tottoryの観てきた!クチコミ一覧

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たいこどんどん

たいこどんどん

こまつ座

紀伊國屋サザンシアター TAKASHIMAYA(東京都)

2018/05/05 (土) ~ 2018/05/20 (日)公演終了

満足度★★★★

久々のこまつ座、井上戯曲を「普通に」上演した演目を初めて観た。ラサール石井演出にも興味あったが何より戯曲が面白い・・と言っても最後まで読み切らなかったのだがふと書棚にあったのを手にとると止まらず、読んでも「観たい」と思わせた。その核は、艶笑というやつ。江戸を発って主に東北を回る旅の話だが作者井上のアイデア炸裂。思いのほか長くなる二人旅の後半はどうなるのやら・・期待しつつ劇場へ。戯曲からもらった印象とかけ離れた所多々あれど、このたび主役(幇間役)に抜擢された柳家喬太郎師匠が予想外に良い。江戸弁は本業とは言え芝居の間もある。一方の若旦那役は急遽体調降板した窪塚俊介の代役に立てられた江幡秀久氏、年齢的に「若」旦那はどうかと思いきやこれが小事に囚われない商家の放蕩息子の味を出して正解。三時間超えの大作。幕末江戸が物語の始まり、二人の旅はちょうどタイムスリップするかのように時代の最先端から逃れた格好、して「ご一新」を知る事になるラスト。圧巻井上の筆力、またこれを調理した演出も光った、と最後には思わせた。

図書館的人生Vol.4 襲ってくるもの

図書館的人生Vol.4 襲ってくるもの

イキウメ

東京芸術劇場 シアターイースト(東京都)

2018/05/15 (火) ~ 2018/06/03 (日)公演終了

満足度★★★★

「図書館的・・」をNHKシアターコレクション(mmm..隔世の感あり)の放映で観たのがイキウメ始め。賽の河原とか(死後の世界)、台詞にアブダクションがやたら出てくるやつ(UFO目撃・接触。確かこれが獣の柱に発展)、自殺者の前に現われる奇妙な人達(輪廻転生サイエンス)など。あの時点から今日までの活躍を見ればやはり才能だったのだな、と感慨無量。
「図書館的人生」シリーズは二度目の観劇になるが、ある関連を用意はしているが三編とも独立した話で短編集である。判りやすいドラマだが「作り」の精緻さはイキウメの面目躍如。もっともイキウメ色(SF色)が減退した分不満の向きもあるやも知れない。
三編中完全なるSFは第一話目、自分の脳を箱に入れてしまった男の顛末だが、荒技な無理設定の無理をコミカル調で相殺するワザは手慣れたもので、実に見事な連係プレイ。
第二話は私が最も「図書館的」らしいと感じた(即ち気に入った)作品で、「不思議」度は最終的にはゼロとも読めるがそこに行くまで絶妙に引っ張り、余韻も絶妙。
三話目はほぼ日常ドラマ。夢の「不思議」が浸潤する様子もあり、「襲ってくるもの」の象徴的な「形」である物体が舞台にのしかかってくる(芝居の冒頭でフラッシュを焚いたような閃光が一瞬捕らえて以降出てこなかった<それ>が三話目で漸くお目見え)様子もあるが、不思議は仕掛けにのみあり、要は就活時期を迎えた主人公=女子学生が、同居する兄や交際中の彼との関係において予め摘み取られた「自立」の所在をめぐって悩み、試行するという、カテゴリーははっきりホームドラマだ。一見苦労の少なく脇が甘そうな彼女だが、兄や彼氏とのコミュニケーションの中に感じる違和感を無視できなくなる。やや古いモデルだが父権的で脆い男性像を仮託された兄や、優しさを交際関係(ひいては結婚)の契約要件のように差し出す平凡な彼氏の言動に対し、彼女は疑念を抱き始めるのだ。「優しさという名の押しつけ」(ひいては親切という名の管理)を、兄と彼氏が波状攻撃の案配でくり出すシーン構成がうまい。

イキウメ世界を構成した個性である女優二名の退団がきつい現状?でもあろうが、それ以上に時間が彼らに平等に与えるもの、即ち加齢の中で、前川氏の筆も変わっていく可能性がよぎる。普通のドラマも書ける前川知大、と言われる日も近い?(彼はいつだって人間ドラマを書いている、と私は思っているのだが)

夜明け前、私たちは立ち上がる。

夜明け前、私たちは立ち上がる。

TOKYOハンバーグ

サンモールスタジオ(東京都)

2018/05/16 (水) ~ 2018/05/20 (日)公演終了

満足度★★★★

唸った。TOKYOハンバーグ、Stone-Ageブライアントとも一度ならず目にしていたが、どちらの特徴がどうだったといった批評を一蹴する迫力であった。
この題材を語るための要素を取りこぼさず(とりわけ住民の「論理」の背後にある生活感覚と感情に丁寧に触れている)、各登場人物のドラマが描かれながらフィクションとしての展開の「無理」が殆ど感じられないドキュメントとも呼べる現実味があった。理不尽な現実を嗜虐的に突きつけたい邪な狙いが作り手になくとも、鬱々とする「現実」は必然に訪れる。この実話が最後に光明を見ることを知っていたとて「終わりよければ・・」とはなり得ないこの問題の性質をこの作品が踏まえている事が、言わば光明に思える舞台だ。
アフタートークで「希望の牧場」の吉沢さんという方が仰った言葉。・・大多数が「見たくない」現実でも誰かが言い続けなければならない。「現実」はこの話の文脈では、今日本の火山が活動期を迎えている事、関東大震災の発生周期の危険領域にとうに入っている事・・起こり得る事態として2020年、東京五輪の前に関東大震災に見舞われる可能性を誰も否定できない事。

舞台に戻れば、「見たくない」題材に取り組んだこのチームに拍手。拍手と言えば、カーテンコールで照明が慌てていた(終演を告げる役者の短礼のあと役者がハケる長い暗転の間、拍手が鳴り止まなかったので舞台側の明りを入れるのが自然な所、まず客電が上がり、追い出しを掛けられた状態に一瞬なった)。ダブルコールが今回初めて(だとすれば)とは意外だが、公演を重ねて芝居が、人物たちが膨らみを増し熟成するプロセスを想像した。記憶の中の色んなシーンが一々琴線を叩いてくる。

