第21回PIARAピアノコンクール ファイナル
PIARA 日本ピアノグレード認定協会
アクトシティ浜松(静岡県)
2017/07/15 (土) ~ 2017/07/18 (火)公演終了
満足度★★★★★
4日間とおし券を、二千円で購入
二年前のとき以上に、中国出身の演奏家が目立っていた。はるか、異国から楽器の聖地で、コンクールにでたい。そういう子どもたちもいるだろう!
また、九州に関連会社があるらしい。そのため、レッスンの成果を浜松に来て毎年披露する親子もいるのではないだろうか。ついでに、東京めぐりもかなう!
参加者に、やや偏りがある企画なのかもしれない。でも、子どもたちものレベルは、いつかプロに!というほどの熱意があって、感心する。
岡田以蔵
劇団め組
吉祥寺シアター(東京都)
2017/08/02 (水) ~ 2017/08/06 (日)公演終了
満足度★★★★★
幕末維新は、かなり勉強した。その中の実際の事件が頭のなかで整理されていく。演出家が、詳しいのだろう。
焦点となっているのは、人斬り以蔵はなにゆえのに天誅で、暗殺に狂っていったのか。あるいは、たけちという恩師をどう認識して生きていたのか。
ありふれた観劇でも!と思ったが気持をぐっとつかまれた。め組の中央線のカンバンは、さらに心に残っていくだろう。
棟梁ソルネス
イプセンを上演する会
中板橋 新生館スタジオ(東京都)
2014/05/23 (金) ~ 2014/05/25 (日)公演終了
満足度★★★★★
イプセンスタジオで,『棟梁ソルネス』を観た。
イプセンスタジオで,『棟梁ソルネス』を観た。『ヘッダー・ガブラー』から二年した,1892年の作品である。今回は,毛利三弥氏の解説に目を通していった。『棟梁ソルネス』の演劇は,非常にわかり易かった。人物関係もすぐに把握できた。毛利氏は,主人公ソルネスの成功は,妻や,子供の犠牲の上にある。そして,終盤では,不思議な娘ヒルデと一体になろうとしている,と指摘する。イプセンは,全作品を有機的に構成した。彼の一生のテーマは,人間の自由であり,キーワードは,「親子関係」ということになる。
『棟梁ソルネス』は,師匠であった老ブローヴィクを蹴落とし,彼の息子ラグナールに,自らの地位を脅かされている。作品中,心の中のトロル(妖魔)に,ソルネスは翻弄される。象徴的な事物や,イメージが多く出て来る。とても魅力的な大作である。
さて,ざっと,お話の内容を説明すると,
ソルネスの前に,ヒルデは10年の時を経て突然現れた。あなたは,10年たったら私の王国を作ってくれるっていったから・・・。そういえば,あの日,高所恐怖症の私はなぜか塔に登ることができたのだ。下からの,美しい少女の熱いまなざしが忘れられない。私は,才能もあったかもしれないが,周囲に対し,計算ばかりして,出世して来たのだ。
私の一番の問題点は,後継者を育てようとしなかったことだ。むしろ,いいように利用し,気が付けば,最後は後継者の「独り立ち」をじゃましているのだ。妻には,双子がいたが,ある日火事になったが,ショックで乳が出なくなって後,栄養不良で死んでしまった。妻は,それから,子供を育てる楽しみを失い限りなく暗い。
私は,後日,火事場に思い切って斬新な住居を立て続けたものだから,一躍建築界の寵児になっていく。何が幸いするかわからない。親ばかになって,仕事に打ち込むことはなかった同僚たちは,私のライバルではあり得なかったのだ。私は,なんらかの意図をもって近づいて来た女性もぶしつけに敬遠することはなく,上手に懐柔した。
ヒルデは,あの日の光輝くヒーローに戻ってほしいと,ソルネスを説得する。後継者にはしかるべき地位を与え,引退をすすめる。私は,ヒルデが理解する以上にまちがいをしたのかもしれない。栄光をひとり占めし過ぎたともいえよう。私はけちな臆病者で,あの日以来高い場所には登ったことはないのだから。
でも,もう一度あの日にかえって塔にのぼってみようかしら。そこで一体何が見えるのか知りたい気もする。私の人生は,才能を十分開花させたから生じたことで,そこに非難すべきものがあるとは思わない。少し,ひとりよがりで,女たらしだったくらいだ。私を追うものたちの憎悪は,不当で怖いものとなっている。
棟梁ソルネスは,何かをみたくて,塔にのぼりはじめる。みなは,どう転んでも登ることなんかできるわけがないと嘲笑する。妻は,青ざめる。だれか止めて。いや,ソルネスは,決然として高見に向かっていく。あ!落ちた。棟梁は落ちた。誰か見て来てちょうだい。棟梁は,大きな石に激突して,頭が砕けてしまっていたのだ。
飛龍伝
COTA-rs
シアターサンモール(東京都)
2013/08/01 (木) ~ 2013/08/04 (日)公演終了
満足度★★★★★
ぼくには,別役さんに見えないものが見える。
演劇人で,小説家であった,つかこうへいが,2010.7.に,62歳で亡くなっている。知名度が高いものは,『熱海殺人事件』(戯曲)である。つかは,演出家としての活動が有名である。映画『鎌田行進曲』は,つかによる脚本である。1982.深作欣二監督で一世を風靡した。彼は日本生まれの韓国人であるが,その事実はあまり知られていなかった。つかの作品では,『戦争で死ねなかったお父さんのために』は,熱海とはかなり性格のちがうものだ。
