monzansiの観てきた!クチコミ一覧

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晩餐

晩餐

タクフェス

サンシャイン劇場(東京都)

2013/10/03 (木) ~ 2013/12/08 (日)公演終了

観客も正解をだせない「味噌汁の具材」


『東京セレソン•デラックス』が解散したのは昨年12月だった。
「新しいステージ」のための決断らしいが、それが『TAKUMA FESTIVAL JAPAN』とは一体、誰が考えただろうか。

吉祥寺のシェア•ハウスで繰り広げられる「ハートフル•コメディ」は、家族だとか、恋人だとかを「本当に大切に想う」ことの難しさを 教えてくれる。

味噌汁に例えよう。
Aさんの好物である大根を入れれば、Bさん の好物である“ワカメ”を入れることは出来ない。
Aさん、Bさん両方の好物も採り入れるには、Cさんの好物である味噌汁を あきらめ、シーザーサラダへ料理を変更しなければなるまい。
味噌汁の中の具材問題を突き詰めていくと、国家予算すら等しいテーマ性が浮かぶ。そして、その苦渋さは、「生死」や「未来」が交われば、誰も「本当に大切に想う」ことの正解を答えられない。


主宰の宅間孝行氏は誌上、「東京ディズニーランド」に負けないエンターテイメントを目指す旨、語った。この思想が、芝居中の「撮影タイム」だったり、終演後の「ハイタッチ」に つながっている。
『ミュージカル•テニスの王子様 』の出現で、「宝塚のファンが一時、取られた」声を聴くと、ファン•サービスを 怠る 劇団は いずれ滅びゆくのかもしれない。
『TAKUMA FESTIVAL JAPAN』の特筆すべき点は、金銭を求めないで舞台+のエンターテイメントを追求する姿勢だろう。撮影も、ハイタッチも、原資は0円である。
多くのイケメン劇団がリピーター券 等 購入した観客のみを撮影会やハイタッチ会の対象にする状況は、見方を変えれば売上第一主義に他ならない。最前列のブロックを「特別席」と称し、ポスターやパンフレットを与えるシステムも同様だ。

『TAKUMA FESTIVAL JAPAN』の『FESTIVAL』は つまり、こうした現状を刷新して劇場空間そのものを「お祭り会場」化する試みである。お祭りの 伝統的な姿は住民を区別せず誰しも参加可能のはず。

古い慣習を打ち破れない劇団、売上第一主義に固執する劇団に一石投じる御輿だ。

































本気盛がっつり死物狂~怪談編~

本気盛がっつり死物狂~怪談編~

劇団ヒポポペペヒポポンポ

東京大学駒場Ⅰキャンパス(東京都)

2013/10/18 (金) ~ 2013/10/20 (日)公演終了

「四畳半のリング」〜設定の快挙だ

老婆が割烹着を着て、青年会議所の男達が法被をまとい、少年が廻し一本付けるような設定(シチュエーション)の快挙である。


※ネタバレへ

ネタバレBOX


それは、「東京都の村」「プロレス」「メキシコ」を束ねる、図太い紐だ。ほどける度、狭い室内からは笑いが放たれ、中央の舞台で演じるダイソン式掃除機たちに飛び散ったホコリを吸収してもらう。

「案外」と記せば失礼かもしれない。
プロレスの技だとか、一種のパフォーマンスだとか、入場の音響だとか、まるでハワイのフラダンスを現地で観るかのごとく、迫力十分だったのである。
旗上げ公演の錦を上げたとしても、出演者は過去、主役級を務めてきた面々であり、高級ホテルのディナーへ向かう安心感だった。


私は公演時間70分間を聴き、マック•ウェーバーの『職業としての政治』並みのページ数のなか、どれだけ蔵書の字数を入れられるのか、疑問を抱いた。
だが しかし、彼らはコンパクトにまとめ上げ、これからも再版されうる内容を築いたのだ。

名場面として私がカウントするのは霊媒の踊り。
歌、踊り、ダンスは、スワロスキーのクリスタル•ベアーように観客を魅了させなければならないものと相場が決まっている。こうしたスタイリッシュな固定概念を覆す、強力なシーンだった。

今回は『怪談編』の助け舟が港に到着したが、コメディ•メッキの釘を抜いた次回以降も「面白さ」を持続できるか、見もの である。
突如、幕の降りるラストは新鮮だった。私は、間違いなく、父と娘が抱きしめ合うシーンが続くと思ったし、それがテーマ性とすら考えた。

この未解決の締め方は歴史に残る。
Two Moons

Two Moons

明治大学演劇研究部

アートスタジオ(明治大学猿楽町第2校舎1F) (東京都)

2013/10/18 (金) ~ 2013/10/20 (日)公演終了

「ラムネ色の青春」と東日本大震災



それは、ラムネ瓶をコンクリートの路上へぶつけ、「青春」の泡がブクブクと溝を辿る光景である。

弾けた後に残った感情が、ぬるいラムネの味と そっくりだ。


「1対1」の若者の対話を、10分 間以上 辞めないのは 前回公演『はるうすねいしゃん』でも炸裂した技であるが、その静寂を通し、主人公の青年の筍のような純粋さ が私には伝わった。
東日本大震災に打ちひしがれた日本全国の若者へ、「記憶」という人差し指を掲げ、「友情」だとか、「仲間」だとか、「生きがい」だとか、大切なものを与えてしまうメッセージ。

あの3.11を境に、東北沿岸の住民は「海が嫌いだ」と声を上げたし、「それでも海がないと暮らせない」複雑な本音も語った。
前者は自宅を失った女子高校生であり、後者は市場ごと流された水産業者である。

主人公の青年は高校生の頃、水泳の部活動を行っていたらしい。
その設定は、今紹介した東北沿岸の住民の声を1人の青年に置き換え、「ところで、“海”って何だろう…」を追う知的世界の狩人に他ならない。

ファンタジーの煙を充満させた。

しかし、「1対1」の対話が 額面通りの青春像だったので、私たちと全く等身である。
東日本大震災で流された海上に、ラムネ色の青春は今もユラユラと浮かぶ。








Show the BLACK

Show the BLACK

大川興業

ザ・スズナリ(東京都)

2013/10/11 (金) ~ 2013/10/14 (月)公演終了

「災害ユートピア」が暗闇に潜んでいる
暗闇の中、劇場に響き渡るのは、役者の放つ声のみ である。
姿形が見えぬなら、音響プレイヤーをステージに置き、それを流せばいいのではないか、という人もいるだろう。

その疑問は的を得ており、たとえば映画館のスクリーンを照らす映写機が故障していた場合、作品の音声だけでもチケット代1800円 支払う観客は皆無である。もし、字幕版『アバター』を音声だけで聴けば、臨場感のある英会話にすぎない。

だが、このような【?】を頭上に浮かべる紳士淑女は、「暗闇演劇」を一度も観劇しておらず、ネオン街の生活に溺れてしまっていることを察する。
今すぐ、ネオンの小さな発光体をリサイタル店に出すか、秋葉原で高環境性能のLEDを購入し、付け替えるべきだろう。

