tottoryの観てきた!クチコミ一覧

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All My Sons

All My Sons

serial number(風琴工房改め)

シアタートラム(東京都)

2020/10/01 (木) ~ 2020/10/11 (日)公演終了

満足度★★★★

「劇作家より演出家」を自称しても劇作家色の濃い詩森氏が、今回は古典を相手についに「演出」だけをやる(正確には翻訳で「書いて」いるが..)。演目・俳優陣と相まって興味津々、日程危うかったがどうにか観劇できた。

本企画は○○劇場プロデュースかと見紛う本格的な古典戯曲への取り組みで、詩森氏が自らの「演出家」像をトラムの土俵にさらす、言わば勝負舞台。して堂々たる舞台化だった。

この作品の現代との隔たりをどう捉え、処理するか、という点では評価がしづらい。劇の「調」としては、昨年新国立研修所の成果として観たイプセン作「社会の柱」が思い出された。こちらも地元のある会社の主の「罪」にまつわるドラマ。自らの過去の「嘘」によって今は名声を手にするが、当時を知る者の帰還により転覆の危機に見舞われる展開。ただし最後に「人間賛歌」が高々と歌い上げられる。
一方アーサー・ミラーの処女作という本作は、大戦後のアメリカの片田舎の町が舞台で、地元で成功者となった事業主ジョーにも「罪」の影が。
主人公である息子(社長の)クリスは、戦死(戦闘機が墜落)した弟ラリーの元婚約者アンを遠方から呼び出して彼女への思いを遂げようとしているが、母ケイトはラリーがまだ生きていると信じて疑わず、ラリーとの関係解消を意味するクリスとアンの結婚も当然受け入れられない・・この基本構図にアンの父(ジョーの共同経営者だった)を含めた戦時中のエピソードが絡みついて来る。

作家の筆力と、場面の狙いを的確になぞるケイト役神野三鈴の(演技的)八面六臂の最大が、第二幕でジョージ(アンの兄)を迎える場面。久しく故郷を離れたジョージは弁護士となり、獄中の彼の父(戦時中戦闘機のエンジンの部品の不良品を納品して約20人の兵士を墜落死させたスキャンダルでクリスの父と共に実刑を食らうがジョーは早々と出所)に会って証言を聞いたことで激高し、クリスの家を告発しにやってくるのだが・・。ジョージ演じる金井勇次も、登場しない父親に通じるだろうあるキャラを体現し、温かく残酷で切ない。

田島亮は2012年に同じクリス役を演じていた模様(この演目が今回選ばれた理由はそれだろうか)。罪を問う道徳劇のようなラストの生硬さそのままに、クリスの演技も生硬であったが、ドラマの「目線」となる役として不問に付されるも最後には母ケイトから「あの子は何者なのか分からない」と言わしめる謎が確かにある人物。このあたりで「戦争」が彼に何をもたらしたかを(観客に勝手に)想像させる何等かの引っ掛かりが欲しかった気がする(戦争は我々にはブラックボックスだ)。

一家の主(社長)ジョーを演じた大谷亮介が、本人のキャラもあって「人物」先行、台詞をニュアンス優先でねじ伏せた感が随所にあり、結果人物の魅力を放つ。彼が「神の眼差し」からくる罪責にでなく、息子の死の真相を知って絶望するラストには、これは戯曲通りだろうか、若きケイトの前に肩で風切るジョーが現われるという二人の出会いの濃密な一瞬がよぎる。彼の唯一の倫理「家族のため」の原点であり、この世の凡そ全ての人間が「そのために」生きる現実はあるが、不良部品の飛行機で墜落死した兵士らの存在が眼中になく、それでいて情熱家に見えるジョーの人物像は、(日本人の自分には)一般化しづらいものがある。アメリカでは「こういう人いるいる」の一類型なのだろうか、先日観た「心の嘘」の北部の親父を思い出す(あれほど酷くないが)。
作品背景についてはそんな風に納得しておこう。だがこの舞台の味はやはり俳優の仕事。そしてそれを引き出した演出の仕事も記憶に刻んでおこう。

ネタバレBOX

トラムでは前も役所的で上からなスタッフ対応にげんなりした記憶があるが(知名度の高い俳優の出る公演で)、コロナ対策でも同様なのを見て「こういう時に心根が出る」と残念感が湧く。芸術を愛で、応援する同じ側としての親近感をどうも抱けない・・とは言い過ぎだろうか。
コロナ対応では(うるさ方の兄貴が本多でも見られたが)マスクを外した人間に注意する劇場内マスク警察、否監視員が食傷であった。場内の温度はやや高めでマスクをしているとボーっとして来る。マスクを下げた私をスタッフは一定時間待ったのかも知れないが、私は飲料を口にするタイミングを計っていたので、肩を叩いて来たスタッフに振り向かず即座に手で「判ってる」と対応し、茶を飲んだ。

入場時チェック=検温と体調では割り出せないコロナ感染者(最も感染力が高まるのが発症直前~2日前あたりというから厄介である)が万一、劇場に入場した場合、今は空気(エアロゾル)感染が疑えず、マスクをしていようが漏れまくりだから感染は適切に防げないという現実がある。

ではマスクは何のためにやるかと言えばくしゃみ・咳・会話での飛沫飛散防止ツールとしてである(大きな飛沫には当然多くのウイルスが含有されているから感染者の飛沫を浴びない事は大事だ)。ただ、観劇中は喋らないし咳はともかくくしゃみは滅多にない。今回の観劇では最後まで咳払い一つ聞こえなかったから、言わばマスクがその効果を(幸いにも)発揮しない2時間半があっただけである(幸いとは、くしゃみをすればマスクから微細飛沫は漏れ出て場内に漂うので)。従って、感染防止には「換気」の方が余程重要である。

マスクをつける=周囲の安心、というのが実態だが、「安心と安全は違う(むしろ真逆)」とはよく言われる事で放射能被ばくへの対応が雄弁に説明している(「危険でない」と思って気にしない=「安心」が「安全」から遠いのは自明の理)。
「マスクをしていれば感染しない」と思い込んでいる大多数が居る、という仮定の下に、「皆がマスクをしていれば安心」(互いに不安にさせない)という状況が生まれる。
一方、多くの劇場では「マスクを外した場合も咳くしゃみの時にはタオルや衣服で飛散を防ぐ、咳エチケットをお願いします」というアナウンスを流す所が多い(時とともに変遷しているかも知れないが)。これは常識的な対応だと思う。
トラムの場合はせめて室温を下げてくれれば、マスクが辛い状態は幾らか緩和されるのに、、と思いながら、背後の視線を気にして観劇するのも嫌なので、途中から鼻出しマスクをした所、随分楽になった。
だが休憩後に「マスクを着用下さい」を客席の下の段から順次アナウンスするくどさ。「マナーの悪い人間には断固対応させてもらうぞ」という居丈高は、マスク着用絶対善(安全)説に乗っかっており、こういう役所的な態度は幾ら公共劇場でもヤだなと思う。世田パブは前からこんなだっけ・・違ったように思うんだが。
風吹く街の短篇集 第三章

