時代」の一本として、『鳥瞰図』を観たのがついこの間。あの、笑顔が印象的な舞台が忘れられなくて、この公演を楽しみにしていたのだけれど、結果、やっぱり、良かった。

80分という上演時間や、劇場のサイズ、話の規模の小ささも含めて、全体的にこじんまりしている印象だけれど、それが物足りないと決めつけるわけにはいかない。というか、サスペンデッズという劇団は、「こじんまり」を受け入れることから始まるのかな、と思った。

ネタバレBOX

「こじんまり」ということは、多くを求めないことかもしれない。「老成」と評される早船聡さんだけれど、でもそれは、あきらめや、開き直りともちがう気がする。信頼、かな、と思った。観るものに負担をかけない、優しさかな、とも思った。

亡くなった先輩の葬儀に、地方へ向かう列車の中の二人が、大学の映画サークル時代を振り返る。別に、語り合ったりはしていない様子。ただ、ぼんやりと、個別に思い出す。狭い舞台が、現在の列車の中と、過去の部室を行ったり来たりする。

基本的なストーリーは、二人の、夢と、ひとりの女性をめぐる三角関係の、苦い挫折という、めずらしくないもの。それでも、不思議な、独自の味わいがある。なんだか、観終わったあとで、じわじわと感じる、なにかがあるのだけれど、それは、主役や脇役といった区別のない感じとともに、出てくるひとが、全員、しっかりとした背景を背負って、自分の人生を生きていることからくるという気がする。なんというか、使い捨てられる人物が、いない。

人だけでなくて、せりふにも、無駄なものがないかもしれない。ひとつの言葉は、次の場面に、じっくりと、厚みを加える。だから、僕らのほうも、自然と、しっかりと観ようとする、ということが、あるかもしれない。なんだか、信頼されているような、嬉しい気持ちになって、身を乗り出して、集中してしまう。

信頼は、世界にも及ぶ、という気がする。亡くなった先輩は、ただの卒業の遅れた大学生かと思ったら、実は、なんと、元戦場カメラマンで、愛する人を死なせたという壮絶な過去を持っている人だということが分かって、平凡な世界が突然、一瞬、裏返る。彼は、映画や大学といった「虚構」のなかに逃避したいと言い切りながらも、最後は、実家のりんご園を継いで(次男坊といっていたから、継いではいないのかな?)、日常の生活の中で死んで行く。「戦場で死ななくて、よかったよな」という言葉が、後から、ひびく。

僕は、この先輩が、よくわからない。無茶な設定に、そりゃないだろうという気持ちもある。でも、白州本樹さんという役者の力もあるかもしれないけれど、舞台を観終わって、広げられた物語が、きちんと折り畳まれて、スッと静かに消えていった感じがしたのに、この先輩の不思議な佇まいが、しこりのように残っていて、それがなんだか、嬉しいのだ。

この作品には、大きな感動だとか、深いテーマだとか、そういうものは、ないかもしれない。別に、涙も出ない。そのうち、話のほとんどを忘れると思うけれど、それでも、この、なんともいえないしこりを通じて、心の中に、生き生きとうごめく部分を、残していってくれたと感じる。「観た」という情報に終わる作品が多い中で、この作品は、確かに、笑いとともに、身体に残った。
休憩室

休憩室

弘前劇場

シアターグリーン BIG TREE THEATER(東京都)

2008/07/25 (金) ~ 2008/07/27 (日)公演終了

満足度★★★

90年代を振り返る、「静か」な目
97年初演。おそらく、大きな改変は行われていないと思う。

90年代日本演劇の、大きな流れのひとつとして、平田オリザさんや長谷川孝治さんが代表とされる、いわゆる「静かな演劇」が、ある。僕は、リアルタイムでそれらを観ていないけれど、今回、「静かな演劇」というのは、90年代という時代と、非常に密接にシンクロしていたのだな、と実感した。

11月に新作を発表するらしい弘前劇場が、この作品を今、再演したのも、一度、90年代を振り返って、乗り越えるためなのではないかな、と思う。

それにしても、空いていた……。カメラが入って、長谷川さんのインタビューなんかも撮ってたので、NHKかなんかでやるのかな。

ネタバレBOX

97年、僕はまだ10代で、引きこもりの気配を引きずりながら、定時制の高校に通い始めていた。ここにあるのは、あの頃の空気そのままだ。

舞台は、高校の職員室の、ある日の定点観測。どうということのない一日。ただ、2年生が修学旅行に行っていて、どこか、のんびりしている。交わされるのは、奥さんや旦那さんの話とか、健康診断の結果がどうとか、そんな普通の会話。大きな出来事は、起こりそうで、何も起こらない。

