tottoryの観てきた!クチコミ一覧

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伯爵のおるすばん

伯爵のおるすばん

Mrs.fictions

吉祥寺シアター(東京都)

2019/03/20 (水) ~ 2019/03/25 (月)公演終了

満足度★★★★

吉祥寺シアターの後方席がどうも苦手でこの日も開演ギリギリ到着、これは居眠りかと心配したが、予想に反して指定席しかもこれ以上ない良席であった。
この長さをMrs.fictionsがホントにやるのか...上演時間2時間50分を知らせる貼紙を見て思わず訝ったが、終わってみればMrs.fictionsらしい(と言っても数えるほど回数、否、分数見ていないが)ウェルメイド志向の舞台である。開幕前から布の映写幕に数字が刻まれ、三桁から四桁台、千数百と来れば「伯爵」のいそうな年代、西暦だと悟る。明転するとタイトルの「伯爵」の一般的イメージに相応しい西洋式の邸内である。全く先の読めない始まりから徐々に法則的なものが見えて来てもなお予測は裏切られ、観客の連想速度が上がって終盤は追走劇並に加速といった感じ。
さて物語の方は伯爵年代記という趣向で幾つかのエピソードが時系列に展開。主人公を除いた登場人物がその都度変わるが、前に出た役者は出て来ず新たな俳優の顔見せと相なる。この形式の芝居ならヒロイン以外の脇役には同じ役者の変わり身を楽しむのが定番と言えるが、敢えてそうしなかったらしい。
開演中につき詳細に触れないが「各場面は芝居全体のために、芝居全体は各場面のために」との精神を折り目正しく守りつつ「メッセージのため」への目配りもしつつ、芝居好きが作った芝居ありきの芝居だ。(これをどう解釈するかはお任せ)

ネタバレBOX

作り手の心優しさとサービス精神を受け取ったが、私としては厳しさを今少し過量してほしく感じた次第。主人公の運命に既にそれは「ある」と見るも可だが・・。前半の心疼くエピソードはドラマ全体のトーンを支える重しにはなっているが、それだけに後半もそれに見合う「厳しさ」が欲しいという事になるか。ポイントは主人公にとってハードな時期であるラスト前、「拗ねて」いるのは意表をついた展開という事だろうか。しかしここは深遠を覗いた者特有の「達観」(諦観)が見たい。どんな人生経験もやがて訪れる平安のための「必要」であった、との王道なメッセージに繋げるのがこの作品の収まるべき場所であり、その上でしかラストに「愛の形」は見えてこないように思う。もし「敢えてそれを避ける」のであれば、意図的である事がはっきり判りたい。
キャンパーズ シークレット

キャンパーズ シークレット

Oi-SCALE

サイスタジオコモネAスタジオ(東京都)

2019/03/19 (火) ~ 2019/03/24 (日)公演終了

満足度★★★★

初の劇団を、数年ぶり二度目のサイスタジオで。密かに期待を膨らませていたがその理由は今思えば(以前来た時の朧ろな印象だが)作り込み自由で逆に大変そうな空間(一から仕立てなきゃならん)、既成のやり方に囚われない人達・・そんな連想をしていたらしい。
私の勘違いはOi-SCALEをもっと新しい集団だと思い込んでいたことで実は10年選手である。想像(勝手な想像だが)に反して時系列に進む比較的折り目正しいストレートプレイであった(ただし奇想な要素はある)。であるので、劇団色を明確に感知するに至らなかったが、展開や舞台処理に独特の筆致がある。作・演出の林氏が主要人物として出演もし、毎回なのか今回いきなりなのか型破りな手段も使い、しかし処理にはこなれた感もある。が一定レベルの劇団公演にしては(台詞量に比して)役者の噛みがやや見られ、本の上がりの問題か、稽古がうまく組めなかったか・・色々想像した。ストレートプレイとは言え組み立て方が見えない分、想像の羽が伸びる。
さて入場すると四角の舞台エリアが真ん中にどかんとあり、闇ではなく星明りの下に沈んでテントその他のキャンプグッズの数々が見える。エリアを囲むように客席があり、メインの正面に二列、サイドはメインに近い方から10席程度、一列。各自の席までは舞台エリアと客席を区切る低い塀の内側を歩く。キャンプのエリアに踏み入る感覚。林氏の語りからぬるっと芝居に入っていく。
青春謳歌した「あの頃」から20年経ったというから恐らくは今やアラフォーとなった仲間が集った、その物語を縦糸に、キャンプ場関係者やたまたま行き逢った人らが横糸に絡む。キャンプあるある的なマニアックな会話が効果的に挟まれ、キャンプ好きである林氏だけにディテイルに信憑性が生まれている。作劇の端々にちりばめた具体イメージがおいしい。
ただ、創作の出発点にあるのだろうと推察される「時間」への慨嘆、記憶の甘味さといった概念化・言語化の困難な感覚的要素を、軸に据えようとしている印象で、これは演劇としては難物に挑戦しているという他ない。そこから踏み出した後、本当は物語はさらに続いていくものではないか、などと考える。登場人物全てが十分に役割を遂げる作りになっているとは言えない憾みもある。
しかし都市生活者にとって「見なきゃ分からない」範疇である、山の夜がもたらす言葉にならない何か、例えばそれを探る感覚的思考を促すものは、このキャンプ場という設定、作り込まれた風景そのものにある。

三人の姉妹たち

三人の姉妹たち

タテヨコ企画

小劇場 楽園(東京都)