風吹く街の短篇集 第三章

グッドディスタンス

本多劇場(東京都)

2020/09/23 (水) ~ 2020/09/27 (日)公演終了

満足度★★★★

7月の第一弾から続いた「風の短編集」第三弾の最終日、小松台東「グレートコマツブラザーズ」を劇場で拝見。他、配信では風間&喬太郎を鑑賞。
本多で小松台東を観るのもこの企画ならではだろうし、落語も他のミュージカル系・歌舞台も企画性満載だが、この企画のスローガンは「劇場の灯を消すな」であった。だが7月当初から9月末の3か月、コロナ状況的に変化はなくとも国内の「空気」は全く変わった気がする。

さて小松台東は後から思うと舞台上ディスタンスがあり、お得意の「密」でこすれあって加熱するドラマではなかったが、程よく意表を突く笑える展開や胸熱くする瞬間もあって面白く観た。塩野谷氏をはじめ配役が贅沢かつ的確で良い。ただ人数に比して深く描写しきれず薄味な感も。既に劇団員となった瓜生氏らが宮崎弁を操る宮崎県人を演じていた。

脳ミソぐちゃぐちゃの、あわわわーで、褐色の汁が垂れる。

脳ミソぐちゃぐちゃの、あわわわーで、褐色の汁が垂れる。

オフィス上の空

シアタートラム(東京都)

2020/09/17 (木) ~ 2020/09/27 (日)公演終了

満足度★★★★

初キ上の空論。

ネタバレBOX

コロナが作家にもたらす影響をふと考えた。このユニットに寄せていた想像(勝手な、だが)と、今回の舞台との違いを見て、何かを探ろうと見始める自分がおり、「小屋がトラムだからかな」と考えが先走っている。達者な役者が物語を語り始め(百花亜季)、彼女自身を謎に括ったまま「こっち向け」とばかり、「現実世界」の二人の出会いの場面へ誘導される。一方思考は(勝手な)「想像」を裏切る様をあげつらう、例えば安定感の有馬自由氏だったり小沢道成をベタに生かす役の登場だったり。「多数の観客を味方につける」舞台の様相を「今まで本当にこういうドラマやってたのか」と疑わしげに見、本舞台はメタモルフォーゼか番外編かと批評家面の斜め目線を注ぎつつ、照れくさい恋愛話に既に乗っかっている。
肉付けを削げばさして変哲もない、というのも何だがただ惹かれ合った男女が「ただ惹かれ合った」というだけの関係を正当化するまでにあれこれと時間を費やす(現代らしいといえば現代的な)恋愛譚であるが、恋愛を「よきもの」でなく「生物の生態」として描くのを好む私がうっかり、主役達の恋を応援する体勢をのっけで取らされてしまった。

人物らは「異色」揃い。何かとカテゴライズされる者とカテゴライズされなくとも濃淡様々なグラデーションを示す個性が配される。恋愛の方は別カテゴリー同士が正体を知って引き合う(「引く」は今時の用法)という問題設定だが、基本「異質」とその理解者しか出てこない(理解の度合いに大小あるが)。また欲を言えば主人公の「扮装」は2パターン欲しかったが(あまり関係ないか..)、現代「らしさ」を役者の演技のディテイルで彷彿させる貢献あって「いい感じ」の空気感が出来ていた。

3ヶ月「何もない」二人。ナレーションは「二人は会う度に暗くなっていった」(互いに隠している事があるから」と告げ、物語は動き出す。そこは女の方が「私たち、何もないじゃん」と言い寄る瑞々しいシーンであったが、時間経過後の展開の飽きさせなさは作家の工夫の賜物だろう。ただ冒頭熱情をもって「初恋に落ちた」と吠えた男と、付き合って3か月後にその台詞?と思うが、セックスを忘れる時間を過ごせる二人の関係を想像して「あり得る」と思えるキャラが、後半戦で開陳される二人の実像に重なるのも良い。

ところで恋愛指南役を買って出る希少種、社会学者宮台氏が、ここ最近よく用いる語「クズ」(人間の部類)が、悲しいかな劣化社会の趨勢を先導する中で、「自分は正常を保てているか」のバロメータは端的に「異質」と向き合えるか、だと思う。
本作は「異質」をドラマ上の謎として中盤まで引っ張り、その開陳後(人物らに「異質」と遭遇させた後)、関係構築に中々の「現実に即した」時間を使う。ここの時間のかけ方に作者の愚直なこだわりを見るのは安易かも知れぬが、二人の心境と思考の過程は「想像にお任せ」とせず時間経過を台詞によって埋めて行く。真の恋愛の成就を作者は目指したのだろう、とはこれも勝手な想像。
「普通こうは行かない」夢物語にも見えつつ、気分よく見終えた。やはり周囲の人物各々に魅力があり、欲を言えば脇役達ももっと肉付けられ群像として見えたかったが、役者がよく演じ、あり得るキャラを見せてくれていた。

ドラマ上気になったのは高校時代に出会って以来主人公(男の方)の心の師であった「先輩」が、「じつは無理していた」との告白は価値観崩壊(なぜならあけっぴろげで何も隠さない生き方に憧れたと主人公は言っている)。現在の主人公の、これに見合う反応があったかどうか・・この場面での主人公を作者はもっといじめて(苦悩させて)良いのでは・・と思う所。
なお箸の場面はしっかり笑いを取っていた。
末摘花

末摘花

オペラシアターこんにゃく座

俳優座劇場(東京都)

2020/09/08 (火) ~ 2020/09/13 (日)公演終了

満足度★★★★

コロナ明けのこんにゃく座初観劇。演目の独特さは別にして、こんにゃく座公演としては、コロナ前との違いをあまり感じなかった、それは間引かれた客席の寂しさを忘れて舞台に見入っていたからで、これがこんにゃく座舞台の観劇なのだったと気づく。節の付いた台詞は、文節の区切りまで聞かなければ意味が通らないから嫌が応にも注意を舞台に振り向けざるを得ない。という意味で、再びこんにゃく座の舞台が戻ってきたと感じた由。ただし終演後の拍手量で現実に引き戻される。
本作は寺嶋陸也氏が他団体に書き下ろした楽曲(オケ用)との事だが、パンフには原作「源氏物語」とだけで脚本執筆者の名がない。台詞が美しく、趣深いので知りたくなったのだが。
パンフを読めば、この演目は高校演劇ではお馴染みらしい。源氏物語の中の一話だが、はっきり言ってしまえば、男女同権が常識である現代の感覚では「不実」で「未開」で「理不尽」な社会は遠い昔のもの、というかそう思いたい。光源氏の寵愛に全面依存した没落貴族の話などまともな神経では見ちゃおれない・・はずなのだが、なぜか身に詰まされ、笑えた。
父を亡くし家長となっている末摘花は光源氏の寵愛を受けたとされるが、現在この男は遠い明石に居り、屋敷の者(乳母、お付の女中=侍従、家内を取り仕切る宰相、その下で働く右近、左近)は普請も朽ちて寒いのにも耐えて源氏が都に呼び戻されるのを待っている。一方、寵愛の噂の真偽に疑念を抱く者、根を上げて屋敷を去る者あり。ある日、今は俄か成金となった男に嫁いだ叔母(末摘花の亡母の妹)が侍従(実は乳母の娘)を雇いたいと申し出る。過日は当家で代々受け継いだ由緒ある道具類を「買い取ってもいい」と言伝をよこした。そんな中、末摘花は鼻先の垂れた醜貌でも気品を湛えて真心を忘れず、気高く振る舞う家長を(家中の者に)演じている。源氏を想う末摘花の芯は、男性依存なのであろうか・・これは「源氏が来るか来ないか次第で見え方が変わる部分なのだが、「そうではなかった」(と結論できる展開が待っている)事実とも相まって、この気丈な女性がある魅力を湛えてくる。この人物像は、例えば忠臣蔵の大石内蔵助にも通じる。要は家長でありリーダーである末摘花が的確かつ温情ある判断で家内の者に対するのを見るにつき、少しずつ、最初は外見や口調で判断した外皮がはがれて、その人となりが顕われる。こういう体験は何時以来だろうか。末摘花の存在が最終的にこの作品の魅力。