それなのに、普通の会話の向こうに、次第に、なにか、積み重なったものが見えてくる。具体的な話は出て来ないのだけれど、先生たちの、生徒たちの、見ている世界だとか、悩んでいることがらだとかが、見えてくるのだ。そして、彼らが、お互い、観客と同じく、相手のことを感じていながら、それを表に出さないようにしていることも、見えてくるのである。舞台上からは見えない「休憩室」がタイトルである意味も、ここにあるのだ。

これが、まさに、90年代だ、と思った。そして、当時の、一番ソリッドな形の「静かな演劇」というのは、そのような、90年代的な態度で世界を切り取るという、演劇的な手法なのだな、と思った。

つまり、90年代は、「静かな時代」(というか、「静かさ」を選びとる時代?)だったのかな、と、思った。「休憩室」を観て、僕は、なんだか、受け身な感じを覚えた。積極的なアクションは、何かを傷つける、だから、避ける。アクションを、「避ける」という行為を、選択する時代だと、思った。引きこもりに象徴されるような、僕の実感した90年代が、そのままあった。それは、10年以上たった今とは、明らかに違う空気感。きっと、その、今との差を、提示しているのだ、と思った。

今作は、「今」そのものを表現していない。でも、先へ先へと進む時代を見つめるために、10年前の空気を見ておくことは、「今」を見る、角度を変えてくれると、思った。この作品を観て、今の先端を走る劇作家たちの作品たちが、また、別の角度から見えてきたように、僕は、感じた。
幸せ最高ありがとうマジで!

幸せ最高ありがとうマジで!

パルコ・プロデュース

PARCO劇場(東京都)

2008/10/21 (火) ~ 2008/11/09 (日)公演終了

満足度★★★

パワーなき不条理
本谷有希子は、時代の声を代弁する巫女みたいな気がする。

で、僕は、今回の公演は、物足りなかった。パワーが無かった。ということは、それは、時代のパワーが、不足しているのかも。そんなことを思った。

ネタバレBOX

自分を、独自の論理で縛ることで根拠づけている人々が、お互いの存在理由をかけて、相手の論理と命がけで戦う世界。本谷の本は、いつも、同じような構造の、閉じた世界を描く。

今回も、永作演じる女は、世界に理由なんてないことを証明しようと、「無差別テロ」と称して、全く無関係の家庭を崩壊させようと、戦いを挑む。

精神科医から逃れた脱獄囚が、世界の無意味を証明するために無差別殺人をくり返す、1950年代アメリカの女流作家、フラナリー・オコナーの短篇小説を思い出す。こういう不条理を訴える話は、聖書にも出てくるし、普遍的な力を持つのだろう。

本谷は、一貫して、不条理を体現する女を描き続けているといえるけど、最近の本谷の描く、この手の女たちは、みな、どこか、パワーが弱い。

今回の永作も、最後は、「理由」がすべてという論理のウソを暴くはずだった自分が、実は、論理的に、不条理を証明するという論理の中にとらわれていることに気づいてしまって、バカの下流家族に敗北してしまう。

作品は、どこか、意味の迷宮を突き抜けることができず、論理にとらわれたまま、終わってしまう。すると、本谷の世界は、閉じたまま、現実の世界に触れることなく、お話として、消化されてしまう。心に、ひっかからない。

僕には、それが、物足りなく思えてしまったのだけど、どうだろう。本谷の作品がパワーを持つときは、不条理を体現する者が、独自の、破綻した論理を貫き通すことで、まっとうな論理を無化してしまう。そのエネルギーに、僕らは、論理を越えた、人の、得体の知れなさをみて、おののく。

一応今回は、バカの家族が、インテリ永作の理論を「バカの論理」で無化してしまうが、この「バカの論理」も、どこか、独自のものではない、規格の匂いを感じさせてしまう、弱いもの。「大きい声をあげた方が真実になる」というこの論理。なんだか、必要以上に、時代の声を取り入れてしまっているようなかんじがするのだ。

時代の申し子のような本谷が、パワーある不条理を描けない。ということは、時代が、不条理を生み出す力を失うほどに、弱っているのかもしれない。

舞台では、結構笑ったけど、そう思うと、僕は、しんみりしてしまった。理由のある、哀しい、弱い、笑いだった。
[EKKKYO-!]  冨士山アネット・快快・劇団山縣家・ピンク・夙川アトム・FUKAIPRODUCE羽衣参加!

[EKKKYO-!] 冨士山アネット・快快・劇団山縣家・ピンク・夙川アトム・FUKAIPRODUCE羽衣参加!