「暗闇演劇」の特徴は、都会から一つの「別空間」として劇場を分離する点にある。これが、世に云う「怪談噺」の雰囲気作り だが、やはり見知らぬ人同志が肩を寄せ合い、「別空間」を共有するのは日常生活を送るなかで そうはない。私は、東日本大震災で海外メディアが「支援物資に並ぶ日本人」を賞賛した記事と結び付けたく思う。
「災害ユートピア」と呼ばれる、大規模な自然災害後に出現する人と人が共生の精神の下、供に助け合う集団現象の一つの現れ である。震災後、仮設住宅での家庭内暴力などは問題になったものの、「社会動乱」(自然災害含む)を機に内閣へ非常事態権の付与を可能とした改正憲法案を読むと、自然災害を もう一つの顔=「災害ユートピア」のアプローチで考える観察眼も必要ではないか。

観客(他者)の存在を感じるのは「笑い声」…。あるいは、「笑い声」を発することでしか、自らの存在を示すことはできない。
おそらく10年目を迎えた「暗闇演劇」のレビュー史のうち、観客の相互関係を紐解いた文書は 他にあり得ないだろう。


密室で起こるサスペンスだとか、笑いだとか、疑心だとか、団結だとか、そういった糸を辿ってゆく感覚は いつの日かの少年である。
この演劇を、スポットライトを当てた上で行ったとしても、私は「すぐ消してください」と切望するに違いない。


※ネタバレ



街から灯りを消せば、電力と 煩わしい毎日は排水管の底へ沈む。しかし、一人きりになれ、とは言わない。
「蝋燭」の周りに、見ず知らずの人々が集まり、供に同じ空間を共有する…。それこそが、中世ヨーロッパの共同体であって、日本の落語文化であって、社会的には「災害ユートピア」へ繋がるのだと思う。
私たちは劇場を出た時、旅に疲れ癒されたヒッチハッカーである。


ネタバレBOX

もちろん、2時間 ずうっと暗闇だったわけではなく、「蝋燭」程度のライトアップにより圧倒的身体美を見せつけられたシーンも あったのだが。
東京パフォーマンスドール PLAY × LIVE 『1 × 0』(ワンバイゼロ)エピソード3、エピソード4

東京パフォーマンスドール PLAY × LIVE 『1 × 0』(ワンバイゼロ)エピソード3、エピソード4

キューブ

CBGKシブゲキ!!(東京都)

2013/10/11 (金) ~ 2013/11/24 (日)公演終了

パフォーマンスを より鮮やかにする“ミソ”




『東京パフォーマンスドール』の本作を観劇し、改めて、「NHK教育テレビ(ETV)らしさに溢れているな」と思った。
舞台上に現れたCGのペンギンが、『東京パフォーマンスドール』のメンバー達と会話する…。
このシステムは、90年代以降、NHK教育テレビの 子供向け番組に使われてきたものに極めて近い。
メンバーは前方(客席)を向くだけでなく、壁へ投影されたペンギンと話す際、後ろ姿をみせる必要がある。
近年、舞台版『人狼ゲーム』などを筆頭格にライブ•プレイング舞台が芽を出し始めた。
そういう観点でいえば、本作は私たち観客を意識しない。
一種の密室ゲームを、観客が柵の外側から観察できる構成である。


エピソード4まで到達したわけだが、毎回 違うメンバーの「成長」の過程を浮き彫りにし、ラムネ色の青春を 吹かせてくれる。
メンバー同士の「衝突」があり、そしてラストは新たな「絆」を手に…。
もし「二人」の数でなかったなら、これほどまで鮮やかな青春を送風することなど ありえなかった。
10人という大所帯のなか特定の二人を担ぎ出すのは、ユニットでも結成しないかぎり、その機会は 雀の涙だろう。違ったメンバー同士の組み合わせなら、一体、どうなっていたか。
考えていけばキリがないが、それは酵母菌のような膨らみを持つ。


回想シーン等は、スタイリッシュな舞台セット及び 映像•音声に似つかわしくない。
しかし、メンバーは『東京パフォーマンスドール』というティーンズ•グループの一人として立っているわけだから、生身の心情を吐くシーンは見応え十分だ。

私は思う。

本編の前、後に『東京パフォーマンスドール』のライブ(ダンスサミット)がある。

洗練された一体感、衣装の一部が外れてしまうトラブルに遭っても踊りを辞めない姿勢、何より大人びた笑顔。パフォーマンスの威力を示せば、本編など観客の隅に置かれる存在である。
だが、生身の心情を吐いたからこそ、その歌は、その踊りは、さらに響かせる力を有したのではないか。

すなわち、本作は『東京パフォーマンスドール』のブランドを上げ、公開物語を築く道程なのだ。



















熱帯男子 2

熱帯男子 2

オデッセー

こくみん共済 coop ホール/スペース・ゼロ(東京都)

2013/10/12 (土) ~ 2013/10/20 (日)公演終了

トロピカルな感触を持ち帰ろう



『2』にして、「おなじみ」の安定感…。


異例の『2』が 始まっただけある。
観客も 一緒に盛り上がれる決定版ミュージカルだ。


東京から1200キロメートル離れた南洋に浮かぶ池棉島(いけめんじま)の島民が、一人ひとり「漁師」や「旅館経営者」「住職」といった仕事と結びついているため、簡潔なキャラクター設定である。
1988年のバブル経済を時代背景とし、池綿島の空港建設計画ーリゾート化計画をめぐる島民(イケメン)同士の「反対派」「建設派」の争いまで描いた点は、前作まではありえなかった「社会派」だろう。

主演の井上正大がアフタートークで「最初のシーンが一番、重要だと思うので」と語ったとおり、後の池綿島での“南国ミュージカル”の鮮やかを際立たせる対比として、序幕の“東京”に求められるポイントは多い。


※ネタバレ







半裸のイケメンが踊る!歌う!、その魅力はミュージカルすら超えかねない。
女性向きのミュージカルではなく、老若男女を問わず盛り上がれる内容だから、『3』の公演が決まっても こうした幅の広さは維持すべきである。


前回はシャ乱Qの はたけ氏が久兵衛役で 登場した。
かつて「島を捨てた人間」という。
今回は若かりし頃の不良公務員•久兵衛(役 細川 洪)がメイン•キャストの一人だった。
公務員を辞める展開がない…すなわち、これは『3』を書くことを宣言しているような脚本だろう。

ネタバレBOX




それが『1』では 都会のディスコを さまよう OLだった。
今回の『2』では、都会の会議室でプレゼン中のイケメン•ビジネスマンということになる。
STEINS;GATE(シュタインズ・ゲート)

STEINS;GATE(シュタインズ・ゲート)

株式会社ダイス

Zepp DiverCity TOKYO(東京都)

2013/10/12 (土) ~ 2013/10/20 (日)公演終了

この方程式は一度 観ただけでは解けない



『シュタインズゲート』というプレイング•ゲーム作品の舞台化。
会場は、ジャパニーズPOP等のコンサートが開催されるZEPPダイバーシティ東京であり、一部、歌や踊りも見受けた。「メイドカフェ」の二回にわたるショータイムは、一つのエンターテイメントとして成立する内容だったと思う。

