tottoryの観てきた!クチコミ一覧

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陰獣 INTO THE DARKNESS

陰獣 INTO THE DARKNESS

metro

赤坂RED/THEATER(東京都)

2019/01/17 (木) ~ 2019/01/20 (日)公演終了

満足度★★★★

metroも3作目だか4作目だか。ちょっとした楽しみになっている。エログロな世界を真顔で作ろうとするこだわりの態度は期待をさせる。今回はmetro第一作の満を持しての再演という意気込みを何となく感じ、足を運んだのだったが。。

ネタバレBOX

千秋楽が影響したか。それとも・・。私の感知器にはぎくしゃく感が多少ならず認められた。
江戸川乱歩を題材にするならど真ん中と言える題材を、舞台としてはこれ以上ない程の隠微な世界が作り込まれている。
気になったのはサヘル・ローズが中盤以降ずっと泣いているのだ。演技として意図的に泣こうとしているのか、それとも最終ステージに感極まり、「先生」との愛の側面が役の人格を覆ってしまって、悲劇の主人公と化したか。。弱々しくなった彼女は、本来「我が道を行く」強さの証となるべき「人と目を合わせず自身と向き合う」体勢をとる事が殆どなくなり、常に相手役のことを涙目で見ている、という具合になっていた。
劇では月船と人格的に共通する部分があったり、実際舞台上で両者の人格が入れ替わったり、二人の身体が蛇のように絡まって二人で一つの様相を見せたり、妖しく立ち回る二人であるのだが、その妖しさがサヘルから中盤以降消えてしまい、しおらしさだけが残った。これは非常に気になった。
千秋楽終演後の月船の挨拶がやや重たく湿っぽかったのも気になったが、次の10年も隠微な世界に拘り、体当たり演技で独自な舞台を追及されん事を願う。
飛んで孫悟空

飛んで孫悟空

劇団東京乾電池

ザ・スズナリ(東京都)

2019/01/11 (金) ~ 2019/01/20 (日)公演終了

満足度★★★★

2015年あたりに乾電池を初観劇した時は(夏の夜の夢)驚き呆れ果てた。学芸会に見えた。柄本兄弟の「ゴドー」など上質のものもあるが、劇団員総出のガス抜き公演(ひどい言い方だが実際そう思えた初観劇の舞台。二度ディスって御免)はこうなるのであるか・・と。二組編成した今回はその範疇にあるが、その他1本だか観て(あと加藤一浩作品のDVD等みて)、少しばかり見方を変えた。「学芸会」との感想の大きな理由はたぶん、架空の世界が立ち上がるために客の目を「ごまかす」努力を半ば放棄している様相だ。「夏の夜の夢」の光景を思い出すと、一段上がったステージに貼られた黒のパンチシートに塵や糸くずが付いたのが目に入ったり、ロマンもクソもない(普通照明とかでごまかすでしょ)。これがコスト削減ゆえなのか主義なのかは微妙なところだ。
だが、乾電池流というのか柄本明流というのか、それがある、と考えてみている。即ち優劣を付けず、上下をつけず(人の上に人を作らず)、フラットである事、そして役者は演じる人物以前にその人自身である事、裸で勝負するべきである事、舞台は飾り立てたりせず、スマートでなくて良い事(あのスズナリが壁の地肌丸出しで、奥にスピーカーがポツン、役者の「素」が見えるような明かりを多用)・・・そういった流儀が、一見「やる気のない」舞台と感じさせる。だがそれは敢えて選択した態度なのであり、「文句があるなら見なきゃいい」とまでに血肉化した劇団の風土であるかも知れない、と考える事が可能のように感じている。
「飛んで孫悟空」は別役実の喜劇。単純に笑える。劇団は別役作品を好んでやっているが、上述した役者の佇まいは別役の世界に合っているかも知れない。
過去データをみると、決まった演目を何度も再演し、準備時間もなく総出の舞台を、となると過去レパに頼らざるを得ない・・そんな劇団内事情を、隠す事もなく見せている風もあって、あけすけ感が東京乾電池の、否、もしや仙人・柄本明の志向するあり方なのかも知れぬ。
もっとも今回の「孫悟空」は2017年ピッコロ劇団初演の演目で、乾電池としては新作だ。やる気を出した公演・・・と思って反芻してみるが、舞台上の役者は相変わらず、乾電池な方々である。
過日細君を亡くされた御大の姿も劇場に見えたが、劇団員含め湿っぽさの欠片もない。飾らず、素のままが大事教の伝道師・柄本明は、我々にこう言っている気がする。優劣を付けようとする態度を恥じよ。つまらない舞台、面白い舞台、お金をかけた舞台、そうでない舞台様々あるだろうが、呼吸するように芝居する、それでいい。

韓国現代戯曲ドラマリーディング Vol.9

韓国現代戯曲ドラマリーディング Vol.9

日韓演劇交流センター

座・高円寺1(東京都)

2019/01/23 (水) ~ 2019/01/27 (日)公演終了

昨年(2018)は「エクストラエディション」として2本のリーディング公演があった(事情は知らない)が、今年が正式な日本開催年、3本の韓国戯曲をリーディング上演。今年は2~3本観られそうだ。
初年の2002年から数えて今回が9回目で、当初の方針通りなら10回の開催まで残り1回、日本での公演は再来年で一応区切りとなるらしい。
演出は昨年夏に公募し、毎回新顔がリーディング演出に挑戦している。リーディングだけに戯曲を構造的に読み込み、簡潔な舞台表現とする、その工夫を吟味するのも個人的には楽しみの一つ。
開幕を飾ったのは「刺客列伝」で、作品解説を読んだ時点で食指は激しく動き、私としては今回の本命だったのだが・・・何と爆睡。考えれば不眠続きであった。
という事で毎回出ている戯曲集の今年版(1000円安い)を今年も購入。必ずや読んで感想加筆するつもり。

お正月

お正月

玉造小劇店

座・高円寺1(東京都)