Crime-2nd-

Crime-2nd-

Sun-mallstudio produce

サンモールスタジオ(東京都)

2020/08/26 (水) ~ 2020/08/31 (月)公演終了

満足度★★★★

書き忘れ。配信観劇は全体記憶が薄れやすいようだ..。
Crime第一弾は観ておらず、2ndは配信に間に合って鑑賞できた。
犯罪にまつわる短編3つで2時間、各組頑張ってクオリティを高め、第3弾への期待に繋げたという所だろうか。記憶を掻き起こして一応感想を。
一つ目、女性記者によるインタビューで構成。人物の周囲は闇(道具は椅子のみ)、拠り所は言葉のみで何度も意識が飛んだ(疲労のため)。が、概ね事件のアウトラインは掴めた。闇サイトで出会った面識のない3人の男が不法に金品を得るために集まり(「志」ある者が三人寄れば文殊の知恵とでも考えたのか)、計画の詰めは甘く予定外の展開に場当たり対応に終始し、最後には殺人という結末を迎える。旧日本陸軍の暗喩(実話だが)にも見えた。
二つめはいじめ自殺事件の生徒の担任、生徒指導教員、女性教育委員(か教育長)、いじめた生徒の親(ともう一名居た気がする)による会話劇。この事件が話題になったのは教師が生徒のいじめに参加していた事。脚本では事件は、「パッとしない」教師が生徒に誘われ喜んでうかうかと参加したらそれが自殺した生徒の「葬式遊び」だった、と語られる。この事実を伏せようとする教育委、同情から隠ぺいに傾く指導教員に対し、良心の呵責に苛まれる担任は・・。(The Stone Ageブライアント・鮒田直也作←注目)
三つ目は高橋いさを作演出による、凶悪殺人犯に面会に来る被害者遺族(父親)のエピソードで語り手が刑務官。恨みつらみをぶつける事なく温和に季節の会話などをする遺族と、面会者に「感謝してます」を絶えず口にする受刑者の、激する事のない会話の片鱗に「事件の涙」を想像させるうまい設定。死刑囚への肉親以外の面会は例外措置だった、という事でやがて最終面会日が迎える。
犯罪に眉をひそめながら被害者遺族の各様の思いを知ろうとせず、厳罰化を口にして溜飲を下げる風潮。世知辛い時代には「他人を利用する」エゴが増殖するが、これも「利用」の仕方だろうか。作家の執筆動機は知らないが、ステロタイプな「被害者」像に対するアンチテーゼが、社会派な気配を消しても読み取れた。

心の嘘

心の嘘

劇団俳優座

俳優座スタジオ(東京都)

2020/09/04 (金) ~ 2020/09/20 (日)公演終了

満足度★★★★

休憩挟んで2時間40分とのアナウンス。コロナ下では少人数、短時間に傾きそうな所「おーよくやるな」と思う。もっとも観客としてはディスタンス規制により座りやすく、荷物も置きやすく、2時間半超えでも乗り切れると思える。そして開幕以後はアナーキーな台詞や展開も空中分解せず、芝居はラストまで無事運行した。
以前俳優座5Fでの翻訳劇を(型どおりの外人演技の濫用で)忍耐で観た記憶があるが、今回は俳優がある微妙な線を出している。狂気や狂気に触れたリアクションを応酬しつつ正常に戻らぬまま飛行する劇の「正解」のない演技も、何かが狙われており、その結果「心の嘘」の一つのあり得る形が提示されたと見えた。演出がどんな言葉で何を俳優に要求したのか大変に興味がある(どんな舞台もだが)。
その問題のドラマ。後で調べると1985年初演とある。この劇が普遍的かという議論をすれば、「アメリカ社会と歴史」という要素を我々はカッコに入れて作品を見ており(見ることが許されており)、だから海外のものは何でも(特にアメリカ産と聞くだけで親近感を持つし)「普遍性のあるドラマ」と錯覚しそうだ。
だがこのドラマでは、人間の相互理解や関与し合う「力」が、機能不全となった悲劇が終始描かれる。悲劇は時代性と不可分である。彼らを包囲するものを告発する意志が作者の筆に宿っていると推察できるから。何に対する告発なのか、そこは分からないが。。

ゲルニカ

ゲルニカ

パルコ・プロデュース

PARCO劇場(東京都)

2020/09/04 (金) ~ 2020/09/27 (日)公演終了

満足度★★★★★

リニューアル前も足を踏み入れた事のないPARCO劇場を見たさに、とはこじつけで、専ら長田女史のこの題材は必見と大枚はたいて観劇した。

序盤にも関わらず俳優の台詞に宿る感情、というか、それらで構成される場面が細密で、栗山演出の力量だな、と感じ入る。
盆を使った装置転換と照明を使った心理的な場面転換、殆ど前面に出ないが深層に響くような音楽、俳優はその上に配されている印象だ。
氏がよく使う象徴的な大型装置は、今回バトンで吊られる赤い布。近い質感の、古紙を模したような大型パネルも転換時に舞台上に躍動する。肌合いはバスクの村の家々の土壁にも通じていそう。冒頭舞台奥に横一列並んだ俳優たちのシルエットに浮かんだ衣裳からして濃厚に「異国」が香り、かの地での物語が始まる。
布はある場面で意外な使途で登場し、ここでも栗山演出の存在感を見せるが、私の中では他ならぬ「スペイン」を意識させる音楽に琴線を弾かれた。

