ksdの観てきた!クチコミ一覧

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All My Sons

All My Sons

serial number(風琴工房改め)

シアタートラム(東京都)

2020/10/01 (木) ~ 2020/10/11 (日)公演終了

 上演時間は約2時間30分(10分休憩含む)。

 『野鴨』の影響が色濃く出ている、リアリズム劇作品。
最近では、2020年2月に、同作品が俳優座劇場プロデュースで、
『彼らもまた、わが息子』の公演名で新訳上演されている。

 つい先日まで赤坂レッドシアターで、
PLAY/GROUND Creationが上演していた
『BETRAYAL 背信』とは好対照。

初萩ノ花

初萩ノ花

演劇集団円

北とぴあ つつじホール(東京都)

2020/09/19 (土) ~ 2020/09/20 (日)公演終了

 松田さんの長崎三部作、マキノさんの『高き彼物』、
早船さんの『鳥瞰図』、蓬莱さんの『まほろば』などの
作品の流れを汲む、畳に座卓・ちゃぶ台の、茶の間を
舞台にした、家族の絆や葛藤を丁寧に描いている会話劇。

 笑いの要素に加え、あまり多くが語られない台詞(ただ、
劇団俳優座が公演中の『心の嘘(A Lie of the Mind)』のレベルまで
脚本に書かれていないことが多くなってくると、観る側として
やっかいで手強い作品になってしまうが)だからこそ
大切になってくる時間の移ろい、季節感や繊細さの表現に
一段と磨きがかかり、6年前のステージ円での初演の時以上に
作品に輝きと洗練さが増している感あり。

 姪の敦子との会話の中での、茂夫の台詞
「...触れちゃいけないことに触れねえとそれはそれで
大事なものは守れるのかもしれないけれど、それはそれで
人とのつながりが薄くなるんだなーなんて思ったんだ。
鈍感さってのは悪いことばっかりじゃないんだな。まあ、
時と場合によるんだけどな。ほらよ、俺たちは繊細だから。...」
が心に残る。

無畏

無畏

劇団チョコレートケーキ

駅前劇場(東京都)

2020/07/31 (金) ~ 2020/08/10 (月)公演終了

 人の心の闇に潜む本性にぐっと迫り、
その複雑な多面性を深く鋭く突いている作品。

 松井石根と上室弁護士との間で行われる、南京戦での
軍紀崩壊による惨劇についての最後の検証問答の場面
は圧巻。

 ただ、主人公の松井石根へ焦点を合わせ過ぎた分、
まわりの人物像がぼやけ平板的になっていたような。
人物造形描写の点では共焦点多焦点というより単焦点の感あり。

愛する母、マリの肖像

愛する母、マリの肖像

T-works

赤坂RED/THEATER(東京都)

2020/03/11 (水) ~ 2020/03/15 (日)公演終了

 上演時間は休憩無しで約1時間50分。

 ジェンダーや国籍による差別や偏見に毅然と
立ち向かい科学の真理を真摯に探究した女性科学者を核に
その周りにいた者たちも含めた姿を、彼らの回想を通して、
観客との適度な距離感で、活写している評伝劇。
 『コペンハーゲン』、『フォトグラフ51』、
『インコグニート』などの海外戯曲にみられる、専門性に
ぐっと踏み込むことで生まれてくる深みや説得力という点では
やや弱く、また、すでにしっかりした伝記などの資料を読み
造詣が深い方には内容的に多少物足りないかもしれないが、
ラジウム研究所(キュリー研究所)に留学した最初の日本人科学者
であり、放射線研究での被爆障害で亡くなった山田延男さんを
登場させていたのは好印象。

 趣きはやや異なるが、科学者の有り様や科学の光と影も
描かれていた作品ということで、東京国際フォーラムの
こけら落とし公演の1つとして上演された『東京原子核クラブ』が
なんとなく思い出された。

 ちなみに、量子力学が完成するのが1920年代後半、
ハーン、シュトラスマン、マイトナー、フリッシュによる
(特にウラン235)原子核での核分裂反応の存在の発見が1938年、
フランスのジョリオ=キュリー、アメリカでのフェルミ、
シラードらのグループの研究で、それが連鎖反応を可能
とすること、その際に多大なエネルギーが解放されることが
見出されたのが1939年(第二次世界大戦勃発)。

