ハンダラの観てきた!クチコミ一覧

1881-1900件 / 3201件中
凡人16号

凡人16号

OTOZAK

原宿ストロボカフェ(東京都)

2015/06/12 (金) ~ 2015/06/12 (金)公演終了

満足度★★★★

タイトルに惹かれて拝見した
が、「L’Empire des signes」がいきなり出て来たのには正直ちょっと驚いた。

ネタバレBOX

自分が若い頃に読んだ本だったからでもあり、まさか、今の若者がバルトを知っているなど、夢にも思わなかったからである。今作では、この本の指摘する中で最もインパクトが強いと思われる部分を冒頭に挙げる。即ち“中心の空虚”である。東京の中心に位置する皇居は空虚であると指摘しているのだ。バルトは、日本の特徴をこの空虚に観、また可能性を見出している点もあるようだが、空虚であることが、一般性を持つのであれば、それは、如何様に解することも可能なハズである。
 今作が、自分が懸念するニヒリズムの肯定に結び付くのであれば、これは、哀しいことだと言わねばなるまい。日々、安倍のようなポチが、アメリカの指示通りに日本を作り変えてゆく中で、凡人16号が、唯一度、トドとキャップとの競争に負けたからと言って、その後、自己変革の努力もせず唯唯諾諾と彼らの侮りを肯んじ、指示に従うだけ、というのは、余りにスタティックで変化という大切な要素を見落としたまま、世界を測ったつもりになっているように思うからである。作者及び演者は若い世代に属するようだが、自分達の非力のエクスキューズとして今作を提示しているならば、寂しい限りである。

 一方、以上の指摘が、残念なことに正鵠を射ているならば、そうでない生き方を提示して貰いたい。その期待値を込めて★は4つ。
ボス村松の兄弟船エピソード1・2・3

ボス村松の兄弟船エピソード1・2・3

劇団鋼鉄村松

新宿シアター・ミラクル(東京都)

2015/06/09 (火) ~ 2015/06/14 (日)公演終了

満足度★★★★

ポテンシャル
元々はパート1だけの作品だったのだが、この辺りの経緯はご存じの方も多かろうから略す。パート2、3を加えて序破急の構成を為した。元来、ボス村松氏は、知的な内容が書ける人であるにも拘わらず、内的な照れなどから、書いてこなかった部分がパート2に集約的に現れて、展開を膨らみのあるものにしている。終盤は、無論、結末に向かって収束してゆくので安定感のあるものになり、作品としても纏まった。ポテンシャルの高さを見せつけてくれる作品としてマークしておきたい。今後の作品への期待度もアップする作品である。(追記後送)

銀幕心中

銀幕心中

SPIRAL MOON

「劇」小劇場(東京都)

2015/06/10 (水) ~ 2015/06/14 (日)公演終了

満足度★★★★★

流石
この劇団の質の高さは並大抵のものではない。主演女優を務め、演出も手掛ける秋葉舞滝子さんの能力の高さは無論のこと、今更言う迄もあるまいが、横田雄紀さんのシナリオの素晴らしさと相俟って存在感と技量のある役者陣の活躍で観る者を唸らせる。(追記今回は早くも再々演のお願い)

ネタバレBOX

早くももう一度観ておきたい舞台なのだが、残念乍らライフワークの集まりで伺えない。東京再々演を早くも望む次第である。
アイ色バースディ

アイ色バースディ

劇団光希

シアターKASSAI【閉館】(東京都)

2015/06/03 (水) ~ 2015/06/07 (日)公演終了

満足度★★★★

20回公演おめでとうございます
 日本社会を特徴づけるのは、principleの無さであろう。(追記No.1 2015.6.24
) 劇団“光希”は、最も信頼している劇団の一つ。だから、社会の鏡として拝見している部分があり、その鏡が日本を表すならば、ということで今回このようなレビューを書かせて頂いている。その追記1である。2迄で完結するかどうか分からないが、2は近い内に発表する)