冨士山アネット

ザ・スズナリ(東京都)

2008/09/02 (火) ~ 2008/09/03 (水)公演終了

満足度★★★

残り香たちに聞いてみる
お笑い、ダンス、演劇、と、いくつものジャンルから、「ダンスっぽい」をキーワードに集められたパフォーマーたちの短篇作品集なのだけれど、ひとつの短篇作品が、こういう風に、ある方向性を持って、いくつも並べられるとき、それぞれの短篇やパフォーマーの、個別であるときには意識されないような、新しい面が輝きだすことがあって、嬉しくなる。

企画とプロデュースの手腕に、「ありがとう」と言いたい気がする。特に今回のイベントは、合間に挿入される、夙川アトムのショートコントが接着剤の役目を果たす、全体としてのまとまりが意識された構成。それぞれの短篇たちが、集って、ひとつの多面体を形づくっているかのよう。とても楽しかった。

ネタバレBOX

こういう短篇特集の場合、面白いのは、それぞれが短いため、吟味している余裕がなくて、観客の身体に、まだ前の短篇が染み付いているうちに、次の作品が始まるところだ。だがら、前の作品と、その後の作品が、どこか重なって見えて、韻を踏むようなゆるやかなつながりが生み出されたり、対比が鮮やかに映ったりする。

たとえば、女性三人組ダンスユニットPINKと、FUKAIPRODUCE羽衣。PINKの三人は、体操服とチアガールにはちまきで、熱血ダンスを踊る。音楽が終わっても、彼女たちの熱いダンスは終わらない。無音の世界に、ギシギシという舞台のきしみと、大音響にかき消されるはずの、激しい運動に伴う喘ぎ声が響く。三人はそのまま、ひっかいたり噛み付き合ったり、生々しい喧嘩をしながら(たぶん、ダンスをやめたいチアガールを、熱血体操服がやめさせないので、喧嘩になるのだと思う)、二曲目、井上陽水『リバーサイドホテル』に突入する。

羽衣の舞台は、シンガーソングライターが寝ている間に、ホテルにしみこむ、「セックスの残り香」たちが、歌を作るという、強烈なもの。PINKの残り香が、羽衣のホテル(その名も、HOTEL SEASIDE)にこだまする。コミカルで、生々しいエロさが、重なる。ここでは僕は、セリフや動きのおかしさで劣情を表現した羽衣よりも、無音の中でいつものダンスを踊るという、構造によるアプローチで、生き生きしたバカエロ世界を見せたPINKに軍配を上げたい。井上陽水という選曲も、いい。

さて、「リバーサイドホテル」といえば、ハイバイの『て』で、崩壊家族の、父親が歌うカラオケが印象に残っているのだけれど、家族というのは、交換不可能な人間関係の代表だ。劇団山縣家は、なんと家族の劇団。お父さんが作/演出/出演、お母さんと息子さんも出演。三人で、家族の出来事を、バカバカしく語る。「ぶっちゃけ、普段は、仲悪いです」と息子さん(チェルフィッチュの看板俳優さん)。でもこの絶対的な個性は、家族の誰かが入れ変わっても、消えてしまうものだろう。

それに対して、快快は、超フレキシブルな、交換可能ユニット。今回の演目でも、二人の俳優が、二人の人物を、刻々と入れ変わりながら演じる。チェルフィッチュよろしく、観客に向かって、二人が独り言のように自己について語りかける。物語はほとんど無くて、構造だけで勝負。こういうものは、構造の目新しさが決め手なので、短篇向き。つくりに慣れてしまうと、すぐにだれてしまう。二人の入れ変わりはスムーズとはいえず、今回はあまり成功とは言えないと思うが、活きの良さは伝わった。彼らの描く、物語が観たい。

PINKや羽衣の、カラダというものから、逃れようともがきながら、逃れられない葛藤を思えば、今、僕たちは、どこまでも「自分」から自由に、ニュートラルなものになろうとしているようだ。快快は、そこへいち早く向かっているようだけれど、そこにあるのは、物語を捨てた、「語りかけ」の構造だった。だが、そのとき、観客も、入れ替え可能みたいな気がする。快快のあり方は、観客を必要としない、独り言のようにも思うのだけれど、どうか。いずれにせよ、今後の世界の動向をかいま見たようで、とても楽しかった。

主催者の冨士山アネットの演目は、ダンスでありながら、頭だけで作ったような、カラダに訴えないつまらないもの。プロデュースの手腕は、実作とは結びつかないものであるようだ。
73&88【満員御礼!】

73&88【満員御礼!】

カニクラ

アトリエヘリコプター(東京都)

2009/07/15 (水) ~ 2009/07/19 (日)公演終了

満足度★★★

ルールと、内向きの本音
 芸能プロダクション所属の俳優さんたちによる、発表会的なお芝居は、関係者じゃない僕たちに、門戸を開いていたのかどうか。

ネタバレBOX

 偶然テレパシーでつながった、縁もゆかりもない人たち。不器用な人間関係から、その裏にあるお互いを思う気持ちだけが取り出されて、不純物ゼロの純粋な「会話」として、役者たちによって演じられる。

 なんだか変わったお芝居で、二つのルールが、舞台を支える。

 一つ。前提として、物語は、俳優たち自身の「あり得たかもしれないもうひとつの人生」を出発点としている。「もしも、俳優をやってなかったら……」という話を始めた俳優が、いつの間にか、もうひとつの自分とすり替わるところから始まる。