肝心のストーリーについて述べると、『シュタインズゲート』なるゲーム作品すら知らなかった私は前半、全く理解が進まず。
『Dメール』という過去へ送信したメール、あるいはキャラクター設定を提示することが前半の役割だった。本作はタイムマシンを取り扱うためか、毎回結末が変わってしまう。後半で それを描く。

テレビアニメーションの映画化作品も前半20分間をかけ、まずは作品の設定及び登場人物たちを紹介するだろう。つまり、「知ってる観客」「知らない観客」の壁を取り除く共通項を本編の前に与えるのである。

しかし、少なくとも本作『シュタインズゲート』に関しては、共通項など必要なかったのかもしれない。なぜなら、『Dメール』を巡る、改変された過去のストーリーがSFの真髄そのもので、圧倒的説得力を有していたからだ。

映画『バックトゥザフューチャー』にしろ、タクマフェスティバルジャパンの舞台『晩餐』にしろ、男女の経緯(いきさつ)」 をSFが炙り出すジャンルは、条件無しで おもしろい。









あんかけフラミンゴ11【ご来場ありがとうございました】

あんかけフラミンゴ11【ご来場ありがとうございました】

あんかけフラミンゴ

王子小劇場(東京都)

2013/10/11 (金) ~ 2013/10/15 (火)公演終了

『あんかけ二郎』“飛びました♪”“飛びました♪”
狂うほどの「弱い女」が「弱い男」を想い続ける関係性を過激なまでの演出で描く劇団でしたが、今回は それが逆転したように思いました。
いや、少なくとも、中盤までは 違ったアプローチであることを提示しながら、実は「弱い女」と「弱い男」は何ら変わらなかったのです。

キャストの男女比で いえば、女10人と男1人の構成と なっています。「ハーレム」の単語さえ よぎった比率が、「草食系男子」ばかりをフューチャーしているように感じました。
「子供を作りたくない」という青年に、「やらせて」と迫る女子の両者は、現代社会を極端な形として「見える化」する設定でしょう。



私は中絶は 冒してはならない行為だと考えていますが、日本人の風土からすると、若い女性を中心に意識は低い。
ただ、過激劇団の声が聞こえる劇団でも、「中絶」を文字通りの悲劇として描いた点は社会派ですし、実施後の女の様を「見える化」したことを「過激」の一言で蹴散らすには もったいない かもしれません。


最近、LINEやTwitterなどのSNSが衣食住の一つに収まるくらい普及するなか、演劇の表現方法に 取り入れる形が浸透してきました。
3年前の演劇を考えてみたいと思います。AとBとCが同じ場にいるとして、AとBの会話を聴くCの反応も なければ不自然でした。
また、AがBに対し「あなたのこと、とても心配です」と発信しておきながら、直後「はあ?どうでもいいし…」と呟く芝居も無理があっと思うのです。


※ネタバレへ

ネタバレBOX

今回の『あんかけ二郎』では、不妊に悩むLINEのグループに所属する女性同士の会話が繰り返されるわけですが、「21歳の女子大学生」が輪の中へいるのにもかかわらず、「陰口」が連発されます。
スマートフォンの画面だとか、Twitterでいうところの「ハッシュタグ」を「見える化」すれば このような演出になるのでしょう。


そして、果ては「現実に会っているのか?」、あるいは「LINE上での やり取りか?」すら、境界線が曖昧になっていく。
代表的な演出方法のLINEやTwitterの情報を スクリーンに映すタイプを採り入れても問題は生まれません。
あえて一種の会話劇に特化したことで、平穏を奪われた女の怖さを「見える化」するのです。


「好きな人に暴力を振るわれた時、こう口角がククッと 上がります。でも、~笑ってるわけではありません!」

次のような台詞が、何度も何度も放たれた。
この意味は、「彼女のことを愛してるけど、やらない」という男の態度にも共通します。

ひるがえってLINEやTwitterのシーンを読み解くと、文面で呟く内容は本心には 程遠いケースも あるわけで、様々な角度より「現代の若者」を扱ったといえます。


『あんかけ二郎』は、坂上二郎さん の噴射口を借りて“飛びました”“飛びました”。
『ラーメン二郎』は、麺は麺でもスパゲッティへ変わって登場。この旨さ、さっぱり塩味の豚骨スープです。
『ハチミツ二郎』は、発揮されませんでした。テーマ性も あれ なので、仕方ありませんが。
ディストピア

ディストピア

角角ストロガのフ

吉祥寺シアター(東京都)

2013/08/22 (木) ~ 2013/08/26 (月)公演終了

冷房要らずの「一線を越えた」旋律



数々の「猟奇的な舞台」を制作し、観客を戦慄させてきた『角角ストロガのフ』
初めて体験した私は、壊れてゆく人々の姿に冷房以上の涼しさを感じざるをえなかった。

お台場のジョイポリスでも体験できない涼しさだろう。
では、『貞子3D』を上回る「ホラー」か?
いや、「サスペンス」である。



いしだ壱成 演じる人気若手俳優•アラキが、冤罪に巻き込まれ、国家権力の支配する「囚人たちの町」へ移送されてしまう。
「優しさを与えるべきではない。
軽蔑と受け止められるから」
閉ざされた町でアラキは町民の更生を進める一方、事件の新たな犯人探しが始まった…。


私には、いしだ壱成の俳優人生と、役のアラキは同一人物ではないかと思えてならない。

冒頭、マネージャーの声で「真面目な男」と、観客へ紹介された。

「女には目がない」こともマスコミに報じられた。


冤罪というのは、アラキの浮気相手らが被害者となっている事件である。


人気若手俳優を いしだ壱成が演じた訳ではなかった。
いしだ壱成こそ、人気若手俳優であって、その苦労や感情を演じる必要はないからである。
これは、明確な「当て書き」だろう。
形式的理由から そう述べているのではなく、あえて「ダブらせよう」「リンクさせよう」という演出だったためだ。





アザゼルの山羊

アザゼルの山羊

チャリカルキ

【閉館】SPACE 雑遊(東京都)

2013/10/09 (水) ~ 2013/10/15 (火)公演終了

何が「キー」か、ラスト5分間まで解らない…
私は当初、日本の「教育崩壊」に対する、あるいはメディアに対するアンチテーゼに則り構成された脚本だと思った。

しかし、むしろ本作は、社会派サスペンスというよりは、卓越した事件物のミステリー•サスペンスである。


冒頭、中華圏やアラブ圏等の外国人に扮する日本語学校生徒達が その後のサスペンスとは似つかない「ほんわか」したリレーを繰り返すわけだが、唯一、「愛おしい」というキーワードは放たれた。

ネタバレBOX

「小学6年生 児童の事故死ー担任教師の有罪判決」(13年前)


中盤にいたるまで思ったのは、今、問題視される学校現場の内側を中国の留学生が取材して、「断片」を浮かび上がらす構図である。しかし一転、「事故死」の小学6年生男子児童こそを元同級生の証言など で浮き彫りにした構図が進む。