ネタバレBOX

ラストを見て感じたこと・・
「舞台」の出来が全てではない、と断じてしまうと語弊があるが、舞台作りは「完成」に向かう道程を辿るものだとしても、舞台の目標は「完成」ではない(なりにくい)、と思っている。もしそれがあるとすれば、完成によって浄化され、「忘れてしまう」時間を提供する芸術、という事になるだろうか。そういうものがあっても良いと思うし実際多くある。
ただ、棘刺す痛みを伴わない感動などない、とは大人の感覚だろうか。いや、話が逸れた。
・・舞台装置の正面、パイプを組んだいまいち美しくない形(その組み方で放射能のマーク=ハザードシンボルを表す)がバリケードの表象として最後に漸く符合する訳なのだが、照明が落ちる手前、団結を確かめあい、見えない明日に徒手で立ち向かおうとする者たちの姿が固まり、残影となる。音楽は「悲壮さと勇壮さ」を謳うシンプルなもの。芝居はその手前まで、終景への準備となる友との再会や本心の吐露、そして和解のシーンが人物それぞれに点描され、疑心が生み出す人間への底知れない暗鬼のイメージが霧消し、凡庸だが自分自身に立ち返った者たちの姿が現われる。中部電力社員が吐き捨てるように言う「何十年も同じ事を繰り返してきた、いい加減終わりにしましょう!」の言葉を自分では本気で言える台詞として叩きつけながら、それが恫喝に当たるとは気づかない言葉の欺瞞に住民達は易々と丸め込まれず、「生活感覚」からそこに含まれる嘘を嗅ぎ取っている事が無言の内に漂ってくる。それが自然な反応だと信じられる佇まいを獲得した事がこの舞台の成果だろうと思う。
ただ・・と冒頭に戻れば、終幕を飾る団結の美景が、悲壮感の中に醸成された団結であるという事が、芝居の「完成」(閉じくり)には必要であったのだとしても、戦後の日本が幾度となく経験した「運動の終息」を、むしろ予感させるラストでもあった、というのが個人的には惜しい。人を悲壮にさせた圧迫が消えた時、紐帯の弛緩が始まるのも世の常である。難しい課題であり、舞台の仕事でやれるのはそこまで、あとは観客自身が考えること・・そう言い放てるだけの仕事ではあったが、その事も考えずにはおれなかった。
今、僕たちに出来る事。あと、出来ない事。from 2001 to 2018。

今、僕たちに出来る事。あと、出来ない事。from 2001 to 2018。

シベリア少女鉄道

赤坂RED/THEATER(東京都)

2018/05/03 (木) ~ 2018/05/13 (日)公演終了

満足度★★★★

伝説的な奇想の数々・・・と聴いていたシベリア少女の過去作品だというので飛びついた。昨年に続き二度目。「しょせんお芝居」、現実ぢゃない、本当ぢゃない、嘘。虚構性を殊更に強調する冷や水のオンパレード。「いかにもドラマ」な典型例を茶化す(役者は「その演技」を無心にやってみせる事で笑になる)。微妙な間合いや口調で醸し出される「ズレ」の瞬間を、待ってましたとばかり客席から笑いが起きる。
昨年のオリジナルは「よく考えた」と思えたが、今作には(「復刻版」という先入観からではなく)目新しさを感じなかった。
物語は二つの流れがあって後に合流するという形。まずは高校演劇部員、顧問教師とその周辺の人物。冒頭顧問がかつて映画を志し、一人空回りした学生時代のくだりが短く提示され、やがて女子部員の舞台を目指す思いにかつての自分を重ね合わせた顧問が彼女の背中を押す事を自らの使命とする、という動機の設定がある。一方別の場所では、小惑星接近の危機を共有する研究所と政府、ミサイルで破砕するための計算を一人で担う女性研究者が実は歪んだ考えの持ち主で、ある破砕の方法をとった事で人類を無性生殖が可能な種としてしまう、という事が起きる。なおクローン技術も彼女は極めていて、自らの分身3体を「計算」に当たらせてもいるが、ともかく彼女にこの行動を止めさせる事は当然ドラマ上の中心課題に据えられる。
ドラマの設定を終えた所で、いとも簡単に時空の裂け目から過去や未来に行ける展開となる。「世界を終わらせないため」に時空を超える。だが過去の自分と同時存在するため、役が足りなくなる。「都合により」な舞台処理をやむなく行なう。過去の自分を追っているシーンでは、上手へはけるとドタドタと下手へ駆けつけ、素知らぬ顔で登場する、という「演技」をみせる。果ては役者が足りないため人形を置いてアテレコで喋ったり(録音も使う)、その人形がずらりと並べられたり。
つまり、総じてハチャメチャな設定の劇を「やらされている」光景が、ドキュメントとして(バックステージドラマでなく「上演されている劇」そのものの上演という形で)提示されている、とも言える訳である。

昨年のと同様、一つの実験ではあるのだが、人形を置く、という型破りな処理がエスカレートする今回の舞台。初演時に比べて熱度を上げ切れなかったとすれば(初演を観ていないので判らないが)、その原因は何かと言えば、初演当時との「時代」の違いである事の他、考えにくい。(役者は達者だし場面を成立させる表現は的確で隙がない。)
恐らくはクローンという話題が当時は最新科学のトピックだった事が大きいのでは?と思う。生物学的にはその「種」の個体であるはずのクローンの役割とは何なのか、「人形」とどれ程異なるのか・・哲学的な疑問を喚起し、知的関心を撹拌した生命科学の一つの知見は、今やある理解に落ち着いていて、水底に沈殿している状態なのだろうと思う(あまり話題にならないので他人がどう考えているか判らないが)。即ち、仮にクローン技術による人間が生まれたとして、彼とて人間なのであってそれ以外に対処しようがない・・。確かイシグロカズオの作品にこれを題材にしたものがあった。
・・初演舞台が観客の心を掴んだ様子を、そんな事を材料に想像するのみ。

グッド・デス・バイブレーション考

グッド・デス・バイブレーション考

サンプル

KAAT神奈川芸術劇場・中スタジオ(神奈川県)

2018/05/05 (土) ~ 2018/05/15 (火)公演終了

満足度★★★★

10年続けた劇団の解散宣言ののち身軽になった松井氏が果たしてどう違った一歩をみせるか。
松井色としては「変わらない」というまずは感想。「自慢の息子」のごちゃごちゃ舞台を思い出し、蒲団を重ねた基地で戯れたり泥池に入ってザリガニを探した子供の頃の記憶に接続すると、これは「心理」の劇なり、舞台が「箱庭」に見えてきた。
混沌は舞台上のみならずテキストにも。物語は恐ろしげなシステムが築かれたらしい未来の日本、山間のその場所に作られた中途半端な小屋が建ち、僻地らしいその場所で物語らしきものが展開する。古典的作品「楢山節考」は意外にしっかり踏まえられていて現代版、近未来版楢山節考として観られる。
従来の俳優・スタッフ共同によるものでなく松井氏と小説との対話で醸成されたものか・・。元団員野津氏がのったり中心的に立ち回る。見た目では板橋駿谷が一人せわしく舞台を回す。戸川純がそのキャラと台詞の取り合わせに一々笑いをもらっている。他に若い女優二名と松井。奇妙な塩梅だが群像劇。
秀逸なのは未来の設定で松井〝変態〟周の本領が十分発揮されている。が、問題はストーリーを進めるエンジンとして「楢山」のドラマが使われており、水と油のよう。この二つを演劇的に包摂してアウフヘーベンさせる終盤の奇抜な展開が、力業で芝居をどうにか着地させていたが、素朴な疑問が生じる隙はあった。
「楢山節考」のリアルは「食うものがない」というシンプルな事実の上にあり、この一事を巡ってのドラマであると言って良い位のものだ。この「楢山」の原理と、松井氏の生み出す秀逸な未来像(現代への揶揄)とは、趣向が少し違う、にもかかわらずストーリーじたいは原作の出来事を動力として進み、楢山の原理(人の食糧に手を出したものは村八分。原作では「楢山様が怒るぞ」、舞台では「よしなり様が怒るぞ」と騒ぐ)に依拠したシーンもあって、ところがテキストには窮乏の背景描写が不足で祖語が生じてしまう。そこだけ無視して観続けられなくもないが・・骨抜きの「楢山節考」にするなら徹底してやりきらねばなるまい。
といった所。個人ユニット・サンプルの事始めは手探りでも松井色健在、この先も楽しみ。