ネタバレBOX

中国、イスラム諸国、インドや欧米とは決定的に異なり、行動を規定する原理原則が欠如しているのが、この「国」の特徴である。即ち、ここに欠如しているのは、決定的孤独でもある。自らの存在の下に広がる無限の空洞或いは無を意識した上で、我は何処から来て何処へ行くのか、という根本的問いを対自的実存レベルで問うことのできない不完全な人間が圧倒的に多い、ということをそれは意味する。
 では、principleの欠如する社会ではどのようなことが起きるか? 原理原則を打ち立てることが出来ないから、哲学とリンクした数学も論理学も生まれない。結果、原理原則は年を追うごとに成立する条件から遠ざかる。そして、明確な判断基準を持たぬまま、社会維持の方法として優しさを演ずることや他人の心情を慮る技術ばかりが発達する。それの出来ぬ者は、沈黙に身を浸す他は無くなる。この為に、人々は、個人を持たず、謂わば鵺の集団として現れることになる。今作は、20回公演を迎えた劇団光希が、この集団、日本とそこに暮らす個々の鵺的人々の気持ちの慮りに焦点を当てた作品である。
 物語は、時田組という工務店を中心に展開する。当然飯場 の仕事が多いが、河川の増水時には、補修等も行う。町場職人の親方の家の話である。修は男の子には珍しく大のお父ちゃん子、この家の長男で末っ子である。而もちょっと知恵遅れだ。
 ところで、今作、オープニングがちょっと変わっている。通常、オープニングで舞台が明転すると、役者が板についているものだが、今作では、ピンスポの当たったエアメールの封筒が照らし出されるだけで、後は、音声が流れてくる。そして、薄暗がりの中では、増水した河川の氾濫を防ぐための土嚢を積む作業が行われている。ゴリラのような体躯をした親方は、土嚢が30体ばかり足りない、と補充指示を出した。
 再度明転すると3年後。時田組事務所である。現場が中止になった為、古くからの職人コウさんと二女で社長の直ネエが朝からビールを飲み始めた。中止の指示をキチンと聞いていなかったマイが若手のアキオとやってくる。(以下追記No1にゃ~~~)他の組から手伝いに来てくれているタケさん、長女で建設重機のオペを担当しているマリねえ、他に出戻りで事務を担当する三女、ミコねえ、更に3年ぶりに借金を精算して戻って来たケイゴ。OL時代会社の行き帰りに見掛けるナオの仕事ぶりに憧れて転職した変わり種のマミも入社した。現在では飯場での請負仕事を務めるこの工務店で働いている。劇中にも喧嘩になりそうなシーンやイザコザが描かれているが、実際、喧嘩は日常茶飯事であった。今でこそ、ペナルティーがきつくなって現場での喧嘩は随分少なくなったが、筆者が職人をしていた頃は、組織に入っている者も多かった為、刺青を入れた連中と年中喧嘩になったものである。互いに獲物は持っているから、ヘタを討てば命を獲ることにもなりかねない。実際、二十数針縫うような大怪我をした奴も居た。こんな喧嘩が年中起こっていたのも、一つには、絶対的なルールが無い為にアナーキーな状態が日常的だったことも影響しているかも知れない。何れにせよ原理・原則が自らの精神の内側から己を監視するような世界観を、日本人の殆どは持っていないのではないだろうか? その代わりと言っては何だが、日本人の内側にあるのは、他人の目である。相互監視は、江戸時代の武家諸法度を始め、禁中並公家諸法度、寺院諸法度等での統制の他、民衆支配には五人組が用いられ、相互監視と連帯責任とで民衆を縛りつけ、自由と自由を求める発想・行動を著しく制限した。因みに現在も続けられている回覧板による相互監視制度へ繋がる制度であり、戦中は隣組として機能していた。日本人が、敗戦後自らの主体的責任を自ら問うことが出来なかった理由は、自らの判断と責任に於いて何事も為してこなかったという「事実」にあるのかも知れない。そして、この思考に於ける主体の喪失こそ「表徴の帝国」でロラン・バルトが指摘した意味の喪失、即ち空虚という名の中心だったのではないか? 無論、仏教の第八識を持ち出して、それを中心に据えようとする発想はあり得る。然し、日本の仏教の多くは既に形骸化し、そのように深い主体・抽象的な主体を護持し得るものとは既に言えまい。従って、日本人の大多数を占める大衆は、この空虚を中心に据えることによって一種の自由を得ると共に無責任な体系を甘受したのである。
 一方、このような条件下で、もう一つ働く力が人情である。そして、今作の描く中心、即ちもう一つの柱が、この人情なのである。然し日本社会の持つ、自らが絶対と対峙した実存として判断し結果責任を負うということができないこの特殊構造性が、またしても中心に空白を産むことになる。それは、修に父の死を隠し続けてきた事実であった。今作では、実は修は気付いていたのだが、姉達への気兼ねからそのことを言い出せなかったことになっていて物語としては一種の救いに繋がってゆくのであるが。
 以上の事を更に突き詰めてゆくなら、責任の曖昧化は誰でも気付くことができよう。原理的に主体が確立できないのであるから、責任主体も生まれるハズが無い。人間という発想も生まれない。そもそも、我々の認識は、比較によって生まれる。人間に対するものは、神の概念であったり、絶対の概念である。それに対して、人間は、ヒトという対置概念を設定することができるのだ。このように設定すれば、相対VS絶対、それらの相関関係を通して関係の概念を打ち立てることができ、そこから、様々な原理原則を打ち立てることができる。無論、この根本の中には、其々の要素を相互作用させる運動やエネルギーという要素を組み込むこともできよう。
 然るに、我々の暮らす日本では、自分の頭で考えられたこれらの基礎が無い。そのことを人々は感じているが、その原因の究明については力不足であり、もとよりそのような事を追求する覚悟もしない者が殆どである。通常、主体が無いのに、そんな覚悟ができるハズが無いのである。だってそんなことをすれば、狂うか自死するか或いは長い不毛の旅をその精神の領野に過ごした後に息絶えるか、途中で耐えきれなくなって犯罪者にでもなるか、長い苦しみに耐え終に発見者となるかしか、道は残されていないからである。そして、発見者になる確率は、実に低い。
 ところで、憲法審査会参考人三人が全員安保関連法案を違憲と断じたことに対し、自民党副総裁の高村 正彦が「最高裁が示した法理に従い、自衛の措置が何であるかを考え抜くのは憲法学者でなく政治家だ」と反論し、合憲を主張。憲法の番人は、最高裁判所であって、憲法学者ではない、と言明したことを“異様”だと感じた向きは多いのではなかろうか? 無論、異様だ。何故なら、高村の言っている法理の一方は、安保法の体系であり、他方は、憲法体系の法だからである。敢えて混同しているのであれば、その拙劣な欺瞞は、政治家の名を汚すものであるし、意図的でないとすれば、政権与党の副総裁ともあろう者が、この程度の認識も持てないとは恐れ入って二の句が継げない。
 では、その法理とは何かを明らかにする前に、審理された事件は何であったかを今一度キチンと整理しておきたい。この事件は、米軍立川基地の飛行場拡張の為の測量に反対して1957年7月8日に立ち入り禁止の基地内に数メートル入ったとして労働者、学生7名を安保法体系に属す刑事特別法第二条違反(1年以下の懲役または2000円以下の罰金もしくは科料)と検察が主張したことだった。ところで立ち入り禁止区域に入ったことは、憲法体系の法ではどのように訴追するのだろうか? この場合は、軽犯罪第1条32号“入ることを禁じた場所に正当な理由がなくて入った者”(拘留または科料)に該当する。為された行為は同じでありながら、日本国内で異なる法理が適用され、米軍基地に入った場合には、より重い刑が科されること自体、日本国民の法益より米国の法益を重視するという主客転倒した法処理である。このような矛盾を解消し安保法体系より憲法体系を優先する至極真っ当な判断を下したのが、東京地裁の伊達判決であった。この判決は、検察官主張の刑事特別法より、憲法31条の“どんな人でも適正な手続きによらなければ刑罰を科せられないことを保証する”ことに準拠、憲法を基準として安保法体系を違憲無効とし2つの法体系併存を否定しようとした判決であった。当然、その根底には、米軍駐留は、憲法9条違反という判断がある。(最後の段落については記述に「検証・法治国家崩壊」創元社刊を参考にさせて頂いた。)
『タガタリススムの、的、な。』

『タガタリススムの、的、な。』

舞台芸術集団 地下空港

座・高円寺1(東京都)

2015/06/04 (木) ~ 2015/06/07 (日)公演終了

満足度★★★★

はこ 
 オープニングの科白、間の取り方に難あり。間の抜けた物言いに、興味が一気に白けてしまった。 特に”的な”などの一連のこの劇団独自の大切なハズの科白に、役者のヴィジョンが感じられなかったのは、問題。