2019/01/17 (木) ~ 2019/01/20 (日)公演終了

満足度★★★★

リリパット・アーミーを同時代体験できなかった身としては、演出でらも氏と組んだわかぎえふの新店舗(もう何年も経つが)玉造小劇店に出かけるのがせめてもの・・・という事で数年振り二度目の観劇。
関西演劇界(芸能界?)の腕利き役者を揃え、明治維新から数代にわたる「鈴木家」の正月の日の一日の風景を淡々と描いた。美術が立派で和室の内側がで~んと。下手は隣家に通じており、引き戸を開けて鈴木家の裏庭に黒豆をお裾分けに時折入って来る女性は各世代とも同役者が演じ、違った調子を演じ分けて笑いを取っていた。
この作品は阪神淡路大震災の年にその原形が書かれ、上演されたもので、後で解説をみると今回は東日本大震災を受けて書き加えられたようだ。芝居に出てくる「あの震災の・・・」との台詞は阪神のそれを指し、最後に出てくる東北弁っぽい喋りの女性は、被災地から移住して来た人だったらしい(観劇時点では綺麗な着物だし被災の臨場感がなく連想が及ばなかった)。
加筆された(らしい)部分はともかく、この芝居の基調は波瀾に満ちた一族史というより、時代の波を受けながらもそれを鷹揚に受け止め受け流して時代を潜ってきた・・つまりは「波乱などなく」淡々と営みを続けてきた一族史。関西人に精神的打撃を与えた震災の光景も、連綿と続く人間・家族の歴史の一コマに過ぎない、そう見える「時」がいずれ来る・・・そのようなメッセージを当時は言外に告げた事だろうと想像した。
言葉と文化は不可分で、関西弁と関西文化も切り離して存在せず、関西弁の使い手が書き、達者な「関西弁役者」によって息を吹き込まれた戯曲。

顕れ ~女神イニイエの涙~

顕れ ~女神イニイエの涙~

SPAC-静岡県舞台芸術センター / コリーヌ国立劇場

静岡芸術劇場(静岡県)

2019/01/14 (月) ~ 2019/02/03 (日)公演終了

満足度★★★★

度々出かけているSPACだが、宮城聰演出舞台で観たのは「野田版 真夏の夜の夢」「寿歌」くらい。今回の作品は大航海時代の奴隷貿易を題材とした珍しい舞台で、フランス在住カメルーン人女性が書いて宮城氏に演出を指名した事で実現した。初演は仏パリ郊外にあるコリーヌ劇場(SPAC俳優が出演)。
寓話的舞台。イニイエとはアフリカ神話の創造神(男女ある内の女神)で、世界に君臨するこの役のみプレイヤー(美加里)とスピーカー(鈴木陽代)の様式で演じられ、舞台の奥、時に前と、常に舞台上に居る。地上の世界はこの劇には現われないが、言及されるのは地上世界の歴史、それも奴隷貿易時代にヨーロッパの商人たちへ奴隷を売り渡したアフリカ人のことだ。彼らは「千年の罪びと」として灰色の谷に数百年閉じ込められている。他に登場するのは「始まりの大地」に生まれる赤子たちに飛ばされる魂=ムイブイエ(だったか)、彷徨える魂=イブントゥ(だったか)。大西洋の藻屑となった奴隷たち、故郷へ帰れなかった奴隷たちの魂が未だ弔われる事なく彷徨っている事を知り、魂たちは地上へ向かうのを拒み始めたため、その原因に深くかかわる「千年の罪びと」たちを禁を破ってでも呼び寄せ、その証言を聞かせてほしいと要求してきた・・・という経緯がイニイエの部下に当たるカルンガ(だったか)に彼らを谷連れ出すよう命ずる理由として冒頭説明される。
冥界での時間はゆっくりと、威厳をもって儀式のように流れる。棚川氏の音楽がリズミカルに、緩急激しく鼓動するのと対照的だ。「上空」には巨大な円が二つ浮かび、当初は照明により手前が闇、奥が光を受け、自分の席からはちょうど三分の二ほど欠けた月と見えるが、気づかぬ内に形は変わり、手前の円は縦を向き、さらに時間を経て両方とも縦に並ぶ。最後はまた円形を見せている。数百年という人類が刻んだ一定の「時間」が、この天上世界によって支配されたものであるというイメージは、人類の悲劇をもある種の冷厳さをもってわが事として眺めている、その隠喩をいつしか伝える。罪びとそれぞれの証言が終わり、終幕、女神が高らかに申し渡しを行う。ゆっくりとまた闇が訪れる。
囃し方が静まって衣擦れの音とともに立ち去る、能の終いに重なるイメージは意図的なのだろう。だがこの舞台は鎮魂を含めて現在の人間の営みは未来に差し出されている事を思い出させる。

海底で履く靴には紐がない ダブバージョン

海底で履く靴には紐がない ダブバージョン

オフィスマウンテン

こまばアゴラ劇場(東京都)