いたこといたろう

いたこといたろう

渡辺源四郎商店

ザ・スズナリ(東京都)

2018/05/01 (火) ~ 2018/05/06 (日)公演終了

満足度★★★★

二人芝居。イタ子とイタ郎の話、ではなかった。年増の女と若いめの女が初対面し、二人を取り巻く関係の過去と現在が会話から立ち上がって来るうまい脚本だが、お祓いやホトケオロシの場面が頻出するイタコ三昧な芝居でもあった。これが一人芝居だろうが息を上げる事なくやり切るだろう三上晴佳と、対するは林本恵美子なる初目見えの女優(年増役)。繊細さと大胆さとで緩急を作りながら、「事実」に関する言及は言葉でなく微妙な演技で伝えるところはさすが。であるが、畑澤の演出は禁欲的で、分かりやすい音響効果等は使わず、せいぜい照明の変化で、あとは役者が生身の演技で伝える。役者への信頼だろうか。

イタコについて印象的な芝居に『イタコ探偵工藤よし子の事件簿』がある。この芝居では、登場人物が視ているテレビのサスペンスドラマの人物が「現実」にも浸入してくるのだが、悩みを胸に仕舞い込んでいた女性の前にふいに現われたイタコ(工藤よし子)は、イタコの業に関するネタバレを口にする。「イタコは三つの事しか言わない」として、シンプルな言葉を挙げると、女性の胸の中に築かれていた堰が壊れ、号泣してしまう、という展開なのだが、「心配しないで」「ありがとう」・・正確には忘れたが、要はクライアントの心のつかえをとり、生きる背中を押してあげるのがイタコなのだ・・という説明がなされていた。
これを念頭に、という訳でもないが、演じられているイタコの憑依を見ながら、「実にうまく演じられている」のか、実は「本当は憑依されている」のか、今どちらなのかを注視する。イタコは「癒やし」の仕事だ、との観点を貫徹して見るもよし、そこを保留して(憑依があり得ると考えて)見るもよしだが、この違いは大きいと思われた。

愛とか死とか見つめて

愛とか死とか見つめて

渡辺源四郎商店

ザ・スズナリ(東京都)

2018/05/03 (木) ~ 2018/05/06 (日)公演終了

満足度★★★★

なべげんイタコ演劇祭、第1回!と冠が付く(普通一回目は一々「第一回」とか付けないしょ)タイトルの物々しさ(のパロディ)が可能ならしめたのは、我々の殆どが縁の無いイタコによる「ホトケオロシ」実演を芝居中に織り込めたこと(もちろん役の演技としてだが・・)。二演目ともその場面があり、適当に作ってやってるのでない事は実演の様子から伝わる(なぜそうと判るのか?は我々が信憑性を判断する根拠について考える好材料だと思う)。これは『もしイタ』を世に出した畑澤聖悟の「イタコ理解」あっての企画であり、そこには宗教というものが「人のためにある」べき理が自然に流れている、と思えた。なべげんは芝居という器を借りて常に何か勝負を仕掛けている。

「勝負」といえば、二演目を掛けた事もそうなるか。
もっともこの所、複数チームだったり、複数演目、短編集と長編の組み合わせとか、その公演を堪能したと言えるためには二度足を運ばねばならないような公演が増えているが、その経緯の詮索はともかく、なべげんは中身で勝負する。畑澤で二人芝居、工藤で三上除くオールスター(?)、どっちが得か、よ~く考えてみ・・ても比較材料がない所へもって「イタコ演劇祭」である。二つで完結という事なら、観るしかないか。

工藤千夏作『愛とか死とか・・』はストーリーが向こうからやって来るかのように自然で、意表を突かれても馴染んで行く心地よさ。なべげん独特の(各俳優のカラーの貢献による)コメディ色が波状で表出し、辛辣な展開を観る者に飲み込ませていた。特に音喜多の婆さん役には、意外に芝居に馴染んでいる事に感心しながらも可笑しさを抑え切れず(実は計り知れない貢献度)。久々に見た山上は役柄を掴まえており、この芝居の支柱。イタコと言えば『イタコ探偵・・』の探偵役・奥崎愛野は修行?から戻っての復帰一作目か・・的確さを増した印象。・・等々、俳優陣も輝いて見えた良作だった。
「いたこといたろう」は別稿にて。二作の比較について結論だけ・・甲乙つけ難し。

1984

1984

新国立劇場

新国立劇場 小劇場 THE PIT(東京都)

2018/04/12 (木) ~ 2018/05/13 (日)公演終了

満足度★★★★

小川絵梨子演出を久々に観て、新国立とは相性が良いかも・・大きめの劇場機構でこそ技も光る・・という印象をもった。傍証として数年前の『OPUS/作品』。相前後した『クリプトグラム』(世田パブ)と合わせて、シンプルな構造、コンセプトが明確な作品を得意とする演出家か、との印象だったが、一見「複雑」に見える今回の戯曲についてはどうだったか。

(オーソン・ウェルズとごっちゃになる)ジョージ・オーウェルは「カタロニア讃歌」でも有名だが何より『1984』が伝説的である(と言っても読んでないが)。戯曲化は比較的最近かと思われたのは、小川が殆ど完璧と言える舞台処理を施し、その処理法が現代的(映像の活用など)、そしてそれらが仲睦まじい恋人よろしく戯曲と呼吸していたと見えたからだが、大きく外れていないと思う。
ともかく途中までは「これはめっけもの」と心騒ぎ、圧倒され通しだったが、終盤、そして締めくりである種の失速感を感じたのは、なぜだろう?
・・途中まで素晴らしかったしメッセージは十分伝わったから良かった、と言えるのか、それは「せっかく見つけた逸品にケチを認めたくない」心理のなせる底上げ作用で、やはり何か欠陥があったのか・・。いや、今結論を出すことはすまい。

「戯曲と呼応した流れるような演出」は、恐らく前半戦での正解。後半のホラー映画のような恐怖演出の効果がむしろ不要だったのではないか・・と、何となくだが思う。このあたりで物語の背後の論理構造(観客が必死で読み取ろうとしている)が見えづらくなる感じもあった。(だがパンフでの対談によればこのあたりで小川氏は勝負していた意識らしい。)むき出しの恐怖は思考を吹き飛ばす・・そういう舞台はあまり無かったかも知れない(映画ではむしろ今や常套となっている。アクション映画さえホラーのように驚かせてナンボだ)。

