風吹く街の短篇集 第五章
グッドディスタンス
小劇場B1(東京都)
2021/07/14 (水) ~ 2021/07/19 (月)公演終了
hedge 1-2-3
serial number(風琴工房改め)
あうるすぽっと(東京都)
2021/07/08 (木) ~ 2021/07/19 (月)公演終了
実演鑑賞
満足度★★★
「経済」をドラマの中心に置いた舞台は、なかなかその成功例が思い浮かばない。
貿易商が舞台になった「女の一生」の支那貿易についてのシーン以上に、うまく芝居にならないのだ。この作品は経済から日本を描く金融エンタティメント、とうたっているが、表面的には、今をはやりの投資ファンドや、金融規律を守るためのインサイダー取引の規制を素材にし、その英語をそのままタイトルにしているところなど、目新しい趣向ではあるものの、内容的にはよくある中小企業の古めかしい企業小説の世界以上に出ていない。
長い歴史のある工場内の物品移動の工場用クレーン専業の中小企業の企業改革に投資ファンドが力を尽くす前半、1時間50分と、その投資ファンドがインサイダー情報の取り扱いで証券取引等監視委員会の摘発を受ける後半一時間。ほぼ三時間の長丁場が今の企業社会を映すように男性のみのキャストで演じられる。
冒頭には、現在の銀行金利の低下から、投資でなければかつての金利生活者のような生活は望めない、という事や、投資が狙うのはヘッジも含め、金融の広範な領域にわたるというようなことが、解説されるがそれは、劇中でも言われるようにドラマの中身にはほとんど関係がないし、観客もそれくらいはご承知だろう。
タイトルのヘッジは前半のドラマの軸になっていないし、後半は結局は男女の人情噺に落ちていく。素材に飛びついたのはいいが、処理に困ってありきたりな世間話でまとめてしまった印象である。
今どきのドラマにするなら、現に活躍が見えてきた女性の企業社会への進出のどのほうが、ドラマチックだろう。またリズム楽器にトランペットの演奏をナマで見せる音楽も、内容にマッチしているとは思えず趣向倒れになってしまっている。
一九一一年
劇団チョコレートケーキ
シアタートラム(東京都)
2021/07/10 (土) ~ 2021/07/18 (日)公演終了
実演鑑賞
満足度★★★★
大逆事件からはすでの百年以上たっている。日本が近代国家としてようやく成立したばかりのころに起きた事件が、今なお、観客の心をうつのは事件がこの国の構造に深く根付いているからだ。その構造の上部構造にも下部構造にも触れた優れた社会劇である。
この国土に生きる観客は、現代の愚昧な政府の権力志向とちっとも変っていないなぁ、という悲しい詠嘆を超えて、心を打たれ、考えさせられる。
二十世紀初頭の社会主義思想の平民への衝撃は、近代国家ではそれぞれに受け止められていて、アメリカでは「赤狩り」が、ヨーロッパでは「ロシア革命」がしばしば芝居の素材になる。日本でも戦後大逆事件が解禁になってからは、いくつもの作品があるが、今回の作品はそれらとかなり趣を異にしている。世俗的な事件の経緯に沿ってはいるが、近代国家で生きるという事を、集団を率いる権力と、個人の生きる自由の対立に絞っている。そこがいい。
舞台は、東京地裁の予審判事、田原(西尾友樹)と潮(佐藤弘幸)が大逆事件を裁く大審院の予審判事として呼び出されるところから始まる。山縣有朋(谷仲恵輔)によって仕組まれ検察によって実行された政府転覆の事件への嫌疑で当時生まれたばかりの平民社関連の人びとがとらえられ、当時の法律でもせいぜい数年の禁固刑が最高の被疑者たちが死刑台に送られる。爆裂弾とか判決後の天皇による恩赦とか、劇場性もしっかり組み込まれたこの専制国家確立のためのドラマの一翼を担ぐことになる。ドラマは国民平等の近代法と、専制国家の政治の論理のはざまで、職として判事の務めを果たそうとする予審判事に対し、被告として唯一登場する菅野須賀子(堀奈津美)は毅然として人間の生きる自由を主張する。
2時間20分余り、休憩なしの舞台の前半は、国家が仕組んだ国家権力のドラマに巻き込まれていく平民の予審判事の苦悩が描かれ、後半は人間は自由に生きるという原点から全くブレない菅野須賀子との取り調べになる。これらの事件の素材や対立軸は現代の観客にも通じるようによく吟味されていて、全く飽きない(よくある時代物のように、メロドラマに媚びていない、ここもいい)。
ことに、菅野須賀子を演じる堀奈津美が自分の信念を鼻っ柱の強さで表現していて、今までに見たさまざまの菅野須賀子のなかでは異色の面白い出来であった。
今年のチョコレートケーキはコロナ禍でも大活躍で、今年の春の「帰還不能点」に続く日本の権力構造についての優れた舞台であった。権力をその中から見るというのは新しい視点で、そこに新しい日本観もあって、大いに評価できるが、観客としては、かつて「80’エレジー」のような、市民のなかに巣くっている権力ドラマもぜひ見てみたいと思う。
このコロナ禍でも、特に動員したとは見えない老若さまざまに入り乱れた観客でトラムは9分の入り。これからもっと混んでくるかもしれないが、芝居を見たという充足感のある舞台である。
別役実短篇集 わたしはあなたを待っていました
燐光群
ザ・スズナリ(東京都)
2021/06/25 (金) ~ 2021/07/11 (日)公演終了
実演鑑賞
満足度★★★★
別役実戯曲の新しい発見のある公演だ。
戯曲そのものは手を入れていないというから、かつても同じような本からいくつもの別役作品を見てきたのだが、早稲田小劇場でも、文学座でも、円でも、木山事務所でも、ケラでもない、いままでになかった上演である。それが、燐光群風社会ドラマと言うのではなく、戯曲に寄った新しい舞台になっているところがいい。