 二つ。がらーんとした、なんにもない舞台は、現実の空間じゃなくて、なんというか、コミュニケーションが行われる「場」みたいなものの見立て。チャットルームみたいに、役者が、ここに出てくると、その出て来た同士は「つながる」。テレパシーだったり、電話だったり、対面の会話だったり。実際の会話の、空間的な距離や、目を合わせない心理的な距離を無視して、この「場」でつながった同士は、膝つき合わせて、全力でコミュニケートする。

 ナイーブすぎる物語は、あんまり印象に残らない。舞台の主役は、このルールだ。

 この舞台、どうも、舞台上の世界だけで完結してるみたいな、とってもミクロな印象なのは、多分、「ルール」という考え方があるからじゃないかな、と思う。もともと、何かを制限するのが、ルール。自分で設定したルールを1ミリたりともはみ出さないこのお芝居では、ルールの外側が、想像できない。

 観劇していて、想像力が外側に向かわないのは、僕にとってはいつもと逆で、ちょっとヘンな感じ。小さな舞台を大きな世界と重ねてみたり、自分や周りの人を重ねてみたり。普通(って言っても個人的にですが)、舞台は、その外側を想像させる。この舞台では、それがなかった。

 じゃあ、代わりになにを想像したかというと、内側なのだった。役者さんたちが、楽しく稽古してる姿とか、作者が、そんな彼らに指示を与えて、楽しくワークショップしてるとことか、そんなことばっかり、目に浮かんじゃう。とっても楽しそう。でも、彼らの世界には、僕たち観客はいらないみたいに、僕には映った。

 表面的な物語は、全然知らない赤の他人とつながる、その大切さみたいなものを訴える。でも、その「他人」というのは、あくまで「演劇を作る側」という、限られた世界の中の、特定の「他人」に限られていたみたい。いつもは舞台の裏方に徹するはずのルールが主役に躍り出る、それは、演じられているものよりも、作っている人たちが主役なんだという、そんな内向きの本音。外にいる、他人の僕にはつながらなかった。
桜の三人おじさん【次回は9月featシェイクスピア】

桜の三人おじさん【次回は9月featシェイクスピア】

アイサツ

ギャラリーLE DECO(東京都)

2009/06/02 (火) ~ 2009/06/07 (日)公演終了

満足度★★★

めざせふじみの人?
 なんだか、形式とか、自分の方向を模索している様子が伺えて、楽しかった。

ネタバレBOX

 演出家は、自分の目指すものがはっきりと見えているわけではなくて、なんだか誰か、あこがれている人を目標にして、とりあえずそういう人を目指しているようす。冒頭の、ふじみの人みたいな「この三人姉妹は(中略)で、あーだこーだあるっていう話です」みたいな説明とか、だから、なんだか既視感がある感じ。

 チラシでは、なんだか根本からリメイクする、みたいな大風呂敷を広げていたけれど、フタを開けてみれば、かなりそのままの「三人姉妹」(ロシア固有の文化とか、ラテン語やフランス語が出てくるところとか、めんどくさいところがバッサリ、かなり雑に切り取られていたけど)。せりふの言葉だけ、「現代口語」風(そのへんも、よくあるかんじで)。このチラシとの差に、なんだか迷いがみえて、うれしくなっちゃう。

 一応、劇団のテーマは、「リアルなコミュニケーション」らしい。でも、あんまりリアルじゃない、と思った。そもそも、学生さんみたいな若い人たちが、中年男性とか、お爺さんとかやるわけで、だから、必然、絵に描いたみたいな「中年男性」とか「お爺ちゃん」とか、ステレオタイプ化がはかられていて、ロシア貴族の話が、なんだかあるあるライク。役者のうごきもどこかぎこちなく、おんなじ手振りなんかをくり返すかんじで、ちょっと抽象的な「リアル」。でも、そこが面白くて、客席と近い、狭い舞台で、若い役者さんたちが一生懸命な、どうしようもない実在する感じと、ぼやけた抽象的な感じが重なって、妙な現実感があるような。ラスト、突然リアルを捨てて、動物の耳をつけた役者さんたちが、「おとぎーばーなーしのよーうーな……」の歌に合わせてカラダを揺らす、ヘンテコなお祭り騒ぎの楽しさと相まって、どこかもやもやする、ヘンな舞台が楽しかった。

 えらそうに書いてしまったけど、僕は『三人姉妹』を読んだことがなかった。チラシを見て、読まなくてもよさそうだと油断したんだけど、観終わって、とってもモヤモヤしてしまって、ついつい読んでしまった。モヤモヤは、やっぱり、アイサツの側から生まれたモヤモヤだった。それは、なんだか、作り手の感じているモヤモヤなのかな、と勝手に思った。