『統一日報』の記事で,母親と初めて祖国の地を踏んだことが掲載された。朝日新聞にも,同様の内容が出ている。小説『鎌田行進曲』で,直木賞を受賞した頃の話である。熱海は,日本的なギャグの集積といえる。これを,韓国で上演することになる。原作をそのまま出すべきか,否か。『広島に原爆を落とす日』は,旧日本軍が,朝鮮の国王を殺害,妻と子どもを日本に強制移住させる話だ。つかは,非常に強い民族的気概を持った作家だ。
『戦争で死ねなかったお父さんのために』は,戦後30年経って,召集令状が岡山の許に届く。すべてはっきりしない幻想性。日本人の精神構造をからかったものか。人気のある作品が,作品的に文芸的価値から遠いことが,つかの場合ある。逆に,目だったものでなく文芸的に質の高い作品群が別にあるということになる。熱海などは,人を笑わせようとするギャグがくどい。事実究明もそっちのけ。つかの観客の笑いは,ナンセンスといえるのか,いや,そうではないのか。
『ロマンス』は,『いつも心に太陽を』として上演された。二人の競泳選手は,幼馴染で,国体で再会するが,片一方はそのことに気づいていない。平易だが,強い印象で書き出し,深い陰影を醸し出す作品である。小説作品が,高度に開花したのは,演劇『鎌田行進曲』の台本を小説化し,直木賞を受賞した時期である。演劇人は,舞台用の明瞭な台詞を第一に考える。そのために,小説,純文学に求められる,言語的な幅の広さが乏しくなる。また,他人と共有できるやさしい言葉で,新しい感覚を出すことを狙った。
つかは,作品そのものが面白くなければ話にならないと考えた。演出重視の姿勢である。その場合,主題は,いつも明瞭に意識されるとは限らない。つまり,作品のテーマより,まず,演出が第一なのである。これは,小説創作の引きこもり状態より,濃厚な人間関係がある演劇活動を愛した。初期の未熟な作品は,演劇活動をとおして,改作される。見事に昇華された。『初級革命講座 飛龍伝』が典型的な例である。ちなみに,評論という行為一般をとらえると,それは,純文学の世界のしろものであり,大衆文学にあっては,評論はさほど重視されないといえる。
熱海は,70年代演劇界に衝撃を与えた。笑いの要素を前面に押し出し,新風を吹き込んだ。富山県警から,捜査一課への転任する刑事。取調べは,ひどくでたらめ,でっちあげが起こる。容疑者は,長崎出身だ。つかの作品では,笑いの中に,いつも悲哀があった。つか全体では,熱海以外の作品では,くどいまでのギャグは姿を消していく。熱海と,飛龍が,改変につぐ改変であったのに比べ,『鎌田行進曲』には続編が出たものの,本編における改変はほとんどなく,基本構造は一貫している。『鎌田行進曲』の出来に,つか自身満足していたことによる。
一般的には,時代に合った新しいものに変えるのが,つか流である。原型を留めないほどの改変もある。飛龍はとくにその傾向が強い。左翼的運動で負傷した人々の悲哀。登場人物のあだ名の複雑性。場面転換の多さ。状況の進捗が見えにくい難解小説的である。神林美智子が,敵方に近付くストーリーが,途中で獲得される。熱海に比べ,飛龍の改変は,時代に合ったものという点では動機不十分である。現代史を作品に盛り込むことは,学生運動に対する共感があったものだろう。機動隊と全共闘委員長の禁断の恋。それしか,つかには,作品をうまく表現できなかったのだ。中卒の機動隊が,実は,社会的弱者でありながら,権力の,体制側の手先として消耗されていくのが,納得いかなかったのだろう。
在日コリアンとしての,作風を研究すべきか,否か。ある時期あった,つかの毒は何だったのか。つかの演劇では,あったはずの毒がなくなっていく。どぎつさ,猥雑さも薄くなっていく。ただ,つか現象が時代のものであったので,笑いの感覚の変化とともに,消えていったものもある。笑いから少し距離を置いて,弱い立場の人のことを多く考える。つか作品の人物は,なべて饒舌だ。自分の意見をとことん表明する。遠慮して立ち去るようなやわな存在はいない。ののしり,罵倒し,ヒステリックになりながら,言うべきときは,最後まではっきり言うのだ。
相手の本性を見るには,敬語を使え。突然,相手が敬語を使わなくなる。その時,何かが見える。つかの作品は,人間関係が安定している。運動家の木下は,神林美智子との出会いでは,ため口をきく。同棲し,やがて,神林美智子は,委員長になる。そこで,木下は口調を変える。
「ぼくには,別役さんに見えないものが見える」とつかは言う。この日本で,在日コリアンはどう生きるべきなのか。外国籍のまま公務員になれる国だって,世界にはある。「私には他の劇作家が見えないことも見えるのだ」。『広島に原爆を落とす日』の主人公は,日本軍に殺害された朝鮮国王の息子である。犬子恨一郎は,天皇を崇拝する。御前会議には召集されなかった。かわりに,真珠湾攻撃を命令される。うまく利用されたのだ。韓国に住みたい。しかし,自分は,うまく住めない。韓国の生活に関心はある。自身のことは,在任とはいわず,韓国人と言っている。
参考文献:つかこうへい 笑いと毒の彼方へ(元徳喜)
ビョードロ 終演いたしました!総動員2097人!どうもありがとうございました!