2019/01/14 (月) ~ 2019/01/20 (日)公演終了

満足度★★★★

オフィスマウンテン観劇で6公演を曲がりなりに走破(冒頭見逃したのも含め)。
二度目のオフィスMは、山縣氏のユニット立ち上げレパ(2015)であるが、後でデータみれば初演は出演者4名となっている。今回のアゴラ公演は山縣氏単独のパフォーマンス。「一人芝居か・・1時間弱とは言え耐えられるかな」と一瞬過ぎった不安は杞憂、上演開始から左脳的理解を拒んだ動作と発語に引き込まれていた。予測を裏切りつつ、しかしある「流れ」を辿っている感じ。また「今初めてそこで起こったかのような」身体的反応は近代演劇が俳優に求めた高度な技術の範疇。
山縣太一という鍛えられた肉体と芸が鑑賞の対象と言って誤りでない。
昨年観た「ドッグマンノーライフ」の感想に私は「個々の役者の身体能力のバラツキが気になった(山縣氏がやれば見られる芸になる)」という趣旨の事を書いていた。それを裏付ける結果を見た気もするが、私としては共演舞台の道は手放さないでほしい(手放してないと思うが)。
身体動作の基調は主観的な「呟き」(勿論発語も含め)であるが、演じられる本人(だか別人)が職場の後輩二人を飲みに誘う(ノミニケーション)という具体的シーンも断片的に外側から入り込んでくるように現れるのが面白い。
現代の(演者自身の年齢である)アラフォーの生活風景、精神風景が表現者・山縣太一の身体から立ち上るのがこの上演のミソ。
私の近くの兄貴は一々ツボであるらしく山縣氏の発語に吹き出していた。私にも伝染しそうになったが(私も十分楽しんでいたが)、徒手で挑む姿勢と独特なポジティブ志向は「天性」(天然?)に属するものかな。氏が追求する方向性に何があるのか私には想像もつかないが。
今回の「競演者」である大谷能生氏の音楽は微妙に絡む距離感で、これも色彩を明確に出さず左脳的理解をさり気なくかわしていた。
呆気ないと言えば呆気なく終わる「演劇」だったが、山縣氏の身体負荷に同期していたのか緊張が解けた瞬間の快い疲労が見舞った。
ネタバレにて、後日「企画」総評を。

ネタバレBOX

以前書くと約した「総評」を律儀にも物そうと、ノープランで書き始めてみる。
「これは演劇ではない」なる刺激的タイトルの下、若手であり一定の実践経験もあり一定評価もある集合に属するアラサーからアラフォーまでの手合いが勢ぞろいの感。競演する当人もこの「集合」で括られる事が満更でも無いらしいと、様子を見ながら思う。孤独な戦いである。時に手を携え、互いを労い合う機会も、この「集合」を観客も認知し劇場につめかける事の上に初めて成り立つとすれば、つめかけた一人である自分がそれをした甲斐もあったというものだ。良かった良かった。
全くかぶる事のないパフォーマンスたちは、見事に「棲み分けた」というよりは、まだ十分に隙き間がある、棲む場所は探せばある、そう思わせる広がりを総体として見せた。アングラ以来演劇が求めた自由を、彼らも求め続けている、その系譜にある。そう思えば応援もしたくなる。そんな気持ちにさせた皆々方に心底より感謝したい。
28時01分

28時01分

演劇屋 モメラス

こまばアゴラ劇場(東京都)

2019/01/14 (月) ~ 2019/01/20 (日)公演終了

満足度★★★★

個人的には本企画の目玉、モメラス。ことごとく不都合な時間ばかりだったが、無理矢理どうにか観劇できた。才女ぶりを確認。みて面白いかどうかが全て、という基準で測れば、「オイシイ」場面が仕込まれた本作は高得点。
妊娠という特殊な身体状態にある女性の心象風景といった風にも見えるが、展開の着想、視角的イメージの着想ににんまりである。

幸福な島の誕生

幸福な島の誕生

カゲヤマ気象台

こまばアゴラ劇場(東京都)

2019/01/14 (月) ~ 2019/01/20 (日)公演終了

満足度★★★★

これは演劇ではないシリーズ後半1作目を観劇。既に3演目とも見終えた。
個別に評するのが難しい作品群で、何か言葉を添えようとすると身もフタも無い言葉が口をついて出そうになり、前衛の世界ではそれは逆に敗北、作品に勝ちを譲るだけの当て馬・・? それでも何か一言。
カゲヤマ気象台(作演出の名)のsons wo:は以前一度だけ目にしていて、1ステージ2演目あった一つのみを観たので完全とは言えないが、後半の演目は人物らの突飛な所作や扮装の比喩の対象を定めきれず、リフレインの多い舞台だった、とだけ。今回も「繰り返し」の時間が長く、この作り手の特徴とは早合点か。
「文章を読む」行為を微積分する新聞家と比べれば、順に登退場する三人(男二人女一人)はモノローグを発しているのかモノローグっぽい口調で誰かに喋っているのか(ダイアログ)、という風に見え、<演劇>を観るいつもの感覚で「関係性」を読み取ろうと、つい前傾姿勢になるのだったが。
各自、喋る「身体」は内向きで鬱屈し、「明朗な声で明確に感情や意志を伝える」のが演劇のベース、といった健康優良児な演劇イメージを拒絶する感じがなくもなく、また俳優三人が序盤に吐く言葉がちょっと思わせ振りでもあり、様式の解体と、再構築を期待させる出だしだった。
・・・が、断片でしかない個々の俳優が、舞台上に会して漸く始まるのは、鬱屈度が高くやや知的キャラを担う男による、他の二人への怪しげな誘導(イメージとしては洗脳)である。具体性のないぼんやりした言葉が、鬱屈からの悲壮味を伴う「もっともらしい」響きで二人に投げられ、精神修養らしきものを二人に施すという場面が後半延々と続く。
「・・して下さい」というオーダーに、二人はただ従順に上体を揺らし、腕をブラブラと上げる。「正解権」を完全に相手に手渡してしまった人間との非対称な光景はオウムの麻原を連想させ、その問題提起にも思われるが、不要にしつこく、だれる。同じような体験に観客を巻き込む意図があったか知れないが、そこだけ追求する意義には賛同しがたい。
示唆されていたのは、この鬱屈したタイプの青年がある一貫性を持つ事で主体性薄の他者を操る先導者にもなり得ること、誰しも悲喜劇の種をその内に持っていること、でもあるか。
いや、主題やメッセージを伝えるのが目的なら、むしろ既存の、正統な舞台様式を借りてでもやろうとするのが正しい。
消去法で残るのは、追求されているのは演劇の新たな「あり方」の提唱者となる事(の名誉)、であるか、表現したいものを表現するための最良の手法の模索、であるか。後者から前衛は生まれるとすれば、この表現主体の求めるところはまだ判らない。