2019/03/14 (木) ~ 2019/03/24 (日)公演終了

満足度★★★★

たまに観るタテヨコ企画を前作「美しい村」に続いて観劇と相なった。前作や以前観た作品に比べ、ナチュラルに「通った」芝居である。一味変わった事をやる、という個性を追求する集団であるとすれば「普通」に落ちた、という表現になるのかも知れぬが、俳優力を感じさせた舞台であり正統なものだ。タテヨコ所属俳優も中々だと感じたが、チェーホフの三人姉妹が時折重なって来る大きな貢献として客演・岩崎正寛氏の長男役があった。研究の道を進んでいれば今は名を挙げていたろうに、、と周囲から言われるが当人は片田舎での日常の刹那的享楽に埋没している。「田舎で腐って行くイメージ」「都会への憧れ」は日本の地方生活のモチーフであり社会経済構造と精神性・思想性の卑近な表れだ。特に「三人姉妹」を意識せず見たのが良かったのか、あの作品の空気感が風のようにふと香ってくるのが効果的。

静物画

静物画

青春五月党

北千住BUoY(東京都)

2019/03/15 (金) ~ 2019/03/17 (日)公演終了

満足度★★★★

(大幅修正)前知識を求める事は殆どないが、知識も何もあの柳美里である。そして福島の高校生の出演、初めてとなる北千住BUoY・・払拭しても付いてくる色で先入観まみれの観劇だった。自分が三十分早く来場していた事に席に収まってから気づいたが、暖色照明を受けたステージ奥をぼんやり眺めながら、柳美里の足跡や福島の事を思い巡らしていた。演技エリア(教室の机・椅子が置かれてある)のさらに向こうに、BUoYの特色らしい元浴場を壁の(富士山の絵でなく)見事なレリーフごと残した空間と、湯船から突き出た潅木が褐色に浮かんでいる。つまりかなりの奥行きになっている。潅木は持ち込みであるから何らかの意味を持たせている、とすれば教室の外、つまりグランドを表す目印か。潅木は桜の木の記号・・時々紙の花が舞っている。
記憶を遡ったが柳美里の小説は一冊も読んでいない(映画化された「家族シネマ」はみた)。演劇との所縁はもっと後に知ったが、戯曲を一つ読んだだけ。それでも20代から知る同世代(多分)の存在は頭の片隅に居座っていた。小説の道を見出す手前、出自である在日家族のあれこれを、それに圧殺されないための防衛手段のように舞台に投げ込んでいたに違いないと想像されるその時期、即ち彼女の生涯年譜の時期区分を示す名称が、私にとっての「青春五月党」。言わば符丁に過ぎなかったこの劇団名が現実に姿をみせるとは。。

さて舞台に立つのはふたば未来総合高校の演劇部(演劇科?)の生徒たち。私の観た回は女子バージョン。十代の子が舞台上で驚くべき臨場感を持つことがあるが、この舞台も例に漏れずである。広義の現代口語演劇の範疇。ただ演劇チックな演技を回避できたナチュラルな身体は、正直を旨とし、気持ちに馴染まない台詞は小さくなる。役者を自負する俳優であればどうにか正当化して明瞭に発語するだろう。だが彼女らの武器はこのナチュラルさ、というより存在そのものである。
小学校低学年で震災を体感した彼女らが、ふと3・11について語る言葉・声の疑いようのなさは、役者が十人束になっても作れそうにない。描写力がある、のではなく身体そのものが媒体となり、当時の事と、その時から現在へ彼女らが船となり船荷に運び来った「それ」が、観客の中に「当たり前のように既にあったこと」であるかのようにスゥッと流れ込んで来る。
構成面の拙さは否めない。言葉の静かな力が劇的に表出した後、同種の展開が反復されたりするのが勿体ない。構成とは時間上の場面配置という事になるが、配置を決める根拠となる何か、演劇の形式特有の原理があるのに違いない。
この舞台に登場するのは高校生の俳優の他、多摩高合唱部のメンバー。彼らが歌う讃美歌は冒頭で音だけが流れるが、姿を見るまでは大人のプロの既存音源を使ったのだろうと思った。ラストではステージ奥に登場し、同じ讃美歌を歌った。防護服のTAICHI企画5名のヒト形ビニルのパフォーマンスが異化をもたらしていたが、原発事故の象徴的イメージは本体ドラマとは一定距離を置きながらもドラマの通奏低音に共鳴し、不思議なマッチングだった。これら協力出演と、協力スタッフ、彼らと共に一介の客もまた、このプロジェクトを、というかこの舞台を、暖かい心で支えたい気にさせる何かが、エーテルのように場を包んでいた。あくまでそれは極私的な、私固有の感覚であった可能性は高いが...。

ネタバレBOX

背景音に流れた「ヴァイオリンの練習」音が扱い切れていなかった。扱いづらそうな音ではあるが。。語りの背後のしんみりと盛り上げる音楽も、使いようだ。構成の甘さは、音楽の役割の不分明さからの印象かも。
平田オリザ・演劇展vol.6

平田オリザ・演劇展vol.6

青年団

こまばアゴラ劇場(東京都)