やがて来る無差別爆撃までの村の時間は、長崎の原爆投下までの「無辜の人々の日常」を描いた『明日』とは異なり、ゲルニカの村もスペイン内戦を闘う当事者である(戦争当時の日本人を全くの無辜と言い切れるかは議論がありそうだが)。とは言っても、「その瞬間」の到来を予め知っている観客(ほぼそうだろう)が見ているのは、内戦中でも確かにあった人々の日々の営みである。上白石演じる主人公=平等社会の理想に開眼した領主の娘は、男らが戦闘に身を投じていくのと対照的に、生きる日々の選択に真剣である。
脚本には長田女史の劇作家の円熟が随所に光る。創作としては爆撃の日までの道程に盛り込んだゲルニカ領主(今は亡き元領主の未亡人)のエピソードが効いている。ゲルニカの良心たらんとする領主の選択と変節の場面(詳述せず)。
冒頭の横一列の村人の姿は冒頭含め3度見られるが、正面に向かい前進しながら歌う歌は、ジプシーが育んだフラメンコを彷彿させる節である。拍子は鼓動、絞り出す声は心臓の吼え声。生きる事が常にレジスタンスであった民族の歌は惨劇にまみれた人類史を「生きる」我々を鼓舞する。俳優諸氏の歌唱の流儀は異なったが「地」の声が聞こえ、私はこのラフ感が気に入った。
ピンポイントで登場した映像も大きな効果を上げていた。
(語り足りぬ諸々はまたいずれ。)

風吹く街の短篇集 第二章

風吹く街の短篇集 第二章

グッドディスタンス

「劇」小劇場(東京都)

2020/08/26 (水) ~ 2020/08/30 (日)公演終了

満足度★★★★

配信にて2作品「隣人のおっちゃん。と、」「水の孤独2020」を鑑賞。
前者は張ち切れパンダ・薩川女史と怪優有薗氏の二人芝居で、ほぼ「無縁」な者同士であった50歳以上のおっちゃんと30代女性が、男が泥酔状態で間違って隣の部屋のドア前に陣取ってしまう出来事によって遭遇し、「異性」を相手に感じる要素ゼロでも続く会話の果てに一瞬心が触れ合うようなそんな話。
後者は池田ヒトシ&松岡洋子による、震災(津波)で夫を失った妻が夫の霊と9年ぶりに遭遇する話。津波にまつわる数ある(に違いない)エピソードの一つを描き、シンプルな台本ながら「2020版」として書き加えたらしい一節が9年前の惨事と「今」を見通す視線を与え、コロナの喧噪にかき消されがちな「命」のありかを感じさせる(思いの外)良質な作品であった。

スモール アニマル キッス キッス

スモール アニマル キッス キッス

FUKAIPRODUCE羽衣

吉祥寺シアター(東京都)

2020/08/28 (金) ~ 2020/09/07 (月)公演終了

満足度★★★★

久々に羽衣妙ージカルを観たが、最も完成度が高く感じられたのは何故か。総勢15人全てにメインキャストとなる小エピソードがあてがわれ、10個程あったろうか。曲に乗って描かれる色恋にまつわるエピソードは、人間と小動物が半々位。曲+歌には好みもあるが場面に即しており、秀逸なものが幾つか。振りと曲のマッチングもさすがだが、踊り手もいい。
今回の特徴は「口ぱく」との事。最初離れた男女が呼び合う声に違和感あり、奥の女性が生声、手前の男性がマイクを通したこもった声に聞こえ、確かに喉も枯れていたので窮余の策かと思えば、他もマイクの声である。そこで「なるほどステージ前面では録音を使い、感染症対策としている」と納得。だがよく見ると殆どが口パクである。
場面は音曲とダンスが基本構成要素なので、歌は音楽に乗せて録音できるが、ただの台詞は合わせが大変である所、よくやっていた。それにしても録音は声のテンションと身体状態とのギャップを生むが、臨場感ある録音の声に身体が付いていく。稽古の賜物か。またエピソードが少人数ごとなので稽古参加人数も制限できたに違いない。
さて今回感じた優れた点は恐らくこの「口パク」が理由だ。というのも生声であの動きを全力でやるのは無理である。録音だったからこそ身体パフォーマンス(口パク込み)に専念でき、質を高めた。コロナ対応のためのアイデアが舞台上でもうまく機能した訳である。演じ手と語り手の分離は宮城總のお家芸だが、この手法の利点に通じる。
糸井氏演出による「摂州合邦辻」の再演も嬉しい。

ネタバレBOX

劇中でフランクザッパを彷彿する楽曲が流れたが(確かこの芝居だったと思う)、曲のエッセンスを場面のニュアンスにうまく反映し少なからず喜悦。糸井氏の守備範囲の広さを改めて。
BLACK OUT

BLACK OUT

東京夜光

三鷹市芸術文化センター 星のホール(東京都)

2020/08/21 (金) ~ 2020/08/30 (日)公演終了

満足度★★★★

作演出の名もユニット名も初、星のホールのNEXT COLLECTION(注目の若手)にしては小劇場の実力派を揃えており、評判も良いのでコロナ後初の三鷹(最遠方)へ足を運んだ。
小劇場演劇界のあるあるを超えて当事者だから書ける生々しい逸話が、2月後半あたり、つまりコロナ事態の迫る状況を背景に展開し、フィクションながら(観劇屋として)身に詰まされるリアルなドラマであった。
作演出を夢見る(まあまあ書ける)主人公が、「仕事はあり金にもなる」演助のオファーを受け、夢と天秤に掛けて手堅い将来像を思い描くあたりは切ない。
芝居の大部分はあるプロデュース公演の稽古。映像の仕事にかまけて?ブランクのあった鬼木が久々に舞台の仕事を受け、企画段階とは異なるコロナを題材に自分としては満足の行く台本で挑もうと意気込み、先の主人公も制作担当である旧知の女性の声掛けで演助に入っている。所が問題発生、観客の7割を動員するだろう事務所所属の若手俳優が台本に異論を唱えた。「今苦しんでいる人がいるのに何故コロナか」(彼なりの真剣な意見)。一度疑問を呈して黙ったが、いつか答えが解るだろうと思ってたが未だに理解不能と彼は言い、説得に失敗。結局鬼木は台本を書き直す事になる。「バイトのつもりで頑張る事にするよ」と主人公にこぼす鬼木。
物語は、主人公の「作演出者への夢」と「演助への期待度が高い現実」の葛藤の構図の中に意味づけられながら展開する。「夢」の片隅にいた制作の女性が実は婚約していて妊娠中、最後の仕事として鬼木の作演舞台を企画した事が後に判ったり(主人公は彼女と大学時代から演劇を作った仲で自分の夢も語り共有してくれていると思っていた)、演助を受ける代わりに鬼木に自作を渡してもらうよう依頼していたが今の仕事の中で渡すタイミングなく過ぎていた頃、別のルートから作演オファーが来て舞い上がる。一方「コロナ」から「不倫」をテーマに変えた鬼木の舞台は転換手順の検証など粛々と進み、主人公は演助の役割を見事にこなして信頼を得るが、作品の「中身」は観客には伏せられている。そこで主人公による舌禍事件発生。確か照明スタッフとして稽古参加し気安くなった声力のある女性に、つい通し稽古の感想を漏らす。相手は「演助」としての彼に「うまく行った」感想を期待したのだが彼は首を傾げ、「え、え、何、問題あった?」と突っ込まれて「正直自分がやった方がうまく行く気がする、台本も含めて」と本音を漏らす的にこぼす。「お前がそれ言ってんじゃねえ!」と一刀両断された直後(この先が「通常ない」だろう展開だが面白くなる)、稽古場の片隅でのこのやり取りに気づいた鬼木が、記録のために録っていた主人公のレコーダーを見つけ(このかん主人公は手も出せない)、会話の全てが全員が聴く中で再生される。次に主人公がとった行動が哀れで滑稽で、普通なら脇役に振られる類の中々なシーン。「演劇界」で生きて行こうとする彼の本心が実力者鬼木にすがりつき己の非を詫び、受けたオファーも断ると宣言するという行動へと突き動かす。つまり演助として「食って行く」道を選択したと見えるのだが、同時に「作演出」を貫く器ではない、との周囲の評価そのままが露呈した風景にもなる(自分を対象にしなければこうは書けないだろう)。が、主人公がオファー元に電話をした携帯を鬼木が取り上げ、「彼、今酔っぱらってるんです。仕事、とても喜んでまして。では」と相手に言って切る。それをきっかけにだったか、主人公はついに自分の本音に居直り、コロナの芝居の方が断然面白かった事、新しい台本がつまらないゆえに通し稽古もつまらない事、皆がそれを指摘しない事の欺瞞を吐き出すように言う。この瞬間は一旦突き落とされた地獄(世間)から、かつて魅せられ信じた演劇に対する思い(己にとっての真実)に踏み止まった瞬間とも言え、胸を掴まれる。鬼木は「面白くないと言われれば、謝るしかない」と頭を垂れ、「面白くないのなら面白くするしかない」と彼に稽古の進行を頼む。周囲は再び稽古に戻って行く。
もみくちゃになりながら舞台を作ってもコロナには勝てなかった結末を含め、演劇製作者へのエールになっていた。

