tottoryの観てきた!クチコミ一覧

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『DZIADY 祖霊祭』

『DZIADY 祖霊祭』

シアターX(カイ)

シアターX(東京都)

2019/05/21 (火) ~ 2019/05/21 (火)公演終了

満足度★★★

シアターXによる「レパートリー・シアター」を始めとする主催公演(入場料1000円)の海外招待公演を初めて観た。グロトフスキ研究所との共作で、日本人2名(能シテ役+囃子方)も参加し、彼の国の芸術界の巨人であるらしい人物の詩をベースにした出し物。ロビーでの楽器演奏に始まって観客共々場内へ、日常から舞台へのフラットな移動(開演後はいつの間にか舞台部分がセリ上がっている)。音楽演奏の時間的比重は大きく、「芝居」部分でも背後で音が鳴り、出し物全体が「儀式」として提示されている事は推察された。
が、何にせよ残念なのは、言語が判らない。「演劇」を見たい観客にとっては歌詞の分からない音楽を聴く時間を経て、「演劇」に餓えた舌にそれを滴らせて欲しいのだが、音楽、歌や踊りの合間に辛うじて「演劇」要素が挟まれるも、モノローグ主体で短く、しかも伝えたいのは発語者の身体状態(感情)よりは言葉の内容であるらしく、そうなると言語が判らないのは中々つらい時間であった。せめてパンフを事前に渡すか(パンフは退出時に渡していた)、何らかの手引きを用意するかがあって良かった(場面の小見出し的なものがプロジェクターで表示されるが、ヒントになるにはもう一つである)。
人で溢れた終演後のロビーの一角で、日本人出演者と彼を取り巻く人との会話を漏れ聞いた所では、準備時間は殆どなく出演者の顔合わせ日(恐らく当日)に大まかな流れを決めただけで本番を迎えたとか。
破格の料金での公演では当り外れもあろうし今回はやや厳しい観劇となったが、こうした招待公演を毎年継続的に打っている事には舌を巻く。いい具合に成果を上げながら続いて欲しいものだ。

ネタバレBOX

今年はポーランドと日本の国交樹立百年だという。100年前と言えば日本では大衆文化やジャーナリズムが花開いた大正期。やがてナチスドイツと手を取り合い、ポーランドは1939年ドイツの侵攻を受ける。終戦後はソ連の覇権の下に敷かれた約半世紀。
他国を侵略した経験のない国(民族)と経験のある国(民族)との精神性の違いに、私は思いを馳せる事があるが、その契機は韓国朝鮮人の存在であり、類似の民族として思い浮かべるのがユダヤとポーランドだ。
であるので、舞台に立つ彼らが舞台上で他者とどう関係し、観客とどう関係しようとしているか、演劇のどういう機能を踏まえて舞台に立つのか・・そんな事をいつしか読み取ろうとしていたが、やはりよく判らなかったのは上記の如し。
演劇に限らず芸術作品はそれを生んだ時代や状況、場所や国などの文脈に規定されないものはなく、演劇の感動・興奮の大前提である共感とは、この文脈の共有に発する。他国の芸術との接触にはまずこの問題がある。演出家として国際的に知られたグロトフスキの研究実践がポーランドにある事を知ったが、再び彼国の演劇に触れる機会はあるのか知らん。
10分間2019~タイムリープが止まらない~【ご来場ありがとうございました】

10分間2019~タイムリープが止まらない~【ご来場ありがとうございました】

中野劇団

こまばアゴラ劇場(東京都)

2019/05/24 (金) ~ 2019/05/26 (日)公演終了

満足度★★★★

当日一か八かで出掛けたが、開演ギリの到着でも入場できた(場内ほぼ満席)。キッチリ2時間娯楽作品、中身は一体何?不安半分で観始めたが、まず関西弁が作る風情にすぐさま引き込まれ、やがて「10分間」との闘いへと突入する。副題にあるのでネタバレにならないと思うが、タイムリープを主人公に受難の鞭を打ちすえる無慈悲な現象として描きながら、苦痛を細かな偶然性の笑いにまぶして事態を進行させるのに成功しており、作品カテゴリーとしては軟派に振り分けられそうだが厳としてハッピーエンド有りきには見せない所が好感。個人ユニットから劇団化したと書かれていたが団員3名の他も皆出来る役者で、台詞に頼らない役者の風情で説明し得る余白を残しており、脚本の改稿なのか役者の(この舞台での)成熟なのか、情報密度が高い。「同じ事の繰り返し」というハードルも、発展して行く場面での間合いも完成と言える域。

ネタバレBOX

脚本は、役者の「風情」が饒舌に語る印象にも通じるが、キャラ設定が細かで、作者の実体験を想像させる(例えばユキが同窓会に「呼ばれない」理由は語られないが、どことなく見えて来るキャラが想像を促し不足感に繋がらない、など。)
仲間には決して「理解されず」終えるのが良い。
軽佻浮薄な謀反を起こせ(けいちょうふはくなむほんをおこせ)

軽佻浮薄な謀反を起こせ(けいちょうふはくなむほんをおこせ)

LiveUpCapsules

サンモールスタジオ(東京都)

