満足度★★★★
最終組のシアターゼロ(韓国)/IDIOT SAVANTの手による「ハムレットマシーン」を観る。
僅か10数ページのテキストに、娑翁作品の断片や同時代(作品発表は1977年)の事件や状況を皮肉にまぶした「台詞」がまるで煮込んだシチューのように濃厚かつ難解である所の原戯曲は、必然に十通りの予測の付かないバリエーションを与えたが、同じ戯曲を上演するのだから各集団が「このテキストをどう捕まえたか」は重要で、その「つかみ具合」を読み取ることを通して観客は「ハムレットマシーン」という作品を「知る」、あるいは「知る端緒となる」体験をする・・という事でありたい。
結局10のうち4団体を拝見したのみだが、トリを飾ったIDIOTはほぼテキスト通りを「喋り」、ト書きにも目配りがなされていた。言わば「忠実な」上演という事になるが、何らかの掴み取り方ができなければ、たとえ戯曲に忠実たろうとしても上演できる代物にはならないだろう。
IDIOT SAVANTを以前に観た時は、演技過剰でテキストに合わないものを感じたような記憶があるが、今回その記憶を呼び覚ました一つ、中心的俳優(女性)の中性的、否男性的と言っていい佇まいと声、動きが、主にテキストの語り役を担っており、出色であった。目読すれば散文詩に過ぎないコトバが、人物の「台詞」として響いてきた。
IDIOTがこのテキストから汲み取ったのは、激烈な感情を伴う絶望であり、その方向での(表現の)最頂上を目指す立ち居と喋りによって、激情ほとばしる舞台となっていた。他の(私が観た)集団では観られなかった、また同様に周囲にも今や特異と言う他ない境地がそこにあった、と思う(この集団の色なのかも知れないが)。すなわち、状況に対する絶望という心情だ。それが起こる背後には、公正たろうとする心、道理が叶う社会であるよう願う己の心に従って生きる下地がなければ、発生しない。その「個」あって初めて「社会」に対し絶望し得る主体が存在する・・という意味で、激烈な「絶望」の言葉を吐く人物の形象そのものが困難を伴うという事なのであり、それを形として見せ、最後まで破綻なく絶望を表現し通した点において、このバージョンは特異である、と言わざるを得ない。
まず始まりが秀逸。黒衣裳の身を包んだ男女が応援団のように客席側を向いて足を踏ん張り、必死の形相でガナるのが、一定のリズムを刻む不思議なフレーズ「カーツカッカ/カーツカッカ/カッカッ」。シンコペーションを含むこのフレーズを繰り返す4拍子のリズムを叫び(足を踏み鳴らし)、一人、一人と別な役割を担う動きが混ざって全体が変化していく。身体パフォーマンスが基調ながら、台詞は流れ続け、また喋らないパフォーマーの演技も演劇的に展開する。この身体パフォーマンスの判りやすさと、吐かれる言葉の難解さの具合がちょうど良い。
この冒頭の激しくも整ったパフォーマンスから、各章に分かれたテキスト通りに、場面(の風合い)が変化を辿り「カーツカッカ」は一旦封印される(オーラスで復活)。
「私はハムレットだった」に始まるテキストが、オフィーリアの呟き、ハムレットが女装する、等と場面を渡り歩いて最終局面に向かうが、はっきり言ってその場面構成から「ストーリー」を理解するのは困難だ。ただ絶望的な状況があり、それが如何に絶望的かを「感じ取っている」人物たちのその感じ取り方を、佇まいを通して客席からキャッチする事ができる。
問題はその絶望的状況というものに対する想像力が、観客側にあるかどうか、かも知れない。否、たとえ実体験がなくとも表現によってそれは「ある」と、伝える事はできるのかも知れない・・(そこは私には判らない。)いずれにしても随所に創造性の発露をみた出し物だった。
一方の韓国の団体は、取り立てて言う事のない、言ってしまえば「中身が薄い」という印象が強く残る出し物だった。同じ意味合いの行為を延々と繰り返して得られるのは時間の引き延ばしの他に見当たらなかった。
構造として同じパターン(一人の男が二人のマシーンを呼び出し、二体の関係は最後に不具合を起こし、暗転)を何度か繰り返す作りだったが、毎回のパターンの違いも、従って何が共通点なのかも、わかりづらい。
そもそも3人の役の分担のあり方が演技を通じて伝わって来ず、代わりに何か解説があるわけでもなく、「わからなさ」を相殺するパフォーマンス面の面白さがあるかと言えば、それもなく、混沌とした風合いが良い、といった舞台効果があったわけでもない。
白塗りの男女が俳優の「マシーン」を演じるが、その動きは表現としても(機械を演じようとするためか)拙ない。今一人は、どうやら注目の俳優という事だったらしいが、先の単調なリフレインを4回ばかり繰り返すだけに終わるこのパフォーマンスで、彼はマシーンを呼び込む役にもかかわらず彼自身が「私はハムレット」(ナン、ハムネッ)と台詞で言っていたりする。役回りが理解できない一方で、彼の演技そのものの中に面白さを発見できたかと言えば、それも残念ながら無い。何か解説を聞けば違った風に見えたかも知れないが、それを舞台上に表現して見せるのが演劇だろう。
気になったのは韓国に「ハムレットマシーン」の翻訳本があったのかどうかだ。
日本語訳では作者ハイナー・ミュラーの「戯曲」数点と論考が収められた書籍があり、ハムレットマシーンにも相当数の訳注が施されている。これを見なければ、作者が何を意識して、どういう状況認識の土台の上にその語句を用いたか、素人には到底理解はできない。おそらくそういう類いのテキストだ。
酷評したくなるパフォーマンスはこのシリーズを以前観た時にもあったし、それだけ厄介だがやり甲斐のある戯曲と格闘し、競演するフェスティバルの醍醐味でもあろうか。しかし今回のテキストはこのサイズのイベントには、難物ではなかったか。