ひとよ

ひとよ

KAKUTA

本多劇場(東京都)

2020/09/03 (木) ~ 2020/09/13 (日)公演終了

満足度★★★★

初演から9年。題名から舞台風景がすぐに浮かぶレアケースだったが、笑い所豊富であるのは記憶と違った。初演時は震災の記憶が未だ生々しく、笑いのある日常を背景(地)に、不穏要素が「図」として強調された、のに対して今回は(確かに脚本もそう描いてあるのだが)不穏な事情を背景とし(て利用し)、笑い待ちの観劇となった。
恐らくコメディエンヌにしか見えなかった主役渡辺えりの演技の影響も(本人は大真面目だと思うが)。本来なら物語そのものが問う「果たしてそれはあって良かった事なのか」という、ナイーブな問いが全編通じて波寄せるようでありたかったが、渡辺女史の逼迫振りを示すような噛みトチりは「コメディ的には」どうにかクリアしても、役の裏面史的にはどうだったか。聞けば前日が初日で、観劇日は魔の2ステージ目・・という問題ではなさそう。
役の女性は、渡辺本人と重なる要素はあるが、私には真逆の人物像に感じられる。「言わずにおれない」渡辺えりがあの行動に出る事は想像しにくい。男女同権の思想や女性のマイノリティ性の認識や自意識からではなく、言葉で状況が変えられないと悟ったからこそ家族のために「行動」を選択した一個の女性であり母親。それがこの芝居のヒロインである。
言わば自己犠牲・忍従の方に情熱を傾け得る古風な人格が、渡辺女史の演技に宿るか否か。。
社会の制度や風潮の変革を訴えることをしない代わりに、ヒロインは愚直に己の考えから割り出した「正解」を実行し、法が定める善悪を相対化した。そこには聖性が宿る危険もある(「危険」とは世間一般の価値基準によるが)。
芝居の方は母親が去った後も続けられていたタクシー会社を舞台に、様々な人間模様が展開するが殆どが男女関係に帰結し、親子関係が絡む。ヒロインの家族以外の人物は悲喜こもごも、人生あるあるを辿るのに比して、中心となる家族の事情はやはり特殊だが、両者がタクシー会社という場所で共存しているのが不思議である。従業員や関係者がある程度「過去」を知っている様子であるのも(やや曖昧に見えた部分もあったが)不思議なバランスで、この日常の帰趨には興味がそそられる。
KAKUTAお得意の笑いは吃音の長男(若狭)の妻(桑原)、男性目線では中々こうはフィーチャーされない「面倒くさい女性」キャラをうまく(可愛く)カリカチュアして見せていた。主人公が旅先で助けられた外国人のキャラ作りは(訛りも含め)芸の域。新米ドライバーの弟分だった男と恋人のカップルが訪れ終盤波乱を起こすが、主人公(母)の存在自体が波乱要因であり、このコミュニティの耐性を与えている。
この場所に横たわるぎこちなさや欠落が、言葉を当てられる事で埋まり、皆に収まり所が与えられ、芝居は終わる。シェイクスピア喜劇がフィナーレにもたらす統合は、戯曲がかくありたいモデル。KAKUTAらしい作品と言える。

ネタバレBOX

震災の年の秋に打たれた芝居。事件が脚本に反映されたのかどうかは分からないが、作者は観客をエンパワーしたかったのには違いない。
その翌年の芝居は、現実的な「苦」の背景が希薄で、それでいてウェルメイドな出来であったのにやや失望した。その思いをアンケート用紙の表裏に書き殴った。・・震災と原発事故は未だ終っておらず、痛苦を踏まえない舞台上のハッピーなど信じる事ができない。「見ない」事で得られる安心・安楽を提供することが演劇の役割だろうか?、少なくともKAKUTAが目指すものだろうか・・。そんな風な事を書き、要望を伝えた。その次の新作が『痕跡』。アンケートには謝意を記さなかったが自分に応えてくれたかのように嬉しく報われた思いがした。
演劇界(又は演劇評論界)で名を上げる作品と、劇団の客のニーズとはズレがある事だろうがそれでも演劇が果たすべき(その才能があるなら使うべき)役割がある、と考える。
KAKUTAを最初に観たのがNHKシアターコレクションで取り上げた『目を見て嘘をつけ』(筒井真理子主演=ゲイだったか性同一性障害の男性役)であったが、この時は「社会問題を扱いながら笑えて泣ける舞台を作れている」と絶賛した。が、笑えて感動で終る「エンタメ縛り」に陥っていないか?という一抹のハテナも頭を掠めたのを覚えている。そしてその一年後に震災が起きた。その秋の『ひとよ』は前作に比べ深刻度が増したがそれでも自分としてはウェルメイド(エンタメ)性が維持されている点にネガティブな印象を持った。『痕跡』『愚図』『らぶゆ』と犯罪絡みの作品が続くKAKUTAは、今も性分としてのエンタメ性と使命としての社会性の狭間に揺れていると勝手に想像している。
風吹く街の短篇集 第二章

風吹く街の短篇集 第二章

グッドディスタンス

「劇」小劇場(東京都)