おぼんろ
d-倉庫(東京都)
2013/05/29 (水) ~ 2013/06/16 (日)公演終了
満足度★★★★★
うしゃしゃしゃしゃ・・・ぼぉくジョウキゲン
うしゃしゃしゃしゃ・・・ぼぉくジョウキゲン
ぼくは,ちゃんとやってるよ
みんなタネにしちゃたんだもの。
なのに,どうして,ぼくをきらうの?
ぼぉくジョウキゲン
ビョードロは,ぼくのぱぱ。
ぱぱが,ちちの日に,ぼくを殺しに探しまわっている。
ぼくは,逃げるよ。シーランなんか,し~らん。
ぼぉくジョウキゲン,うしゃしゃしゃしゃ
おぉ~おぉ~
みんなぼくのことを忘れないでね
また,いつか,ぼくは輪廻転生しちゃうからね
よくやった!末原拓馬!最高の童話をありがと!みんなタネになっちゃったけど,みんなネタは理解できたかな。
My favorite songs 2
まりりん
榎の樹ホール(東京都)
2017/10/28 (土) ~ 2017/10/28 (土)公演終了
満足度★★★★★
昨年とほぼ同じような規模,企画だったけど充実し,パワー・アップしていた。
ミュージカルは,あまり知らないので,すごい!なあと思う。
どれも非常にレベルが高いから。
かつての名曲も少しまぜてくれたので,なつかしい気持ちになれた。
アットホームなミニ・コンサートは健在だった。
ジゼル
萌木の村
萌木の村特設野外劇場(山梨県)
2013/07/30 (火) ~ 2013/08/10 (土)公演終了
満足度★★★★★
『ジゼル』は,現代の不倫問題にも該当し,解釈によっては悲劇にもなる。
『ジゼル』は,現代の不倫問題にも該当し,解釈によっては悲劇にもなる。
タリオーニとエルスラーの時代は去った。カルロッタ・グリジの時代が来た。彼女は,7歳からバレエをやっている。15歳になったとき,24際だったジュール・ペローと出会う。ペローは,バレエの指導者として優秀で,その様子は,名画ドガ『踊り子』に残されている。当時,メートル・ド・バレエは,ジャン・コラーリであった。『ジゼル』を誰が振付するか。プリ・マドンナであったグリジは,振付もやっていた恋人ペローのいいなりであった。そのために,『ジゼル』の振付は,記録としては,ジャン・コラーリとなっているが,実際には,ジュール・ペローの振付である。
グリジは,ドニゼッティのオペラでのバレエ・シーンが,初舞台であった。五幕でなく二幕の『ジゼル』は,グリジには取り組み易く,彼女を有名にした。原題は,『Giselle, ou Les Wills』で,1842年,ボードレールも崇拝する文学者テオフィル・ゴーチエが,書き下ろしたものである。ゴーチエの作品としては,もう一つ『バラの精霊』がある。ハイネの民話からヒントを得て,ユーゴー作品中の舞踏会も参考にしている。ゴーチエ同様に,バレエ好きなアダンは音楽を担当した。アダンは,視覚的に,踊り子の足を見ることが快感であったことを告白している。
『ジゼル』は,ロマンチック・バレエなので,異国趣味の,妖精物語。淡いはかない貴族と,村娘の恋という以上の意図はなかった。しかし,これが,すぐに,ロシアに渡り改訂され,フランスで上演されなくなっても,人気を得ていく。1884年頃,マリウス・プティパが大規模に作品を手直ししている。貴族のきまぐれな恋の物語は,『フィガロの結婚』『二都物語』も同様である。しかし,『ジゼル』は,現代の不倫問題にも該当し,解釈によっては悲劇にもなる。
以下,ストーリーを追うと,
村娘ジゼルの笑顔は,人を引きつける。彼女は,ダンスがとても上手である。あるとき,とおりすがりの男は,この娘に出会い恋に落ちた。しかし,彼には,許婚がすでにいた。そのことを隠しても,娘に近付きたくなって,アルブレヒトは転落していく。
村娘ジゼルのことを村で一番想っていたヒラリオンは,アルブレヒトの許婚であるバディルドと,彼女の父親を,無理やり密会の現場に引きずり出す。愛するアルブレヒトに許婚がいたことに衝撃を受けたジゼルは,もはや生きている希望を失ってしまうのである。
村には言い伝えがあった。恋に盲目となり,身を滅ばした者は,妖精となって,暗い森を彷徨う。娘たちをだました男がその森を訪れたら,妖精は復讐をすれば良い。皆でからかってやるといい。祝宴を催し,酒をのませ,毒牙にかけて,ダンスの相手をさせるのだ。妖精には,疲れという言葉は存在しない。だから,妖精たちが気の済むまで,ダンスの相手したまぬけな男たちは,気が狂うか,絶命してしまうしかないのだ。
ある日,ジゼルたちの祝宴には,二人の懐かしい顔があった。ひとりは,一方的に自分にのぼせあがって,挙句に,アルブレヒトと自分の恋を見事に引き裂いた,ヒラリオンである。もう一人は,村にたまたま寄ったために,自分のダンスを見て,自分の美に釘付けになり,はからずも恋に落ちたアルブレヒトだった。妖精たちの判断は,まず,ヒラリオンを死ぬまで踊らせて,目的を果たす。しかし,次なる標的のアルブレヒトには,ジゼルはなんの恨みも抱いていなかった。しいていえば,許婚の存在を明かさなかったことだ。ただ,最初にそのような男を誘惑したのも自分であり,恨む筋合いでもなかったのだ。この男に,本当に罰を与えて良いものなのだろうか。