2019/02/15 (金) ~ 2019/03/11 (月)公演終了

満足度★★★★

「オリザ演劇展」の感想ラスト「忠臣蔵OL編」。AそしてBを観た。Aは天明瑠璃子のご家老(大石内蔵助)がすっとぼけてても何か知らん説得力で最終的に集団を方向付けていくリーダーシップ、最後に「これって運命でしょ」の決め台詞で一同納得。Bは、Qの破壊的演技しか知らない永山由里恵と、笑ってる芝居しか知らない川隅奈保子を見たく観劇。永山は割とマトモだった。ご家老役森内女史はカリスマというより販売系叩き上げ支店長、責務を果たす中間管理職のトーンで存在し、それにバランスするのが取り巻く面々、横の影響のし合いが作った空気感が良かった。要は個々の存在の信憑性に関係するもの。江戸中期の赤穂藩の状況にOLのテイで対峙する荒業が通るミラクルは、同作品を見慣れたせいだけでもなさそう。
ただ袴姿の男がやる「武士編」に比べ、伝えたい何か(平田氏は「伝えたいものなどない、表現したいものは山ほどある」と言うが)の明確さが問われる。戯曲の「無理」を通せた優れた布陣(運が良かった回)ならともかく、そうそうリアルで濃密な芝居にはならない以上、伝えたいものを受け取るという観客とのコミュニケーションが舞台の価値を担保する事実は否めない。そこを抜かすと、舞台は役者力を評定する場という意味に寄ってしまう。複数チームの上演なら、役者力の競技の場というゲーム性を持つが、意味合いは同じだ。青年団、平田オリザ戯曲に限ったことではないが。
しかし層の厚い青年団ならではの祭典、今後も続けられたし。

地球ブルース

地球ブルース

不思議少年

こまばアゴラ劇場(東京都)

2019/03/14 (木) ~ 2019/03/17 (日)公演終了

満足度★★★★

アゴラ劇場でまみえた地方劇団の一つ。昨年度は「棘/スキューパ」二本立てでその内長編の方に今度の芝居は似ていた。古びた柵に囲まれた苔むしたよな屋上のリアルなセットがよく、一人の孤独な生に連想を繋ぎ止めつつ、前作より入り組んだハチャメチャ芝居に必要な重しを与えていた。ユニットの大迫、森岡コンビに二人加わり、ある一人の女性と一人の男性の人生をタイムリープしながら役を替え替え四人でスピーディに演じる。
前作は一人の女性だったが今作は男女、そこにもう一人の男が絡んだり、とにかくタイムリープでの「やり直し」を繰り返す芝居なのだが、ヨーロッパ企画のようにさんざ散らかしてきっちり回収する(それを使命とする)事はない。
冒頭、屋上の出っ張りに突っ伏して寝た女性が目覚めると「あなたは死んだ」と三人の木の精(気のせい)に告げられ、現実遊離した話をこれから見せられるのだと早々に判るが、悲愴感の無さに「観てみようか」という気になる。白ける間もなく客を運ぶ技術は長けている。
ただこの哀れな人生をいじくって宇宙的な話に展開する芝居は、不思議少年のカラーとなるのか、たまたま前作と重なっただけなのか。
話は飛ぶが、連想したのがいつかテレビだかでやっていた「循環コードのヒット曲は一発屋で終わる」の実証コーナー。不吉な事を言うようだが、この循環コード(典型はパッフェルベルの「カノン」)の曲は、演劇で言うところのちょっと甘くキャッチーで予定調和的で、さほど不幸でない人生にフォーカスし特別扱い、肯定するよくあるパターン、これに私の中では通じ合うものがある。循環コードの曲は「それっぽい」形を与えてくれるが温い。タイムリープを使う時点でその轍に足を掬われる危険があるが、今作はそれを辛うじて回避した、代わりに話の筋が犠牲になった。そんな印象だ。演出・演技的手腕の引き出しを、地に足の着いたお話で発揮させてみてはどうか。とは、役者・森岡光の更なる深化を願っての希望。

わたしとわたし、ぼくとぼく

わたしとわたし、ぼくとぼく

劇団うりんこ

こまばアゴラ劇場(東京都)

2019/01/24 (木) ~ 2019/01/27 (日)公演終了

満足度★★★★★

アゴラ劇場でのうりんこ観劇は二度目。もっとも劇団うりんこは作・演出外注で、「子供が見るも可」な作りである事を除けば芝居は作・演出者にむしろ帰属する作品と言ってよい(「うりんこ」は器である)。
今回もその感想が当てはまる、作演出の関根信一氏ならではの舞台である。先般久々に見たフライングステージ同様、蔑視される側に置かれた人間が偏見という壁を越え、人と繋がる喜びを支えに歩み出すまでに昇華するストーリー。淡々とした構成ながら行間に凝縮されたものが溢れ出てくるようで、胸を熱くした。

世界は一人

世界は一人

パルコ・プロデュース

東京芸術劇場 プレイハウス(東京都)

2019/02/24 (日) ~ 2019/03/17 (日)公演終了

満足度★★★★

四畳半から宇宙を見る的バイバイの劇世界を、大舞台と著名役者、音楽コラボという従来とは異質な条件の中に見事花開かせていた事に感服した。岩井氏をアーティストと認識した舞台。ただし彼の終生持ち続けるだろうモチーフに真正面から、脳ミソを総動員して恐らく結語に到達しなかった。描いていく先が曼陀羅に見えたのではないか、飽和状態になった岩井氏の脳内を想像した由。それでもこの世界に浸った幸福感は大きい。過去作「ポンポン」に見た子供世界の大人顔負けのシビアさ、瑛大、松尾、松、それぞれの人生の(つまり生き方の)形、人間としての形が、歪にゆがんでしまう過程が露悪でなくよく判り胸に落ちて来る。
「なむはむだはむ」でしか知らなかった前野氏の音楽だが起用に納得。