2020/08/26 (水) ~ 2020/08/30 (日)公演終了

満足度★★★

村松恭子企画・演出(初?)によるアラバール3作品を観劇。「風の短編集」は第一章を逃し、第二章を楽しみにしていたが、今回劇場で観たのはこれのみ。生で観る演目に選んだのは、アラバール作品が難解そうだから(あと赤松由美出演もあったが降板していた..T_T)。ところが一つ一つの短編はむしろ分かりやすく、60~70年代だな~という感想で、つい最近観たアラバールの監督作品『ゲルニカの木』の「分かりやすさ」に通じた。村松女史がこの演目をなぜ選んだのか、の方に興味が湧く。舞台化という面では、戯曲を書かれた当時の文脈から現代(というより現コロナ状況?)に植え直すことが出来ておらず、見るに少々厳しいものがあった。合計で1時間に収まる3つの短編はそれぞれの「舌足らず」、即ち書かれた(上演された)当時なら説明不要だったろう何かが「要説明」となっている訳である。村松女史の中に何か恐らく思いはあるのだろうが・・処理しきれず消化不良。

ネタバレBOX

内戦突入したスペインでフランコ将軍指揮下に入った(協力した)ドイツ軍が殺戮を行ったゲルニカは、バスクの自治地区として平和を象徴する歴史上特別な土地だったらしい。今公演の同名作では、爆撃の中で「日常」のやり取りを続ける老夫婦の会話が書かれていた。同著者の「戦場のピクニック」が砲弾飛び交う息子を訪れた両親とのちぐはぐな日常会話という、明確な風刺であるのと重なりそうだが、芝居自体は爆撃が徐々に苛烈になって行くとともに「劇的」要素を高めるという、真逆なニュアンスが込められてしまっていたのが多分「そぐわなさ」を感じた理由に思う。
いずれにしても難しい題材を選んだものだというのが正直な感想。
フランドン農学校の豚/ピノッキオ

フランドン農学校の豚/ピノッキオ

座・高円寺

座・高円寺1(東京都)

2020/08/28 (金) ~ 2020/10/03 (土)公演終了

満足度★★★★

佃脚本の「観たかった」作品。座・高円寺の「劇場へ行こう」シリーズで継続的な上演(毎年)を行うレパートリーの一つであるが、子ども連れも結構多い会場で一番手ごわい観客相手に舞台は健闘していた。
観てみると宮沢賢治作品のテーマが明確な「生き物を食べること」に関する考察的寓話と言ってよいくらいであったが、説教臭くなり兼ねない題材を、正当なラストにまで持って行く音曲多用した演出、演技は申し分ない。60分。

無畏

無畏

劇団チョコレートケーキ

駅前劇場(東京都)

2020/07/31 (金) ~ 2020/08/10 (月)公演終了

満足度★★★★

リアルタイム配信(その後アーカイブ鑑賞1日可)のみ。上演は駅前劇場。劇チョコらしい芝居が観られたが、配信での観劇「体験」は濃度として薄いためか、観劇した事を暫く忘れていた。見ている間は興味深く物語に入って行ったが・・。
(元々配信時間14時には観る事はできず、夜中に見るつもりであった。が、途中体調による睡魔に襲われ、翌13時まで危うかった。助かったのは「読み込み」によって期限を過ぎても見続ける事ができたこと。不明点を見直したり、十分堪能した。)
松井石根という唯一「政治家でない」処刑されたA級先般の名前は耳にしていたが、日中友好を願う親中派であった事、南京での無法な兵士の所行に怒り軍規引き締めを通達した等は「虐殺の司令官」イメージとはかけ離れ、どの程度事実が反映されたかは不明でも人物としてのリアリティはあった。むしろ「善意」の決断が結果的に何を招来したかを考察する適材を与えている。
戦後巣鴨プリズンの彼を訪ね真相に迫ろうとする弁護士(西尾友樹)と松井(林竜三)が舞台の後半、何気に30分を超える(測ってないがもっと長いかも)息詰まるやり取りがある。弁護士は「何故こうなったのか」「何を誤ったのか」の問いを、手を変え品を変え松井に投げて行くが、松井が自分を支えていた「善意」なるものの確信が揺らぎ、支えを失ったそれを差し出し裁きに委ねるまでを台詞にした脚本、命を吹き込んだ俳優に感服した。

イヌビト ~犬人~

イヌビト ~犬人~

新国立劇場

新国立劇場 中劇場(東京都)

2020/08/05 (水) ~ 2020/08/16 (日)公演終了

満足度★★★★

長塚圭史作演出の舞踊ドラマシリーズ(という名称ではないが)。パンフによれば「子ども向け」と。まあそんな感じだが、子どもの目に適う作品は大人の平均的評価を凌駕する、と考える自分にとって「子ども向け」とは「通常より高い作品レベルを目指す」と同義である。だから「子供向け」という概念そのものに意味を認めない。
舞台を観ながら、過去の新国立長塚舞踊子供向けシリーズを思い出したが、過去作よりもストーリーが通っていて、舞踊畑の演者たちの俳優振りを見た印象。面白い場面もあった。見ると俳優陣の(知名度的な)レベルが高く、コロナ禍に結集といった裏物語が匂い、それに乗っかりやすい観客層の「3コール」も予測済みのようであった。
物語を思い出すと・・何年か前に流行った伝染病(狂犬病)が理由でイヌが排外されている町に、ペットのイヌと一緒にある家族が移住してきたというのが始まり。私の理解が追いつかなかったのかも知れないが、「差別・排外に遭う種族」として設定されたイヌまたはイヌ族が、コロナ禍の現在に排外される「何」を象徴したかったのか、いまいちピンと来なかった。コロナ感染者への差別が、コロナが終息すれば無くなるものでなく人間の本質に根差すもの、というあたりの考察だろうかと思うが、私などは人間存在にとってのコロナ禍は、「それを嫌悪・排除する」という態度に隠れて表出されている「何か」を見る事で浮かび上るものと考える。そうした洞察を促す知的な要素が(子供向けだから回避したのか?)物足りなかった。
中劇場での長田佳代子の装置は幻想的で壮観であった。

