すてるたび(公演終了) 公演情報 五反田団「すてるたび(公演終了)」の観てきた!クチコミとコメント

  • 満足度★★★

    すてきれなかった名前
    すてるたびを観ていると、なんだか、世界が、白紙に戻って行くような感じがする。

    なぞなぞに、「じぶんのものなのに、たにんのほうがよくつかうもの、なーんだ」というのがあって、答えは、「なまえ」なんだけど、これが、幼稚園のころ、すごく不思議で、怖かった。すてるたびの向かう世界は、「なまえ」が不思議で怖いものだった、ちいさなころの自分がみていた世界に、どんどん帰っていくみたい。

    ネタバレBOX

    なんにもない空間に、パイプイスが四脚あるだけ。これを、どんどん動かして、空間が、いろいろな場面に、次々に変わっていく。それは、パッとかわるのではなくて、だまし船でだまされたみたいに、いつのまにか、ずれている、という感じに、変容していく。

    男の部屋が、葬儀場になって、電車の車内になって、神社になって、穴の通路になって、洞窟になって。イスの動きだけで、場面が、これだけかわる。ナマで観ると、ほんとうにすごい。

    また、それら、変化する場面で、四人の人物たちが、「タロ」という生きものらしいものを、扱う。これも、なにもないのに、四人の動きだけで、そこにいるように見える、不思議な生きものだ。犬だったり、死んだお父さんだったり、タロの実体は、よくわからない。定まらない。でも、それが、そこにあるようにみえる。

    この、定まらない世界を観るのは、なぜか、ものすごく気持ちがいい。自分が、ほぐれていく気がする。いつも、イスをイスとしてみようとしたり、犬を犬としてみようとしたり、そういう仕方で世界を見ている僕らにとって、この、名前をつけようとすると、すり抜けていくような、ゆるやかな世界は、とても自由なものに思えるのかもしれない。

    小さい頃の自分は、名前を、あんまり持っていない。とっても自由な世界だ。ものごとの境界線はとってもあいまいで、全部がつながっている。名前は、力で、名前が与えられると、そのものは、そのものでしかなくなり、安定するが、他のものである可能性は、うばわれる。

    すてるたびの世界だけではない、前田司郎が描く世界は、一様に、こういう、ものごとの境界線を、すこしずつほどいて、世界を、名付けられる前の状態に近づけてていこうとする、たびみたいだ。名前をつけることで、あたらしいものやことが生まれるとしたら、この舞台は、すべてが、生まれる前の世界を目指している。どんどん、はじまりに還っていく。

    還りついた先には、なにがあるのか。残念ながら、今回、すてるたびでは、わからなかった。というのも、この、白紙に還る、名前の呪縛から逃れていくような流れは、途中で、断ち切られてしまったからだ。

    それは、温泉の場面。洞窟の中にいたはずの主人公は、いつの間にか温泉宿の露天風呂に、兄と一緒に浸かっている。そこへ、女性たちの声が聞こえてくる。まずい、隠れよう。二人は、ぴたっと、動きを止める。入ってきた女性たちは、彼らに気づかない。そして、ひとりが、しゃがんだ兄を指差して、「カエル」と言う。この瞬間。

    僕には、しゃがんだ兄が、前田司郎にしか見えなかった。ここには、他の場面では、非常に注意深く用意されている、イメージの下準備がなされておらず、身体的な動きも、なかった。だから、僕は、「これはカエルですよ」という、女性の、言葉による説明を聞いて、しかたなく、前田司郎を、「カエル」としてみることを、承諾した。

    「前田司郎だったものが、そうでなくなる」のではなくて、ここでは、前田司郎が、「カエル」と名付けられる。そして、その瞬間、僕は、名前によって、びっしりと支配された、現実の世界に、戻ってきてしまった。夢から、醒めてしまった。それ以降、かなりの間、夢がもどってくることは、なかった。

    最後、四人は、「お父さん」の棺を、海に流す。でも、流れていかない。捨てきれない。すてるたびが、名付けをほどく、「名前」を捨てるたびだとしたら、それは、捨てきれなかった。それだけ、名前の、言葉の、支配は、強かったということかもしれない。前田司郎は、一瞬、気がゆるんだのか、名付けの権力を、ふるってしまった。

    もし、流れが断ち切られずに、ほどけつづけて、なにもかもがほどけてしまったら、舞台は、どこへ向かったろうか。観てみたかった。少し、怖いのだけれど。

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    2008/11/28 11:36

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