燦々

燦々

てがみ座

東京芸術劇場 シアターウエスト(東京都)

2020/02/07 (金) ~ 2020/02/16 (日)公演終了

 額縁舞台での公演ということもあり、全体として
視覚というか「観る」ことを強く意識したつくりの
舞台作品。
 絵師ならぬ演劇人達の覚悟、心意気、気概、
飽くなき探求心、進取の精神などどこまで観取できるか、
チコちゃんの決めゼリフ
「ボーっと生きてんじゃねーよ!」
ではないが、
「ボーっと見てんじゃねーよ!」
と、観る側の器量、鑑賞眼が試されているような気も。

 ステージのスケールダウンに伴い以前の躍動感は
やや薄れてはいるものの、コンパクトになったことで
人々の何かに懸ける溢れんばかりの思いや人の営みの
もつ熱量のようなものがぎゅっと集約され煌きを
放ちながら伝わってくる。
 江戸のレンブラントとも称される応為を扱っていることも
あって、場面ごとの構図や照明は緻密で繊細。より丹念な
人物造形と内面描写の掘り下げで、お栄(応為)の描画に懸ける
一途さや背負った宿命と懸命に向き合い格闘する姿などを
ぐっと浮かび上がらせていたのも好印象。

エブリ・ブリリアント・シング 【高知公演中止(2月29日(土)・3月 1日(日))】

エブリ・ブリリアント・シング 【高知公演中止(2月29日(土)・3月 1日(日))】

東京芸術劇場/新潟市民芸術文化会館

東京芸術劇場 シアターイースト(東京都)

2020/01/25 (土) ~ 2020/02/05 (水)公演終了

 正味の上演時間約1時間10分(上演スタイルから
エブリ・ブリリアント・ステージ?ごとに上演時間は
多少変動する可能性あり)。

 ほぼタイトル通りというか、途中いろいろあっても、
人生や人の営みを前向きに肯定的に捉え、観る者を鼓舞、
encourageしてくれる作品。
 緻密で丁寧な指示誘導フォロー付きだが観客参加の舞台
ということで、時折劇の一部に織り込まれる、出演者と
(腕に覚えのあるとか素直なとかいろいろな)観客達との
やり取りやその反応が醸し出す場の雰囲気を交えた展開を
観る側、観られる側の垣根を超えて享受してもらう、
単に鑑賞するだけにとどまらず演劇を身近なものとして
より能動的に体感実感してもらうことがやはり大きな売りの一つか。
 今公演はステージごとにやや異なった様相を見せるはず?で、
まさに生き物である舞台の、いつも段取り通りに運ぶとは
限らない意外性や一回性の面がいくらか際立ってみられる
かもしれない。

 観客参加型でプレビュー公演の初日でもあり、内容的にも
最初のセッティングにやや時間がかかることはわかる。
おそらく入念にリハーサルやゲネプロを行い、ある程度感触は
つかんでいるはずだが、それでも何の説明もなく開始時刻10分遅れは
押し過ぎで、プレビューといえども定刻に来ているお客さんに
対して失礼。内容以前に、制作や演出担当者はこのあたりを
もう少し考慮反省すべきで、インフルエンザ等感染症対策も含め
今後の対応に期待。

雉はじめて鳴く

雉はじめて鳴く

劇団俳優座

俳優座劇場(東京都)

2020/01/10 (金) ~ 2020/01/19 (日)公演終了

 ハグで始まり時を隔ててハグで終わる、
オープニングとエンディングの整った形式美と
その両シーンで流れる同じマックス・リヒター?の
郷愁を誘う曲の旋律との相性抜群の作品。

 舞台セットのムーブメントの諸相が、舞台上の
人物たちの振舞いと連動してその内面や人間関係の
繋がりのデリケートな揺れ動きの表出に寄与している
だけでなく、その揺れを増幅して後方の観客にも
伝えようとするアンプ的な役割を果たしている感もあり。
また、ほとんど間を置かず連続接続する場面転換など
『インコグニート』で魅せてくれたスタイリッシュな
演出術の片鱗がうかがえるのも好印象。

マクベス

マクベス

DULL-COLORED POP

KAAT神奈川芸術劇場・大スタジオ(神奈川県)