ネタバレBOX

 ある朝、クルイドダイナミクス社の社員食堂には、手足の無い遺体が置かれていた。一人だけ集合時刻に遅刻してくる派遣労働者がいる。名をオウスマコトと言う。派遣会社の連絡ミスが原因だが、彼が到着するまでに、殺人犯は彼だとの疑いが掛けられる。何故なら、彼と被害者は、何度も喧嘩している姿を同僚から見られていたからであり、つい最近も「殺してやる」というマコトの発言を聞いた者があったからである。SNSによって情報は瞬く間に拡散され、偶々、別件で取材に入っていたメディアのスクープとしても報じられることになって、結果、彼は、真犯人として追われる羽目になった。彼は、職場内で付き合いのある彼女の「逃げましょう」の言に従い彼女の手を取って工場の食堂から逃げ出す。然し、ニュースの流れる中でも、肝心な所になると、意識障害でもおきたように雑音や乱れ、頭痛などが起こって情報は伝わらない。ニュースの流れる度に、このようなことが起こる。二人は何とか逃避行を続け、途中でヒッチハイカーを装って夫婦者と彼らの車を支配下に置くことに成功、夫妻と共に隣国へ忍び込むことに成功するが、そこで明かされるクルイドダイナミクスの秘密は、其処で作られているのが、何かであり、誰が何の目的でそんな物を作り、人々に供与しているのかについてであった。最後の最後に、マコトの真の姿と彼の為してきたことが明らかにされる。
 因みにここで言及されていることは、フィクションであるが、似たことは、現実にアメリカのペンタゴンとウォールマートが組んで本当に実現しようとしていたプロジェクトに現れている。そのプロジェクトとは、人体にマイクロチップを埋め込み、其処から発信されるデータに基づいて埋め込まれた人間の位置、移動等のメタデータを衛星を用いて得ることであった。此処まで、小型化はされなかったものの、性犯罪を犯したことのある人間の体に鍵付き発信機を取り付けて監視していたことがアメリカで問題になったことはある。無論、この時にもメタデータが収集されていた。
 今作で描かれている世界で人体に埋め込まれているのは、LC即ちliquid computerである。目的は、埋め込まれた人々の操作である。無論、情報操作、感情操作等を含む、為政者に逆らわせない為の操作総てである。これは、他人事ではない。日々、この植民地でアメリカとその手先によってTV、出版物などのメディアを用いて行われていることである。その点を喚起することこそ、今作の意味だと解釈した。
 但し、演劇的には、今回、スターシステムに乗っかって初演の時のような緊迫感も無く、役者も主人公の演技レベルが低い。良かったのは、彼女役の方である。マイクを装着しているにも拘わらず、高円寺1のキャパを充分に計算しているとは言い難い演出で、科白が聞き取り難いシーンが多すぎる。演出家はイギリスに行っていたようだが、シェイクスピア俳優の演技力と日本の役者の演技力の差をキチンと計算しているとは思えない。猛省すべきだろう。折角のシナリオが泣く。
ゴベリンドン

ゴベリンドン

おぼんろ

吉祥寺シアター(東京都)

2015/05/21 (木) ~ 2015/06/07 (日)公演終了

満足度★★★★★

今作の特徴
 朧の現在迄の最高傑作との評価が高い今作だが、メンバー5人の個性表出、身体表現上の特徴・特性の活かし方に於いても出色の出来であることは間違いない。思えば、今作の初演が朧の名を一躍有名にしたのである。廃工場を会場にした公演は、日本では驚くべき効果を齎した。自分は初演を観た時、フランスの映画監督、脚本家のレオス・カラックスのテイストを思い出した程である。(追記後送)

ネタバレBOX


 実際、今作のテキストは、良かれと思って為したこと、選んだこと自身、非難されるべきではない人間的行為・選択が、否応も無く取り返しようのない結果を産んでしまうことをテーマとしている。その悲劇の本となった人間的行為は、愛であり、取り返しのつかない結果は宿命と言っても運命と名付けても構わぬ。だが、気付かないだろうか? このような劇的構造こそ、ギリシャ悲劇の傑作を特徴づけるものであることに。
 前半部のファンタスティックで幼児的とでも評したくなるような、甘いテイストは、中・後半へのプレリュードを為し、その終盤部で明らかになるように対比を為している。即ち、序盤の甘さと中盤から終盤迄の苦さは、シナリオ自体が対比構造を為すことによって相互に反芻し合い深め合う相乗効果を観客に齎す仕組みになっているのだ。この点も傑作を特徴づける大切な要素である。
いしだ壱成主演「俺の兄貴はブラームス」

いしだ壱成主演「俺の兄貴はブラームス」

劇団東京イボンヌ

スクエア荏原・ひらつかホール(東京都)

2015/06/03 (水) ~ 2015/06/05 (金)公演終了

満足度★★★★★

standing ovation
 バッハ、ベートーベンと並び称されるドイツの名作曲家ブラームス。シューマンに認められ、一日にしてスターダムにのし上がった彼は、その美貌と才で著名なシューマンの妻、クララに強く心を惹かれる。ところで、偉大な作曲家として知られるブラームスのファーストネームは、ヨハネス。彼には弟が一人居た。(追記後送)

ネタバレBOX

 弟のファーストネームは、フリッツ。この物語の主人公である。兄弟共に、音楽家を目指していたが、弟はハンブルグで漸くコントラバス奏者の地位を得た三流音楽家の父の血を強く受け継いだためか、作曲の才能は、まるでなかった。一種の欠落傾向を持っていたのである。その傾向とは、それと知らずに盗作してしまうことにあった。一方、ヨハネスの才は、ロマン派的傾向を多分に持ちながら、古典派的に規則内での自由を求める傾向にあった。無論、それでも彼の才は図抜けていたし、それを最初に認めたのが、シューマンだった訳だ。然し、そのヨハネスにも矢張り欠落があった。人情の機微に極端に疎かったのである。その為、友達もおらず音楽しか無かった。逆にフリッツは、この面では非情に優れ、誰からも好かれ、友達も多かった。彼を慕うナターシャも居る。
 兄弟は互いの欠落を埋め会うように、故郷を離れて、同じ町で暮らしていた。舞台が設定されているのは、彼らが毎日通うバールのような店である。この舞台空間の奥にオーケストラが控え、下手にグランドピアノと弾き手が居る。舞台上では、通常の演技と共に、オーケストラ・ピアノの生演奏を背景に声楽家が歌い、バレエダンサーが踊る。何れも非常にレベルの高い面々。これらの要素が見事に演技とコラボレートして観客を楽しませてくれる。因みに東京イボンヌは、演劇とオペラやクラシックコンサートを融合させた新ジャンルを上演する為に、主宰の福島 真也氏が立ち上げた劇団であり、今回が9回目の上演である。
雨ウツ音ナリツヅ9日々

雨ウツ音ナリツヅ9日々

tetsutaro produce

Geki地下Liberty(東京都)