2019/05/22 (水) ~ 2019/05/26 (日)公演終了

満足度★★★★

初めての団体だったが、はっきり題材で観劇を決めた。
川島雄三をよく知るとは決して言えないが『幕末太陽傳』には故もなく入り込んだし、晩年に撮られた洒脱な『しとやかな獣』『女は二度生まれる』や『貸間あり』『雁の寺』等のメジャー所よりは『洲崎パラダイス赤信号』、次いで『風船』(TSUTAYA様様)に、映画監督・川島雄三の凄みが表われていると私は感じる。
閑話休題。舞台はその「幕末太陽傳」撮影現場を借りて、当時の映画界と川島その人を捉えようとしていた。初めて見る作・演出者だが中々、面白く観る事ができた。川島は評伝の主人公になりがちな人物ではあり、その代表的作品の一つである「幕末・・」を使ったのもベタに思えるが、役者陣の好演もあって張りのある舞台ではあった。事実として浦山桐郎や今村昌平が居た現場で、銀幕の舞台裏話としては比較的知られた類なのだろうが、史実をなぞる快さがある。そしてこの史実(単なる事実)に投げつける作家独自の台詞の中にヒットもあり、舞台は生き生きと今を呼吸していた。
何より川島雄三「らしさ」(私は写真でしか知らないが)を彷彿とさせる主役の佇まいは、他の人物とのコントラストもあって大変特徴的、不思議な構図であった。他の人物もキャラに即した役者を揃え(今村は実際あの顔だった気がしてきたし浦山には細身の辻井氏を当て写真で見る帽子を着用)、人物の絡ませ方のチョイスも中々よく、要所に絞りながらこの題材を一通り舐めたと思わせた。
演技的にもう少し幅を持ちたい部分もあったが、言葉足らずながら川島雄三の「軽佻派」たる所以を伝えてくれていた。

ネタバレBOX

フラさん(主役のフランキー堺)は登場せず、イマヘイが代役をやったり無対象で作る。石原裕次郎に金が掛かっており出番を増やせというプロデューサーの要求をよそに、ひたすらフラさんのシーンを撮り直す川島。その姿に重なって来るのは自分がかつて観たこの映画でありフランキーが痛快に演じるシーンだ。幕末太陽傳を見ていない観客は、どうだったろう。
落語でもそうだが(違うバージョンもあるが)肺をやられた事が判り品川あたりで養生を、というのが「居残り」の理由だと佐平次は仲間にだけ漏らす、これは実はうまい弁解なのかも知れないが、どことなく先の短い命が過ぎる。川島本人にも重なる。この憂さを啖呵一つで吹き飛ばす主人公にえも言われぬ情趣が漂う。
落語家自身もこの演目が好きだと明言するのが多いが、険しい状況に自らを置く佐平次なる男から醸される、測りがたさ・奥深さと、対照的なのが新撰組として登場する石原裕次郎で、川島は見事に石原を活用しながら彼を主役でない座に甘んじさせている、この贅沢なやり口もこの映画を特異なものにしている。
恐るべき子供たち

恐るべき子供たち

KAAT神奈川芸術劇場

KAAT神奈川芸術劇場・大スタジオ(神奈川県)

2019/05/18 (土) ~ 2019/06/02 (日)公演終了

満足度★★★★

初日(プレビュー)観劇。大昔の遊機械◎全自動シアター公演(TVで視た)は別にして・・白井晃演出舞台(=新国立劇場中劇場)には「金の無駄遣い」位の感想しか持たなかったのだが、今回は題材に惹かれて観た。至極真っ当にしっかりと作られた舞台で、奇想天外な装置で勝負、な印象は以前と変わらずだが今回は悪くなかった。度肝を抜く装置以外に何~~んにもない新国立中劇場での2作(「天守物語」「テンペスト」)の詰まらなさはプロデュースの問題だったかも知れないと考え始めたこたびの観劇であった。

原作を知らず映画も観ずにいたジャン・コクトーの「恐るべき子供たち」の話の筋は、明らかにこの系譜の芸術的古典として完成度を持ち、判り易い。悪魔的本性を見せる子供たちの存在は、現在もはや物語世界でも現実でも珍しいキャラクターでなくなったが、ホラーでなく文学作品である事の節度は、子供らの行動に何がしかの理由を与えている点だろうか。
5人の子供たちを男女2名ずつの若い俳優が演じ、他の面々(大人)はコロスとしてほぼ背景に退いている。彼らの年齢は不詳だが、(経済的制約がない分)逃げ場のない純粋な苦悩に支配された身体をよく表現していた。

新浄瑠璃 百鬼丸~手塚治虫『どろろ』より~

新浄瑠璃 百鬼丸~手塚治虫『どろろ』より~

劇団扉座

座・高円寺1(東京都)