ネタバレBOX

不規則な呟き。「演劇とは何か」
別役実なら「演劇」の条件を何と言ったか、いや恐らく断言めいた事を氏は書かない。氏が言う「風が吹いている」のは舞台が成立する「条件」ではなく、舞台の「実態」である。
では場・俳優・言葉の三要素・・いやいや無言劇がある。要素と言えば観客は外せないだろう、とか。しかし特殊な状況、客にではなくその場に居ない死者、あるいは西洋では神を観客と見なして芝居を上演するなんて事も・・ただその場合、観客は存在すると言える。
ポストドラマと言われるカテゴリーに思いを馳せる。この企画に呼ばれた6者とも、この範疇に入りそうだが、ドラマに飽き足らなくなった時代、あるいは状況とは何だろう。嘘っぽいのは嫌である。現実が斯様にシビアであるのに。せめて夢を見させてくれ・・・現実逃避。逃避した気にもならない逼迫した「現実」に直面する人間に、寄り添える演劇のあり方が、様々に模索されているのかも知れない。
ミュージカル「YOSHIKO」

ミュージカル「YOSHIKO」

ミュージカルカンパニー イッツフォーリーズ

紀伊國屋ホール(東京都)

2019/01/10 (木) ~ 2019/01/16 (水)公演終了

満足度★★★★

風変わりな舞台を観た。イッツフォーリーズ初観劇。小型ミュージカル(という言い方があるのか知らないが)をやってる集団の中では割とメジャー、という勝手な印象があるが(同カテゴリーにミュージカル座とか、、これも勝手な想像)、舞台はその定型と見る事もできるのに違いない。定型であるとすれば私にはマイナス要素が気になるのだが、それも引っ包めて興味深い舞台だった。

いずみたく作曲、という事は初演は随分古いだろう(・・・と最初書いたが、実は新作公演との事である。イッツフォーリーズを作った本人がいずみたくで、吉田さとるという同劇団所属作曲家が先達の曲を活用して新作脚本の楽曲を仕上げたらしい。)
演奏はナマ。紀伊國屋ホールの幅狭のステージに立てられたレビューショー用のプロセミアムの裏が演奏ブースで全貌は見えないがベース、ドラム、キーボード。ストリングスは録音ぽいがうまく合わせてナマっている。楽曲に新しさは感じないが古くはなく、骨格はしっかりしていて遊び心もある。
観劇のポイントは文化座の若手藤原章寛が「実家」を離れて客演。鵜山演出が数年前東園パラータでの「廃墟」公演で見出したのだろうこの俳優は、繊細で良心を疼かせる好青年のイメージにピタリで、今回も成程そういう役回りだがさらに大きな人物造形を求められ、応えていた。
鵜山氏もそうである所の新劇系のリアルにとって、ミュージカルという形式は表現上の乖離があるが、良い影響をもたらしたのではないか。

マイナス要素というのは、うまい歌い手は声もよく、従って台詞も明朗で感情が分かりやすいのだが、一般的表現になりやすい。要は声が大きく、はきはき言えばいいってもんじゃないだろう、と突っ込みたくなるタイプ。かみ砕いた親切な表現は観客をなめてるようだが実際のところ、痒い所に手が届く「商品」をいつしか欲する存在が消費者というやつで、そういう人達は「完成された芸」を見に行く。
歌のうまさはミュージカルの条件なのだろうが、先日観たオペラ「ロはロボットのロ」が音楽に軸足があったのに対し、こちらはやはり芝居が軸だと思える。だから、声が多少震えても、否そのほうが、ハンディを超えようする作用によって役の心の純化された部分が表出して胸を打つ(技術的にはそう単純ではないだろうが)。昨年の「マンザナ、わが町」の歌い手役が、うまく歌う技術(高速ビブラート)を持ちこむのが気になったのと同じ理由で、歌うまは、同じ調子が続くとよけい芝居に嘘臭さを漂わせる感じがする。難しい様式ではあるのだろう。
むろん芸術はより高みを目指した作為の産物で、歌手が楽曲の「魂」を表現しようとしてそうなるのだとすれば、これは楽曲の問題だろうか?
・・・そんな事を思いつつも芝居を大変興味深くみた。

岡田嘉子という、どこかで聞いたような歴史上の人物は、ソ連に渡った女優だ。舞台にも「ソヴィエト、この不思議な響き」といった歌詞の唄があり、(旧作なれば左翼臭と書いたが)大国が角突き合わす帝国主義時代に共産主義革命を遂げた国への、当時の人々の憧憬が書き込まれているが、冷戦以前にあった和製左翼文化も遠くなりにけり、今は素朴に歴史的関心の対象として浮かび上るものがある。
主人公の恋人となる元左翼演劇の演出家(藤原)が投獄されるような時代、「日本もいつかそうなるさ」と夢を語る台詞はあながち若者の浮かれ心が言わせた文句と退けきれない。できればもう一つ「現代」との接点を持ちたく思ったが、だとすればそれは何だったろう。。

トロンプ・ルイユ

トロンプ・ルイユ

パラドックス定数

シアター風姿花伝(東京都)

2019/01/09 (水) ~ 2019/01/14 (月)公演終了

満足度★★★★

2015年末pit北/区域の閉館公演「東京裁判」が初・パラドックス定数。この劇団と劇作について3年近くブー垂れてきた訳だ(まだ3年のような、もう3年のような)。
政治色の薄い題材では、罪がなくキメ台詞のうまい書き手である。本作は地方競馬が題材だが、競馬界にリアルに食い込もうとしたドラマというより、競馬界に舞台を借りたヒューマンドラマで、一般的なだけ観客の想像に委ねる部分が広い。
男優6名ともが人間と馬の両方を受け持ち、双方同じ比重でキャラも重ねているのが面白いが、暗転は少なく明るい中での照明変化のみで「馬場面」と「人場面」の移行を表し、関係性がほぼ把握できた後半では合図もなく人から馬、その逆と居ながらにして変化する様も滑らかだ。しかもストーリーは進展しており、役者それぞれ決まった人物と馬名を受け持つので、物語説明の順序も考えなくてはならない。さぞかし、、戯曲の神様は我に味方したと思い為したろうなどと作者の心を想像したほど「待たせ」の全くない進行だった。役者力も重要だが(特に馬の風情がよい)緻密な演出を印象づけた。
現代の精神風景を想起させるような台詞(差し馬のウィンザーレディの「人は俺みたいな馬に自分を重ねてんだ」といった台詞)も一瞬光るが、現実世界に着床させようとの意図までは恐らくなく(格差を容認する新自由主義的状況が抉られる事はなく)、むしろ中央競馬と地方競馬の「格差」や悪条件の中でも果敢に挑戦する勇姿にスポットを当て、精神的な成長と連帯(友情)といったハードボイルド路線の爽かなハッピーエンドに着地する。