2015/05/26 (火) ~ 2015/05/31 (日)公演終了

満足度★★★★★

ヤマトンチュー分かってるのか?
米軍上陸後の沖縄戦で何が起こったのかを戦争を知らない世代が資料と想像力を用いて描いた映画を作ろうとしている。これが設定である。

ネタバレBOX

 日本は、ポツダム宣言を受諾してから、占領軍が、進駐してくるまでの間2週間程のタイムラグが在った為、軍、官、企業等で戦争を推進していった連中に不利になるような物は、未だ機能していた軍、官僚機構や役所の通達によってその99.9%が焼かれた。その規模は、どれほどのものだったか? 日本全国津々裏々で空が黒くなるほどの量の書類が焼かれたのである。従って安倍等が証拠が無いから~が無かったというようなことは、何の意味も無い。彼らこそ、それらを焼いた連中の直系の末裔であり、未だに彼の祖父岸 信介がCIA資金を受けていたと同じくアメリカから情報、サジェスチョン、活動の便宜、敵対者への脅迫や実効支配の為に為される様々な事象で援護を受けているとみられる。(犯人の決して上がらない事務所放火や家族・親族への脅迫など)が行われているという話はジャーナリストの間では公然の秘密である。そして、それは、簡単に行えるのが実情だ。アメリカは軍務とさえ言えば、日本への出入国はノーチェックで可能だからである。従ってスパイであろうが、殺人・特殊任務を旨とするアメリカのテロリストであろうが、出入り自由、日本側は地位協定の定めにより一切関与できない。験に、外務省に現在、日本に海兵隊が何人いるのか実数を訊ねてみるがよい。彼らは正確な数(実数)など答えられない。アメリカの言っている数を繰り返すのみである。これが、独立国だとでも言うのか? 臍が茶を沸かす。
 先ごろ、ニュースでも報じられたが、総務省が、選挙公約を削除していた話である。これらの情報を阿保としか言いようの無い官僚共は、自分達の物として勝手に処分してきたのであるが、彼らの給与も、これらの情報を作る為の資料等も総て国民の税によって賄われたものである以上、国民の財産だ。これらを勝手に処分するなど、無論、犯罪である。先ず、国民の財産を盗んでいる訳だし、それを勝手に廃棄してきたのだから、証拠隠滅やその他の罪に問うこともできよう。ことほど左様に、この国の官僚共は間が抜けている。国民もこんな阿保な官僚を奉ってはいけない。そも、東大のランクなんか世界のトップ10にも入れないどころか20位にすら入っていないのだから。せめてMIT、スタンフォード、ケンブリッジと肩を並べるようでなければ話にならない。
 今作から話が逸れたが、大切な点は、沖縄が日本で唯一地上戦が闘われた地であり、作家は、現在も戦争は続いていると認識している点である。小学生の女子生徒が米兵に集団レイプされても、アメリカ国内の法で裁かれるより遥かに軽い刑で済まされ、米兵軍属の悪戯で沖縄の人々が怪我を負ったり、亡くなり掛けるような事件も起きる。僅かに返還された土地についても、米軍は一切除染をしない。銃剣とブルドーザーで県民の土地を奪い、勝手に基地を作っておきながら、返還に際して自分達が汚した大地、地下水などの除染すらしない。どういうことだ? 無論、レイプも多い。ただ、強姦罪は申告罪である為、殆どの犠牲者が泣き寝入りをしてしまう。レイプされた上に、その「恥」を晒すことになるからだ。また、ベトナム戦争や湾岸・イラク戦争、アフガニスタン攻撃などでも沖縄から、多くの米兵が出撃している。日本の0.6%の面積しかない沖縄に米軍基地の74%が集中している異常。沖縄国際大学に墜落したヘリの事故処理は、米兵が日本人をシャットアウトして関与させず、ストロンチウム90が飛散しているのも知りながら、現場を封鎖、事故機体及びストロンチウム90が飛び散って汚染された周辺の土壌などを持ちさり証拠隠滅を図った。この事故の際も、報道陣を暴力で追い払い、取材の邪魔をした。民主国家を標榜するアメリカとは、実に偉大な国家である!! 世界中に基地を置き、現地女性をレイプしては基地に逃げ込んで本国に帰って知らぬ顔をする。レイプばかりではない。殺人も然りである。これらは、異常ではないのか? 狂犬国家ならいざ知らず、民主主義の模範を標榜しつつ、このようなことを日常的に繰り返して、キチンと罰せられないことは異常ではないのか? 
 現在、横田にオスプレイが飛来することでヤマトンチューが騒いでいるが、米軍は、どこでも飛行できるし、何処でも基地にできるのが、地位協定なのである。日本人の敵はアメリカであることを先ず認識する必要があろう。
 沖縄は裕仁によって棄てられた。そして施政権を持てない体制を余儀なくされた。その間に島民の多くが捉えられ、彼らの土地が勝手に基地にされたり、銃剣とブルドーザーで基地にされたのである。これは歴史的事実である。
 何かというと“平和ぼけ”と逃げを打つヤマトンチューの卑劣さが顔を出す植民地で、この異常を異常として認識できているヤマトンチューがどれくらい居るのか、と問われれば甚だ心もとない限り、と答えるしかなさそうである。但し、翁長知事の頑張りもあって、辺野古基金の7割は、大和から送金されているというから、少しは、気付いてきているのかも知れないが。辺野古同様、大変な闘いを強いられている高江のことが語られないのは何故だ? というような疑問も含めて破綻のある演出を敢えてしているように観た。作品としての纏まりや展開を敢えて損ない、観客を単に観劇して愉しむ主体から内部に不如意を抱え、不愉快を内面から味わう主体へ転ずる。この技法によって現在、ウチナンチューやシマンチューが、アメリカによる植民化とヤマトによる植民化という二重の植民化の下で喘ぐ不如意やデペイズマンを追体験させられるのである。
 この効果を予め狙っているとしたら、実に鋭い見事な演出と言わねばならぬ。
愛でもないし、youでもなくて、ジェイ。

愛でもないし、youでもなくて、ジェイ。

アナログスイッチ

シアター711(東京都)

2015/05/27 (水) ~ 2015/05/31 (日)公演終了

満足度★★★★★

今後もシミタノ
青春物が多いアナログスイッチだが、意外と懐が深い。

ネタバレBOX

 というのも作家は26歳の誕生日を迎えたばかりだし、ギャグも笑いの本質に根ざした箍を外すという原点から作られている為わざとらしさが無く、品を欠くことが無い。今作が、東京と地方に纏わることは、敏感な観客には、直ぐそれと知れよう。タイトルに含まれるI,U,J其々が、Iターン、Uターン、Jターンを表すであろうことは、容易に推測できるからである。無論、タイトルには他の意味も含まれている。愛に纏わる話題でもあるし、嫉妬に纏わる話でもあれば、友人・友情に纏わる話でもある。これらの問題が都会と地方、殊に過疎に悩まされる現代日本の喫緊の問題であるこの「国」の国家戦略、未来への展望、戦略・戦術と相俟って、現実に若者を食い物にすることで辛うじて成り立っているような情けない現実を背景に、失われてゆく大切なものと自分達の存立そのものの基盤、自己実現と社会との齟齬、それを内的矛盾として抱え込まざるを得ない若き日本人の日常を、過疎地にあるバンガローに集まった二十代中盤の若者の葛藤を通して描いた作品。
 今後も楽しみな劇団である。
Re・BIRTH-南総里見八犬伝異聞-【完結編】

