満足度★★★★★
楽しい時間をありがとう・・・
不思議の国のアリス:奇妙などっかのウサギ・奇妙な狂った帽子by劇団海賊ハイジャック
オックスフォード大学の数学講師,チャールズ・ラトウィッジ・ドットソンは,1862年,三人の少女たちとボート遊びをしました。その中に,アリス・プレザンス・リドル(10)が含まれていました。
この時の手づくりの本が,ウサギの穴に落ちた『地下の国アリス』で,ドットソンが,ルイス・キャロルその人です。物語のアリスは,設定では,7歳になっています。
白ウサギは,何をあらわしていたのでしょうか。ドットソンは,白い手袋を愛用していたようです。
アリスが,若さ,大胆さ,元気を象徴しているのに比べ,白ウサギは,年齢,臆病,よわよわしさを,あらわしているのではないでしょうか。白ウサギは,めがねをかけています。
「三日月ウサギのように,いかれている。帽子屋のように,頭がおかしい。」昔からの英語表現がそこに再現されています。
ことば遊びは,とても大事で,想像力を刺激するでしょう。少し,常識を逸脱した会話やら,とりとめもないやり取り,なぞなぞ,そういうものにこそ,おもしろいものが隠されいる。ときには,そこから哲学が始まる。
クロムウェルの共和制が崩壊し,王政が復古した17世紀後半から,上流階級の楽しみだった観劇は,19世紀なかばから,一般大衆の娯楽となっていきます。上演特許も開放されます。劇場は大衆の娯楽となり,少し品がなくなります。
1855年頃,『不思議の国のアリス』は,キャロル自身によって,舞台化が意図され,彼は,喜劇の本質,劇的効果,を一生懸命に考えました。
魅力的なかわいいアリスを,劇のかたちで,大衆に紹介したい。うまくはまり役になってくれる少女がほしい。『不思議の国のアリス』は,舞台化することによって,知的な大人の間にも浸透していくにちがいない。ただ,音楽にも,歌詞・台詞にも上品さを求めたい。子どもは,とても記憶力が良いので,詳細に物語を覚えているものである。
あの,もし,ウサギさん。今日はなんて,へんな日なんでしょう。
昨日までは,いつもと同じだったのに。
夜のうちに,私が変わってしまったのかしら。
猫さんありがとう。
あなたは,本当に物知りだわ。
お話も上手だし。
罪だとすると,妃や。処刑はできないのだよ。
不思議の国のまぼろしは,終わり。
あの哀れな帽子屋は,きっと悪いやつにちがいない。
目をさましなさい。夢の芝居は終わりです。
人は,だれでも,何かしらにこだわっている。
何にこだわるべきか。
後世に残る傑作とはどういうものか。
作品に「愛情」があったのか。
児童文学としての『不思議の国のアリス』に少女は,作品中で友達は見つからない。感銘を受ける大人も出て来ない。性格も結構ゆがんでいて,まわりとの軋轢も多い。ただただ,ほこり高く,好奇心は旺盛である。私はだれなの,どこにいるの。不思議な冒険が魅力だ。自分がだれだかわからない。今朝から,何度も大きさが変わっている・・・アリスは,いもむしに会う。さなぎから,蝶へ,形態が変わる。そういう生き物もいるのだ。きのこを食べると,からだの一部が変化する。相手が自分のアイデンティティを決める世界。
森の中で,帽子屋と三月ウサギとネムネズミの茶会で,自分の入っていけない閉鎖社会に愕然とする。ただただ無視され,疎外されていく。アリスが去ってもだれも,気にもとめない。
自己のアイデンティティの決定権を,ほぼ完全に他人にゆだねる。そのようなメッセージが浮かぶ。
Be what you would seem to be.
あなたが,そうであると,おもうものに,なりなさい。
我慢ならない「不条理」の世界。
キャロルは,娘に上流社会に無理してはいっても,そこは,不毛な世界かもしれない,よと教えたのかもしれない。人は,個人の価値で判断されるもので良い。社会的身分など瑣末なことにちがいない。
『鏡の国のアリス』につづく・・・
君の明るい笑顔も 笑い声も,遠くなる。
私のことなど君はやがて,忘れてしまうだろう。
でも,いま,君はぼくの物語を聴いてくれる。
それだけで十分なのだ。
参考文献:不思議の国のアリス(角川文庫)&出会いの国のアリス(楠本君恵)