2019/12/12 (木) ~ 2019/12/22 (日)公演終了

 マクベスの世界を借りた、似非マクベス作品?
単なる勧善懲悪の否定を超えた枠組みで再構築された
贋作・マクベスか。
このままでいいのか、いけないのか、
悲劇なのか、喜劇なのか、
それが問題。

 『蝶の力学 警視庁殺人分析班』に出てくる
バタフライ効果ではないが、ほんの些細にみえる
(設定も含めた)改変(改ざん、misdirection)がそれを
取り繕うためにさらなる改変を呼び、本来の道筋
(筋書き、公文書)から外れ、やがて(オリジナルとは
かけ離れた)想定外のカタストロフィ?が出現する。
ある人物が妄想の中で紡ぎ出している物語とみれば、
いいも悪いも等価(同値)、ボーダレス状態ということで、
成り立たないわけでもない(もっとも今回は、
バタフライ効果というよりは「風が吹けば桶屋が儲かる」
かもしれないが)。

 劇構造的には、パルコ・プロデュースで何年か前に
佐々木蔵之介主演で上演されたNTS版『マクベス』に
なにかしら近いものを覚える。

 どんな人であれ、些細なきっかけで心に魔が差す瞬間があり、
特に価値の混沌化された世界にあっては、風向き一つで
どう人生転がるかわからないといったあたりを
物語の在り様自体が転変する様になぞらえて反語的に
アイロニカルに提示した作品、趣向を凝らした書替狂言としては
悪くないのかもしれない。ただ、演出面にムラがあり
既視感のあるものが多く、求めすぎは承知の上でいうと、
例えば、魔女たち登場のシーンでも、『朧の森に棲む鬼』の
オボロたち登場の場面ほどの趣向がないと、魔女たちの
仕掛けた世界に入り込んだということがぐっと伝わってこない。
これなら、訳が分からないところは多いが、同じ松岡さんの
翻訳をもとにしたadaptation『メタルマクベス』の方がまだよいか。
マクベス斬り!... 残念!!

インコグニート

インコグニート

劇団俳優座

俳優座スタジオ(東京都)

2019/11/12 (火) ~ 2019/11/24 (日)公演終了

 記憶のプロセス
  記銘 encoding
  保持 storing
  想起 retrieving
になぞらえて物語が展開する、a really intriguing and electrifying productionで、
発散と収束、その重ね合わせの狭間を絶妙なタイミングで揺れ動く
バランス感が抜群。

 舞台天井付近の美術は、多数のニューロン、グリアなどから構成される、
また、"創発(emergence)"の一例でもある、脳の複雑な神経回路
ネットワーク、コネクトームを連想させる。場面ごとの照明の色調に応じて
美術のきらめきが変化する様は、ニューロンが至る所で発火し
状態が時々刻々変化している今まさに活動中の脳のイメージに重なる。
その下で、脳が次々とつくり出している内面世界をあたかも
左右の外からリアルタイムに覗き見ているかのような幻覚さえ
抱かせる舞台空間による雰囲気づくりも好印象。

 David Eagleman『Incognito The Secret Lives of the Brain』
(デイヴィッド・イーグルマン著『意識は傍観者である』
で早川書房から邦訳が出ている)
 養老孟司 著 『唯脳論』(ちくま書房)
などが観劇前でも後でも参考になるかもしれない。

 ついでながら、serendipityもやや意識してか、劇中で何度か出てくる
「幸運は備えある者を贔屓する」
は、ルイ・パスツールのものとされる言葉のことか。

スリーウインターズ

スリーウインターズ

文学座

文学座アトリエ(東京都)

2019/09/03 (火) ~ 2019/09/15 (日)公演終了

 3つの時代が非時系列的に展開しても混乱させない
確かな構成力に加えなんらかの思想や押しつけがましい
メッセージ色の希薄さもあり、素直に各時代の息吹を
感じ取ることができる、ある女系ファミリーのいわば
紀伝スタイルの物語。
 また、ローズの出自がらみの場面などによく表れているが、
1から10まで説明せず、観る側の想像力や洞察力に期待する
手法が特徴的な作品でもあり(現在シアターコクーンで上演中の、
蜷川張りの演出が際立つ『アジアの女』もミニマムのセリフで
展開させるあたりは近いものがある)、この点では、劇中で
丁寧に説明謎解きをしてくれる、現在世田谷で公演中の
『愛と哀しみのシャーロック・ホームズ』とは好対照
(いささかふがいないダメ男たちと食えないしたたかな女たち
との取り合わせというところは似ているが)。