 たくさん登場人物がでてくるので、どうしても、いろんな役者さんたちの寄せ集めみたいになって、アンドレイの人とかは、ひどかった。半分くらいの人は、ラスト、カラダを揺らすときに動きが悪く、ぶれぶれだらだらで、イライラした。練習もっと、してください。でも、ナターシャさんとか、オーリガとか、マーシャとか、男爵とか、印象に残る人もいて、惜しい。

 次はシェイクスピア、とのことだけど、どうだろう。今回みたいにちょっと小器用にまとめる方向だったら、つまんなそうだな。でも、このまま迷って、ひょっとしたら。また、観に行くかもしれません。
三月の5日間

三月の5日間

岡崎藝術座

お江戸上野広小路亭(東京都)

2008/08/03 (日) ~ 2008/08/05 (火)公演終了

満足度★★★

削ぎ落とされていかないものが
僕らは、なんだか、「海外」に弱い。「海外公演」とか言われると、なんだか、すみませんという気になる。そして、下手に出たり、逆に上から見下ろしたり、なかなか、正常な高さから見ることが、出来なくなる。

『三月の5日間』は、日本だけでなく「海外でも評価されている」作品だ。やっぱり、僕は、正常な高さをとりづらかったのかも、と、この、岡崎藝術座の上野・寄席公演を観て、思った。

ネタバレBOX

チェルフィッチュ版の『三月の5日間』は、なにもかもを、最終的には「舞台」や「役」といった根本部分にあるものまで、非常にシンプルに、舞台上から削ぎ落としていく。

そこに、僕らは、今を見る。なんだか、強迫観念的に、「海外」を意識する日常を生きる僕らは、「日本」の部分を意識しながらも、無意識的に捨て去ろうとしながら生きているといえる。いつもどこか、「海外」に寄り添うときのよりどころとして、余計なものを持たないニュートラルさを求めている。『三月の5日間』には、そういう僕らを描いている側面が確かにあると思う。そしてそれは、舞台上から色々なものを削ぎ落として、非常にニュートラルなものを表現しようとする岡田利規さんの演出と、重なりあう。

神里雄大さんの、上野版の舞台である「寄席」は、それこそ100パーセントの日本だ。どう頑張っても、そこからなにかを削ぎ落とすことなどできない、どこまでも「豊かな」空間で、「ニュートラルを目指す戯曲」に対して、正反対のベクトルを、戦わせる。

上演されるのは、上下関係や人情といった、豊富な人間関係に溢れた、下町の演芸の世界。つまり、下町の芸人たちによって演じられ、通の寄席通いたちとの掛け合いによって作られる『三月の5日間』なのだ。

それは当然、世界には通用しないだろう。しかしそこでは、オリジナル版では失われていたものが、取り戻されていく。もともと、この戯曲の持つ視点は、どこまでもニュートラルなもので、だからこそ、冷たい。コミュニケーションをかりそめにも行えない弱者は、次々と退場していって、顧みられることはない。

上野版で、神里さんは、特に、ミッフィーちゃんに、手を差し伸べる(代わりに、ユッキーさんの「渋谷の非日常」のくだりは、かなりばっさり省略される)。彼女を救うのは、上野の、濃密な人間関係だ。それは、ヒエラルキーが目に見える形で存在する、自由のない世界かもしれないが、代わりにそこには、暖かさがある。ミッフィーちゃんは、寄席の客たちと、演芸界の大御所らしきパンダ男に救われる。ここで、僕は、じーんと来てしまった。

オリジナル版で、ミッフィーちゃんを放置したものには、僕らの行う、なんというか、密度を薄くした、内容よりも、行為自体に重きのあるコミュニケーションがある。チェルフィッチュ版で、二人以上で舞台にあがった語り手たちは、「うん」「そうなんだ」と相づちを打ちあうが、そこには、実体的なやりとりは存在していない。上野で公演を行う芸人たちは、基本、コンビだ。かれらのやりとりは、常に相方と行われて、さらに、客席からのかけ声で補強される。密度がある。

そこには、ニュートラルでないが故の、内輪な排他性も感じられる。演出自体、一度意図がわかってしまえばそれで十分なものが、繰り返し使われるなど、荒削りで雑な部分が多々ある。それでも僕は、この、夏の日にきな臭さを運ぶゲリラ雷雨のように、あっという間に駆け抜けたこの岡崎藝術座の公演を、なんだかんだいってとても楽しんだ。それは「海外」を意識しない、貴重な時間でもあったのだった。
まほろば物語

まほろば物語

劇団SAKURA前戦

シアターグリーン BIG TREE THEATER(東京都)

2008/09/12 (金) ~ 2008/09/16 (火)公演終了

満足度★★★

演劇と、「労働」
客席から、すすり泣く声が続々聞こえてきて、ちょっとびっくりした。ベタな上にもベタな、チャンバラあり、人情あり、フラメンコあり(なぜ?)の、ハートフルなファンタジー。