ネタバレBOX

また言ってしまうが松たか子の歌がやはり歌のための歌なんだな。。歌的感情の盛り上がりと人物の感情とが別。かなり抑えめではあったと思うが時折ミュージカル方式が出る。押し出すようなビブラートに頼らない声をぜひとも。

平田オリザ・演劇展vol.6

平田オリザ・演劇展vol.6

青年団

こまばアゴラ劇場(東京都)

2019/02/15 (金) ~ 2019/03/11 (月)公演終了

満足度★★★★

「走りながら眠れ」と、「思い出せない夢のいくつか」。
前者が大正時代、大杉栄と伊藤野枝による岸田國士戯曲のような?静けさの漂う会話劇。後者が年の行った芸能人とマネージャーと若い女性付き人(歌手になりたい)が銀河鉄道と思しい汽車の向かい座席で交わす会話劇(出入り有り)。「静かな演劇」である。

「走りながら」を、官憲の横暴で虐殺される運命にある歴史事件の被害者という前知識なしに見たらどう見えたか。だいぶ日も経って思い起こせないが、特異な関係とは言え夫婦である男女の関係は演技的に難物に思えた。反社会的な位置にあるなら、同居する二人はある種の倦怠に陥るか、終末観を帯びて性欲が増すか、生理的にはどちらかになりそうだ。だが不思議と睦まじい夫婦の「会話」を成立させねばならない。この戯曲はしばしば上演されているが、歴史上の著名人でなくとも成立する会話劇になっていなければならんのではないだろうか。やはり歴史人物でなきゃダメというなら、どういう歴史的人物であったか、の評価なり認識が込められていなければならんのではないか。

後者はよく出来た美術で古い機関車の車両の一部とそれが乗った線路が夜の橙色の照明に映えて美しい。兵藤&大竹の芸能人&マネージャーコンビと、同社に就職した若い女が、車中の間潰し会話を続けて行く。現実遊離した幻想的な場面もあって「銀河鉄道」に寄せているが、何かが最後に判明するようなオチはない。そこが不満。「銀河鉄道」でなくても良かった、と思える余地があるのが不満。ただ兵藤、大竹が醸す人物らしさの雰囲気が、味わい。
同演劇展でメリハリの効いた他の演目に比べて難しい素材だった。

革命日記

革命日記

映画美学校

アトリエ春風舎(東京都)

2019/03/06 (水) ~ 2019/03/11 (月)公演終了

満足度★★★★

昨年やられた同作品の青年団公演では2バージョンの内、リーダーを坊薗女史が演じる方を見損ねて残念がった記憶が。戯曲は面白く、映画美学校の発表公演は中々良い。
だが今回のは恐ろしくリアルな、まあ現代口語演劇じたいリアル追及型なのだが、同戯曲も含めて「リアルでなさ」を笑いにまぶして提供する平田演出舞台とは少し様相を変えて、リアルを犠牲にして笑いを取る的場面は一切なく(型の笑いは一箇所のみあったが)、人物像や関係性が全編にわたって丁寧に作られていた。
「今の時代、そういう(連合赤軍事件の粛清のような)事はない」という台詞にある通り、時代は限定しないものの現在に近い設定と思しく、社会変革を目指す活動に身を投じることになった若者の素直な心情、組織の矛盾の実態が、浮き彫りになって行く。作者的には社会変革の主体を気取る若きインテリの鼻持ちならなさ、打算、功名心、支配欲を内に秘めた発語を、笑う飛ばすために書いた戯曲であったとしても、作劇においては十分人物らの内面を汲んで台詞を書いた事だろう。対立する登場人物らそれぞれに感情移入できる舞台に見入ったが、これを平田氏が書いたのだ。

平田オリザ・演劇展vol.6

平田オリザ・演劇展vol.6

青年団

こまばアゴラ劇場(東京都)

2019/02/15 (金) ~ 2019/03/11 (月)公演終了

満足度★★★★

「隣にいても一人」を複数観劇。昨年幾つか同作品の公演情報をみて気になっていた。近作と思いきや2000年の作。まず韓国版から観る事となり、知らない作品なので台詞(字幕)を追うのに目が忙しくなったが、会場からは開幕からあちこちからクスリと笑いが聴こえた。何度か見て行くと「この場面でこの役者はどう出るか」と期待を込めて見る感じになるから、先走り笑いが漏れるのも判るが、最初は原因の判らない笑いにいささか混乱した。
「夫婦とは何か」について再考を促す作品で、破綻は元々あるがそれを最後まで見せる。笑いどころのある作品でチームによって違いが出るその部分が面白い。複数バージョンを見る醍醐味だ。