ネタバレBOX

岩淵貞太が主要な役の一つ、主人公がかつて飼っていたらしいイヌの亡霊を演じ、犬の鳴声(発声)も本域で俳優していた。
彼はイヌが亡霊となった集団の一人として存在するが、その世界に迷い込んだ元飼い主(恐らく)がそれに気づいて声を掛ける。人間を敵視する彼らの一人である彼は始め激しく吠えているが、徐々に近づき、最後に手を差し伸べ、手を繋ぐという瞬間になる。
この場面は終盤の見せ場だが、少々勿体ない感も。
「接近」の時間が長く(客の一人の子どもが上演中ボソボソと喋るのが聞こえていたが、この時は「長い」と速攻コメントを発していた)、ある芝居での類似の場面が感動的であった事を思い出し、比較してしまった。
TOKYOハンバーグ「KUDAN」では原発に近い被災地に放置された動物たちと暮らす一匹の犬が、避難の際に見捨てた事を謝りに訪れた元飼い主と対面する。「う~~」と唸り警戒心を露わにし、吠えもするが、ある瞬間ガッと走り寄って飼い主にむしゃぶり付く。人間との間に濃厚な関係を築いた犬の、心情を思わせる造形があったが、今回の場面では、彼は犬ではなくイヌ族として二足歩行をしている(元飼い主に接近するときはワウワウと鳴きながら四足移動していたが..)。警戒を解いて歩み寄る時間として「手を伸ばして相手が握るのを待っている」意思表示、即ち片手を相手に向けて差し出し近寄る、という経過があるがここが長い。相手(松たか子)が手を握って来る、というこの瞬間が一つの頂点な訳だが、遠目に見ると伸ばし合った手が握り合うという瞬間の視覚的な盛り上りが今一つ。松たか子にむしゃぶり付く、というのは演出上(タレント事情的に)出来なかったのか、と想像しなくもないが、犬と人間の関係であった過去に戻るのでなくイヌ族となった(人間の思考を持った)現在の彼との関係の取り結びとなっているのが、どれほど意味があるのかよく分からない。
阿部海太郎の音楽(歌もあり)、舞踊のレベルも高いと思ったが、ストーリー重視の演目としては、しかもコロナ状況に打ち出すものとしては、この物語に暗鬱からの光明は見出しづらかった。
フィジカル・カタルシス【THEATRE E9 KYOTO公演中止】

フィジカル・カタルシス【THEATRE E9 KYOTO公演中止】

小野彩加 中澤陽 スペースノットブランク

こまばアゴラ劇場(東京都)

2020/08/15 (土) ~ 2020/08/24 (月)公演終了

満足度★★★★

アゴラ観劇二発目。一発目の屋根裏ハイツ(の中村氏)と昨年利賀Cで決勝対戦した一方がここ。
結成間もないユニットに(HPを見ただけで)注目したのが一年半前だったが、その後中々の頻度で公演を打つも実際に観たのはアゴラ公演一本。思考優位の試行まだまだこれから、との感想に止まった、
だが2018年初演の今作はアグレッシブな製作で最後まで凝視させるものがあった。
台詞無し、身体パフォーマンスのみ、音楽の伴走なし、背後のディスプレイに同じ(ようで同じではないが)パフォーマンスをアゴラでやってる映像が流れ、録画の音が環境音のようにザー、と鳴り、換気の音のようでもあるが時おりの電車通過音も含め「音」が場を規定していると感じる(うまく使ってるという事か)。踊り、ムーブ(縄跳びやバスケ、アスリートっぽい動きが基調)は音楽の伴走の代わりに環境音に呼応する事で成立している模様。
何時しか始まり四名が入れ替わったり共演しながら予想を裏切りながら動力は加速し、上手奥のシンセドラム(パットは一つのみ)で中盤オフテンポな刻みを伏線に終盤インテンポの刻みがビート感を高めての最後の裏切りが生歌、初演作成の曲と今回の新曲を左右の壁に向かって唄う(コロナ配慮)。音楽に弱い私ではあるが、あの曲を知り尽くしたような花井のドラム(後で聞けば作詞作曲者だから当然ではあった)、演者の荒木、古賀による歌と、マルチ振りに感応。
注視させる「動き」が最大のテーマだが解説困難につき今日は割愛。

『とおくはちかい (reprise) 』『ここは出口ではない』【京都公演公演中止】

『とおくはちかい (reprise) 』『ここは出口ではない』【京都公演公演中止】

屋根裏ハイツ

こまばアゴラ劇場(東京都)

2020/07/23 (木) ~ 2020/08/02 (日)公演終了

満足度★★★

「とおくはちかい」・・案内された客席のライトが暗く、「被災地の旧友の部屋を訪れた時の会話」とのパンフの説明を読めていれば、「この話の先に何があるのか」の疑問符に意味がないと悟り、それとして観る事ができたのに・・と悔やんだ。だが何にせよ声が小さい。聞こえるか聞こえないかギリギリを狙う事で観客の集中力を引き出す戦略は、結果的に聞こえなければ意味がない。リアルな小ささでなく、敢えての小ささを感じ、その無意味さに苛立った。特に聞いてほしい話題でもないから聞こえなくて良いのであれば、やらなくて良い。
「ここは出口ではない」・・これも声が小さい。男女2名ずつ4名だが女性1名はタブレットのリモート出演。男の彼女(または妻)で、男が台所で物を探そうとして女が「見せて」とタブレットを台所に持ち込むよう指示し、探してやるという事をやっているので、芝居の中でも「リアルにリモート」の状況だと分かる。が、やはり本来は酒の場に男女2組が居る臨場感をベースに書かれた本だろうと思われ、もう一人の女性が実は幽霊で、という意外要素が普通にリアルな場で起きている落差を楽しみたいところ、顔も姿も見えないリモート人格の参加はやはり存在感も半分。
で、その彼女がタブレットから発している結構大きな音量に対して、男がまた「ギリギリを狙う」小さい声を出すのである。普通相手が出してる声量に合わせた会話になるだろう、と突っ込みたくなる。
昨年アゴラ劇場を予選会場として2組を利賀に送り出した「利賀演劇人コンクール」で、優秀賞をとった中村氏であるが、本年度のアゴラ劇場の幕開け公演は、地味なものになった。

フライ,ダディ,フライ

フライ,ダディ,フライ

劇団文化座

東京芸術劇場 シアターウエスト(東京都)

2020/08/06 (木) ~ 2020/08/16 (日)公演終了

満足度★★★★

文化座が10年程前に上演した「GO!」の著者金城一紀の原作小説の舞台化。
「フライ・・」は映画版を見て佳作であった記憶のみ残して詳細は忘れていたが、「これはあくまで恋愛の物語だ」との宣言で始まる(「在日」問題に接続することを拒否する)「GO!」のスピリッツは「フライ・・」にも何処となく流れている。フライの主人公=父親は闘う事を自分に課するが、個の中のドラマの歩みに徹することが人的な広がりを生み、物語の普遍性を生む逆説は、「GO!」が遂げたコロンブスの卵だ。
前夜の新宿梁山泊に続き、「在日」差別に明確に言及する台詞があり、シンクロニシティと思う。語り古された事実でも口にすれば唇寒い時代のせいで新鮮に響く。前夜の芝居の秀逸セリフは「マスク、消毒、検温、ほんっっっと嫌!」。よく言ったこれが本音、本音に罪はない。モラルハザード何するものぞ。

さて芸劇Wでの文化座、このかん見た舞台の多くが「おっかなびっくり」と見えた中では、コロナ後の無事復帰を示す題材として軽快・痛快リベンジ物は相応しかった、と思った。
場内コロナ対策として、ディスタンス客席ではあったが中央の広い区画は席間隔が一席分も取っておらず、その事が劇場客席の趣きをキープし、寂れた感を回避した。これは結構重要な要素かもしれぬ。ステージとの距離は十分で、俳優のマスク、シールド類装着は無し。