 もちろん、人物造形の巧さも含め作劇の妙で普通に鑑賞しても
味わいのある作りの作品になってはいるが、ただ、舞台がなじみの
薄いクロアチアということで、クロアチアを含め旧ユーゴスラヴィアの
地理や歴史的背景を(ネットでもあるいは例えば、柴宜弘さんの
『図説 バルカンの歴史』といった書籍でも目を通して)前もって
確認しておけば、作品のみえ方が格段に違ってくるはず。
 歴史を知る上でノンフィクションも含め歴史小説や映画などを
参考にするのは好ましいとはいえないが、入り口としてなら今の場合、
坂口尚さんの、第二次世界大戦下のユーゴスラヴィアを舞台にした作品
『石の花』
もある(1980年にヨシップ・ブロズ・チトーがなくなり、
1989年の「ベルリンの壁」崩壊、1991年にユーゴスラヴィア内戦が
はじまる間の、1983年から1986年まで連載されたが、
この時代にすでに、多民族国家ユーゴスラヴィアに世界の縮図を
みてとり『石の花』を描いていた作者の慧眼には驚嘆)。
 旧ユーゴ関連の演劇作品では、この4月に上演された、演劇ユニット
OVa9 第1回公演で、ユーゴスラヴィア崩壊後、1995年頃のボスニアの
難民キャンプを舞台に傷を負った女性たちを描いた、アメリカの
女性劇作家イヴ・エンスラーの
『Necessary Targets ~ボスニアに咲く花~』
が記憶に新しい。

骨と十字架

骨と十字架

新国立劇場

新国立劇場 小劇場 THE PIT(東京都)

2019/07/06 (土) ~ 2019/07/28 (日)公演終了

 プレビュー公演を観劇。

 作品としては、丁寧な展開の分やや冗長に流れエンディングも
時間切れで尻切れトンボの感は否めないが、神と人との関係性の逆転や
将来のオメガ点の萌芽などにまで触れられていたのは好印象。

 ただ、進化をめぐる学問と信仰、科学と宗教(神学)とのあり方を
あそこまで取り上げるのであれば、一方向直進的な進化のイメージだけでなく、
求めすぎは承知の上で、より現代的な広い観点から仮想的にでも例えば、
ウィルソン、ドーキンス、グールド、スミスらの思想(宗教観、進化観など)
をも取り込みさらに踏み込んだ劇論が繰り広げられるのを観てみたかった。

ビューティフルワールド

ビューティフルワールド

モダンスイマーズ

東京芸術劇場 シアターイースト(東京都)

2019/06/07 (金) ~ 2019/06/23 (日)公演終了

 人物造形などにややステレオタイプな感はあるものの
強靭な構成力が光る作品で、どことなく今風なチェーホフっぽい
雰囲気があったり、ONEOR8、ハイバイなどの作風に通じる
ところもあり、この作品のタイトルと観劇内容から、
「アンナ・カレーニナの原則」や「いいは悪いで悪いはいい」
「きれいは汚い、汚いはきれい」のセリフなどを想起した。

 人はそれぞれが多かれ少なかれ不器用さ、弱さ、狡賢さ、
攻撃性、嫉妬、偏見、欺瞞、あさましさなどいろいろ
やっかいな面を抱え生きているそれ自体俗物的で
どうしようもない自己矛盾のかたまりかもしれないが、
それらすべてをひっくるめて人に向ける作者の眼差しが
鋭さだけでなく温かさ、優しさ、愛おしさにも溢れていた作品。

ネタバレBOX

 特に、ドロドロの人間関係が次々と露呈し、座長の西條さん
扮する、日頃はglobeを愛聴し寡黙に男は覚悟などと渋く
決めていた高倉健ならぬ高倉健太が、こと女性関係にかけては
不器用どころか実はめちゃくちゃ器用だったという覚悟が足りぬ
とんでもない事実が発覚する第二幕は、衝撃的!
ヘンリー五世

ヘンリー五世

彩の国さいたま芸術劇場

彩の国さいたま芸術劇場 大ホール(埼玉県)

