今、僕たちに出来る事。あと、出来ない事。from 2001 to 2018。 公演情報 シベリア少女鉄道「今、僕たちに出来る事。あと、出来ない事。from 2001 to 2018。」の観てきた!クチコミとコメント

  • 満足度★★★★

    伝説的な奇想の数々・・・と聴いていたシベリア少女の過去作品だというので飛びついた。昨年に続き二度目。「しょせんお芝居」、現実ぢゃない、本当ぢゃない、嘘。虚構性を殊更に強調する冷や水のオンパレード。「いかにもドラマ」な典型例を茶化す(役者は「その演技」を無心にやってみせる事で笑になる)。微妙な間合いや口調で醸し出される「ズレ」の瞬間を、待ってましたとばかり客席から笑いが起きる。
    昨年のオリジナルは「よく考えた」と思えたが、今作には(「復刻版」という先入観からではなく)目新しさを感じなかった。
    物語は二つの流れがあって後に合流するという形。まずは高校演劇部員、顧問教師とその周辺の人物。冒頭顧問がかつて映画を志し、一人空回りした学生時代のくだりが短く提示され、やがて女子部員の舞台を目指す思いにかつての自分を重ね合わせた顧問が彼女の背中を押す事を自らの使命とする、という動機の設定がある。一方別の場所では、小惑星接近の危機を共有する研究所と政府、ミサイルで破砕するための計算を一人で担う女性研究者が実は歪んだ考えの持ち主で、ある破砕の方法をとった事で人類を無性生殖が可能な種としてしまう、という事が起きる。なおクローン技術も彼女は極めていて、自らの分身3体を「計算」に当たらせてもいるが、ともかく彼女にこの行動を止めさせる事は当然ドラマ上の中心課題に据えられる。
    ドラマの設定を終えた所で、いとも簡単に時空の裂け目から過去や未来に行ける展開となる。「世界を終わらせないため」に時空を超える。だが過去の自分と同時存在するため、役が足りなくなる。「都合により」な舞台処理をやむなく行なう。過去の自分を追っているシーンでは、上手へはけるとドタドタと下手へ駆けつけ、素知らぬ顔で登場する、という「演技」をみせる。果ては役者が足りないため人形を置いてアテレコで喋ったり(録音も使う)、その人形がずらりと並べられたり。
    つまり、総じてハチャメチャな設定の劇を「やらされている」光景が、ドキュメントとして(バックステージドラマでなく「上演されている劇」そのものの上演という形で)提示されている、とも言える訳である。

    昨年のと同様、一つの実験ではあるのだが、人形を置く、という型破りな処理がエスカレートする今回の舞台。初演時に比べて熱度を上げ切れなかったとすれば(初演を観ていないので判らないが)、その原因は何かと言えば、初演当時との「時代」の違いである事の他、考えにくい。(役者は達者だし場面を成立させる表現は的確で隙がない。)
    恐らくはクローンという話題が当時は最新科学のトピックだった事が大きいのでは?と思う。生物学的にはその「種」の個体であるはずのクローンの役割とは何なのか、「人形」とどれ程異なるのか・・哲学的な疑問を喚起し、知的関心を撹拌した生命科学の一つの知見は、今やある理解に落ち着いていて、水底に沈殿している状態なのだろうと思う(あまり話題にならないので他人がどう考えているか判らないが)。即ち、仮にクローン技術による人間が生まれたとして、彼とて人間なのであってそれ以外に対処しようがない・・。確かイシグロカズオの作品にこれを題材にしたものがあった。
    ・・初演舞台が観客の心を掴んだ様子を、そんな事を材料に想像するのみ。

    0

    2018/05/15 08:41

    0

    0

このページのQRコードです。

拡大