映画版『1984』にあったシーンと流れが舞台でもなぞられ、大方原作を踏まえている事が判ったが、映画では諸々説明不足があり、舞台ではそのあたりが明確で、映画では不明だった部分がよく判った。即ち、超監視社会であるオセアニアの支配側の末端で働く青年ウィンストンの思想的立ち位置、鮮烈な出会いから恋人となる女性との関係、総統であり人間でもない(党そのものだという)ビッグブラザーと、反逆者ゴールドスタインに関すること。

やはり「引っかかり」は終盤である。オーラス、「現実」に片足を置く観客を「架空世界」から現実へと引き渡す役割を、俳優が担う・・という意味では、小川演出は「架空世界」の内部で決着させた(事になった)。というのは--最後にこの話は冒頭と同じ読書会の場面に戻り、間に挟まれた話はそこで読まれていた「1984」の再現だったというメタ構造が示され、このオチで一旦観客は安堵するも、黙々と机に向かって何事かしている主人公がふと、客に向かって主人公の不敵な笑みを浮かべ暗転となる--。こう書けば「割と普通」「あり得る」とも思われようが、舞台上はあまりに強いフィクション性を帯び、観客は否応なくそこに入り込んでいる。俳優がシビアに完璧にフィクション構築の要請に応え、「作り込まれた世界」が濃縮された様相を帯びる・・それほどに堅固に演出された舞台の世界は、劇場の外の現実とは、乖離しているのである。(話の内容が現実の暗喩になっている事とは別問題。)
「夢から醒める」時点で、体験の記憶を身体にとどめるための「現実とのつなぎ」が、私は舞台が舞台の内部だけで完結しないために必要だと考えているのでこうぐだぐだ書いているが・・、小川氏は「内部」での完成を自分の使命とするゆえに、戯曲が指示するものを表現し切ったと言える所で、幕を下ろしてしまうのではないか。(その感じを持った小川氏の舞台を思い出した。)
戯曲の原産国(英国)では、国柄と社会状況という色の付いたキャンバスの上に戯曲が書かれ、必然に何らかの具体的メッセージを帯びるものであり、つまりは「現実」との関係が不可分にある、それが演劇の自然なあり方なのではないかと(勝手に)想像しているのだが、今回の舞台で私たちは「英国の状況」を想像すべきなのだろうか・・と言えば皮肉が過ぎるだろうか。
小川氏の手腕が、「演劇を日本の現実にどうコミットさせようとするのか」を意識した戦線で発揮されるとどうなるか、そこを見てみたい。

私としては「架空世界」の外膜を俳優が破って出てくるくらいのラストが、そこまでの流れの完璧さに見合う、ある意味でバランスのとれた形であり、即ち非常に上質な「私たちの舞台」として結実する事になったのではないか・・「if」を想像するが、自分の発想がアングラに傾き過ぎであるかも知れない。

諸々ありながらも、エライ舞台を見た後味は否めない。
舞台装置・照明は大いに動員され、フルに使いこなされている。ダイナミックな流れの中に速替え、マジックに等しい入れ替わり、出はけがさり気なく織り込まれる。俳優の立ち位置、配置が関係性を雄弁に表し、美的でもある。
・・理屈抜きの「快楽」の世界だが、それだけでは何か不足が残るのだろう。欲しいのは「構築」の方向性に対する、離脱の方向、だろうか・・また蒸し返してしまった。

舞台の魅力を言葉で掴み切れていないが、舞台処理の鋭利さは、『プルートゥ』とは比較しようがないが、仮に順位を付けるなら次点、近年の暫定2位だ。

731

731

パラドックス定数

シアター風姿花伝(東京都)

2018/04/24 (火) ~ 2018/05/02 (水)公演終了

満足度★★★★

著名な劇評家の姿も見えた回。注目度も上がっている?パラドックス定数、というか野木萌葱作の舞台を久々に拝見。
731部隊員であった者が都内の某所(戦前からのアジトという設定)に「空っぽの封筒(裏にその場所の住所が記載)」が送られた事や、自分らの身を守るため互いの動向を知る目的から、集まっている。
登場人物は6名。時代設定は1947年。米国占領下、東京裁判より前で彼らは「戦犯」として法廷に引き出される恐怖も抱えているらしい。
作劇には面白い着眼もあったが、その一つ「帝銀事件」はドラマの比較的中心で、タイトルを「帝銀」としても良い程に絡んでいる。
ここでこのドラマは(史実としては見つかっていない)真犯人を登場させている。フィクション、とまで言えないのは、事件に使われた毒薬の性質から731出身者である可能性が高い、という視点を押し進めたためのようだ。
また、民間の血液銀行(ミドリ十字の名は出さないが)設立、旧陸軍軍医学校跡地に見つかった人骨問題、731人体実験の研究成果がアメリカの手に渡った事実、などに触れてドラマに絡めている。
こうしたトピックの合流地点として歴史を再構成する面白さは判る気がするが、どこか不満が残るのはなぜか・・。

ネタバレBOX

後に薬害エイズ事件を引き起こすミドリ十字のくだりについて・・
設立の計画を進めようとする男に対し、上官に当たる者が、「(アメリカのテコ入れで飲まされそうな)非加熱製剤には気をつけたほうが良い」と真面目にアドバイス。研究者としての良心をアピールさせるのに余念が無い・・と評したくなる。つまり後の歴史を知る者による後付けの脚色の匂いがする。
アメリカに利用され続ける日本、との視点は正しいとして、しかし物事の「裏側」を知る彼ら(登場人物)が手をこまねき、情報を人々に知らせなかった事によって、現在の対米隷従の延長を見ているのに対し、その責任を問わずこの場面でアメリカ牽制の(面と向かっては絶対に言えない)判った口を利かせるという、この描写が、こうした問題の根っこを浮かび上がらせる事にどれほど貢献するのか、むしろ曖昧に濁すことにしかなっていないではないか・・と、私などはどうしても思ってしまう。

米国が731資料をごっそり持ち去ったというのは731部隊の現地での事と私は勘違いしていたが、確かに・・。持ち帰った資料が日本人からGHQに渡るルートが最もあり得る。ただ、731で己らのやった行状を恐れる者たちが、GHQのスパイと判った某氏を一様に責めるのは、解せない。なぜなら、「裁き」を恐れる相手=米国が既に自分らの行状を知っている、という事態の中に、自分らはどう利用されるのか、捨てられるのか、という「より大きな」問題の地平に今や至った事に気づくはずで、そうした「見えない敵、もしくは審判者」を前にして無力を知った時、人は自分の行いを「罪」の側面から考え始める、という事があるのが自然だろうし、あるいはそれに抗おうとして真反対の行動を取ろうとする、また真実を見ないようにする、といった行動が考えられる所、芝居では「裏切った裏切らない」の話をまだやっており、しかも「理性的に」議論をしている風なのだ。
ここで思うのは、「理性」とは「裁き」という恐怖の手が及ばない所で内弁慶的にポーズを取っていられる事、の意ではないか。つまりは、まだ罪と向き合わずに済む状態をこの閉塞空間が保証している、というより彼らはまだ井の中の蛙なのである。そこで語られる理性的な言辞を、何だか格好良く見せて芝居を収めようという意識が私には理解できない。
一兵卒である部下が、「あれほどの事をやったのに・・」と、告発すべきという趣旨で発言する終盤の白熱場面。「だから何だ」「何が善か悪かも判っていない頭で言うんじゃない」と、幹部の一人が言うが、それこそ「判ったようなこと」だ。社会の必要悪を担うことで社会的地位に収まる欺瞞が、今も通ってしまう社会である以上、「だから何だ」とは反語的意味も持ち得るが、作者としてはどうだったか。。