たとえば、映画化を果たした『桐島、部活やめるって』(朝井 リョウ著)も、バレー部キャプテンの本人は 一切 出演せず、周囲の抱く気持ち、証言のみに基づいて成り立つ。

地方高校バレー部のキャプテンでありながら、ある日、部活を辞めた情報が校内中に知れ渡った。
周りの反応、対立をとおし「桐島」なる青年の人物像を掘って行く、その作業自体が小説だ。

本作『アザゼルの山羊』では針金で造った小さな人形のみ生徒の身体を表現したが、それは落語を聴きに行った時のような「膨らむ感覚」としかいいようがない。
全会一致の「いい奴」でも、どこか「脆さ」は存在しており、証言ごとで浮き彫りになる屋上のプール•サイドの光景は全く別物…。


これは、社会派の舞台ではなく、「親とは何なのか?」「教育者とは何なのか?」を含めた、ヒューマン•サスペンスかもしれない。

コロンビア産コーヒー豆の深さ薫る脚本が、ほのかな「愛おしさ」を与えてくれる、そんな作品である。
エゴ・サーチ

エゴ・サーチ

虚構の劇団

あうるすぽっと(東京都)

2013/10/05 (土) ~ 2013/10/20 (日)公演終了

別々のシーンが「竜巻」に合流する!


鴻上尚史氏は劇場を訪れた観客を大切に扱う演出家だ。

公演終了後、必ずロビーに顔を出し、小走りの観客へ微笑みを贈呈する。また、配布物の用紙を広げれば、キャンパスノートを切り取った「手書き」(コピー)の挨拶文が載っている。

私は鴻上作品を観劇する たび、その中身を 読み解く。

今公演の『虚構の劇団』とは違うが、紀伊国屋サザンシアター『リンダ リンダ』(2013.3)の公演で配布されたキャンパスノートを 発見したので、少し紹介したい。


「(略)インターネットが人間の感性を変えたと しみじみします。
それぞれの人生の今を、こんなに
簡単に知ってしまうことは、直感でしかないのですが、僕の人生そのものに決してよくはないだろうと思います」

「誰かの人生を知るには、インターネットのない時代は、自分の今と引き換えが条件でした。
(中略)
けれどインターネットは、こっちの人生を まったく提出しないまま、相手の現在を知ることができるのです」


なんと、今作『エゴ•リサーチ』(再演)のテーマを、別の劇団による別の公演の挨拶文で語っていた事実が存在するのだ。







ネット•メディアは「SNS」(ソーシャル•ネットワーキング•サービス)を中心に私たちを覆う膜へ拡大した。

「インターネット」は蜘蛛の巣のごとく、世界中をITの糸でつながる様子から名付けられたことは 多くの方が ご存知だろう。
ただ、今は むしろ私たちの頭上すら覆う「巨大な膜」の感が否めない。

糸を放出する本体の蜘蛛は、「決して絡まない」生物学的本能を有するのだ。新聞社や出版社は獲物にあたる情報を知っても、蜘蛛に捧げるような真似は しない。
では、サーバーを管轄するアメリカのネット企業は どうなのかといえば、消極的に大多数のユーザーを裏切り、そして「協力」してきた事実を私たちは覚えておく必要がある。

一方、日本の新聞社•テレビ局がいい加減になった理由は、「ネット•メディア」の相対化だろう。

テレビ局の報道力は90年代頃が最もであり、それまでメディアの権威だった新聞社がバブル崩壊後の広告収入低迷のため衰退した「相対化」といえる。

佐藤栄作首相が退任記者会見で「新聞記者の諸君は出て行っていれ」と促した1972年7月6日を「逆転の日」と捉える向きは多いが、90年代のテレビ報道の「スクープ合戦」は新聞の後追い報道現象まで生んだ。


雑誌ジャーナリズムに関して言及すると、田中角栄首相と宇野宗佑首相は月刊誌、週刊誌の報道が元で失脚したリーダーである。1989年(『サンデー毎日』のスキャンダル報道により参院選大敗、辞任)が、「紙の媒体」の見せた最後の権威だったのかもしれない。

2000年代以降のテレビ報道で特徴的なのは、新聞社の権威に対抗し、「下品」ばりのドブ板取材で鍛えてきた報道力の衰えである。
2011年の東日本大震災に伴う福島第一原子力発電所事故は そのシンボリックなケースだった。

詳細は あえて示さないが、先日、早稲田大学や東中野の映画館で開催された「ふくしま映像祭」を鑑賞した私は、テレビ報道側の言い分を聴いた。

ローカル放送局•福島中央テレビが
2011年の年末に放映した検証番組は、視聴者からの声として次のような 意見を読み上げる。

「なぜ、海外のメディアでは爆発のシーンに“音”が あるのに、日本のテレビでは聞こえないのか」

つまり、日本のテレビ•メディアによる隠蔽がネット上で話題になっているという。

福島中央テレビは、「そもそも音声は記録できないカメラだった。
一部の海外のメディアがセンセーショナルな表現のため、意図的に入れた音声。
それがネット上に出回ったらしい」と反論した。

もちろん、放射能被害を煽るネット•メディアの脆弱さ、無責任体質への批判に他ならない。
私は、「大きな爆発音があった」という周辺住民の証言は本当だろうし、テレビ局側の反論も事実だろうと思う。ニュース映像を改変したこと自体、ジャーナリズム精神に反するわけだから、この件については海外のメディアに非がある。

しかし、それは原発事故報道をめぐる問題の本質ではない。


今まではテレビ報道こそがメディア一家の「カツオ」で、新聞報道は「ワカメちゃん」だったのだ。
そうした構造にネット•メディアという「二代目カツオ」が新しく現れたことが、テレビの報道力を削ぎ落とした最大の理由ではないか。

こうした「相対化」は現場、編成陣の意識の問題であり、「対ネット融合」が進まない一つの証拠だ。


鴻上作品は、複雑なシチュエーションが後半にかけて一体化する竜巻のような勢いが魅力だ。
恋愛を描けば青春色だし、若者を描けばコメディ色である。

やっぱり、鴻上作品は若者が出演して こそ出せる色合いだろう。
インターネット論、メディア論など考えさせる題材を、かなり客観的に扱っている。
それは、「もしも」の現代社会を的確にえぐる演出である。

















伯爵のおるすばん

伯爵のおるすばん

Mrs.fictions

サンモールスタジオ(東京都)

2013/10/07 (月) ~ 2013/10/14 (月)公演終了

圧倒的な短さで編む大河ドラマ
手塚治虫氏の『火の○』に劣らない、壮大な物語を造ってしまった。
ツッコミの炸裂する「笑い」が暗転を効果的に生かしてリピートし、全編で いつの時代も変わらない「愛」を映す。

身分だとか、社会的なモラルだとか、男だ女だという性差だとか、人種だとか…。

生涯5人の人間を愛した、1800年代生まれ の男爵には、時代ごとで愛すべき対象との大きな障壁があった。

ネタバレBOX

例えば 初めの恋人を拒ませたのは、登ることのできない「階級」(中世 フランス)である。

しかし、考えてみれば、次の時代1990年代には「階級」という概念すら政治家の頭にはなくなっていた。
「階級の否定」に他ならない。

一方、その時代の障壁は「社会的モラル」である。

日本で私立高校の保健教師となった男爵の目の前に、「透明な」女子高校生が現れたのだ。
もちろん、「教師と生徒の愛」など社会的にNOだから、公職の彼は 障壁を破ることすらできない。