というようなことになると,『ジゼル』は,きまぐれな貴族の遊びにされた恋という意味を失う。現代人の恋,不倫的な気持ちが起こるのは,自然なものか,許されざるものか,そいうシリアスな劇になる。
ところで,『ジゼル』の時代は,靴も十分に完成されていない。技術を,足の筋肉で補うのが精一杯であった。『ジゼル』の少し前の,『ラ・シルフィールド』で,初めて爪先の利用,ポワントが出現する。鳥のように軽やかで地に足がついていないこと,これを示すために,どうしたら良いだろう。一回跳ぶあいだに二回交差して,元に戻ってみよう,これが,アントルシャ・カトルと呼ばれた。
バレエの語幹bal-は,ラテン語の「踊り」を意味する。詩と音楽の融合,さらに,演劇・美術を加え,四つの要素から「バレエ」は生まれる。「バレリーナ」は,伊ballere「踊る」から来た。「マリー・タリオーニ」は史上最大のバレリーナだ。彼女は,北欧生まれのイタリア人であり,パリ・オペラ座の学校に入る。1830年,パリ民衆は,王政復古を嫌って,七月革命を起こす。ここで,パリ・オペラ座は,ときの権力者の直轄機関から,民営企業にかわる。ルイ・ヴェロン総裁は,複雑な風俗コメディを捨てた。音楽・美術に優れ,ストーリーはシンプルだが,踊りが自然に流れ出て来るようなバレエを構築した。そこで,ヴェロンは,タリオーニに白羽の矢をたてた。歴史上,ロマンチック・バレエといわれるものは,このとき出現する。
タリオーニは,風の精という当たり役を得る。 このドラマは,スコットランド大農園の子息が,許嫁との式直前に,風の精=シルフィードに心を奪われるという設定だ。風の精を一目みて,心奪われ,ジェームスは,許嫁エフィをすっぽかしてしまう。彼には,森の中で出会った妖精たちのことがどうしても忘れられなくなる。格別心を奪われたのは,シルフィードという名の妖精だ。妖精たちと,一晩中踊り,唄い,語らい,微笑みあっていた時間はあっと言う間に過ぎた。シルフィードは,妖精なので,その手に抱きしめることはできない。それは,わかっていた。悩んでいると,悪魔のささやきがあった。魔法使いマッジが,特別なスカーフをあげた。それでお好みの妖精を捕獲してしまえ。恋の炎に身も心も燃えつきてしまったジェームスは,そのようなことをすれば恐ろしいことが起こることは察知していたが,とうとう我慢できなくなる。ある日,宴が終わろうとするとき,突然,ジェームスは蛮行に及ぶ。たしかに,魔法使いマッジのいうとおり,妖精シルフィードを一度スカーフに絡みとることには成功する。だが,妖精シルフィードの羽根は,脆くも崩壊し,同時に,シルフィードの息も絶える。
この上演は,その後のバレエ史上にはかり知れない影響を与える存在となっていく。最大の功罪は,バレエの名を一方で破格の地位に押し上げたという点。それと,女子ども向きのセンチメンタルで甘ったるいスペクタルとの評価を強めてしまったという点。情景設定が,異国であり,幻想的な要素を多分に含むものが,バレエであるという認識も確立された。白い薄もののスカートのコール・ド・バレエが定番となった。シルフィードの息の根を止めた「スカーフ」は,バレエ芸術に生命力を与えた。
「ラ・シルフィード」が,1832年に初演された。マリー・タリオーニは,1837年にパリ・オペラ座を去る。彼女をスターにしたヴェロンは,彼女にライバルを与えた。パリ・オペラ座では,スターに独断場を決して与えない伝統があった。ここで,ファニー・エルスラーが抜擢された。彼女は,オーストリア人でロンドンにいたところを引き抜かれる。ヴァイオリンの名手に特訓を受ける。タリオーニは,宙を漂うように舞う。エルスラーは,しっかりと地についた踊り方をした。エルスラーは,タリオーニにとって手ごわいライバルとなった。エルスラーが,タリオーニの当たり役「ラ・シルフィード」を踊ると騒ぎになった。やがて,エルスラー自身は,アメリカに渡り大歓迎を受ける。パリ・オペラ座から,しばらくスターはいなくなった。
参考文献:バレエの歴史(佐々木涼子)
袴垂れはどこだ
劇団俳小
シアターX(東京都)
2017/12/13 (水) ~ 2017/12/17 (日)公演終了
満足度★★★★★
前半部分はやや退屈になったが、後半俄然盛り上がった!正義を振りかざすひとは、義賊になっても心安らぐ場所はない。そういう教訓かと思う。抜群の完成度です。
バックホーム
園田英樹
新宿シアターミラクル(東京都)
2017/12/21 (木) ~ 2017/12/28 (木)公演終了
満足度★★★★★
若さあふれる青春ものだったようです。ダンスもかなり楽しい。一番よかったなは、弾き語りというものにもにて、ピアノの生伴奏。すごくよかったですね!