2019/05/11 (土) ~ 2019/05/19 (日)公演終了

満足度★★★★

3月末のひとみ座70周年公演「どろろ」とはどうしても比べてしまう。もっとも自分的にはヒット率の低い扉座を今回は「どろろ」だから足を運んだ。ひとみ座の原作の魅力を見事に舞台上に迸らせた人形劇舞台がやはり完璧すぎた。「どろろ」を扉座が初めて舞台化した2004年の舞台を観たならまた違った感想もあったかも知れぬが。
人形劇との表現形態の違いが、漫画(アニメ)作品の翻案に際しての制約に繋がっていそうだが、好みで言うと「どろろ」の世界の基調は、あの秀逸なアニメ版主題歌(どろろの歌)に尽き、ひとみ座による原作理解は、ラストに総員顔出しでこれを歌った事に表れている。
この作品とこの歌を生み出した戦後の熱い時代は、マス・ストーリーからこぼれ落ちた個のささやかな主張に視線を向ける時代に座を渡すが、2010年代の今日は「権力者も一人の人間」といった個の視点が如何にも陳腐で、むしろさび付いたマスの正論を立て直す時だとすれば、「どろろ」はどう読みたいか。
49のパーツを魔物に奪われた百鬼丸を生んだ張本人・景光の権力欲は、その正当化の論=「乱世を終らせる為」も虚しく今度は民を縛り民から搾り取る権力維持再生産(平和をもたらすためでなく自らの権力のための権力行使)に走る。幾多の先人の轍を踏む景光に対し、やがてマス(=農民ら)が鍬を手に立ち上がっていくラストは、ドラマ構造としても百鬼丸という存在の由来に直結する素直で自然なありようだ。
扉座のそれは、浄瑠璃の型を導入し、太棹三味線に義太夫の謡いが流れる愁嘆の場面が部分的に挿入される。これがあまりうまく行っているように見えないのは、例えば心中物ならば惹かれ合う男女と世のしきたり(大人の事情?ロミジュリ的な)との葛藤というテーマは人間の本性に即し普遍的であり得る、つまり「抗い難さ」がある。愁嘆に相応しいのは抗い難さだ。「どろろ」の登場人物は抗い難さを嘆く姿など見せない。百鬼丸が自棄になってもそこに留まらせぬためにこそどろろは彼に付きまとっていると言っても良い。或いは仇討ち物ならば忠義よりは復讐心、情に全身を委ねるカタルシスが想起されるが、この類型にもそぐわない。
「どろろ」は魔物の類が登場するという360度どこから見てもフィクションな話。権力欲にかられた男が(既にその時点で魔物の存在に幻惑されていたとも)生まれ来る自分の子の体の部分を魔物に与える約束を結ぶ。そして生まれた百鬼丸は手足目鼻耳舌内臓などなど49箇所のパーツを奪われており、父景光の手で殺されようとするが命ある子を生かそうと母の手引きでたらいに入れて川に流される。彼を拾った医師は彼がまだ生きており、心の声を発する事に気付き、手当を与え義足その他を作り、心の声を通じて会話し人並みに暮らせるよう育て上げる。そしてある日、魔物に奪われた体を取り戻せという何者かの声を聴いて旅立つのだ。そして出会うのがどろろというコソ泥。孤児の彼は百鬼丸が危機に及んで使う武器(腕にはめ込まれている刀)に惹かれ、付いていく。そして魔物たちに出会い、戦い、体を取り戻していく。この二人の関係がドラマとして大変魅力的で、どろろは百鬼丸の「刀欲しさ」に付いていく、と説明するがその実は怖い物見たさではないか、いやもっと、人間的に惹かれているのではないか、そして突き詰めれば幼い頃両親に非業の死を遂げられた過去と、響き合うものを感じているのではないか・・決定的なのはどろろが女の子である事。この関係に多義的な、しかし何か必然を認めさせる所が手塚治虫という芸術家の凄みでこの作品の人気の源に思われる。
これを扉座は、「どろろ」を一つの古典として据え、浄瑠璃の型に収めようとした。そして変形を施し、どろろを男のおっさんに変え、百鬼丸を心の声の存在と、身体を(ある程度)取り戻した状態の二体に分離し、心の声には若い女優を当てた。一言で言えば、まだまだ味わう余地のある原作を古典化するのは早い、というより勿体ない。

あさどらさん

あさどらさん

十七戦地

座・高円寺2(東京都)

2019/05/16 (木) ~ 2019/05/17 (金)公演終了

満足度★★★★

開演直前に入場したが自由席で前3分の1の真ん中という特等席。
質素の極限のような前回公演とのギャップの激しさにまず笑った、というのも変だが、実は前回が「伏線」であったのかと訝るほどの変わりよう。そして座高円寺2が悪くない劇場だと初めて感じた舞台だった。装置の端正さ・明るさが印象的で手抜きを感じさせない。
柳井氏の本によくある独特なリアル逸脱(書き込まれてなさ?)の波に小突かれながら進む船が、朝ドラ印のマスト(あるあるな展開や、音楽)で乗り切って行くなか、これは朝ドラへの「揶揄」なのかリスペクトなのか、見定めようと見る時間は長い。だが追いかけた問いへの答えを与えられる事はなく、ただいつしかドラマが生むカタルシスに同期しているという奇妙な感覚があった。
部分的な詰めの甘さ(特に笑わせるポイント)を感じるも最後には辻褄を合わせる柳井作品の味が、中サイズの舞台でうまく出せていた。

ネタバレBOX

戦前のある時期に始まる、とある茶舗の年代記。リアル脱線の小波とは、二代にわたる茶舗の女将の物語で、なぜ二代目は姉でなく妹が継ぎ、姉は未婚の身で小姑のようなのかの理由が説明されていないのがその一例。これを「ヒロインは若くて華がなければならない」朝ドラというものの輪郭を示す敢えての設定(による揶揄?)と読めなくもなく、保留状態(揶揄なのかリスペクトなのか判らない)が延長される。
ところが大団円にて「朝ドラ」的感動の曲が流れると、つい「感動」の構図に巻き込まれ、場内は大きな拍手が起こる。ドラマの外側から内側へ、誘導されているわけである。
ただ、その効果を含めての「朝ドラ」揶揄ではないのか?・・という余地を疑わしげに反芻してしまう。(何せタイトルになってるので。)
お気に召すまま

お気に召すまま

ヌトミック

こまばアゴラ劇場(東京都)

2019/05/12 (日) ~ 2019/05/19 (日)公演終了

満足度★★★★

同時開催公演の【B】「Aokid presentsシェイクスピア(?)」を観劇、もとい、参加した。料金低めのイベント企画でなく「公演」である。休憩を挟んで2時間弱という割とガッツリな内容は前半パフォーマンス、後半ワークショップ。Aokidの手の内の広さが印象的で、冒頭の場内見学、Aokidの歌、ダンス、ドラマトゥルク朴氏の「お気に召すまま」短縮解説に合わせた振り、キャストとのトークで前半で休憩に入り、後半は参加型プログラムであった。
翻訳や変換の力は閉塞を打開する力でもあり、物事を一対一対応の意味に閉じ込める(リスク回避優先で組み立てられた論理に多い)風潮?に辟易する気分に、Aokidの陽気さはちょっとした救いの手であった。

お気に召すまま

お気に召すまま

ヌトミック

こまばアゴラ劇場(東京都)