2019/02/08 (金) ~ 2019/02/24 (日)公演終了

 取っつきにくいシェイクスピアの史劇を多くの観客にできる限り
わかりやすく伝えようと苦心惨憺されたあとが随所に窺われ、
上演場所がさいたまということもあってか大衆演劇張りのご当地愛
にも溢れていた舞台作品。

 ただ、ヘンリーがアジンコートでの戦いに臨む前に行う演説
(聖クリスピンの祭日の演説)の件などはほとんど...。ある意味、
清々しいといえなくもないが、それでもやはり、3時間を超える
上演時間に対して原戯曲の取捨選択というか上演台本の構成バランス
がどうも...。

ウィルを待ちながら

ウィルを待ちながら

Kawai Project

こまばアゴラ劇場(東京都)

2018/07/04 (水) ~ 2018/07/18 (水)公演終了

 タカアンドハルのお二人が深みのある演技で魅せていた分、
作兼演出者が自らの(本公演のサブタイトル自体が次回公演とのつながりを
示しているがその次回公演などの宣伝も含め)博識、趣味趣向、遊び心など
あれもこれもと盛り込み欲張りすぎたことでかえって、作り手側と観る側との
乖離が際立つつくりになってしまった作品という印象。
 ただ、最後の、本棚崩しの演出は、既視感はあるとはいえ、見応えあり
(裏方さんのご苦労に感謝)。

 このプロジェクトも、こちらが観慣れてきたということもあり、
回を重ねる度にどこかdecliningの感は否めず。次回公演『お気に召すまま』
での巻き返しに期待。

海越えの花たち

海越えの花たち

てがみ座

紀伊國屋ホール(東京都)

2018/06/20 (水) ~ 2018/06/26 (火)公演終了

 作家は多くの時間と労力をかけて、綿密な取材とともに氷山のごとく膨大な
資料の丹念な読み込みを行うが、作品としてあらわれてくるのはその一角にすぎない
ということを重々承知した上でいうと、ストーリー展開は予定調和的で
テレビドラマ向きのスタイルになっており、陰影に富んだ演出も手堅くはあるが、
台本と演出との相性はいまいち。
 その分、それぞれの俳優の持ち味がうまく引き出されるようなつくりに
なっていて素早い場転への参加も含め出演陣の奮闘ぶりが際立っている
(半海さんの怪演も含めふり幅のある演技、桑原さんのはじけた演技などは
なかなかのもの。下ネタギャグはほとんど半海さんが一手に引き受けているが、
台本が生真面目すぎてゆとりがなく空回り)。

 背景の舞台美術の使い方なども秀逸。舞台空間全体に対して実際の演技空間が
比較的狭く空疎感というかスカスカな感じはあるが、これはこれで登場人物たちが
内面に抱える孤独感、疎外感、絶望感などを漂わせ訴えかけている気がしない
でもない。

 紀伊国屋ホールは座り芝居などをされると特に前方の平間の客席からは演技が
非常に観づらくなることがあるが、今回、装置の一部にもなっているある程度
高さのある可動性の台の上で主に演技がされていて客席からほとんどの演技が
観やすくなるよう配慮されているのも好印象(ただ、オープニングとエンディング
の特に下手側で、この演技台の高さがかえって邪魔をしているところもあるが)。

最後の炎

最後の炎

文学座

文学座アトリエ(東京都)

2018/04/14 (土) ~ 2018/04/28 (土)公演終了

 観ながら聴きながら頭をフル回転させてオーディエンス側が
各々のイメージを想起し膨らませてゆくことを強く求められる戯曲。

 惹きつけられる場面もありスマートな演出だが、意気込みが
盆に乗って空回りして一本調子になっている感は否めず、
次々と解き放たれ押し寄せるコトバ(特に、「私たち」のセリフ)の波に
対してイメージが追いついていかないところもあり、観慣れていないと
2時間強の上演時間の間しばしば襲ってくる睡魔と格闘せざるを得なくなる
スタイルの、でも、言葉に鋭敏な役者さんなどは気に入りそうな作品
(より深く鑑賞するにはリピート観劇が必要なタイプの作品。
現在芸劇ウエストで公演中の『Photo.51』も、劇構造や
戯曲のたち上げ方など同様の印象あり、フィーリングや感覚的に
ではなくきちんと鑑賞するためには最低限高校レベルの化学、生物学の
知識をもって臨むことが大前提となっている点を別にしても)。