一つのバロメータと思われること。過去に観た「三億円事件」や「東京裁判」にも共通するが、男の「地位」を示す制服=背広など=を格好良く着こなし、その制服に見合ったいっぱしな台詞を吐かせる演出が、あの衣裳でなく別物でも成立するかどうか。私は成立しない、と見えてしまう。
今回「良心がある」と部下に慕われた「己らの行いに悩む」男は、それまでクリーム色のジャンパーをまとっていたが、血液銀行に引っ張られた(それは懐柔された事を意味する)後のラストでは、皆と同じく濃いグレーの制服を着こなして登場する。
その制服が意味する欺瞞を、作者はことさらに暴かない。むしろその制服で収まりがよく感じるような台詞を吐かせ、「生きるためには仕方ない」「皆必死で生きている」メッセージの方が強調される。「罪」は掘り下げきれずに劇は終わるのだ。

「悩む男」と、彼を慕う部下が、良識の側にありそうだが、部下のほうは実際に手を汚しておらず、実質一人である「悩む男」が中国人の人体実験と被験者の調達が日常であった731部隊の幹部連中の中では、ドラマ的には「一石投じる」べき役となる。
だが「自分はもう医者にはなれない」と嘆き、皆の「心配の種」であった彼が最も感情をあらわにするのは、満州に渡る前、脳外科専門の上司のために手術の訓練の実験台にする戦死者を調達して与え、切断された頭部を運んでは埋めていた、その記憶を語る時だ。「腐った頭部を運ばされた」事がいかに忌まわしいものであったかを訴え、「俺の731はそこから始まってるんだ!」と叫ぶ。これはこの問題に触れるために必要なくだりであったかも知れないが、ここでの描写が具体的であるのに対し、731で「行なったこと」の描写がもう一つ足りないという比較が生じる。731での「行い」についての証言は、「罪」を論じる視点との関係でも、自分の感情からも語られていないように思う(記憶違いかも知れないが)。
一人「悩む男」は、その事をむしろ語ることで観客にも「語ることが彼にとって必要なことだった(一人では抱えきれなかった)」と理解させる事になっただろうところ、それは部下への手紙(他の者には空の手紙)の中に書き綴られていた事になり、部下は終盤で「あんな事をしておいて、どうして明らかにしないのか」と、「あんな事」としか言わずに訴える。しかしその発言は「悩む男」が秘密を漏らした証拠の重要性が際立たせられ、「悩んでいた男」は慌ててしまう。終盤で、この男はすでに「ブレていた」訳だ。
ブレない内に行動に至らないなら、ドラマ的にもその説明が施される必要がある。元々、「行い」に関する「悩み」など無かったのではないか、と後の印象が上書きされ、そして元々そうだったのでその通りになった、と見えた。
人物の一貫性からすれば、「悩み」が何らかの形で発露されて良いのだが、それは差出人の無い封筒を関係者に送りつけていた張本人である事が終盤明かされる事でその「ぶざまさ」を指摘される事で立ち消えとなり、つまりは「関係者を招集する」行為までがせいぜい、彼の「悩み」が押し出した行為だった、という事なのだ。

その事の傍証は、「あんな事までして・・」と部下に言わせたその具体的な内容に、この劇の中では言葉化された箇所が無いこと。「丸太と言っていた」「どんな場面でどんな口調で言った」「どんな気分だった」という、ある一点でも良いその瞬間を切り取った証言が、ない。「丸太」の話題から発展したのは「これは本来マテリアルと呼んでいた語がいつしか・・(これを遮る声)」と、一般的な記述の紹介だけだ。
既に知られた史実・・だから触れるに及ばない、とはならない。実際に見たわけではない史実・・について語ろうとしているのだから、想像力たくましく迫って欲しかった。

敗戦後間もない時期に、どの程度その「行為」の意味を認識し、捉える事ができたか、そういう人間がいたかは不明だが、劇に登場する「悩む男」の存在は「気づき」の予兆であって、この伏線に対して、「気づき」及ばずガックリ、となるか、「気づき」はなお生き残り、希望を託せるか・・という風に展開はどちらかになりたいが、そこがぼやけている。敢えて言えば「ガックリ」であるが、芝居として「ガックリ」と位置づけられていない。

一人の人間が果たして「罪」に苦しんでいるのか、社会的制裁を恐れているのか、一神教の観念を持つ者とそうでない者の間にも差があろうが、仮に唯一神観念がなくとも「罪」の観念は実際の人間を想定することで生じるものと思う。
しかし結論的にこのキーとなる男は罪の問題に深く触れていたとは言いがたく、そうとなるとこの劇には当初から「罪」の視点で出来事を語るべき者はいない事になり、「節度ある発言」を発する者も居るが、おしなべて「対立」は矮小な範囲で霧散している。

野田正彰氏の「戦争と罪責」はかの戦争で主に加害行為を行なった元軍人が、戦後数十年経ってなお残す心の傷跡を読み解こうとした論述で、問われなかった(裁かれなかった)「罪」を持て余す者が少なくない事をこの本で知ったのだが、大概「罪」を擁護するのは本人でなく親族など周囲の者ではないかという事をそのとき思った。殺人事件の遺族が一様に重刑を望む訳ではないのに周囲が熱くなっている、という構図に似ているかも知れない。ベクトルは逆だが。

1年かけての7作品連続上演が風姿花伝で為される第一作目。新作が含まれるのなら、その折には「変化」を確かめに見てみたい。
寿歌

寿歌

愛知県芸術劇場 / SPAC(静岡県舞台芸術センター)

舞台芸術公園 野外劇場「有度」(静岡県)

