アイ色バースディ 公演情報 劇団光希「アイ色バースディ」の観てきた!クチコミとコメント

  • 満足度★★★★

    20回公演おめでとうございます
     日本社会を特徴づけるのは、principleの無さであろう。(追記No.1 2015.6.24
    ) 劇団“光希”は、最も信頼している劇団の一つ。だから、社会の鏡として拝見している部分があり、その鏡が日本を表すならば、ということで今回このようなレビューを書かせて頂いている。その追記1である。2迄で完結するかどうか分からないが、2は近い内に発表する)

    ネタバレBOX

    中国、イスラム諸国、インドや欧米とは決定的に異なり、行動を規定する原理原則が欠如しているのが、この「国」の特徴である。即ち、ここに欠如しているのは、決定的孤独でもある。自らの存在の下に広がる無限の空洞或いは無を意識した上で、我は何処から来て何処へ行くのか、という根本的問いを対自的実存レベルで問うことのできない不完全な人間が圧倒的に多い、ということをそれは意味する。
     では、principleの欠如する社会ではどのようなことが起きるか? 原理原則を打ち立てることが出来ないから、哲学とリンクした数学も論理学も生まれない。結果、原理原則は年を追うごとに成立する条件から遠ざかる。そして、明確な判断基準を持たぬまま、社会維持の方法として優しさを演ずることや他人の心情を慮る技術ばかりが発達する。それの出来ぬ者は、沈黙に身を浸す他は無くなる。この為に、人々は、個人を持たず、謂わば鵺の集団として現れることになる。今作は、20回公演を迎えた劇団光希が、この集団、日本とそこに暮らす個々の鵺的人々の気持ちの慮りに焦点を当てた作品である。
     物語は、時田組という工務店を中心に展開する。当然飯場 の仕事が多いが、河川の増水時には、補修等も行う。町場職人の親方の家の話である。修は男の子には珍しく大のお父ちゃん子、この家の長男で末っ子である。而もちょっと知恵遅れだ。
     ところで、今作、オープニングがちょっと変わっている。通常、オープニングで舞台が明転すると、役者が板についているものだが、今作では、ピンスポの当たったエアメールの封筒が照らし出されるだけで、後は、音声が流れてくる。そして、薄暗がりの中では、増水した河川の氾濫を防ぐための土嚢を積む作業が行われている。ゴリラのような体躯をした親方は、土嚢が30体ばかり足りない、と補充指示を出した。
     再度明転すると3年後。時田組事務所である。現場が中止になった為、古くからの職人コウさんと二女で社長の直ネエが朝からビールを飲み始めた。中止の指示をキチンと聞いていなかったマイが若手のアキオとやってくる。(以下追記No1にゃ~~~)他の組から手伝いに来てくれているタケさん、長女で建設重機のオペを担当しているマリねえ、他に出戻りで事務を担当する三女、ミコねえ、更に3年ぶりに借金を精算して戻って来たケイゴ。OL時代会社の行き帰りに見掛けるナオの仕事ぶりに憧れて転職した変わり種のマミも入社した。現在では飯場での請負仕事を務めるこの工務店で働いている。劇中にも喧嘩になりそうなシーンやイザコザが描かれているが、実際、喧嘩は日常茶飯事であった。今でこそ、ペナルティーがきつくなって現場での喧嘩は随分少なくなったが、筆者が職人をしていた頃は、組織に入っている者も多かった為、刺青を入れた連中と年中喧嘩になったものである。互いに獲物は持っているから、ヘタを討てば命を獲ることにもなりかねない。実際、二十数針縫うような大怪我をした奴も居た。こんな喧嘩が年中起こっていたのも、一つには、絶対的なルールが無い為にアナーキーな状態が日常的だったことも影響しているかも知れない。何れにせよ原理・原則が自らの精神の内側から己を監視するような世界観を、日本人の殆どは持っていないのではないだろうか? その代わりと言っては何だが、日本人の内側にあるのは、他人の目である。相互監視は、江戸時代の武家諸法度を始め、禁中並公家諸法度、寺院諸法度等での統制の他、民衆支配には五人組が用いられ、相互監視と連帯責任とで民衆を縛りつけ、自由と自由を求める発想・行動を著しく制限した。因みに現在も続けられている回覧板による相互監視制度へ繋がる制度であり、戦中は隣組として機能していた。日本人が、敗戦後自らの主体的責任を自ら問うことが出来なかった理由は、自らの判断と責任に於いて何事も為してこなかったという「事実」にあるのかも知れない。そして、この思考に於ける主体の喪失こそ「表徴の帝国」でロラン・バルトが指摘した意味の喪失、即ち空虚という名の中心だったのではないか? 無論、仏教の第八識を持ち出して、それを中心に据えようとする発想はあり得る。然し、日本の仏教の多くは既に形骸化し、そのように深い主体・抽象的な主体を護持し得るものとは既に言えまい。従って、日本人の大多数を占める大衆は、この空虚を中心に据えることによって一種の自由を得ると共に無責任な体系を甘受したのである。
     一方、このような条件下で、もう一つ働く力が人情である。そして、今作の描く中心、即ちもう一つの柱が、この人情なのである。然し日本社会の持つ、自らが絶対と対峙した実存として判断し結果責任を負うということができないこの特殊構造性が、またしても中心に空白を産むことになる。それは、修に父の死を隠し続けてきた事実であった。今作では、実は修は気付いていたのだが、姉達への気兼ねからそのことを言い出せなかったことになっていて物語としては一種の救いに繋がってゆくのであるが。
     以上の事を更に突き詰めてゆくなら、責任の曖昧化は誰でも気付くことができよう。原理的に主体が確立できないのであるから、責任主体も生まれるハズが無い。人間という発想も生まれない。そもそも、我々の認識は、比較によって生まれる。人間に対するものは、神の概念であったり、絶対の概念である。それに対して、人間は、ヒトという対置概念を設定することができるのだ。このように設定すれば、相対VS絶対、それらの相関関係を通して関係の概念を打ち立てることができ、そこから、様々な原理原則を打ち立てることができる。無論、この根本の中には、其々の要素を相互作用させる運動やエネルギーという要素を組み込むこともできよう。
     然るに、我々の暮らす日本では、自分の頭で考えられたこれらの基礎が無い。そのことを人々は感じているが、その原因の究明については力不足であり、もとよりそのような事を追求する覚悟もしない者が殆どである。通常、主体が無いのに、そんな覚悟ができるハズが無いのである。だってそんなことをすれば、狂うか自死するか或いは長い不毛の旅をその精神の領野に過ごした後に息絶えるか、途中で耐えきれなくなって犯罪者にでもなるか、長い苦しみに耐え終に発見者となるかしか、道は残されていないからである。そして、発見者になる確率は、実に低い。
     ところで、憲法審査会参考人三人が全員安保関連法案を違憲と断じたことに対し、自民党副総裁の高村 正彦が「最高裁が示した法理に従い、自衛の措置が何であるかを考え抜くのは憲法学者でなく政治家だ」と反論し、合憲を主張。憲法の番人は、最高裁判所であって、憲法学者ではない、と言明したことを“異様”だと感じた向きは多いのではなかろうか? 無論、異様だ。何故なら、高村の言っている法理の一方は、安保法の体系であり、他方は、憲法体系の法だからである。敢えて混同しているのであれば、その拙劣な欺瞞は、政治家の名を汚すものであるし、意図的でないとすれば、政権与党の副総裁ともあろう者が、この程度の認識も持てないとは恐れ入って二の句が継げない。
     では、その法理とは何かを明らかにする前に、審理された事件は何であったかを今一度キチンと整理しておきたい。この事件は、米軍立川基地の飛行場拡張の為の測量に反対して1957年7月8日に立ち入り禁止の基地内に数メートル入ったとして労働者、学生7名を安保法体系に属す刑事特別法第二条違反(1年以下の懲役または2000円以下の罰金もしくは科料)と検察が主張したことだった。ところで立ち入り禁止区域に入ったことは、憲法体系の法ではどのように訴追するのだろうか? この場合は、軽犯罪第1条32号“入ることを禁じた場所に正当な理由がなくて入った者”(拘留または科料)に該当する。為された行為は同じでありながら、日本国内で異なる法理が適用され、米軍基地に入った場合には、より重い刑が科されること自体、日本国民の法益より米国の法益を重視するという主客転倒した法処理である。このような矛盾を解消し安保法体系より憲法体系を優先する至極真っ当な判断を下したのが、東京地裁の伊達判決であった。この判決は、検察官主張の刑事特別法より、憲法31条の“どんな人でも適正な手続きによらなければ刑罰を科せられないことを保証する”ことに準拠、憲法を基準として安保法体系を違憲無効とし2つの法体系併存を否定しようとした判決であった。当然、その根底には、米軍駐留は、憲法9条違反という判断がある。(最後の段落については記述に「検証・法治国家崩壊」創元社刊を参考にさせて頂いた。)