ネタバレBOX

破綻が決定的なのは、戯曲でも自己言及しているが、離婚が決定している夫婦それぞれの弟と妹がある朝突然「夫婦になっていた」と、戸惑いながら伝える二人に対し、まず弟の兄が言う、「そもそも何でそこで『夫婦になっていた』という表現になるんだ?」に表れており、ネックではある。換言すればその処理は役者に委ねられている。自宅に戻ってうとうとしたはずが、起きてみたら男の部屋におり、男は机に突っ伏して寝ていた・・。男も女も、互いに「夫婦になった」と確信している事が判った・・そのように数時間前の事を回想して語る二人だが、確信したのなら、もはや戸惑い続けることも、互いの兄や姉に相談することもない。確信できなければ相談するという流れにもなるだろうが、その時点で「これは夫婦になったという事である、という飛躍した解釈には走れない」、となる。「転校生」みたく突然有り得ない事が起きた、という事実を確信した時点で、二人はある秘密を共有する二人と自覚したなら、その秘密の意味を「夫婦になる」という行動によって検証しようとするだろう。そこに至る前段として、相手を伴侶として満更でないと自ら判定を下す、という選択行為があるはずで、「自分たちも戸惑っているんだ」という今だ判定せざる者の相談の形にはなり得ないのだ。逆に伴侶として不足があると感じたなら、不可思議な現象じたいを「何かの間違い」として忘れようとする、それだけだ。
ただ、神秘を受け容れたとしても男の側と女の側に温度差や、解釈の違いがある場合も考えられる。夫婦となる(=結婚?)とは何か、についての認識は、結局のところ互いの本当のところは判らない以上、定まらない。お互いを探りながら、同居しやがて家族を形成していく単位である事は認めつつ、それ以外の諸々は何も決まっていない、何のルールもない。「夫婦になる」という言葉でしか表せない状態についてのみ合意したという事態は、どんな夫婦についても同じではないか・・。
ただ、互いの一方的な思い入れを実現しようと(同床異夢?)結婚に至った夫婦(兄姉夫婦のような?)よりは、この二人のように、まず「夫婦になる」事を受け入れ、その他のことは成り行きで、話し合ってやって行こうという構えでいる方がうまく行くようにも見えるし、本来そういうものではないか、という含意がこの戯曲にはまあありそうだ。

ただしこの戯曲では「二人がなぜ互いを受け入れることを<選択>したか」までは言及していない。というより、伏せている。実はそこが肝心で、例えば木引・吉田コンビは容姿への根源的な自信がありそれを意識化しないように制御しているタイプに見え、相手の事も十分値踏みしているがそれを口にせず、「困っている」アピールを兄姉にする事で自分の「選択」の痕跡をごまかしている、という匂いがある。・・しかし見合いが普通だった時代も事情は同じく、「選んだ」にしても不安は大きかったろうし、「選択」の罪を帳消ししても誰も文句は言うまい。
一方林・梅津夫婦では女が「運命を受け容れていく強さ」を湛え、男は自分のような小説家目指すバイト男(ダメ男とも言える)に嫁が来たことをほくそ笑んでいる(有頂天を抑えている)姿がある。
韓国版以外は平田オリザ演出だが、リアクションや台詞も俳優によって変えてあり、平田氏はそういう作り手だったかと、認識を新たにした。
寒花

寒花

文学座

紀伊國屋サザンシアター TAKASHIMAYA(東京都)

2019/03/04 (月) ~ 2019/03/12 (火)公演終了

満足度★★★★

昨年ハツビロコウがやった緊迫の同舞台を観た際、既に文学座の速報が折込に入っており、とても楽しみにしていた。が、会場がサザンシアターと知って躊躇した。文学座はアトリエ公演は大変良いが(「寒花」の初演もアトリエだった)、ホールに出ると途端に「新劇」の典型のような舞台になる。今回もその範疇になった。
もっともハツビロコウのが全てにおいて優れていた訳ではなく、旅順の監獄での日本人同士の対立の中でも、若い外務官僚が日本の侵略の正当性を激しく訴える場面は文学座は「正しく」(皮相的に)作っていたのに対し、ハツビロコウでは「彼の主張こそ真実」と見えかねない響きを持った(反論が台詞で書かれていないし)。激しい議論の格好良さ・熱さを追求した結果だろうが、トゥルースを脇へ置いたわけである(それにより両論併記が成立し、事実性を疑う主張が両論併記で同格扱いになればどんな事実も事実の座を奪われて行く)。
文学座のほうは台詞をヒロイックに吐かせたりはしないが、「そうしない」だけで長所と言えるかどうか・・。演技態が全体にコメディ向きで、この戯曲にこの形では(本人達の主観はともかく)表現者として高飛車に見えてしまう。演出の西川氏がパンフに書いていた初演時の(鐘下氏に執筆依頼した際の)懸念通りの舞台に、サザンシアターという会場向けの舞台にした時点で、恐らくなった。
テキストを受け止める観劇にはなっただろうが、私が描く鐘下戯曲の世界には遠くなった。

ネタバレBOX

見た形の違和感の筆頭は、安重根の舞台上の扱い。唯一韓国語を話せる(そのために招ばれた)若い通訳者と安の対話シーンでは、二人の間に生じた閉じた世界が見えたいところ、椅子に座る位置もオープン(客席側、センター寄りに傾けた斜め)で、芸が無い感じだ。これも大会場を考慮した結果か。
紅一点となる通訳者の精神を病んだ母親が、トーンの高い声で騒ぎ立て、劇的盛り上がりだけが目指されていてリアルでない(記号的に理解するのみ)。
音響も私にはいまいちだった。吹雪の音の高まった暗転からの開幕後、音がぐっと落ちて「閉塞性」を出したいが音が落ちきらない。聴こえる者だけに聴こえる、コン、コン、コン・・という音(キリストがゴルゴダの丘で礫刑になる時に手足に楔が打ち込まれる音)が脚光を浴びるシーンでも、演劇的盛り上がりを演出しようとしたのだろう、それまで使っていた音のボリュームを上げるとかでなく、それまで全く使われなかった金属的な「キーン、キーン、キーン」と別な音を聞かせる。ああ、劇的に演出しようとしたんだな、という「意味」として捉えたが、もちろん感興は湧いてこない。せめて元の音を加工したくらいにしてほしかった。
音楽もチェロ主体で悪くないが、音頼みに場面を閉じ繰るところに「役者だけで表現しきれなかった断念」を感じさせる。極めつきは最後、通訳者の母親が安を見て、亡くした長男だと誤解した事で瞬間訪れた平安を、安が受け止める不思議なシーンで終幕となるが、ここで音楽にオルガン曲を使う。選曲にも注文があるが、それは置いても、形が決まる前から聞こえていて場面の意味合いを押し付けられる。役者が表現したものを補助的に、うっすらと流す程度にしてほしかった。オペが粗い印象だが、これも「大会場」という事情から来るものか。
諸々残念だったが奮闘した場面もあって、それらは断片的だが良いものを残してくれた。作品が持つトーンは好きである。
エーデルワイス