2019/05/12 (日) ~ 2019/05/19 (日)公演終了

満足度★★★

ヌトミックの長尺パフォーマンスは今年初めの「これは演劇ではない」企画に出品された「ネバーマインド」以来2作目。
音楽要素の強い遊び心が自分にはツボではないかと思っていたが、今回は音楽アピールがやや後退。戯曲を手玉に取るスタンスから戯曲本位へ変化し(作り手の主観としては特に変化はないのだろうが)、ヌトミックなりの「演劇」製作の形跡を認めた。
といっても、ふわふわとして捕らえ所の無さは「劇的」への屈折、ドラマ解体欲求を思わせるが(昆虫に興味を惹かれた子供がそれを解剖してみる的な罪の無さ)。
音楽が持つ強さとは明快さ・潔さにあり、場面を瞬時に規定する力があるが、言わば場面を批評し相対化する小気味良さや新鮮さばかりでは、物語は立ち行かない。あるいは同じシェイクスピアでもマクベスなら、批評で埋め尽くした舞台も可能か知れぬが...。
そこで何らかの線を引いたようなのだが、音楽的抽象性の強さは音楽を用いてこそ。「形」を作るという創造領域に、手ぶらで挑んだような抽象性。
長く演劇を鑑賞していると、舞台を作り手にとっての一プロセスと見てしまう所があるが、今作は正に方法論の模索過程に見えた。
自分が上げた期待値に比しての星評価。

ネタバレBOX

今作は昨年のアゴラ演出家コンクールに出品した作品の完全版。コンクールは課題戯曲「お気に召すまま」(20分程の場面)を主催側の用意した青年団俳優を使って僅か1~2日で作るというもので、このユニットの発表は結構ウケ、評価も得たたらしいが、瞬発力が物を言う短時間の出し物と、一編のドラマを見せるのとでは根本的な違いがある。というのは判り切った事で、作者としては何らかの着想があったのだろう。
最近よくその尊顔を拝む松田弘子のソコハカと天然味な風情や、崩しの効く二枚目古屋隆太、性格良さげで真面目そうな原田つむぎ、性格ブスキャラ封印するもハラハラさせる深澤しほ、映画美学校出の舞台上の精神的負荷ゼロ?矢野昌幸・・・ヌトミックの奇妙な仕組みの中で、染み出て来る俳優の持ち味は旨味だが、演出・翻案の斬り込みは弱い。
改訂版「埒もなく汚れなく」

改訂版「埒もなく汚れなく」

オフィスコットーネ

シアター711(東京都)

2019/05/09 (木) ~ 2019/05/19 (日)公演終了

満足度★★★★★

初演と同じ芝居とは思えない。舞台の明度、風景、台本の構成、演技、どれも熟成され洗練され、深まり、冒頭から引き込まれて最後まで一人の劇作家というか、自身と向き合い何かを追い求めた一人の人間を、その同伴者を、彼に連なった者達の存在を感じ味わう2時間10分だった。「あの『山の声』を書いた人の話」を超越して、たまさか演劇をやる事になった人間の魂(と名づけるなら)の足跡、大竹野正典なる人物の人体に宿った魂のあり方の軌跡が描かれている。作品として焦点化される『山の声』は、遺作ながら彼の人生の通過点としてしっかり捉えられて説得力がある。固有名詞から普遍へ、深化した同作に拍手である。
「お前何で芝居やってんねん」のくだりで漸く初演を「観た」感覚を思い出した。

ネタバレBOX

演技陣は初演より1名少なく、キャスティングも練られた感あり、新キャストは半ば今回のお目当てであった、関西土着人らしい(後半は標準語を喋る批評家の役になるが)緒方晋と、芸(演技)達者・福本伸一という高校時代の級友コンビに、初演組・照井健仁演じる若者の恋人役・橋爪美萠里。初演組・柿丸美智恵が唯一次元を超越した役を伸び伸びと演じて笑わせ、誰も立ち入れない心の深い部分での交感を表面化させて見せる主役二人の脇をしっかり固めていた。
久々に濃厚なアトモスフィアへ熟成された舞台を観た。
「日本国憲法」を上演する

「日本国憲法」を上演する

die pratze

d-倉庫(東京都)

2019/04/30 (火) ~ 2019/05/13 (月)公演終了

満足度★★★★

中野坂上デーモンズの憂鬱と、IDIOT SAVANT theater companyはどちらも「激しい」舞台。もちろん「劇」とは激しさを伴うものだが。
毎回恒例のトークでは前者の主宰松森モヘー氏は今回の台本76頁と言って驚かれていたが(平均十数枚だろうと他の二人)、舞台はボルテージ高く、高速の絶叫声(一人の台詞は短い)が数珠繋ぎにまくし立てられていく。
後者は鍛え抜かれた肉体が圧倒する毎度の舞台で悲壮感と身体負荷によって絞り出される台詞の熱量は健在だったが、今までになく多量の言葉(書き下した何編かの詩)を独白するシンプルな舞台だった。
今回のシリーズは3組観劇でき、それぞれ健闘ぶりが見える成果で観劇としては満足だが、テーマそのものの課題は重くのし掛かる。

