京時雨濡れ羽双鳥/花子 公演情報 劇団俳優座「京時雨濡れ羽双鳥/花子」の観てきた!クチコミとコメント

  • 実演鑑賞

    「マリアの首」の作者、田中千禾夫(ちかお)による戯曲の上演を初めて観た(「マリアの首」は観ず終い)。
    実はこの日は未見の若手劇団を観劇するぞと決めた矢先に初日が中止になったので、無理に出掛ける事も無いっちゃ無かったんであるが、「口が芝居の口になってた」のでこれを選んで六本木まで出掛けた。
    日本の古典戯曲には惹かれるものがある。当時の人々にとってはレトロでも何でも無かっただろう木造家屋や、着物や路地や、口調が、「前時代的」ではなく「いい感じ」になっている。もっとも田中千禾夫は主に戦後活躍し注目された人だから今言った範疇から若干ズレるのかも知れぬが。
    この所海外戯曲の秀作舞台を打っている俳優座、果たして今回は・・

    ネタバレBOX

    申し訳ないが正直を言えば、残念感が。
    私としては「花子」を見せ、その後「京時雨」で真っ向勝負して欲しかった思いである。
    その心は「花子」が持つ強み、詩と言い換えても良い短編劇の魅力は、喩えるなら出し物やドラマで動物か子供を使う所謂「ズルい」手。実際この劇は自然讃歌でもあり、通ずるものがある。
    一方「京時雨・・」は敗戦何年後かを舞台に、橋下に棲む女の目と存在とを媒介に、人間の姿を点描する作品。残念ながら新劇団の「ちょっと演技が違う」パターンの典型という感じで、見続けたいと思えるフックが見つけられないままに芝居の終盤を迎えてしまった。二作目の「花子」は一作目のダメージをカバーするに至らずであった。

    五階稽古場のL字配置の客席のちょうど角、ステージを見やすい座席からの眺めが、芝居に入り難くさせたのかな、とも考える。長方形のステージの長辺に木の橋が渡され、上手、下手の端の階段から昇り降りでき、道行が長い。橋下には野宿モノの住まいが橋の端=庇からはみ出て箪笥が置かれたりしている。人間が十分潜れる高さの橋の前面には、美術の志向だろう、くすんだ色の広い布(質感は皮革っぽい)が天井から垂れ下がり、橋を歩く者の顔が見えない。顔を出す時はその布幕を暖簾のように手で除ける。竹邊奈津子の装置だが、外観の色彩はともかく装置としての機能美が醸されて来ない。「京時雨」の冒頭、女が箪笥から舞台中央に向かって何着もの衣を乱暴に投げ出し、布が広がるのだが、これが意味不明。女は元高貴な家の出らしく、最後には盲目の帰還兵の謡いに合わせて能を舞う展開になるが、そのためか「橋」の縁の下あたりからほぼ正方形に黒い大理石か、濡れた石の設定か判らぬが黒光りする平らな面がある。それを埋め尽すようにぶん投げるのだが、装置としてそこが河原の砂利場なのか土なのか、彼女にとって住まいの中なのか外なのか、リアルに空間を想像して良いのか象徴的な空間と見るべきなのかそこからまず混迷する。四角のエリアの途切れ目からこっち、橋の詰めへ線を引いた三角のエリアには白い玉砂利を敷き詰めた風になっている。硬質で整然としたな黒とラフな白の馴染みも悪い(見た目がいまいち)。
    リアルに見ようとすると、女が衣を投げる平らなエリアは雨に濡れている加工された石に見える。だから「時雨」との関係で捉えるべきかとも思うがそれにしては現代的なので単に「地面」を象徴しているのかやはり不明。衣を投げる行為は天日干しをしようというのか何か自棄になって衣に当っているのか、と想像してしまうが、そのどれでもなく、ただ芝居の冒頭をインパクトあるものにしたかったのかと勘繰れば合点の行く、装置の(床の)「見方」が観客の脳内で固まる前にそれをただ分からなくしただけの無駄な行動に見えてしまった。
    また女の言葉遣い、発声がただ元気の良い健康な発声で「曰くあり気」な雰囲気が微塵もない。物語構造としては女は当面「観察者」、橋を渡る男女のエピソード、盲目の負傷兵のエピソードを言わば目撃し、彼女が幾許かの接点を持つ様子を通して観客に紹介される格好になる。後者は、妻が警官を客にとって男を養っている、その妻の「仕事」の間にこうやって河原に出てこの身を嘆いている、という形。詠嘆の謡いに女は共鳴して舞いを舞う、という訳である。
    この芝居に出て来るエピソードが3でなく、2である事(女自身のを加えれば3になるのだろうが、「語られる」話の当事者の佇まいとは一線を画したただ陽性な存在は数に加えられぬ)、となれば、2である。基本情景描写が二点のみでは、作り手が見せたかった面が定まらない。社会の貧困、戦争の遺産、不条理を、ここ橋の下の住人の眼差しがとらえ、眼差しの対象らに作者の観点を語らせるには、駒がしょぼい。かといって観察の対象に過ぎぬ彼らが観察者に剣を突きつけて来る訳でもなく、身に迫って来ない。という事は、初演時にあって今はないもの、それは敗戦後の社会状況や風景という人々が共有していた感覚だろう。そうした戯曲の場合、どういう息を吹き込むか、何が新たに作られねばならないか(演出によって、役者によって)が重要に思うが、私には明確な視点が見えずその点で淋しく思えた舞台だった。
    休憩を挟んで「花子」。独特な世界観は悪くなかったが、「京時雨」で必要十分性が見えなかった美術、中でも邪魔に思えた橋に掛かったボロ布が、何と「花子」のオープニングの後、ガバっと剥がされ、剥き出しのキレイな橋が現われる。これは演出上のサプライズなのだろうが、「京時雨」で人の姿を隠す邪魔をしてただけの装置だったか、と、私的には落胆。
    この作品は子供から女性へと花開く蛹の季節にある娘が、さてこれから複数の男性に誘われて夜の町に繰り出す事になっている、その時間、母ののどかな方言の語りから始まる。母とのやり取り、仕事から帰った鷹揚な父とのやり取り、やがて「声」がする。「はなこさ~ん」。母から、飼っている(卵を産まない)鶏に譬えられる花子は、いつか卵を産むようになる可能性を秘めた、神秘性に満ちた「今」を生きる女性の姿として、ただただ愛でる対象として作者は描き切っている。男性に囲まれて恥じず、己を全肯定する「自然が祝福した」存在を清々しく描き、この対極にあるものを舞台上に上げて言及する事なく批評性高い、不思議な作品。

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    2022/03/24 03:33

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