エーデルワイス

ブス会*

東京芸術劇場 シアターイースト(東京都)

2019/02/27 (水) ~ 2019/03/10 (日)公演終了

満足度★★★★

楽しみにしていたブス会を、芸劇で観た。芸劇での上演は初めてでなく、以前は普通にステージを組んだ形で、確か「女のみち20○○」を観たように思う。今回はゲージツ色豊かに?、モダンスイマーズ3部作を連想させる張出し装置(三面客席)で、奥に欧風の石積みの城のバルコニー、そこからなだらかな傾斜で手前まで同色(グレー)の敷石が攻めているあまり見た事のない美術だった。
自分としては見た目イマイチな装置で(これはサイド席からの見え方のせいかも知れない)、過去・現在とシーンがその場で転換する芝居の装置が抽象的になるのは判るが、高嶺の花として象徴的に赤く咲いたエーデルワイスと、お城の存在が重複して意味を食い合っているのがオープニング前から気になった。
一番手前と一段高い二番目がフラットな演技エリア。直方体の箱(床と同じくグレー)を動かして喫茶店のテーブルやベッドに見立てたりするのは機能的だが、やはり全体の景色(色と形状)がしっくりこないと、演じられるシーンも絵の中にうまく収まらず、開幕して暫く心地が悪かった。
芝居の方にそれがどう影響したか・・は自分的には大きいが、芝居の中身は軽妙に語られる「ある女の物語」から、私小説的なリアリズムへと人間描写が深まり、ペヤンヌ・マキの領分に引き入れた(と思しい)所からぐっと見せられてしまった。
女性の目線からはこの舞台はどう見えただろうか。。

『コンサート・リハーサル』

『コンサート・リハーサル』

時々自動

KAAT神奈川芸術劇場・大スタジオ(神奈川県)

2019/02/28 (木) ~ 2019/03/03 (日)公演終了

満足度★★★★

演劇と所縁の深い時々自動を初鑑賞。初とはいえ何故か馴染みのある感覚を手繰ってみれば2000年頃TV放映された『幽霊はここにいる』(串田和美演出)にて、無機的な振付とメロディが舞台にガッチリ嵌っていて、音楽家の範疇を超えた「分野」の存在を見た。
ツボにはまること疑いの余地なく、敢えてそれを確認するまでもなかったのだが・・という言い方も変だが、都合の空いた時間に予定を入れた。予想を超えた引き出しの多さ。音楽シーンも、ダンスも美術もジャンルの境界が消されていく流れだが、こちら時々自動は、音楽製作と不可分に演劇がある、むしろ積極的に演劇している様子が窺える。それに加えて歌いも蠱惑的、ムーブや舞踊、芝居仕立てのシーンも、身体の端までブレがなくクリアだ。
今回大勢の出演があったが半数が「演劇畑」から呼び集めた人たち(部分出演)、他が「時々自動」(所属は知らねど)。楽器演奏を担うのは「時々」だが喋りや身体パフォーマンス、なにがしか掛け持ちし、二芸以上持つ人材が集まる才能集団。全てにおいてソツがなく予測の枠を上回ってくる。
コンテンツは何でもありの感、檻のような縦長の箱が運び込まれ「演劇」の装置の形となり、そこに実況中継と称して回すカメラの映像や、時々自動の「未来」の出来事を過去の記事のように伝える作られた映像を映写したり(最初これを過去の「実績」の披瀝だと勘違いし、不要なコンテンツだなと思ってしまった)。絶えず音楽の演奏があり、曲数からして音楽コンサートと称して間違いでないのだが、演劇作品を観た時のような濃厚さが身体記憶にある。
朝比奈氏は以前SPAC版『鳥』で舞台の立ち姿を見ていたが、今回あれがほぼ素のままであった事が判った。
終演後のロビーはにぎやかで、ジャンル越境の出し物である事を反映するように様々な風情の人等が談笑、芸術サロンの様相が刺激的であった。

オルタリティ

オルタリティ

TRASHMASTERS

駅前劇場(東京都)

2019/02/22 (金) ~ 2019/03/03 (日)公演終了

満足度★★★★★

最後に舞台に並んだ役者は6人。たった6人だったか・・。二部構成の前半後半で立場や状況の変化した数年後をそれぞれが演じたから「2人分」味わった訳でもあり、人的広がりを想像させるよく書かれた本だという事でもあるか。
近年のトラッシュの傾向である「議論劇」の(特に前半は典型的に)範疇だが、その議論のあり方としては随一の出来だと思われる。毎回出演とは行かない団員・龍坐の力量も見、川﨑初夏の円熟と滑らかさも見たが客演・樋田洋平の人間臭い役どころは何げに信憑性を場面に与えていた。