ネタバレBOX

デーモンズのタイトル「No.12」は、パンフを見る限り俳優が12人である事以外あまり意味はない。数は意識されているようでそれは憲法条文への意識だろう、などと想像したが特に関連を考えなくてよさそうだ。本番3週間前の文章がパンフに載っているが終始「わからない」と書かれている、その通りの舞台だった。客電落ちの前に俳優が一人ずつ登場し、動きが付随する一定リズムで数を1からカウントする。最後の一人が入って12人の輪ができると、主催者の開演の挨拶を挟み、本編が始まる。
基本形としては俳優は横一列に並んで観客に向かって喋り、他者がリアクションして会話に発展する。また出番の無い者は体育座りで並び、その並びが舞台ギリギリに来た所で再び全員が一列に並んで座り、折り返し地点。
喋りはガナリでも、台詞自体はアングラよりは静かな演劇系、何も無い所から立ち上がっていくテキストで、冒頭は「私たちは高校生」だが「高校生ではない」、といった禅問答。言葉を詰めに詰め込んだ60分が、日本国憲法(というか社会的な視野)にリンクする箇所は何度か訪れるが、結語的に感じられたのは「変化の時(現在)を感じ、身を置く事、対峙していく事」といったもの。改元などが影響しているのか知らん、憲法は「変えるべきもの」と本人が考えているかどうかは別にしても、その感覚に捕われる危うさを覚えたのが私の印象。
愚策を国民挙って歓迎した郵政選挙での小泉派圧勝という前例が日本にはあり、「変えねばならない」気分が内容抜きに高まる事ほど危険なものはない。
トークで今回よく聞かれたのは、日本国憲法というテーマの難しさと、改めてこれを考える機会を与えられたというもの。松森モヘー氏は「頭がよくなりたい」と印象的フレーズを繰り返していた。(もっとも自称偏差値30台というのは名刺代わりなのだろう。同学年での学力相対評価に過ぎない偏差値でなく、IQテストをやれば決して低くないはずだ。)

IDIOT SAVANTは苦しむ心の身体表現に息が詰まる冒頭のくだりを潜ると、俳優個々がやはり苦悩しながらも、語りが個の身体というより理性や心情に接続する感じがあり、詩の朗読の様相となる。この詩が何とも直裁で気恥ずかしい程に青く、願い、祈り、絶望と希望の文字が並ぶが、これを聴かせてしまう身体がある。7名の俳優は皆黒のスーツを着込み軟弱さを見せないのがスタイルのよう。最後は奥に椅子を並べて各様の決めポーズを取ると客電が点き、互いが見合う空白の時間が暫く続く。個人の独白を終えて観客への問いかけの流れはテーマに即していると感じ、違和感がなかった。トーク用の椅子とマイクを仕込むスタッフが現れ、漸く立礼にて終演。
きく

きく

エンニュイ

SCOOL(東京都)

2019/05/08 (水) ~ 2019/05/12 (日)公演終了

満足度★★★★

ビル5階の狭小空間SCOOLで役者9名のモノローグとくっ喋りとムーブやゲームを見た。向い合せに高低2タイプのパイプ椅子が間隔を置いて2列並び、空いた側の壁には一列椅子が並ぶが後者が実は俳優がずらり座っている。一人がおもむろに口を開くと開演。ちょうどキャンプファイアで自分の事を語り合うようなモードで、他者の話を「きく」行為・態度についての検証材料が展開する。この「告白」モードでの語りには、人のプライバシーを覗くちょっとしたわくわく感があり、それへのリアクション、薀蓄や話題の転換などネタ的には面白く見られるが、作り手が選択した仮説へと収斂して行くものがなく、云わば検証材料陳列になっている。
これらがまるで即興のような臨場感で表現されるのは興味深い。パンフに書かれているとおり製作過程で俳優個々が持ち込んだ素材が活用されているのだろう、俳優らは彼ら自身として存在し、与えられた役を演じているようには見えない。台詞の流れは最終的には即興でなく決定稿となったと思われるが、「作りこまれた」ように見えないのは作品というよりワークインプログレスの発表に近い。作り手は作品として提示したに違いないが内容はそういうものに思えた。
俳優が演じやすい俳優個人としてありながら、つまり出し物としての作為性が比較的薄いものでありながら、狭小空間の利点と考えてか客に介入する(舞台をはみ出る)部分が時折ある。しかしこれが不遜な印象を与えなくもない。作為的に堅固に作られたものの上で「遊ぶ」のは(戻るべき場所があるので)有りだが、あやふやな土台の上で客に介入すると自信の無さの裏返し(本人的には積極的介入?)にみえてしまう。
出し物として面白い場面、秀逸な局面は多々あったが、作品にまとめ切れなかった印象が残る。

尾を咥えたり愚者の口

尾を咥えたり愚者の口

電動夏子安置システム

駅前劇場(東京都)

2019/05/07 (火) ~ 2019/05/12 (日)公演終了

満足度★★★★

劇団名は言はずもがな劇タイトルも独自思考が滲む劇団(個人の感想)を初観劇。
予想に反して役者力あり、エンタメ性あり、もっとも解読困難な混み入ったストーリー、だが娯楽重視らしく「物語」は役者の飛躍からステロへ着地する演技と雰囲気をヒントに、流れに乗って観られる。
作劇は、相互に微妙な接点のある5、6組の対話(ほぼ2人一組)がリレーしながら快速で走行、数組の逸話がどう繋がるのか判らずもどかしいまま、しかも二つの異なる次元(時代)を跨ぎながら場面としては隣接して展開し、その事態の観察者であり渦中から脱しようとする者(主人公的グループ)が、今見ている場がどの次元の話なのかが判らないらしいという事が観客に判るまでの滞空時間も結構長い。事態は冒頭より何やらドラマティックに、面白おかしく展開するが、事態の推移は見守るしかなく、思わせ振りでクリアな演技で役者らがこの滞空時間を甲斐甲斐しく繋ぐ訳である。
ミステリーな物語の裂け目から世相への皮肉が覗き、馬鹿馬鹿しい騒ぎの末絡まりに絡まった糸が解けると、元来利害相容れない者らが(図らずして)困難を共に克服して大団円を迎えるという、「構造」だけは王道、テイストはかなりの程度亜種な人情喜劇。

ネタバレBOX

GHQ占領下の日本で起きた毒殺事件の犯人が未だ逃走中というなか、検閲というキーワードが二つの次元(GHQ時代と現代)を繋ぐループに掛かるのを主人公グループは発見。だがいずれにせよ右往左往するしかなく、その滑稽さを自嘲する眼差しもある。
理知的・沈着な脳ミソを覗くような劇をぼんやり想像していたが、若く身体能力に油の乗った俳優達はむしろ活気があり、演劇好きな者達が演劇を楽しんでいて、その楽しさの観客とのシェアが「出来る演技」によって実現している。
第7回公演 『飛鳥山』