ジゼル
萌木の村
萌木の村特設野外劇場(山梨県)
2013/07/30 (火) ~ 2013/08/10 (土)公演終了
満足度★★★★★
ロマンチック・バレエ『ジゼル』を見た。
まだ,演劇・ミュージカルを観ることになって,二年とか三年とかしかならない。いまでも,何が好きなのかよくわからない。特に好きなものを決めて,そればかり見るのが良いとも思わないので,最近は,バレエなども見る。
一か月ほど前,『不思議の国のアリス』を見た。これは,上野でフルオーケストラだったので,演出ほか素晴らしい体験ができた。清里で,自然の中で行うバレエが,どんなもんであるか,それが気になって『ジゼル』見ることになった。
いつの日か,クラシック・バレエもいいとは思うけど,『ジゼル』のようなロマンチック・バレエが今の私には結構魅力的だ。むしろ最初,こういうストーリーがバレエの中に織り込まれているものが好きだ。それでは,演劇の部分と,ダンスの部分が,明確に区別されたクラシック・バレエ,たとえば『白鳥の湖』のようなものは,どう優れているのか。そのことは,またいつの日か,楽しみにしたい。
清里『ジゼル』は,野外ステージで,広大な自然をバックに美しい演劇が見られた。昼間,練習風景も見ている。ほとんどがラフな格好をして,何度も指示されながら,懸命に練習しているのを見ると,自分の関係者のような気分になれる。その親近感のわいた集団が,夜間に幻想的なステージを次々に展開するのは,驚いた。ショー・アップされた『ジゼル』は,心にしみこんだ。
ロマンチック・バレエなので,ストーリーがしっかり理解できた。ジゼルは,心ならずも結婚の約束をした彼女がいる貴族と恋に落ちる。そのことでは,両方とも問題がある。でも,二人が深く愛しあっていた様子は,美しいバレエのテクニックで見事に表現されていく。二幕しかない『ジゼル』は,後半がさらに凄い。森の墓場で,アルブレヒトは,ジゼルを懐かしく思い出す。すると,その声に森の妖精となったジゼルの幻想が,よみがえる。
狼少年ニ星屑ヲ 終演しました!沢山のご来場ありがとうございます!
おぼんろ
ワーサルシアター(東京都)
2016/10/25 (火) ~ 2016/10/30 (日)公演終了
満足度★★★★★
ガンバレわかばやしめぐみ!
おんぼろ、おぼんろ、の原点がわかった。好カード(^o^)
劇団の珠玉は、ビョードロだと思われます。作中人物で毎回抜群の存在感は、『弁士』だろうか。その低音の魅力、圧巻です。下北沢落語でもかつぜつの良さが発揮されていた。その『弁士』は、どうも、本公演に謎が隠されていたのだ。
本日の公演は、10*30と言ってみなに、一日違っている指摘を受けていた。
不思議の国のアリスより
劇団パラノワール(旧Voyantroupe)
サンモールスタジオ(東京都)
2013/06/20 (木) ~ 2013/07/01 (月)公演終了
満足度★★★★★
楽しい時間をありがとう・・・
不思議の国のアリス:奇妙などっかのウサギ・奇妙な狂った帽子by劇団海賊ハイジャック
オックスフォード大学の数学講師,チャールズ・ラトウィッジ・ドットソンは,1862年,三人の少女たちとボート遊びをしました。その中に,アリス・プレザンス・リドル(10)が含まれていました。
この時の手づくりの本が,ウサギの穴に落ちた『地下の国アリス』で,ドットソンが,ルイス・キャロルその人です。物語のアリスは,設定では,7歳になっています。
白ウサギは,何をあらわしていたのでしょうか。ドットソンは,白い手袋を愛用していたようです。
アリスが,若さ,大胆さ,元気を象徴しているのに比べ,白ウサギは,年齢,臆病,よわよわしさを,あらわしているのではないでしょうか。白ウサギは,めがねをかけています。
「三日月ウサギのように,いかれている。帽子屋のように,頭がおかしい。」昔からの英語表現がそこに再現されています。
ことば遊びは,とても大事で,想像力を刺激するでしょう。少し,常識を逸脱した会話やら,とりとめもないやり取り,なぞなぞ,そういうものにこそ,おもしろいものが隠されいる。ときには,そこから哲学が始まる。
クロムウェルの共和制が崩壊し,王政が復古した17世紀後半から,上流階級の楽しみだった観劇は,19世紀なかばから,一般大衆の娯楽となっていきます。上演特許も開放されます。劇場は大衆の娯楽となり,少し品がなくなります。
1855年頃,『不思議の国のアリス』は,キャロル自身によって,舞台化が意図され,彼は,喜劇の本質,劇的効果,を一生懸命に考えました。
魅力的なかわいいアリスを,劇のかたちで,大衆に紹介したい。うまくはまり役になってくれる少女がほしい。『不思議の国のアリス』は,舞台化することによって,知的な大人の間にも浸透していくにちがいない。ただ,音楽にも,歌詞・台詞にも上品さを求めたい。子どもは,とても記憶力が良いので,詳細に物語を覚えているものである。
あの,もし,ウサギさん。今日はなんて,へんな日なんでしょう。
昨日までは,いつもと同じだったのに。
夜のうちに,私が変わってしまったのかしら。
猫さんありがとう。
あなたは,本当に物知りだわ。
お話も上手だし。
罪だとすると,妃や。処刑はできないのだよ。
不思議の国のまぼろしは,終わり。
あの哀れな帽子屋は,きっと悪いやつにちがいない。
目をさましなさい。夢の芝居は終わりです。
人は,だれでも,何かしらにこだわっている。
何にこだわるべきか。
後世に残る傑作とはどういうものか。
作品に「愛情」があったのか。
児童文学としての『不思議の国のアリス』に少女は,作品中で友達は見つからない。感銘を受ける大人も出て来ない。性格も結構ゆがんでいて,まわりとの軋轢も多い。ただただ,ほこり高く,好奇心は旺盛である。私はだれなの,どこにいるの。不思議な冒険が魅力だ。自分がだれだかわからない。今朝から,何度も大きさが変わっている・・・アリスは,いもむしに会う。さなぎから,蝶へ,形態が変わる。そういう生き物もいるのだ。きのこを食べると,からだの一部が変化する。相手が自分のアイデンティティを決める世界。
森の中で,帽子屋と三月ウサギとネムネズミの茶会で,自分の入っていけない閉鎖社会に愕然とする。ただただ無視され,疎外されていく。アリスが去ってもだれも,気にもとめない。
自己のアイデンティティの決定権を,ほぼ完全に他人にゆだねる。そのようなメッセージが浮かぶ。
Be what you would seem to be.