今回は四作品の上演でその二作を見た。
「いかけしごむ」と「眠っちゃいけない子守唄」は登場人物が二人づつ。
「いかけしごむ」は町はずれの行き止まりの路地の奥の小さい広場。“ここに座らないで下さい”と張札を付けたスタンドの前にベンチ。上手に運命鑑定の行灯のあるテーブル。その上からいのちの電話につながる黒電話がぶら下がっている。
女性(鬼頭典子)が現れ、そのベンチに座る。何事も起きない。そこへ平凡なサラリーマン(萩野貴継)がごみ袋を手に現れ、追われているという。女に問われ、追われている理由は彼がいかけしごむを開発してその秘密を東欧の秘密結社に狙われているからだ、と答えるが、女に追及されて、実は妻に逃げられ、原料と称して持っているごみ袋の中の「いか」は実は捨て場を探している殺した子供の死体だ、という事が分かってくる。
別役作品についてよく言われる不条理演劇(と言う翻訳は適訳とは思えないが)風ではなく、原語で言えばabsurdな展開である。しかし、ヘンテコながら物語はコントのような、ホラーのような、小市民ドラマのような、論理的な筋を追って進み、別役作品ならではの世界になっていく。
、緻密に計算された本を、坂手演出は本に忠実に演出していて、いままでのように演出者があらかじめ決めた世界(多くはいかにもの不条理な世界)に作りこんでいないので戯曲の魅力がはっきり出ている。そこが新しい。面白く見られる。
「眠っちゃいけない子守唄」では眠れない男(さとうこうじ)が派遣サービスから話し相手の男(大西孝洋)を呼ぶ。男は、自分が何者かも知らず、知ろうともせず、眠ることで最後が来るのを避けるために派遣の男を呼んだのだ。解説によれば、眠らない男はナチ迫害下のユダヤ人であり、派遣の男は現代人という事になるが、そのような寓話的解釈によらずとも、
雪の降る夜に、自らも何者か知らず、理解できない他者を話相手にせざるを得ない(そのために会話は常に方向を失う)人間の孤独と滑稽は切々と伝わってくる。
ここでも、男が記憶している過去は「よっちゃん」と呼ばれていたこと、自分に寝るなと命じた人は「としこ」という名だったと日常的な言葉がポイントに使われていること、通じない言葉で会話をすることを夢想するなど、日常の中にある人間関係を言葉から効果的にドラマに仕組んでいる。別役作品ならではの面白さだ。
俳優はそれぞれ、演出の意図を心得て好演。余計なものを見事に切り落としている。
かつて、坂手洋二が「マッチ売りの少女」を新国立で再演した時、鈴木忠志演出で見ていた筆者は非常に違和感を覚えた。それから、20年たって今見る坂手演出はまた変わって、意外にしっくりした。今なら白石加代子は70年代の「時代」の舞台だったと言い切れるかもしれない。観客もまた変わっているのを実感する。
他の芸術と違って、演劇の戯曲は時代とともに様々な衣装を着けることができる。そして新しい観客に触れる。一期一会、演劇の面白さの一端に触れる公演でもあった。
黄色い叫び
TRASHMASTERS
サンモールスタジオ(東京都)
2021/06/23 (水) ~ 2021/06/27 (日)公演終了
実演鑑賞
満足度★★★★
何度も再演されている中津留のディスカッション・ドラマで初演以来十年もたつのに、色あせないばかりか、コロナ禍のもとの中央政権のあやふやで頼りない無責任体制を見るにつけ、このドラマが描いた国民の怒りは地方からふつふつと中央に押し寄せているのを感じる。政治を担うものと国民との乖離は長く言われてきたがいま、それは、一層明らかになっていて、オリンピックを機会にそろそろ手が付けられない状態になっている。
この作者はそれが人間なのだ、と、図式的にならないように多くの作品を書いてきているが、ここに至れば、このドラマも、今こそ見るべきドラマ、という事になる。小さな劇場での再演だが、満席の客席の空気は重かった。
首切り王子と愚かな女
パルコ・プロデュース
PARCO劇場(東京都)
2021/06/15 (火) ~ 2021/07/04 (日)公演終了
実演鑑賞
満足度★★★★
劇場新装のこけら落としがコロナ禍にぶつかったのは、不運だった。
ステージに向かって扇型に広がるスロープのある芝居を観るのは最適の700程の客席を持つパルコ劇場の自前の制作作品である。ここで新しい渋谷劇場文化を打ち出そうという意欲が作・演出・キャスティング、美術など、舞台のすみずみまで溢れている。
なかでも、意表を突いたのは物語。
タイトルだけを見ると、時代錯誤かと思うようなタイトルだが、中身はいまをはやりのコミック原作を思わせる奔放なファンタジーだ。しかし、2・5ディメンションとは全然違う。作・演出の蓬莱竜太はもともと小劇場の出身で、小さな世界を得意としていた。それがデビュー以来20年地道に経験を重ねてこの大型のファンタジーの世界で演劇を作った。時代も場所も架空の王国という現実の手掛かりが全くない世界を舞台にするのはかなり難しいが、成功すれば「スターウオーズ」のように大きく化ける。内々、そういう狙いがあるのかと思わせる器量の大きさがあるところが面白い。するとこれはエピソードXなのだろうか。