第7回公演 『飛鳥山』

ほりぶん

北とぴあ ペガサスホール(東京都)

2019/05/02 (木) ~ 2019/05/06 (月)公演終了

満足度★★★★

牛久沼のうなぎの壮絶な奪い合いを3編に亘って見せた、横に広いだけの体育室のようなペガサスホールが、普通の劇場のように階段式座席が組まれ、袖もあってなんと立派な(?)舞台装置も組まれたステージ。客演黒田大輔も加わり「どんなスゴイ話なんだ」と熱気の高まる中、始まった劇は、川上友里子の語りでのっけに膝折れを食らわされ脱力(笑い)。そしてほりぶんならではの感情過多(笑い)、膝折れ(笑い)、また感情過多(笑い)を繰り返し、それらが過剰演技(笑い)で繋がれ、腹筋が疲れる。そして最後は絶叫の域へ。
この笑いはなんなんだと毎回思う。王道の笑いではなく時代性との緊密な距離感で発生しているように感じる。
「本気」である事を冷笑、もしくはそれと距離を置く時代は既に長く、一方本気でありたい願望は皆しもある。渦中にある人生に憧れ事後的に本気を求め旅する自分探しの時代、「本気」と「私」との微妙なありようを特徴とする現代、「本気である」表現を過剰な演技で行なうほりぶんの芝居が笑えるベースがここにあるに違いない。それにしても展開の読めない怒濤のような1時間ちょいが終わってみると幻のようである。

「日本国憲法」を上演する

「日本国憲法」を上演する

die pratze

d-倉庫(東京都)

2019/04/30 (火) ~ 2019/05/13 (月)公演終了

満足度★★★★

AMMOとノアノオモチャバコの回を観劇。毎年各団体のステージ数は通常2、3回だが今年は1ステージのみ(特別出演)が1団体、他は2ステが2組、4ステが2組の変則形。今回観たのは4ステージある組の初回。
まずAMMOはここ2年程気になっていて未見だった劇団だが、現実にある自民党の改憲案を扱った直球の議論劇(近未来の要素あり)。若い実力の片鱗が見えた。ノア..は数年前「胎内」をシアターミラクル(確か)で観て以来だが、古典戯曲などの脱構築的舞台が領分かと思ったら、意表をついてコメディ仕立ての家族劇であった。早川紗代が婆役で舞台を掻き回し(邪魔をし)、なぜこの女優が居るのに普段お笑いをやらないのかと首を傾げる八面六臂の出しゃばりっ振り。
1時間でやれる事には限りがある、とは他ならぬ両劇団にこそ言え、凝縮された内容でお得感あり。

シナモン

シナモン

KARAS

シアターX(東京都)

2019/05/02 (木) ~ 2019/05/06 (月)公演終了

満足度★★★★★

舞踊公演というものを初めて観たのが恐らく10年位前、勅使川原三郎で「○○凱旋」なる文句に弱い素人丸出しで興味本位で観劇した。普通に海外でやってる人だから今思えば凱旋じたい特別でもなかったが、とにかくその公演ではまことによく寝た。明度が絶妙に睡眠に誘うのは今も変わらない。
数年前の「青い目の男」に続いてブルーノ・シュルツの文学作品が題材だというので、あの感動をもう一度と出掛けた。この人の才能は踊る肉体もさる事ながら照明、音響(選曲・コラージュ)と一体化した世界にあり、今作は一きわ斬新な照明効果、そして音との不思議な絡みによって、言葉に触発された世界が今生まれたかのように浮かんでいた。静と動、明と暗が一瞬にして変化し(この一瞬と緩慢との間のグラデーションがまた自在)、後を引かない。踊り=演技?は高潔・純粋で、艶かしい。勅使川原は小刻みに震えたり吃音的動作という変則的動き、佐藤利穂子はこれまで見て来た記憶と合わせ、彼女独自の言語を持っている事を発見。「動いていること」が生命レベル(否物質レベル)では常態である事の示唆を私はどこか受け止めていて、彼らが激しく動いていても「している」でなく「ある」が見えてくる感覚を味わう。実際はかなりの運動量なのだろうけれど。

背中から四十分

背中から四十分

渡辺源四郎商店

ザ・スズナリ(東京都)

2019/05/01 (水) ~ 2019/05/06 (月)公演終了

満足度★★★★★

渡辺源四郎商店主催の公演で再演モノを観るのは、もしや初めてでは。。
ナベ源が誇る女優・三上晴香を久々に拝めた。キャラクター頼みの面もあるか、と今まで見ていた所があるが、今回の演技は女優としての幅を(私に)実証した。また、知名度があれば好感度第一位説有力な?レギュラー・山上由美子、残る二役が実力派の客演と、満を持しての感もあるナベ源公演。出ずっぱりの中年男役に、札幌座所属とあるが実力者らしい斎藤歩、旅館の女将に青年団・天明(みょう)留理子。彼女が出てくるだけで期待させ、笑おうと構える我々に期待通り振舞ってくれる。
そして斎藤と三上の絡みがメインになるが、戯曲、役者とも見事であった。

ネタバレBOX

芝居を見終え、幸福感に浸っている。出会う二人がそれぞれ身の上を語りあう終盤、語られる内容がそれまでの行為を裏付ける「謎解き」の答えとなる。言葉頼みの面がある戯曲はそのオチが弱い時に危うさが過ぎるが、作者は意外性があってしかもリアルなエピソードを二人に語らせ、言葉だけで観客を納得させてしまう。妻子に捨てられる父親キャラも滲み出ていて話に説得力があり、三上が陥った誤りとその残酷な結果も、殊更な不幸の陳列とならず俳優はそうなるのが自然である人物を演じて、その姿にため息が出るほどのシンパシーを覚える。この場合、語る者に対してもそうだがそれ以上に、聞く方の心に共振し、舞台上の人物と同じく相手の話を受け止めている。
笑えて愛おしくなる人情物ではあるが、二人の物語の向こうには、世の中が見えている。
「日本国憲法」を上演する