そして、次の時代は2030年代。

アウトスロー界を浸かった男爵は 、組の構成員の若い青年と「愛の生活」を過ごす。
これからは近未来の人類の仮定を指すが、「社会的モラル」で人々の恋愛が制限される価値観=障壁も吹っ飛んだのかもしれない。


こう人類の歴史を辿っていけば、「愛」の障壁は 時代ごとの闘いや草の根の運動によって崩れてきたのだ。

今、インドなど世界中に身分制は存在し、完全に是正することは不可能だろう。
だが、人類の潮流、流れ としては、「身分制」を葬り去る方向へ動き(人民の武装)、性差や人種を越える方向を求めてきた(草の根運動)。


今作が型どった時代は その境目であり、非常に思慮を感じる構成だった。



「エロいメイドの時代が来ます!」に象徴される「笑い」は、暗転を利用したからこそ生まれる。それはコントの形式で多用する方法だろう。
だから少なくとも前半は、ショート•ストーリズを重ねた「アップルパイ」のような舞台である。
逆の見方にすれば「薄っぺらい」感触も感じつつ、チラシ(絶賛したい)にも登場した女子高校生との「愛」「障壁」を映す第二幕でカーテンコールの時刻だと思った。

しかし、私は冒頭、手塚治虫氏の『火の○』を わさわざ引用している。
特に、二幕(女子高校生)、それに続く三幕、四幕、五幕がメッセージを帯びており、観るものをゲーテの世界に落としてしまった。

一幕はメッセージ性というか、貴族社会のショート•ストーリズのようだったが、結局のところ中世フランス時代の「日常観察」の比較で 次幕以降の男爵の姿が浮き彫りになる。
「人類の歴史」を語るメッセージを放つためには日常的な「笑い」を徹する演出も必要だろう。





「たまたま窓にカナブンが入ってきただけ」

男爵は、女性貴族の呟く この言葉を身にまとい、各時代を歩んだのだろう。


話の中で「フランス領インドシナで日本軍の捕虜になった」事実も明かされた。
1940年代の幕を描いてもよかった。
対象は、雑用スタッフとして働く現地人女性か、紛れ込んでいたフランスの女性兵士で どうか。



「いつ終わるのか」さえ解らない構成で、観客は「時間」のテーマに接しざるを得ない。
この不安感が男爵に置き換えられる感情だとすれば、「やられた!」の一言である。


世界的ベストセラー『ソフィーの世界』の光景を彷彿させる内容も 見受けた。

何か、作品に影響を与えた書作や映画等あれば、聴いてみたいものだ。
『白痴』 『コーカサスの白墨の輪』 

『白痴』 『コーカサスの白墨の輪』 

TOKYO NOVYI・ART

シアターX(東京都)

2013/03/22 (金) ~ 2014/06/07 (土)公演終了

「スタニスラフシキー」すら超越した「魔性」



ロシアの演出家•レオニード•アニシモフ氏を迎えてのドストエフスキー代表作『白痴』。

同劇団は「スタニスラフシキー•システム」の実践を掲げる。
神保町の古本屋に行けば、「スタニスラフシキーの本ありますか?」という客がいるし、あのハリウッド女優•アンジェリーナ•ジョリーも 継承者だ。
日本国内の演劇(映画)ファンで知らぬ人はいない、超大物だろう。


「学説」として理解するのと、「舞台」を観て理解するのとでは やはり違う。
もちろん現代の演劇ー映像作品の骨幹を築き上げた「父」の名称を手にするスタニスラフシキーなので、今回の『白痴』を観劇したからといって彼に初めて出会った日にカウントできない。
だが、発祥の地•ロシアで長い間、モスクワ芸術劇場等で実践をされてきたレオニード•アニシモフ氏演出の『白痴』を観ることは「別次元」の機会だった。


観客の総意に他ならない。

「白痴」のムイシュキン役を演じた、菅沢 晃 の魅力•資質が全てだった。

台詞を声に出したとは思えない、身体性も含め「白痴の公爵」だったのである。



※ネタバレ





「魔性」の声だ。

「白痴」の純粋な心の中に、相手の心さえ掴み取る。
相手の辛さ、苦しみを解き放ち、純粋な心と一体化してくれる。

おそらく、「白痴」こそ本当の心理学者なのだろう。


私には どうしても この様子が「舞台」に思えない。
これが「自然法則に基づくスタニスラフシキー•システム」の威力なのか…。
いや、…いや、…菅沢 晃という役者ひとりの「魔性」である。


全体を見渡せば、「惜しい」面は たくさん。明らかなミス•キャストも壮大なドストエフスキーの世界観の邪魔をした。


唯一、圧倒的な事実を述べたい。

そうした欠落点を覆い隠す魅力、威力、そして「魔性」が ひとりの役者に あったということを。

ネタバレBOX



「あなたは明るい人じゃないのね…
でもねー、赤ちゃんのような…」


序盤、リザヴェータの屋敷に下宿人として居住することになったムイシュキン公爵は、彼女及び その3姉妹へ挨拶。
「白痴」と軽蔑された公爵が、二女•アレクサンドラらの「目」を見て、人格を語り出したのだった。
熱海殺人事件

熱海殺人事件

47ENGINE

タイニイアリス(東京都)

2013/10/03 (木) ~ 2013/10/08 (火)公演終了

ゆるやかな「変貌」に引き込まれた
笑いが 「零れ落ちる」、まさに そのような表現こそ相応しい。

劇作家•つかこうへい氏の代表作『熱海殺人事件』を、2013年の最新ワードや昭和の歌謡曲を扱い、新たな作品として変貌させた。
劇作家に対する、これほどのオマージュもないだろう。
幕開け、キャスト紹介の後、「つかこうへいリスペクト!」と、プロレスのマイク•パフォーマンスを彷彿させる口調で語った そのコトバは本物であった。


キャスト紹介前の約15分間にわたって繰り広げられる冒頭のシーンは、部長刑事•木村伝兵衛(宮川浩明)の人物像を 探るには十分な時間だったと思う。
過去、上演され続けた『熱海殺人事件』において、木村伝兵衛は異常者として描かれるケースが占めるが、本作も「常道」を選んだらしい。

私は「新たな作品として変貌させた」旨を述べた。
そして、「変貌」というのは作品全体の話だけではなく、最新ワードー昭和歌謡曲の「変貌」であり、コメディーシリアスの「変貌」を指す。
違和感を生じさせない。
ある程度、観客も把握できるほどの「変貌」ではある。
ゆるやかな起点を示し、観客を引き込んでしまう構成は、圧倒的な「調整力」に他ならない。