没落が忍び寄っている女王(若村麻由美)王国の跡継ぎ王子(井上芳雄)をめぐる権勢争いに揺れる王宮に庶民の若い女(伊藤沙莉)が巻き込まれる。愚かな身分の低い女と言われながら、不運な運命を背負った王子とともに王国の明日を開いていく。まぁ、なーんだと言われるような話ではあるが、変に時勢批判や時流に媚びたりしないでまっとうに現代のファンタジーを作ろうとしているところを評価したい。広いステージを生かして多くの構成デッキを組み合わせて舞台を作っていく美術も、歌える主演者を生かした印象的な音楽も、ベテランの中に一人入っている新進の女優伊藤沙莉も、なかなかいい。王子と愚かな女の違いをセリフで見せているところなど蓬莱らしい工夫である。
昼間の公演だがほぼ9割の入り。ファン客ばかりでないところも頼もしいが、こういう演劇がどのように発展していくかは、よくわからない。劇場の力量にかかっている。
目頭を押さえた
パルコ・プロデュース
東京芸術劇場 シアターイースト(東京都)
2021/06/04 (金) ~ 2021/07/04 (日)公演終了
実演鑑賞
満足度★★★★
開場したころから独特のカラーで都会の芝居好きの心をくすぐる芝居を作ってきたパルコ劇場がフレッシュなキャスト・スタッフで、次世代の商業演劇を創ろうという新路線。新装なった劇場の「ショーガール」から三谷幸喜に次ぐ、柱になる路線を開発しよう、と言うわけだ。目の付け所はいい。
ジャニーズ男性タレントに代わり女性タレントを主役に広い分野からのキャスティング。芝居の書ける若い作家。収まりのいい演出家。日常生活とつながるアクチュアルな素材。まずは、外の一回り小さい劇場でのトライアウト。正攻法のトライアルがこの東芸イーストでの「目頭を押さえた」40公演だ。
コロナ禍でのスタートは不運だったかもしれない。芝居の組みはよく時勢を見ているが、舞台には狙いが行き届いていない。最初から当てようというつもりもなかったかもしれないが、座組はきちんとできているのに、どこも際立っていない。おもいきってどこか、突出するところがないと舞台は動き出さない。商業演劇なのに、Iakuの公演ほどにも盛り上がっていない。残念だった。一つ言えば、素材にもなっている「遺影」をなぜ、もっとさまざまに生かさないのか。物語りが始まるのも意外な女子高校生の受賞だし、そこに山村に生きる人々の生活や哀歓も象徴的にうつしだしていただろうに。おまけに現実に主人公は写真を「今撮っている」。人生をかけようとしている。なじみのない「喪屋」よりももっと素直に観客の心に物語の芯が入って行けただろうに。
未練の幽霊と怪物
KAAT神奈川芸術劇場
KAAT神奈川芸術劇場・大スタジオ(神奈川県)
2021/06/05 (土) ~ 2021/06/26 (土)公演終了
実演鑑賞
満足度★★★★★
能舞台のような舞台と出入りの橋掛かりが白いマットで黒い空間に浮かんでいる。いくつかの現代演劇の秀作を上演してきた神奈川KAATの大スタジオ。
演技スペースを囲んで、中央に見慣れない伝統弦楽器を電子楽器につないだような楽器を演奏する音楽監督は内橋和久。上手に謡手の七尾旅人。意表を突く鋭い弦の音が鳴り響いて第一部の「敦賀」が始まる。チェルフィッチュ特有の体の動きとともに、さりげない口調で自分の敦賀をドライブした体験を語りだす旅人(栗原類)。旅人は敦賀のさびれた海辺で、世界の永遠の循環を夢見ながら失敗した高速増殖炉(石橋静河)に出会う。
チェルフィッチュの新作は、今までにない工夫がある。一つは、能の形式を積極的に取り入れていて、その伝統に沿って見るとドラマの世界に入りやすいということだろう。
ステージのセッティングだけでなく、物語のつくりも、ナレーションの音楽化も、第三の登場人物・聞き手の作り方(片桐はいりが狂言のアドで登場する)も、人間ならぬものに人格を与える手法も能・狂言の伝統を利用しているが俳優の演技、セリフ、衣装、舞台の内容も様式も全く現代である。それが混然一体となって、この「未練の幽霊と怪物」という非常に現代的なテーマを浮き上がらせる。
第二部「挫波」では、建設中の国立競技場の周辺を散歩している男(太田信吾)が、斬新な設計をしながら、世俗的な理由から実現しなかったオリンピック国立競技場を設計したザハ・バディッド(森山未來)に出会う。高速増殖炉も国立競技場も人間の叡智を集めて実現を願ったモノではあるが、その夢はいまも人びとの脳裏に残りながら葬られている。そして、その夢への思いは形のない「未練の幽霊」になって今の世にさまよい、廃墟や間に合わせのの「怪物」となって立ちすくんでいる。現代を表現するのに、最も象徴的な二つのモノは極めて政治的な色彩を持つが、その背後には現代に生きる名もない人びとの見果てぬ夢にも裏打ちされている。「三月の五日間」で見た世界を覆いつくすような舞台がここに出現した。
今までにないことで言えば、もう一つは既成俳優や、音楽家の登場である。それで、細部への完成度が高くなった。
演劇は、今見た時点で完結してしまうものではあるが、いつまでも見たという事がに観客の記憶に残ることは非常にまれな幸福だと思う。本年随一の傑作だと思う。一部二部共に55分。間に休憩10分
インク
劇団俳優座
俳優座スタジオ(東京都)
2021/06/11 (金) ~ 2021/06/27 (日)公演終了
実演鑑賞
満足度★★★★
海外の新作の翻訳上演は、世界の動きを知る上でもうれしい試みで、この舞台は17年の初演で英米で上演された舞台だ。実話ネタで、70年代に英米のメディア界を席巻したマードックの英米進出の嚆矢となった、イギリスのタブロイド紙「ザ・サン」の成功譚である。