「日本国憲法」を上演する

die pratze

d-倉庫(東京都)

2019/04/30 (火) ~ 2019/05/13 (月)公演終了

満足度★★★★

初回は満席で予約が取れず、雨の中会場を訪れ、幸い当日券で観る事ができた。
「戯曲でない」憲法を題材に何がやれるのか?不安ながらに見始めたが、さほど違和感が無かったのは、思えば「戯曲」での企画で各集団それぞれ、圧縮の手際や翻案・表現手法もバラバラ、原形をとどめなかったり換骨奪胎された舞台を過去に観ていたからだろう。(来年はテキストからも離れるらしい)
今回全組合せは観られないが、まず第1グループのスタートに立ち会えてラッキー(観客が皆同じ条件で観劇)。出演団体は毎回舞踊・身体表現系と芝居系、凡そ半々の陣容だが、1グループはくっきり身体思考が舞踊系、加藤と八谷が演劇系。それぞれに感想があるがいずれネタバレにて。

ネタバレBOX

身体思考「九条小町」は台詞無し、象徴表現を読み解く観劇。初日の一番手だったが、空間を味方につけ、即興要素がありそうで意外とカッチリ作られた出し物だった。
演者が登場して布を束ねた長い帯を真四角に敷き詰め、各人が所定の位置に付くまでの動作を見せる。やがて客電が落ちると和服の女中っぽいのが摺り足で現れ、一嘗めして去った後、白髪の老婆が登場し目を閉じて震えながら悲しい出来事を語るように動き、物語の始まりの体。ふと目に懐かしさを覚えて当日パンフを見れば、老婆はグループの主宰の男性舞踊家であった。その往年のパートナーも振付・出演で参加。踊りはスローの舞踏系の所作からロボットダンス、ジュリアナ東京を連想させる華やかな踊りと多彩で、一つ一つはオーソドックスな踊りだが目を飽きさせない。
ただしストーリーの解読には苦労する。全体に悲劇調なのは、舞踏の動き=能=無念の死・・の影が覆っているからか。細部の解釈は難しいが、擬人化された9条(戦争放棄)が生きていた往時を偲び、供養する夢幻能と捉え、未来の視点からの平和憲法への鎮魂劇と解した。
舞台上(正面奥2階部分も使う)には踊り手だけでなく、刀を手に浪人風にただ佇む老齢の人、能の謡い方風の声を出す人、など、多様なパフォーマーが所を得て存在するが、既視感あり。老婆役が昔客演していたのを観たパフォーマンス、舞踏の芥正彦の公演(首くくり栲象もいた)、元SCOT笛田宇一郎、音楽畑ではあるが渋さ知らズ・・。何処となく箱庭な異種統合の様式の発祥は何だろう。

対照的な加藤航平と八谷しほ「VOTE!」は、若い俳優たちによる学園ドラマ。バカっぽい高校生を振り切り気味の誇張演技で演じるテンションで憲法論議をやらかすという発想で、演者が楽しそうに演じるのを見るのは楽しく、比較的まともな会話のできる主役JKと準主役JKの周りを、クラスの中心的男子、ナルシス長身男子、純粋熱血男子(ホレ易い)に、超泣き虫JK、助っ人に連れてこられたスピリチュアルなダンサーが囲む構図。
本作の仕掛けは、高校3年生の最後の文化祭で発表する芝居を「ロミオとジュリエット」ではなく日本国憲法についての劇とせよ、とのお達しが来た、というもの。伝えに来た教師が唯一の大人である。作・演出本人がアフタートークで、脚本は3回没にして4本目を上演した、との苦労を吐露していたが、書き手として困ったのはこの題材では「主張をしたくなってしまう」事だという。役者の意見も入れて書き直した結果、憲法の事を全く知らない、考えた事もないノンポリである18歳の高校生に議論させる形となった。
この設定は、ちょうどこの企画に挑戦する事になった一グループの状況に重なる。もっとも企画に参加する選択は自ら行なったのであり、高校生らは「受け身」の出発である。この「受け身」で始まる困難、つまり巻き込まれ型ドラマの弱点は、どんな筋道を採ろうと「よく頑張ったね」に着地できるが、「俺は誰の世話にもなってない」と言い張れる若者だけに許される着地。もっとも国民投票の権利を手にする生徒らも「よく頑張った」では済まなくなる、という話の筋からして成立しづらく、本作はこの甘さをうまく回避している。
秀逸は憲法の中身に全く触れずにディベート(自民党新憲法草案か現憲法かという格好)を暫くの間成立させる前半。賛成派は「賛成」という言葉のポジティブな印象をアピールし、ゆるキャラも導入、一方反対派は悲劇の主人公を登場させ同情による票を得ようという戦術。ここで冒頭、二人の女子高生が共通の想い人に接近するため「自分がジュリエットをやる」とけん制し合った伏線を活用、純粋熱血男子のマナブ君のハートを準主役(行きがかり反対派)がゲット、となる。主役(行きがかり賛成派)は絶望と怒りにかられる・・。
危ういのは、バカな高校生らの憲法論議とは言え、新憲法草案という現実に存在しているトンデモな代物が扱われ、何も知らない彼らが賛成だの反対だの言い合っている事。この現実感覚を(草案の本質を知る人にとっては)拭い切るのは難しい。やがて高校生らも「憲法の中身について何も考えられてない」事に気づき、やってきた教師にここは素直に教えを請うのだが、教師が開陳する憲法構造の理解に危うさが漂う。
芝居としてはバカな生徒=大衆が行き着く混沌を皮肉を込めて描く側面があるが、判りにくいのは、憲法論議の文脈上では教師も「愚かな大衆」の一人に見えるが、芝居の文脈でみると神の視点で生徒を揺さぶる立派な教育者に見えてしまっている点だ。
しかし作者は生徒らに最後には受け身である事をやめ、「ロミオとジュリエット」に戻って行く道を辿らせる。「○○の本当にやりたい事をやりな。それなら応援する」と泣き虫が主役JKに言い、本当の憲法論議(自由と権利についての)がそこにある事を観客に仄めかす。そしてお定まりの恋バナでの大団円、「中身」への言及は薄いが憲法エンタメとして一応の完成をみた。
俺が代