Re・BIRTH-南総里見八犬伝異聞-【完結編】

super Actors team The funny face of a pirate ship 快賊船

ブディストホール(東京都)

2015/05/27 (水) ~ 2015/06/02 (火)公演終了

満足度★★★★★

熱く楽しい舞台
 玉梓の怨霊に祟られたか、レビューを書こうとするとフリーズしたり調べ物ができなくなったりして、ここ数日を過ごしている。どうなっているのか原因は定かでない。何れにせよ、かなり厄介ではある。

ネタバレBOX


 本論に入ろう。何時まで愚図愚図していても始まらぬ。今作は無論、滝沢 馬琴の「南総里美八犬伝」を下敷きにした作品だが、原作は、初出から28年がかりで刊行されたという長編物語である。江戸時代後期に発表された作品だが、現在では、古典と呼ばれても良かろう。ところで、古典と呼ばれるに至るような作品は、残らなかった作品と何がどのように異なるのか? それは、古典では人間が描かれているという点だろう。残らない作品には、古典ほど深く広い人間への省察が無いのである。余りにも当たり前なことを何故今更、と思う向きもあろうが、演劇のコンペに応募してくるような作品の中にもこの点を忘れている作品が散見されるからである。
その点、快賊船による今作は、南総里美八犬伝が、何故古典として生き残ってこれたのかが、実に良く分かる形で舞台化されている。例えば、八犬士の中でも最強の信乃が、玉梓にその精神を乗っ取られようとして葛藤する場面や当の玉梓自身が、怨念を持ちこたえる為に自ら必死に怨み辛みを鼓舞する辺り、更には化け猫退治に出掛けた後の父は、最早実の父ではないと感づいて居ながら、親の形をし、その役割を演じている化け猫との間に悶着は起こしたくないと悶々と悩む大角の姿など、イデオロギーや時代、国を越えた人間の姿が描かれているのである。最近では殊に酷くなったアメリカの、何でも“愛”にすり替えて自らの実際の姿を隠蔽するアメリカ映画、アカデミー賞の欺瞞などとは雲泥の差である。(ミュージカルでも「ミスサイゴン」ではトンキン湾事件や、枯れ葉剤散布によるダイオキシン汚染、カーチス・ル・メイの命令によるジェノサイド、米軍によるベトナム人への拷問、虐殺等々、アメリカの犯した戦争犯罪については一切触れられず、単なる恋愛問題に収束させる精神のオゾマシサを露呈している他、Wajdi MOUAWAD原作の“L’incendies”がアカデミー賞を受賞しなかったのは、扱われている問題が、パレスチナでありシオニズムの本質を抉っているからだろう。)優れた文化というものは、時代にも為政者にも大衆にも阿ったりしない。ただ、無私の精神を通してヒトの本質とその可能性について優れたヴィジョンを提示するのである。
今作でも、怨霊と化した玉梓に伏姫が、闘いの無い世を諭す。それは、逆説的に玉梓も述べていたことなのである。唯、玉梓の場合、それは、激しい怨念の為せる技であった。だが、物語全体の謂わば重石として機能しているのは、玉梓のこの怨念である。其処ら辺りが、凡百の駄作とは異なる点であろう。この肝心要の役、犬塚 信乃と玉梓は一人二役で金村 美波さんが好演している。ゝ大法師(金碗 大輔)役の清水 勝生さんの貫録もグー。
殺陣の多い舞台で動きもあり、休憩を挟みはするものの3時間をちっとも長く感じさせない。
僕は父のプロポーズの言葉を知らない

僕は父のプロポーズの言葉を知らない

劇団フルタ丸

小劇場B1(東京都)

2015/05/27 (水) ~ 2015/05/31 (日)公演終了

満足度★★★★

チャレンジ
 日常的にいくらでも転がっている事象に思い掛けない切り込みを仕掛けてくるフルタ丸だが、今作は劇団員6名のみで作られた物語。(追記後送)

ネタバレBOX

タイトルから誰でも察しがつくかも知れないが、どういうシチュエーションで、何処を舞台にするかで正否が決まってくるような難易度の高いテーマである。而も、6人で実質人数の足りない所をやりくりして、如何にも小劇団ならではの笑いも誘う。
セーラー服とブルーシート

セーラー服とブルーシート

TOKYOハンバーグ

ワーサルシアター(東京都)

2015/05/27 (水) ~ 2015/06/01 (月)公演終了

満足度★★★★★

ゲネを拝見。
 実にラディカルなシナリオを緩急程良く按配して劇的効果を高め、バランスの良い作品に仕上げている。ゲネを拝見した段階で噛むことも殆どなく良い仕上がり。また、両劇団共に、舞台の作り込みもしっかりしていると伺ったが、事前に相当互いに意見をぶつけ合ったのだろう。若干シンプルだが、本質を衝いた優れた舞台美術にも感心した。

セーラー服とブルーシート

セーラー服とブルーシート

B.LET’S

ワーサルシアター(東京都)

2015/05/27 (水) ~ 2015/06/01 (月)公演終了

満足度★★★★★

ゲネを拝見。
 シナリオはラディカルで緊密感があり、弱者の弱みを逆用して力にする当たり、キリスト教の本質に近い。即ち、弱いが故に「正義」を持ち得るのである。この辺りの政治的判断が実に巧みに、実感を伴って表現されている点にこの作家の優れた資質が現れている。

ツギハギガール

ツギハギガール

バカバッドギター

上野ストアハウス(東京都)