オーストラリア出身のマードックが、イギリスの地方紙のデスクでくすぶっていたラリー・ラムと組んで、それまでになかった徹底的に大衆迎合の新聞を作ってそれまでの高級新聞や一般紙に肉薄する。英米の脚本によくある要領を得たテンポのいいホンで、真鍋演出は装置・振付の助けを得て、一気呵成に物語を展開する。さすがに俳優座だけあって、俳優たちもみな早い翻訳のセリフを見事にこなして一幕1時間25分、あれよあれよと言う間にロンドン最低の売り上げだった「ザ・サン」は、ラムがかつて働いていた競争紙、「デーリーメール」を追い上げる。二幕は、大衆迎合が幾つもの壁に突き当たるが、遂に一年でデイリーメールを凌駕する。物語も新聞と大衆をめぐる人間的な新聞人のドラマに。触れていく。
見ている間は全く飽きずに面白いが、しかし、この話は1969年のことで50年も前のことだ。このドラマの内容は既に日本のジャーナリズムも十分に咀嚼して、週刊文春は「文春砲」も撃つし、セックス記事にも余念がない。テレビのゴールデンはお笑い芸人のひな壇番組ばかりになって、健康番組ですら芸人の助けがなければ成立しない。世界に共通して起きたメディアの形態と内容の変化だから、誰でも思い当たるところはあるが、今後の処方箋は見えていない。英米でもさしてヒットしたようでもないから。時期的にいささか遅かったか、という気がしないでもないが、今の日本の忖度全盛のジャーナリズムを見ると、何年か後には面白い忖度ドラマが見られるかもしれない。休憩10分を入れて3時間。
、
六月大歌舞伎
松竹
歌舞伎座(東京都)
2021/06/03 (木) ~ 2021/06/28 (月)公演終了
実演鑑賞
満足度★★★★★
『第二部・桜姫東文章下の巻」四月の上の巻の時は初日の前まで席があったのに、下の巻は前売り初日で完売。やっと手に入れた最悪の一等席(上手二階の四列目の端)で見た。いかにも歌舞伎劇の面白さが詰まった舞台で、当代の花も実もある名優二人の名演が見られた。渡辺保さん曰く、これは「画期的」「戦後歌舞伎の代表的な名舞台」「一代の傑作」。つまりは、観劇経験豊かな碩学・渡辺さんが生きて目にした舞台の中では一番と言っているのだ。いつも書くが、ご自身の「歌舞伎劇評」は本当にタダで読ませていただくには申し訳ないような充実した内容で教えられることばかりだが、それだけでなく、今の現代人が古典に接してどこを面白がればいいかも示唆してくださる。同じネットのメディアだから、具体的な観劇体験はすべてそちらにお任せして・・・・、「見てきた」をいうと、
歌舞伎座がまだ、律義に一席明けの観客席とは思わなかった。多くの公立劇場は既に全席売っている。全席売っていれば、もっといい席が手に入ったかもしれないのに。
どこかで話題になっていたが、コロナで掛け声が禁止になっている。これは歌舞伎を殺す。岩淵庵室の長い立ち回り。二人の型が決まるたびに客席から締まりのない「拍手」がおきる。
「松島屋!」「大和屋!」と瞬時の掛け声で次にいけるのに、間があく。次のセリフの頭にかかると聞こえない。勧進帳で飛び六法で引っ込むところ、手拍子が起きると聞いた。手拍子では六法は踏めない。役者は無視するだろうが、これでは歌舞伎と言う演劇のリズムやテンポを殺す。本人はいいつもりでも芝居を邪魔している。だれか言うべきだ。
劇場で、話すのも禁止、食べるのも禁止と言うのは演劇の歴史を無視した近代科学至上主義者の暴挙であろう。劇場では話すのも食べるのも、息をするのと同じである。昔から「かべす」と言うではないか。それも人と接する劇場の役割である。東宝は爆撃下でも劇場を開けた。松竹にこの規制は劇場の根本を揺るがす、と言う人がいないはずはない。科学者は、それは場内弁当屋の提灯持ちと言うかもしれない。だが、演劇人にも、それがダメなら、死んでもいい、と言う人がひとりくらいいてもいい(内心ではみな思っているだろうが)のではないかと思った。
孝・玉で75年に京都南座で初演した桜姫は、NHKが当時3時間番組で収録放送した。その再放送が、なんと、大みそかの紅白歌合戦の裏番組(Eテレ)で編成された。終わると大みそかの除夜の鐘。バブル以前の日本は小粋な文化国家だった。
キネマの天地
新国立劇場
新国立劇場 小劇場 THE PIT(東京都)
2021/06/05 (土) ~ 2021/06/27 (日)公演終了
実演鑑賞
満足度★★★
井上ひさしもあれだけの作品数を書けば、全部が傑作と言うわけにはいかないのは承知だが、何でよりによってこの作品を再演するのかわからない。新国再演なら、作者も力を入れて書いた「紙屋町さくらホテル」や「夢三部作」のような、井上ひさしらしいいい作品があるではないか。今やる意味も分かりやすい。確かに「キネマの天地」は商業劇場で初演されて以来ほとんど再演されていないと思うが、それは、初演の松竹への忖度、というより、この作品の器量が小さかったからだ。個性のある女優を四人並べて、その一人が犯人に違いないと殺人事件を解明していくのがあらすじだが、推理劇にするか、ドタバタ笑劇にするか、バックステージものにするか最後まで腰が決まっていない。セリフの中身には、映画界の女優のさや当てや、舞台となった東劇の芝居への思いもあるが、通り一遍で、深くない。それではならじと、屋上に屋を重ねてどんでん返しのつるべ打ちになるが、なんぼなんでもそれはないだろうというような結末になる。役者も棒立ち芝居が多くて締まりがない。このシーズンの主演公演三作を見たが、なぜ、この公演をするのか意図不明の上演が多くて残念だった。ことに「東京ゴッドファーザーズ」とこの「キネマの天地」。客もよく知っているのか、今日が三作の内では一番よくてようやくすれすれ5分の入り。ジャニーズを動員していないところは健気だが、これは正直な客の評価である。井上作品が出たから言うのではないが、栗山民也が芸術監督の時は意図が明確だった。今はただただ訳が分からない。困ったものだ。
