オロイカソング 公演情報 理性的な変人たち「オロイカソング」の観てきた!クチコミとコメント

  • 実演鑑賞

    満足度★★★★

    当初予定の2020年から漂流の果てにようやく上演となった公演。先日の「彼女たちの断片」と同じく女性作家、演出家と女優のみによる舞台で、性暴力・被害、性の多様性を扱う舞台、ではあるが、三世代四人の家族と一人の他人の人間模様にとってその要素は「特殊」であるよりは、濃密な人間関係の中に立ち現れて来る要素=Xとして他に置換可能、つまり誰しもが持つ傷と重ねながら観る事が可能な、普遍性あるドラマになっている。人物たちの関係図と心の来歴が次第に現われて来る手触りは秀逸だった。
    最後に「事件」という部分に収斂していく所、千秋楽という事もあってか罪責に苛む二人(母と祖母)が健気に生きる子たちを見ながら涙でボロボロだったが、個人的には役人物の「日常」を維持して踏み留まって欲しく思った。
    性虐待事件は「性」の本質において通底しながらも形は多様で、実際に為された具体的行為、その状況、その感受のされ方(心理的な影響)にも違いがありそうである。この作品で扱われたものは小学生におフェラまでさせた事件とされ、被害者である双子の「姉」への影響は思春期以降の挑戦的な異性関係に表われ、一方姉を慮る妹には異性への頑なな態度として表れる。
    話は失踪した姉を探しに姉と一時期交際した女性を妹が訪ねてくる場面に始まり、折々の出来事が回想される。観客の関心に沿って順次、過去に分け入っていく手順が優れ、一つの家族の歴史と現在に立ち会う事となる。
    広く共感を持ち得る物語になった事がこの作品のレベルを一段押し上げていると感じた事が、ラストの「その場にいない」母と祖母の感情露出を抑制してほしく思った理由だが(出来事の「特殊性」を強調する要素は抑えたい)、少し醒めた見方すぎだろうか。

    特典として送られた映像も観た。十数分のが2作で、まりの女史の筆が画面上で色を自在に塗りこめるのだが、最初スピーカの無いPCで視たため(背後でピアノが流れているらしい事はチラっと別媒体で覗いて判っていたが)、一つの絵画作品の完成に至るまでの試行錯誤に見え、凄く面白かった。が、音声を聞くと物語の朗読になっており、その物語に呼応して絵筆が動いたのだった。
    最初の印象の方に関係する話だが・・、先日ある配信で障害を持つ人のアート製作の現場を撮った20年以上前のドキュメント映画を観た。アーティスト達が「やり直し」をせず一本線の道を行く如く作って(描いて)行くらしいのを見て、(障害者に限らずだろうが)「降って来るんだな」と感じた事と、その一つの作品完成までのプロセスがユニークで、完成形のイメージに向かうなら通るだろう道を必ずしも通らない紆余曲折の謎に眩惑した。完全に「自分には判らない」世界だが、しかし自分もその道を通ってみたい。創造=生み出す営為の中で。そこはどんな道行なのか、風景を見たいと思ったんである。毎回視覚的な快さを与えてる荒巻まりの作画にもある種の「謎」を感じていたので、私は大変興味深く見せていただいた次第。

    ネタバレBOX

    余談。最近観た性被害に向き合う女性を撮ったTVドキュメントのケースでは、小学六年時に担任から受けた性被害が「お泊り会」での同衾、体を触られキスをされたというものだった。「一年間被害を受けた」その全貌を番組は語ってはいないが、他の証言として修学旅行で夜その教員が部屋に入り、児童の服を脱がせ、自分も脱いだこと、他の元児童が証人として居る事なども紹介されていた。
    女性がこの出来事と向き合う意志を持ったのは被害から30年後と言い、十代後半から薬漬け(向精神薬)となり就労もままならない期間を20年以上過ごした事になる。人間誰しも多くの時間を無駄にしたと振り返らざるを得ない事があるが(多くはそれを回避しようとするが)、幼少期に大人から受けた傷との闘いは勢い長くなる。自身への否定的感情に支配され、そこからこの朧げな記憶の中の「出来事」を振り返る時、「こんな自分だから仕方なかった」と低い自己評価の延長で理解してしまう。因果関係は混濁していたに違いないと想像される。その事が「おかしい」と気づいた後でさえ、習い性から、又は「今の自分はやはり現実的には低い位置にある」として低評価、ネガティブな歩みを続けてしまいがちである。
    巨大な穴の中で足掻いた20年間に愕然とするが、似たような事は多くの人間が(とりわけ日本社会では)抱えているのだろう。
    芝居の中の被害女性は、20代の時にあるグループに参加して「自分の中の性被害体験」と向き合い、闘うグループカウンセリングを行う。その事により、彼女はまずは過去の体験を現在に引き出す事に成功したようである。が、それをどう意味づけるか、という所でまた分岐点を迎えただろうと想像する。間が抜けて、彼女と付き合ったという一人の同性愛の女性の証言へと飛ぶ。そして彼女は少し前に出て行ってしまい、もうそこには居ない。彼女が自分というものと対話しながら人生を探って行く姿は、観客は想像の中に形成される。周囲の者は、彼女に声援を送り続けるしか無く、「解決」はやはり彼女自身が見つけ出すしかない。観客の手元に残されるのは、共感する心とその可能性、しかない。

    0

    2022/04/01 15:24

    1

    0

このページのQRコードです。

拡大