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    2015/06/07 00:16

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  • ハンダラさん

    お忙しいところ、お心遣いいただき、ありがとうございます!
    どうぞお気になさらず…、ゆっくり追記をお待ちしておりますね(^^ゞ
    楽しみにしております。
    (うちの演出もハンダラさんの劇評を楽しみにしているようです)

    2015/06/20 17:38

    みかんさんへ
     追記が遅れていて申し訳ありません。また、近い内にアップ出来るよう頑張りますが、この所、演出家の友人や、関係者と朝迄飲んでいたことが度重なり、ご覧のような体たらくです。情けないですね。また。
                                                        ハンダラ 拝

    2015/06/14 03:22

    ハンダラ様

    いつもご観劇いただきありがとうございます!
    また、誠に哲学的な考察を頂き、恐縮する次第です。

    ご指摘の通り、光希の芝居は、古き良き日本に焦点を当てたものが多いです。
    家族的な優しさ、温かさもありますが、今回の作品は、ただ優しいだけではなく、相手を思うからこその「厳しさ」が強く表現されているように思います。
    特に今作、女が前面に出るシーンが多いですが、男性に比べて、実は女の方が、本当は頑固で負けず嫌いで妥協を許さない面があるかもしれません(笑)

    ハンダラさんのおっしゃる「principle」とはもっともっと深い意味なのだと思いますが…

    劇評を読ませていただき、いろいろと考えさせられました。
    まだまだ未熟な私たちですが、これからもどうぞよろしくお願いいたします!

    2015/06/10 01:43

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