 盆が終始廻る仕掛けは同じで面白いが、視点が逆転する豊洲の劇場で
上演中の作品群とは対極に位置する作品。

かさぶた

かさぶた

On7

小劇場B1(東京都)

2018/02/03 (土) ~ 2018/02/11 (日)公演終了

 タンツテアーター(Tanztheater)あたりを念頭におき、新劇の女性俳優たちが
演出者らと協同し、普段の公演では武器とする言葉を極力抑え断片的ながらも
演劇的要素を積極的に取り込んだ舞踊パフォーマンスで挑んだ作品で、
一義的な解釈を押し付けることなく観る側が自由に感じ想いを馳せる余地を
残してくれている、プリミティブで粗削りだが熱意に溢れた意欲作。
 同じ下北沢演劇祭参加でほぼ同じ上演時間、同じ体力勝負パフォーマンス
の作品ということでみると演劇的物語性と言葉の比率がグッと上がっているのが
サスペンデッズの再演公演『おせん』(すでに公演は終了)。パワフルかつ
スピード感漲るパフォーマンスでなかなかのもの。
 また、舞台床が客席最前列よりもやや低くほこりが立ちやすい仕様ということで
開演前のマスクの配布と脱帽のお願いのアナウンスも観客への気配りがあり好印象。

かんかんじいちゃん、

かんかんじいちゃん、

green flowers

シアター711(東京都)

2018/02/07 (水) ~ 2018/02/12 (月)公演終了

 古くからある銭湯が舞台というやや手垢の付いた題材ではあるものの、
人物造形にすぐれた安定感のある台本、巧みな俳優陣のキャスティングの妙
そして台本と俳優の立ち上げ方を心得た飽きさせない演出の三拍子が揃った、
幅広い層が楽しめる会話劇。

THE BEAUTY QUEEN OF LEENANE

THE BEAUTY QUEEN OF LEENANE

風姿花伝プロデュース

シアター風姿花伝(東京都)

2017/12/10 (日) ~ 2017/12/24 (日)公演終了

Should I be as I am, or shouldn't I be as I am ?
と心揺れる女性主人公モーリーンの行動の先にあるものは...
作劇の妙と切れば血の出る思いに裏打ちされた、シアター風姿花伝
という劇場名にあった序破急の劇的な展開をみせてくれる濃密な舞台作品。

山歩き

山歩き

イナセナ企画

赤坂エノキザカスタジオ(榎坂スタジオ)(東京都)

2017/12/13 (水) ~ 2017/12/17 (日)公演終了

 劇構造をヤスミナ・レザの作品(映画 『おとなのけんか』、舞台シスカンパニー
『大人は、かく戦えり』など)世界に借りてはいるが独自の展開をさせており
キャスティングの妙とそれに応えた俳優陣の熱演怪演(?)に支えられ確かに
メリハリのあるおもしろい作品に仕上がっている。 

 ただ、この翻訳者の訳し癖なのか普通に使われている日本語の意味合いとは
ずれているカタカナ語を逃避的に多用するため聴いていて意味が取りづらい
ところがあったり邦題のネーミングなど翻訳へのこだわりというか粘り強さ
が欲しいところ(ゲーテ・インスティトゥートでの夏のリーディング公演の時
にも感じたが)。

 また、会場の制約や時間不足があったのかもしれないが、最後の場面
(原著をみないと詳細はわからないが)は、あれでは単なるおまけ付け足しに
とられかねないので演出的にもう少し工夫が欲しい。ボードへの
Der Teufel träg(e)t Hosenanzug. の原語での書き込みは、日本語上演なので
日本語表記か日本語併記をとるべきで(ゲーテ・インスティトゥートのお先棒
を担いでいるところもありドイツ語学習の宣伝にはよいかもしれないが、
正対する客席の向かい側の年配の御婦人方が口をポカンと開けて?の顔を
されていたのが印象的)、演出者自らが、Der Teufel trägt Hosenanzug.
のごとく、言葉の壁で排除排斥の一例を実践してみせてくれた舞台でもあった
(Hosenanzugはパンツスーツのことで、全文でそれを身に着けている特定の物
か者を指す作品外の暗喩の意味もあるはずで現地の観客にはピンとくるのだろうが、
日本ではこれ以上は不明。そういう意味ではまさにホットすぎる現代劇で
それゆえかえって翻訳や演出がやっかいなのもわかるのだが)。

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