夜への長い旅路
Bunkamura
Bunkamuraシアターコクーン(東京都)
2021/06/07 (月) ~ 2021/07/04 (日)公演終了
実演鑑賞
満足度★★★★
アメリカ演劇の原点、といわれるほどの有名作品でありながら、日本ではあまり上演されることのなかった現代劇古典(1956)がコロナ禍真っ最中に幕を開けた。コクーンが始めた「世界演劇発見シリーズ」で演出はイギリスのフィリップ・ブリーン。どこかで見たつもりになっていたが、初見である。3時間半もかかるのだから見ていれば忘れない。
なるほど、アメリカ演劇が詰まったような作品で、かの国に生きる人々の個人と社会への見果てぬ夢への渇仰が切々と描かれる作者の生い立ちを映した家庭劇だ。現代のアメリカ演劇にまで続くテーマがすべて埋まっている。
過去の栄光にとらわれている父(池田成志)と母(大竹しのぶ)、父は20歳代にそこそこの成功を収めた舞台役者。いまはわずかな不動産を転がして生計を立てている。母はクリスチャンの女学校を出て舞台に惹かれて父と結婚、慣れない巡業暮らしの中で二人の男の子を育てた。薬物依存症。上の子(大倉忠義)は定職に就かずアルコールにおぼれている。作者を映すように文弱な弟(杉野遥亮)は当時不治の病と恐れられていた肺結核の宣告を受ける。一家はアメリカ的な愛に満ちた家庭を持つことを切望しているが、現実はその夢をことごとく打ち砕いていく。
舞台は終始、一家の居間で、二幕、場数はそれぞれ4場か。一幕は1時間20分。二幕は1時間50分。休憩は20分。セリフ劇でしかも70年近く前の本なのに、ダレない。
演出は多分この時世だからリモートだったのだろうが、実に細かい。この興行は時節柄ジャニーズ興行で、それが当たってか、見た回(11日夜)は満席の盛況で女性客ばかり(若い層ばかりでなく年齢幅は広かったから、年長組は大竹のファンクラブか)、男性客は二十人はいなかったと見たが、前にこの劇場で見た「ハウンド警部」のような客引きのいやらしさはない。演出はこの名作を役者人気に頼らないで誠実に舞台化している。後半にはそれぞれの登場人物がお互いのエゴをぶつけ会うシーンが続くが舞台の人間像に引き込まれる。大竹ができるのは当然としても、あまりこういう陰のある役でいいところを見たことがなかった池田もぐずぐずしただらしなさを演じ切る。大倉はかつてグローブで蜘蛛女を見たことがあって、大丈夫かと思ったが、健闘。あまり舞台経験がない杉野はその素直さが生かされていた。
舞台には舞台全体を覆うように大きな白一色の吊り幕がつられていて、それが形を変えて上下することで抽象性が加わり、見たことのない室内劇になった。舞台に置かれた古いピアノ、海が近くてかすかに聞こえる波や海鳥の声、霧笛などの音響効果、少ないが音楽も効果を上げている。
3時間半を飽きないように作られている。芝居好きは男女老若を問わず、喜んでみる舞台になっているが、果たして満場を埋めたファンクラブ客はこの芝居をどう見ただろうか。
ともあれ、この名作を、思いがけずいい座組で見られたことはよかった。「発見」である。
十一夜 あるいは星の輝く夜に
江戸糸あやつり人形 結城座
東京芸術劇場 シアターウエスト(東京都)
2021/06/02 (水) ~ 2021/06/06 (日)公演終了
実演鑑賞
満足度★★★★
四百年近い歴史のある人形操りの劇団「結城座」の記念公演。糸操りの人形による職業劇団は見たことがないから、多分唯一の伝統芸の劇団なのだろう。
今回はシェイクスピアの「十二夜」の結城座劇化である。鄭義信の脚本演出で、軸に、藝達者な花組芝居出身の植本純米が客演していて、純粋な人形劇ではないが、こういう融通が利くところもこの劇団の特色らしく、他の普通の劇団に客演して人形の役割を演じているのは見たことがある。
人形劇で一夜芝居にするのはなかなかむつかしく、人形だけでなく浄瑠璃というもう一つの強い味方のいる文楽も苦戦している。しかし「国立」の助けを借りながらでも定期公演が可能な文楽が、かなり前にシェイクスピアの確か「テンペスト」だかをやった時にも、なんでこれを?と言う感想を持った。
「十二夜」はもともと、クリスマスの祝祭劇で、男女、身分の取り違えの面白さに徹したロマンス劇だから、人形を人間と交錯させやすい構造だ。筋がこんがらかるところは植本純米が主人公の従者の阿呆という役柄で面白おかしく芝居に入ったり、説明したりできる。他愛ない話なのだが、蜷川が歌舞伎座でもやったし、旧新劇団はよく上演する。今回は、糸操りで、一メートルに足らぬ人形たちが舞台を作っていく。鄭義信が新たに書いたのは部分は少ないが、その工夫は生きていて、糸操りの人形の動きだけでは避けられない退屈さを救っている。
しかし、この長い歴史のある糸操りの劇団が存続していくのは、厳しい道が待っていることだろう。現に、客席はほぼ満席だが、若い観客はほとんどいない。一方演者には若い女性もいるが、一夜の興行を打ち続けるのは厳しい。伝統演劇の継承存続は歌舞伎のように現状保存で「生きている」ことが望ましいが、文楽や沖縄の演劇をはじめ、時代の波に洗われている演劇も少なくない。あらためてこのよく出来てはいるが新古折衷の結城座の舞台を観て時代の非情も感じた。
外の道
イキウメ
シアタートラム(東京都)
2021/05/28 (金) ~ 2021/06/20 (日)公演終了
実演鑑賞
満足度★★★★
イキウメの世界も、このコロナ禍の一年余で変わってきたようだ。