ネタバレBOX

アウフヘーベン即ち成長して行く中津留戯曲が、今回辿り着いたと見える場所は、容易に正解を出せない問いに最後まで解答を出さなかった事、だろうか。唯一人理性に従う(西欧的自我を重んじる、と私には見えた)龍坐の役は、空気読めない奴と疎まれながら、頼り甲斐もある(があまり感謝されない)特徴的な役どころで、修羅場となる後半では主として彼と彼以外との潜在的対立があり、問題のありかを掘り起こすようなやり取りがある。それを議論のための議論でなく状況に即した対話に書き切った事が今作でとりわけ評価したい部分だ。
龍坐の役の言動は、現在日本を没落へと導く、戦前と変らぬ為政者(や役人や財界)の体たらくを鋭く批評する視点を提供するもので、正論を提供してはいたが、その位置をも新たな状況によって揺さぶり、問い掛ける。
ただし(先ほど「正解」を出していないと書いたが)終盤で龍坐が予言のように呟く人間の「弱さ」についての洞察は、実証されたように描かれていた。これはラストの「愛」についてのやり取りを恐らく呼び込むためのもので、こういう部分が中津留氏らしい筆致と言えば筆致。別の書き方もあったろうと言ってみても仕方ない。
この舞台の言外の声が、こうしてここまで極限状況を想定し、現前させた舞台を君は客観的評価だけして終わらせるのか、それで良いのか、と言っているように思える。「ひかりごけ」という小説が半世紀以上前に我々に究極の問いを投げていたが、今改めて問われてやはりたじろぐ自分がいる。
ヤン・リーピンの覇王別姫 ~十面埋伏~

ヤン・リーピンの覇王別姫 ~十面埋伏~

Bunkamura

Bunkamuraオーチャードホール(東京都)

2019/02/21 (木) ~ 2019/02/24 (日)公演終了

満足度★★★★

数年前チケットを取っていたのに見損ねた「シャングリラ」のリベンジで、早くにチケットを取った。贅沢な出し物。私は詳しくはないが「覇王別姫」は紀元前の項羽と劉邦の戦いの一幕、その中の「十面埋伏」の場面という事である。日本で言う「平家物語」のように語り継がれた物語で、筋は判らないが、敗退することとなる側の王と妃との別れが「戦い」の物語の伏流としてある、ような感じ。二時間超え。
主要登場人物もアンサンブルも「芸」で目を引きつけ、物語を彩り、舞台美術・照明の劇的効果に、琵琶の生演奏まで一流揃い。映画『覇王別姫』で使われた音楽も時折流れ、色を添えた(アジア大陸の叙事詩を演出するあの音使いの嚆矢は坂本龍一による『ラストエンペラー』と思っているがどうだろう)。
さてこの贅沢な出し物のエンターテインメント性を堪能し、満腹となった私は、アジアの代表的舞踊家ヤン・リーピンを再び見ようと思うだろうか。。今のところ、私には一度味わえばよい冥途の土産くらいに思っているが、人間の欲は測り知れないもので。自分探しの途上で舞台に一度立った者が病み付きになるのも同様か。・・駄弁が過ぎた。

平田オリザ・演劇展vol.6

平田オリザ・演劇展vol.6

青年団

こまばアゴラ劇場(東京都)

2019/02/15 (金) ~ 2019/03/11 (月)公演終了

満足度★★★★

「忠臣蔵武士編」。以前の演劇祭で観た演目だが、私の演劇リテラシーが耕されたのか、すらすらと台詞の意味もユーモアも良く入って来た。おまけに感動さえおぼえたりして。急迫の事態に直面した大石以下の赤穂の面々が、「どう身をふるか」を砕けた現代口語を用いて突き合わせ、やがて問題を掴まえる共通理解を獲得するまでの経過が絶妙な要約で表現されていた。
ウクレレを弾きながら台詞を言うなど、ギャグ的に巧いとは言えないアクセントも、無音楽の青年団舞台ではオアシスの効果。

平田オリザ・演劇展vol.6

平田オリザ・演劇展vol.6

青年団

こまばアゴラ劇場(東京都)

2019/02/15 (金) ~ 2019/03/11 (月)公演終了

満足度★★★★

「銀河鉄道の夜B」。おや?と思えば平日なのに子ども連れ客が数組。「銀河鉄道」とは言っても青年団流に「子ども対象」の芝居がどう作られるのだろう?成程、開幕と同時に引きこまれたのは、青年団流だが子ども目線で語る学校の先生の語り。ジョバンニを巡って子どもの残酷さが表れる所の簡潔な表現。音楽の無い青年団芝居は子どもに優しくはなく、中盤から大人向けになった嫌いはあるが・・。確かに「銀河鉄道の夜」の物語を漏らさず味わったが、時間はきっちり60分であった。

台所太平記~KITCHEN  WARS~

台所太平記~KITCHEN WARS~

劇団ドガドガプラス

浅草東洋館(浅草フランス座演芸場)(東京都)