2018/04/28 (土) ~ 2018/04/30 (月)公演終了

満足度★★★★★

SPACで、宮城演出で、『寿歌』。未知数に惹かれて観劇した(もっとも「寿歌」を私は初見、北村想作品は何作か観劇)。
三人芝居。ネジ一本足りな気な女を演じる(割と普通顔なのに舞台上で俄然存在感を示す)たきいみき、漫才の片棒に仕込んだ彼女をリヤカーに乗せて荒野を行く(芸達者風情の)奥野晃士、「ヤソ」と名乗って「ヤスオ」と呼ばれる超自然人(長髪痩身の役作りを成し遂げた?)春日井一平が、核戦争で人類がほぼ絶滅した地球の上を、シュールな言動をかましながら旅を続ける。
山間にある野外劇場「有度」は既に夕暮れ、両側に舞台領域を広く取ったコンクリートの建造物(照明などを設置)が途切れた先は、奥深い高木の林。カミイケタクヤの美術は、バイパスのようなカーブのついた道が8の字に、主な演技エリアがちょうど頂点から下るカーブが手前にせり出すように設え、地面は遊び心がのぞくガラクタを散らした上にビニルが覆っている。
不思議な時間が流れていた。劇中ミサイルの発射音が絶えず鳴り響き、まだ使いきれない大量のミサイルが人間の手を借りずに発射されている、という短い説明が台詞中にあるのみ。行き交う人も無し。
深刻な設定と旅する二人の脳天気さとの落差が醸す何でもあり感は、物を増やす術を使う仙人風、というか浮浪者風の男との出会いをも包み込み、やがて幻想的な蛍の光の場面、実際に最後に降らせる雪をも許容するだけの詩情が溢れて滲み出し、全体を満たしていった。
浮遊するような掴み所のない台詞は、一つ一つその意味合いが整理され、逐一目的が明確になっている、と思った。戯曲が持つ「不思議感」は台詞を伝える事だけでも醸せる事だろうが、舞台上の一秒一秒を躍動させるためには(役と同じ時間を観客も生きるには)、役に行為と存在の一貫性を与える台詞の意味(それはどういう行為か)のあぶり出しが不可欠で、とりわけ不条理風な劇では重要、つまり難作業と思う。そこを的確に選択し、塩梅できていたのが今回のSPAC版「寿歌」の出色だったとの印象である。

ネタバレBOX

登退場コースが短いせいか?コールは4回も起こったが、拍手していたい時間というものは確かにある・・と、会場の反応に共感。
ところで作者はこの戯曲をさほど考え無しに書いた、最後に雪を降らせたいというだけが始め頭にあった、という。本物の雪(といっても機械で作る雪だが)は見た目も違い、何とも言われぬ感興がよぎる。リヤカーに乗って進む二人の背後から、雪が垂直に上り、それがふわりと彼らの前方(つまり観客側)に降ってくる。
『南の島に雪が降る』で作り物の雪の書き割りと紙を降らせた雪に、観客である兵隊は皆涙した、あのくだりを思い出す。
他に意味はない、ただそれが「ほしい」思いだけで彼らは工夫を凝らして舞台を飾った訳だった。舞台の上には「ここ」ではないユートピアがある。しかし核戦争後の人も居ない孤独の旅を行く彼らの中に、ユートピアを見ている自分とは、何だろう。
ERROR

ERROR

CHAiroiPLIN

三鷹市芸術文化センター 星のホール(東京都)

2018/04/21 (土) ~ 2018/04/30 (月)公演終了

満足度★★★★

スズキ拓朗は貧乏育ちかボンボンか、のほほんと育ったのかそれともキビシク育てられたか・・などと考えさせる不思議さがある。台詞大いにあり、踊りもあるが本格的に踊っているスズキやユニット所属の女らの巧い「踊り」を見ると、他の人達は「まあ得意」な役者さんを揃えた感じだろうか。あるいは特訓したのだろうか??
太宰「人間失格」と植物(庭に植えるもの)の成長物語を絡めて言葉遊びと身体遊び、物遊びを様々に結びつけて、ソロ、集団、グループのシーンを作っていた。
多様な演出がある中、この集団が突出して持つのは音楽的素養のよう。全員の(動きながらの)コーラスは聴かせる。その楽曲提供は主人公=葉蔵役3名の一人、清水ゆり氏の詞・曲という。ピアノ生演奏+歌も担って十二分の活躍だった(パンフにネームが見られなかったのはなぜ?)。

革命日記【青年団・こまばアゴラ演劇学校“無隣館”】

革命日記【青年団・こまばアゴラ演劇学校“無隣館”】

こまばアゴラ演劇学校“無隣館”

こまばアゴラ劇場(東京都)

2018/04/14 (土) ~ 2018/04/30 (月)公演終了

満足度★★★★

蠱惑的な劇空間になっていた。もう一度観たいと思ったが一週間前には完売。青年団(関係の公演)としては早い方ではないだろうか。
青年団の舞台にありがちな幾つかの特徴がない。例えば最後に伴奏無しで歌をうたったり、つまらない駄洒落を言ったり(いやこれはあったか)。
時代設定は「既に政治運動の時代ではない」とだけは判るが、実際に革命を目指す「運動」がまだ残っている、となると1980年代かせいぜい90年代か、と思うがそのあたりは架空設定であっても良いように思う。
舞台装置が良い。いつもとステージを逆にしたのも良いが、アパートの四畳半の部屋でなく、カモフラージュなのか瀟洒なマンションの一室といった風も良い。一番はこの場に流れている空気、思想が絶妙な具合に「有り」と思われるように作られていること。「革命」の大義を「利用」したり、逆に言葉に絡め取られている様もみられるが、中心的な論争になるテーマが「運動」の問題を突いていて、抗議する側の正当さに対してやり込めようとする側の欺瞞がみえても一方的に悪として描いていないこと。
・・登場人物全ての問題が解消していくウェルメイドではないが、登場人物全てによって「一つの正解に集約されない」ことが結果的に示されている事、それがこの舞台の成果であり魅力。もう一度観たいと思わせた青年団久々のヒット?(再演だけど)

「ハムレットマシーン」フェスティバル

「ハムレットマシーン」フェスティバル

die pratze

d-倉庫(東京都)

2018/04/04 (水) ~ 2018/04/22 (日)公演終了

満足度★★★★

最終組のシアターゼロ(韓国)/IDIOT SAVANTの手による「ハムレットマシーン」を観る。
僅か10数ページのテキストに、娑翁作品の断片や同時代(作品発表は1977年)の事件や状況を皮肉にまぶした「台詞」がまるで煮込んだシチューのように濃厚かつ難解である所の原戯曲は、必然に十通りの予測の付かないバリエーションを与えたが、同じ戯曲を上演するのだから各集団が「このテキストをどう捕まえたか」は重要で、その「つかみ具合」を読み取ることを通して観客は「ハムレットマシーン」という作品を「知る」、あるいは「知る端緒となる」体験をする・・という事でありたい。

結局10のうち4団体を拝見したのみだが、トリを飾ったIDIOTはほぼテキスト通りを「喋り」、ト書きにも目配りがなされていた。言わば「忠実な」上演という事になるが、何らかの掴み取り方ができなければ、たとえ戯曲に忠実たろうとしても上演できる代物にはならないだろう。
IDIOT SAVANTを以前に観た時は、演技過剰でテキストに合わないものを感じたような記憶があるが、今回その記憶を呼び覚ました一つ、中心的俳優(女性)の中性的、否男性的と言っていい佇まいと声、動きが、主にテキストの語り役を担っており、出色であった。目読すれば散文詩に過ぎないコトバが、人物の「台詞」として響いてきた。