演出・田村孝裕の名が目に入る。同作は所謂「復讐物」でも、娘を殴打した相手に文科系出身サラリーマン親父が特訓を受けて立ち向かう「奮闘記」の趣きである。相手は有名人の子息らしい石原某という高校ボクシング全国大会の覇者、方や生白いガリガリ君のしがないサラリーマン。力勝負ではこの対照が「ウサギと亀」の図式、判官贔屓を刺激。
優秀な生徒を誇りたい学校側の教員2名と石原が病院に現われた時、強面教師と教頭に言いくるめられ示談金の申し出に抗えなかった父は、娘の拒絶を受け、親を名乗る資格を失った事を痛感する。絶望感にうちひしがれて刃物を手に学校へ押し入ったところが実は学校違い、そこで偶然出会うのが、夏休みに学校からの「取り調べ」に呼び出されていた変わり者グループ。メンバーの一人が喧嘩の達人、準主役のスンシン(GO!の主役をやった俳優で役柄的に重なる)。「法の外」に生きる術を体得する彼らが、主人公に手を差し伸べる。
目標を始業式の9月1日と定め、主人公は特訓、グループらは「復讐劇」のお膳立てに奔走。この過程のディテイルが作品の目玉だ。スンシンが持ち込む訓練のメニュー、語られる哲学、ヘタレ主人公の変化、二人の交流が、この作品をありきたりなリベンジ物と峻別させている。
「出来すぎ」なオハナシ系、ウェルメイド系と呼ぶならこれに相応しい田村孝裕が文化座舞台を初演出。エンタメ要素を入れながら(例えば笑いの取り方..文化座若手は折り目正しく馬鹿をやっていた)爽快感を吹き込み、バランスが良かった。

ネタバレBOX

ただやはり指摘したくなるのは・・ONEOR8での自作で発揮する田村氏のウェルメイド感は、巷間よくある典型を見せるのだが、私がヤなのは「冗談めかした行為の後で笑い合う」笑いの類型。勝負の前にドーパミンを分泌させるための盛り上げ、もあるだろうけれど、ドラマ的には「うまく行ってる」流れで稼ぎたい笑いの点数、という事になる。人は笑いたい動物であるが、「うまく行ってる」から少々調子に乗っても許される、というのは「うまく行ってる」事の確認以上の意味を持たない。不良高校生グループの無敵ぶり(マイノリティ性と引き換えに獲得した)から「勝負」はほぼ見えているのだが、「復讐劇をどう憎い展開にさせるか」という楽しみに観客の関心は移り、それは大船に乗ってこそ生まれる関心だ。だが、実は勝負は決まってはいないしそれが現実であり、訓練のプロセスを経たから勝機を見ているのも事実だが、訓練に立ち返るなら笑いは出ない。少なくともスンシンは緩い笑いを見せない。笑うとすればある何か、相手の変化に思わず浮かんだ笑みとか、おっさんに何かを仮託している自分に気づいて思わず笑ってごまかすとか・・なぜあの「一般的な笑い」を許したか、、ほんの一瞬の事だがこういうのははっきり、勿体ない。(が、これをやってしまう芝居は結構多い。)
音楽劇「風まかせ 人まかせ」~続・百年 風の仲間たち~

音楽劇「風まかせ 人まかせ」~続・百年 風の仲間たち~

新宿梁山泊

ザ・スズナリ(東京都)

2020/08/06 (木) ~ 2020/08/16 (日)公演終了

満足度★★★★

小林恭二や1980との共作等、芸劇を準本拠地に異色舞台を打ち出していた10年前の新宿梁山泊の一つの極点がパギやんこと趙博氏との前作、脚本も趙博による趙博の世界で、氏に梁山泊本体の使用権を与えたようなものと思ったものだが、あれから早8年。コロナ状況に物申さぬ訳がない趙博の今回も作であるが、趣向は場末のライブハウスのマスターに金守珍氏を据え、歌あり芝居に真正ライブも兼ねた、肩の力の抜けた何でもあり感溢れる舞台。
趙博前作の目玉として披露された歌の新版、新百年節が今回もこの舞台の魂。在日ヘイトもアベノマスクも「ど阿呆!」と叱る「正常な言論」が、お芝居であるはずの空間(特に密を味方に上演を続けてきた梁山泊には難点であろう空きっ歯のような客席とステージとの間にぽっかり空いた空間)では生々しい響きを持つが、「正常な言論」が生き延びる(語られる)場がないならこの場所をその場とするしかない今を痛感する。
従来の梁山泊では見る事のなかった噛みは、稽古の事情か台本の影響か、はたまた客席との距離感から来るものか。だが後半リハーサルの体で展開するライブ(出し物あり)、そしてコロナの現在進行形に立ち戻らせるラストまで、可愛らしくも力強い舞台。

ネタバレBOX

ライブでは芝居上のライブハウスの歌い手、マスターの元妻の初歌披露の他、常連風に中山ラビが登場、「出る気はなかったのに呼ばれて」とぼやきながら、脳天に響かせる声で魅了する。サプライズ?ゲスト三上寛が驚嘆物である。一種異様な偉容を覗かせる。一度ならず出演との事だから最終日までやるかも知れない。パギやんの新百年節は懐メロを頻繁に挟みながら日本(及び東アジア)の百年をざっくりと辿り、現在に戻ってくる。過去の経緯を省いた近視眼的「事実」が言挙げされる忘却の国で、様々な事柄を忘れ去る習いに、自分も染まりつつある事に気づく。
赤鬼

赤鬼

東京芸術劇場

東京芸術劇場 シアターイースト(東京都)

2020/07/24 (金) ~ 2020/08/16 (日)公演終了

満足度★★★★★

コロナ後、劇場で大人数の芝居を観たのは初めて。四面客席の前に大きな横長の透明ビニール幕。客電が落ちると自分の側は全く見えなくなり、すこぶるクリア。シアターイーストの懐(容積も)の大きさか、余裕ある客席でも「淋しい」感がない。
さて「古いテーマ」だと戯曲を読んだ数年前に感じた『赤鬼』が、今を映す舞台となっており、目が離せなかった。読んだ時は抽象的に処理された(ゆえにリアル感の薄い)舞台を予想させた戯曲(多場面で構成された)が、言葉遊びもナチュラルに感じさせる程にリズミカル、躍動的に展開され、「演出」野田秀樹の技量にも感じ入った。
今回のBグループで知る俳優は2名のみ、赤鬼の喋る「異言語」は中国語(風?)で、中国人を起用したかと見ていたら、日本人俳優であった(他のグループの同役も同じ言語を使うのか・・そこは気になる)。
「村八分」「隣組」「竹槍訓練」・・非合理・非民主的で愚かな古い因習のイメージが現代に復活したことを知り、愕然とした日本版「コロナの時代」であったが、そんな事で初読時は「その他大勢」の村人を敢えて「悪く」描いて主人公の被害者性=ヒロイズムを強調したかに見えたこのお話に、全く違和感なく見入ったという訳であった。

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