泣いていた、今日の客席を埋めていた人たちは、普段、あまり舞台を観慣れていない人たちだろう、と思う。自転車で、近所の人に宣伝活動をしたというから、池袋の劇場周辺に住む、普通の人々かもしれない。

なんというか、キャラメルボックスを、大衆演劇と韓流ドラマで割ったようなテイスト。なんだか、ある種、伝統芸能みたいな感じがした。海外で受けていると、チラシにあるのは、こういう、「日本」っぽさが受けているのだろうか。

とにかく、僕ら東京の、いわゆる演劇ファンが、普段「演劇」だと思っているものとは違うものだ。普段の観方と、全然違うものが要求された気がした。

ネタバレBOX

出てくる人が、みな、優しい、いい人。悪人は全然出て来ない。それぞれの悩みを抱えて出てくるけれど、ファンタジーの世界を通じて、最後は、全て解消。でも、大団円に至る手段は、荒唐無稽なファンタジーだけれど、不思議と、彼らの選ぶ、その後の生活は、泥臭い、生活感溢れるものだ。

離婚後、一流広告会社・企画部をやめて自殺を考える男と、なにをやってもうまくいかず、強盗を考えていた男が、物語の最後に、定職につく。それはどうやら、作業着にヘルメットの、肉体労働なのだ。彼らが楽しげに仕事をする、ラストシーンの一場面は、なかなかじーんとくるのだけれど、つまり、どうやら、この劇団は、こういう、地に足の着いた、広告業界とかではない、「労働」こそが、まっとうな生き方なのだと考えているようなのだ。

この感覚は、東京で、演劇をやっている人や、演劇を観ている人には、ないものだと思う。僕らは、「労働」ということを、あまり考えない。考えようとしないのかも。よしんば考えたとしても、思いつくのは頭脳労働。作業着姿で、楽しく仕事をするシーンを、ラストに持ってはこないと思うのだ。

思えば、もともと演劇は、大衆の娯楽だった。普段、しっかりと手に職を持った人々が、たまの息抜きに楽しむ、生活に密着したものだった。今の僕などは、「労働」よりも、演劇を中心に生きている。それは、東京では珍しくないので、当たり前だと思っていたけれど、実は、かなり不自然な生き方かもしれないのだ。

社会の情報化した現実を考えれば、「労働」することでまっとうな暮らしができるというモデルは、当然、かなりのアナクロニスム。でも、なんだか、この舞台を観ていると、そして周りで泣いている人を見ていると、間違っているのは、社会の方なのじゃないか、という感じがしてくる。

考えてみれば、「労働」が描かれた演劇って、あまり観たことがない。演劇は、「労働」から遠い世界なのかもしれない。そして、「労働」を描かなくなったことで、「大衆」からも遠ざかっていたのかもしれない。大衆演劇の匂いを持った、この舞台は、だから、とても貴重なものだと、思った。

作者は、「労働」なんてこと、全然意識していないかも。でも、しつこいけど、「労働」を力強く描くということは、制作者の意図に関係なく、それだけで、こんなに強い印象を残してしまうものなのだ。そして、その上で紡がれる物語を、労働を忘れた僕らは、「ベタ」と呼んでしまうけれど、そこにこそ、しっかりと働いている人の心に届くものがあるのかもしれない。

泣けなかった僕は、やっぱり、いつもの演劇の世界の方が、好きなのだけれど。
五反田怪団

五反田怪団

五反田団

アトリエヘリコプター(東京都)

2008/08/01 (金) ~ 2008/08/03 (日)公演終了

満足度★★★

なんでもない世界
昼と夜の間、黄昏時の五反田は、とても不思議なところ。超近代的なソニーの工場の真向かいに、うらぶれた工場跡、アトリエヘリコプターが、ぽっかりとした佇まいを見せる。

こういう、境目、「間」にある空白では、何かが起こるかも……。

ネタバレBOX

みんな靴を脱いで、畳の上で、ぐるりと囲んで怪談話。「怪談を収集することを生業にしている」「吉田くん」と、なぜか「怪談話を恒例行事にしなければならない使命感」にかられる「前田さん」。

「霊的に強いと言われる劇団」青年団のメンバー二人(吉田くん曰く「僕らの業界でも、青年団と言えば、霊的に知られる劇団」)が、話の幅に厚みをきかせる。

京都からは、「霊的な仕事をしながら俳優をやっている」三人に、助っ人として「バイトを休んで」来てもらって、除霊関係もばっちり。

……この設定の紹介だけで、なんとも言えない空気が、伝わればいいのだけれど。僕らは、受付はじめ、スタッフ合わせて、五反田団のメンバー総出で作り出される、この、怖がっていいのか、笑っていいのか、ギリギリのボーダーの上を綱渡りする空気の中を、最後まで宙吊りのまま、体験させられる。