2015/05/22 (金) ~ 2015/05/24 (日)公演終了

満足度★★★★

純愛と
 人呼んでフランケン博士の住みついた洋館は、そのオゾマシイ噂の為か、人は殆ど寄りつかない館だった。

ネタバレBOX

 そのオゾマシイ噂とは、博士は櫛けずらず、髭も剃らず、風呂にも入らない為、異様に臭い等々。どちらかというと恐怖よりコミカルな要素が強いのだが。このフランケン博士、独学で解剖学を学び、生業は、ペットの死を受け入れられない飼い主の依頼を受けた業者が回してくる犬の遺体を生前そっくりの剥製に作りかえることで立てていた。然し、ある嵐の夜持ち込まれたのは、若い女の、死後時間の経っていない遺体だった。博士は遺体の蘇生を試み成功した。だが、“夜”と名付けられ蘇生した死体は彼の期待に反して、博士の言葉をオオムのように繰り返すだけだと彼は認識、絶望した。然し、事実は異なった。殆どをミメーシスに頼ったのは事実であるが、彼女の反復にはオリジナリティーが含まれていたし、そもそも、体は大人の女性でも、蘇生したばかりの身体は新生児に近い。新生児はミメーシスを基本とするのは常識というか、生きて行く為に本能が要求する必然である。従って夜に間違いは無い。
 一方、マス塵に属するハズの三流ゴシップ誌、「電気グラフ」には、博士から取材依頼が届いていた。如何に世間に疎いとはいえ、博士も知能は高い。実験に掛かる費用や電気代を払わなければ肝心の実験が出来なくなること位分かる。(安倍晋三などより遥かに賢い訳だ)で、取材依頼することで何がしかの対価を得られると踏んだ訳である。出掛けて来た編集者は、駆け出し。仕事となれば一所懸命にこなすし、まあ、掲載できるレベルの仕事はできるのだが、この件では、経験の浅いこともあって難がある。だが、編集者兼表現者として最も大切な人間としての価値観はしっかりしているし、究極の、選択を迫られた場合にも、自分の頭で考え、結論を出すことができるだけの人間である。だが、時代の阿保な流れにコミットしていない訳でもないので、表面上は、恋愛問題で激しい浮き沈みを経験するタイプということになっている。が、実際には、そんな泥沼に嵌っている訳ではなく、心理的なゲームの領域に留まっている。要は感受性の鋭い未通女である。
 博士の所に出入りするのは、犬の死体を持ち込む死体屋。サラリーマン的なので、本質に余り関係無い。ストーリーを現代的に構築する為とそれらしさを付加する為の役回りであるが、役者はいい役者を使っていて、必要以上にでしゃばっていない。因みに狂言回しなら他にも居る。
 おどろおどろしい設えなのだが、純愛ものである。恥ずかしくなるほど、純で無垢。夜が実は脳が劣化して死に至る難病患者だったこと、祖母の面倒を良く見、遺体の使える部分は、必要な人に移植するよう生前言い残していたこと、彼女の独自の記憶の中に祖母に食べさせる為の料理のレシピが残っており、そのことによって、博士と担当編集者の間に生まれ掛かっていた恋に、二人の子供への明るい未来が示唆されていること、自己犠牲の尊さを表す為に、オスカー・ワイルドの「幸福の王子」の逸話の幾つかが巧みに援用されていることなどで、頗る自然に、嫌みのない大団円で観客を道徳の高みへ連れていった。観劇後爽やかに感じたのはそのせいだろう。
劇場版 サヨナラワーク

劇場版 サヨナラワーク

ネリム

シアターグリーン BOX in BOX THEATER(東京都)

2015/05/21 (木) ~ 2015/05/24 (日)公演終了

満足度★★★

次は大人の恋を
“女の子はマシュマロで出来ている”と思い込めると信じるほど、初心な男と、恋に恋する乙女を演じていられる女の子たち向けの心理劇。

ネタバレBOX

シェアハウス、サヨナラワークにやってきたのは、バイト先の妻子ある店長によるストーカー被害に悩んだなるみ。大学時代の親友、まゆみが暮らすサヨナラワークをシェアすることになった。同居人は、コメディアン志望のともみ、ジェニファー・ロペスに憧れるさわこ、二次元のイケ面に萌えるもえこ、女の子専用のシェアハウスである。
ところが、近所のコンビニに入っている学生バイトが理想的イケ面とあって、彼女達全員が、彼に恋をしてしまう。而も、この店員、ニュースで報じられた殺人犯そっくり。1人の男を恋する複数の乙女たちには、不思議なことが起こり始める。彼を見て以来、一人、また一人と忽然と姿を消してしまうのだ。この謎解きは観てのお楽しみ。
盗賊と花嫁【公演終了しました!ご来場誠にありがとうございました!】

盗賊と花嫁【公演終了しました!ご来場誠にありがとうございました!】

くちびるの会

【閉館】SPACE 雑遊(東京都)

2015/05/20 (水) ~ 2015/05/24 (日)公演終了

満足度★★★★

時代の狂気は
 誰が産むか?

ネタバレBOX

 世界はめまぐるしく動いているが、アメリカの残光と中国の曙光が第二次冷戦を作り出すか否かが当面の世界情勢の柱となろう。無論、単に軍事力の問題のみならず、経済力、外交能力、情報収集力及び分析力、そして世界知の集積力、更に自国領土以外での影響力等、その土台となるべき領野は広く深い。このような情勢の中で、坂口 安吾の“桜の花の満開の下で”を下敷きにする本作の構成は、多用な状況を見据えた上で、様々な解釈が可能なディスクールを用いている。結果必然的に、解釈は多用である。以下に自分の書く解釈も、自分の幾通りかの解釈の内の一つに過ぎない。
 この話、主人公は多襄丸と女だが、物語の進展に最も深く関わるのは、管屋である。彼は“言の葉”を操り、都で狐憑きを流行らす。狐憑きとは、無論、見たから信じたのではなく、信じたからこそ見える幻影であるが、人々は管屋の操る言の葉の魔術(端的に言えば詭弁)に惑わされ幻を真と観るようになって、狂わされてゆく。丁度、自民党の詭弁家達が、「国民」を誑かすのと同じように。
 そして、誑かされた者達は大挙して山に入り、強く吹く風からも、日常の喧騒からも自由に、どっしり大地に根を下ろしていた桜の老木を焼きに来る。その狂気の原因が、此処に在るとして。後に残るは風ばかり。
【無事終幕】「私が私でいられた最期の12日間」【多数ご来場大感謝】

【無事終幕】「私が私でいられた最期の12日間」【多数ご来場大感謝】

JOHNNY TIME

エビス駅前バー(東京都)

2015/05/16 (土) ~ 2015/05/26 (火)公演終了

満足度★★★★

びーとるずジャニャイガ
黄色いビルに入っているバーNAのにや!! (Kigamuitatatuiki)