IDIOTがこのテキストから汲み取ったのは、激烈な感情を伴う絶望であり、その方向での(表現の)最頂上を目指す立ち居と喋りによって、激情ほとばしる舞台となっていた。他の(私が観た)集団では観られなかった、また同様に周囲にも今や特異と言う他ない境地がそこにあった、と思う(この集団の色なのかも知れないが)。すなわち、状況に対する絶望という心情だ。それが起こる背後には、公正たろうとする心、道理が叶う社会であるよう願う己の心に従って生きる下地がなければ、発生しない。その「個」あって初めて「社会」に対し絶望し得る主体が存在する・・という意味で、激烈な「絶望」の言葉を吐く人物の形象そのものが困難を伴うという事なのであり、それを形として見せ、最後まで破綻なく絶望を表現し通した点において、このバージョンは特異である、と言わざるを得ない。
まず始まりが秀逸。黒衣裳の身を包んだ男女が応援団のように客席側を向いて足を踏ん張り、必死の形相でガナるのが、一定のリズムを刻む不思議なフレーズ「カーツカッカ/カーツカッカ/カッカッ」。シンコペーションを含むこのフレーズを繰り返す4拍子のリズムを叫び(足を踏み鳴らし)、一人、一人と別な役割を担う動きが混ざって全体が変化していく。身体パフォーマンスが基調ながら、台詞は流れ続け、また喋らないパフォーマーの演技も演劇的に展開する。この身体パフォーマンスの判りやすさと、吐かれる言葉の難解さの具合がちょうど良い。
この冒頭の激しくも整ったパフォーマンスから、各章に分かれたテキスト通りに、場面(の風合い)が変化を辿り「カーツカッカ」は一旦封印される(オーラスで復活)。
「私はハムレットだった」に始まるテキストが、オフィーリアの呟き、ハムレットが女装する、等と場面を渡り歩いて最終局面に向かうが、はっきり言ってその場面構成から「ストーリー」を理解するのは困難だ。ただ絶望的な状況があり、それが如何に絶望的かを「感じ取っている」人物たちのその感じ取り方を、佇まいを通して客席からキャッチする事ができる。
問題はその絶望的状況というものに対する想像力が、観客側にあるかどうか、かも知れない。否、たとえ実体験がなくとも表現によってそれは「ある」と、伝える事はできるのかも知れない・・(そこは私には判らない。)いずれにしても随所に創造性の発露をみた出し物だった。

一方の韓国の団体は、取り立てて言う事のない、言ってしまえば「中身が薄い」という印象が強く残る出し物だった。同じ意味合いの行為を延々と繰り返して得られるのは時間の引き延ばしの他に見当たらなかった。
構造として同じパターン(一人の男が二人のマシーンを呼び出し、二体の関係は最後に不具合を起こし、暗転)を何度か繰り返す作りだったが、毎回のパターンの違いも、従って何が共通点なのかも、わかりづらい。
そもそも3人の役の分担のあり方が演技を通じて伝わって来ず、代わりに何か解説があるわけでもなく、「わからなさ」を相殺するパフォーマンス面の面白さがあるかと言えば、それもなく、混沌とした風合いが良い、といった舞台効果があったわけでもない。
白塗りの男女が俳優の「マシーン」を演じるが、その動きは表現としても(機械を演じようとするためか)拙ない。今一人は、どうやら注目の俳優という事だったらしいが、先の単調なリフレインを4回ばかり繰り返すだけに終わるこのパフォーマンスで、彼はマシーンを呼び込む役にもかかわらず彼自身が「私はハムレット」(ナン、ハムネッ)と台詞で言っていたりする。役回りが理解できない一方で、彼の演技そのものの中に面白さを発見できたかと言えば、それも残念ながら無い。何か解説を聞けば違った風に見えたかも知れないが、それを舞台上に表現して見せるのが演劇だろう。
気になったのは韓国に「ハムレットマシーン」の翻訳本があったのかどうかだ。
日本語訳では作者ハイナー・ミュラーの「戯曲」数点と論考が収められた書籍があり、ハムレットマシーンにも相当数の訳注が施されている。これを見なければ、作者が何を意識して、どういう状況認識の土台の上にその語句を用いたか、素人には到底理解はできない。おそらくそういう類いのテキストだ。

酷評したくなるパフォーマンスはこのシリーズを以前観た時にもあったし、それだけ厄介だがやり甲斐のある戯曲と格闘し、競演するフェスティバルの醍醐味でもあろうか。しかし今回のテキストはこのサイズのイベントには、難物ではなかったか。

地底妖精

地底妖精

Q

早稲田小劇場どらま館(東京都)

2018/04/20 (金) ~ 2018/04/23 (月)公演終了

満足度★★★★

STスポットでの永山由里恵と武谷公雄の怪演が記憶に新しいQの新作(上演は二度目という)は早稲田どらま館で、同じく永山のほぼ一人芝居。無対称の存在(地底の生き物)とのパーティ(おならの出ない芋を勧めるのにほぼ終始)に始まり、延々と喋くり回るのは妖精とはこれ如何にである。客席にやたら視線で絡むかと思っているとついに舞台上に客を引っ張り上げ、一くさり遊んでみたり、突如夢の再現らしいゲロい映像が流れたり、終盤に漸く登場するもう一つの生物・・と、飽きが来る暇もない。妖精(自分をそう思っている人?)の暮らす世界は一体どこなのか、ピンクの芋と蔓は(サツマイモ色の塗り損ないでなければ)何を象徴するのか、モグラは彼女にとって何か・・といった疑問は湧くが、答えを探す必要性を感じさせない。彼女が抜き差しならぬ所へ進んでいく「感触」があり、人格の一貫性の表れと思われるこの感触はテキストが構築したものか、俳優の仕事か。型破りが標準である所のQの今回も美味しい舞台をみた。

テンペスト

テンペスト

劇団山の手事情社

大田区民プラザ(東京都)

2018/04/12 (木) ~ 2018/04/13 (金)公演終了

満足度★★★★

よく記憶を辿れば、(WS発表公演でない)山の手事情社の本公演を目にしたのは初めてだった。ただし今回の舞台の印象は「初めて」のものでなく、古典演目への切り込み方が予想よりやや晦渋であった。『テンペスト』について記憶にあるストーリーを引っ張り出し、なぞる事なしに、この舞台に随いて行く事はできなかった。原作を知っていることが観劇の条件であるのは、古典という下敷きに依拠しながら、その古典作品についての再読み込みを怠っているようで、あまり好きでないが、対するWS発表は新作である。この劇団が持っている演劇観、尺度、何を重視しているかを未だ知らず。
これから欧州へ渡りルーマニア・シビウ演劇祭とルクセンブルクで上演する。かの地では知られた演目だけに観られ方も随分違うのだろう。
彼我の演劇文化の違いを聴けば彼我の人間観・権利意識の違いなど諸々考えさせられる。(ミュージカルでない)海外からの風を日本にどう吹かせられるか・・一つのテーマになって良いと時折思うものの、日常の中にその場所が見えない。

マッチ売りの少女

マッチ売りの少女

劇団PPP45°

桐生市有鄰館(群馬県)