よくよく考えられているのか、たまたまなのか。怪談話は、こちらの世界と、あちらの世界の「間」の世界、空白の世界、という話を中心に、進められる。それは、例えば、頭の中で想像したイメージの世界だったり、夢の世界だったりする。そしてもちろん、生きてるものはいないのかもしれない、現前する死の世界だったりもする。間、空白。

そう、五反田怪団の空気は、全く、怪談なのか、ギャグなのか、真面目なのか、ふざけてるのか、それらの中心に、ぽっかり空いた空白地帯だ。つまりは、前田司郎さんの、いつもの感じなのだけれど、ファンのつどいのような、内輪の空気の側にぶれながらも、そちらに傾ききることはない。

最後、かなり長めの、しかも結構凄惨な怪談話が、笑うところなしに続いた後、とんでもないやり方で、「オワリ」の文字が、唐突に出てくる。そのまま、無言で、出演者全員、引き上げて終了。観客全員、唖然。声も出ないし、拍手もない。本当に、この瞬間、無駄に、観客の心は、ひとつになった。「どうしたらいいの?」

なんでもない世界が、一瞬、開ける。いや、開かなくてもいい世界かもしれないけど、この感覚は、他では味わえない、独特のものだ。

演劇ではなく、「語る」という体なので、みんな、意味のないジェスチャーをしながら語る。ダンスまがいの過剰なジェスチャーと、伝わらない日本語で語られる、「斉藤くん」の「怖くない話」が挿入されることで強調される、こういう、普通の仕草が、なんだか、チェルフィッチュのパロディーのようにも見えた。どこまでも、意味のない、本当になにもない空間。

五反田怪団で本当に怖いのは、この、空白なのだ。僕は、圧倒的な、この無意味な空白を前に、ただ、笑うしかないのだった。
4x1h Play #0

4x1h Play #0

4x1h project

ギャラリーLE DECO(東京都)

2008/09/20 (土) ~ 2008/09/28 (日)公演終了

満足度★★★

短篇の「テーマ」
リーディングによるコンペで、観客によって選ばれた2本の短篇を、ひとりの演出家がつくるという企画モノ。

ちかごろ、こういった短篇企画を目にする機会が増えた。演劇のスタイルが、追いかけきれないほどに多種多様になっている、今の状況にあっては、色々な形のものに、一度に触れることができるのは、嬉しい。

ただ、演劇の短篇は、長篇とは全く違うもので、作る側も、観る側も、その差を、十分に意識する必要があるのではないかと、思う。この公演を観て、僕は、特に、それを感じたのだった。

ネタバレBOX

二作品とも、不満が残った。

『ひとさまにみせるもんじゃない』(中屋敷法仁・作)では、衣装をかなぐり捨てた俳優たちが、舞台中央の台に殺到。テンションにまかせて、せりふを、叫ぶ。滑舌の悪い俳優が混じっているうえに、コンクリ打ちっぱなしの壁に反響して、聞き取れない。また、みな、台の上では、ポーズを取って、動きを止める。俳優たちは、よく動いていて、迫力満点なだけに、もったいない。

『いそうろう』(篠田千明・作)は、二人芝居。二人のケンカの顛末を描く。脚本の眼目は、「冷蔵庫は、シャープの白。三段の真ん中が冷凍庫、下が野菜室」というような、異様とも思えるほどの、せりふにおける、細部の描写だと思ったのだけど、今回は、バックの紙に、せりふと同時に絵を描くという演出。せりふのスピード感は捨て去られ、ひとつひとつ、丁寧に演じて行く、ビジュアル重視の、まったりとした雰囲気。ビジュアルが勝ちすぎて、せりふが、耳に入らない。

アフタートークで、演出の黒澤世莉は、自分の演出について、「脚本からテーマを取り出す」と発言。そして、中屋敷脚本について、「テーマが、『意味なんてないよーん』というものなので、僕にはつらかった」とも。

僕は、中屋敷脚本に触れるのは、今回が初めて。痴漢に恋をして、変態たちと鉄道警察の、血みどろの抗争に巻き込まれる女子校生の物語には、内容はないかもしれないけど、意味はあると思った。というか、脚本のキモは、「文体」だと思った。

たとえば、女子校生が恋する痴漢は、生き別れの母を捜して、女性の胸を触るのだけど、彼の登場には、常に、「オーッパイをタッチング・オーッパイをタッチング」というくだらないことこの上ないせりふが、お能における地謡よろしく、通奏低音のようにつきまとう。こういう、中身は無いけど、耳ざわりのいい言葉の積み重ねで、この本はできていると、僕は思った(町田康の文章みたい……というか)。

同じく、『いそうろう』も、頭の中に、状況よりも先に、異常に精緻な情景を創りだしてしまうという、パラノイアチックな描写がつらつらと連なる、せりふの持つ文体にこそ、刺激があった(先の、篠田演出バージョンは、ビジュアルを極力排して、せりふを際立たせる演出だった)。