以前は天体の運行とか、宇宙人の襲来とか、SFでも飛び道具のような設定で、現代社会の奥に潜む人々の不確実性を鮮やかに描いて見せてくれた作品が多かったが、今回は、SF的ではあるが、設定はだいぶ変わった。
舞台は相変わらずの北の小さな町。故郷へ帰ってきて、配送屋で生活している四十過ぎの男寺泊(安井順平)が地元の行政書士事務所で働いているかつての同級生の山鳥(池谷のぶえ)に再会して、全国からひそかに客が来るという町はずれの喫茶店で、店主(森下創)の手品を見に行く。それは個体を人間の中に埋め込んでしまうという手品で、実際に政治家がパーティの会場で、その場で割れたビール瓶のかけらを頭に埋め込まれて急死する超現実的な事件があった。
手品を見たころから寺泊の周囲に奇妙な事件が起き始める。妻〈豊田エリー〉が美しくなり始め、どうやら、山鳥の弟と浮気しているようでもある。配送する荷物は行き先が分からず、誤配で返送されてくる。配送物の中身は「無」と書かれている。中にはマックロクロスケ、闇が入っていて、そこから漏れ出した闇は時に舞台を暗黒の世界に誘っていく。
・・とイキウメらしい展開になっていく。しかし、それは、全社会に及んでいく超自然現象ではなくて、個々の人間の、個人の記憶と認識から始まり、見知らぬ子ども(大窪人衛)が家族と主張して入り込んできたりする。
SFファンタジーのような、ホラーのような、イキウメ独特の舞台の感触は変わらないが、仕掛けが壮大な宇宙から個人になった。同級生の間の人間関係や喫茶店のマスターの手品など、いままでになかった人間的な味わいやユーモアがあるし、どこか、幼いころ読んだ、小川未明の童話の街の雰囲気もあって、なかなか面白い。
休演している間にブラッシュアップする時間もあったのだろう、完成度も高い。見終わったあと、あれはどういう事だったのだろうと思い返して、はたと手を打つ楽しみも大きい。
容疑者Xの献身
ナッポス・ユナイテッド
THEATRE1010(東京都)
2021/05/28 (金) ~ 2021/05/30 (日)公演終了
実演鑑賞
満足度★★★★
初演は2009年、キャラメルボックスで、座付きの作者による作・演出だ。劇団は数年前に消滅したが、石神哲哉役の筒井俊作、天才科学者・湯川学教授役の多田直人をはじめ、
渡邊安里(女主人公)主なキャストは残っている。脇役には懐かしいキャラメルボックス風のマンガ演技なども見られる。観客も引き継いでいるらしく、二十歳前半も含め観客は若く、舞台にやさしい。しかし土曜日夜6割と言う入り。6,800円は高いのかもしれない。
原作はミステリの賞も受けている人気作家の代表作だ。専門作家だけあって、ミステリ的な企みが至る所に張り巡らされている。劇化の大きな難関になるのは多視点で展開しなければ成立しない物語構成になっているところだ。それはアリバイ崩しがメインに置かれているミステリの宿命でもあるのだが、成井豊の脚色は語りをうまく使って、入りくんだ原作の要素をすべて取り込んで、どんどん進む。話は賞を受けたくらいで面白くできているから若い観客は吞まれたように見ていて最後には温かい拍手で終わる。
原作を一気読みで見ているような感じである。その分、大学生時代の同級生が、敵味方になって謎を解きあう、とか、女主人公の人間性などは薄味になってしまった。舞台のテンポも演技も一本調子で膨らみがない。キャラメルボックスである。
ひさしぶりに舞台を観て、やはり、ここと、スタジオライフはいま多く演じられている2・5ディメンション演劇への道を開いたと思う。その功罪は一言では言えないが、どこも観客が純朴な十代から20代の若者であったことは考えていいだろう。夢の遊民社も第三舞台も最初はそこから出発した。脱皮していった彼らの後に観客だけが取り残されたような気もする。
フェイクスピア
NODA・MAP
東京芸術劇場 プレイハウス(東京都)
2021/05/24 (月) ~ 2021/07/11 (日)公演終了
実演鑑賞
満足度★★★★
もうかれこれ四十年昔、まだ、野田秀樹が東大構内で芝居をやっていたころ、NHKの最近の若者に聞く番組(たしか「若い広場」)で、野田秀樹は昂然と、「僕の目標は日本のシェイクスピアになること」と言っていた。この記憶に残る発言(たぶんNHKのアーカイブにあると思う。)の念願かなって?、野田秀樹がシェイクスピアとその子のフェイクスピアを演じる「フェイクスピア」が幕を開けた。
劇作家の正念場である言葉の力をテーマにしたコロナ禍の新作で、今や、日本の演劇界のリーダーになった野田の、現在の状況を踏まえた作品ではある。
恐山のいたこに謎の箱に閉じ込められた言葉を再生させようとする男(高橋一生)物語を軸に、シェイクスピアの大四大悲劇の言葉をさまざまに引用しながら、言葉の持つ真実と虚偽へと物語は進んでいく。野田戯曲の例によって、幕による素早い舞台転換と、速いテンポで、今求められる言葉のクライマックスへ。森で無音のうちに倒れる大木や鳥の世界のような自然現象が、星の王子様の空の世界を引き出し、そこに絡まる人間の言葉が最後の場につながっていく。いつも以上に強引極まりない連想の世界は2時間休憩なし。
この時期に、切り札だったかもしれない、シェイクスピアの札を切ってきた野田の真意はわからないが、ここのところの世間の無責任な言葉の上滑りに、演劇人としての怒り爆発であったのだろう。
それはわかる。しかし、少し急ぎすぎていないか。
例えば、最後のクライマックスのシーンは確かに観客の息をのませる演出ではあるが、その中の、ノンフィクションの言葉にすべてを託していいものだろうか。
