1984 公演情報 新国立劇場「1984」の観てきた!クチコミとコメント

  • 満足度★★★★

    小川絵梨子演出を久々に観て、新国立とは相性が良いかも・・大きめの劇場機構でこそ技も光る・・という印象をもった。傍証として数年前の『OPUS/作品』。相前後した『クリプトグラム』(世田パブ)と合わせて、シンプルな構造、コンセプトが明確な作品を得意とする演出家か、との印象だったが、一見「複雑」に見える今回の戯曲についてはどうだったか。

    (オーソン・ウェルズとごっちゃになる)ジョージ・オーウェルは「カタロニア讃歌」でも有名だが何より『1984』が伝説的である(と言っても読んでないが)。戯曲化は比較的最近かと思われたのは、小川が殆ど完璧と言える舞台処理を施し、その処理法が現代的(映像の活用など)、そしてそれらが仲睦まじい恋人よろしく戯曲と呼吸していたと見えたからだが、大きく外れていないと思う。
    ともかく途中までは「これはめっけもの」と心騒ぎ、圧倒され通しだったが、終盤、そして締めくりである種の失速感を感じたのは、なぜだろう?
    ・・途中まで素晴らしかったしメッセージは十分伝わったから良かった、と言えるのか、それは「せっかく見つけた逸品にケチを認めたくない」心理のなせる底上げ作用で、やはり何か欠陥があったのか・・。いや、今結論を出すことはすまい。

    「戯曲と呼応した流れるような演出」は、恐らく前半戦での正解。後半のホラー映画のような恐怖演出の効果がむしろ不要だったのではないか・・と、何となくだが思う。このあたりで物語の背後の論理構造(観客が必死で読み取ろうとしている)が見えづらくなる感じもあった。(だがパンフでの対談によればこのあたりで小川氏は勝負していた意識らしい。)むき出しの恐怖は思考を吹き飛ばす・・そういう舞台はあまり無かったかも知れない(映画ではむしろ今や常套となっている。アクション映画さえホラーのように驚かせてナンボだ)。

    映画版『1984』にあったシーンと流れが舞台でもなぞられ、大方原作を踏まえている事が判ったが、映画では諸々説明不足があり、舞台ではそのあたりが明確で、映画では不明だった部分がよく判った。即ち、超監視社会であるオセアニアの支配側の末端で働く青年ウィンストンの思想的立ち位置、鮮烈な出会いから恋人となる女性との関係、総統であり人間でもない(党そのものだという)ビッグブラザーと、反逆者ゴールドスタインに関すること。

    やはり「引っかかり」は終盤である。オーラス、「現実」に片足を置く観客を「架空世界」から現実へと引き渡す役割を、俳優が担う・・という意味では、小川演出は「架空世界」の内部で決着させた(事になった)。というのは--最後にこの話は冒頭と同じ読書会の場面に戻り、間に挟まれた話はそこで読まれていた「1984」の再現だったというメタ構造が示され、このオチで一旦観客は安堵するも、黙々と机に向かって何事かしている主人公がふと、客に向かって主人公の不敵な笑みを浮かべ暗転となる--。こう書けば「割と普通」「あり得る」とも思われようが、舞台上はあまりに強いフィクション性を帯び、観客は否応なくそこに入り込んでいる。俳優がシビアに完璧にフィクション構築の要請に応え、「作り込まれた世界」が濃縮された様相を帯びる・・それほどに堅固に演出された舞台の世界は、劇場の外の現実とは、乖離しているのである。(話の内容が現実の暗喩になっている事とは別問題。)
    「夢から醒める」時点で、体験の記憶を身体にとどめるための「現実とのつなぎ」が、私は舞台が舞台の内部だけで完結しないために必要だと考えているのでこうぐだぐだ書いているが・・、小川氏は「内部」での完成を自分の使命とするゆえに、戯曲が指示するものを表現し切ったと言える所で、幕を下ろしてしまうのではないか。(その感じを持った小川氏の舞台を思い出した。)
    戯曲の原産国(英国)では、国柄と社会状況という色の付いたキャンバスの上に戯曲が書かれ、必然に何らかの具体的メッセージを帯びるものであり、つまりは「現実」との関係が不可分にある、それが演劇の自然なあり方なのではないかと(勝手に)想像しているのだが、今回の舞台で私たちは「英国の状況」を想像すべきなのだろうか・・と言えば皮肉が過ぎるだろうか。
    小川氏の手腕が、「演劇を日本の現実にどうコミットさせようとするのか」を意識した戦線で発揮されるとどうなるか、そこを見てみたい。

    私としては「架空世界」の外膜を俳優が破って出てくるくらいのラストが、そこまでの流れの完璧さに見合う、ある意味でバランスのとれた形であり、即ち非常に上質な「私たちの舞台」として結実する事になったのではないか・・「if」を想像するが、自分の発想がアングラに傾き過ぎであるかも知れない。

    諸々ありながらも、エライ舞台を見た後味は否めない。
    舞台装置・照明は大いに動員され、フルに使いこなされている。ダイナミックな流れの中に速替え、マジックに等しい入れ替わり、出はけがさり気なく織り込まれる。俳優の立ち位置、配置が関係性を雄弁に表し、美的でもある。
    ・・理屈抜きの「快楽」の世界だが、それだけでは何か不足が残るのだろう。欲しいのは「構築」の方向性に対する、離脱の方向、だろうか・・また蒸し返してしまった。

    舞台の魅力を言葉で掴み切れていないが、舞台処理の鋭利さは、『プルートゥ』とは比較しようがないが、仮に順位を付けるなら次点、近年の暫定2位だ。

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    2018/05/04 01:10

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