両作品とも、リーディングを勝ち残った、聴かせる文体を持つ作品。「文体」は、脚本の「細部」と言えるだろう。それは、「テーマ」という、大きなものを前にしてしまうと、見えなくなってしまうものだ。でも、短篇の「テーマ」は、「細部」に宿ることもあるのではないか。黒澤さんのやり方は、「短篇」というものを、大きなテーマを欲しがる自分に、あわせようとしていると、感じた。短篇には、短篇の形があると思う僕には、違和感だけが、残ったのだった。
ピース-短編集のような・・・・・

ピース-短編集のような・・・・・

グリング

ザ・スズナリ(東京都)

2008/07/30 (水) ~ 2008/08/11 (月)公演終了

満足度★★★

透徹する、負に負ける
連作短編は、多様な立場にある人の、様々な面を浮かび上がらせる。人々をつなぎ止めているのは、連作を貫く、強烈な、現代社会への問題意識だ。旧作2本、新作4本からなる6本の短編は、それぞれが、問題提起と、その回答を、提示する。

扱われている問題の設定が、とても鋭い、と思った。非常に強い、危機意識を、感じさせる。とはいえ、舞台は、バランスが考えられていて、非常に重いものを含みながらも、なんとか、明るく、軽やかな方へと、向かおうとする。

これを、どう見るか。僕には、問題意識が強すぎて、鋭すぎて、もう、オムニバスという形式では、背負いきれていないように、思えた。全体的に、意識的に作り出された、明るさ、軽さが、かえって浮いてしまい、全体を貫くテーマの抱える重さを、より、浮き彫りにしてしまっている、と、感じた。

ネタバレBOX

「世界は、確実に、悪くなって行っている」という独白が、出てくる。この作品で、短編たちをつなぐのは、このような「負」の意識だ。連鎖、というほど緊密なものではないけれど、玉突き事故のように、なんとなく、ネガティブなつながりで、それぞれの短編が、繋がっている。

「負」の問題意識の中で、最も先鋭的に扱われているのは、様々な形の、暴力の問題だ。冒頭、喫煙所に排除された人々の会話。タスポがなくて、タバコを買いにいっても、買えない。禁煙の流れが持つ、喫煙者への暴力の被害者たちが、今度は、原子力潜水艦の入港に反対する運動を行う側になる。

劇場は、下北沢再開発反対運動の中心地、ザ・スズナリ。舞台上で行われている、運動の、排除する側とされる側が、常に一人の人の中に同時に存在する構図が、運動のビラを見ながら劇場の入り口をくぐった僕ら、舞台の外まで、取り込む。

この問題意識は、作品の中で、蝶と蛾を区別し、無根拠に、一方を排除するという暴力として、繰り返し提示され続けることになる。

僕は、この冒頭に、やられた。鮮やかだ、と思った。そして、はっきりと提示された問題設定に、どのように取り組む作品なのか、息をのんだ。

作品中の人々は、みな、自分の立場が危うくなって、排除される側に回ろうとしている人たち。そして、彼らの出す回答のうちのいくつかは、自分が、排除される前に、排除する側に回るという、救いのないものだ。だが、このような回答に対する、さらなる反論として、エピローグが提示するビジョンは、あまりにも、無力だと、思う。

物語は、自分の世界を捨てて逃げ出そうとした男たちの断念と、夫の自殺を乗り越えた女性の、生まれてくる新しい命を、決して人を、殺さない、殺されない命に育てよう、という、決意、のようなもので、幕を閉じる。彼女の、のめりこんでいた「反対運動」に対する、「どうでもよくなっちゃいました」という言葉は、印象に残る。

でも、この彼女の決意は、積み重ねられた負の連作に対する反論としては、あまりにも弱い。結局、自身を支えるのは、自身の「決断」「意志」であり、「確実に悪くなっていく世の中」を、自身の意志で乗り切ろう、という、なんだか、精神論的な回答に、僕は、がっかりした。そして、せめてそれなら、彼女の心の変遷を、もっとじっくり、長編として描いてくれたら、と、思った。

男たちの、逃避への断念も、彼らではなくて、状況が引き起こした断念であって、結局かれらは、日々の生活へ、嫌々ながらに、引き返すだけだ。そこには、「回答」と呼べるようなものは、ない。

重い作品を、必死で軽めようと、笑いが挿入される。不自然ではないけれど、笑いを取るのは、いつも、物語の本質とは関係のない、いわば、笑い専門に用意されたような人物たち。作品が、自分の用意した自身の「負」の重さに負けている。自分で用意した問題に、答えることができずに、自身の重さで、つぶれてしまっている。そして、せっかくの短編集が、透徹したテーマによって、一つに回収されてしまっている、と、思った。

このページのQRコードです。

拡大