寺山修司は「40年先」を見た
寺山修司が常に「40年先を見た」ことを物語る舞台だった。
バーチャル•アイドル(初音ミク)によるコンサートが渋谷オーチャードホール、神奈川県民ホールなど、客席定員2000名近くの大型会場で開かれる時代である。
「革新」、それは映像との融合であり、「拡張現実」を採り入れた舞台さえ現れた。(東京パフォーマンスドール PLAY × LIVE 『1 × 0』(ワンバイゼロ)
だが、寺山修司なる男こそ、作品こそ、 いつの時代も最先端=異端児だったのは言うまでもない。
主宰した『天井桟敷』が70年代の「アングラ•カルチャー」を引っ張ってきたのだ。
そして、このTwitterやFacebookを扱う 時代に、「寺山修司」を内容で受け止める時代は やっと到来した。
私は、本格派ミュージカルの看板を背負うべき、アンサンブルの声量を絶賛したい。
地響きを疑った。
特に、前半の岡田静が「青ひげ公第三の妻」として登場するシーンである。
彼女の歌唱力は知る人ぞ知るパワーなので、あえて記述しない。
CDを世に出している事実を明らかにすれば、十分だろう。
地響きの発信源を確認することはできなかった。
舞台上に 姿をみせない、無数の女性アンサンブルだったのである。
比較は失礼とわかっているが、例えるなら『レ•ミゼラブル』の それだ。
サブキャストについても触れなければならない。
串田(舞台監督ー根元役)、榎本(ブロンブターのにんじん役)も、魅力的だった。(いずれも9月30日の役)
私は妖怪しか持ちえない「妖力」が彼等にあると確信した。
舞台監督という立場の榎本は、「現実」と「舞台」の境目を取り仕切る存在だろう。
そして、「妖力」を持つ役者=串田が演じることが、霧のかかった灰色の世界を造るのである。
寺山修司は、「非常灯も禁煙灯も消し、漏れ入る光は一すじもない、完全な暗黒の中での演劇というのは、長いあいだの私の夢であった」という詞(コトバ)を残した。
「暗闇」は高級ホテルのディナーより、贅沢な ものである。
映画館だってそう、人々はスクリーンを鑑賞する名目で、実は「暗闇」を手に入れたいのだ。
自らの部屋だったり、星空を見逃さないために訪れた山頂ではダメ。
都会の片隅に、様々な境遇をもつ身知らぬ人々が寄り添う場所でないと意味がない。
「暗闇」の彼方に光る一本のロウソクの炎をみつめる人は、その場限りの主人公である。
この国の伝統芸能のひとつ「浄瑠璃」は、死者の話。
「死んだ人間の視点で、死ぬまでの道のりを辿る旅」といえる。
だとしたら、寺山修司の『青ひげ公の城』は極めて伝統的様式に基づいた作品だろう。
「革新」どころ ではない。
主演の竹下優子は、そのハスキーボイスで私を虜にしてしまった。
「青ひげ公 第七の妻」を、戸惑い と 威信の表情で見事に演じ切る。まるで、アルミボールに落とされた「黄身」のような新鮮さだった。他の登場人物が「白身」に該当する。
つまり、彼女はアルミボールの中の案内人だったわけだ。
グルグルかき混ぜられ、「溶き卵」へ変わる時、観客は既に飲み込まれていた。
歌や踊り も文句を付け難く、純粋のエンターテイメントだったと思う。
「お祭り騒ぎ」の後、ひっそり後方から降りてくる演出はコントラストを与え、より作品を多角的にみせる一つの装置である。
あの光景が、歌や踊りに「疎外」のワン•テーマを加える…。
さあ、寺山修司の『青ひげ公の城』 にゆっくり浸かって、いざ「劇場(死者の場所)を出よう」。
2013/10/06 21:28
観てきた!へのコメントもありがとうございます!