ネタバレBOX

大山金太郎(永里 健太郎)の登場シーン、それはボクシング•タイトルマッチの入場を思わせる。

試合の内容を紹介すると、『サザエさん』(長谷川町子 朝日新聞社)の「タラちゃん」や、郷ひろみ のカラオケ大会が始まるなど「コメディ」一色。
すっかり その流れに安心してしまい、誰もが「このまま続くのかな…」、あるいは『熱海殺人事件』を知ってる観客であれば「どの段階で、熱海のシーンに切り替わるか」を考え始めた。

だが、被疑者の 大山が ノリのまま話すのに対し、明らかに他の三刑事の表情は曇る。
「キッカケ」があり、それに合わせる形で他の登場人物が「シリアス」へ変わったのなら、まだわかり易い。
流れの中で、それも観客が把握できる勢いで「変貌」したシーンだった。

『熱海殺人事件』は大山を常識人として描くケースも あるが、一人ひとりの登場人物の「像」は幅広い。


「熱海の回想シーン」について述べると、メインキャスト唯一の女性にして木村の部下である水野朋子(黒澤はるか)に触れないわけにはいかない。

スーツをスタイリッシュに着こなす彼女は、一流モデルのプロポーションだ。
まるでクリスタル•グラスの清潔感。

そんな女性が、「長崎一のブス」になり切る。
風俗店で「苔」の役割を担わされる「ブス女」を、一流モデルのプロポーションを有した女性が なり切るのである。

格差社会に囲まれ、また一人の女としての「涙」を流す彼女は ある意味、センセーションだった。
「演劇」を考えた場合、こういったギャップには触れるべきではないかもしれない。
ただ、木村=宮川の頭髪、大山=氷里の風貌を 「笑い化」したシーン等を考慮すれば、狙った面も あるだろう。


シーン全体に話を戻すと、やはり「迫力」を感じざるをえなかった。
氷里(役 大山)の本領発揮とともに、激流の展開は作品全体のハイライトである。


作•演出の松本和己は、マツモトキヨシ創業者の孫で、元衆議院議員だ。
どうせなら、観劇した人用の「マツキヨ•クーポン」が欲しかった。

といっても、私は松本和己の政治家の顔を強調したい。

「玄海原発、…要りませんよ」(冒頭 木村のセリフ)


最新ワードと昭和歌謡曲を織り交ぜたのは すでに明らかにしたが、
原子力発電所の話題を持ってきたのは元衆議院議員だからこそ。
彼が脱原発の政策メニューを取り揃えているのなら、それを舞台に活かすのも手だ。

つかこうへい自身、現代社会に住み着く「権力」「差別」といったテーマを 織り込んだ劇作家だろう。
社会構造の中の、「男と女」は極めつきだ。
シェイクスピアから続く伝統である。

旗揚げ公演にて「つかこうへい」作品を上演するからには、一種のDNAを継承してほしいとすら思う。


文句ではないものの、ラストの展開は「カットも有りかな」だ。

騙されたのは事実だ。
木村のキャラクター性が増幅したのも確かだ。

しかし、今までの「変貌」ぶりから比べると、それが過ぎたのだ。


「掃除のオバサン」の役で出演した マミ スーに関しては、生歌を聴く機会を あと一回は与えてほしい。
配分が どうだったのか、極めて疑問ではある。
だとすれば、今こそ「調整力」の出番ではないか。
五人衆

五人衆

見上げたボーイズ

博品館劇場(東京都)

2013/10/03 (木) ~ 2013/10/06 (日)公演終了

「歌舞伎•コメディ ミュージカル」の初期型か…


「音響さん」要らずの舞台だったのではないか。

枕に挨拶する幸村晋也によれば、「身体では表現できない効果音」が あるという。
「雨つゆ」の効果音さえ、観客に代行させた。風鈴の機能が付いた団扇を、スペシャルゲスト•今拓哉 の指示で扇ぐ。
一見すると、「観客参加型」のゲーム感覚のように思えるが、実は時代劇の“音•風•香”を意識した細かい演出だろう。
「生の音」を守る姿は、今朝ニワトリが産んだばかりの卵を大切に扱う、少年のような純粋さだった。

『見上げたボーイズ』の「五人衆」は再々演だ。


江戸の時代劇と ミュージカルの融合は、ともすればジャンルとして理解を得にくい。
だが、歌舞伎の技法をとりいれた形と、ミュージカル(唄う)部分は 、まるで夫婦漫才のように互いを補強し合ったのである。
なにが現れたのかというと、「これぞ!エンターテイメント」の光景だ。



ミュージカルに限っても、五人のキャストが同じ役割を担っているわけではない。
福永吉洋が、その30%以上を唄ったのではないか。

見事である。

役柄は三枚目だ。

それを裏切る美声、マイクなど必要ないだろう声量…。
彼を知らぬ観客は初め、自分の耳を疑った。


中盤以降、三味線や和太鼓の生演奏が減ったのは、噺の内容に持って行きたかったからだろう。
観客を使う効果音=「ザーザー」も聴こえなくなった。

だが、むしろ殺陣のシーンにおいても、それに符合した緊迫感のある三味線、太鼓の演奏をすればよかったのだ。


そうした意味では、「生演奏」の強みを活かしきれず、再々演の「安定」を求めた構成を感じる。






イッヒ リーベ ディッヒ【全公演完売の為、当日券の発売を中止いたします】

イッヒ リーベ ディッヒ【全公演完売の為、当日券の発売を中止いたします】

劇団東京イボンヌ

ワーサルシアター(東京都)

2013/10/01 (火) ~ 2013/10/06 (日)公演終了

“少女”が抱いた「温もり」への序章
旋律さえ走る「崩壊」の後に、「温もり」を感じた。
それは雪の積もる野原を照らす、提灯の「温もり」である。


今作は、世界史に残る楽聖•ベートーヴェンと、その影を通して、「愛の形」を静かに語った作品だ。


2013年の父ー娘、1800年代のベートーヴェンー不滅の恋人の関係性がクロスし、思いもよらない「感動」が待っていた。


佐々木美奈の演じる籠島みちる…。


私は、みちるの内に秘められた繊細な「少女」の様子を称賛しなければならない。
生き別れたベートーヴェン研究家の父親(籠島丈一郎)を愛する気持ちと、その人を軽蔑する家族…。
20歳を越えたはずの「少女」は傷ついていた。そして、肩を抜いたまま決して威張ろうとしない身体性が「健気」を現す。
身体性で、これほど心 打たれた演劇も少ない。
『観たい!』の「70%の具現化」は、つまり そういうことだったのだ…。
「愛の形」を形作る、狂い だとか、弱さを、その身体性で 目に見える形にしてくれる。



2013年と1800年代のシーンの境目は、絶妙の一言だった。
おそらく、短過ぎても、長過ぎても観客の心を離しただろう。

また、前者の ともすると暗いエピソードを経た後、強烈な「ベートーヴェン」の登場する後者のバランスが極めてよろしい。

古賀司照の 鋭い視線をみれば、誰しも「額縁の肖像画」を思い出す。
これも重ねて「身体性」の話になってしまうが、指摘する必要がある。

ネタバレBOX

彼の、指揮棒を振りかざす「後ろ姿」は、音楽性と狂気でしか造り上げることはできない。
ピアニストがいて、声楽家が待機するなか、劇場に響くのは無音である。
唯一、聴こえる音といえば、「ベートーヴェン」の指揮棒が風を切る音であり、見える光景といえばライト•タキシードのシワが揺れに揺れる光景だ。
「背中で教える」とは、こういうことを指すのか…。
「ベートーヴェン」なる男は明治の日本人だったのかもしれない。