あなたが,そうであると,おもうものに,なりなさい。
我慢ならない「不条理」の世界。
キャロルは,娘に上流社会に無理してはいっても,そこは,不毛な世界かもしれない,よと教えたのかもしれない。人は,個人の価値で判断されるもので良い。社会的身分など瑣末なことにちがいない。
『鏡の国のアリス』につづく・・・
君の明るい笑顔も 笑い声も,遠くなる。
私のことなど君はやがて,忘れてしまうだろう。
でも,いま,君はぼくの物語を聴いてくれる。
それだけで十分なのだ。
参考文献:不思議の国のアリス(角川文庫)&出会いの国のアリス(楠本君恵)
「ワーニャおじさん」「かもめ」「三人姉妹」「櫻の園」
劇団だるま座
アトリエだるま座(東京都)
2012/12/24 (月) ~ 2013/01/27 (日)公演終了
満足度★★★★★
このチェーホフは,良かったと思う。
『かもめ』では,トレープレフ(コースチャ)は,才能があったが,俗物の母にはバカにされるわ,母の愛人トリゴーリンに恋人ニーナを横取りされる。結局は,ニーナを忘れられず自殺してしまう。チェーホフの世界は,気分・余韻の劇だから,明確に自殺のことは表現されていない。ただ,暗示されているに過ぎない。
『三人姉妹』のイリーナは,劇中ひどく変化していく。最初は,夢を持ち労働にも意欲的である。しかし,次第に,現実のつまらなさ,単調さに苦しむ。最後は,愛のない結婚をしても良いと考えるものの,その相手トゥーゼンバフは自殺まがいの決闘で自分から去ってしまう。それでも,生きていくのだと・・・とちかう。軍医の「同じことさ」という虚無的なことばが,ずっと心に残っていく。
『ワーニャ伯父さん』は,ちょっと気の毒な人間だ。尊敬しきった教授閣下は,その実たいしたものでないと気が付くが,ときすでに遅いのだ。ソーニャも,無謀な恋に狂い,何もできない。ふたりは,深く絶望し,ただ耐えることのみだ。とはいえ,意外と多くの人間にとっては,人生で勝者になれないことばかりだ。だから,演劇がリアルになる。
『桜の園』は,気分の演劇であるチェーホフの傑作だと思う。ロパーヒンは,さくらんぼ畑に斧を入れることしか頭にない。この『桜の園』転売の始末で,もともと孤児の境遇のシャルロッタは,またまた逆境に転落していく。軽妙に手品などやっている場合ではないのだ。どこかおかしみがあるが,その中に,しんみり人生の悲哀を感じさせてくれる。
四作品を通しで,上演してくれたことでいろいろな発見があった。また,猥雑で狭い劇場の中,観客も演者と同化していく。このチェーホフは,良かったと思う。
十二夜 The Twelfth Night
オックスフォード大学演劇協会(OUDS)
東京芸術劇場 シアターイースト(東京都)
2014/08/02 (土) ~ 2014/08/03 (日)公演終了
満足度★★★★★
楽しい時間をありがとう
東京芸術劇場で、『十二夜:The Twelfth Nig ht』を観た。これは、オックスフォード大 学演劇協会によるものだ。字幕は、高い位 置にあったんだが、英語でやるものだから たいへんだ。自慢じゃないが、シェイクス ピア演劇を、英会話のままで理解できる能 力はない。
この作品は、数ヶ月前たまたま下北沢でや っていて、内容をほぼ覚えていた。ふたご の兄妹は生き別れになる。兄の衣装で待っ たが、似てるから話は混乱する。
ハープの生演奏とか、オンブラマイフが心 地良かったと思う。シェイクスピアのセリ フは、長くて速いから理解するのはじつに たいへんだ。しかし、日常会話的なところ は時々きれいにキャッチできる。なんか楽 しい体験だ。
シェイクスピア演劇は、英語の韻などにそ の魅力がある。だから、翻訳した演劇は日 本化された何物かなのだ。たまには、英語 のままなにかを感じ取るのも良いものだ。
子供の時間
スターダス・21カンパニー
阿佐ヶ谷アルシェ(東京都)
2014/06/22 (日) ~ 2014/06/29 (日)公演終了
満足度★★★★★
素晴らしい傑作!
Truth exaggerated may be falsehood.