自分は競馬の知識はあまりないが(付き合い程度に競馬新聞を覗くくらい)、舞台とされる「丸亀競馬場」や遠征先の尾道、横浜根岸での地方競馬開催は現在なく、これはフィクションと割り切る事ができた(瀬戸大橋が出たりするので遠い過去でもなく、また人物の言動からも競馬のバックヤードを厳密に描き出す意図はないとみえた)。
ただ、事実と架空の領域の塩梅は戯曲の「質」を左右する。実在の地名を使うのも良いが、中途半端だと同作者の歴史事件を扱った劇同様、「事実性が持つ箔」を、都合よく利用したと見られかねないだけ損である。
まあドラマの方も、馬の擬人化など私は許せるが(というよりそこがこの戯曲の魅力)、「馬は何も考えてない」と言い切る牧場主や、レース中に転倒した馬が再び巻き返すというアニメ的展開など諸々あるにはある。

が、私の中では、人と馬との精神的交流が「ある」との想定で書かれたこのドラマの終局に、「人間目線」の場面描写の中で人(調教師)が馬に語り掛ける場面、出来過ぎではあるがここに込められた包摂の心とでも言うべきものを私は受け止めた。レース馬は治らない負傷を被れば殺処分されるという、そのシーンもうまく組み込み、思えば人間同士の殺伐とした世界に動物同士の世界というもう一つの(オルナタティブ)視点が入る事により酷薄な世界が違う陰影をみせる。これが豊かさでありファンタジーの効用である、といったような事を言ったエンデの事を今思い出した。

秘境温泉名優ストリップ

秘境温泉名優ストリップ

猫のホテル

こまばアゴラ劇場(東京都)

2018/04/03 (火) ~ 2018/04/11 (水)公演終了

満足度★★★★

こういうのもあったなぁ・・思い出せるかな。
思い出せないが朧ろに断片が浮かび、あれかな、と思う。笑わせどころをクライマックスに設定した感じはなるほど落語家に提供したネタらしく、また喬太郎ネタらしくもあったな、と今思ったりするが、そのラストに持って行くなら不要な伏線が多いな、などと思った感じはぼんやり思い出した。
猫のホテルは3男優揃い踏み出演のためには(他にも居られるけれど)お祭り的・記念的公演にしなくちゃ集まれない、そんな時期?・・と想像。否、中村氏や市川氏が立つからお祭りになっちゃうのか。

Farewell(フェアウェル)

Farewell(フェアウェル)

松本紀保プロデュース

サンモールスタジオ(東京都)

2018/04/06 (金) ~ 2018/04/15 (日)公演終了

満足度★★★★

おっとこちらも・・思い出し投稿でござい。
山田百次の狂気走った役が、理の通った人物か一本外れた怖い人物像かのいずれかに定まり切れない所がもどかしかった・・という記憶。秀逸な本だったが主人公となる松本演じる役の「叫び」がもう一つ届かずもどかしかった・・というのも。
大変だったろうな、と想像され、松本プロデュースの「次」は難しそう・・という予感が裏切られる事を願いつつ。

Ten Commandments

Ten Commandments

ミナモザ

こまばアゴラ劇場(東京都)

2018/03/21 (水) ~ 2018/03/31 (土)公演終了

満足度★★★★

これもコメント忘れ・・思い出し投稿。
久々にミナモザ名義での瀬戸山美咲作品を鑑賞。米国で原子力開発に関わる事になった科学者の一人が残したTEN COMMANDMENTS(十戒)の文言を紹介するだけでも十分、含蓄がある内容。十戒の文は上方に映写され、舞台の方は台詞が少なく思わせぶり。
話は変わるがサブテレニアンの「ホット・パーティクル」を今年観られず惜しかった。
また話が飛ぶが先日のserial number「アトム・・」は、この科学者像を重ねられる人物がもし参入すれば全く成り立たなくなる戯曲であった。

衣衣 KINUGINU

衣衣 KINUGINU

metro

新宿ゴールデン街劇場(東京都)

2018/02/09 (金) ~ 2018/02/18 (日)公演終了

満足度★★★★

「二輪草」に続いてmetroの隠微な世界を味わった。ゴールデン劇場という狭いステージに小宇宙を作り込む「気概」をひしと感じたが、ストーリーを掴み損ねた(ように記憶する)。

続・時をかける少女

続・時をかける少女

2018「続・時をかける少女」製作委員会

東京グローブ座(東京都)

2018/02/07 (水) ~ 2018/02/14 (水)公演終了

満足度★★★★

そう言えば・・と思い出し投稿。実質ヨーロッパ企画、初観劇の心構え。初めてのグローブ座でもあって、物珍しげに、異空間を愉しむ。タイムトラベル物はかくあるべし、まずは笑い飛ばすべし、の心を貫き、劇場では滅多にみないタレント系?俳優も巧さで引っ張っている。して評価は。脚本上田氏の小気味よい頭脳派な突っ込み方を楽しんだ。圧倒された感はなかった、という感想は事前の期待の高さからか。

プライベート

プライベート

キュイ

こまばアゴラ劇場(東京都)