シェイクスピアに対して自分の役をフェイクスピアに託するのは、単なる韜晦趣味ではないだろうか。
コロナ禍で条件も悪かったのだろう。五日目の舞台を観たが、野田の公演としては不十分なところが目立った。
落ち着いたらぜひ再演をしてほしい舞台である。
アルビオン
劇団青年座
俳優座劇場(東京都)
2021/05/21 (金) ~ 2021/05/30 (日)公演終了
実演鑑賞
満足度★★★★
いかにもイギリスのウエストエンド新劇と言う感じの作品だ。2018年の初演。
イギリスの劇作家が、自らの市民生活の中に分け入っていく技術は大したもので、この作品にも若い作家なのに、その伝統が遺憾なく発揮されている。アルビオンと言うタイトルは日本でいえば、「みずほのくに」。自国の伝統庭園に託して、現代人間模様を描いて見せる。伝統を保守することの難しさをその場限りの政治アピールにしないで、自国に根強く残る階級社会、性差別、家族・親子関係、地域社会の「伝統」にも万遍なく目配りして描いていく。ようやく40歳になったばかりの作家とは思えぬ熟練の技で、こういう作家を育てて、劇作家だけでなくテレビや映画でも使って世界的作家にしてしまうところは演劇王国らしい。余談になるが今映画が評判になっている「ファーザー」の脚本もクリストファー・ハンプトンで、若いころは20歳代でデビューした演劇界の麒麟児、日本でも、三十年前、まだ彼が三十代のころ「金環食」やいくつかの作品は上演した。ファーザーの原作はフランスの劇作品だが、映画を見るとタイトルは原作よりアカデミー賞作家ハンプトンの方が大きい。ピンターはノーベル賞だ。作家の成長を社会も後押ししている。
イギリスの作家のうまいところは、ドラマを一筋縄ではくくらいないところだ。それでいて、さまざまな観客を自分の世界に取り込んでしまう。
青年座は十年ほど前から、翻訳劇も手掛けるようになった。劇団員はプロデュース公演にもよく起用されるから劇団外で翻訳劇の経験はあるのだろうだが、そういう場では演技が型通りになりがちだ。主人公の夫、隣家の主人、庭師、召使、など、よくわかるけどもう一工夫できるところだ。
津田真澄も小林さやかも那須凛も過不足なくうまいのだが、舞台には華がほしい。
青年座は、日本の創作劇を目指してきたが小劇場全盛時代になって、椎名麟三、矢代静一の流れの新劇からは作家も出てこなかった。しかし、海外作家に突破口を見つけようとした時に、サルトル、とかベケット、あるいは手っ取り早い社会問題劇ではなくて、いまの大衆が見る演劇を選んだのはなかなかの慧眼だった。日本でも若い作家は小劇場離れで、古川健、横山拓也、桑原裕子、加藤拓也、注目の新人はみな小劇場の限定された観客ではなくて、普通の日常の中で演劇を見ている。青年座もいち早く彼らの作品を取り上げているが、そこで、このような海外作品に触れる経験が一層の成熟をもたらすことを期待したい。
家族のはなしPART1 2021
(株)モボ・モガ
KAAT神奈川芸術劇場・ホール(神奈川県)
2021/05/14 (金) ~ 2021/05/30 (日)公演終了
実演鑑賞
満足度★★★★
草彅剛を軸にしたコント集。大阪のCMクリエーターの二人の作・演出で、東京の観客は見慣れていない面白さだ。東京にもナンセンスやコメディはあるが、ケラとも違うし、三谷とは異質だ。今までの演劇の約束ごとを無視しているような、うまく使っているような異色の舞台になった。
「わからない言葉」は生活規律のだらしのない夫(羽場)と几帳面な妻(小西)の中年夫婦に飼われている犬・ハッピーを草薙が演じる。犬や外国人を含めた現代の市民生活で、言葉のコミュニケーションの可能性をめぐるコントである。
約束をすっかり忘れていた夫の中央アジアの友人(畠中)がガールフレンド(小林)とともにやってくる。かつてその国で働いていたのに、夫はすっかりその国の言葉を忘れている。
犬と人間の間に、また人間と人間同士の間に、どちらが言葉が通じるか、音楽なら通じるのか、といった下世話でもあり、広げられる話題でもある素材をもとにナンセンスなドタバタが展開する。
犬にわかる言葉はゴハンとサンポ。中央アジアの国の言葉はもう完全に分からない。友人が連れてきたガールフレンドの衣装は異国風で、言葉も中央アジアの言葉を話すのだが、やがて、実は日本人で通訳だということが分かる。こういう仕掛けが効果を上げている。
これだけよく出来たコントにはなかなかお目にかからない。
それは二話の「笑って忘れて」も同じで、こちらはリモートで働いている夫〈草薙〉と妻(小西)の物語である。記憶喪失症にかかった妻の取り違え劇(であることがなかなかわからないように舞台が進行する)が、結局は夫婦愛の物語になっていく。一話とは違うテイストのコントで、夫々1時間。間に休憩がある。
どちらのコントも、笑劇らしい無理な設定をしているのだが、本がよく出来ていて、素直に楽しめてしまう。俳優も、関西にありがちはオーバーな演技が臭くなる一歩前で寸止めしていて、そのへんの呼吸が揃っているのもうまい。草薙の犬は犬らしいところを形では全く見せていないのに、犬の役になっている。ほかのベテランの配役もハマっていて、特筆するとすれば小林きな子。二話の会社のドジな同僚もうまいものだ。あまり東京では見ないがはじけている。初演は二年目に京都で上演していて、その時の羽場の役は池田成志だった由だが、羽場は池田とは別の面白さを出していると思う。