リリアン・ヘルマン『子供の時間』を,阿佐ヶ谷で観た。とても良い演劇だった。スピード感あり,心理描写が卓越していて,たいへん良いものだった。
ドビー寄宿学校には,美人教師カレン・ライトがいた。結婚も決まっていた彼女には,創設以来の無二の親友マーサ・ドビーがいた。彼女は,どうも男には縁がないようだ。むしろ,カレンと毎日同じものを見て,同じ作業をし,生活をすることが唯一の幸せである。マーサは,どこか変なのだ。女性なのに,カレンしか見ていないのだ。
子供というものは,動物的感がさえている。だから,このことに大変心を悩ます。一番のお転婆むすめメアリーは,カレンと悉く対立する。あいつは,自分ばかりしめつける。これじゃ息もできないじゃないか。こんな化けものみたいな学校,おばあちゃんに言いつけてつぶしてやるんだ。カレンは,世間知らずで,このような意図になぜか気がつかない。
あるとき,メアリーは,ロザリーが,外出するのに,黙って友達の「飾りもの」を拝借した現場を目撃する。ようし,あいつは,この弱みで今後アタシの子分だわ。いざとなったら,なんでもあの子のせいにしてしまえばいい。メアリーは,ロザリーをうまく利用して,カレンと,マーサがレズであった!というデマをばらまく。
この事件を,ティルフォード夫人が膨張させてしまう。やがて,カレンとマーサは,裁判において負けていく。彼らは,学校経営において,平気でほかの同僚を追い出すような自分勝手なひとたちだったので,証言を拒まれてしまったのだ。
カレンは,恋人との関係もギクシャクしていくのに気がつき,別れを口にする。ここにいたって,カレンにはさほどそのような感情はなかったかもしれないが,アタシには,結構そのような不自然な感情が確かにあったのかもしれない・・・と,マーサが反省をすることになる。マーサは,結局自殺するのだ。
Nicky
ミュージカル座
光が丘IMAホール(東京都)
2014/08/19 (火) ~ 2014/08/24 (日)公演終了
満足度★★★★★
『演劇論の変貌』の中で位置づけられるミュージカル『ニッキー』ほか。
『演劇論の変貌』の中で位置づけられるミュージカル『ニッキー』ほか。
『演劇論の変貌』という本の序で,毛利三弥氏は,われわれが日常的に楽しんでいる演劇について,大学ではどう研究されているか,説明している。
世界で最初の,演劇学科は,1923年に,ベルリン大学で設立された。このときまで研究者は,文学科の中にいて,ドラマ研究をしていた。演劇研究の中心は,テキストである「文学」ではなく,上演されたものでなくてはならない。
しかし,舞台表現は,完成と同時に消滅する。過去の舞台表現を再現することはできないのだ。演劇学科が出現する頃には,「演出家」の台頭というものがある。演出そのものの定義があいまいだが,それ以前にも,座長演出みたいなものはあったようだ。スタニスラフスキーなどは,役者兼演出だった。
文学テキストとしての戯曲が,読むだけでは想像できない舞台になる。そのとき,演劇は,文学の領域を飛び出してしまう。確かに,イプセンの戯曲を何度も読んでいるので気がつく。実際に目の前で上演されたものは,戯曲を読めばさらに理解が深まる。しかし,そうでない作品は,どこかぼやってとしている。
パフォーマンスということばは,大道芸みたいなものをイメージするだろうか。このパフォーマンス(performance)という言葉が,演劇・音楽・ダンスなどを総称して呼ぶうちに,いろいろな使い方がされ,キーワードに利用された。パフォーマティヴィティ(performativity)と抽象名詞化していく。
新しい演劇・ミュージカルの傾向には,いろいろな特徴がある。工業資本による娯楽性付加には,「お話」が重要で,保守的と思われるドラマ回帰が目立つ。(『ニッキー』みたいなものでしょうか?)。異文化接触上演intercultural performance(『ライオン・キング』が該当するかもしれません)。
先端テクノロジーに依存する舞台表現。これは,何を言っているのか。『ミス・サイゴン』で,ヘリコプターが飛ぶような仕掛けのことでしょうか。演劇よりダンス,あるいは,ダンステアターに,現代的前衛上演のあり方を求めている風潮。例えば,『葉っぱのフレディ』も『ココ・スマイル』もそうですね。一番すごかったのは,やっぱり,『ニッキー』でしょうか。
『演劇論の変貌』の一著者は,演劇の上演的側面をいかに美学的にとらえるかが,関心の中心となってしまう。ということは,論理的な問題,ストーリーは,二次的に観て良い,演劇・ミュージカルもあるということでしょうか。ただ,ストーリーも,大事なのだと私は思うのですが。
鹿鳴館
劇団四季
自由劇場(東京都)
2013/06/02 (日) ~ 2013/06/29 (土)公演終了
満足度★★★★★
三島由紀夫『鹿鳴館』を観た。
三島由紀夫『鹿鳴館』を観た。これは,どのような物語なのだろう。核になるのは,男二人と,女一人の三角関係だ。子どもがひとりいるが,実の父と決別し,母の嫁ぎ先で世話になる。
影山伯爵には,愛する妻がいる。この妻は,前の旦那であった,清原といつまでも心の絆を持っている。影山伯爵は,どうしてもそこが許せない。実際に二人の間には,子どもがいた。影山伯爵は,策謀を練って,清原殺害を企てるが,清原の子どもが,父を憎んでいたので,これを利用しようとする。しかし,結果的には,清原の子どもは,父親に返り討ちに会って死んでいく。
このような物語が終わってみて,さて,四者は何を失ってしまったのだろうか。影山伯爵は,政敵である清原を生ける屍と化して勝利を得る。清原は,もはや,政治的な活動をする気力もない老人になる。朝子は,子どもを,さらには,愛する清原も失い,伯爵家から出ていく。久雄は,実の父親への怨執を解くこともできず,貴族社会に同化することもできず,恋人を残し他界する。
この作品も,サルトルの『汚れた手』と似ていて,少々汚い手を使うことが,政治の王道なのだ,というメッセージがある。しかし,サルトルの方が,登場人物がみな高潔なのに比べ,三島由紀夫の『鹿鳴館』は,かなり卑劣な展開になっている。影山伯爵は,要するに何でもありの,ろくでなしなのだ。明治維新が進む中で,起こったかもしれないような事件。そこで,三島は何を本当は描きたかったのだろうか。
ライオンキング【東京】【2023年1月22日昼公演中止】
劇団四季
四季劇場 [春](東京都)
2000/01/01 (土) ~ 2016/05/28 (土)公演終了
満足度★★★★★
楽しい時間をありがとう、菅野花音
ライオンキングは、有名過ぎるので、敬遠 していた。しかし、劇団四季のレパートリ ーのなかでも、秀逸なものだと感じた。誰 が見ても、面白いし、かつ感動できるとい える。
叔父さんにだまされた話は、劇の中で良く あると思う。おじさんは、叔父で結婚もで きず、子どももいないから、暗い。兄が優 秀で、比較されて、いじけてゆくものだ。
シンバとナラは、悪役を憎んでボコボコに しなくてはならない。ミュージカルだから 、ストーリーはシンプルな方がいい。高ら かに、王位奪還は完成する。
これに対し、コリオレイナスとか、オセロ は悲惨だ。勝ち誇ったはずの主役が挫折し て、終わる。やっぱり、ときどきは正義が 勝つ作品を見たいものだ。
PS.