2019/01/03 (木) ~ 2019/01/09 (水)公演終了

満足度★★★★

「これは演劇ではない」は、彼らがつくる演劇<らしきもの>への思い切った命名である以上に、作り手を挑発するタイトルでもあるらしい。
「演劇ではない」に相応しく、ドラマの足場を外した奇妙な出し物だった。が、不思議に確かなものが流れていた。
「プライベート」とは(演出・橋本清氏の拘る所らしい)ドキュメントの手法と相性がよさそうである。ドキュメントは暴露の方法であり、プライベートは暴かれる対象。プライベートに関する個々人の考察が終演近くに語られ、明確な答えを導き出す事はないものの、縷々再現された場面が迫ろうとしていた次元と、プライベートの概念がシンクロしていた。
この舞台のコンテンツはまず架空のアフタートーク、そして稽古日程がホワイトボードに書かれその内の幾つかの稽古日の事、顔合わせ日の事、音楽担当の滝沢さんのライブの日の事、等等が暗転に挟まれて再現される。
俳優は男女四人ずつ八名。初日、作・綾門優季氏がいつになくこれからやろうとする創作について1時間喋り通していた事など、各人がそんな雰囲気だったろう普段顔で会話したり客席に向かって話す。稽古場の鍵を開ける人が誰それしか居なくて云々といった雑多なエピソードから場面作りやコンセプトに関わる話題が渾然一体と、「製作」日誌として綴られる。
・・ハタと気づくと、彼らは何の為の稽古をしているのか、稽古の過程を紹介する舞台、の為の稽古、とは一体何なのだ、という事がもちろん思考に上って来るのだが、そこは先述した綾門氏による舞台のコンセプトを喋り倒したエピソードが効いて、何かが目指され稽古が進められたのだろう事が、エピソードの具体性や普段着な俳優らの様子からも疑いえないと感じる(錯覚する?)のだ。
その綾門氏の話のキーワードは、「虚実」だったな、と誰かが話す。虚実の虚とは「あたかも実際にあったかのようで実は作者による創作」の意ではなく、「そのために皆が稽古に励んでいるはずの目標」じたいが虚、の意に違いない、と私はいつしか思って見ている。
ドキュメントな場面の形態の一形態として俳優がそこに居り、語られる事の事実性のリアルの力強さが、舞台を終始支配し、観る者は俳優個々のリアルな残像と共に、「流れた時間の確かさ」を持ち帰る。
綾門氏は「戯曲単体では成り立たない、上演してこそナンボの舞台」を何としても仕上げたいとの気負いで臨んだとパンフに記していたが、橋本氏の演出と相俟って、それは遂げられていた。

遺影

遺影

新聞家

こまばアゴラ劇場(東京都)

2019/01/03 (木) ~ 2019/01/09 (水)公演終了

満足度★★★★

予想した通り、肩透かしなステージ。以前STスポットでのダンサーとの共作で感じた印象は変わらず。(自分が観た回は)満席と相変わらず注目度を窺わせたが、うまく関心を引き付けている手練のほうが気になる。・・正直、こんな代物で人を釣るのだから、何かある。
本編が30分程度、残りは質疑応答。質疑では自ら語り始める事なく、まず質問を受けてやり取りを始める。これも手法だろう。
さり気なく謎を残し、次の機会に持ち越すこと・・志の輔が落語のマクラで伝授していた「人の関心を自分に繋ぎとめる方法」である(CD化したものだが演目を忘れた)。

このユニットというか作演出者の「売り」は文章である、という事が今回見えた。日本語の文法構造をうまく利用し、発し始めた言葉では何を言い始めたのかが判らず、「次」の言葉で文章の形が見える、というセンテンスの構成にしてある。気の利いた比喩が頭に付いていたりすると、頭は真っ白になるが、後続の単語により意味が現われた時、かかっていたストレスが弛緩する。
もっとも耳を凝らして聴いても声量が小さかったり、同音異義語を確定できず文意を掴めずに次に進むしかない所などは、「計算できてない」(あるいはごまかし)、と見えるが、それでも、ゆっくり感情を込めずに喋る事で、単発で発される言葉が如何に意味をなさず、組み合わさる事で意味を形作るかが分かる。戯曲というものも謎掛けと謎解きの織り物であって、最後に謎が解かれる快感が観劇の醍醐味だ、というタイプの人も多いはずだ。
ダイアローグではなく「書かれた文章を読む」という形式で「謎掛けの謎解き」を味わうのが新聞家、これが今のところの私の理解だ。

いずれにせよ、文章への自負が、それを「読む」行為のあり方を実験的に探究する、というあり方を可能にしているのだろうと推察した。身も蓋も無い事を言ってしまえば、パフォーマンスのあり方探求とはポーズであって作者自身はそのネタとなっている文章そのものが、「表現されたもの」であるので、形式云々の「周辺のこと」を幾ら突かれようと痛くも痒くもない、のではないだろうか。「書かれたこと」が核心なのだが、それは「探求」の側面によって触れられない領域となっている。二重生活ではないがそうやって行く内に何か「実的なるもの」との接続が為されるのかどうか・・その時の到来に賭けておられる。その試行錯誤に私はつき合う気は全くないが、「実的なるもの」を掴まえた暁には、注目してみよう。(恐らくそれは演劇という分野では無い気がする・・)

アトムが来た日

アトムが来た日

serial number(風琴工房改め)

ザ・スズナリ(東京都)