作・演出の演劇経験はサラリーマン劇団と紹介されているので、ふと気が付いたのは、80年代後半に旗揚げした喇叭屋である。主宰した鈴木聰も確か電通の腕利きの宣伝マンで、旗揚げしたときは確か「サラリーマン新劇」といっていた。作風も内容も違うが、今の生活者にエンタテイメントとしての芝居を、広告という無名の場所から発言してきたことでは通底するものを感じる。その精神が、舞台に生きている。
神奈川なので、土曜の夜の満席の客席の劇場は東京のぎすぎすした自粛劇場とは違う和やかさがあった。さらに言えば、、コロナ禍でジャニーズタレントのファンクラブのリピーターに頼った大劇場の公演を数多く見たが、この公演は唯一そういう勘定ずくをバランスシートの片側に置かないでも見られた愉快な公演でもあった。
「母 MATKA」【5/17公演中止】
オフィスコットーネ
吉祥寺シアター(東京都)
2021/05/13 (木) ~ 2021/05/20 (木)公演終了
実演鑑賞
満足度★★★★
ほぼ85年前に書かれた不思議な後味を残す作品だ。
SFの創始者として知られるチェコのカレル・チャペックの晩年の作。ナチの影がチェコに迫っている。
五人の男の子がいる軍人一家、父(大谷亮介)は植民地の原住民との戦いで17年前に戦死、今はこの家の居間の額に収まっている。長男は医者で公熱病の研究中に死亡、次兄は右翼の軍人、三男はテストパイロット、四男は自由主義者、最も若い五男は病弱である。一家だんらんのシーンから始まるが、どうやら、登場する彼らはみな死者らしいことが次第にわかってくる、この辺は百年前の本とは思えぬほど技巧的なのだが、男たちはみな、社会の要請によって、病原菌の実験中、試験飛行中、軍務遂行中に、それぞれの務めの要請に殉じているのだ。今生きている母(増子倭文江)が登場する。愛する息子たちが社会の要請のために次々と失われていったことが納得できない。社会の論理と母の論理は別のものだという事だ。今ここでは内戦がおこり、最後の今生きている息子も戦いに出ようとしている。死んだ男たちは五男を戦場に誘い、母は反対する。ラジオ(当時のマスコミ)は戦場へ参加せよと煽り立てる。母はそのすべてに抵抗する。
戦闘が進み一家の広間にその戦況が伝わってくる中で、男たちと、母との激論が繰り広げられる。
さて、面白いのは、その議論は耳新しくもなく、家族か、社会か、とか、男と女の役割とか、戦争の是非はもう何度も繰り返された論争で、しかも、よくある場面設定と人物設定、事件の進捗なのだが、観客の心をつかんでしまうというところだ。
それは大きくは、百年前の現代戦争が始まった頃の社会構造の問題がいまも形を変えながら根づよく残っている事が根底にあるからなのだろうが、テーマと素材から論点を浮き上がらせずに現代人にも見せてしまうことに成功している。たぶん、それはギリシャ演劇以来演劇が持っている特質、いや演劇のみが、と言ってもいいかもしれないが、生者と死者を同時に登場させ、現代の生者が演じるという独特の演劇リアリティのなせる業によっているからだろう。チャペックのSFの不思議な味はそこを原点としている。
演出は文学座の稲葉賀恵。小劇場のうまい若手を起用し、大谷亮介とか鈴木一功と言うくせ球も調教して一つの演劇世界を創り上げている。
それは、近代劇から現代劇に流れるリアリズムではないもう一つのSF作家らしい企みもあっただろうが、それは当時、本人も気が付いていなかったことだろう。ひょっとすると今舞台にいる人たちも気づいていないかもしれない。そこがこの不思議な芝居の成功の大きな要因だと思う。俳優は全員ところを得て、好演。2時間。休憩なし。
東京ゴッドファーザーズ【5月2日~5月11日公演中止】
新国立劇場
新国立劇場 小劇場 THE PIT(東京都)
2021/05/02 (日) ~ 2021/05/30 (日)公演終了
実演鑑賞
満足度★
今この芝居をなぜ30公演も打とうとするのか理解できない。最初の十公演ばかりは突然のコロナ宣言延期で止めたようだが、それにしても、大劇場で30公演は東宝松竹でも逡巡するだろう。中身はアニメの劇化で2・5ディメンションの企画の発想と似ている。クリスマスストーリーのような物語でその時期に家族で見るにはいいかもしれないが、梅雨時に見るのはいかにも時節外れ。アニメでは面白そうな話でも芝居に良いとは言えない。それに物語の進展もアニメなら物語の偶然や飛躍、感情のアップがいいだろうが、芝居では無理やりクライマックスの連続で賑やかなばかりで落ち着かない。俳優はジャニーズの松岡昌宏が女形でつとめ、相手役はマキタスポーツに夏子。キャスティングの狙いも見えず、演劇的には詰まっていかないし、何か新しい趣向があるかと言えば、何もない。
去年の年末企画だったのかとも思うが、アニメの成功作を舞台に移すのは簡単ではない。来年「千と千尋」をミュージカルにするという東宝などはものすごく慎重だ。新国の企画は人気のあるアニメとジャニーズタレントに乗ろうというだけではないか。早い話、この上演には、「斬られの仙太」(これはなかなか良かったが)とこの作品、それにこの後の井上ひさしの推理劇「キネマの天地」の三作を並べて、今年の柱として「人を思う力」というシリーズタイトルがついているが、どこに共通点があると思っているのか聞かせてほしい。全く別の作品ではないか。きっと今の政府に倣って、「しっかり適切に考慮した結果」などと言いそうだが、そういういい加減さは同じ国立でも学ばないでほしいものだ。
客は正直、入りは二割そこそこ(18日夜)、久しぶりに見るガラガラの入りは客の正直な反響である。なんだかどこまでも無駄な税金興業と言った感じだが、新国は誰もその責任を取ることもない不思議な文化庁興行部なのだ。