俺が代

かもめマシーン

早稲田小劇場どらま館(東京都)

2019/04/27 (土) ~ 2019/04/30 (火)公演終了

満足度★★★★

数日前に公演を知り、これは見ておくべ。と久々に早稲田どらま館を訪れる機会を得た。「日本国憲法を読む」を含む独り芝居との前情報、構えは出来ていたが、舞台造形と演じ手のパフォーマンス、テキスト、総合して想像を超えた濃さ・面白さ。
会場には演劇界の異端児A氏や俳優T氏の姿も見え、実は人脈厚い意外と年嵩の演出者?と思い浮かべたが、終演後に姿を現した萩原氏は若かった。

奇しくもd倉庫での現代劇作家シリーズ「日本国憲法」初日をその夜観たのと比較して本作がかなり「踏み込んだ」憲法評価に立っている事が印象づけられる。
表現の細部はともかく、今このように語る事が真っ当である、と感じる。自分が時代をみる見方がそこに反映されている。という事は観客一人ひとりこのパフォーマンスの受け止め方も感じ方も様々に違いない。
状況がより厳しくなり、「それ」について語らない事が「それ」を容認するという意味で背徳的である、という事態にまで至った時、つまり芸術領域に政治が浸食してきた時(できればそんな時代は来ない事を望むが)、その時どれほどの芸術家の沈黙を見てしまう事になるのか・・そんな事を覚悟しつつ、期待もしつつ、今日も芝居を観る。

ネタバレBOX

2、3日の内に見た山下残「GE14 マレーシア選挙」、本作、d倉庫の「日本国憲法」パフォーマンス(身体思考/加藤航平と八谷しほ)と、通底する舞台が続いたのは偶然もあるだろうが、それぞれ演劇的議論の新しい形が模索されている。
GE14 マレーシア選挙

GE14 マレーシア選挙

山下残

こまばアゴラ劇場(東京都)

2019/04/26 (金) ~ 2019/04/29 (月)公演終了

満足度★★★★★

観劇は過去一度だけであるが十分にインパクト有り、舞踊というカテゴリーを文句を言わせない着想で拡張し続け、ついに舞踊でさえなくとも観客に飲ませてしまう山下残が今回何を見せるのか。なぜマレーシア選挙か。超気になって出掛けた。
素材は一年前政権交替を起こした選挙で、映像もドキュメント、出演者まで当人という特殊な出し物だ。ファーミ・ファジールの出で通訳に付くのが青年団の松田弘子でこれが「出来る」故のオファーなのか俳優としてのチョイスか判らない(恐らく出来るんだろうが「実は全然喋れなくて」とかヒネリも有りな雰囲気)。

ドキュメント素材をパフォーマンスとして見せる形態に演出家・実演家「山下残」の名前が光るが、マレーシアの国政選挙への着目にも(縁もあったにせよ)山下残の影が見える。選挙運動の紹介だけをやっておりその事で舞台は完結しているのだが、我らが無名候補ファジール(アーティストでもある)の選挙活動の帰芻に関心が高まるだけでなく批評性を帯びて身に迫ってくる。彼の当選と、マレーシアの建国以来初の政権交代の実現の中に何があったのか、読み取る材料はそのプロセス。観客はその経過に身をおいて歴史的事態へ突き進む高揚に浸り、迎えた結末に揺さぶられている。
我が国の選挙、即ち政治状況の体たらくが過るが、人が何かに気付き動き始めるきっかけというのは意外な場所に眠っていてその日を待っているのかも知れない。
斬新かつ確かな仕事。

BATIK100会

BATIK100会

BATIK(黒田育世)

急な坂スタジオ(神奈川県)

2019/04/24 (水) ~ 2019/04/28 (日)公演終了

満足度★★★★

初の劇団を観るべく初の劇場(萬劇場)へ当日券狙いで向かう予定が、時間がなく断念。そうだBATIKを観ようと目的地を変え、急な坂スタジオを訪れた。初BATIK。
会場は名前の通り急坂を暫く登った所にある。鮮やかな褐色系の外観(煉瓦の塀)が目印。内部はゆったりしたロビー、観客というより利用客を迎える雰囲気。廊下を伝って奥の会場まで、途中にも稽古場らしい部屋の扉があり、劇場というより合宿所のよう。
公演会場とされた部屋はそれなりに広いが、劇場仕様ではなく天井も低い。照明は床に置いた幾つかで間に合わせていた。長方形の短辺側に三列段差の椅子席が二十数くらい。開演時刻の20時には席が埋まり、約1時間の上演が始まった。
「BATIK100会」の第1回(会)は息長い企画のスタートとしてまずまず面白い内容だった。4人のソロダンスで1時間。1曲目以外は松本じろ(g、vo)の生演奏をバックに踊る。一曲目はSTスポット「地上波」第四波で見た政岡由衣子が、練られた振付の曲を20分。2・3曲目が合わせて20分弱。4曲目が即興性ある(実際は判らないが)演奏と踊りで20分間飛ばしまくり、燃焼し尽くした体で上演は終わった。
名前だけ承知していた黒田育世振付の踊りにやっと相見え、100回の何度かは覗いてみようという気になっている。登り坂はきついが・・。

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