2018/12/20 (木) ~ 2018/12/29 (土)公演終了

満足度★★★★

年末の風琴工房には(私の風琴最高傑作が2016年末の「4センチメートル」)そもそも期待度が倍増し。とは言え今回はserial numberの第一弾、役者陣の変らなさに逆に本質的な転換の緩和ではないかとの想定もしつつ、評判の良い今作を観劇。
原発というテーマを扱う。集客は良いのだろうと思うが、口コミでどの程度増えただろうか。私の目には、原発再稼働に手をこまねいて何もできない後ろめたさを、現状容認説によって荷を軽くし、口が滑らかになったとて、せいぜい現状容認しつつ未来を語ろう・・程度の論しか出てこなかろう。なぜなら、再稼働路線を進む日本の現状と、乖離の小さい論を持つ事で現状容認して「しまっていた」自分を慰撫するだけに終わるから、である。それがこの劇の「効果」である・・と言えば極論に過ぎるだろうか。
議論を喚起するため・・大変よろしい。口が滑らかになる方向性が既に決まっている。現状と「あるべきあり方」との差の中で葛藤し、葛藤を乗り越える事でしか現状は変えられず、そのための議論を手助けする演劇が求められている・・・その意味では、今回の芝居のネタとなっている二つの物語は、己の「良心」に付着した反原発論を揺さぶり、それを捨てる事で個人の心の荷が軽くなる手助けはするが、「現状を変える」ための厳密な知識は残念ながら見いだせない・・というのが残念ながら私の結論だった。並行して叙述され、交互に描かれる二つの物語は、(1)1950年代の日本の原子力産業の誕生に貢献した男達の物語(「プロジェクトX ~不可能とされた原発誘致を成し遂げた男達~」とでも名づけられよう)、(2)2040年の日本・地下700メートルの核廃棄物貯蔵施設、兼日本唯一の原子力研究所。スズナリのステージに作られた杉山至の美術はその内壁で、未来っぽい間接照明で映える。この時代は、南海トラフ地震による浜岡原発のチェルノブイリ級事故(炉心溶融+核爆発)をきっかけに世界規模で原発廃止の動きがあった、その十数年後、原発再開への研究を打診しにやってきた政府役人と繰り広げられる議論劇。
プロジェクトXでは細かでマニアックな事実が殆ど上演時間稼ぎのためかと思ったほどに詰め込まれ、はっきり言って「原発事故」を引き起こした大元の基礎作りに貢献した人々を顕彰する内容が、戯画的でもなく批判的でもなく哀切にでもなく「ヒャッホー!」「やったぜ」のノリで描かれても、コメントのしようがない。「事故」の評価はその被害によるしかないが、この芝居では何と、放射能被害についての知見が、全く語られない。。それによって議論は分かれるし、そもそも未来の「浜岡事故」が福島を超える未曾有の事故であったのに、議論の中にその被害の現状が全く入って来ないのは、脚本上の限界というよりは、出発が間違っていたのではないか・・と思わざるを得ない。
もちろん詩森氏は単純な戯曲を書かない。近未来では一人のやや年輩の男が3・11の頃の自分の事を語る。原発に対する思いを語った言葉は、現在の私たちも記憶に残り、共感できる内容であり、唯一2018年現在の我々の代弁者と言える。そしてラストは「原発と付き合っていくしかない。その怖さを直視しながら・・・」という言葉とともに劇は閉じられる。この「怖さ」という言葉の中には諸々が含まれようが、しかし被害の具体的イメージを助ける情報がほぼ無く、一方原発容認への舵切りを促す言辞が殆どである事のアンバランスは最後だけでは覆いようがない、と見えた。
SF場面での議論が恣意的に選択された事実と推論=世界的規模の人口増加が見込まれる事、エネルギー枯渇問題、必要エネルギー量の試算(2058年には賄えなくなる)、等により、もはや原発再開を選ぶしかない・・と、こうなるのだが、現在世界の富の偏在と飢餓の常態化があり、既に人口増加は既成事実であり、エネルギーは平等に配分されていない現状はそこに重ねる事がなく、一方チャイナが(世界中が原発をやめたのに)一国だけ原発開発をし続けている、といった現在の国家エゴのイメージは重ねるというご都合主義で「論」は構築されていく。またインドネシアが石油を売らなくなる、という予測もまことしやかに語るが、この危機感の煽り方は戦前から変らぬ一国主義のそれであるし、そもそも石油依存問題はインドネシア国が何を選択するかの問題を超えている。日本がエネルギー源を持たないという意味でのリスクは、ウランも同様であるし、それを解決するための高速増殖炉がナトリウムという扱い難い物質を必要とするため、だけではないがとても実現しそうにない代物で(プルトニウム生成のメカニズムがなければ電力会社の核廃棄物が資産として計上されないため稼働を前提として存在させ続けた事は周知)、しかし芝居ではこの存在をまともに取り上げ、ナトリウムの問題を克服すれば道が開ける、としているだけでなく、この「もんじゅ」の成功如何にエネルギー自給率は掛かっている事になる訳なのだ。国際的な不和を想定したエネルギー自給率確保の問題設定は資源のない日本には無理筋であって、他国との安全保障の関係構築が(現在もだが米国一辺倒がリスクを高めていると指摘されている)必須なのだが、その視点は「インドネシアがどうの」という如何にも偏狭外交のネタで曇り、科学者たる者が政治家の口車にまんまと乗せられて行く。
・・・何度も反芻したが、この「反語的」内容のドラマは、「こうなってはいけない」例として鑑賞するものだと、そう処理するのが正しい着地点だが、どうもそうではないようなのである。
観客の知的度数を甘くみた、「どういうドラマかは判るようになってございます」という約束に違わぬ内容だ。

ネバーマインド

ネバーマインド

ヌトミック

こまばアゴラ劇場(東京都)

2019/01/03 (木) ~ 2019/01/09 (水)公演終了

満足度★★★★

ヌトミック、ちゃんと観た初めての機会であった。正月お楽しみ公演の趣、あるいはこれがスタンダードか。三部構成、第二部にゲスト参加あり。独特だが、肉体駆使、世の非対称な力関係という毒をまぶし、「パフォーマンスの為の」との要素で舞台芸術をいじる側面も。
「これは演劇ではない」と題された企画に選ばれた栄誉?に十分応えつつも、面白がるが勝ちとばかりやりたい事やってるのが良く、音楽要素が濃いのも好みである。
この日は爆弾持ちのゲストがまんまと爆弾を落としたが、ハプニングさえ計算に入れたよう、コーナーを仕切った俳優2名に功労賞。エンタメ部門から観劇開始した本企画、この後も楽しみ。