ネタバレBOX

 そういえば、ホントかウソかは、知らないが小学校の頃、オカシなことをする奴は黄色いバスに乗せて連れて行かれるって話があった。あれも一種の都市伝説かも知れにゃいが、連れられて行く先は、無論?である。(?は差し障りが在る為こうしてあるにゃ)
 で本論にゃ! (1つだけにゃザマーミロにゃ)ここ、バーとしては五流以下。氷が製氷機ってなんだ!! 値段も五流の癖に高過ぎる。気が利かない。これは一番目と合わせて決定的。バーって名乗る以上、ちゃんとぶっかき氷位使うのが当たり前。本物の氷を買って具えるのが基本だが、それができないならせめてそれくらいのことをしなければ、イキフンさえにゃいではないか。演劇の観客の荷物についても、入店した時に1人1人訊ねて対応するのが当たり前。それを開演時間も過ぎる頃になって漸く身動きもままならないような狭い空間に座った客全体に対して告げる。これ、おちょくり以外の何だ!? 更にメールで早目に来るように予め連絡が入ったから早目に行っているのに、開場の18時になっても開いていない。これもおちょくりである。客商売嘗めてんじゃねえか? バーとしては、ハッキリ五流以下。キチンとした氷が使えないということは、水も出鱈目、ということに繋がる。ということは供する酒そのものが出鱈目ということになるのだ。こんなことも分からねえんだったらバーという看板すぐ下ろせ。こちとらが恥ずかしくならあ!!
 が、芝居自体は、良かった。これにはびっくり。(内容は観れば分かるのでこれも詳細は割愛。自分は主演女優のちょっと癖のある演技が気に入った)だったら、バーの名を外して、大衆酒場のコンセプトでやったらよろしい。ガーデンプレイスの出来る前、元々、恵比寿はごく一部の大使館連中相手の店(無論、日本語は一切通じない、客の97~8%は外国人)が僅かにある他、隠れ名店があっただけで他は総て大衆向けの酒場だったのだから。
BARに灯ともるころ

BARに灯ともるころ

ZIPANGU Stage

萬劇場(東京都)

2015/05/20 (水) ~ 2015/05/24 (日)公演終了

満足度★★★

not bar
イタリア風のバールが舞台なので、自分のバーのイメージを形作ってきた、湯島の“琥珀”だの亡くなった古川さんの“クール”だのこれもマスターが亡くなって閉めてしまった“ランボー”だのとは全然違う。

ネタバレBOX

 寧ろ、カフェやスペインのバールに近いバーでの話だ。2日続けてバー関連である。本作は、バーを舞台にした作品だし、この作品を観る前日には、バーで上演される芝居を観ていた。とは言っても、こっちのバーも自分のイメージとは程遠かった。
 何はともあれ、芝居の話をしよう。昨日初日だし、解説など必要の無い内容なので、具体的な内容には触れない。形式としてはコメディーに分類されよう。コメディーの手法として、誇張は基本的なテクニックであるから、それをするのは無論間違いではない。然し、ケレン味やアイロニー等の捻りが無いとワザトラシサばかりが目につき、芸に新味もなければ味も無い凡庸なものになってしまう。様々な映画の科白から引用した言葉を吐く客が出てくるのだが、作品全体としての奥行きに乏しい為、その格好良さが本当には出て来ない。唯のぺダンティスムに終わっているのである。そのことが目指した格好良さと正反対に格好悪いことを喜劇として描いているなら面白いのだが、そうではなかろう。洋の東西の深い断絶も考えず、表層だけで何かを交換したつもりになっても内容は無限に希薄化するだけである。
総員死ニ方用意

総員死ニ方用意

タッタタ探検組合

ザ・ポケット(東京都)

2015/05/13 (水) ~ 2015/05/17 (日)公演終了

満足度★★★★★

二度目の観劇である。
初日と楽を拝見したことになる。改めて思うのは、シナリオの素晴らしさ、喜劇劇団としての品格とセンスの良さ、役者達の多様な個性が一堂に会することの楽しさ、何より着眼点の鋭さと適確な距離である。初日のレビューで、おんぼろパソコンは、何行か書いた文章を消失していた。読者の方々には、歯切れの悪い文章をお届けすることになり、申し訳なく思う。