2013年と1800年代がリンクするシーンが、終盤にかけ二つある。



一つは、1800年代、ジョセフ(園田祐樹)の それだった。
ピンライトの当たったジョセフは説明調で、語り始めた。


「まさか東洋の端の研究家が私の子孫を訪ねるとは」

ある研究家(籠島丈一郎)の膨大な論文から、200年間あまり距離のある時代はクロスされた。


もう一つは、籠島丈一郎の墓前、別れた妻が「大変でらしたわねえ」と、「ベートーヴェン」の愛した不滅の恋人•マリア(早瀬マミ)へ笑顔のままに話しかけた それだった。


「愛の形」は時代、国を越えた普遍的なテーマだろう。

人を狂わせ、人を苦しめる 。


しかし、その先には何が あるのか?
私たちは たえまない期待を抱き続けてきたのだ。
「愛の形」を進む、プロセスが「生き方」かもしれない。


非難したいシーンも あった。
十字架のセットの上を役者が乗ってしまった場面である。
十字架として ではない。

だが、西洋文明を扱うわけだから、宗教的な配慮は 当然しなければならない。
これは演出へのメッセージだ。


青ひげ公の城

青ひげ公の城

非シス人-Narcissist-

サンモールスタジオ(東京都)

2013/09/26 (木) ~ 2013/10/03 (木)公演終了

寺山修司は「40年先」を見た

寺山修司が常に「40年先を見た」ことを物語る舞台だった。

バーチャル•アイドル(初音ミク)によるコンサートが渋谷オーチャードホール、神奈川県民ホールなど、客席定員2000名近くの大型会場で開かれる時代である。


「革新」、それは映像との融合であり、「拡張現実」を採り入れた舞台さえ現れた。(東京パフォーマンスドール PLAY × LIVE 『1 × 0』(ワンバイゼロ)

だが、寺山修司なる男こそ、作品こそ、 いつの時代も最先端=異端児だったのは言うまでもない。

主宰した『天井桟敷』が70年代の「アングラ•カルチャー」を引っ張ってきたのだ。
そして、このTwitterやFacebookを扱う 時代に、「寺山修司」を内容で受け止める時代は やっと到来した。

私は、本格派ミュージカルの看板を背負うべき、アンサンブルの声量を絶賛したい。

地響きを疑った。
特に、前半の岡田静が「青ひげ公第三の妻」として登場するシーンである。

彼女の歌唱力は知る人ぞ知るパワーなので、あえて記述しない。
CDを世に出している事実を明らかにすれば、十分だろう。

地響きの発信源を確認することはできなかった。
舞台上に 姿をみせない、無数の女性アンサンブルだったのである。

比較は失礼とわかっているが、例えるなら『レ•ミゼラブル』の それだ。



サブキャストについても触れなければならない。
串田(舞台監督ー根元役)、榎本(ブロンブターのにんじん役)も、魅力的だった。(いずれも9月30日の役)
私は妖怪しか持ちえない「妖力」が彼等にあると確信した。

舞台監督という立場の榎本は、「現実」と「舞台」の境目を取り仕切る存在だろう。
そして、「妖力」を持つ役者=串田が演じることが、霧のかかった灰色の世界を造るのである。


寺山修司は、「非常灯も禁煙灯も消し、漏れ入る光は一すじもない、完全な暗黒の中での演劇というのは、長いあいだの私の夢であった」という詞(コトバ)を残した。

「暗闇」は高級ホテルのディナーより、贅沢な ものである。
映画館だってそう、人々はスクリーンを鑑賞する名目で、実は「暗闇」を手に入れたいのだ。

自らの部屋だったり、星空を見逃さないために訪れた山頂ではダメ。

都会の片隅に、様々な境遇をもつ身知らぬ人々が寄り添う場所でないと意味がない。

「暗闇」の彼方に光る一本のロウソクの炎をみつめる人は、その場限りの主人公である。


この国の伝統芸能のひとつ「浄瑠璃」は、死者の話。
「死んだ人間の視点で、死ぬまでの道のりを辿る旅」といえる。


だとしたら、寺山修司の『青ひげ公の城』は極めて伝統的様式に基づいた作品だろう。
「革新」どころ ではない。



主演の竹下優子は、そのハスキーボイスで私を虜にしてしまった。

「青ひげ公 第七の妻」を、戸惑い と 威信の表情で見事に演じ切る。まるで、アルミボールに落とされた「黄身」のような新鮮さだった。他の登場人物が「白身」に該当する。
つまり、彼女はアルミボールの中の案内人だったわけだ。
グルグルかき混ぜられ、「溶き卵」へ変わる時、観客は既に飲み込まれていた。



歌や踊り も文句を付け難く、純粋のエンターテイメントだったと思う。
「お祭り騒ぎ」の後、ひっそり後方から降りてくる演出はコントラストを与え、より作品を多角的にみせる一つの装置である。

あの光景が、歌や踊りに「疎外」のワン•テーマを加える…。

さあ、寺山修司の『青ひげ公の城』 にゆっくり浸かって、いざ「劇場(死者の場所)を出よう」。

















歌いタイツ!

歌いタイツ!

劇団スーパー・エキセントリック・シアター(SET)

あうるすぽっと(東京都)

2013/09/25 (水) ~ 2013/09/29 (日)公演終了

「ギャップ笑い」で、口角も伸びた


『タイツマンズ』を観て、日頃のストレスを発散しよう。


初幕は、誰もが知っているテレビ•コマーシャルの替え歌を披露するショーの連続でした。
松崎しげる『富士サファリパーク』、吉幾三『新日本ハウス』など です。

『富士サファリパーク』は『マジ•サファリパーク』に。

それを、動物園のオス•メス ライオン達が唄い、踊り上げるシーンは圧巻!

統率の取れた手の動き、脚の動き、まるでコンピュータ•ゲームのようでした。
特に ご紹介しなければならないのは、EXILE「チューチュートレイン」のダンスです。

ライオン姿=『タイツマンズ』の それはギャップがあり、統率の取れていることに「笑い」が起こります。
ちなみに「ギャップ」と打ったら、次のような文字変換候補が ありました。

「ギャップ萌え」(?)

でも、多くの観客は「萌え」より、「笑い」だったのではないでしょうか。

IT企業、携帯会社へ言いたい。

「ギャップ笑い」は なぜ、候補に入れてくれないのかと。


次幕は、小学校の音楽教室を舞台とした、「肖像画の偉人」達のステージでした。

「クラシックの名曲が ずらずら登場するのかな…?」と思った そこの女性!、そんなんで「ギャップ笑い」は生まれない。

「山田くんち」の唄など、寝そべって煎餅をバリバリ噛みながら聴けるような、「軽ーい」曲ばかりだったのです。

モノマネ•コーナーも ありました。

ただ、ベートーヴェンやモーツァルトに扮した『タイツマンズ』は、すでにやっちゃってませんか?モノマネを。

偉人達が「江頭2:50」や「ふなっしー」をモノマネする姿、もう複雑すぎます…。
ファミコンのコンセントが 絡まった状態です…えっ?、古い?