2018/04/07 (土) ~ 2018/04/08 (日)公演終了

満足度★★★★★

桐生市は十年程前に一度通過したのみ(桐生駅始発のわたらせ渓谷鐵道を往復した朧気な記憶)。旅気分で親八会の『マッチ売りの少女』を観に当地へ赴いた。新宿の細いビルの5階だか、階段で上った狭いスペースでかぶりつきで観たのが同会『父と暮らせば』朗読。これは各地をまだ巡演中とか。辻親八の相手役は渋谷はるか。汗水迸る熱演の彼女が今回も中心的役(娘)に座り、さらには桟敷童子・大手忍!(弟)、俳優座・清水直子(妻)、辻(夫)。演出藤井ごうによる本格的な舞台であった。
旧商家の蔵が集合した有鄰館の一角で、客席は40~50程度。観客数は30余名といった所だろうか。
別役実作品のシュールさが、笑い、そして居心地の悪さを通過して、ある哲学的な問いの前に強引に立たせられるミラクルは、辻演じる夫と渋谷演じる娘との「対決」を軸に、この対決が紆余曲折するための妻や弟の介入が絶妙に絡んで仕上がる。弟演じる大手のキャラの豹変、辻との夫唱婦随のコンビを奏でる清水演じる妻、かくも美味なる舞台にこの客数は寂しい限りだが、みれば皆良い顔をしている。この場に立ち会えた幸福を自分も噛み締めた。

ネタバレBOX

保存対象となる蔵での上演には、都会的な演目は若干そぐわなさはあったが、当初都内での上演が決まっていたと言い、急遽不都合が生じ、劇場探しに奔走したという。確かに、雑遊での上演が簡易チラシで案内されていた。梟門と共に改修に入った事により、今回の運びとなった訳だ。(改修がギリギリになって決まったのだとすれば、やはり消防法改正絡みでダメが出たためだろうか・・)

辻親八は椿組の舞台で見た程度であまり知らなかったが、どうして達者であった。『マッチ売り』は念願の演目だったと言う。今後は何よりも貴重な財産である『父と暮らせば』をアピールし、上演し続けたいと挨拶。
親八会は個人企画であるが演出の藤井氏も企画部員的存在とか。ユニークな仕事を断続的にでも、世に出して欲しい。
自己紹介読本

自己紹介読本

城山羊の会

シアタートラム(東京都)

2018/04/17 (火) ~ 2018/04/22 (日)公演終了

満足度★★★★

初演を逃し、稀少な城山羊atトラムを鑑賞。再演をやるのも珍しいようだ。初演は下北沢の小劇場B1で席数も少なかった。見逃した人達からの熱い要望に応えた格好だろうか・・? シアターイースト(=300席前後)で十数ステージやる団体だから、B1(=100未満?)の十数ステージでこぼした客、トラム(=200前後)10ステージでも埋まる算段だ。
さて舞台。「なぜか居続ける」モンダイは、城山羊ではスタンダードと弁えるべきか。「用も無いのになぜ立ち去らない」「市職が昼間からなぜ暇?同僚と約束なんかして」「人の会話もぼんやり座って聞いてるし」(時間指定は無いが、日中であるのは明白)・・そんな突っ込み所はあるものの、面白さに走って芝居内部で決定的矛盾を来たすには至らず、不自然さをキャラに回収させ、一応は有り得る話に収まっていた。
エロ要素も皆無ではないが(いやしっかりあるが)奇抜な展開は抑え目でリアル路線に寄っていた。この劇団のを見慣れたせいか、面白い部分は面白く観、馬鹿馬鹿しいと心で呟きながらも身につまされる部分を寄り添いながら観ていた。

ネタバレBOX

人の行動の根底には性欲や異性への意識があり、性は個人の活力の源と社会の推進力である・・生物学的な真実は、性の扱いづらさゆえ伏せられ、代替物を持ち出してお茶を濁されるのが常。その滑稽が、エロ「抑えめ」のこの芝居では主軸に座っている事が最後に明白になる。
城山羊の他作では性的衝動がアトラクション的に盛り込まれるが、今作は動物の生態観察の視線で人間を眺め、その根底に性欲を見ようとする。果たして・・?そうだと信じるも信じないもあなた次第。
砦

トム・プロジェクト

シアターX(東京都)

2018/04/10 (火) ~ 2018/04/15 (日)公演終了

満足度★★★★★

再演歓迎。告知をみた時から観るぞと決め、予定通り観劇できた。予想通り(と言うと低評価のようだがさにあらず)見応えあった。伊達に年輪重ねていない村井国雄と藤田弓子の夫婦に見入り、芝居に入り込んだ。若手三人(原田、滝沢、浅井)が複数役及び三位一体の語り部として「夫婦の芝居」部分を進め盛り立てるべく走り回るという構図は理にかなっていた。
ダム建設反対闘争と聞いて隔世の感がよぎるのは、お上の計画が間違っていたと結論付けたことのない国では、お上に楯突くことの罪、不実行で不利益を被る人への罪、無駄を行う事の罪、それらが立ち塞がって正論も掻き消されてしまう。その現代の空気の中にこの手の話を持ち込む場合の常套が幾つかあるやに思うが、この舞台は夫婦を描き、二人の間にはあったかも知れない「罪」には触れても、社会に対してはブレなかった生きた軌跡を、ブレずに描き切っていた。
物事の正解不正解を出すのは(頭の作業としては)簡単だがこの夫婦の十年以上にわたる闘い即ち二人の存在が、辛うじて短絡な結論に甘んじようとする我々をとどめ得た事を、胸に刻めと芝居は言っているようでもある。

「ハムレットマシーン」フェスティバル

「ハムレットマシーン」フェスティバル

die pratze

d-倉庫(東京都)

2018/04/04 (水) ~ 2018/04/22 (日)公演終了

満足度★★★★

第一弾=サイマル演劇団、隣屋を観劇。
表現というものは自由である。それを味わえば良い、と言えばそれで良いのだろうが・・10団体の競演となると、題材について知らない事が不足に思われて来る。通常なら観ている内に原作?を知るという事になるのだろうが、今回の題材では、果たしてどうだろうか・・そんな事を思った。
今回全てを見られないが、一つでも多く観たいし、観たいと思わせる中毒性が企画そのものにある。

曖昧な犬

曖昧な犬

ミクニヤナイハラプロジェクト

吉祥寺シアター(東京都)

2018/03/22 (木) ~ 2018/03/25 (日)公演終了

満足度★★★★

舞踊のほうでなく演劇舞台であるミクニヤナイハラを観るのは昨年の吉祥寺に続き二度目。nibrollは何度か観て既にお気に入りだが、こちらは実験的「演劇」である。以前NHKで放映された『青ノ鳥』、DVD『五人姉妹』を映像で観たが、このプロジェクトはかぶりつきで、息がかかる距離で観たい、と思った。今回は「台詞はまくしたてながら走る」ノリを離れ、比較的穏やかに発語していた。いずれにせよ台詞がミソなのに変わりなく、矢内原美邦が自身のテキストで勝負したパフォーマンスという事になる。舞台成果は、この時の自分の注意力では台詞を「追う」のが精一杯、パフォーマンス全体を見渡せず。昨年と今年、吉祥寺シアターの後方の席は「遠く」感じてしまった。一回り小さな劇場空間で狭い思いをしながら観てみたい。

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