本橋哲也さんの本による。舞台版ミュージカル『ライオン・キング』の原作は,1994年制作の,ディズニーのアニメーション映画。確かに,今回の観劇で,なにかに雰囲気が似ていることに,気がついた。そうだ,アニメ映画の展開とそっくりなのだ。映画作品は,アカデミー賞などもゲットした。
劇団四季の売店ではCDを購入した。そこには,エルトン・ジョンの名前がある。南アフリカの音楽家も共作しているようだ。アフリカ音楽といえば,モリカンテの曲が有名だ。何度も聴くと,リズミカルであり,センセーショナルだ。今回,『ライオン・キング』は,アフリカンの音楽に圧倒された。
劇団四季では,『オペラ座の怪人』でのその音楽が素晴らしかったという体験がある。やはり,ミュージカルは,ストーリーで観るものでなく,ナンバーの魅力に感動すべきものなのだろう。そういう意味では,フル・オーケストラというわけではなかったけど,結構楽しめた。すごかった。
アフリカン・ミュージックというのは,私の印象では,バラードみたいなものじゃない。魂をゆり動かし,生命の躍動を喜ぶ,ドラムによる単調なメロディに特徴があると思う。音楽というのは,ときには,単純な繰り返しが,身体の中にしみこんでいくようなことがある。そのとき,音楽に魅せられる。
http://jp.youtube.com/watch?v=cIUD1Z3pU1g&feature=related
ほかに,音楽と並んで,ダンスの素晴らしさがある。ダンスは,一番身近なものになっているが,その源は,どういうものか,あまり研究されていない。私は,バレエの歴史に少しヒントを感じる。オペラの影的な存在だったが,バレエもまた,チャイコフスキーなどによって,一世を風靡し,地位を向上した。
人間が,人間の舞踏を素朴に楽しむということは,大事なことだろう。クシェシンスカヤは,バレエにおいては,音楽の方が目立ってしまった「クラシック・バレエ」でなかった,『ラ・シルフィールド』とか,『ジゼル』など,芝居部分が魅力的な時代を懐かしむ。高く評価する。だとすると,ミュージカルも同じ。
『ライオン・キング』は,総合芸術的に観て,たいへん興味深い。
教室短編集
劇団「14歳」
シアターグリーン BASE THEATER(東京都)
2012/06/19 (火) ~ 2012/07/01 (日)公演終了
満足度★★★★★
『山に登る』は,何を意味しているのかしら。
坪田文の教室短編集で,『リボン』は,もっとも格調の高い作品だと思いますね。
確かに,『チェリーボンボン』の出だしで,無難な人生なんて,ごみ箱に捨てて,アイドルを目指します。つまり,これは,女優をめざす少女たちへのエールそのものです。
では,『山に登る』は,何を意味しているのかしら。山という名の「普通の人生」かな。「女優の道」は,みんなが選ぶ道ではないので,たいへんそうだって言う意味かな。あるいは,劇団14歳みんなが登る,山=「女優の道」は,はたして登る意味があるのか,ないのかって,話かもしれませんね。私は,意味あると思いますよ!
『春の日』は,どうして,少女が自殺していった話をせつなくも,みんなで追悼しているのか。もしかして,サエコが,女優をめざしていたら,と考えてみました。本人は,すごく悩んで自殺までいっちゃうんだけど,教室の仲間には,ごく普通のかわいいお友達でしかなく,とにかく生きて一緒に卒業したかった。あんなに歌が上手で,変な芸もできて,そうか,「ミュージカル女優になりたい」なんて言えないし,両親の理解もないし,うつ病になっちゃったかな。悲劇だよね。
『リボン』は,谷賢一演出だし,もっとも教室短編集の核になる作品でしょう。女子校生の間で,お互いが,お互い一番理解したい,されたい,そういう世界があること。そのことを,普通の大人=観客に,「あなたたち自身で,表現し,伝えてみて!」といったものでしょうね。これが,たぶん一番,深い世界で,現代演劇的で,劇団14歳らしい,難しい部分ではないかな,と思いました。
小公女セーラ
Japan Art Revolutionary
渋谷区文化総合センター大和田・伝承ホール(東京都)
2018/06/14 (木) ~ 2018/06/16 (土)公演終了