ネタバレBOX

第三部は楽器演奏、指揮者付き。演奏ネタのコント。第二部の終わり、ゲストに「○○さん選んで下さい、過去それとも未来」と去り際に訊けば、「未来」との回答、「では」と演奏されたのはバックトゥザフューチャーのテーマ(「過去」と答えても同じ曲だろう、過去と未来を行き来する映画なので)。ギター、サックス、アコーデオンの三人と、長い指揮棒を持った指揮者。演奏が始まると、演奏者のとちりを発見した指揮者が指揮棒を相手に突きつけて睨み、中断。失敗すると何度も中断される。実は第一部のアレンジ版である。第一部では指揮者に当たる女が長い棒を床にコンコンと左右に叩き、それに合わせて棒をよけて左右に跳ぶ者、バスケボールをドリブルする者、縄跳びをする者が、失敗するまでカウントを進める。10クリアすればその数は保存され、先へ進むが、前進しているようできりがない。失敗のたびに「指揮者」は「ネバーマインド」と言い、三人の選手は種目を入れ替わる。一回失敗すれば「ネバー」が一つ増え、中盤ではネバネバネバネバネバネバネバネバネバネバネバーマインド、といった具合。最終的にはネバーは30近く、カウントは110台まで到達。厭々やっているのが見え見えな男二人、粛々と続ける女一人、指揮者も女。男二人は最後には自棄になり「どんなときも」を歌い叫びながらぐるぐる回るが、競技は続く。反抗に疲れた男らも結局は世の中の仕組みは変わらぬと諦め、元の鞘。
第二部はゲスト(この日は地蔵中毒・大谷皿屋敷氏)に5ラウンドの質問コーナー、という名の試験を実施。1ラウンドごとに3つの質問だがこれが挑発的で、例えば「中学生が茶髪、あり?なし?」、「あり」と答えると、質問読み役の女性は「ネバーマインド」、つまり不正解だと告げる。正解だと拍手をする。正解だからどうだ、不正解だからどうだという批評以前に、正解をしなければそのラウンドの最初の質問に戻るというシステム。自論に拘っていると次に行けずお客をいら立たせてしまう、という狭間に立たされ、ゲストは客席を見る。場の潤滑油として男性進行役がうまく立ち回るが、5ラウンド最後の問題は、某ラジオ局を権力の手先と歌うタイマーズの生放送画像で、これを認める回答を「ネバーマインド」と女性進行役は拒否し、ゲストは切れる。
第一部も、第二部も、面従腹背と反抗の要素が共通のモチーフ。第三部もうるさい指揮者に対し、演奏者が「どう反抗してやろうか」と考え小さな抵抗をやり始めるのが面白く、下手側にミキサー二台で陣取るエフェクト担当もドラム音を入れたりと噛んでみたり。やがて指揮者が自分もトチリをやらかして突っ込まれ、演奏を終えると退散。すると、「本当はこれがやりたかった」とばかり、ギターがエフェクターをオンにしじゃら~んと鳴らす。エフェクト担当の女性がベースを持って立ち、ニルヴァーナのアノ曲がアコーデオンとサックス、低い女性ヴォーカル(先の指揮者)という構成でなかなかいける。反抗的態度からの移行でパンク=異議申し立てと連想させ、微妙にパロディ色も滲ませるが、音楽センスに裏打ちされた「笑い」は強し。
演奏された曲の収録アルバムのタイトルが「NEVER MIND」だそうである。
4.48 PSYCHOSIS 2018-2020

4.48 PSYCHOSIS 2018-2020

川口智子

WAKABACHO WHARF 若葉町ウォーフ(神奈川県)

2018/12/25 (火) ~ 2018/12/27 (木)公演終了

満足度★★★★

昨年始めのW.S.&公演プログラムで上演された「サイコシス」の再演。同じく若葉町wharfにて。上演後トークは長島確氏と演出川口智子氏、進行にもう1名。
今回座った場所は初演とだいぶ違った角度になったが、印象はあまり変らず、ただ二箇所で流された映像が初演時にあったか否か定かでなし。
会場は壁一枚を隔てた道路に沿って辺が長い長方形で、内壁は白く、天井が高いぶん見た目より容積があるせいか心地よい残響がする。角の小さな入口は透明ガラスで、開演後カーテン1枚を引いて外界と遮断する。
通りから遠い側に横長の雛壇型座席(1列約10名として3段で30名余、この日は満席)に座ると、窓枠のはまった広い壁と対峙し、その見えない向こう側からのノイズや他者の関心という干渉を懸念させながら、人が不在のステージが観客の注意を静かに引き出している。横長のステージには直方体を横に並べた白い台の上に椅子、上手上方に上から吊られた赤い窓枠。飄然と滝本直子が登場し、腰掛けると暫しの間、台本に目を落としたり、遅れてきた客に視線をやったり。最後の客が座席に収まった後、入口扉にカーテンが引かれ、さらに待つ。客席背後の2階部分から恐らく照明担当だろう、きっかけを見ようとしたか、下に居る音響担当がなかなかきっかけを出さないのを怪訝に思ったか、顔を出す。と、おもむろに録音された女性の声が流れ、素早く照明が変わった(という確か流れだったと思う)。
このリーディング公演はいずれ本格的な舞台へ発展するとの事だが、ワークインプログレスとしての一定の方向性の明示と作品としての完結が見いだせたか、というあたりである。
作品としての完結が目指されたのは(有料公演なら当然と言えるか)確かだが、「本作品が採るべき相応しい形はオペラ」、との川口氏の言には(オペラの定義にまで話は及ばなかったが)かなりの距離を覚えるのは正直な所。その道程を訊ねたい衝動に駆られたが、むしろ長い製作プロジェクトの途上で時折我々を楽しませてくれると有難い、位に構えて気長に待とう。

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