ネタバレBOX

 
 初稿でも指摘しておいたことではあるが、今作、冒頭のシーンと科白で見事に、この時代と今作の要点を示唆していた。喜島艦長、谷村の兵学校時代の同期、親友である大和艦長、有賀からの便りには、大和艦長に就任した旨綴られていた。折しも1945年3月26日には、米軍は座間味に上陸。その後島の形が変わる程の艦砲射撃の後、4月1日米軍は沖縄本島に上陸。島民の四分の一が亡くなる壮絶な沖縄地上戦に突入していた。先にも書いた通り、最早、軍部に有効な対抗手段も武器も無く、「国体」護持に固執する指導部には、非合理・不合理な戦法しか残されていなかった。つまり特攻である。大和は、第二艦隊旗艦として、沖縄の窮地を救うべく成功率ほぼ0%の海上特攻の任を担ったのである。時に4月5日、徳山沖に停泊していた大和に出撃命令が下る。谷村、有賀両俊英の見立て通り、僅かに残った日本の救援・援護機の援護が届かなくなる海域に入った途端、大和は敵機動部隊の総攻撃を浴び、海の藻屑と化したことも既に書いた通りである。
 が、元々、喜島が大和救援に向かうことは、谷村の一存で決められた作戦であり、腹心の者以外、この事実は知らなかったのだが、先にも書いた通り、大和の正確な位置と出帆時刻を喜島に伝える任に当たっていた者が、軍部に怪しまれ拘束された為、連絡が遅れ、大和出撃15時間後に佐世保を出発することになる。喜島出撃に際し、谷村が檄を飛ばすが、乗り組み員は僅か4ヶ月の訓練しか受けていない。ここにも、戦局の悪化が如実に現れている。言う迄も無いことだが、艦長谷村がその檄を飛ばす際、甲板左方、右方双方を見ながら言を発しているのは、舞台では、役者が7~8人しか出ていなくとも、水兵は全員甲板上に集まっていることを表しているからである。観客は、このような想像力を要求されるのだ。即ち、乗員は148名+αであるという科白情報と谷村の所作、顔や目の動かし方から、甲板上に整列しつつ、艦長の訓示を聞いている兵士達の姿をヴィジョンとして観ることをだ。一般兵士は、気をつけの姿勢でしゃちこばっている。その中で、特異な兵士達をこそ、今作は、役者を用いて描いているのである。では、第一分隊、第三班の兵達は、何処が特異なのか? 無論、翼賛体制に関わる総ての言動をどこか否定的に見たり、距離を置いて自らの思想を確立していたり、要は自分自身の頭で考え判断する自由を持っているという意味で特異であり、それ故、翼賛体制に悖る落ちこぼれとされた人々であった。今作の凄さは、このような自分の考えを自分の思考によって構築できる“落ちこぼれ達”を主人公にしている点にある。
 これも、何度もあちこちで書いたことだが、有史以来日本に日本人自らが根本のレベルから発明した行動原理としてのprincipleなど一度たりともない。総て借り物である。“葉隠”でさえ、根底にあるのは朱子学であるから、思想の根底からの独自性には、疑問符がつく。他は推して知るべしである。従って日本人の行動原理を定めるのは情緒原理主義を於いて他は無い。情緒は、自分の頭、即ち理性を用いて制御しない限り暴走したら止めようが無い。これが「一億総火の玉」の正体である。阿保を絵に描いて壁に貼り付けたような滑稽で幼稚でチンケな日本の指導層は、この日本人の性向には敏感である。そして、狭い了見でミスリードを繰り返す。劇中、山中博士が、軍部がもっと科学技術に理解と関心があれば、こんな負け方はせずとも済んだ、という意味のことを吐く科白があるが、然り。ドローンが首相官邸屋上に降りて、「盲点」だったと散々、警備関係者は言っているが、馬鹿としか言いようが無い。秘密保護法が通り、唯でさえ、情報開示が出来ない糞官僚と政治屋、経団連、連合、メディア、研究者とは名ばかりの下司、日本人CIAエージェントと日本という植民地で自由に活動できるCIA要員等々が、愛する土地や人々を蹂躙したいだけ蹂躙しているのに、パトリオットたる国民が、利用できるものを利用するのは、当然のこと。その程度のことも予測できないのは、プロという以前、単なる無能というより、脳みそあんの? なのである。
 今作が訴えているものは、以上のように、現在にもそのまま通じる内容である。為政者共に媚び諂って“勝ち組”などと称する馬鹿共が如何に自分の頭で考えず、見た物をキチンと認識していないか。聞いたことを正確に捉えていないかを自問してみる良い機会であろう。
 敵機に襲われた喜島を神雷が救った夜、谷村は無礼講の宴を許し、三班の若い兵士、看護婦らと歓談する。そこで彼が得た教訓は闘いによる死ではなく、生きて作り出す未来であった。俊英谷村は、自分の頭を使って判断することのできる若者達に、未来を見たのである。それ故、神雷を用いて戦争を長引かせ、更なる犠牲を双方に齎す道を避け、自身の誇り、職業倫理、親友とのあの世での邂逅を思って総員退艦命令を出した後、自沈する。その最後の命令が、“総員生キ方用意”であった。
 因みに、今作に出てくる大和艦長の名前は、実際のものであり、科白の中にも、実際に交わされた表現が多く出てくる。それらは、子を思う母の偽らざる心情であり、母を思う子の思い遣りであった。実際、兵士が死の間際に天皇陛下万歳などと言わず、母ちゃん! と叫んで死んでいった者の圧倒的に多かったことは、戦争しない為の努力を続けて来たこの国の人々の常識であり、自らの見た物・ことを見たと言い、聞いたことを聞いたと言える、自分の頭で考えることのできる理性を具えた者からのメッセージである。
 また、最大・最高の防衛力とは、軍備を増強することでもなければ、強くなることでもない。正確に世界を分析することのできる正確な情報を持ち、その情報を判断する理性を持って、例え意見の会わない者たちとも話し合うことであり、いつでも話し合えるだけの関係を構築しておくことである。
消失点

消失点

JACROW

【閉館】SPACE 雑遊(東京都)

2015/05/13 (水) ~ 2015/05/17 (日)公演終了

満足度★★★★

ネグレクト
 話題に欠くことの無い児童虐待・遺棄の話である。

ネタバレBOX

 行動原理の特色として、この「国」はprincipleを持っていないということを最近随分書いているから、またか、と思われるむきもあろう。然し、記紀以来、日本に独自のprincipleが生まれたことなど一度も無い。海外で高く評価される武士道の根底は江戸幕府が、支配の為に編み出した手段の一つに過ぎず、その根底に流れるのは、儒教の中でも最も君臣の恩、上下関係の絶対性を強調する朱子学であり、唯一、儒教の中で革命を説いた哲学である陽明学を報じた者は、出世街道から外された。因みに江戸時代以降、幕府・中央政権に反旗を翻した革命家で西洋思想によ
らない者は、陽明学の流れを受けている。大塩平八郎然り、佐久間 象山然り、吉田松陰然り、西郷隆盛然り、高杉 晋作然りである。その行動原理は知行合一。
 何でこのようなことを書くか? 無論、今作と関係があると考えるからである。今作で問題になっているのが、母親のネグレクトによる小学校入学相当女児の死である。この母、根本 幸は3年前に離婚。幸の母は教師であった。短大を卒業した後、根本 公平と結婚、離婚後も旧姓に戻していない。この苗字と名前にも、作家が深い意味を持たせていることは明白である。公平は公平な判断に通じ、幸は、幸せに通じる。それが、日本の民衆が、根本的に思っていることだと、少なくとも念じていることだと考え、作家は祈るような気持ちで根本という苗字を選んだのだろう。ということは、この夫婦の抱えている問題は、我々皆が抱える根本問題であり、公平を期してする夫の会話は、日本の平均的夫の価値観を代弁し、幸の願う幸せは、この「国」の平均的主婦の願う幸せなのである。だが、ここに問題の根があると筆者は考える。問題点は2つ。1つは、第1段で述べた、principleの欠如、即ち行動原理を明確な言語化し難いという文化・文明的背景。もう一つが、事件の核心を描くに当たって“お約束通り”外堀から埋めに掛かっている点である。男女の関係は、最も遠く同時に最も近い、という微妙な関係のバランスである。夫婦ともなれば、それに世間、世間体が大きく関わってくる。principleの欠如する社会に於いて、行動原理を規定するのが情緒、それも原理主義でしかあり得ない以上、それを現実に規制するのは、村の掟、村社会の掟以外ではない。此処までは、誰でも見えるのだ。そして、その地平からしか描かれていない点に今作の難がある。同時に大衆受けもするのだが。問題は、ディスコミュニケーションの本体は、人間の根本的孤独を人間全体の問題として捉えることのできないこの国のディスクールにあると考える。そして、そのことを本質として、作品作りをするなら、別のアプローチが生まれたハズである
 更なる作家哲学の深化を期待する。
 以上のことは、作品を観て貰えば、理解して貰えよう。因みに取り調べを受け持つ刑事、梶原の部下、田村が、署長の富山が飼っているペットのオウムに言葉を教えることに関して、オウム語ってどんな言語なのか? という意味の問い掛けをし、根本的に通じない言葉(言語・状況)を問題にしている点に、このことは凝縮されているとみて良かろう。

このページのQRコードです。

拡大