エゴ・サーチ 公演情報 虚構の劇団「エゴ・サーチ」の観てきた!クチコミとコメント

  • 別々のシーンが「竜巻」に合流する!


    鴻上尚史氏は劇場を訪れた観客を大切に扱う演出家だ。

    公演終了後、必ずロビーに顔を出し、小走りの観客へ微笑みを贈呈する。また、配布物の用紙を広げれば、キャンパスノートを切り取った「手書き」(コピー)の挨拶文が載っている。

    私は鴻上作品を観劇する たび、その中身を 読み解く。

    今公演の『虚構の劇団』とは違うが、紀伊国屋サザンシアター『リンダ リンダ』(2013.3)の公演で配布されたキャンパスノートを 発見したので、少し紹介したい。


    「(略)インターネットが人間の感性を変えたと しみじみします。
    それぞれの人生の今を、こんなに
    簡単に知ってしまうことは、直感でしかないのですが、僕の人生そのものに決してよくはないだろうと思います」

    「誰かの人生を知るには、インターネットのない時代は、自分の今と引き換えが条件でした。
    (中略)
    けれどインターネットは、こっちの人生を まったく提出しないまま、相手の現在を知ることができるのです」


    なんと、今作『エゴ•リサーチ』(再演)のテーマを、別の劇団による別の公演の挨拶文で語っていた事実が存在するのだ。







    ネット•メディアは「SNS」(ソーシャル•ネットワーキング•サービス)を中心に私たちを覆う膜へ拡大した。

    「インターネット」は蜘蛛の巣のごとく、世界中をITの糸でつながる様子から名付けられたことは 多くの方が ご存知だろう。
    ただ、今は むしろ私たちの頭上すら覆う「巨大な膜」の感が否めない。

    糸を放出する本体の蜘蛛は、「決して絡まない」生物学的本能を有するのだ。新聞社や出版社は獲物にあたる情報を知っても、蜘蛛に捧げるような真似は しない。
    では、サーバーを管轄するアメリカのネット企業は どうなのかといえば、消極的に大多数のユーザーを裏切り、そして「協力」してきた事実を私たちは覚えておく必要がある。

    一方、日本の新聞社•テレビ局がいい加減になった理由は、「ネット•メディア」の相対化だろう。

    テレビ局の報道力は90年代頃が最もであり、それまでメディアの権威だった新聞社がバブル崩壊後の広告収入低迷のため衰退した「相対化」といえる。

    佐藤栄作首相が退任記者会見で「新聞記者の諸君は出て行っていれ」と促した1972年7月6日を「逆転の日」と捉える向きは多いが、90年代のテレビ報道の「スクープ合戦」は新聞の後追い報道現象まで生んだ。


    雑誌ジャーナリズムに関して言及すると、田中角栄首相と宇野宗佑首相は月刊誌、週刊誌の報道が元で失脚したリーダーである。1989年(『サンデー毎日』のスキャンダル報道により参院選大敗、辞任)が、「紙の媒体」の見せた最後の権威だったのかもしれない。

    2000年代以降のテレビ報道で特徴的なのは、新聞社の権威に対抗し、「下品」ばりのドブ板取材で鍛えてきた報道力の衰えである。
    2011年の東日本大震災に伴う福島第一原子力発電所事故は そのシンボリックなケースだった。

    詳細は あえて示さないが、先日、早稲田大学や東中野の映画館で開催された「ふくしま映像祭」を鑑賞した私は、テレビ報道側の言い分を聴いた。

    ローカル放送局•福島中央テレビが
    2011年の年末に放映した検証番組は、視聴者からの声として次のような 意見を読み上げる。

    「なぜ、海外のメディアでは爆発のシーンに“音”が あるのに、日本のテレビでは聞こえないのか」

    つまり、日本のテレビ•メディアによる隠蔽がネット上で話題になっているという。

    福島中央テレビは、「そもそも音声は記録できないカメラだった。
    一部の海外のメディアがセンセーショナルな表現のため、意図的に入れた音声。
    それがネット上に出回ったらしい」と反論した。

    もちろん、放射能被害を煽るネット•メディアの脆弱さ、無責任体質への批判に他ならない。
    私は、「大きな爆発音があった」という周辺住民の証言は本当だろうし、テレビ局側の反論も事実だろうと思う。ニュース映像を改変したこと自体、ジャーナリズム精神に反するわけだから、この件については海外のメディアに非がある。

    しかし、それは原発事故報道をめぐる問題の本質ではない。


    今まではテレビ報道こそがメディア一家の「カツオ」で、新聞報道は「ワカメちゃん」だったのだ。
    そうした構造にネット•メディアという「二代目カツオ」が新しく現れたことが、テレビの報道力を削ぎ落とした最大の理由ではないか。

    こうした「相対化」は現場、編成陣の意識の問題であり、「対ネット融合」が進まない一つの証拠だ。


    鴻上作品は、複雑なシチュエーションが後半にかけて一体化する竜巻のような勢いが魅力だ。
    恋愛を描けば青春色だし、若者を描けばコメディ色である。

    やっぱり、鴻上作品は若者が出演して こそ出せる色合いだろう。
    インターネット論、メディア論など考えさせる題材を、かなり客観的に扱っている。
    それは、「もしも」の現代社会を的確にえぐる演出である。

















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    2013/10/11 00:33

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