『タイツマンズ』を観ると、CX「笑う犬の冒険」を思い出す。
「ノリ」は大切ですね。

大物ゲスト•水谷あつし さん の「ノリ」が あまり発揮されなかったのは残念でしたが、「カオス理論」を実証する舞台だったのではないでしょうか?

個人的な要望をいえば、一幕を短く削って、色々なバリエーションが あった方がよかった。

「よし、じゃあ 次回も 観に行こう!」


ちょっと、そこの眼鏡かけた課長さん!完全に乗せられてますよ。

商売上手なんだから…(秋葉原のメイド喫茶にいそうなツンデレ風に)

アポリア

アポリア

劇団新和座

要町アトリエ第七秘密基地(東京都)

2013/09/28 (土) ~ 2013/09/29 (日)公演終了

「詞」が交差する緊迫した場



「女の心は秋空のように移り変わりが激しい」という。

だとしたら、「女心」に溢れた舞台であった。


ゲネプロ中(通し稽古)、劇団の主演女性が謎の死を遂げる序章である。


そうした光景に接した時、誰しも「密室ミステリー」の展開を待ちわびるだろう。

だが、「推理」の時間は無駄だった。目の前に拡がる「叙情的な人々の姿」こそ、話の本質ではないか、と考えたからだ。


「あなたの笑顔は太陽の光」

これは、ゲネプロ部分の台詞ではない。
亡くなった女性に対し、劇団員が述べた詞である。


ゲネプロの舞台それ自体、「叙情的」な雰囲気を醸し出す内容だった。「不確立」の点を考えると、その後の本筋に比べ残念でもあった。

虚無性、秘めたる内面、繊細な主張…。
登場人物達を表現する身体性を感じることができなかったのである。

稽古中に役者が亡くなり、劇団員で討議する姿ー場に「人間の横顔」を見せる舞台は今までも造り上げられてきた。
それを魅せる「条件」は、稽古をディフォルメ化せず、「観客を騙す」努力を怠ならないことに尽きる。

本筋の、劇団員が討議するシーンは何度も言うが「叙情的」であって、防空壕に逃げ込む緊迫感すら共有できた。劇的にスポットライトを当てるべき登場人物は変わるのだが、周囲の「視線の交差」が立体感を与えていたのはいうまでもない。


それだけに、観客の心に残るオープニング(ゲネプロ)が必要だったと思うわけだ。


また、今回の作品は新作らしい。

しかし、今年3月相鉄本多劇場(横浜)で上演された新宿アクテビティズム『ホームステージ』と 等しい構成だった。


1ー劇団員たち のドラマ

2ー劇団の崩壊をテーマとする(その過程を、ワンシチュエーションで描く)

3ー稽古(本番)の後の『討議』が本筋

4ー台詞量が ほぼ均等

5ー主宰の人物設定



一体、私は何が言いたいのだろうか。
新宿アクテビティズムの公演は、「新人公演」の形式であった。
毎年『ホームステージ』という作品はキャストを変えて上演され続けている。

軸の「主役」を置かずに台詞量を全キャスト均等にしたのも、「ショーケース」の役割を担うからだろう。

「新作」のはずが、新人公演の「伝家の宝刀」と同じ構成だったのは「キャストを平等にみせる」意識が働いた結果のはず。

たしかに「キーマン」は いた。
そして、その存在が叙情的なベースに包まれていた「密室サスペンス」を再び現せた張本人だった。

この展開には、騙された。


※ネタバレ

「アッ」と言わせる展開ではない。こういった面が結局のところ「叙情的」な所以なのかもしれない。


「キャストを平等にみせる」のは、一つの試み である。

ライトアップの何度も当たる人物がいれば、一度や二度しか当たらない人物がいても よい。

別の言葉に言い換えると、主人公の視点である。
一度や二度の後者に、私たちは案外、意外性を持つものだ。

























ネタバレBOX




※証拠が「討議中」に残らなかった。自白のみの世界である。
『東へ西へ』

『東へ西へ』

華のん企画

赤坂区民センター 区民ホール(東京都)

2013/09/27 (金) ~ 2013/09/27 (金)公演終了

くっきり分かれた「風格」と「軽妙」




東西の「風格」と「軽妙」が二つに くっきり分かれた、そんな落語でした。


笑福亭鶴瓶 師匠の「軽妙」は言うまでもないでしょう。
桂 春団治 師匠のピンチヒッターとして観客の前に現れた鶴瓶師匠は、「神妙」な面持ちでした。

「電話もらって、すぐ代わりに出ることができるって、落語の世界くらいですよね」


そして、鶴瓶師匠が「下手ですね」と桂春之輔師匠(落語協会幹事長)の「浄瑠璃」にコメントしたことから始まった、祝宴会の辞任騒動の話を交えたのです。

今回、降板された桂春団治師匠の一門のトップである桂 春之輔師匠に確認の電話を入れた際、上記の件についても話せたそう。


「一度辞める、言ってみたかっただけ、って…」


会場は笑いに包まれました。



春団治 師匠の健康が回復されるのを祈るばかりですが、経緯についても「笑い」を織り込む その「軽妙さ」は やはり鶴瓶師匠です。



本題の「鶴瓶版 かんしゃく」は、師匠(鶴瓶師匠は弟子にあたる)の話す身振り手振りが圧巻だったと思います。

顔を真っ赤にする姿は「血潮」の文字を彷彿させます。

熱湯をかぶってしまった師匠の様子、「オロナミンCどこや!」と慌てふためく「かんしゃく」ぶりは腹の底から笑えるシーン。

一方で、短い爆笑エピソードを連発しながらも、師匠の心の温かさが伝わる人情噺でした。


「落語」という域を越えた、愛弟子の鶴瓶師匠しか演じることのできない噺だったといえます。



中入りを挟んだ後の古今亭志ん輔 師匠「居残り佐平次」も、負けていません。

枕の部分で、「女性が大好きです」と“女好き ”を自任した志ん輔 師匠。
おそらく世間公認のレベルです。

遊郭の世界を語らせて 師匠を上回る噺家は いないでしょう。


場所は吉原より徒歩2時間ほどの品川宿。
遊郭で「居残り」を続ける佐平次という男の物語です。


江戸の臭い、灯り、畳の表面などが、師匠の噺を聴いていると目の前に拡がっていきます。
今回のシチュエーションは 遊郭なので、障子、行燈、畳の密閉された室内だと思います。


夜露の中の「活気ある賑わい」江戸。


巧みな喋りの佐平次を見事に演じ、「居残り」の緊迫感を笑いに変えてしまうマジック。



なんと「絶妙」なのでしょうか。


どこを切り取っても、志ん輔師匠の落語は江戸町民の金太郎飴でした。
そして、終始、漂っていたのは「風格」です。




改めて、桂春団治 師匠の健康が回復されるよう、祈っております。

「春団治」だけに、「治り」も早い はず ですから。
























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