2019/02/16 (土) ~ 2019/02/25 (月)公演終了

満足度★★★★★

天晴れよくぞ!と思う間もなく終いまで持って行かれた。パンフにはそろそろネタ切れと作演出望月氏の弁であったが私の中では今回の新作は随一。曲も悪くない歌は歌える動きもよし、多くが若手だが役柄を演じ分けて甘えがない。恐らく私には新作であった事が何げに大きい。時は敗戦から6年、朝鮮戦争の特需で経済復興を遂げた日本、話の舞台は熱海、前年の大火からこの街も復興を遂げつつある中、高台に住む谷崎潤一郎宅へ青森から新しく女中に雇われてくる娘を先輩女中らが駅で出迎える朗らかなシーンから始まる。街の花形はタクシー運転手、女中らとの恋の兆し、だが街を裏で牛耳る組は長が市議となりヤクザ稼業から足を洗ったとは言え、観光都市化が目論まれる街の経済には裏社会が影を落とし、大火の原因にも疑惑が。一方この街には「戦勝国」に帰属する中国人、朝鮮人も風俗商売に凌ぎを削るが、戦争で分断された祖国と、その惨状をてこに経済復興を遂げる日本への複雑な思いも展開に絡んでいく。米朝会談を控え、南北雪融けの時に南北分断を望むかのような奇妙な論調が出回る日本の現在が、台詞の端に顔を出す所に「今」を感じた次第。清と濁、光と闇が背中合せ、シニカルな楽天性が真骨頂のドガドガを堪能した。

Opus No.10

Opus No.10

OM-2

ザ・スズナリ(東京都)

2019/02/22 (金) ~ 2019/02/24 (日)公演終了

満足度★★★★

OM2は近年の二作品を目にしたが、同じ会場(日暮里SunnyHall)で全く異なる趣向。挑戦的な表現形態の背後、遥かに霞む山の如く臨めるメッセージ性の重層感があった。が、抽象性が高く過激化する要素を孕む印象。個人的には応援したい部類だが今回なんと「演劇」の聖地(私の勝手な命名)、我らがスズナリでやるという。
OM2 in スズナリの図が全く浮かばなかったが、良い感じの予測の裏切り方に「地点」が過った。両者全く異質だが。
劇場に入るとほぼ一面に段ボール箱が積まれ(大小様々で銘柄入りの古いやつが巧みに隙間なく壁化され)、白抜き升目の画像が映写され全体を覆っている。
やがて中性的少年的佇まいの喋らない役者が現れ、椅子で読書を始めると加工された段ボールから同じボール紙色の筒がにょ~と飛び出て、脱力な・時に熱い断続的な喋り。紙をペタンめくって今や顔を晒し、ガヤガヤ、不条理演劇風の始まりだが、やがて風景が一変。ここまでの序盤の迫力は申し分ない。
ただ、客席で受け止めた破壊的エネルギーに転換した感情の背景を倒置法的に説明して行く中~後半、少し別の局面が見えたかったのは正直なところ。
熱が高まる後半、憲法条文が文字表示や群誦で混じるが、条文を印籠の如く差し出すニュアンスが混じるとこれは面白くない。それはOM2のコアな部分である佐々木敦のパフォーマンスに、彼が登場人物を担った具体的エピソードに留まらないイメージを喚起できるかに大きく左右され、私に見えた部分が全てだとすると佐々木氏の時間は長い。私の希望は時間を削る事でなく、彼(に仮託された人物)が受けた凌辱が質的に持ち得る位相がパフォーマンスによって広がってくる事だ。
象徴的表現というものに的確か否か(正解)など無いのかも知れないが。。

ネタバレBOX

様相を変えた作品でも毎回変わらぬのが、中心的存在である怪優佐々木敦のパフォーマンス(演技)、また後半に登場の舞踊の女性も。
今回の「芝居」の登場人物は基本一人、父の訃報に駆けつけた霊安室の前で動けなくなった男の脳裏に甦った、父との幼少時代の記憶。そこからの自分語り(嘆き節)が、静けさの中から始まる。
ある受難の人生を憑依させ、言葉を反復して次第に爆発的エネルギーに達する・・それが私の見た3舞台に共通する彼のパフォーマンスの本質と見た。今回は幼い頃隠れてやっていた女装が見つかった事で父親から非人格的扱いを受ける事になったという告白だったが、スズナリという会場では彼の濃すぎる演技は伝わり過ぎる程伝わり、その事も先述した彼の独壇場が「長い」と感じた理由かも知れぬ。
今回は暗黒舞踊流の白塗りの裸体が後半登場する。だが裸体でない男の中でなぜ一人だけ全裸なのか、また男性が服を着ていてなぜ女性が二人も乳を出すのか、そのあたりの説明が十分でなく、「最後の手」を使ってこのあとどうなるのか、と心配が過ってしまった。

最後の手段と言えば、一度見た芥正なんとか言う暗黒舞踏のパフォーマンス(亡くなった首くくり拷象(字に自信無し)を見た最初で最後の貴重な機会ではあったが)の、ただ立派な一物を隠さない事で「抜き差しならなさ」を伝えんとするもその何かはよく解らないという、あの体験が過り、あまり喜ばしい思い出でないのである。
抜き差しならない生にとって、出し惜しむ物は無いに等しく、刹那に永劫をみる生の捉え方は、「終わりなき日常」の彼岸、憧れの対象になり得る。一瞬の燃焼への憧れは若年であるほど強く、三島の切腹はこの野性の惹起を企図したものに違いないが、望むと望まざるとに係わらずやってくる日常に甘んじる事が必ずしも「変化を拒む」守旧の姿勢だとは言えない、そこを押さえない事には、堂々巡りから抜け出せない、、という為され尽くした議論に戻って行く。(自分が見た)暗黒舞踏の突き詰め方に触れると、その事を思い出してしまう。全く個人的な偏った感覚かも知れず、今回の舞台がそれそのものという訳ではないが、そちらに傾いて行かねばいいな、との希望でつらつら書き付けた。

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